■2010年2月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
王道楽土 おうどうらくど up
2010.2.28
公平で思いやりのある政治が行われている平和で楽しいところ。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)
【今週のポイント】
神の国とその義のまつりごとを行う
これは余談ですが、みことばにある「これらのもの」を得るために、「神の国とその義」が存在するわけではないことを、心に留めておいてください。
さて、「神の国とその義とを求める」とは、神の国のまつりごとを行うことである、というのが今回のテーマです。
1.「神の国」について(詩篇45:6)
“神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。”
神の国(Kingdom of God)⇒神が王として統治している国である。
神の国は「王政」の国である。
政治とは、人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営みのことをいう。
神は主権者として公正の杖(愛と正義)を基とした政治を行われる。
平たく言えば、「人が他の人と平和に楽しく暮らしていくために、決められたり行われたりする様々な決まり事」を政治というのです。私たちは、神様がどれほどすぐれた知性と人格と品性を備えておられるかを知っていますから、この方が王として、人の世の王と同じように法を定め、発令されることを、喜んで受け止めることができますね。
ここで特に重要なことは、民主制でも独裁でもなく、王政であるということです。今の日本は民主制であり、議員一人一人の主義主張によって、私たちの思惑とは違った政策を行われることもしばしばですが、正しい完全な王なる神様が治められる神の王国には、王の政策に喜んで従う国民ばかりです。この方には私利私欲が全くないので、完全な愛による完全な統治が行われます。そして、実行者は私たち自身です。
【考えてみましょう】
神はどのように政治を行われるのかを、イスラエル王国の歴史(旧約聖書)によって知ることができます。 参考)(ホセア書6:1〜3)
“「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」”
人が共に生きるための秩序や統治を、神様は律法を通してお与えになりました。人々はその律法のもとでいろいろな営みをしたのですが、営みのうち御国を建て上げるのに邪魔なものは打ち砕かれ、また正しい道に引き戻される、ということが何度もありました。このみことばは、神様が人々を育て、教育されている「政治」について記しているのです。
神様は私たちを生かし、育て上げるために、罰や懲らしめも与えられます。この方の「政治」をよく知れば、私たちは、神様のみ教えに従う道を正しく選ぶことができるようになるでしょう。
2.「第一に求める」(マタイによる福音書6:10)
“『御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。』”
「御国」は何を差し置いても求めるべきものであることが、主の祈りの先頭に記されていることによって、表されているように思われます。
王国を治める王の言葉は、その言葉を行う者たちによって実際に治められている。
神の国は、神の言葉を行う者たちによって、実際に治められている。つまり、私たちのことである。
日毎の糧を得ることが安定してなされるためには、国がしっかりとした政治基盤を持つことが前提になります。今の日本を見ると、富む人は更に富んでいますが、貧困層も拡大し、生活に窮する人や自殺者も増加しています。こんな状況から人々を救済し、安心して生活できるように政策や経済に働きかけ、変えていくのが政治家や、ひいては王の使命です。
以下のみことばが、王なる神が行われる、神の国の政治である。
(1)(マタイによる福音書22:37〜40)
“そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」”
「国づくりとは人を建て上げること」と昔から言いますが、聖書がすることも人を建て上げることです。
(2)(第1ヨハネの手紙3:23)
“神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。”
神を愛するとは、神が遣わされた御子を信じることです。罪人たる私たちを弁護するために、神様ご自身が遣わされた御子を敬い、大事にすることが、神様を大事にすることと同義だと、神様は見られます。そして、御子の命令は「互いに愛し合うこと」なのです。
「互いに愛し合う」の具体例として1つみことばを挙げましょう。
(ローマ人への手紙15:1)
“私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。”
「自分の喜びのために生きる」のが今の世の中です。そのために財力、権力、知識などを求めます。自分を喜ばせるのが動機なら、強欲の神に操られているといえます。しかし本来は、こういう「力のある人々」が弱い人々を助けるべきなのだと聖書は言っています。「損じゃないか」「無駄だ」と人は評価します。この世においては弱い者は役立たず、無価値であり、あえて言うなら、強い者に使役されるための家畜として存在を赦されるのだと。けれども、神の国では全く逆のことを言います。少しでもあなたに力があるなら、それは弱い人を助けるためにこそ「与えられている」のだと、聖書は明言しています。しかし、私たちはここで損得勘定をします。「なんでこんなことをしなくちゃいけないの?」自分の身や財布を痛めるようなことは首を突っ込みたくない、損したくないのです。「そんなことしたって、何になるの?」これは愛していたら出てこない言葉です。互いに愛し合う。損得関係なしで、自分の力を相手のために用いていくなら、神の国の王政が実現し、国はそこに安定していきます。
以上のことをふまえて、「第一に求める」ということばを考えてみると、「神の国の政治を行いなさい」という意味に取ることができます。政治が安定すれば、暮らしは良くなります。人が各々勝手な方向を向いて自己利益を求めていく限り、国は乱れ、弱肉強食がはびこるでしょう。集団がまとまりを持ち、お互いの利益を図り、保護するためには政治が必要です。これは国や地方行政だけではなく、会社などにも政治が必要です。王なる神様の政策は完璧ですから、実行者たる私たちがそれぞれの持ち場で忠実にそれを行うことが、「神の国とその義とを第一に求める」ことになります。
★考えてみましょう(ルカによる福音書18:16)
“しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」”
「神の国は、幼子たちのものです」と言われた、神の国とはどのような国なのかを考えてみましょう。
今現在の神の国は、完成された者たちのための国ではありません。幼子は未熟で、誘惑に弱く、自己中心でわがままなものですね。また、単純で、元気で、好奇心にあふれています。他にも「幼子」に対するイメージをふくらませてみてください。神の国はそういう幼子のような人たちのためにあると、イエス様は言われたのです。これはどういう意味なのでしょうか?
幼子には学ぶべき多くの事柄と、将来があります。イエス様の下に喜んでやってくる多くの幼子と同様に、クリスチャンたちも決して「できた人」ではありません。むしろ問題児であるかもしれないのです。それを教育し、成長させていくのが、神の国です。国の将来のために子どもを教育し、育てるのも政治の一環ですね。
経済社会においては、現在利益を生み出さない者、将来利益を生み出すと確定していない者には投資しません。しかし神様の愛ある社会では、多く持つ者は持たない者を助けるのが当然になります。神様は公正を行われる方だからです。そしてこの方の教えを理解して、夫婦の間に、家庭の中に、兄弟姉妹の関係やノンクリスチャンたちとの社会関係に実践していくことで、自分が神の国の国民であることを表明することにもなります。私たちはこちらの世界の住民ではないことを心に留めておきましょう。私たちの王は神様であり、政府ではありません。私たちは神の国の中で育てられている途中なのです。神様の教えをしっかりと受け止め、ゴールである「神の国の完成」を目指して歩んでいきましょう。それが「神の国とその義とを第一に求める」ことです。先週も、4つのみことばを挙げましたが、あなたにも、神から受けた神の国の政治政策として、それを実行するという、神の国の国民としての義務があります。みことばに生きる、とは神の国の王政のルールを守って生きるということです。
今日は(マタイによる福音書6:33)を「政治」という観点から見てみました。集団を治めるためには、政治と政治理念が必要です。そして、それを実践していくのは,私たち一人一人です。こうでないと、国家、政治体制は良い実を結びません。この世では主義主張が各々異なり、また多数決がまかり通るため、自分の利益にばかり目がいく結果になりますが、人が主権を握ろうとする限り、この状態は治りません。神様が王として統治されることが、一番良い結果をもたらすことは明白でしょう。私たちがその政策を実行する係です。
■2010年2月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
心悦誠服 しんえつせいふく up
2010.2.21
(心から喜んで、相手の誠意に服すること)
「心悦」=心の底から相手の行為や言葉に喜ぶこと。
「誠服」=心から慕うこと。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
(マタイ6:30)
【今週のポイント】
神様の誠意を正しい良心をもって信じる。
「心悦」=心の底から相手の行為や言葉に喜ぶこと。
「誠服」=心から慕うこと。
みことばにある、「信仰の薄い人たち」は、ネガティブな思考の持ち主なら、それだけで従う気がなえてしまいそうなことばですね。しかし、このことばに隠された本当の意味を、よく探ってみましょう。どんなお気持ちが込められているのか、神様の動機に思いを巡らせて、正しい良心によって信じていこうではありませんか。神様はいつでも、私たちのために、私たちを愛してくださる心から、物事をなされるのですから。
1.人の心はふたりの主人に仕えられない(マタイ6:24)
“だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。”
主人は二人も必要ありません。もし二人以上いれば、必ず優劣がつきます。神様と世の富とは敵対関係にあります。全く相容れることができません。人の心は一つしかありませんから、反目しあう主人二人の間では、どちらかを選ぶより他はないのです。ここでいう「富(アラム語でマモン)」は、悪と腐敗の根源としての存在であり、「強欲の神」とも言われるものです。このような、真の神様と正反対なものが,同時に主人となれるはずもありません。
2.本末転倒な心配(マタイ6:25)
“「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」”
「心配する」とは、心の目がいつも向いているということです。考え過ぎは、本当に大事なものから目をそらさせてしまいます。食べ物や着物は確かに大切ですが、人にとって一番大切なものは何か、と考えたら、食べ物や着物は最重要事項ではないでしょう?
人の存在価値のために一番大事なことを、目の前の様々なわずらいで忘れないようにしましょう。人生にある様々な苦しみや喜び、そういったものでさえ、私たちにとって心の一番大事な部分を占めるにはふさわしくありません。
例えば、教会で捧げる賛美も、心を神様にささげることが一番大事ですね。だからといって、心があればと、おざなりな賛美をするのは、結局心がこもっていない結果になります。しかし、技術的にすばらしいものに固執しても、上手な自分に心が向けられるなら、これも心がこもっている賛美ではありませんね。どれだけ神様にささげる心を持っているかが、ささげる者として一番大事なところです。そして、神様を愛している者は、なるべく良いものをささげたいと思うのが、自然な成り行きなのです。
【考えてみましょう】
根本的な事柄とささいな事柄とを取り違えていることが、他にな いかを吟味してみましょう。
3.神様のまごころ(マタイ6:31〜32)
“「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。”
私たちの必要を知って、地球環境を整えてくださっている。
しかし、アダムとエバが「欲」に従ってから、人々は富に仕えるようになり、貧困と差別、戦争と虐待、破壊と無秩序によって神様のまごころを無駄にしている。
本末転倒にならないために、神様のまごころをいつも心に留めることが大切です。神様は、私たち人間が住み良いように世界を創ってくださったのに、人は強欲によって世界をどんどん破壊しています。食べたい、楽しみたい、楽をしたい、人より抜きん出たい、などの心が暴走して、悪を行う今の世界を作り出してしまいました。強欲の神は、争いや差別や貧困を生み出します。
もし、神様の御思いに従って世界が動いていたら、世界中の人々が、互いの持っているものを与え合って、完全な平和と調和が訪れることでしょう。私たちが目指すべきは、この「与え合う世界」でないでしょうか。今、飢餓と貧困で苦しんでいる人たちに、私たちの有り余る食糧や物資を運べないのは、高い運賃を払ってまで犠牲する愛がないからです。強欲の神が私たちをつないでいるのです。「そんな安いもの、つまらないものを運ぶために、高い運賃はもったいない。」と。しかし、こちらで98円で売られている2Pのミネラルウォーターがあれば助かる、幼いいのちが数多くあるのです。人は何かに捕われると、他のものがおろそかになります。イエス様は、そんな私たちをあわれんで、「信仰の薄い人たち」と言われているのではないでしょうか。
4.心を配る根本的事柄(マタイ6:33)
“『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』”
神の国とその義とを第一に求めるとは?
神の国とその義を求めるなら、それが与えられるだけではなく、自分の心をあちこちにそらせるこの世のものもちゃんと与えられるという約束ですが、では「神の国って何?」と考えてみると、聖書には具体的に「これ」とは書いてありません。ですから、どんなところに神の国が現れるかを考えてみました。
・夫婦が神の国とその義を第一に求める(エペソ人5:22〜28)
“妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。”
キリストが教会にされたように、夫が妻を守り育てること。そんな夫を妻が敬い従うこと。これが夫婦における神の国の現れです。互いに欠点はありますが、それを赦し合い、相手を認め、愛し合う姿。すばらしいではありませんか。
・家族が神の国とその義を第一に求める(エペソ6:1〜4)
“子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。”
子どもが親を尊敬し、従う。親は自分の価値観などで子どもを傷つけることのないよう、主の教育と訓戒を用いて育てる。主がイスラエルを世話されたように、自分が主に取り扱われたように。家族における神の国の現れです。
・互いに神の国とその義を第一に求める(ローマ12:10)
“兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。”
尊敬を持って、相手が自分より優れていると思う。この捉え方が互いの間にあると、神の国が現れる。
そもそも、比べる時点で、この世の価値観が入っています。ついつい比べてしまう自分があることを認め、あるがままの相手を尊敬を持って受け入れることができるよう、神様に求めていきましょう。
このようにクリスチャンホームとして、教会として、互いに愛し合い、尊重しあっているなら、誰の目にも明らかに神の国が映ることでしょう。
・個人として神の国とその義を第一に求める(ローマ12:17〜18)
“だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。”
悪をされても、誰が見ても(特に神様がご覧になった時)良いと思うことでお返しする。自分が損してでも、平和を保とうとするのが、正しい良心に従った心。
神の前に平和であることが大事です。この世に属する平和には損得がいつもからんでいますから、自分が損するとなれば、たちまち争いに発展します。しかし、私たちは永遠の御国を知っているのですから、報いを期待して忍耐することができます。
【考えてみましょう】
神の国とその義を第一に求めると、どうして、必要なものはすべて与えられるのでしょう。
互いに愛し合うなら、持てるものをもって愛する者のために何かする、何かしたいと思うのは当然でしょう。その結果、みんなが満ち足りることができるのです。
★信じましょう(第1ヨハネの手紙4:9〜11)
“神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。”
神様の救いのプレゼントは、今この場所にも届けられています。歴史から証明された、揺るぎない事実として。神のことばが私たちに伝えられたことと贖いのみわざが成就したことによって、「心悦誠服」することに心を向けましょう。神様の誠意を、正しい良心をもって信じるなら、神の国とその義を第一に求める動機が湧いてきます。信じられるということは、「求めなさい」というおことばに対して、素直に従えるということです。
■2010年2月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
知崇礼卑 ちすうれいひ up
2010.2.14
本当の知者は知識を得れば得るほど、他人に対してはへりくだって、礼を尽くすものだということ。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
(イザヤ11:9)
【今週のポイント】
主を知れば知るほど、互いに愛し合うようになる。
先週、永遠のいのちは主を知ることであるというメッセージをしましたが、今週は、主を知れば知るほど、互いに愛し合うようになるということをテーマに語ります。
なぜ、私たちは赦せない心を持ったり、争ったりしてしまうのでしょう。お互いが様々な違い、問題を抱えて生きています。しかし(イザヤ書11:9)では、主を知ることによって、どんな違いも乗り越えて、互いが受け入れ合い、愛し合えるようになると言っています。(イザヤ11:6〜9)をまず読んでみましょう。“これらは害を加えず”がわかってきます。
“狼は子羊とともに”“ひょうは子やぎとともに”とありますが、これは何を表しているのでしょう。これらの猛獣と言われる動物が、本来は獲物となる動物と共存し、暮らしているというのです。この世界は弱肉強食であり、人間の社会でも同様のことが起きています。弱者はしいたげられ、餌食にされて、まるで敗北者としての人生を強要されているかのように思えます。そのような、力で治められ、正義で治められない、こういった世界が、主を知ることが満ちることによってなくなり、互いに愛し合い、平和に暮らせるようになるというのです。
「知崇礼卑」は、悟りを多く持つ者は、へりくだりをも持つようになるという意味です。知識の初め、知恵の初めである主を知るほど、私たちはへりくだって礼を知り、良い人間関係を保つための品性、徳の高さを身につけられるようになります。
夫婦関係が悪い時、その原因を回りに押し付けてしまうのが人の罪の性質です。互いの性質を良くすれば問題はなくなるといっても、なかなかそうはいきません。そういう人間関係のぎくしゃくした問題は、「主を知る」ことによって解決します。
主を知るなら、獅子も牛も、神の前に同じ命を与えられてたものとして、平和に共存できるのです。獅子は気性の激しい人であり、そういった激しい人も穏やかな心になるということです。狼は詐欺師、偽り者かもしれません。そういう人も、子羊のように素直になります。主を知ることに、すべての平和の基があるのです。
あなたはどれだけ主を知っていますか。どのように知っていますか。それは単に知識としての「主を知る」ことではなくて、もっと深いものです。理解し、受け入れているということです。
例えば、結婚前に長くつきあっていたカップルが、結婚したら互いにもう知り尽くしていて飽きてしまい、別れたという話がありますが、本当はまだ逆ではないでしょうか。結婚した後、いくら長くつきあっていても、まだまだ新しい発見があると気付くものです。
ずっと共に生活することで、気付かなかった相手のいろいろな面が見えてきます。そこで愛しているかどうかが問われてきます。自分に合わないものを相手がもっている時、好みも違う時、それでも相手を受け入れ、愛せるでしょうか。そこには理解する姿勢が必要となります。そして理解するためには、創造主なる神を知り、結婚に導かれ、すべてを計画された神を知ることです。
結婚していない人も、今の状況に自分を置いておられる神を知りましょう。神を知ることによって、どのような問題も、不満、愚痴・不平も取り除かれます。
あなたはどれだけ神を知っているでしょうか。そのしるしが、(第1ヨハネの手紙2:3)です。神の命令、みことばを聞いて守っていることによります。もし神の命令を守っているなら、あなたは神を知っています。しかし、人を赦せないなら、あなたはどの程度神を知っているのでしょうか。神を横に置いてしまって、自分の価値観で人を判断し、不平不満を言って争っていないでしょうか。公平な目で物事を見ていくためには、主を知ることです。ヨハネは「愛すること」が「神を知っている」ことであり、「神を愛する」ことであると言っています。
すべては神にヒントがあります。すべての人間関係に平和をもたらすために必要なのは、「主を知る」ことです。
何時間も祈っている人が主を知っているとは限りません。神学者が聖書を知識的によく知っているからといって、本当に主を知っているとは限りません。主を知った人は、祈りたい、聖書を読みたい、奉仕をしたいという心になるでしょう。しかし、知識を満たすために聖書を読んだり、自己満足のために賛美をする人がいます。行為だけで判断すると、私たちは行為に満足して、主を知っていると思い込んでしまうかもしれません。それゆえ、「愛する」ことができているかどうかで、主を知っているかどうかを見分けはかりやすいのです。
自分の主観、価値観に合うものだけを受け入れるというのは、本当の意味で「愛している」とは言えません。神は私たちを愛してくださっています。もし、ご自分の「義」という価値観で見られたら、罪人である私たちを愛することはできないでしょう。しかし、あわれみという価値観を持っておられるので、私たち罪人でも愛してくださるのです。罪をまだ犯す私たちを、ありのまま、そのままで、私たちの存在を受け入れてくださり、愛する子として見てくださるのです。
イエス様は完璧な方で、父なる神に愛されています。同じように私たちも愛されているのです。完璧なイエス様を愛するのと同じ愛をもって、罪深い私たちを愛してくださっているのです。完全な神が不完全な私たちを愛するために、どれだけの痛みを持っておられることか。そのことを理解した時、私たちは、愛するのが難しく思える相手であっても、その存在を認め、受け入れ、愛するようになっていくのではないでしょうか。
★どのようにして主を知るのでしょうか
A)被造物のいとなみと歴史を通して(伝道者の書3:14)
“私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。”
神がすべての宇宙万物を造られました。それを維持し、治める法則を保っておられます。それは永遠に変わりません。永遠に変わらないからこそ、すべてが保たれているのです。完璧な神の秩序に、人は何を加えることも、取り去ることもできませんし、もしできたとしたら大変なことになり、宇宙の秩序は保たれなくなってしまうでしょう。神を畏れなければなりません。存在しているすべてのものを通して、私たちは神を知ることができるのです。
B)約束を成し遂げられたことによって(ヨシュア記23:14)
“「見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。」”
「神は約束を守られる方である」ということを、知らなければなりません。異邦人であり、罪人である私たちを救うという約束を果たされるために、どれほどの犠牲を払われたことでしょう。これを知るだけでも、いかに神が約束を守られる方であるかがわかります。かけがえのない犠牲を払われたということは、いかに私たちを愛してくださったかがわかるはずです。
C)主を知っている人々の証しを通して(第1歴代誌28:9)
“「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。」”
ダビデはソロモンに王位を継承させる時、「今あなたはあなたの父の神を知りなさい。」と語りました。これは単に知識で知りなさいと言っているのではありません。ダビデは自分の経験から、神のことを語ったことでしょう。自分が様々な経験を通して神を知っていったように、子であるソロモンも神を求め、神を深く知っていく人になってほしいと、彼は願って証ししたはずです。
聖書には、多くの人の証しが記されています。私たちは彼らを通して神を知ることができます。
D)愛することによって(第1コリント人への手紙8:3)
“しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。”
神に知られるほどに神を愛する。まず自分が神を愛していこうとるなら、神はその愛を喜んでくださいます。罪人であるあなたの愛の行為を、イエス・キリストの贖いのゆえに、喜んで受け入れてくださいます。やり方が少々間違ったとしても、神はあなたの気持ちをわかってくださる方です。愛が、互いを知り合う上で大きな働きをします。愛して知っていくのです。知ってから愛するのではありません。神の愛は、どのようなことが見えても、貫かれる愛です。
愛するとは互いに理解し合い、認め合い、非難しないことです。
■2010年2月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
磨穿鉄硯 ませんてっけん up
2010.2.7
強い意志を持ち続け、物事を達成するまで変えないこと。
また、学問にたゆまずに励むことのたとえ。
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
(第1テモテ6:12)
【今週のポイント】
神のことばを聞いてそれを守る幸いな人は、永遠のいのちを獲得する。
「永遠のいのち」と聞いても、具体的なイメージが伴わないと、追い求めることがおろそかになりがちです。みことばを聞いて守ることによって、永遠のいのちに到達できるのですが、この永遠のいのちを獲得することの素晴らしさについて学んでみましょう。
今週のみことばにある「戦い」ということばにまず着目してみます。クリスチャンはすべての争いを避けるはずなのに、なぜこのことばがあえて使われたのでしょうか。ここでテーマの四字熟語「磨穿鉄硯」を思い出してください。鉄の硯に穴をあけるほど墨をする、それはまたどれほど勉強したかの証でもあります。みことばと照らし合わせて考えると、「永遠のいのちを得るまで、努力(自分との戦い)を惜しまなかった」と捉えることができませんか。
1.忘れてはならない二つの結末(マタイによる福音書25:31〜46)
“「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王はその右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』(35節〜40節は聖書を開いて読んでおいてください)それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』(42節〜45節は聖書を開いて読んでおいてください)こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」”
「救いについて、福音について語るとき、神の最後の審判のことを忘 れてはなりません。すべての人は必ず神の前で裁きを受け、どちらか の結末を迎えます。有罪か無罪か、羊か山羊か、正しい人かそうでな い人かに分けられます。そして、永遠を決める判決を受けるのです」
右と左に分けられる理由は後で各自考えるとして、ここで大事なのは、「裁きがあって、人は2種類の結末を迎える」ということです。それは「永遠のいのち」と「永遠の刑罰」です。神がいると認めていようがいまいが、神がおられるという事実は変わりませんし、みことばと御子を送って警告され、救いを用意されたことも間違いありません。歴史に刻まれた事実です。イエス様を信じたら「病気が治る」「問題が解決する」ことだけが大事ではありません。それだけでは他の「宗教」が言っていることと同じになってしまいます。
人は必ず天国か地獄へ行き、その中間はないことを語らねばなりません。福音の中心は「滅びを免れ、永遠のいのちを与えられる良き訪れ、罪の赦し」なのですから。多くの宗教が、救われるための行いを説きますが、イエス様は「信じるだけで救われる」と言われました。反対に言えば、私たちの方で救いに値するようなことは何一つできない、永遠のいのちは計り知れないほど高価で貴重なものであるということです。
このようなすばらしいものを無関心に見過ごして、知らなかったで済むはずがありません。もちろん得られるわけもないのです。
「永遠のいのちについて無関心であれば、永遠の刑罰を受ける判決が下ることになります。」
皆さん、交通違反で警察に捕まったとします。そのとき「知らなかった」で釈放されることはありませんね。知らなくても法律はちゃんとあるのです。知らずに放っておいた方が悪いのです。今週のみことばでパウロがあえて「戦う」というきびしい表現をしたのも、永遠のいのちに対しての熱意を沸き立たせるためだったのではないでしょうか。
2.永遠のいのちとは?(ヨハネによる福音書17:3)
“「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」”
「唯一のまことの神とイエス・キリストとを知ることが、永遠のいのち」
「そして「知る」こととは、『同化する』こと。ですから、知れば知るほど永遠のいのちに近づくことになるのです。」
一時的な知識や興味ではなく、「自分のものとしたい」「同じようになりたい」という気持ちから起きる持続的な知識の欲求は、その人を興味の対象と同化させていくのです。ここが大事な点です。少しかじってみて、「お!これはいいぞ!」と思い、もっと熱中します。更に深く知識を得て、興味の対象の感じ方や考え方に同調します。最後には、何もかも全く興味の対象と同じになります。「同化する」のです。
私たちは神様について、単なる一般的知識で終わってはいないでしょうか。永遠のいのちを得るほどの知り方でないなら、当然得ることはないでしょう。もっと神様を知りたいという気持ちが、熱意が、日々内側に湧き上がっていますか?
3.「知る」というプロセス(ピリピ人への手紙3:8)
“それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。…”
ここでは実際的な例として、パウロの手紙から見てみましょう。
(1)「知っていること」もしくは「知ること」のすばらしさに気付く。
「知っている」←今持っている、「知ること」←これから得る
パウロは、自分にとって魅力的なものを見つけた、あるいは見つけようとしているのです。
(2)知る知識の絶大な価値を見いだす。
「これはすごい!」と思えば、関連するものを何でも手に入れたくなりますね。どんな犠牲を払っても、手に入れたいものだとパウロは思ったのです。
(3)他の一切を損と思う結論に達する。
パウロの場合は、神様以外はどうでもいいものだと思うに至ったのです。結果、狂ったようにイエス様を宣べ伝え、その火はヨーロッパにまで燃え広がりました。
「私たちは、神様を知ること、知っていることをどのように評価しているでしょうか。正しい良心をもって吟味してみましょう。」
パウロは実に多くの迫害を受け、最後はローマ放火のえん罪を被って殺されましたが、それらのことを「何でもないこと」とあっさり切り捨てています。目の前のできごとに振り回され、一喜一憂している人に比べたら、それは本当に幸せな姿です。人が何かに熱中して一生懸命に生きている時、その姿は回りの人々から見ても、とても幸せな人生に見えるのです。
あなたは自分だけのイエス様を持っていますか?どれほど知っていますか?神様を心のどこに置くか、その優先順位によって、それぞれの行動も、もたらす結果も大きく違ってくることでしょう。
4.永遠のいのちを獲得する戦いとは?
「戦う」ことと「知る」ことについて
勝利か敗北かの二つの結末がある⇒生きるか死ぬか、得るか失うか。
気を弱らせることが敗北につながる。⇒あきらめず励む姿勢。
勝利への機会をつくる⇒あらゆる工夫をし続ける。
「神様を知ることが信仰の戦いであり、勇敢に戦うことが磨穿鉄硯をもって神様を知ることと言える。」
「戦い」と言うとつらく感じますが、「知る」ことは本来楽しいことであるはずです。イエス様を「知る」ことが永遠のいのちに直結しています。ただ、追い求める姿勢として、命がけでチャレンジする懸命さが必要なので、あえて「戦い」と言っているのではないでしょうか。
★考えてみましょう(ヨハネによる福音書12:25)
“「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」”
「永遠のいのちを獲得することを妨げるものがあります。つまり、信仰の戦いを敗北へと向かわせるものです。」
「それが『自分のいのちを愛する』ことだとイエス様が教えておら れます。どうして、自分のいのちを愛する者は、永遠のいのちに 至らないのでしょうか。神様を『知る』ことが永遠のいのちであるということから考えてみましょう。」
注意したいことがあります。自分のいのちを愛するがゆえに、永遠のいのちを獲得しようと考える人もいるようですが、永遠のいのちと自分のいのちは相反するもので、決して一緒にはなれないのです。「楽をしたい」「この世で成功したい」など、これらの思いには神を愛する気持ちがありません。反対に神を愛する心は、自分のことを気にかけていません。
また、自分を気にかける人は、どこか病が、あるいは傷があるから気にかけるのです。健康な人は、仕事や他の人に心を向けられるものです。心が痛んでいる人は、それを早く神の愛と奇跡によっていやしていただき、もっと神を知る方へと心を向けていくことができるようになりましょう。
十字架のいやし、イエス様の血潮のきよめを通し、健全さをいただいて、主を知る人生へと邁進してまいりましょう。
■2010年1月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
形影相同 けいえいそうどう up
2010.1.31
形と影がぴったり同じであるように、
心が正しければ、行いも正しいことのたとえ。
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
(マタイ6:22〜23)
1.明るい人生(マタイによる福音書6:22〜23)
“「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」”
幸いな生活を送っている人の目は澄んでいます。幸いな人とはすなわち、神のことばを聞いてそれを守る人たちのことです。みことばの光を内に持っている幸いな人の目は澄んでいる、と言い換えることもできますね。
昨年(09)秋に広島で開催された世界食糧デーに出演した、ウガンダの子どもたちの聖歌隊「watoto」にも、彼らの目の輝きに感動した、という感想が数多く寄せられました。
彼らは両親をAIDSで失った孤児たちであり、アメリカの宣教師によって施設に引き取られ、そこで暮らしています。その彼らの内にある、いのちのことばがもたらす輝きが、将来に対する希望が、私たちの目に明るく映るのです。人の私生活をいちいち覗き見しなくても、その瞳の輝きを見れば、幸せな生き方をしているかどうかわかるものです。
反対に、永遠に対しての希望がなければ、今あるいは少し先への展望はあっても、そのずっと先を照らす光がないのです。それはどれほどの暗さでしょうか。
「神のことばに心を照らし続けていただけるように、良い心を備えるようにこころがけましょう。」
2.4つのタイプの心(マタイによる福音書13:3〜9)
“イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」”
「種=神のことば」
「種が落ちた場所=神のことばを聞く人の心の状態」
(1)道ばたのような心(詩篇95:8)
“メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。”
「メリバでのとき」(出エジプト記17:1〜7を参照)
イスラエルの民が「水がない」とモーセと争い、主を試みた場所。
「争う心=かたくなな意志。高慢。自分の間違いを認めない。
人からの勧めを聞こうとしない。どのような証拠を見ても、
神を信じない頑固な意志。」
エジプトから大いなる奇跡によって救い出されたイスラエルの民ですが、荒野で水が不足したとたん、モーセと神様に対してきばをむきます。これは彼らの中に元々あった、かたくなな信じない心が起こさせた行動です。「自分は正しい。悪いことは何もしていない。」と主張し続ける心がそこにあります。これは正に道ばたのような心であって、人からの勧めを受け入れることを決してしません。もちろん神様からのものであってもです。
(2)土の薄い岩地のような心(ヤコブの手紙1:6〜8)
“ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。”
このタイプの特徴は、「すぐに」影響が表れることです。大波は不規則に上下し、起伏が激しいですね。感情に動かされやすい人は、大波に似ています。その時その時に、思ったままを行動に出してしまいます。良い時は素直に喜べるのですが、悪い時にはすぐにカッと心をかたくなにしてしまいます。コロコロと変化が激しいのです。
また「二心」とは、いろんなものに興味が移っていく移り気な心のことで、意志が弱く、安定しません。感情をメインにしていると、「感じるもの」しか信じられないので、歴史の中に十字架を通して記された神の愛を信じられません。しかし、信じるか否かで事実が変化するわけではありませんから、たとえ感じていなくても、神の愛は変わらず注がれています。
神様に対して否定的な感じをよく持つ人は、感情主体になってはいないでしょうか。自分をよく探ってみてください。せっかく悟らされたみことばも、すばらしいいやしも、感情にまかせてその場限りで終わらせてしまっては、無駄になってしまいます。
(3)いばらのある地のような心(伝道者の書2:3)
“私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。”
「この世の不敬虔な考え方に影響され、神のことばを曲げてしまう。
知識欲があだとなり、神の純真な知恵を汚してしまう。
さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりの考えに
影響されないように、思いを吟味する必要がある。」
ソロモンは神によって与えられた知恵によって、すばらしい知恵者でした。自身の経験、体験に関係なく、聖霊様によって、彼は世界のすべての法則や原理までも知る事ができました。
しかし、ソロモンは自分の心で「考えた」ので、「愚かさ」を捨てませんでした。人は、神の絶対的正しさと完全を知ってもなお、自分の考え、気持ちを優先させてしまいます。ソロモンも、ちょうどそのように、人の知恵をも取り入れたいという誘惑にかられたのではないでしょうか。実はその根本にあるのは、肉の欲求です。欲望を満たしたい、手放したくないと思っていたのです。この「ちょっとした」優先順位の取り違えは、ソロモンの最期を決定的に変えてしまいました。父ダビデがせっかく統一したイスラエルが再び分裂したのは、実にソロモンの罪によるのです。
現代にいたるまで、これに類似した例は枚挙にいとまがありません。ノンクリスチャンでも、聖書の真理を行う者は祝福され、クリスチャンでも真理を曲げる者は祝福から離れてしまいます。私たちは、真理を知る者として、もっとその真理を活用すべきではないでしょうか。ソロモンの場合は、行き過ぎた知識欲が身を滅ぼしました。「さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりの考え」といういばらに対抗するため、礼拝や、みことばの啓示などによって、またクリスチャン同士の交わりを通して、自分の状態を確認し、正しいところに帰りましょう。
(4)良い地のような心(詩篇1:1〜3)
“幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。”
「何をしても栄える」心は、「主のおしえを喜びとし」「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」のです。私たちは、神の教えを喜び、心地よいものとして受け止めているでしょうか。みことばを聖霊様によって悟らされ、心からそれに同意できる、これが「みことばを聞いて守る人」の状態です。
正しい良心は、いつも神様と似た者になりたいと願っています。アイドルのファンは、そのアイドルに関連するものを身につけ、回りに置きますね。人は崇拝するものと同じになりたい、一つになりたいのです。神様は、そのような人の本当の願いをかなえるために、あらかじめ人をご自分に似せて造ってくださっています。喜ぼうではありませんか!私たちは神様と同じ者になれるのです。
「神のことばに啓発されて、良い地のような心を備えるようにこころがけましょう。」
「そのためには、心を耕し、石を取り除き、いばらを抜き取るという悔い改めの作業が必要です。悔い改めの手を休めないように、勤勉な日々を過ごしましょう。」
畑の作物を収穫するためには、数えきれない程の手間と、計り知れない労苦が必要になります。同じように悔い改めも、毎日毎日、小さい雑草や虫を取り除くように、まめに根気よく続けていく他はありません。みことばの実を結ぶために、手を休めずに悔い改めていきましょう。
■2010年1月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
照人神命 しょうじんしんめい up
2010.1.24
人の光である神のことばは、人を照らし、啓発する。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(新共同訳)
(ヨハネ1:9)
(ヨハネによる福音書1:1〜5)を読んでください。この「ことば」「まことの光」は、イエス・キリストであることがわかります。
このイエス・キリストは、再び来ようとされています。私たちはまさに、そのような時代に生きています。
今日のみことばは、「人を照らす」ということばにまず注目してください。ここが今週の中心点、ポイントとなります。
1.「人を照らす」
「照らす」とは、目標のものに光を当てることです。光が当たると、はっきり見えるようになります。この「照らす」は、ギリシャ語では「啓蒙、啓発」という意味があり、特に「啓」という漢字には、「開く」という意味があります。開くとは、見えなかったものが開かれて、見えるようになることです。(「蒙」とは、「暗い」という意味です。)
前向きな動機付けを与えるのが「啓発」であり、前に進むために必要な知識を与えるのが「啓蒙」です。例えばカウンセリングも、なぜ心がすっきりしないのかを分析して、原因を探ります。そして、今まで思い浮かばなかったような出来事などが思い出され、今に至る心の状況が生み出されて来た原因がわかります。こういった原因がはっきりしてくると、人は安心し、それを克服するために取り組んでいくことができるようになります。つまり、はっきりとわかることによって、解決の道が見いだされるのです。
それゆえ、「照らす」ということは、大変重要なことです。英語では、「illminateイルミネート」ということばも、「明るくする」「啓蒙・啓発する」という意味で使われます。クリスマスシーズンには、平和公園周辺も大変きれいなイルミネーションが見られますが、イルミネーションを見ると、明るく楽しい気持ちにさせられるものです。うちの教会でも年々イルミネーションを増やしていますが、前を通られる方々は、「今年もきれいだなあ」と、いつも楽しんでくださいます。イルミネーションを見る人々の心が少しでも明るくなれば、つけたかいがあるというものです。これもひとつの啓発です。
私たちは聖書のことばを通して、神がどのようなお方かを教えられ、もう離れたくないというまでに啓発されます。
2.神のみことばである方が明らかにされたこと(ヨハネによる福音書1:18)
“いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。”
イエス様を見れば、創造主なる神がわかります。イエス様の地上での33年間の歩みは、神のことばとしての歩みであり、聖書のことばすべてが、神がどのようなお方であるかを示しています。
聖書を通していろいろな疑問が明らかにされていくことによって、無限の神の偉大さがわかってきて、神を知る喜びが与えられ、心が動かされてきます。「心を動かされる」ということは大変重要です。理解をしても、心が動かされなかったら、意味がありません。
先日「プロフェッショナル」という番組で、作業療法士の藤原茂さんという方が紹介されました。彼が勤めるデイサービスは、全国で一番脳卒中からの回復率が高いということで、たくさんの見学者が来られます。車イス生活の人が立ち上がって歩けるようになったり・・・。
彼のモットーは、「人は心が動けば、体も動く」です。心を動かすために、彼は「バリアフリー」ではなく「バリア〔アリー〕」を取り入れています。例えば天井からポスタ―をぶら下げ、頭を下げるかよけるかしないと通れないようにしたり、壁のいろいろな位置に難しい漢字の名前を取り付け、どう読むんだろうと手を上げてめくってみると答えが分かるようにしています。見たいという心の欲求を起こさせ、頑張って手を上げて見るという動作をさせる。これがリハビリになるのです。高い所にあるカードは伸び上がり、手を上げ、低い所のカードはしゃがみ込む。これらがすべてリハビリです。見たい、という心の動きが、行動になるのです。彼はその原則を見い出しました。
神のことばは私たちを照らして、私たちの心を動かしてくださいます.心が動けばみことばを行いたいと思い、行動につながってくるのです。
この「照らす」というみことばの働きを、ぜひつかんでください。苦しみの中で、単になぐさめられるだけではなく、問題に向かって立ち向かわせてくれる、そういうみことばの力を体験してください。なぐさめられ、励まされ、啓発されて、行動に移すことができるようになるまで、みことばに照らしていただくことが大切なのです。
人は出会いで決まると言いますが、私たちクリスチャンは「私たちの人生は、神との出会いがあったからこそ」と信じています。すべての出来事は、神の御手によって導かれています。それゆえ、どのような状況の中でも、逃げることなく前向きに受け止めていこうと思えます。そのような心を与えてくださるのが、神のみことばです。
不動の神のみことばの約束によって、私たちはいつもチャレンジしていくことができます。こうして啓発された人は、いつの間にか回りの人々をも啓発していきます。証しをしていく時、聞く人々が励まされ、啓発されていくのです。光を受けて光をいただいたら、その光は内側から輝いて回りを照らします。こういう人は本当に幸いですね。前向きな心でますます喜んで生活していけるので、そういう人は本物の「めでたい人」になれます。回りの人々は、そういう人に魅かれてきます。
「幸いなのは、神のことばを聞いて、それを守る人たちです」
私たちは、神様がどんな方がわかってきたので、心から喜んですべてを感謝できるようになりました。これは律法でも強制でもありません。みことばに照らされ、心を動かされるという体験をしていきましょう。そうしてみことばに啓発され、回りを啓発していくクリスチャンライフを楽しんでいきましょう。
また、神のことばと深く交わるとは何か、を(第1ヨハネの手紙1:3)から考えてみてください。天の父なる神と交わるとは、みことばと取り組むことです。「このみことばはどういう意味なのだろう」と集中し、黙想していくなら、みことばの光が表れ、あなたを照らすという体験をします。これは理屈ではありません。あなたの心が照らされる時、(コロサイ人への手紙3:16)を経験します。
“キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。”
キリストのみことばを豊かに住まわせ・・・とは、みことばとの交流です。みことばと交流するならば、心が動かされ、神に向かって喜んで歌えるようになります。
今年もみことばから様々な神の全能の能力に心を動かされ、幸いなクリスチャン生活を送っていきましょう。
■2010年1月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
虚心坦懐 きょしんたんかい up
2010.1.17
心にわだかまりをもたず、素直でさっぱりした気持ち。
無心で平静な心境。偏見がなく、心が開いていること。
だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。
(ルカ8:18)
「虚心坦懐」は、神のことばを聞く上で大切な心の姿勢です。このようなわだかまりのない素直な心で、みことばを受け止めて行くことを目指していきましょう。
1.みことばを聞く二つの姿勢(ルカ23:39〜43)
“十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」”
イエス様の十字架を中央に、左右に分かれた強盗たちの心のように、イエス様の十字架はすべてのものを分つ境界線になります。分たれる基準は、「神を畏れるか否か」です。
「イエス様は神のことばであられる方です。つまり、天の父なる神様からの良き知らせ(福音)であられるのです。二人の強盗は、同じ方を見ましたが、イエス様に対して同じ態度ではありませんでした。」
「私たちも同じ神のことばを聞いていますが、みな同じ捉え方をするとは限りません。」
強盗たちは、それぞれ自分の心でイエス様を判断しました。現代に生きる私たちも同様に、自分の心でイエス様をそれぞれ判断します。それはクリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、です。
イエス様ご自身は、十字架にかかられた時も、右の強盗にも左の強盗にも何も特別なことはなさいませんでした。ただ甘んじて人々にののしられ、ののしる人々のためにかえって「彼らをおゆるしください。」と祈られました。そのイエス様を、強盗たちはじっと見ていたのです。そして二人の強盗が選んだ心は全く正反対でした。
悪口を言った方の心は、今も存在する、クリスチャンや他の善良な人々をあざけり、ふみつける人々の心と同じです。たしなめた方の心は、あざけり、ふみつける者と傷つけられる者たちを見て、何かが変わったのです。それこそ、神を畏れる心からくるものなのです。ここで注意すべきなのは、イエス様をののしり、あざけった方の心の中にも正しい良心の働きがあり、悪い心をやめて良い方に変わることも可能だったということです。その正しい良心をふみつけてまで、自分の痛み、苦しみ、自己中心の考え方からイエス様を見続け、逆恨みし続けたのです。彼は自分が今置かれている現実を認めることができなかったのです。
もう一人、悪口を言った者をたしなめた方は、自分の状況を認め、受け入れました。「自分はこの罰を受けるにふさわしい罪人だ。」と。この差が、二人をパラダイスと黄泉に分かったのです。たとえ罪人であっても、正しい良心を働かせていく人々は、主と共にパラダイスに入ることができる、とここでハッキリと示されています。
私たちは、罪の性質のゆえに、自分中心な勝手な心のままでみことばを聞いてしまうこともあるかもしれません。しかし、イエス様の血潮で汚れた良心が正しい良心へと変えられた今なら、正しく聞くことができるのですから、ぜひその良心を働かせていこうではありませんか。
みことばは常に「永遠のいのち」か、「永遠の滅び」かのどちらかを選ぶ境界線として、私たちの前に立ち続け、私たちは始終選択をし続けています。常に神の前に正しい良心を働かせて、みことばを正しい心で受け止め、聞き、守る人。これこそ「幸いな人」です。
2.「虚心坦懐」の心を保つために(マタイ6:8〜13)
“「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」”
「父なる神は私たちの必要をご存知です。その意味は、保証人となってくださっているということなのです。」
この「主の祈り」と言われる祈りは、イエス様が唯一、「こう祈りなさい。」と弟子たちに教えられた祈りです。聖書には「祈りなさい。」と書かれた箇所がいくつもありますが、「どう祈ったらいいのだろうか。」と考えたことはありませんか。私たちが祈りをする時、願いがいくつもあると、祈れば祈るほど自分のことしか考えられなくなりがちです。もし自分のことしか考えられなくなったら、それはイエス様に悪口を言った強盗と変わりません。「どんなに他の大勢を救っても、今の自分の願いを聞けないなら力がないのと同じです。私にとってあなたの存在価値はありません。」と文句を言っていることになるのです。イエス様をけなし、馬鹿にしているのです。かなわない祈りの原因は必ず自分の側にあります。神様に落ち度や失敗はあり得ません。
「主を畏れる正しい良心を働かせるための祈りを、イエス様は教えてくださいました。」
私たちには多くの願いがありますが、本当に必要なもの、根本的な願いは「幸いを得る」というただ一つです。みんな「幸せになりたい」のです。これを「神はよくご存じだ」とイエス様は言われ、「だからこう祈りなさい。」と更に紹介されたのが、「主の祈り」なのです。それなら、イエス様が「祈りなさい。」すなわち「告白しなさい。」と言われたこの「主の祈り」を実際に告白してみようではありませんか。
【考えてみよう】
「主の祈りを時間をかけて祈り、その祈りが、霊と心にもたらす幸いを味わってみましょう。」
虹は、国や民族によって色数が変わるそうです。表現できる色の名前があるかないかで、数が異なるらしいのです。言葉が、その色を確定させたと言い換えることもできますね。
さて、私たちは、神のことば、真理のことばを聞きました.人生の色をもっともっと豊かにすること、味わうことができるようになったのです。自分中心の色合いは単純で、数も少ないのですが、神様からの視点や考え方ができるようになったことで、飛躍的な色彩の増加が与えられ、総天然色のすばらしい世界を知ることができるようになったのです。ですから、「主の祈り」を何回も告白して、そこに込められている神の力を体験してみてください。ゆっくり味わって告白していけば、すぐにわかってくるはずです。自分の心の底から、自分なりの表現を込めて、人に見られるのが恥ずかしかったら一人になって、告白してください。
教会が昔から「主の祈り」を大事に告白し続けてきた理由は、この祈りには敬虔な心を生み出す力があるからです。「主の祈り」は呪文ではないのですから、何回も繰り返したり、覚えるためによくやるように、つらつらと言えればいいというものではありません。心からの告白であってこそ、初めてその力が発揮されるのです。ですから、大事に真剣に祈っていきましょう。
■2010年1月10日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 小栗 恵子師)
敬天得幸 けいてんとくこう up
2010.1.10
天の神を敬い、そのことばを聞いて守る人は幸いを得るの意。
しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
(ルカ11:28)
今年、教会に与えられたテーマのみことばです。私たちが、自分が持っている物質の多少や自分の評価によって幸いを得ようとすると、それはもろくはかないもので、「のれんに腕押し」しているようなものです。本当の幸いは、私たちを造ってくださった神様が語られたことばを聞いて(耳を傾けて聴いて)、守る(従う、行う)ことにあると書かれています。見える現状でなく、永遠に変わらない神のことばに心を開いて聴きとめること、自分の感情がいくらついていかなくても、私たち以上に、私たちの必要をご存知の創造主なる神のことばを守ることー仮に今、完全には行えず従えない状態にあっても、「神のことばを守る」と決意した動機を見て神は良しとしてくださり、必ず幸いに導いてくださいます。
1.「神と和らぐ」ことを聞いて守る(ヨブ記22:21)
“さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。”
「神と和らぎ、平和を得よ」というみことばは、新共同訳聖書では「神に従い、神と和解しなさい」と書かれています。和解とは敵対関係にある者同士が仲直りすることです。天の父なる神様が、制限のある人の形をとって地上におりてくださり、そればかりか罪人の身代わりに十字架にかかられるという大きな犠牲を払われたのです。それは、私たちにとって一番必要な魂の救いを与えるためでした。しかも、神であるお方が、自分勝手に歩む私たちに頭を下げて、「あなたの罪のために、キリストが十字架であなたの身代わりに罰を受けて、あなたの罪を帳消しにしたことを受け入れてほしい。」と懇願しておられるのです。
ひとり子を犠牲にすることは生易しいことではありません。このような例話があります。あるところに、仲のいい父親と子どもがいまして、父親はそれは子どもをかわいがっていました。父親は列車が通過する度に鉄橋をおろす仕事をしていました。その日も、列車が来る時刻が近づいたので、鉄橋を下ろそうと思った時、ふとかわいい我が子の姿が見えないことに気づきました。見てみればなんと、その子は鉄橋が下りるそばの線路の真中で遊んでいたのです。我が子を助けに行けば、列車が通過する鉄橋を下ろすのには絶対間に合いません。そして、何百人も乗っているその列車は間違いなく乗客ごと川に突っ込み、大惨事になるでしょう。そのお父さんが下した決断は「橋を下ろす」ことでした。何百人の命を救うために、愛する我が子を見殺しにしたのです。言うまでもなく、この父親は父なる神を表し、列車に乗っているのはまぎれもない私たちです。父なる神は、私たち罪人が永遠に滅びに行ってしまうことを望まれず、愛するひとり子イエス様のいのちと引き換えにされました。それほどまでに私たちを愛してくださっているのです。
赦しを請うべきは私たちですのに、父なる神様が「ひとり子を失う」という大損をなさり、心を痛めながらも和解の手を差し伸べておられるのです。それなのに、私たちは「いや、今、自分のことが大切だ」と言ってその手を振り払うのでしょうか。私たちは、もろくはかない現状に心を留めますが、神は永遠を見据えて、私たちにとって一番良いものを、今預けてくださっています。十字架にひとり子をおささげになった神様は、私に何をおっしゃりたいのだろうと、考えるときを持っていただきたいと思います。
2.「神を愛する」ことを聞いて守る(マルコ12:30)
“「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」”
神は御子イエス様を十字架におかけになったことを通して、私たちへの愛を形として表してくださいました。では、私たちの側はどうでしょうか。相手を愛していればこそ、相手の願いを知りたくなり、喜んで実現してあげたくなります。パリサイ人シモンの家にイエス様が招かれたと聞いて、やってきたのは罪深いことでは評判の女でした。そして彼女はイエス様の足下に来て、御足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、足に口づけしてやめなかったと書かれてあります。「多く赦された者は多く愛し、少ししか赦されない者は少ししか愛さない」。この女は、自分の罪深さをよく知っていました。だからこそ、イエス様に対して自分にできる最大限のもてなしをしたのです。この女に対して「あなたの罪は赦されている…安心して行きなさい。」とイエス様は語られました。一方パリサイ人シモンはどうだったのかと言うと、イエス様に客人としてのもてなしをするわけでもなく、この女の所作を見て、「この方が預言者なら、この女がどんなに罪深いかわかるはずだ。」と女を裁き、イエス様をむしろ量っておりました。彼は自分の罪深さに全く気づいていなかったのです。
本来私たちは、神の前に出ることのできない罪人です。にも関わらずそれを可能にしてくださった神様の愛、多く赦されていると感じるかどうかは、私たちが自分の罪深さをいかに悟っているかにかかっています。
★神の命令をどのように受け止めていますか
●自分の欲を愛したエバの例(創世記3:6)
“そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。”
神の命令を守るべきとわかっていても、ヘビにそそのかされて善悪を知る木の実を見たエバは、すでに「食べるに良く、目に慕わしく、賢くする」という「肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢」に思いがとらわれ、命令を守ることができませんでした。命令を軽んじ、不従順の罪を犯してしまったのです、神を愛することよりも、自分の欲・肉の思いを優先させることは、神が悲しまれることになると気づいていなかったのです。
●自分の行いを愛した放蕩息子の兄の例(ルカ15:29)
“「しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。』”
弟息子が父親にもらった財産を放蕩して使い果たして、父親の元に帰って来たとき、父親は祝宴を開いて弟が戻ってきたことを喜びました。しかし、兄は祝宴まで開いてもらって、帰ったことを喜んでもらっている弟が気に入りませんでした。そして、なだめに来た父親に怒ってこう言うのです。「長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。…。」と。自分の行いが正しいと自負する人の特徴は、この兄に代表される「自分を支える力が全くなく、父親の愛に覆われている恵みの状態の人」を見ると、心が騒ぐことです。「何だ、あの状態は…。」。命令を守るという時、おとうさん(つまり神様)への愛からいつの間にかそれてしまって、命令を守っている自分への愛にすり替わっていないか吟味したいところです。兄がもしおとうさんと同じ愛の心を持っていたなら、いなくなっていた弟の帰還を手放しで喜んだはずです。
聖書に書かれている神の命令を、私たちはいったいどのように受け止めているでしょうか。「できない。」とさじを投げているのでしょうか、それとも少しでも「行いたい。」と思っているのでしょうか…。気持ちがみじんでもあるなら、神は必ず実を結ばせてくださるに違いありません。
3.「光を輝かす」ことを聞き守る(マタイ5:16)
“このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。”
このみことばの「良い行い」とは、「立派な行い、称賛に値する気高い行い」を意味し、その「良い行い」を見て、人々が天の父なる神をあがめる(認める…)ためであるという訳があります。神から愛されて存在が支えられ、その神の愛に応えて神を愛していく人のいのちは、そこにいるだけで輝いて、回りに影響を与えるものです。まさに隠し通すことのできないものです。
あの有名なマザー・テレサは、すべての人が神様に造られ、愛されているという姿勢で、あらゆる宗教の隔たりを越えて、公平に善行を尽くしていかれた方です。人に認められ、称賛を受けようなどという思いはみじんもなく、ただ神に愛されたご自分の思いが溢れ出て光となり、それを見て人々がマザー・テレサにある神の愛をほめたたえたとも言えるのではないでしょうか。後年、マザー・テレサが国際的な賞を受けることを辞退されたと聞いたことがあります。私たちも「人からの評価」ではなく、神が私たちの何かしたいと願うきっかけ=動機を含めて評価してくださることに思いを向けるなら、最初はすぐに良い行いに結びつかなくても、後に必ず、神が回りに影響力を与えていかれるのではないでしょうか。
★神様との交わりの生活を楽しむ(第1ヨハネの手紙1:3)
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”
私たちの交わりの真中に神を認め、様々なことを分かち合っていく時、互いの思いを理解し合い、支え合っていくようになるのです。(信仰の苦難を通るその時、十字架のキリストが罪人としてみじめな姿をさらしてくださり、「あなたの苦難はすべて負ったから、さあ行きなさい。」と躊躇する私たちの背中を押してくださっていることを思い起こしてください。また、その苦難の痛みを理解してくださる神の家族の励まし、慰めがあります。)
「互いに愛し合う」ところにすべて通じるのですが、自分が何かできているとかいないとかではなく、「互いに神に愛されている者」として手をつないでいく交わりになるのではないでしょうか。賜物についても、神にいただいたものを「他の人のために役立ててください。」という思いで取り組むなら、限りなく賜物は成長していくと思います。
「いのちの輝きは、神に愛され、神を愛する生活の中に輝きます。私たちを通して、天の父があがめられるということは、私たちの回りに平和があり、幸いな日々を得ていることになるのです。」
その人しか生きていくことのできない、誰もまねのできない人生に価値づけてくださった神は、「永遠まで共に生きていこう」と声をかけてくださっています。人間的に最悪と思えることは、神に取っては最善です。人間の力が及ばないところに神の栄光が現れるからです。イエス様の十字架を見上げるならば、神様がそれぞれの方にしてくださっていることの大きな意味が必ず語られていくと思います。神に愛されている者として、「神のことばを守りたい」というところから、まずこの1年のスタートを切っていこうではありませんか。
■2010年1月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
恩典遵守 おんてんじゅんしゅ up
2010.1.3
神のことばに従いよく守ることによって、
恵みのあるとりはからいを受ける幸いのことをいう。
しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
(ルカ11:28)
今年の私たちのモットーのみことばとして、このみことばを神様からいただきました。元旦礼拝とあわせて、このみことばからこの一年の私たちの心構えを学んでいきたいと思います。神様への敬虔な心をもって、いのちのみことばを受けとっていきましょう。
「…幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」誰でも幸せを求めています。この幸せの中に繁栄も含まれます。さらに発展するように、さらに豊かにという願いは誰の内にもあるものです。一方で、かつて教会では貧しいことが美徳であるかのような捉え方をしているようなところがありました。しかし、これには意味がありました。豊かになることは心が盲目になっていくというマイナス面がある、だから豊かになりすぎて心が盲目にならないように、貧しさを保つ、ということです。貧しさといっても、極端に貧しくなるというのではなく、自分の分にあった生活をめざすという意味です。競争して相手を倒して幸せになっていく、というのではなく、神様が与えて下さったものが一番よいものであり、幸せである、という心なのです。ですから、人から見て貧しそうにみえても、その人にとってはそれが平安であり、幸せなのです。
私たちは、この経済社会の中で植え付けられた“皆が同じでなければならない、皆と同じようになってこそ幸せ”という無意識の思いを取り払う必要があるかもしれません。違っていていいのです。貧しいか、富んでいるかで幸いかどうかが決まるのではありません。
何が幸いなのか、みことばから学び、この一年神様が与えてくださる幸いな歩みをしていきましょう。
1.「幸い」について
運がよく、恵まれた状態にあること。(広辞苑)
(英語)Blessed=神聖な、神の恵みを受けた、幸せな。
「恵まれた」とは、自分の努力や力以上の力を与えられたことにより、さらに良い状態になったということです。では、イエス様の言われた「幸い」とはどんなものでしょうか?イエス様のおことばの前に、あるユダヤ人の女性が言ったことばを見てみましょう。
ユダヤの女性(ルカ11:27)
“群集の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」”
幸運なめぐりあわせによってもたらされた神の恵み、幸せ。
ある特定の人だけに与えられた幸い。
この女性はイエス様を、またマリアを誉めていると思いますが、「イエス様を産んだ母マリアは特別な人、私とは違う」という気持ちもきっとあったのでしょう。例えば、宝くじの一等賞一億円が当たるのはただ一人です。これは自分の努力によって受けるのではなく、幸運なめぐりあわせによるものです。この女性はその「幸い」を言っているのです。それに対してのイエス様の応えはどうだったでしょうか?
イエスの答え(ルカ11:28)
“しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」”
女性の呼びかけに対して、イエス様が答えられた幸いは、特定の人だけのものではなく、自分の意志によって手にする事ができるものであると言われた。イエス様の言われた幸いは、自分の意志によって手にすることができるものなのです。
「チャンスを逃してしまった。次のチャンスを待たなくては…」という人がいるかもしれません。そういう人たちに対しても、イエス様は「チャンスはいつでもつかむことができる。神のみことばをきいて守るなら、誰でもいつでも幸運を手にすることができる。マリアのような特別な人だけではなく、あなたも幸いになれる」とおっしゃりたかったのではないでしょうか。
運命、天からの定め、という考え方もあります。神のかたちに似せてつくられた、ということにおいての運命は、神様は私たち人間に与えられました。この中にあって私たちは、神のみことばによって、さらに幸いから幸いを得ることができる。このことをイエス様は教えておられるのです。
【考えてみましょう】
『私は幸いです』と言える、あなたの基準についてはっきりさせておきましょう。周りと比べて幸いかどうかを考えることが多いのではないでしょうか。何をもって「自分は幸せだ」と言えるのか、基準をはっきり持っておくことがたいせつです。
幸いの基準はその人の信念によって決まります。何を人生の生きがいとするか、ビジョン・目標・目的によって、幸いは明確になります。神様の御前に正しい良心をもって考え、答えを出しましょう。そうすればどう生きていくべきか、はっきりしてきます。
幸いは人によって違います。イエス様の言われた幸いを、「神のみことば」という点からみていきましょう。
2.どうして「神のことば」なのか?
A)すべては「ことば」から始まった(ヨハネ1:1−3)
“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。”
すべての存在は、神のことばによって存在し、神のことばによって成り立っている。神のことばに逆らうことは、存在の成り立ちを崩すことになる。
ノン・クリスチャンの心理学者もこのみことばを用いてことばの大切さを教えています。創世記では、神がことばによってあらゆる存在をつくり上げられた様子が記されています。
私たちが人の名前を呼ぶと、その人が振り向いたり、返事をしたりします。ことばを発すれば、何らかの現象がおきます。ことばは行動を起す要因となるのです。だから、神様が「光よ。あれ。」と言われたとき、光ができたのです。そのように、ことばには周りを動かす力があるのです。
【考えてみましょう】
願いや目標を実現するために、それを告白し続けることと、そうでないのとでは、どのような違いがあるでしょう。
人に頼みごとをするとき、最初は聞いてくれなくても、あきらめずに頼み続けるなら、いやいやでもしてくれるものです。告白し続けることの大切さです。あなたは願いごとをどれくらい神様に求めているでしょうか?
ただ、「こんなに祈っているのに!」という思いで祈っていても答えられないかもしれません。恵みは祈りの代償として要求するものではありません。それは報いです。これでは感謝が薄れてしまいます。恵みの意味をよく考え、神様に失礼のないように、神様が恵みを与えたい、と思われるようなへりくだった心をもって祈り求めましょう。
B)神のことばには権威(力)がある(ルカ7:7−8)
“ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。”
百人隊長は、権威のあることばについて悟っていたので、イエス様にことばだけを要求しました。百人隊長は部下が病気になったので、いやしていただこうとイエス様のもとに使いを送りました。イエス様に来ていただいて祈っていただくというのが普通の人々の考えですが、彼は違いました。彼は軍隊生活の中で権威あることばについて悟っていたのです。
たとえ権威者が語ったとしても、聞く側がそのことばに対して権威を認めず、軽んじる態度で聞いていたら、どんなに力あることばでもその人には何の変化ももたらしません。尊敬をもって聞くからこそ、そのことばに従う。そしてことば通りの結果が成り立っていくのです。神から遣わされた救い主、権威あるお方、イエス様が言われるなら、すべてのものは、たとえそれが病気であっても従うのだ、という悟り、神への信仰を百人隊長は持っていたのです。
私たちも、神様のみことばを最高権威者のおことばとして、尊敬して受けとめて聞くなら、このおことばには悪霊でさえも逆らうことはできないのだと尊敬し、心にもって信じていくなら、そのみことばの力が発揮されていくのです。私たちはこのことを悟ることが必要です。
【考えてみましょう】
尊ぶべきことばを尊んでいるでしょうか?
すべてのものは神のみことばによって成り立ち、神のみことばによって宇宙の秩序は保たれています。神のみことばに逆らうことは、この秩序を乱すことになり、その人自身にも決してよいものをもたらしません。かえって災いにあうことになりかねません。ですから神のみことばを敬うことが大切です。また、神のみことばは宇宙を治める権威者のおことばですから、力があります。この力あるみことばを信じていれば、そのみことば自体の力が、物事を動かすのです。この2つの点から、神のことばを聞いて守る人たちが幸いである、と言えるのです。
3.「聞いて守る」ことについて
私たちがルカ11:28の幸いな者となるために、次のようなことに注意しておくことが必要です。
★(ルカ8:18)
“だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。”
どうして「聞き方に注意」しなければならないのかを考えてみましょう。
そのヒントが次のみことばです。(マルコ4:9)
“そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」”
「聞き方」と「聞く耳」の共通点は、聞くときの心の姿勢にあります。正しい良心で聞くか、自己中心の肉の欲求の心で聞くか、あなたの心の態度によって受けとめ方が違ってきます。神を敬う心で聞くか、神は単なる自分の願いをかなえてくれる存在であるという位置付けで聞くかによって、意味の捉え方が違ってきます。聞き方に注意しましょう。「聞いて守る」ということは、語られるお方、神様への尊敬があるということです。尊敬があるからこそ、聞いて守れるのです。
アテネオリンピックの最終競技、男子マラソンである大変な問題が起こりました。ゴールまであと6kmの地点、先頭を走っていたのはブラジルの選手でした。2位との差は40秒以上、このまま行けば金メダル確実と言われていました。しかし突然、沿道からひとりの男性が飛び出し、この選手にとびかかって押しのけてしまいました。ペースを乱され、この選手は後続の選手に抜かれてしまいます。そして何とか3位でゴールしました。彼が競技場に入ってきたとき、このアクシデントを聞いていた人々は、大きな拍手で彼を迎えました。なんと彼は、喜びいっぱいに両手を振りながら応え、天を指差してゴールテープを切りました。この選手の様子は多くの人々に強い印象を与えました。競技が終わった後のインタビューで、彼はある記者から「誰かを責めることはありますか?」という内容の質問を受けました。大会の役員や責任者など、訴えようと思えば訴えることのできる状況にありました。しかし、彼の答えはこうでした。「誰も私は責めません。今回のような事件は、どこでも起こりえること。ただそれが、マラソンレースの最中に起こった、というだけです。」人はどこでどのような災難に遭うかわからない。それをマラソンレースの中で受けただけ。すべての人は人生の中で何らかの問題にあうでしょう、という捉え方です。さらに彼は続けました。「私があのまま走っていれば1位になれたかどうか、それはわかりません。しかし、もしかしたら、私はオリンピックの歴史に名を残すことができたかもしれない。そうならなかったのは、神様が私に『オリンピックで勝つことがいかに難しいか』を教えようとしたからです。」彼はクリスチャンです。3位でゴールしたとき、ブラジルのために栄誉ある銅メダルを獲得できたということを喜んでゴールしたそうです。1位を逃したというのではなく、3位に入れた喜びを神に感謝したのです。災難に対する不満の感情よりも、神への感謝を優先させた、この選手の「神のことばを聞いて守る」、その姿勢が彼に幸いをもたらしたのです。
彼の神への敬虔な心が、スポーツマン精神以上の、人間としての姿勢として、世の人々の心に多くの感動を与えました。何が幸いなのか、何が幸いするのか。この選手の姿勢からも学ぶところがあるのではないでしょうか。
「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守るそれを守る人たちです。」
この一年をかけてこのみことばに歩み、神の幸いのうちを歩んでいきましょう。
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