■2010年4月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   福音潤骨 ふくいんじゅんこつ  up 2010.4.25


目に光を与えるものは心をも喜ばせ、
良い知らせは骨を潤す。【新共同訳】


目の光は心を喜ばせ、良い知らせは人を健やかにする。
(箴言15:30)


 

【今週のポイント】
「永遠の幸いを可能にする福音に心を向け、潤いのある日々を過ごす。」

 骨が健やかであるということは、体が健康であることと同意義です。昔の人たちも、骨が太くがっしりしている人は健康的、骨が細く弱い人はあまり健康的でないという区別をしていました。この「健康」の源が良い知らせである、と聖書は言っています。今週は、私たちクリスチャンがいつもこの良い知らせを受けていることを知って、潤された一週間を過ごしていただきたいと思います。
1.幸せの三要素
A)この世における/肉的なもの
(1)健康・経済力・人間関係
「社会性を中心にした幸福観。現実社会の適応による幸せ。」
 体が健康であり、その体を楽しませる経済力を持っていて、自分と気の合う仲間と過ごせることを、世の人々は幸せと言います。ちなみに、この基準は時代によって様々に変化します。
(2)家庭環境・仕事環境・住む環境
「五感を中心にした幸福観。幸せと感じるものを求める。」
 環境とはその人が感じ取るものです。自分の五感で感じ、計算して、良し悪しの判断をします。
(3)B身体の健康・心の健康・お金(仕事)の健康
「健全さを中心にした幸福観。他の人と比較した幸せ。」
 自分が判断の基準としている誰かより勝っているかどうかが、幸せの分かれ目になります。
 以上に挙げましたが、それらは「自分とは何者であるか?」という疑問と、その答えになる主観、人間観によって変わってくるといえます。私たちは神様を知っているので、被造物としての生き方を考えますが、神を信じていない人々は「動物としての人間の幸せ」を考えています。

B)哲学的、思想的(アリストテレスの場合)
 徳・活動・手段的善
「人間のいとなみにはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が幸福である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは幸福、それも卓越性における活動のもたらす満足のことである。幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた。」
 卓越性とは、周りのものより秀でて優れていることです。すなわち、人よりも優れた者として最高の善を行う、活動していることへの満足感が幸せであるということです。理性を発展させるとは、徳を高めることであり、手段的善とは過程においても善を行うことです。アリストテレスの言葉を簡単にまとめると、善を行う満足感が人間にとって最高の幸せだ、ということになります。この善は環境や状況に左右されません。肉体に頼るものでもないので、自分の内面を突き詰めていくことによって、誰もが最高善に到達しうるのです。
 さて今度は、クリスチャンにとっての最高善を見てみましょう。

C)霊的/真理として
(1)「愛」(詩篇16:2)
“私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」”
神様の存在そのものが、ダビデにとって幸せであった。神様に愛され、神様を愛するという関係の幸せである。
 ここでのポイントは、神様とダビデの関係です。人は愛され、自分からも愛する関係にある時に、力や能力や持ち物、環境も状況も超えた、揺り動かされない幸せを持つことができるのです。

(2)「喜び」(詩篇16:3)
“地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。”
聖徒は、神様にとって喜ばしい存在。だから、尊ぶべき人々である。彼らとともにいることの幸せを語っている。
 神に喜ばれている存在である聖徒たちは、世界においても尊ばれるべき者たちです。そしてこの聖徒たちと共にあることの幸せを、ダビデはうたっています。自分と神様との個人的関係は愛の関係ですが、喜ばれる関係とは、神と神に喜ばれる存在である聖徒たちの中にいて、聖徒たちと喜びを分かち合う中にあるのです。実に、私たちはこの集団の中で喜びを満喫できるのです。
仮に、あなたが何かのグループに籍を置いたとします。そのグループの中で活動を共にしながら、お互いを尊重し合う時、あなたは同じグループとしての幸せを満喫するでしょう。そして、お互いを欠くことのできない存在と感じるチームほど強いものです。

(3)「平安」(詩篇16:4)
“ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。”
まことの神である主と争う者には、平安がない。そのような者たちのことを思うことさえ忌まわしいこと。
 神様から離れることが、すなわち他の神に走るということです。肉の欲求や自己中心の欲求を満たすことにおいては、この世の神に従う人々でも幸せを感じるけれども、たましいは痛み苦しみます。だから、この世の快楽でそれを紛らわそうとするのですが、真の回復はできません。しかし、真の神にすがることをしないので、これしか方法がないのです。私たちはイエス様を知っているので、この『愛』『喜び』『平安』という幸せの三要素を、頭ではなくたましいで感じ取り、今ここに集っているのです。神様という偉大で力あるすばらしいお心を持った方に愛され、喜ばれ、平和を持っているのは、すばらしいことです。それ以外にも自分の周りに、愛と喜びと平和の関係を結ぶ誰かがいれば、またその人数が増えるほど、幸せな人生と言えるでしょう。しかし、自分で壊してしまわないように気をつけたいものです。たとえば礼拝に来ていて、あいさつを返してくれない人がいたとします。何回かそれが続くと、相手が自分を嫌っているのではないかと思い始めます。自分を無視する相手が一緒にいると思うと平安がなくなり、礼拝が苦痛になります。実は相手は極度の近眼で、あいさつに気付いていなかっただけなのに、自分が一方的に敵対関係を作ったことによって、平安を欠いてしまうのです。このように、平安はちょっとしたことで壊れてしまいます。だからこそ、人は持続する平安を願います。変わらない平安を求めます。

2.幸福の三要素をもたらす良き知らせ
A)「愛」の良き知らせ(ローマ5:8)
“しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”
罪人(神に敵対するもの)であったときに、神は私たちを愛してくださった。これが「主は私の幸い」と言える愛の福音である。
 たとえば、この教会でどのくらいの人々から愛されているか、考えてみたことがおありでしょうか。多くの人から愛されるほど、人は幸せを感じます。また、王から、主権者から愛されると、とても幸せになります。なぜなら主権者は、他のすべての存在との間に仲裁をしてくださいますから。イエス様の十字架を見上げる度に、神様が自分を愛してくださった証拠であることを思い起こしましょう。

B)「喜び」の良き知らせ(イザヤ62:5)
“若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。”
神様にとって私たちは、花婿が花嫁を喜ぶような存在である。それは私たちにとって大きな喜びの福音である。
 花婿にとって花嫁は、一生そばに置いておきたいほどに愛しく喜ばしい存在です。神様にとっての私たちも同様に、何者にも代え難い価値ある者と見られています。自分が役立つ、価値ある者と認められた時に、その喜びはとてつもなく大きいものになります。神様はあなたの価値を、ひとり子イエス・キリストの犠牲で表現しておられます。

C)「平安」の良き知らせ(コロサイ1:20)
“その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。”
神様から離れ、距離を置くことは的外れなことであり、平和な関係ではない。神様は私たちに平安を与えるために、和解のいけにえとして御子を遣わされた。これが平安の福音である。
 絶対者なる方と平和を持てるのは、その他の全てを敵に回したとしても、引き換えることができないものです。この方は、他のすべてとの和解を仲裁できる方です。神ご自身がまず手本として、御子の犠牲をもってご自身との和解を成立させてくださいました。自分が正しいと思えば謝りにくいのが人間ですが、神様はご自分が正しいにも関わらず、わざわざ謝られました。それがイエス様の十字架です。どれだけ心を砕いてくださっていることか、自分に当てはめて考えてみてください。生半可な気持ちではとても無理です。本当にへりくだった時に、初めてそれが可能になります。
『愛』『喜び』『平安』は、この世だけの幸福三要素ではなく、永遠の幸福への三要素である。
 これだけ愛され、大事にされている私たちが、暗い表情をしているのはおかしいことです。信仰生活に「元気がない」「希望がない」「潤いがない」のは、良き知らせを受け止めていないからではありませんか?自分にとって一番身近で尊い良い知らせが、「神からの愛」「神にとっての喜び」「神との和解」という良き知らせなのです。これは人との関係でもそうです。なにも難解な部分はありません。人から愛され、尊ばれ、みんなと仲良しなら私たちは幸せですが、それを神様との間に持てる、という良き知らせが十字架なのです。
 この良き知らせを幾度も繰り返し黙想し、潤いのある日々を過ごしましょう。生きたみことばと御霊の働きによって示されて、「私はなんて幸せな者なんだ!」と実感してください。

 

 

 

 

 

 

■2010年4月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   洗手奉職 せんしゅほうしょく  up 2010.4.18


誠実に職務を務めること。


その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
(マタイ25:23)


 

【今週のポイント】
「神への忠実さは、想像以上の報いがある。」

 これはタラントで語られた話です。5タラントもうけた人も、2タラントもうけた人も、その忠実さに対し、同じ誉めことばを主人からいただきました。復活祭以降、死後の永遠の世界について語っていますが、今日語る「忠実さ」も、この永遠の世界に対して重要になってきます。この世で神に忠実に生きようとすると、世の中の人々からは愚かでばからしいことのように思われてしまいます。しかし、多くのキリストの証人である人々の証しを信じ、神に忠実に生きるなら、死後において、私たちは想像以上の報いを受けるのです。
 「洗手奉職」は「清い手で仕事をする」という言葉ですが、それは人生を誠実に、忠実に生きるという意味を表しています。「誠実」とは、自分の心に対して誠実でありたいと願ったり、人に対して願いますが、私たちは神に対して誠実でありたいと願います。

1.けなげで忠実(マタイによる福音書25:22)
“「二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』」”
「けなげ」=「健気」 心がけがよく、しっかりしているさま。
 勇ましく気丈なさま。健康であるさま。
 2タラントもうけた人の言葉の中に、「けなげ」さがあります。本来の「けなげ」の意味は、私たちが持っている弱々しくはかなげなイメージとは違い、健康的でしっかりしています。心がけが良く、しっかりしているとは、動機が正しく、周りに影響を受けず志を守るということです。
 今、私(辻師)の庭に、2年前にある方に植えていただいたチューリップが咲いています。とても小さく、色も薄い花ですが、何の世話もしていないのに、去年も今年も花を咲かせてくれました。なんとけなげなチューリップでしょう。何の世話もしてもらえず、他の花壇よりも厳しい状況であっても、チューリップは愚痴ったりひがんだりしません。自分に与えられた賜物、生命、生命力、それらを精一杯働かせて用いた結果、こうして花が咲いたのです。それは、他のチューリップの花と比較することはできません。神から与えられた生命力を、不遇な環境の中でも精一杯表す、それがけなげさであり、忠実さなのではないでしょうか。
 また、花壇の周りにはたんぽぽの花がたくさん咲いています。4年前に来られた、シンガーソングライター米田浩司さんという方の歌に、「たんぽぽ」の歌があります。新宿のベンチの下、いったいどうしてこんな所にという場所にたんぽぽが一輪、咲いているのを見てできた歌です。この歌はとても考えさせられます。

 吹く風にまかせて 風の吹くままに 運ばれたその場所で 花を咲かすだけ 
 どこにたどり着いても 何をするにでも 私はただ根を張って 花を咲かすだけ 
 小さくてもいいよ 花を咲かすだけ

 たんぽぽの綿毛がどこに落ちるか、それは神の御心次第…というように、私たちもどんな両親の下に生まれるか、どういう境遇であるかはわかりません。でも落ちた所で根を張って花を咲かせるだけ…という気持ちはけなげです。私たちは知識があり人格があるゆえに、かえって文句を言ってしまい、「与えられたものに忠実に生きていく」という、一番大切なことを忘れているのではないでしょうか。

2.忠実さにもたらされるもの
A)(ルカによる福音書16:10)
“「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」”
 小さい事に忠実であるなら、大きい事にも適応できるのです。「小さい事=この世」の人生に忠実であるなら、「大きい事=永遠の世界」にも忠実でありえます。この世の人生に忠実に過ごす事で、神は私たちを信頼して、永遠の世界で大きなものを任せてくださるのです。
B)(ルカによる福音書16:11)
“「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」”
「不正の富に忠実」というのは、汚れた富に対しても、正しく忠実に処理していくということです。まことの富は御国の富であり、神様は私たちを信頼して、それをも任せてくださるのです。
C)(ルカによる福音書16:12)
“「また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」”
 神は将来、私たちに任せる何かを用意してくださっています。そのために必要なのは忠実さであり、逆に忠実でなかったら危険なものとも言えます。例えば警察官に銃が渡されますが、もしその人が忠実でなかったら、銃は彼にとっても他の人にとっても大変危険なものとなり、かえってその人を滅ぼすものとなります。それほど大切な何かを、神は私たちに任せようとしてくださっています。忠実さによって、今よりさらに大きなすばらしい物が与えられるのです。

3.忠実さと清算(マタイによる福音書25:19)
“「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」”
 清算する事がなければ、タラントを預かった人々は、みんな自由奔放に使ってしまったかもしれません。しかし、主人が帰って来て清算がなされることが、忠実さのもとになります。
A)清算される事によって忠実さが試された。
 預けたものでもうけたかどうか、を主人が考えているわけではありません。この話で大切なことは「忠実さ」です。この主人とはイエス様のことで、私たちはイエス様から多くの賜物を預かりました。しかしこれは自分のものではなくイエス様から預かったもので、清算する時がやってくるのです。あなたの人生、生命そのものを、イエス様は買い取って、再び私たちに預けてくださったのです。それをイエス様の再臨の時までどう用いるか…それを清算する時がやってきます。
B)主人は次の計画を持っていたので、しもべたちは試された。
 お金もうけのために主人は試したのではなく、次のもっと大きな神のご計画のために、しもべたちを試し、そのより大きな働きに必要な忠実さを試されたのです。神の国は、今の世界とは格段の違いがあります。どれほどすばらしい所でしょうか。こういったすばらしい国を相続し、受け継ぐのですから、いかに私たちが忠実でなければならないかわかるはずです。大切な物を預ける時、その相手がいかに信頼できるか、忠実さを考えるはずです。
C)忠実さが証明されるために、清算のときがやってくる。
 イエス様が再臨される時、私たちの忠実さが清算されます。

4.忠実な思慮深いしもべ(マタイによる福音書24:45)
“「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。」”
 「しもべたちを任されて」ということばの中に、主人の方から、まずしもべを信頼するという心がうかがえます。キリストは私たちを信頼して、この人生を預けてくださいました。その主人の信頼を受け取るのがしもべの姿勢です。また、「食事をきちんと与える」とは、主人の気持ちをよく理解しているという気持ちに通じます。主人はしもべを健康的に成長させ、養い育てることによって、事業を広げ、繁栄させていきます。主人は、自分一人ではなくしもべたちと、事業をしようと思われているからです。だから、病気をしたり反抗的にならないよう、肉体的にも精神的にも、主人はしもべをよく観察して養い育てます。神様は私たちを、使い捨ての道具のように造られたのではありません。ご自分の計画されている永遠の世界の働きを、一緒にやっていくにふさわしいしもべを、養い育てようとされているのです。それゆえ「食事時にきちんと」という表現は、主人がいかに規則正しく生活させていたかがわかります。そしてその主人の思いをそのまま受け継いで行うことが、忠実なしもべなのです。これは主人がなぜしもべたちを健康に管理し、将来の働きを共に担う者として養っておられるかをよく理解しているしるしです。
A)みこころを行う者である。(マタイによる福音書7:21)
“「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。」”
 私たちは神様の愛の心を信じています。それゆえ福音を信じられるのです。みこころを行うとは、主人の心に忠実であるということです。主人の心を本当に理解することが大切です。 
B)神のみこころは律法に表されている(ローマ13:10)
“愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。”
 その神の愛を信じた者が救われます。その愛の現れこそがイエス・キリストです。イエス様は罪の贖いをしてくださいました。すべては愛から出た救いのみわざです。その心を私たちはよく理解しましょう。隣人を愛する動機から、律法は作られました。すべては愛から出たことです。隣人に害を与えず、益をもたらすためです。
神様は私たちを隣人として愛してくださっています。その愛は「あわれみ」の愛です。このあわれみの愛を私たちは理解し、信じて、忠実に報いていくことが、思慮深い忠実なしもべと言えるのではないでしょうか。
 イエス様は“「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」”(ヨハネ13:34)と言われました。これは、互いにあわれみあいなさいということです。あわれみを実践していきましょう。自分がどれだけ大きな罪を赦されたかを知る時に、人が自分に対して犯す罪に対して、大きなあわれみを持つことができるようになります。その葛藤が必要です。自分を批判し、傷つけてくる者を簡単にあわれむことはできません。しかし、私たちも神様に対していかに横柄で罪深いことでしょうか。罪を犯すまいと一日を過ごすその心の姿勢さえも、神の前に罪であることがあります。私たちは、いかに罪を犯さないようにするかよりも、いかに愛し合うか…に心を留めることの方が重要です。神様はそのことを語っておられます。だんだん神様のみこころが理解できるようになってくると、自分には何一つ神様をお喜びさせるようなものがないことがわかり、悲しくなってきます。辛くなります。私たちの心の深み、動機は本当に的外れになりやすいのです。それゆえ神様は、私たちをあわれんでくださっています。このような自分だからこそ、神様のあわれみの内を歩むしかない…。そこに気付くことを神は願っておられます。そうなると、人を引き下げ、傷つけることを言ったり、また自分を卑下することを言ったりはしなくなるはずです。神の大きなあわれみに包まれていることを考えるだけで、私たちのクリスチャン生活は幸せになります。
 私たちの生活環境、問題は、自分でしか対応できないものです。その中で、自分を愛するように隣人を愛するという決断をし、あわれみを示していきましょう。静まって祈ることは大切です。その祈りから決断して、行動していきましょう。何度挫折しても、私たちにはイエス様の十字架の贖いがあります。地上で生きている限り、悔い改め、やり直すチャンスが与えられています。その悔い改めは、忠実さの表れです。私たち罪人にとってのけなげさ、忠実さは、何度失敗しても悔い改める姿勢にあります。そういう人生を送る時に、神様は喜んで報いてくださいます。神様はあなたの忠実さを見て喜んでくださいます。清算の時、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と喜ばれる人生を送りましょう。この与えられた新しい一週間を、忠実なしもべとして送りましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年4月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   蒔種死生 ししゅしせい  up 2010.4.11


蒔く種は、死して生きる。


愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
(第1コリント15:36)


 

 先週は死後の世界についてお話しました。今週は復活についてお話ししたいと思います。復活はなぜ大事なのでしょうか。それは、死後の世界が確かに存在しており、さらにその向こうに永遠の世界が存在するからです。死後の世界がもしなければ、どんな悪いことをしても、人を傷つけても、「捕まらなければいいんだ」と、何も恐れるものはないでしょう。人はなぜ、罪を犯すことを恐れ、ためらうのでしょうか。正しく裁かれることを知っているからです。しかも、それは死後に行われます。死後の裁きを恐れることは、この世をうまく渡っていくには不都合なため、多くの人々は見ないふりをしていますが、イエス・キリストが預言通り地上に来られ、預言通りの一生を送られたことで、天の神は聖書の真実性を証明されました。だから、死後の世界も、復活も確かにあるのです。
 では、「復活」とはなんでしょうか。「蒔く物は、死ななければ、生かされない。」とは、自然界の営みとしてはごく当然のことです。そして、よみがえりとは、生き返るのと等しいことです。これらのことについて、くわしく学んでまいりましょう。

1.(第1コリント人への手紙15:36)の解釈
【愚かな人だ】死者の復活について正しく理解していない、不敬虔な考えの人。それは、神についての正しい知識を持っていないところからの考え。
“目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」”(第1コリント人への手紙15:34〜35)
 このみことばは、コリントのクリスチャンたちに対して語られたものです。癒しも預言もあり、異言が語られ、賜物のしるしが多く現われたその教会の中で、目を覚まさなければならない状態がいくつも見られたという事実が読み取れます。なぜそのように油断してしまったのでしょうか。神についての正しい知識を持っていなかったからです。以前、コリントの遺跡を見学した時にも、この街がいかに商業的豊かさと快楽にあふれた堕落した状況にあったかがよくわかりました。当時のコリント人たちが、現在の東京や大阪のような大きな商業都市、歓楽街の中で、神に対する正しい知識さえ手放してしまうほどの大きな誘惑の中にあったことは想像に難くありません。「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」この質問は、不敬虔な心から来ており、まさにそこが問題です。つまり、信じる気がない心から出ている質問なのです。「自分の楽しみを追いかけて何が悪いの」とか、「世の中に合わせることだって大事でしょ?」といった軸のぶれた考え方が、最後に酌量の余地のない裁きを招くことになるのにもかかわらず、です。私たちは、最後に得るものが違うことを知っているからこそ、熱心に、厳しく見えるほどに自分を律し、敬虔にきよく生きようとするのですが、最後の裁きを信じていなければ、くだらない損な役回りだとそれを敬遠し、軽蔑するでしょう。しかし、そんな生き方で最後に泣くのは自分です。ですから、神についての正しい知識をしっかり持って生きることが必要なのです。
【あなたの蒔く物】
あなた自身、あなたの人生、あなたのいのち、存在そのもの、霊。
“あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。”(第1コリント人への手紙15:37)
 穀物の種には、外側の殻と中の実がありますね。人が収穫するのは実の方です。私たちが霊的な意味で収穫するのも、後の世界用のからだではなく、からだの中にあるもの、すなわち霊、たましいです。あなたが蒔く物は、あなたそのものになるのです。
【蒔く】
収穫のための第一歩。いとなみが始まる。人生を歩み始める。生み出される。
“また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」”(マルコ4:26〜29)
 種を霊と置き換えてみるならば、霊が人生の中でどのように変化し、成長し、ついに神の手によって収穫されるものになるか、流れを読み取ることができます。
【死ななければ、生かされません】殻=からだ殻の中にある実、種粒=霊、たましい 蒔かれた種の殻が、芽を出す力よりも強いと成長できない。殻の存在感がなくなれば発育することができる。
 死ななければならないのは、霊の自由を妨げる肉の存在である、ということができるでしょう。復活の大事なポイントは、私たちの霊がよみがえる、というところです。私たちは以前、肉も霊も罪の力によって死んだもの、神の前に役に立たないものでした。しかし、イエス様の贖いによって霊はよみがえることができました。ただ、からだは物理的には動いていても、神の前には相変わらず罪によって死んでいることも覚えておいてください。殻は実をおおっており、発芽には邪魔な存在です。

2.福音の力(第1コリント人への手紙1:18)
“十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。”
 神の救いを信じない人々には、復活なんてあり得ない、馬鹿馬鹿しいことであり、たとえ本当にあったとしても自分には無関係なことと思われていますが、信じる者にとっては、何にも変えられない宝です。しかし、そのことを本当に心に悟るためには、「罪はどう処分されるのか」について真剣に考える必要があります。善悪とその裁きについて深く思い巡らしてみてください。自分が犯した罪、国や憲法では裁かれない罪。道徳的罪はどう処分されるのだろうか。また、罪を犯す原因である欲望や、自分が正しいと思っていることさえ実行できないほどの貪欲の力など、様々なものが見えてきます。それらから救われたい、解放されたい、良心に責められることのない人生を送りたいという、正義への渇望を、罪について思い悩んでいる人は持っていると思うのです。だからこそ、イエス様のもとにたどり着くのです。そして福音は、無から有を生み出すほどの力をその人に与えてくださいます。
A)(ヨハネによる福音書3:3)“イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」”
 神の国の一番大事な部分は、正義が行われていることではないでしょうか。ここには、正義ときよさと公平があふれています。真の喜びある人生を送ることができる場所なのです。悪い者の悪や放縦がいっさいなく、罪による苦しみが存在しない世界。みんな優しく思いやりがあり、愛ある言葉を掛け合い、愛による親切を施し合う。そのような良いコミュニケーションができる神の国、その国を見るためには、人は新しく生まれなければなりません。
ニコデモは、からだの生まれ変わりにこだわっていたので、イエス様が言われることが理解できなかった。霊が新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。
 この当時も、幸せの基準は見える世界にあったようです。しかしイエス様のおことばによって、神の国は五感で感じ取るものではなく、内にある霊によってのみ知ることができる世界だということがわかります。現在でも、教会やクリスチャン同士のうちに神の国を見るためには、霊が新しく生まれる必要があります。ですから、もし神の国が見えないなら、他の人を批判する前に、自分を吟味する必要があると思います。
B)(第1ペテロの手紙1:3)“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”
私たちの霊が新しく生まれることができたのは、イエス様の死と葬りと復活のおかげである。殻であるからだの死が、神の御子イエス様の姿としてよみがえられた。
「生ける望み」とは、神の国を見ることができたので、望みを持つことができるようになった、ということです。神の国が見えて、希望がわいてきたのです。神の前に精一杯正しく生きようとする事も、正直に自分の良い所悪い所をさらけ出すことも、意味ある価値あることに変わったのです。
C)(ローマ人への手紙6:4)“私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。”
私たちの霊が新しく生まれるためにバプテスマを受け、神の子としての人生という種を蒔いてくださったのである。神のことばであるイエス様と一体化しなければ、神の国を見ることはできない。
 「新しい歩みをする」とは、蒔かれるということです。イエス様の贖いのおかげで、種蒔きから人生をやり直せるのです。バプテスマという行動を起こすことによって、イエス様の死と葬りと復活に 合わせられ、新しく生まれた状態と神様から認められました。ゆえに、自分の気分がどうであろうとも、洗礼を受けた人はみな新しく生まれています。「新しくない」のは自分にくっついている殻の感覚であり、これを大事にくっつけていると新芽を出すことができません。
D)(ガラテヤ人への手紙5:24)
“キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。”
 イエス様の十字架でのからだの死は、新しく生まれた私たちの霊が生かされるための死であった。さらに、肉体の苦しみは、私たちの殻を砕くために、砕かれたのである。また、きよめられた霊が宿り、聖霊様も宿ることができるようにと、罪の贖いをされたのである。もちろん、霊、たましいの罪の贖のために、ハデスで苦しみを受けられたのである。
 イエス様のからだが痛めつけられたのは、私たちの殻が砕かれやすくなるためです。また、肉体の欲望に従っていた頃の霊は肉と同じように罪を犯している状態だったので、代わりにハデスまで下って苦しんでくださいました。この世界の罪の清算はハデスで行われると先週お話ししましたが、そのハデスでの清算を全部してくださったのです。このイエス様と合わせられるという意味で、私たちはバプテスマを受けます。だから、もう肉の邪魔な性質は粉々にされていて、自由に発芽してどんどん伸びていけるはずです。自分で「できない」「無理」「難しい」と決めつけてしまわないようにしてください。もっとリラックスして、神様のくださった正しい良心に従って、みことばを実行してみましょう。つらさ、苦しさは殻の破れていくしるしです。かえって喜ぼうではありませんか。最初は破るのが大変かもしれませんが、どんどん楽になっていきます。
E)(第1コリント人への手紙15:37)
“あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。”
 新しく生まれた人生は、永遠の世界でのからだを得るためではなく、イエス様と同じ霊の姿という種粒を実らせるためにある。
 私たちは今、体の五感に頼って生活しているので、体がどうなるのか気にしがちですが、実らせるものは私たちの霊そのものです。来たるべき次の時代、すなわち死の向こうにある新天地に至るためのクリスチャン人生が今だと考えてください。永遠の世界でどのように過ごすかが、この人生においていかにキリストに近づけるかで決まるなら、苦労しててもキリストのご人格に近づく甲斐がありますね。反対に「入れるだけで幸いだ」と言いながら努力を怠る人に、実がきちんと実るのでしょうか。殻だけではダメ、実が青くでもダメ、熟した実をしっかりつけるまで気を抜かないようにしましょう。
F)(第1コリント人への手紙15:44)
“血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだもあるのですから、御霊のからだもあるのです。”
血肉のからだにあってすごす神の子としての人生が、霊を成熟され、キリストと同じ姿にふさわしい、御霊のからだが与えられる。これが、死後の復活への希望である。
 自分が苦労した分のからだが、復活の後に与えられます。苦労に無駄は一つもなく、みな御霊のからだに反映されます。なぜなら、それらすべては神の御前には尊いものであったからです。復活の時を「こんなすばらしいからだをいただいた」と喜べる時にしたいものですね。そのために今を一生懸命に、霊の品性を磨く時にしましょう。これがあなたの人生です。もし困難や抵抗があるなら、それはより美しく磨きがかかるために、神がお許しになったものだと覚えておきましょう。人につまずいて信仰を捨ててしまったら、せっかくの実が完成できません。神様は耐えられない試練を与えたりされないのですから、磨かれるためのやすりとして受け止めて、もっと輝くものになりましょう。今、自分の人生をもう一度捉え直してみましょう。何に死に、何に生きるのかを意識した一週間としましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年4月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   飲鴆止渇 いんちんしかつ  up 2010.4.4


もたらされるであろう結果に対して考慮を払わずに、
当面の問題にだけ対処すること。


恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
(ルカ12:5)

 

【今週のポイント】
【死後の世界があることをわきまえた生活を送る。】

 「ゲヘナ」という言葉は日本語で地獄と訳されますが、「ヒンノムの谷」というイスラエルの地名をギリシャ語でとったものです。ここは年中エルサレムの町のごみを焼き続け、火が絶えない場所で、しかも、死刑囚の死体や動物の死骸も焼き、ありとあらゆるものを燃やし尽くし、ひどい臭いが立ち込めていました。まるで地獄のようなイメージがある所だったので、神様の最後の審判である地獄の火の池を意味するようになったと言われています。
 様々な宗教が生まれてきたことも、「魂は永遠不滅」という死後の世界の存在をとらえ、魂の救い、安心を望んでいたからです。
 死は必ずやってきます。魂が生き続ける死後の世界があるかどうかで、今どう生きるかが変わってきます。正しいことを愛し、大事にしていこうという姿勢がクリスチャンにあるのは、この世だけで終わってしまう人生でないことを聖書からイエス様から教えられ、確信しているからです。「死後の世界がない」とする考え方は、自己満足の人生でいいという刹那主義が蔓延し、人権を主張したヒューマニズムの中で争いや問題が起こり、強い者が生き延びる進化論の中で、自分の利益のために人と和合する自分中心の生き方になります。「飲鴆止渇」〜「鴆(ちん)」は、中国の文献に出て来る、今は絶滅した羽に猛毒を持つ鳥のことです。この四字熟語は、たちどころに死んでしまうという、この猛毒の羽を浸した酒を飲んで、渇きを止めるの意味です。後先を考えずに、今の気持ちを満たすために、感情に任せて行動すると、失敗してしまいます。預言の通り、イエス様が地上に来られ、また再び来られること、さらに弟子たちがしたイエス様のよみがえりの証を通して、「死後の世界は確かにある。だから今やるべきことをしっかりやっていこう。」ということを、皆さんに考えていただきたいと思います。

1.死後の世界について
A)その呼び名(創世記37:35)
“彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。”
ヘブル語=sheol(シェオール) ギリシャ語=hades(ハデス)
日本語=よみ、黄泉、陰府 英語=hell
 よみとは下界のことを指し、地下における死者の住居の世界と考えられ、いったん死人が行く死後の世界のことです。「死んだ者はみなよみに下る」と人々は心に描き、ヤコブ、イサク、アブラハム
…アダムにさかのぼって昔から言い伝えられ、「死後の世界」への思いを持っていました。

B)ハデスはどのようなところ?(ルカによる福音書16:19〜26)
(:19〜21)“「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいを思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」”
 イエス様はここで、たとえでなく実在する話として、金持ちとラザロの話を通して、死後の世界を語られました。
(1)二つに分けられている(:22〜23)
“「さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」”
 罪人はみな下界に行くのですが、アブラハムと神様との契約によって、「アブラハムのふところ(慰めの場所)」というハデスと違って炎のない場所と、もともとのハデスである渇きと苦しみの場所のどちらかに行くとされています。しかし、これらはまだ最後の審判のゲヘナではありません。
(:24)“「彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」”
(2)分けられる基準(:25)
“「アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。』」”
 金持ちもラザロも同じユダヤ教徒であり、選民ですが、二つに分けられてしまいました。何が違ったのでしょうか。金持ちには、自分を楽しませ、生活を維持するには有り余るほどの経済力がありました。金持ちの門前で暮らすラザロは、あまり良いものは持たず、金持ちは食べかすのような物をラザロに与えていた可能性が高く、形だけの施しをしていたようです。旧約聖書のモーセの教えを通して神が何を大事にされているかを、ユダヤ教徒でありながら、金持ちは悟っていませんでした。イエス様は律法で一番大切な教えは「神を愛すること」と、「自分を愛するように隣人を愛すること」と言われました。この金持ちにとっては、ラザロに自分と同じようにきれいな着物を与えることが、自分を愛するように隣人を愛することでしたが、その考え方が彼には足りませんでした。自分と同じような物を与えることが、自分と同じように隣人を愛することであり、自分よりよくない物、程度の低い物を与えることは、神の言われる隣人愛の施しにはなりません。私たちは施しはしていても、自分を愛するようにはしていないかもしれません。神は地上における様々な不公平や矛盾を、死後の世界で公平に戻されます。あなたは施した分、死後の世界で報いを受けます。逆に施さなかったなら、罪が残り、ハデスの炎と渇きの苦しみの中で過ごし、最後の審判であるゲヘナの火の池に行ってしまう状況ならば、死後の世界は何のよいものもありません。イエス様の救いは、私たちの罪の代価を払ってくださって、死んだらハデスに行くはずの私たちが、アブラハムのふところに行くことができる(パラダイスとしてイエス様が天に引き上げられた場所)よう、そして、ゲヘナの最後の審判さえも受けなくて済むようにしてくださったものです。ここでも代価を払ってくださったことに対して、「互いに愛し合う」という、私たちがするべきことがあります。「礼拝に来る、来ない」で、ハデスかパラダイスか決められません。人を愛することは隣人を赦すこと、この一つをしっかり守るように言われています。この神様の御心をどれだけ真剣に受け止められるかどうかは、死後の世界の存在を確信しているかどうかで変わってきます。
(3)へだたりがある(:26)
“「『そればかりでなく、私たちとおまえたちとの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」”
 完全に分けられているということは、地上の行いを死後の世界で清算されるときは、酌量の余地はないということです。おそらくラザロは、アブラハムのふところの中から苦しんでいる金持ちを見て、自分が貧しさの中で苦しんだ体験があるので、同情心が湧いていたと思います。しかしハデスは、事情がどうであろうと負債は全部払い切るまで苦しまなければならない場所であります。あなたのした親切が報われるのはどこでしょうか。罵倒されても正しいことをし、その人の為に助けの手を与えていくことが報われるのが、死後の世界です。アブラハムのふところかハデスかで、人生のすべての清算がなされます。楽をしていることが幸せで、苦労しているから不幸とは限りません。
【参考】(マタイによる福音書7:2)
“「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」”
 清算される基準の一つのヒントとして、神様の基準ではなくあなあたが一人に対して行った基準(人をどの程度まで赦すか赦さないか、恵むか恵まないか…)でハデスでの報いを量られます。ですから神様へ文句の言いようがありません。神様はあなたが人に親切にした基準であなたに親切をされ、逆に人を見下げるなら、あなたの考え方と同じようにあなたにされるのです。私たちのできることは、すべてを与え赦しまで与えてくださった神様の前に、貧しい者としてへりくだった心を持って互いに与え合うことではないでしょうか。 飢餓対策機構のゴンダールでの配給の時、遠くから来た二人の子どもが間に合わず、またよその村から来たということで追い返される様子を見ていた一人の人が、一日一食分しかない自分の食糧をその子どもたちに渡したというのです。それを受け取った二人も、自分たちで食べることはせず、病気のお母さんに持って帰るというのでした。もらったものを分かち合う、これが自分を愛するように隣人を愛することではないでしょうか。貧しいから施しができないのではなく、いやむしろ私たちはたくさん持っているから、欲が働いて施しができなくなっているのではないでしょうか。ここでの渇きとは貪欲を意味します。貪欲を満たすために、貧しい人々を犠牲にしている経済社会のこの矛盾が、ハデスで清算されます。イエス様を信じているから、アブラハムのふところに行けるのでしょうか。「信じている」というなら、自分を愛するように隣人を愛しましょう。互いに愛し合うことは大切なことです。失敗しても、イエス様の十字架の救いは、悔い改めてやり直すチャンスを与えてくださいます。イエス様は、あなたが愛せなかった自己中心の罪を、十字架にかかることによって代わりに苦しんでくださり、死からよみがえられて、再び新しい人生を歩めるという、いのちを証してくださいました。これが復活です。永遠の滅び(ゲヘナ)に行くことのないように、悔い改めの福音を与えてくださいました。何回も赦され、やり直すために、毎週の聖餐式でキリストのみからだと血潮にあずかっていて、兄姉を赦せないはずはありません。赦されたことをわかっていないので赦せないのです。

C)最後の審判ではない死後の世界(ヨハネの黙示録20:13〜15)
“海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”
 ハデスだけで終わらず、ハデスさえ神の最後の審判の火の池に投げ込まれるとは、ハデスで苦しんでいた人も一緒に投げ込まれるということです。不敬虔な者にとって死後の世界は言葉に言い表せない苦痛と苦しみの場所であり、自己中心を地上で送った報いの清算がされる場所です。これが事実ならば、これからあなたはどのように生きていかれますか。復活祭の日、「イエス様がよみがえられた。私たちは天国に行ける。」ということだけでなく、今自分がしていることをきちんと悔い改めていくために、死後の世界における神様の厳しい清算の時があることをわきまえなければなりません。

2.死後の世界を考慮する生活のために
A)今、熱心に神とともに歩んでいる人(ヘブル6:11)
“そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。”
 人々が揺さぶってきても、死後の世界があることをしっかり確信して、続けていこうと、熱心さを保ち続けてください。
B)今,普通(中途半端)に生活をしている人(ヘブル10:25)
“ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。”
 大して問題もなく、そう熱心でもない人は、かの日(キリストの再臨の時=ゲヘナに投げ込まれる最後の審判が行われる日)が近づいていることを理解して、共にパラダイスに入れるよう、励まし合いましょう。
C)今、困難や苦しみの中にある人(ヤコブの手紙5:7〜8)
“こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。”
 一生、クリスチャンとして他のクリスチャンより苦労や困難が多くても、損をすることはありません。死後の世界で清算されます。だから、最後まであきらめないで、耐え忍んでください。あきらめたら、せっかく耐え忍んで苦労した地上での苦難が全部、水の泡になってしまいます。
D)今、罪から離れられないでいる人(第1コリント人15:34)
“目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。”
 罪から離れられない人は、神についての正しい知識がなく(特に死後の世界に対する神様の教えに関心がなく)「信じる者は天国に行ける」「信じる者は救われる」として、天国に行くまでの「アブラハムのふところ」ないしは「ハデス」をとばしています。とばせるのは、救い主を信じて「互いに愛し合いなさい」ということを一生懸命守った人です。
 さあ、みなさんは死後の世界を正しく理解して、どんなクリスチャン生活を改めて始めていかれるでしょうか。それぞれで決心して、歩んでいただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2010年3月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   道傍苦李 どうぼうくり  up 2010.3.28


人から見捨てられ、見向きもされない物事のたとえ。


心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5:3)


 

【今週のポイント】
【聖書が教える『幸い』とはどのようなものなのか。】

何もかも思い通りにいっていることが、本当に幸いなのでしょうか。今日は、聖書の言っている「幸い」について(マタイによる福音書5:3)から見ていきます。
「貧しい」ということばと「幸い」ということばは、相反するように思えますが、イエス様はむしろ、「貧しい」ということは「幸い」につながるということを、私たちに示しておられます。今週は受難週であり、特にイエス様の受けられた十字架の苦しみを思い巡らす時です。私たちは、イエス様の流された血潮のおかげで、神様のすばらしい恵みを受けることができるようになりました。そしてこの血潮は、私たちの良心もきよめてくださいます。ですから私たちは、きよめられた正しい良心をもって、みことばを受け止めていくことができるのです。今週私たちは、この「心の貧しい人は幸いである〜」というみことばを、この正しい良心をもって、神の前に深く悟ってまいりましょう。
「貧しい」ということばを、四字熟語「道傍苦李」ということばで表してみました。このことばは「道ばたの木に苦いすももがなっていても、誰もそれを取ろうとはしない」という意味です。
すももについて中国でおもしろい話があります。中国ではすももは薬用にもされ、裕福な家に植えられていました。ある男の人が、このすももの木の下で帽子を脱ごうと手を上げたために、すももどろぼうと間違われてしまいました。それからすももの花言葉が「誤解」となった、ということです。好まれるすももであっても、その実が苦ければ、誰も見向きもしません。このように、人から見向きもされない状況を「貧しい」と結び合わせて今日は考えてみます。

1.『幸い』の意味(マタイによる福音書11:6)
“「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」”
イエス様につまずかない者は幸いです。反対したり、敵対したり、尊敬しなくなるなら、イエス様につまずいています。
ギリシャ語の「幸い」には、「神の恵みの結果としての幸い」という意味があります。これは神を畏れる人たちが、共通して持つ幸いであり、blessed=祝福します、と互いに語る言葉にもなりました。神様抜きの幸いではありません。

2.「心の貧しい者」(ルカによる福音書16:20)
“「ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、」”
「心」は原語ではプニューマ「霊」ということばが使われています。それは存在そのものです。(ルカによる福音書16:20)の金持ちの門前で生活しているラザロの状況を「貧しさ」は表します。それは、何かにすがらないと、自力では生きていけない存在です。人からさげすまれ、不健康な状態で、金持ちの人たちの施しによってしか生きていけない極貧であり、身分は最低であって無力であり、苦しみ悩む姿にも、この「貧しさ」ということばが当てはめられます。ユダヤ教では、神の前にへりくだることを「自分を貧しくする」と言うように、「貧しい」ということばを用いるようになってきました。ここでは「霊の貧しさ」つまり、霊が苦しみ悩み、無力で打ちひしがれている人とは、いったいどういう人であるかを考えてみる必要があります。
(ローマ人への手紙7:21〜24)から考えてみましょう。
“そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。”
パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。」と語っています。信仰的、前向きなパウロが、心のうちにこのような苦しみを持ち続けて、ただただイエス様にすがっています。それは、イエス様は、このような心の無力感こそ幸いであると言われているからです。それゆえ、彼はこの無力感をしっかりと受け止めて、幸いな人として福音を語り続けたのです。イエス様を信じて、ますます悩んでいるのに、なぜ宣教し続けているのでしょうか。そこにパウロのどんな悟りがあったのでしょうか。
それは、すべては神のあわれみによって与えられているものであるということ、神のあわれみなしには何一つ得ることはできない、生きることもできないということに気付くことです。
神になんか頼らなくても生きていけると、世の中の人は言います。しかし決してそんなことはありません。資源はすべて神が与えておられます。たとえば水も、何もないところからは生まれません。水素と酸素の結合という、神の秩序によって生み出されてきます。この地球は神からの施しであって、私たちは本当に何もない無力な者なのです。罪に対しても、自分の力では対抗することもできません。そういう葛藤の中でパウロが悟ったのは、「無に等しい自分」という、神の前でのへりくだりです。神によらなければ、私たちは正しいこともすることができません。このことを悟った時に、神の恵みへの心からの感謝の心があふれてきます。パウロが幸いだったのは、そういう神の恵みを知り、受ける恵みに対して心から感謝することができたからです。神は私たちをあわれんで、施してくださっているのです。この地球も…これはすごいことです。その感謝を知るためにも、私たちには貧しさが必要なのです。

3.道傍苦李である心の貧しい者(第1コリント人への手紙1:27〜28)
“しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。”
「この世」が何度も使われています。「この世」は不敬虔なものです。彼らは、神に頼ることは愚かで弱い、取るに足りないものと見下します。私たちが神の前にへりくだり、やさしく、忍耐強くあろうと過ごしていくと、世の中の人たちは、愚かで弱いと見下してきます。彼らは勝つことが重要であると考えます。心の貧しい人とは、敬虔な人たちです。いつもへりくだり、神を求めている人々です。
私たちがこの世の人々のさげすむことばや態度にうちひしがれないために、この世において心の貧しい道傍苦李な自分を、「幸いな者」と自己受容できているでしょうか。自己受容できているなら、相手のさげすみに腹を立てたり、悲しむ必要はないのです。この世から見れば取るに足りない私たちに、神はひとり子イエス・キリストのいのちをかけて、愛を示してくださったのです。神の目から見たら、私たちは高価で尊いのです。この世の人々の批判を気にかけないようにしましょう。

4.心の貧しい者の幸い(ヨハネによる福音書6:32)
“イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。」”
荒野の民に、神は毎日マナという天のパンを与えられました。何もなくなった状態で天からのパンを手にしたイスラエルの民はどんな思いだったでしょうか。もしエジプトを出て間がなく、まだ食べ物を十分に持っている時に、このマナが与えられたとしたら、彼らは本当に喜び感謝できたでしょうか。持っていることで、あまり感謝できないことがあります。神は民に、「すべては神から与えられなければ、人は生きていけないものだ」と悟らせるために、彼らを荒野に導かれたのではないでしょうか。
創造者と被造物という関係の中で、私たちはへりくだって、すべては神のおかげですと神の御前に敬虔にあることが、人としての本来の美しさです。この姿を神は私たちに教えたいと願っておられるのではないでしょうか。
私たちの霊の貧しさを満たせるのは、まことのパンであるイエス様であり、神のことばです。私たちは神に、そのいのちのパンを施していただいて生きるのです。施しを求めるということばに、私たちは嫌なイメージを持ちますが、それはこの世が与えた見下すイメージです。神は心の貧しい人々を大切にされます。それは彼らの内に本当にきれいなもの、純粋なものがあるからです。それこそが人の健全な姿です。
毎日毎日、マナは定期的に与えられました。感謝する者にもしない者にも与えられ続けました。施されているという感謝が薄れると、人々は飽きてきます。そしてマナに飽きた人々は肉を求めて文句を言ったのです。欲望に捕われてしまったのです。なぜ、主の祈りの中に「日毎の糧を与えてください。」とあるのでしょうか。罪のゆるしの前にこの祈りがあるのは、私たちが施されている者であるという自分の無力さを悟り、へりくだることが大切だからです。
私たちがたとえ感謝しようがしまいが、どんな態度で礼拝に出席しようが、神様はみことばを与え続けてくださっています。心の貧しいへりくだった心で、ほんの少しの施しにも幸いを感じられる心をもって、神に感謝して日々を歩みましょう。貧しさを知らないと、施される喜びがわかりません。

 

 

 

 

 

 

■2010年3月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一飯君恩 いっぱんくんおん  up 2010.3.21


たった一度でも、食事を振る舞ってくれた主君の恩を忘れないこと。


そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
(コロサイ3:14)


 

【今週のポイント】
【共同体は、愛の帯によって結ばれている。】

 先週学んだ「共同体」を結び合わせるための大事な帯が「愛」であることを、今週のポイントとして学んでいきたいと思います。
 いつまでも変わることなく、全体の益となるように働き続けることのできる「共同体」のエネルギー源が「愛」です。ではその「愛」とは、いったいどういったものなのでしょうか。
 「一飯恩君」では食べた内容は問題ではなく、その犠牲を払ってくれた人への感謝が、尽くすべき誠となって働きます。それは、私たち一人一人のいのちのために、計り知れない犠牲を払ってくださった神様になら、なおさらの事でしょう。大事なのに見過ごしがちなこの事柄について、見直してみましょう。

1.結びの帯の『愛』とは?(第1ヨハネの手紙4:9)
“神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。”
 結びの帯の愛は、私たちに対して示された神の愛です。神は愛なる方ですが、大きすぎて私たちの理解の範疇を超えているために、私たちが理解できるかたちにして、神の愛を見せてくださいました.それが「ひとり子を遣わして、私たちにいのちを得させる」ことだったのです。
「相手にいのちを得させようと働きかける与える愛」が、いのちの帯としての愛です。この愛によって、神の家族という共同体は互いに結び合わされて、いのちを保つことができるのです。
 この世界に属する愛は、相手の欲求に応えようとする、自己中心を増長させてしまうもので、やがては破綻してしまいますが、相手にいのちを得させようとする愛は、相手の感情や欲求に左右されることはありません。人が造られた本来の目的に沿って歩むことが、いのちを得させることなのですから、そのために与えるものは、相手の心を喜ばせる内容とは限らないのです。道を外れていれば、忠告、勧告、責めることさえ必要かもしれません。
 お互いの欲求を満たすための集まりなら、協力会でいいのです。しかし、本当の愛は、お互いの本当の価値、いのちのために、たとえそれが痛みを伴おうとも、道を正し続けていくものです。教会は、永遠のいのちを得るための共同体です。夫婦、家族、兄弟姉妹の相手においても、この理念を常に念頭において活動しましょう。共に励まし、忠告し、戒め、親切をし、もてなしあい、何とかしてお互いが永遠のいのちに入るようにと、人に与えていくのです。自分の欲求に応えない相手であっても、神様が教えてくださった愛のかたちからすれば、自分の欲求自体が些末な問題なのだから、それを捨て置いて、神様の愛を実行していくべきではないでしょうか。自分の欲求達成にこだわる時、私たちは神様の愛も目的も理解していないのかもしれません。それは道を外すこととイコールです。あなたがもし道を外すなら、神様は様々な方法をもって働きかけてくださり、再三立ち戻るように忠告してくださいます。自分を否定されると勘違いして、かたくなに拒むことのないように気をつけましょう。神様の愛はいつでも、いのちを得させようと働かれるのですから、私たちもそれを信じて神に立ち返り、また神様を見習って人々に接していきたいものです。

2.どこに『愛』が存在するのか?(第1ヨハネの手紙4:10)
“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。”
 神様の愛は、私たちの犠牲となるために地上に来られた御子イエス様の中に集約されています。この方は神の愛そのもの、見えるかたちで現された神の愛であらせられます。このことによって、愛はことばではなく、犠牲として実在するものであることがわかります。イエス様のたとえ話の中に、夜中に訪ねてきた友人のために隣人からパンを借りた話がありますが(ルカによる福音書11:5〜8参照)、ここでの愛は、無理をして借りてきたパン3つの中に現されています。ですから、パウロも言っています。「行いと真実を持って愛そうではないか。」と。
 物であれ、時間であれ、お金であれ、親切という行動であれ、あなたにとって損失と思われるようなものを被ることによって、相手に渡すことのできる何かが「愛」なのです。イエス様は神様の愛を持ち続けておられる方ですから、この犠牲の愛に触れたなら、感激せずにはいられません。
 差し出された愛の犠牲の品物に対して、私たちはどんな価値を見いだすのでしょうか。あなたが欲しいのは現金百万円ですか?永遠のいのちですか?この世に属するものが欲しいなら、神様のプレゼントに喜ぶことなどあり得ないでしょう。神様が得させたいと思っておられるのが永遠のいのちであることを忘れてしまっては、この方の御心に応える事などできようはずもありません。本当に大事なものを見失って、神様に無礼を働き続けたあげく、最後の審判において怒りを買うものとならないように気をつけたいものです。

【考えてみましょう】
 「エロスの愛」は生物としての基本欲求を得させるもの、「フィレオの愛」は精神的欲求を得させるもの、「アガペの愛」は相手の欲求を満たすものではなく、いのちを得させるための愛です。
 それぞれはどんな時に働くのでしょうか。例えば、一回食事をごちそうするのはエロスの愛です。悲しむ人を慰めるのはフィレオの愛です。それらに加えて、神のおことばについて、私たちの正しい良心をいつも健全に保つための助け、すなわちことば、行動、金銭などすべてのものを用いて、永遠のいのちに立ち返るように働きかけるのがアガペの愛です。

3.一飯君恩以上の気持ちをもって(第1ヨハネの手紙4:11〜12)
“愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”
 私たちがいただいたものは一度の食事などではありません。たった一度の食事でさえ忘れてはならない恩義となるなら、ただひとりの御子を犠牲として差し出された恩義への返礼はいかようにしてお返しできるでしょうか。永遠の裁きと滅びからの救いは、永遠に忘れることなどあってはならない恩義です。そしてアダムの末であるすべての人類は、みんな等しくその恩恵を受けています。「私たちが互いに愛し合うべき」なのは、皆一人一人がいのちを得るために御子イエス様のいのちをささげられた神様のお気持ちに応えるためです。
 自分が嫌いな人でも、知らない人だとしても、神様にとっては大事な宝物で、皆で仲良く天国に行ってほしいと願っておられるのです。神様は私たち人類を一つの共同体として見ておられるので、たとえ一部でも欠けてほしくないのです。私たちがお互いにつながりを持ち、愛し合うことができるための、イエス様の犠牲であることを忘れないようにしましょう。

4.恩を忘れていない証し(マタイによる福音書18:21〜35)
“そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、とはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物も全部売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」”
 主人は、一万タラントの借金を持ったしもべを、なぜ赦してやったのでしょう。彼が、他のしもべ仲間と再び心を一つにして、主人の仕事をサポートしてくれることを期待したからです。だからこそ、百デナリの借金を持つしもべ仲間を彼が投獄したことについて、「私がおまえをあわれんだように、おまえも仲間をあわれむべきではないか。」ということばが出たのです。神様も、私たちの共同体が平和と一致を保つことができるように、といつも心を砕いておられます。利己主義に走らないために、「七度を七十倍するまで」赦してくださるイエス様の恵みをまず考えましょう。そうしたら、次は自分も同じように仲間にしてあげましょう。
 「神様はすごく偉大で大きな方なんだから、神様にとって、十字架の犠牲なんて大したことじゃない。器の大きさの違いを考えれば、自分の払う痛みの方がずっと大きい。」とあなたは言うことができますか?理性的によく考えて、神様と自分の痛みを比べてみてください。神様の痛みを本当に良く考えてみてください。自分の痛みにこだわる限り、人を赦すなんて決してできません。
 一つ問題があります。自分に負い目のある人が、全然赦しを求めて来ない場合は、どうすればいいのでしょう。ここで肝心なのは、自分は決して裁き主ではないということです。相手が謝らなくても、もっとひどい事をしてきても、自分にはそれに対する価値判断や決定権はないのです。私たちができることで最善なのは、相手を赦す気持ちを持ち続ける事です。いつ相手が心を入れ替えるか、私たちにはわからないのですから、すぐ対応できるように準備しておくのです。自分を傷つけた人を見ると心は騒ぐでしょうが、「赦せない」と言ってはいけません。
 自分を傷つけるような人が同じ共同体にいることは、自分にとっては悲しいことですね。でもその人も、イエス様の大事な人なのです。だから、その人のいのちのために祈ってあげる、とりなすことが神様のお気持ちに応えることになるのです。
 教会が共同体として結び合わされる愛の帯は、「神様がいかに私たちを愛してくださっているか」を感謝する心から発しています。
その現れの一つが、上に挙げた「赦し」なのです。自分たちはみんな神様の宝物なんだ、大事な者同士なんだという仲間意識がここにあります。これを保ち続けるために、あらゆる犠牲を払い、努力するのです。互いの負債を赦し、赦し合った後、もっと積極的に神の国とその義とを共に求めていく、その姿を神様は喜ばれます。
 赦さない人は赦されません。しかし、傷ついている人は、それがイコール相手を赦していないことにはならないことも覚えていてください。傷を受けたら、傷つけた相手を赦すという愛を実践できる時であり、神様は必ず助けてくださいます。

 

 

 

 

 

 

■2010年3月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一家眷属 いっかけんぞく  up 2010.3.14


家族や血縁者。一族とその従者や部下。
ある団体や流派に属する人々のこと。


神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
(創世記1:25〜27)


 

 神様が「種類にしたがって」すべての生き物を造られた理由は何だったのでしょうか。「種類」は一つの群れであり、その「種類」毎に役割を持っています。「血筋」という言葉でも表されるこの深い関係を観察すると、一つの共通点が見えてきます。それは、「共同体」と呼ばれる、一つの真理です。天地宇宙を造られた神様は同時に、この宇宙全体を一つの共同体として造られてもいるのです。全く無関係に見える宇宙の星々は、実は網の目状に広がっており、つながりを保っています。また、地球という、無数の銀河の一つ、しかも端っこにある小さい惑星は、創造論から言えば世界の中心なのです。

1.「種類にしたがって」の意味(創世記1:25〜27)
“−前述−”
 「共同体」とは、一般的に『血縁的、地縁的あるいは感情的つながりを基盤とする人間の共同生活の様式』という意味です。それは、独立したもろもろの個人が、何らかの深いつながりのゆえに、自発的な意志をもって一つに合わせる社会と言えるでしょう。
 神様ご自身も、「三位一体」という共同体を持っておられます。「父」「御子」「御霊」はお一人であると同時に、人格的には別々の方でもあられます。この方に似せて造られた存在である人間は、「神様」「男性」「女性」という共同体を形作ることができます。結婚は、一番小さな共同体と言えるでしょう。
 このように、すべての存在には果たすべき役割があり、共同体として機能することができます。地球環境に生きるすべての生命が作り出す調和は、その良い見本でしょう。逆の言い方をすれば、共同体の完全なる機能のために、すべての種類、パーツは存在するのです。私たちが日々の生活において、共同体としての意識をもっと強く持っていれば、今よりずっと良い社会を築くことができるのではないでしょうか。
【考えてみましょう】
(創世記2:16〜17)にあるアダムへの命令は、どうして必要であったのでしょう。
“神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」”

【ヒント】人は三位一体の神に似せて創造されている。
 エデンの園にあった2本の木、「善悪の知識の木」と「いのちの木」。そして、「善悪の知識の木」の実を食べてはならない、という命令。これはなぜ与えられたのでしょうか。
 共同体としての社会を保つためには、相互扶助と相互規制はなくてはならないものです。これがなければ共同体とは言えないし、皆バラバラになってしまいます。違う価値観、考え方、能力を持つ者同志が一つになるためにはルールが必要なのです。神様はいつでも関係づくりを大事にされる方ですし、ご自身の中でも「愛」と「義」という2つの全く違う側面をみごとに一致させるという、三位一体の神の内における共同体を構成しておられます。そして神様は、エデンの園においても、ご自分と人間との共同体を形作るために、このたった一つの禁則を造られたのです。

2.共同体としての相互扶助と相互規制(第1ヨハネ5:3)
“神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。”
 なぜ、命令を守ることが愛することなのでしょうか。その答えを見いだすためには、「共同体」であることを意識しなければなりません。
 愛は人を傷つけない、と聖書にありますが、共同体という一つの枠を保持していくためのルールを守ることは、共同体を傷つけないことでもあります。反対にルールを守らないなら、共同体を傷つけ、壊してしまいます。そこから考えれば、共同体とは愛で結び合わせた「一家眷属」であると言えます。
「協力会」は、協力できないと思えばいつでも協力関係を絶つことができますが、「共同体」は、協力できるかできないかではなく、自分では絶つことのできないつながりを保つために、あらゆる努力と犠牲を払うものです。
「愛」という絶つことのできない関係だからこそ、その共同体を保つための命令を守り抜くのです。

【考えてみましょう】
あなたの夫婦関係、家庭、は共同体ですか協力会ですか。
この教会のメンバーとしてあなたは、共同体ですか協力会ですか。
父、御子、御霊の神との関係は、共同体ですか協力会ですか。
 絶つことのできない「愛」が、自分と相手との間に存在しているかを見直してみましょう。共同体を支えていこうとする意志が「愛」です。それゆえに、自分の感情がいかにあっても、共同体を支えていくための前向きなベクトルは変わりません。皆が同じ志を持つことができます。「私」という存在は、共同体の一部としての存在価値を持っています。それが集まると、集合体としての役割を持ち、共同体は完成形として機能します。
 協力は同じことを一緒にするものですが、共同体はもっと有機的に、お互いの足りないところを補い合い、全体の益を図ります。皆さんお一人一人は、自分の利益、楽しみのために家庭、職場、学校、教会、神様との間に関わりを持っているのでしょうか。それとも全く自分に見返りがなくても、それを意識しないで仕えておられるのでしょうか。ぜひ吟味してください。
 神様の下に一つのものを作り上げたいという愛の思いからくるのが、「神の共同体」としての心です。人から評価されること、人から報いられることを期待し過ぎると、やがて疲れて仕えることができなくなってしまいます。私たちが受けるべき報いは主から、賞賛も主からです。主に連なった愛の共同体なのですから。自分が為すべきことをなし、人の批判をしないこの共同体では、平和が支配こそすれ、争いの入る余地などありませんね。

3.願いが聞かれない理由(マタイ18:19〜20)
“まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。”
「心を合わせて祈ったのに、どうして神様は祈りに応えてくださら ないのだろう。」そして願いがかなわないと祈ることをやめてしまう。
 御霊の流れ、臨在を感じられるのに、イエス様の時代のような癒しや奇跡が起こらないことはたびたびあります。なぜでしょうか。
祈りに応えられるのは、祈り会にイエス様がおられるからではないように思います。イエス様の名において心を一つにして集まるところとは、協力会ではなく、共同体という意味ではないでしょうか。イエス様と私たちとの間に共同体としてのつながりが築かれていないのが、原因ではないかと思います。「協力」する祈りはしても、「共同体」としての祈りではないから、その場限りの「心を合わせる」ことはしても、「共同体」としての痛みを伴わないから、きかれないのではないでしょうか。
 「共同体」の二人が心を合わせるなら、どんな願いでも聞かれます。自分の都合のいい時だけの協力や、自分の都合のいい祈りといった段階でとどまるなら、神様、イエス様の望まれる共同体には入っていけません。
 協力会はまるでご利益宗教です。心が成長してきたなら、これではいけないと気付かなければいけません。共同体こそ、神様が私たちをお造りになった目的に沿うかたちなのです。
(第1ヨハネの手紙1:3)“私たちの見たこと、聞いたことをあなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”の「交わり」とは、茶飲み友達としての交わりではなく、「共同体」としての交わりを指しています。ノンクリスチャンの間でさえ、クラブや会社の合宿などで「共同体」としての交わりのすばらしさをかいま見ることができます。寝食を共にし、合同練習や共同作業などで心を合わせ、共に一つの目的に向かって突き進む。共に暮らすことでお互いをより理解し、理解した分、受け止められるようになる。もちろん、受け止められない場合は、協力会止まりになりますが。
 私たちが神様との関係を持つ時に、協力会か共同体なのかをよく吟味することが大切です。私たちは、神の国に生まれた、キリストによる『一家眷属』なのです。(ヨハネによる福音書1:12〜13)
“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。”
 私たち各々がイエス様を信じることができた、ということはつまり、神によって生まれた神の国の一員、神の家族、霊的な血筋を持って生まれたことになります。私たちは霊において「一家眷属」なのです。それならば、同じ血族同士、いがみあったり批判し合ったりはもうやめにして、この共同体のために労苦し、犠牲することに心を決めようではありませんか。大事業である神の国の完成を目指して、共同体として神と共にそれを求めていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2010年3月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   胸襟秀麗 きょうきんしゅうれい  up 2010.3.7


考え方や心構えが正しく立派なさま。


もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
(マルコ9:43)


 

 クリスチャンになって間もない頃、このみことばを読んだ時は、相当の覚悟がいると思わされました。今日は、このみことばを通して、胸襟秀麗(考え方や心構えが正しく立派なさま)が意味する、尊い御子イエス様のいのちによって贖い出された私たちの人生を考えてまいりたいと思います。

1.胸襟秀麗な人(マタイによる福音書6:25)
“「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」”

A)正しく立派な考え方
 いのちのため、健康維持のために食べ物や飲み物を選んでいたはずが、いつの間にか何を食べようか飲もうかと心配(思いがそこに集中し、周りが見えなくなって思い煩ってしまう)し、街中にあふれ返った服を見るにつけても、いかにそれらのものに心を使っているかうかがえます。イエス様は当時から、現代の(20〜21世紀)物質の豊かな状況を見抜いて、現代の私たちに語っておられるような気がします。
 「胸襟秀麗」な人は、いのちは食べ物より大切なもの、からだは着物より大切なものという、正しく立派な考え方を持っています。当然のことですが、皆さんは本当に気にしているでしょうか。最近は時代の流れも手伝って、食べ物を程々にして、いのちとからだを大切にする思いになってきているのは、正しく立派な賢い考え方といえます。(マルコによる福音書9:43)で、体の一部を切り離してでもいのちに入ることが大切だと言っているのは、肝心のいのちのことを忘れて、何を食べるか何を飲むかに気を取られるのは本末転倒だということを表しています。何を大切にしてこのような行動に至ったかを考えることを忘れないようにしないと、神の国とその義を第一に求めることは難しくなります。

B)正しく立派な心構え
 正しく立派な心構えは、心配事が出てきたら、「大事なことは『いのち』であり、『からだ』である」という原点にいつも立ち返る心構えです。私たちではとても真似ができないような様々な技能の熟練者の方々は、技術だけに走りそうな時こそ、基本、基礎、土台に帰ることを忘れておられません。(からだの一部を失ってでも、神の国とその義を求めることは大事なことだと考えてみてください。)

2.「いのち」について(ヨハネによる福音書14:6)
“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」”
 「いのち」とは、主イエス・キリストのこと。
 イエス様を知ることによって「いのち」について理解ができる。

 ここでいう「いのち」は、生命学的いのちでなく、霊的な意味のいのちのことで、私たちの存在の基本です。いのちがあってこそ、私たちの存在があるように、いのちであるイエス様の存在があってこそ、私たちはいのちを得ることができます。いのちのない体は役に立たず、価値がありません。ですから、生け花でも生花と造花を比べてみると、いのちの有る無しは一目瞭然です。あなたの人生には、いのちがあるでしょうか。いのちとはイエス様のことであり、イエス様を理解すればするほどいのちについて理解し、いのちを得ていくことができるのではないでしょうか。

 そのイエス様は「神のことば」と言われる方(黙示録19:13)
“その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれ た。”
 明らかに十字架上で全身七カ所から血を流されたイエス様のことを語っています。またヨハネは、(ヨハネによる福音書1章)でイエス様を神のことばとして啓示を受けたことを表現していますが、さらに(第1ヨハネの手紙1:1)で「いのちのことば」として結論づけています。イエス様がおられた時代の人々は、実際にイエス様の声を聞き、姿を見、また触ることができたわけです。いのちと主イエス・キリストと神のことばは同一であり、「いのち=神のことば」なのです。
 では「いのちに入る」という表現は、何を意味しているのでしょうか。「いのちに入る」とは、置き換えると「主イエスに入る」ことになり、また「神のことばに入る」ことでもあります。いのちに「入る」という言い方はまず使うことがなく、普通は「得る」とか「持つ」とか言われます。しかし、あえてここで「入る」と言われるのは、「入る」という使い方がこの場合正しく、また「いのち」という領域があるということを示しています。「神の国に入る」のと「いのちに入る」ことは同じ意味であり、「神のことばに入る」とも言えます。ことばの中に「入る」とは、移動してことばの中に「行く」ことであり、そのことばによって生きるということです。その領域の中に入った人は、その中で生活します。日本に入国した人は日本の中で生活し、日本の様々なルールにそって生きます。「神のことばに入る」とは神のことばによって生かされ、もてなされることです。ですからこの「いのちに入る」ことを、イエス様はおそらく、神の国をイメージしておられ、人間にとって最も重要な、「神の国とその義を第一に求める」ということを見据えて語られたに違いありません。
 今、私たちはいのちに入る方を選んでクリスチャン生活を送っているでしょうか。みことばにお世話され、動かされるクリスチャン生活に進んできているでしょうか。神の国の領域の中に入ってきているでしょうか。よく吟味していただきたいと思います。

3.いのちのことばであられるイエス様の魅力
 イエス様は、つまずきとなるものを切り捨ててでもいのちに入る方がよいと言われたわけですが、いのちが、神のことばなるイエス様がどれほど魅力的かに気付かなければ、立派な考え方や心構えを持つことは決してできません。そこに心魅かれるものを見つけなければ、体の一部を切り捨てるような犠牲を払うことは到底不可能です。罪や悪魔、悪霊は私たちに欲望を引き起こして従わせますが、神様は私たちの魂を引きつける力を持ったお方です。みなさんはどのようなみことばに神の魅力を感じ取っておられるでしょうか。ここでは私(辻師)の主観で、4つほど基本的なみことばを挙げておきました。

(1)(マタイによる福音書8:3)
“イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。”
 「わたしの心だ。きよくなれ。」とは、イエス様の心のきよさがらい病を退け、らい病人をきよくするというものです。私たちが受けるこの世の聖さは、汚れをはねのけることができず、いいものが悪いものに影響されるという死の法則に縛られています。美しいものは衰え、新品が老朽化していくのは、アダムとエバが罪を犯して、死がこの世界に入ってきた結果です。
 最初のエデンの園は老朽化はなく、人の細胞も死ぬこともなく、また聖さを保ち続けられたのです。アダムは、神様からいただいた聖い体を、欲望によって汚してしまいました。それからの人類の聖さは、どんなに聖さを保とうとしても汚れを受けてしまう弱いものとなりました。しかし、イエス様がお持ちの聖さは、近づくと汚れが退くというものです。私たちもそんな聖さを持ちたいものです。イエス様が入られると、その場の汚れた雰囲気が即一掃され、一変してしまったのです。神の聖さは周りに影響を与えずにはおれない、これは魅力的です。

(2)(マタイによる福音書11:29)
“わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。”
 ここで私が捉えたイエス様の魅力は、天地創造の神であられるのに、心優しくへりくだっておられることです。上から権力を行使し、従わせることができる立場の方が、私たちと同じ目線に立って、私たちの気持ちを汲み取られ、大きく包んで支えてくださっているのです。優しさの中には、受け止めるという強さが必要です。優しい人ほど本当は強いのです。

(3)(ヨハネによる福音書8:12)
“イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」”
 光は人々の心を魅了します。シャンデリアやネオンなど、発光するものを見ただけで心が魅かれることがあります。イエス様も、人々の心を即座に魅きつける、光のようなすばらしさを持っておられるのです。

(4)(ヨハネによる福音書10:11)
“わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。”
 羊のためにいのちを捨てることができるほどの良い牧者は魅力的です。だから、私たちも牧者のためにいのちを捨てることができるのではないでしょうか。
 私たちは、神のかたちに似せて造られたものです。ですから、「胸襟秀麗」という言葉にふさわしい者なのです。
 つまずきとなるものを切り捨てて、いのちにはいって行きましょう。
 
 私たちが神のかたちに似せて造られたという根本があるからこそ、「胸襟秀麗」のことばが似つかわしいのです。立派な考えや心構えを持つことができるように造られた私たちですから、それらを神のみことばから持っていきましょう。「できない」と思わされるのは偽りです。サタンにだまされているのではないでしょうか。イエス様が、そのサタンの偽りを正しに来られ、十字架で神の愛を証ししてくださったのですから。