■2009年12月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   使者命令 ししゃめいれい  up 2008.12.27


神のことばを委ねられた、神から遣わされた者のこと。
神は、悔い改めて福音を信じた者を、
神からの和解の使者としてこの世に遣わされた。


これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
(第2コリント5:18〜20)


 

 

 私たちは、神のおことばを人々に伝え、そのことばを通して、神が語っておられる和解のことばを実現していく使者として、この地上に残されています。神の子として自覚すると共に、神様が私たちをこの世に遣わしてくださっているという自覚も必要です。このために湧き上がってくる使命感を心に燃やしてほしいという神様のお気持ちを皆さんにお伝えしたいということで、このみことばが選ばれました。

1.神様の切なる願い(第2コリント人への手紙5:20)
“こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。”
 「懇願」とは、上のよい立場から下の悪い立場の者に圧力をかけて和解を要求する時の言葉ではなく、「ぜひとも受け入れてほしい」というへりくだった心から出てくる願いです。そこまでしてでも私たちとの間に和平を結び、良い関係でありたい神様の気持ちを知ることが大事です。神様は私たちとけんかをしたくないのです。私たちと平和でありたいと願っておられるので、寛容で忍耐深いのです。神様のそのようなお気持ちを私たちが無視していたら、わがままで自分勝手な要求ばかりをし、応えられないとけんか腰の愚かな態度を取ってしまうことがあるのではないでしょうか。そういう悟りのない愚かな私たちに、「お願いだから、かたくなな態度を取らないようにしてほしい。」と神は懇願しておられます。

★和解契約成立の要件
 多くの人は、神様と争っていることに気づきません。(第2コリント5:20)のことばは、クリスチャンに語られたことばです。パウロは、コリントの教会がクリスチャンになって一度は神との和解を受け入れても、その後心をかたくなにしている状況があることに気づいていなかったのを見て、“神との和解を受け入れるように”勧めているのです。私たちは毎日、神との和解の成立の中にいることが大事だと、パウロは語っています。

A)当事者間に争いが存在すること(ヤコブの手紙4:4)
“貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。”
 クリスチャンでありながら、いつの間にか神を敵として歩んでいることに気づいていないとしたら、その問題点はどこにあるのでしょう。神が寛容と柔和を尽くして「右に行きなさい」と勧められる時に、私たちは「左に行きたいのだ」と自分の意志を通そうとして、神の思いと逆方向に行こうとするなら、すでに神の敵となる状況に陥り始めているのです。
 完全な神のことばを受け入れていくなら、神との和解の関係にありますが、そうでないと自分の願いを通したくなり、自分の思いを主張していき、争いが始まってしまいます。こういう時こそ、和解を考えなければなりません。

B)当事者が互いに譲歩すること(第1ヨハネの手紙4:11)
“愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた愛し合うべきです。”
 譲歩が互いになされないと、争いは続きます。このみことばを“神がこれほどまでに私たちに『譲歩して』くださったのなら、私たちもまた『譲歩し合う』べきです。”と読んでみてください。「互いに愛し合う」とは「互いに譲り合う」ことです。神様はどれほど私たちに譲歩してくださったことでしょう。何もかも完璧にはできない私たちを、「ただ救い主を信じるだけ」で赦すという、信じられないような譲歩をしてくださったのです。これほどの譲歩の価値に全く気づかないというのは悲しいことです。イエス様の十字架の贖いのみわざは、神様の私たちへの愛の証、譲られた証しだと知り、私たちも互いに譲歩し合い、神様との間の和平を保つこと―すなわち、私たち人間同士が争うことも、神に敵対する態度だと気づかなければなりません。神は、私たちが互いに和解を持って愛し合うことを願って、ご自分との和解の成立のしるしとされるのです。個人的にだけでなく、人類としても神との和解を保ち続けようではないかと、ヨハネは聖霊様を通して教え示しています。

C)争いを解決する合意をすること(マルコによる福音書1:15)
“「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」”
 この合意のしるしが、(マルコによる福音書1:15)です。神が和解を成立し合意する証として、救い主イエス・キリストを遣わし、十字架にかけて、私たちの罪の贖いを実行してくださいました。後は私たちが「悔い改めて、福音(救い主イエス・キリスト)を信じる」ことが、合意する証です。合意に「悔い改め」がいかに重要なことでしょうか。一般的には、今まで自分が主張していた価値観を、いろいろな交渉を通して合意に至ります。神の国には罪を持ち込むことができないので、神ご自身が譲歩され、「あなたがた全ての罪を贖うので、ただ信じてついてきてほしい。」と言われることに対して、これを受け入れることが私たちの譲歩です。すなわち、神を信頼して、自分の価値観を改めて、神様について行く決心をすることが合意の証であり、いつも意識し、自覚し、和平の中にある自分の存在を喜んでいただきたいですね。

【心を探る時】
 ではどうして神との和解が必要なのでしょうか(これは神様との和解を築くために重要な質問です)。今、私たちは意識していなくても、国家の権威の中で守られています。その権威に反抗し続けていくなら、最後は警察に捕まえられ、処罰されます。同様に、宇宙の支配者であられる神に反抗していても、今は生かされていますが、いつかは裁きの時がやってくるので、それまでに神と和解をすることを、神は願っておられます。刃向かう者でも、統治下の一人としてその権利を認めつつ、公平な裁きを下されます。

2.和解のための使者(第2コリント人への手紙5:18〜19)
メこれらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。”
 これが本題です。神は、救い主を受け入れた者に、違反行為の責めを負わせず、むしろ赦されて和解を得た喜びを神に代わって多くの人々に伝え、和解成立を受け入れるよう勧めてほしいと願って、使者として立てられました。洗礼を受け、水から上がってくる時は、以前のあなたではない、キリストと共によみがえった和解のための使者として、この世に遣わされるためです。この「和解のための使者」という自覚こそ、地上の目的であり、使命です。それを拒むなら、地上で生きている意味がなくなります。どんな状況、状態であろうと、神の和解を人々に紹介し、勧めるために、神からこの地上に遣わされていることを忘れないようにしたいものです。

A)「和解のことばをゆだねられた」
「和解のことば=キリストの福音=ことばなる神であられるキリスト」
【考えてみよう】
「救い主として来られたイエス様は、神の和解のことばとして、この地上で語り教えられた。あなたにとって、その和解のことばとは何ですか?」

B)和解のことばをゆだねられた務め
「『務め』=使者、使節、大使
  国家を代表して他国に派遣される外交官。特命全権大使。」
 『務め』=英語でミニストリーとも言い、政治家をも指す
【考えてみよう】
「悔い改めて福音を信じた私たちは、なぜこの世での人生を送らなければならないのでしょう。教会は「神の使節団」であるという観点から考えてみましょう。」
 神の国を代表して、他国であるこの世の人々に、神のお気持ちを勧めるために派遣された外交官です。何とかして神様のお気持ちを実現するために、和解工作をするような心構えで、新しい年を歩んでまいりましょう。

【使者命令】の人生(ローマ人への手紙5:11)
“そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。”
 使者としての自覚を高めるために、(ローマ人への手紙5:11)のみことばが大事なポイントになります。神と和解する理由を悟り、和解を成立させた人は大いに喜ぶはずです。あり得ないことですが、いくら交通違反をしても国が罰金を全額払ってくれるなら、大いに喜びますよね。これを神はしてくださったのです。違反は償われるので、他の運転者になるべく違反しないように説得し、ルールを守るよう勧めてほしいと警察のバッジを渡され、警察の一員として指名されるようなものです。これが(ローマ人への手紙5:11)の内容なのです。違反した自分が赦され、しかも違反をしないようにと他の人に勧めることができる権威をくださったー喜びが溢れると、使命感も自ずと強くなります。喜びがないまま福音を伝えることは、ありがたさもわからないので、使命感に燃えません。私たちが気づくべきことは、福音を伝える動機として、神との和解が成立していることを大いに喜ぶことがなければ、福音を伝える使命感は湧いてこないということです。
 新しい年には神との和解の成立がされ、私のような違反者でも赦され、責任をゆだねてくださった感謝をお返しとして広げていきたいと、キリストの証人としての人生を全うしていきたいですね。

★「命」と「令」
「上から下に向けられた「口』の形の下に、人がひざまづいて姿が描かれているのが「令」という漢字です。
それに「小さい口」が加えられているのが「命」という漢字です。
それで、『天からのいいつけ』『みことのり』という意味があります。」
」は口を表わし、上から下に向いているので、天からのことばを表し、「」は頭を垂れてひざまずいている人の姿を表します。
「令」は天からの言いつけを聞く姿勢であり、(人の)口を加えて「命」となります。天から語られたことば(みことば)、和解のことばを私たち人間が告白し、行動するという意味があります。「命」は聞いたことを実行していく時、輝いていきます。
「天からの和解のことばをゆだねられた私たちのうちに湧き上がってくる喜びは、「使命感」に変わるのです。」
 「私たちは使命感を持って、和解のことばをこの地上に勧めていくという、和解成立の務めをいただいている者として、歩んでいきましょう」という気持ちを、新しい年に向けて目指していただきたいと思います。

 

 

 

 

  

 

■2009年12月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   不言実行 ふげんじっこう  up 2008.12.20


文句や理屈を言わないで、自分の信じることや、
やるべきことを黙って実行すること。


イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
(ルカ11:27〜28)


 

 

 イエス様が公的生涯を始められると、「特別な方イエス」を産んだ母マリヤをうらやむ人が現われました。しかし、イエス様はご自分の母マリヤをうらやむよりも、「みことばを聞いて守る人」になることを勧められました。本当の幸せは「特別な人」に与えられるのではなく、ごく平凡なひとりひとりに与えられているのです。その幸いを考えていきましょう。
 さて、約400年前のスペインに一人の偉大な伝道師がいました。イエズス会所属の彼の名はバルタザール・クラシアン。彼が残した多くの言葉は、今もたくさんの著名な文学者に影響を与え続けていますが、その中にこのような言葉があります。「勤勉さと才能が揃えば、頂点に立つことができる。どちらかを選ぶなら、才能は普通でも勤勉な人の方が、頭は切れても怠惰な人に勝る。実を結ばないのはたいてい、コツコツと働き続ける意欲に欠けているからだ。才能が足りないのではない。」彼自身も多くの試みに遭いながら、「神は耐えることのできない試練にあわせるような方ではない」と信頼を置いて乗り切ってきました。悩みの日も、苦難の時も、正に「コツコツと」信仰を積み重ねて来たのです。
 このクラシアンの言葉を重ねて実証したのが、かの有名なアインシュタインです。彼は言いました。「私は天才ではない。ただ、他人より長く、一つのことにつきあってきただけだ。」一つの事象について、「コツコツと」ひたすらに取り組んだ結果が、彼の成功をもたらしたと言うのです。天才としての部分はともかく、彼の取り組む姿勢は私たちにも習うことができるのではないでしょうか。
 現代は忍耐とか持久力とか言ったものが軽んじられる時代です。人々は新しく早く手軽なものを求めますが、そればかりで本当にいいのでしょうか。幸いを得、見つけ出すというのは、何か一つのものにつきあっていくことによって、可能になっていくものではないかと思うのです。ここで更に私たちクリスチャンが考えたいのは、神のことばに長くつきあっていくということです。このことによって私たちは、人生の頂点に上りつめることができるのです。

1.女が言った言葉を考える
“「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」”
A)イエス(救世主)の母に対する、同じ女性としての称賛の言葉。
 同性としての共感する気持ちです。ファンが、応援する相手と同じ気持ちになるようなものです。
B)良い息子を育てた幸せな女性という、結果論的称賛の言葉。
 当たりくじを引いた人に対するような気持ちです。
C)メシヤの母として、神が選ばれた運命論的女性への称賛の言葉。
 自分では絶対にどうすることもできない運命に対するような気持ちです。
「これらは、特定の人のみが『しあわせ』な状況に置かれていることを表しています。そして、すべての人が『しあわせ』にはなれないことをも含んでいます。」
 特定の共通点を持つ人だけが幸せになるのでしょうか?あるいは良い結果を出した人だけ?更には宿命として選ばれた人だけが幸せに?この考えの中では不特定大多数の一般人が蚊帳の外です。イエス様に叫んだこの女性は、マリヤを称賛しているようですが、実は凡人たる自分を嘆いているのです。
【考えてみよう】
「うらやましく思う気持ちはだれの内にも湧き上がってくるものです。その気持ちを、どのように扱えば良い意味での「うらやむ気持ち」となるのでしょう。」

2.イエスのことばを考える
“「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」”
 【いや】⇒特定の人だけが幸いなのではない。
 【聞いて】⇒耳を傾ける、心を向ける、心を開く、関心を持つ
自主的に心を開き、耳を傾けることは、誰にでもできることですね。特別な行動や思いではありません。
 【守る】⇒神のことばを実行すること。
^結果が出ていない人
「神のことばの結果が出るために、日々実行し続ける人。」
_結果が出ている人
「神のことばの結果が出たことを保ち続けるために、実行し続ける人。」
 結果が良ければ、それを保ち、さらに進めるために、結果が悪ければ、良い結果にたどり着くために、実行し続けます。
この人たちに共通なのは、続けていることです。大事なのは「コツコツと続ける」ことなのがわかります。
「幸いになれるかどうかは、本人の自由意志にかかっている。」
 決定権は自分にあります。誘う者や妨げる者が別に存在したとしても、最後に決めるのは自分自身です。誰も心の中までは動かせないのですから。誘惑する者は確かに悪いのですが、誘惑に乗る意志決定をしたのは自分自身なのです。この責任は自分が取らなければなりません。
【考えてみよう】
「キリストのご降誕は、罪人の救いのしるしとともに、自由意志を決定される神の愛の証しでもあるのです。与えられた自由の重みと神のみこころを考えてみましょう。」
 前に述べた事柄とあわせて考えると、次のように言うことができます。
『神様は、私たち罪人を、イエス様の贖いによって救われましたが、その後もなお、私たちの意志決定を、私たち自身の自由意志に委ねておられるのです。』
 罪人には普通、自由は与えられないものです。否応なく刑に服させられ、拘束されます。私たちは何の罪を犯したのでしょうか?神を無視し、いないかのように振る舞う、「神殺し」の罪です。しかし、その私たちに『永遠のいのち』を選ぶことのできる『自由』をくださったことの証が、イエス様のご降誕なのです。
 今、地上で悪と思われていることの全ては、人の自由意志が悪へと動いた結果です。神様のあわれみによる自由意志の権利を悪用するなら、もはやあわれみの働く余地はありません。神が与えてくださった自由意志を正しく用いるか、悪のために用いるかは、今も皆さん一人一人の心に委ねられているのです。自分の意志が決めているとなれば、もはや言い逃れは不可能です。だからこそ、今示される正しい道について心を開き、耳を傾け、実行していくことに心を砕いてください。今の時点でどんな罪人であったとしても、イエス・キリストを信じ受け入れたなら、神の国においては義人として扱われるのですから。

3.真理である神のことばを【不言実行】しましょう
 マリヤはなぜ、神様に選ばれたのでしょうか。彼女なら、これから起こる試練に耐えられると見られたからです。まだ処女で、年若い娘であるのに、この戒律の厳しいユダヤの社会で突然妊婦になったなら、どんな苦しみと悲しみが彼女に襲いかかったでしょうか。「未婚なのに密通した汚れた女」と軽蔑され、いわれのない迫害を受け、彼女はそれを耐え忍んだのです。この時代では、「汚れた女」は殺されても良い、むしろ殺されるべき存在でしたから、命の危険さえマリヤにはありました。
 イエス様は確かに神の御子であられたけれども、公生涯に入られるとか、それがいつであるかとか、マリヤにはまるでわからないことです。にもかかわらず、苦しみと悲しみに耐えることを選んだマリヤの信仰姿勢があったからこそ、彼女は選ばれたのです。自分に置き換えてみた時、果たしてこのマリヤと同じ姿勢を持つことができるでしょうか。
★(ヨハネによる福音書13:34)
“「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも愛し合いなさい。」”
「神を愛する者、敬虔な人は、自分を含めて『人』を大切にします。『互いに愛し合う』ことは、人に与えられた一生の課題といえるでしょう。」
 人をとことん愛していくことによって、神の愛の源を悟ることができます。あなたは自由ですが、神のみこころは、あなたが御国に向かうことです。これを実践した有名な人にマザー・テレサがいますが、彼女がある日出会った男は、みなりは小ぎれいなのに、ぐでんぐでんに酔っぱらって、道に転がっていました。彼は問いかけに答えず、どこの者かもわからないので、彼を連れて行って、シスターたちが献身的に世話をしました。彼は何も言わず、シスターたちの世話になっていたのですが、ある時突然口を開いて言う事には、「あなたがたのおかげで、私は神の愛を信じることができました。私は家に帰ります。」彼は家に帰り、しばらくして小切手を持って戻って来ました。「あなたたちが私にしてくださったように、他の人にもしてあげてください。」彼はまた自分の家に帰っていきました。シスターたちを通して神様の愛に気づいたことで、彼は家の者や周りの者を再び信じ、その中で自分のなすべきことをすることができるように回復されたのです。
 この男のように気づく人ばかりではありません。神の愛に気づかず、シスターたちの心のこもった親切を受けても、何の反応もなく消え去る人も数多くいます。しかし、反応のあるなしにかかわらず、シスターたちの奉仕は今も続いています。マザー・テレサはもういないけれども、シスターたちは、内にある神様の愛のゆえに、自分自身の意志で働きを続けています。
 同じように私たちも、イエス様の教えに従って歩み続けることのできる自由意志を、自分の中に与えられています。このすばらしい贈り物は、イエス様のご降誕によって与えられました。ですから、イエス様のご降誕に心からの感謝をささげていきましょう。
「この課題は、永遠の課題ではありません。主イエス・キリストの再臨の時までのものです。」

 

 

  

 

 

 

■2009年12月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   空前絶後 くうぜんぜつご  up 2008.12.13


これまでにも一度も経験がなく、
今後も絶対にあり得ないと思われるような珍しく貴重なこと。


私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
(ガラテヤ4:3〜5)


 

 

 イエス様のご降誕の意味について学びを続けています。イエス様のご降誕の意味の一つめは、「神のさばきがあることの確証」でした。二つめは「ことばなる神が実際に人となられて地上に来られただけでなく、私たち自身も神のことばとして地上の人生を歩むことができることを示している」ということでした。
今週は、「私たちが神の子としての身分を受けるための定めの時が、イエス様のご降誕であった」ということについて学んでいきたいと思います。
 イエス様のご降誕から始まる、神の御救いの時は、私たちが神の子として立ち返り、回復され、元々のご計画に順応して歩むためのものです。罪人が一方的な恵みによって赦されて、永遠の御国に入るという、とんでもない奇跡がここに現されました。まさに「空前絶後」、永遠の中でただ一度きりのものです。この「永遠の中でたった一度の奇跡」を味わうことができる私たちの幸運を、よく考えてみてください。さらに「再臨」という奇跡までが待っているのです。イエス様がお生まれになってから約2千年の間に生まれた者だけが味わえる、この二つの奇跡の時に私たちは存在しているのです。

1.「小さかった時」について(ヘブル人への手紙5:13)
“まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。”
「『小さかった時』⇒時に歩き始める前の赤ん坊。乳児。児童、未成年者、未経験者、初心者。」
「正しいことをしつけられなければならない⇒律法が必要な時期。
欲求のまま、感じるままに生きる。自己中心的考えや行動。」
 幼子とは言うなれば未熟な者です。キリストが来られるまでは、みな神様の深いお心、その真実を知るよしもなく、信仰的にも霊的にも幼くしかいられませんでした。それは教えとしつけを受ける時期でもありました。小さく未熟な者ほど、自分の欲求を通そうとします。自分を中心に世界は回る、のです。霊的幼子の場合も同様で、聖書の教えより自分の気持ちが先に立ってしまいます。社会的成人は社会全体のために動きます。霊的成人も、神様が愛されるすべてのもののために動くのです。
【考えてみよう】
「霊的幼子のままで過ごすことが、どうしていけないのでしょうか?」
 社会的に子どものままでいることの問題点を考えて、霊的な子どもに置き換えてみればわかります。社会的に実は大人でありながら、まだ親に頼り、自分の責任を果たさず、周りを顧みないで迷惑ばかりかける人を見たら、あなたはどう思いますか。
 同じく、もう何年も何十年も教会に来て神様のことを学んでいるのに、まだ聖書のことばに規制や圧迫を感じ、反発する心がある人は、まだ大人になっていない部分があることを、神様の前に反省し、悔い改めましょう。

2.「定めの時」について(第1コリント人への手紙13:11)
“私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。”
「定めの時=時が満ちること。区切りとなる時期。次に進むこと。
      未成年の時を終え、成人の時期に入るときがやって来た。」
「定めの時が来たなら、それまでのことをやめて、つぎのことをする。
定めの時が来たことのしるしが、キリストのご降誕である。」
 キリストが来られたからには、もはや子どものやるようなことはやめて、大人として歩むようにとパウロも言っています。
御霊によって神の深いお心と、その真実を知り、また正しい良心に従うことのできる自由も与えられている私たちが、自発的に神様の御心に従うようにと、神様はこの恵みの時期を与えてくださったのです。
【考えてみよう】
「『小公子』の話を知っていますか?私たちに空前絶後の機会が与えられているのです。」
 アメリカにいた少年セドリックが、イギリスの伯爵である祖父の元へ跡継ぎとして呼ばれた時の驚きを想像してみてください。見渡す限りの広大な土地がすべて祖父の領地であり、数多くの領民たちが彼に挨拶しました。立派な館が広い広い庭の果てにそびえ立ち、数えきれない使用人たちが彼を歓迎しました。館内にはセドリック専用の部屋がいくつもあり、オーダーメイドの服がずらりと並ぶ衣装部屋や、セドリックのためにわざわざ買われてきた子馬や、遊び部屋に山のように積まれたおもちゃなど、父を亡くして母一人子一人でつつましく貧しい暮らしをしてきた少年には、天地がひっくり返るほどの衝撃だったはずです。しかし、あなたにはそれ以上のもの(永遠のいのちと神の国の後継者)が待っているのです。
 正しく良い後継者としての道を歩むべき時がきたのです。神の子としての学び、訓練を受けることをいとわないようにしましょう。

3.子であり相続人でもある(ガラテヤ人への手紙4:6〜7)
“そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。”
「『子であるゆえに』=救い主を受け入れていることのゆえに」
「『アバと呼ぶ御霊を心に遣わされた』=親子のつながりのしるしとして」
「『神による相続人』=神様の規定にそった御国の跡取り」
 生みの親という言葉がありますが、子どもというものは不思議に、自分をこの世に送り出した親を求めるところがあるようです。私たち霊の子どもたちも、御霊が内に遣わされていることによって、神の実子であることができます。神様と私たちは実の親子であり、家族なのです。家族だから、けんかしても仲直りできます。横柄な無作法をしても許されます。御霊は霊的遺伝子なのです。どんなに神様に反抗しても、無視していても、実の親子なのだから、絶対忘れられません。教会に来なくなってずっと経っても、何かあるとやっぱり戻って来ることが数多く見られるのは、親である神様を頼りたい、会いたいという気持ちがどこかで働くからです。
 神様ご自身も子どもを忘れたりされません。放蕩息子の帰りをずっと待っていた父のように、毎日首を長くして、離れている子どもが帰ってくるのを待っておられます。神様は簡単に御霊を取り去ったりされません。御霊ご自身もどんなに居心地が悪くても忍耐して、その人が滅びに向かわないようにと働きかけてくださっています。御霊様がいなくなってしまったら、その人は間違いなく滅びてしまうのですから。
 私たちのためにあらゆる犠牲を払って、これほどまでに愛してくださる神様が、滅多なことでは私たちから御霊を去らせることはない、とあなたは信じることができませんか。きっと信じることができるはずです。
 もしあなたが誰か教会を離れている人を知っていたなら、神様がその人の帰りを今も待ち続けておられ、救いに戻そうと働いてくださっていることを思って、その人のために祈り続けてあげてください。どの位教会から離れていても、何年でも何十年でも、神様の心は決して変わらないのですから。

【考えてみよう】
「私たちが、神の子であり御国の相続人でもあることが明らかにされたことによって、人生に対する考え方がどう変わりますか?」
 上に述べたことをふまえてみると、自分の人生への見方は大きく変わると思います。どう変わったかを、ぜひご自分のことばで考えてみてください。
「キリストのご降誕と再臨は、人類救済のために与えられた「空前絶後」の機会です。クリスマスの意味を深く味わいながら、また人々にも伝えましょう。」
 キリストご降誕から再臨までの約二千年間は、永遠の中で人類救済のために与えられた、ただ一度の機会なのです。そう考えると、今ここに生まれて、生きている自分の幸いを心から感謝できるはずです。クリスマスはこの感謝と喜びをもって過ごしましょう。

 

 

 

 

 

■2009年12月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   世住神言 せいじゅうしんげん  up 2008.12.6


神のことばは、私たちの世界に来られ、この世に住まわれた。


ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネ1:14)


 

 

 「ことばが人となって…」直訳すると、ことばが肉体を持って私たちの間に住まわれた(営みをもたれた)ということですね。これは、イエス・キリストが地上に来られたことを表現しています。先週、イエス・キリストのご降誕は、さばきの前に与えられた救いの成就であり、神のさばきが必ずあるしるしだとお話しました。今週のみことばを「世住神言」という四字熟語で表しました。「ことばなる神が私たちの間に住まわれた」、すなわち降誕以降のキリストの人生は、私たちにどんな意味をもたらしているのかを考えてみましょう。

1.「ことば」について(ヨハネによる福音書1:1〜4)
“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。”
(1)ことばは、世界が存在する前から存在していたものです。
(2)創造主なる神も初めのない方で、神の存在そのものが初めであり、時間に束縛されません。ことばも同様に時間に左右されず、歴史上に残り続けています。
(3)さらに神のことばによってすべてのものは造られ、世界を造られました。
(4)聖書が語る「いのち」とは、常に成長し、前進し、良いものを吸収していき、躍動的であり、肯定的な性質があります。
(5)この、ことばが光であったと表現されているのは、光の特徴を通して、希望、喜び、暗やみを照らすもの…といろいろ考えることができ、光の特性から「いのち」を考えることができます。
 このようなことばが人となって、私たちの間に住まわれました。ことばが肉体を持ったとは、ことばが行動を起こす体を得たということです。私たちは神のことばを持っているのか、自分の体験、経験によってことばを作り出してきたのか、あるいは邪悪な暗やみのことばをもっているのか…。神のかたちに似せて造られた私たちは、当然、神のことばを宿す者なのです。そして、神を敬う敬虔な者は、ことばを大切に使う生き方をします。やみくもに言葉を発さないよう、気をつけましょう。

2.「ことばによって生きる」について(マタイ4:4)
“イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」”
 イエス様は神のことばなる方ですが、この世で営みをもたれた、つまりことばをもって生涯を送られました。人は肉体だけでなく、内にことば(特に神のことば)で養われることが大事です。イエス様は神のおことば通りに生きることを徹底されました。これが神に造られた本来の人間のあるべき姿であり、私たちのお手本を地上に送ってくださったといえます。今回は「ことばによって生きること」を2つの失敗例を通して考えてみましょう。

A)アダムとエバの失敗(創世記3:6)
“そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。”
 アダムもエバも、神様から「食べてはならない」と言われていたことを知っていました。それを食べさせようと蛇が誘惑し、誘惑に負けたエバが食べ、エバに勧められたアダムも食べました。「誘惑した蛇が悪い」と言う人もいますが、「食べてはならない。」と聞いていたわけですから、誘惑した者が悪いとは言えません。誘惑は禁止されているからこそ、やってきます。なぜアダムとエバは誘いに乗ってしまい、欺かれたのでしょうか。
「彼らは、神のことばを選ばず、自分たちの感じることの方を選んだ。『見ると〜いかにも好ましかった。』⇒神のことばを惑わせる原因。」
 神のことばを惑わせる原因は、感じたものが真実、事実であるかのように思わせる、私たちの感覚、感情です。ないものをあるもののように感じさせると、罠にかかります。真実は「食べてはいけない」と語っていても、誘惑は「食べるとすばらしい」と欲を起こさせ、感覚を呼び起こします。食べたことのないものに対して、好ましいという誘惑をもたらしてきます。感じるまま生きることが幸せという現代社会では、五感が真実と捉えさせます。しかし、事実と真実は違います。感覚は、ありもしないことさえ感じることができます。
 アダムとエバは、エデンの園にあるたくさんの木の実を食べて「おいしい」という味覚を養っていました。蛇の誘惑に対しても、体験を通して「善悪の知識の木」の実の味を想像したのです。そして想像上の味覚が神のことばを退けてしまったのです。気をつけなければなりません。神は偽られる方ではありません。神のことばが真理です。神のことばと私たちの感覚が違っていても、語られた方のおことばを信じることが正しいのです。不敬虔な人は、神のことばがすべて正しいとは限らないと思い、無意識に神より上に立って物事を考えてしまいます。
 ではクリスチャンはどうして、神のことばが100%真実だと信じることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架が、預言者を通して語られた救い主が来られることが成就し、神が私たちへの愛を表してくださったしるしであり、その方のことばとして受け止めるからです。神の愛を知ったから、神のことばが真実だと受け止められるのです。愛を知らない人は、1つ1つのことばを確かめないと信じられません。神の愛は、私たちを陥れるような空しい愛ではなく、真実な愛です。神のことばを優先できないのは、神の愛に十分気づいてないからでしょう。キリストの死・葬り・復活が、神の私たちへの愛だと黙想し、神の霊によって感じ取ってください。

【考えてみましょう】
「神のことばが正しいことを知っていても、その重要性を感じていなければ誘惑から勝利することが難しい。神のことばによって生きる、を考えてみましょう。」
 感覚が判断の重要な基準になっているのをすぐさま変えるのは難しいでしょう。みことばの重要性を感じていれば、誘惑に負けることはないのです。その重要性をつかむには、言われた通りに行ってみるか、もしくは言われた通りに行わない体験をしてみることです。そして出た結果を身をもって体験すると、二度と誘惑に乗らなくなるでしょう。しかし重要性を感じない人は何度でも罪に走るでしょう。クリスチャンは正しい良心をもって神を敬うので、小さな失敗や罪を通して学び、賢く行います。みことばによって生きるとは、単に知識としてでなく、その重要性を感じ取っていく生き方であると考えてみてください。

B)カインの失敗(創世記4:6〜7)
“そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」”
 カインは、自分のささげ物が受け入れてもらえなかったので怒りました。しかも、弟のささげ物は受け入れられたので、怒りはよけい募りました。この感情の乱れ、特に怒りというのは、善悪の見境をなくさせる特徴があります。知識で殺人はよくないとわかっていても実行してしまうのは、怒りや憎しみの大きなエネルギーが働いているからです。カインはどうして、アベルを殺してしまう方向へいってしまったのでしょうか。私たちも、怒りを発散してしまわなければ気分が収まらないということはあります。しかし、人殺しをしてしまっては、取り返しがつきません。カインの失敗は、ささげ物のささげ方が悪かったという点ではありません。私たちでも、神を畏れていても、能力の違いもあり、みことばを十分理解して行える人もあれば、そうでない人もいます。
 カインのささげる動機が悪かったことは、彼が怒りを表したことではっきりしました。神の主権を認めず、敬うことが根ざしていなかったので、怒りが出たのです。神は「正しいやり方に変えなさい」と言われているのに、「私のやり方は間違っていない」と、自分の正しさを主張するところに、神を畏れない隠れた自己中心がいつも優先されていることが、怒りとなって引き出されたことによって明らかにされたのです。
 カインは「私は神にこんなに怒りをもっていたのか」と、正しい良心をもって気づくべきでした。しかし、感情で物事を捉えたため、怒りを収められませんでした。感じたものに意識が奪われると良心が働かなくなり、自分をコントロールできなくなります。感情がかき立てられたら治められない人は、「感情が神のことばより優先されている。なんと神を畏れていない自分か」と落胆、失望、自己嫌悪に陥ると、怒りのエネルギーは収められます。
 カインは「私はこんな罪深い者です。あわれんでください。ささげ物をしたことで、間違った心が明らかにされました。悔い改めます。」と言うことができませんでした。神様の方法があるのに、「自分は正しいことを一生懸命したのに、神様は認めてくれなかった…。」と。この感情が真実を見えなくするのです。熱心さが自分の正しさとなり、かえって感情的正しさを主張して、「神様、あなたが間違っています。」と訴えており、隠れた傲慢な姿勢が表れています。神様から「間違い」のサインが来たら、考え直すのが敬虔であり、謙虚さです。カインは変えたくなかったのです。変えることは自尊心を傷つけることになり、どうしても自分を貫きたいという感情に意識を置いていたのです。
方法を間違えたカインに神様は直接、「なぜ、あなたは憤っているのか」とアドバイスを与えられました。にも関わらず、カインは自分の正しさを主張し続け、神の助言ー1つ1つのことばを退けたーこれが問題だったのです。

【考えてみましょう】 
「神様からの助言があったにもかかわらず、カインは罪の罠に陥ってしまった。どうして、神のことばを生かせなかったのでしょう。」
<ヒント>「あなたが正しく行っていないのなら…」
 「正しく行っていないのなら…」とは、ささげ方が間違っていることだけを言っているのでしょうか。「ささげ物を正しくささげたなら、あなたは受け入れられたはずです。ささげ方が悪かったので、そのままにしておくと罪が待ち伏せしている」という助言ともとれますが、もっと深く考えてみると、ささげ方が間違っていたことに対して正しく応答していれば、罪は待ち伏せしなかったはずです。が、ささげ方が間違った後、正しく行っていないーすなわち悔い改めていないー間違いを認めず、自分の正しさを貫き通せば、罪は戸口で待ち伏せ、慕っているというのです。
 ここでも神は、悔い改めの恵みをカインに示しておられます。イエス・キリストの十字架の贖いが実現していない創世記においても、神は悔い改める者にあわれみ深い方です。ささげ方が悪かったことを認めて正しくやり直すなら、罪が戸口で待ち伏せすることはない、とも言われたのです。悔い改めは、みことばに生きるということで、とても大事なポイントです。

3.みことばを住まわせる(コロサイ人への手紙3:16)
“キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。”
 (ヨハネによる福音書1:14)とこのみことばとの関係を見ると、「神のことばが人となって私たちの間に住まわれた」とは、社会生活の中で営みをもたれたということです。が、十字架の実現以降、私たちの罪が処分され、みことばが私たちの内に住むことができるようになられました。神のことばは、私たちの霊の中にあって共に営みをもつことを願っておられ、キリストがこの世に誕生されたことは、神のことばが私たちの内に住まわれ、ことばが人となって受肉されたことを表します。また、あなた自身が神のことばとしてこの世界で社会生活を送ることも、重ね合わせて意味します。キリストだけが、受肉してこの世にお住まいになったのではなく、救い主を信じ、神を敬う者の内にもみことばは受肉され、この世界で営みをもつようになったのです。これを可能にしたのが、キリストのご降誕です。
 「豊かに」とは何不自由なく、安心して、ずっといたいと思える環境を用意することではないでしょうか。みことばを私たちの内に住みやすく、喜んで来ていただけるように、この「豊かに」という準備が必要です。また、「住まわせる」とは単に環境を整えるだけでなく、迎える家の主人との良い関係も大切です。あなたの体はあなたが主人ですが、みことばを迎える時に「地獄に行きたくないので」という理由では、冷たい感じがします。みことばは自分より優れた尊い方で、私を造り、命を与え、ましてや罪を贖ってくださった方ですから、自分が主人の座から降りて「よくいらっしゃいました。」と迎えることが、豊かに住まわせることになるのです。この時に、あなたの内にみことばが宿り、受肉し、ことばが人となって私たちの間に住まわれたことが、あなたを通して実現します。これが、イエス・キリストの降誕を通して可能になった、ということです。こういう生活を送れるように努めていきたいですね。あなたを無くしてしまうのではなく、神である神のみことばを迎え入れ、尊んで豊かに住まわせると、「みことばによって生きる」ことができ、感情をコントロールできるようになります。それまでは自分を主人の席に置き、みことばを下に置いて、「主よ、主よ」と呼んでいるようなものです。「主よ、あなたがここに来てください。私は下に降ります。」と席を入れ替わることが悔い改めです。これが、神が私たちに望んでおられることです。罪を犯さなくなるのではなく、罪を犯す以前の動機を変えることが大事なのです。このことは一日、一週間でできることではなく、生涯をかけて取り扱っていただき、きよめを進めてまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年11月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   成判生救 せいばんしょうきゅう  up 2008.11.29


さばきがあるからこそ、救いがもたらされるの意。
救い主がこの世にお生まれになったことによって、
神のさばきが行われることが確実となったことを表わしている。


神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
(使徒17:30〜31)


 

 

 私たちは、「救い」とは何からの救いなのかを、真剣に考えなければいけません。つらいこと、問題、病気などからいやされ、解放され、救われることが主目的なのでしょうか。目の前のいやなものから逃れることばかり望んでいては、神様が望んでおられる救いには至ることができません。それどころか、目先の願いがかなわない
からといって信仰を捨ててしまうような、ご利益宗教的な信じ方になってしまいます。
 クリスチャンが、周りのどんな苦しみにもめげず、御父と御子を信じ続けることができる理由は、この「成判生救」にあります。この世に対しての裁きが確かにあり、そこから逃れるための救いも与えられているということ。イエス・キリストの誕生と死と葬りと復活が預言書の通りに行われたということは、神のさばきも必ずあるということの証明でもあるのです。
 私たちは神様に対して大罪を犯していますが、今まではあえてそれを見過してくださいました。しかし、来たる未来には必ず処分されます。今は、一人でも多くの人が悔い改めて救われるようにとのお心が優先されているのです。

1.(使徒の働き17:30〜31)の説明

(1)『無知な時代」
 人の手によって作られた神を礼拝していた時代のこと。偶像礼拝時代。
(2)『神は見過ごしておられた」
 神は、お考えがあってすぐにさばきを下すことをされなかった。
(3)「今は」
 メシヤによる贖罪のみわざが完成した今。
(4)「悔い改めを命じておられます」
 天からの定めとして、唯一の創造主に立ち返ることを命じている。
(5)「お立てになったひとりの人」
 メシヤであるイエス・キリスト。
(6)「義をもってこの世をさばかれる」
 行いによる義ではなく、メシヤを信じることによる義をもってこの世をさばくこと。
(7)「日を決めておられる」
 ある条件がそろうとき。神のさばきが必ず行なわれる期日のこと。
(8)「このことの確証」
 メシヤの復活が、神のさばきのときがやってくることの証拠。

2.ご降誕を祝うということについて
(ローマ人への手紙5:10〜11)
“もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。”
 もうすぐクリスマスが来ますね。人が誰かの誕生日を祝う時、その相手との関わり方によって対応は様々に異なります。私たちはイエス様によって、信じるだけで永遠のいのちをいただけるという、奇跡の賜物をいただきました。そのイエス様のお誕生記念を祝うにあたって、どんな風に応えるべきでしょうか。

A)主イエス・キリストによって、神との敵対関係が終わった。
「私たちは、なんらかの記念日を作ります。なぜでしょうか。主イエス・キリストの誕生の日を祝う理由を考えてみましょう。」
 イエス様が来てくださる前は、私たちはみな神様と敵対関係にありました。なぜなら、罪によって汚れている私たちと、絶対聖なる神様とは住む世界がまるで違っていたからです。仲良くしたいと思っても、水と油のように決して混じり合わない存在だったのです。
そんな私たちをご自身の血で洗い、聖なる世界へ行けるようにしてくださったのがイエス様なのですが、私たちはこの方がしてくださったことの偉大さが本当にわかっているのでしょうか。ふさわしい感謝をしているでしょうか。
 最近、「親が自分の願いを聞き入れない」と暴れる子どもがいるそうですが、それは正しい親子関係ではありませんね。神様と私たちの関係もそうです。今現在の自分の人生、自分の置かれている状態がどうであろうとも、私を命がけで救い、守り、教えさとしてくださっている神様の真実は変わりません。

B)主イエス・キリストのいのちによって救われた。
「いのちの恩人に対して何をすれば良いのでしょう。そのご恩を忘れないために多くの記念日をもちましょう。」
 イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けてくださいました。つまり、今の私たちのいのちは、キリストのいのちと引き換えに存在しているのです。今もまだ神様は粘り強く、全ての人が救われるようにと全世界の人々と交渉しておられます。
今現在の自分の幸不幸よりも、永遠の保証が与えられているという恵みの方がもっと重要なことではありませんか?自分では不幸だと感じることからさえ、色々な学びを得ることができ、それは全部自分のためになります。知恵が与えられ、強められ、成長するのは、順境より逆境の時の方が多いのです。問題があるほど、試されるほど、私たちの中にある神の賜物が引き出され、成長します。苦しみは人の内にある宝を磨くのです。こんな恵みを与えてくださった神様を、心から感謝しましょう。

【考えてみましょう】
「私たちにとってクリスマス(キリストのご降誕の日)は、非常に関係の深いお祝いの日です。ですから、神を大いに喜ぶ日なのです。」
 今ある週一回の礼拝はセレブレーション(お祝い)の日でもあり
ます。苦しみさえも自分のためになることを思い起こさせ、みんなが顔を合わせて強められ、励ましを受けるのが礼拝の時です。恐ろしい罪の裁きの前に、完全なる救いを用意してくださった神様。愛をもって、やさしくきびしく私たちを成長させてくださる神様。この方に心からの感謝をもって、礼拝をささげようではありませんか。

【成判生救】による神を大いに喜ぶ日々
★(詩篇149:1〜3)
“ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。”
 どのように祝えばよいかわからないと言われる方は、このみことばの通りにぜひ実行してみてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年11月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   以命治心 いめいちしん  up 2008.11.22


命である神のことばによって、肉の働きによる心の乱れを治める。


救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
(エペソ6:17)


 

 

 今週は剣としての神のことばの働きを見てみましょう。このポイントを四字熟語(造語)で表したのが、「以命治心」です。神のことばをもって、私たちの騒ぐ肉の心を治めるということです。心を治めるにあたって、神のことばは剣だとはっきり表現されています。

1.支配者の力を表す「剣」(ローマ人への手紙13:3〜4)
“支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。”

「無意味に剣を帯びてはいない」と書かれている、剣の役割とは何でしょうか。
 剣は本来、人を滅ぼすための道具で、相手を打ち倒し、敵対する者を打ち負かすために用いられます。権威に逆らう(悪を行う)者に向かい、その悪にふさわしい処罰が剣で行われます。世界を治める人(支配者)が善の中心であり、逆らう者は悪となります。神に逆らう働きには、剣という報いによる処罰が与えられます。

★悔い改めない者を処罰するための剣(詩篇7:11〜13)
“神は正しい審判者、日々、怒る神。悔い改めない者には、剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。”

 すべてを公平に裁かれる神は、悪を行って悔い改めない者に剣を向けられます.私たちは罪を犯すことは避けられません。しかし、心を入れ替えて悔い改めるなら、剣は向けられません。「剣を研ぎ、武器をかまえて」おられるのは、すぐに処罰せず、悔い改める時間を与えておられるということです。あるいは、絶対悔い改められない状況まで置かれてのち処罰されるかのどちらかの意味を考えることができるでしょう。すぐには剣を振りかざすことはされません。

★救うことも滅ぼすこともできる神(ヤコブの手紙4:12)
“律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。”

 私たちが神のお心を傷つける不敬虔な生活や思いを持って過ごしてきたことに対する罪は、処罰されねば赦されません。神は裁きだけを行われる方ではなく、罪人を滅びから救うことのできるお方だということに望みを持つことができます。剣を持つ神は、救いの神でもあることに正しく目を向けて、悔い改めに心を向けていくことが大事だと思います。

★さばきの前に、救いの日が与えられている(第2コリント人への手紙5:19〜6:2)
“すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。”

 神が悔い改めない者に剣を研いでおられる時期は「恵みの時、救いの日」です。神は罪人が悔い改め、救われることを願っておられます。神の本心は滅ぼしたくない、救われてほしい、剣を使いたくないのです。だから、ひとり子キリストを罪の処分のためのいけにえとされたのです。私たちはその神様の気持ちを受け止めて、神様に剣を抜かせないようにしなければなりません。
 しかし義なる神は、罪を罰しなければならなかったのです。そこにある神の愛を理解し、和解であるイエス・キリストの福音を受け入れ、今の恵みの時、救いの日の間に、何回も悔い改めながら、罪に勝利する神の子として立派に成長するように願われた神の気持ちを汲み取って、一歩一歩実現する歩みを選びとっていただきたいというパウロの気持ちが、この箇所に表されています。

2.戦いを意味する「剣」(マタイによる福音書10:34)
“わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。”

A)霊的戦い(エペソ人への手紙6:12)
“私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。”
 神様以外の主権はありません。神に反する力である暗やみの世界
の支配者たちは、私たちに対して戦いを挑みます。すなわち神の主権を認めようとしない、目に見えない霊的存在者が私たちの格闘相手なのです。

B)罪の律法との戦い(ローマ人への手紙7:23)
“私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。”

 パウロは神様を畏れる心をもって、一生懸命神様に仕え、パリサイ人の時以上に熱心に神様のことを学び、正しい良心をもって人生を歩んできましたが、そんな簡単なものでないと、ここで表現しています。
 律法―権威・力を意味しますが―私たちも心の中にパウロが言っている正義を愛し、聖さを求め、神を愛する神の律法を持っています。
 それを実行しようという気持ちはあっても、妨げる敵、すなわち異なった律法(主権者)―罪の律法があって、罪を犯させ、欲望を満たさせようという誘惑の手に阻まれてしまい、実行したい心の(神の)律法をなかなか実現できない戦いが続いていると、パウロは告白しています。私たちの戦いは、神の律法と罪の律法の戦いです。
 神の律法の方(主権)が強いのに、なぜ罪の律法に妨げられ、敗北感を強く感じてしまうのでしょうか。私たちが、心の(神の)律法の実現のために忍耐強く格闘し続けることを、あきらめてしまうためです。 しかし、神様は、私たちがたとえ罪の誘惑に陥っても、悔い改めてもう一度戦いを始めるならば、チャンスを与えてくださいます。この戦う気持ちを持ち続けるというのが、神への私たちの信仰です。勝ち負けより戦い続けることが大事です。罪の律法に対して、勝利者なる神の律法を信頼して、表面的には負けたように見えてもあきらめないで、もう一度神の律法をもって戦う気持ちが勝利につながっていくのです。
 イエス様はどうして剣をもたらすために来られたのでしょうか。それは永遠の裁きの時がやって来るまで、神の律法を守り通すため、あきらめずに悪と戦い続け、勝利者となるためです。
“正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。…”(箴言24:16)
 これを「以命治心」の剣として用いるなら、悪を罰するみことばの剣となります。

3.「以命治心」のために戦う
 みことばは神の剣であって、私たちの剣ではありません。その剣は神の力であり、悪いものを処罰するために用いられるものです。神は私たちに、罪の律法を切り裂き、やみの力を処罰する戦いをするために、みことばの剣をお与えになりました。やみを切り裂くことができるのは、みことばの剣だけです。
このみことばの剣をどのように用いるか、一例を挙げてみましょう。

“光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。”(ヨハネによる福音書1:5)

 これは真理です。このみことばをもって、私たちの心の戦いを勝利するのです。欲望や誘惑に弱い私たちかもしれませんが、剣があれば勝つのです。
 実際、誘惑が来た時にみことばを使わなければ、あわてふためきます。しかし、「やみはこれ(光)に打ち勝たなかった。」やみは光に絶対に打ち勝てないのですから、剣の力を信じて振り下ろす、いや剣の輝きを出せばいいのです。「絶対にやみは光に勝つことはない。」と。
 このことを戦いの原則としていつも心を励まし、肉がもたらす自己中心を切り裂くわけです。欲望、欲求は現象であって、人格がありませんから、その感情を消してしまえば冷静になれます。自分の性格の弱点は罪から来る「やみの力」ですから、「新しく生まれ変わって光となった私に、やみは打ち勝てない。」を剣として、どんなに負けそうになっても、「私は負けることはない。(ヨハネ1:5)にこう書いてある。」と立ち向かうのです。
 イエス様が荒野でサタンに、みことばの剣をもって対応されたように…。空腹という現象への誘惑に対して、みことばの剣を使うと、空腹感はあっても、欲望を満たしたいという感情から解放されるのです。
このみことばだけでは効果が薄いようでしたら、別のみことばも探し出してください。いくつものみことばの真理から、サタンのやみの力の攻撃に対して、ことごとくみことばをもって切り裂いていく信仰生活を歩んでください。そのために神は、みことばの剣を私たちに渡してくださったのです。
また、剣はぶら下げているだけでは意味がなく、使いこなせる達人だとわかると、敵は恐れます。どうぞ、実践することによって剣の使い方を学んでください。毎日の生活で、どのみことばが敵に効果的に働くかを、体験の積み重ねによって学んでください。
 相手を倒すためには色々な戦い方があるように、一遍とおりのいつも同じみことばでは、サタンに対して効果が表れないこともあるでしょう。私たちがみことばの剣を扱う達人として成長するために、神様がサタンを利用しているとも言えます。
私たちは傷つけられ、倒れたり、打ち負かされたりすることがあるかもしれません。しかし、みことばの剣を持っていても、あきらめの早い人には、サタンは誘惑の手をどんどん伸ばしてくることでしょう。サタンは、剣を上手に使う人、そしてあきらめずに立ち上がってくる人を恐れています。
神様は私たちに、あきらめないでみことばを信じて戦い続けることを願っておられます。どうぞ、あきらめることなく罪との戦いを続けてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年11月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   良食口甘 りょうしょくこうかん  up 2008.11.15


栄養価の高い食物は、完璧な健康をもたらし、人生を楽しませる。


あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
(詩篇119:103)


 

 

 今日のみことばで語られている『蜜』には、深い意味があります。
さて、人が昔から言うことばに「健康第一」がありますが、確かに財産では引き換えることのできないものが健康といえます。人が健康でありさえすれば、人生を楽しむための方法はいくらでも見つけることが可能ですが、もし財産があっても不健康なら、持っているものを十分に楽しむことはできません。
 今日のテーマに「良食口甘」と書いたのは、良い食物は口を喜ばせ、体のためになる、ということからです。

1.(詩篇119:103)の釈義
『上あごに』
・日本的にいいかえるなら『舌鼓するほどに』⇒食物を賞賛する表現
 舌鼓を打つ時、上あごに下を押し付けて、口全体にその味を行き渡らせる様子が表現されています。
『なんと甘いことでしょう』
・おいしい⇒幸せに感じる⇒元気が出る⇒全身が喜びで満たされる
 「甘いもの」は、昔は滅多に食べることができませんでした。貴族や上級武士など、裕福な家庭でのみ味わえる、最上の楽しみの一つでもありました。庶民であれば、一年に一度か二度、正月や祭りの日に「甘いあんこの入ったもち」を食べることができれば、最高のぜいたくだったのです。おいしいものを食べたら、誰でもみんな幸せな気持ちになります。元気が出ます。
『蜜よりも』
・豊かさ、豊富さ、非常に良い状態
 おもに蜂蜜を意味しているが、果物の甘さも含めて『蜜』という。
カナンの地が「乳と蜜の流れる地」と表現される=肥沃な土地
蜜の材料になる花が咲き乱れ、もちろん花が結実したものである果実が数多く実り、家畜の牛や羊が子を生み育てるのに十分な良い草の茂草原と、生まれた子に飲ませる乳が溢れるほどに豊かな土地。想像してみてください。
『私の口に甘い』
・蜜を口にしたとき以上に、私を楽しませ、元気にし、幸せで満たす。
 みことばを味わった時に感じることのできる、おいしいものを食べる以上の満足感があるのです。

「神のことばは、私にとって、蜂蜜を食べたとき以上に、私の心を元気にし、人生の幸せを感じ、毎日を楽しませてくれる、心の食物です。」
 神のことばは、いかに皆さんお一人一人にとって喜びであり、幸せであるかを知ってください。食生活は生活の基本ですが、心の食生活は人生の基本です。

【考えてみましょう】
 舌打ちするほどのおいしさを味わったときのように、みことばを感じたことがありますか!ぜひ、そのように味わうことができるみことばに出会えるよう、聖書を読みましょう。

2.蜂蜜に喩えられるみことば
A)栄養価が高い(詩篇107:20)
“主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。”
「蜂蜜には、27種類のミネラル、22種類のアミノ酸など150種類以上の成分が含まれた栄養豊かな食品です。また、殺菌力が強いので薬として使用されていました。」
 蜂蜜は栄養価だけでなく、薬用としての効果も非常に優れていて、傷口に塗れば、傷口を殺菌消毒して治療に役立ったという事実があります。
「『医食同源』食生活に注意することこそ、病気を防ぎ健康を保つことであると、古くから言われていることです。
魂の食物であるみことばの蜜を食しましょう。霊的サプリメントです。」
 良いものを食べると体に力が蓄えられ、丈夫になった体は悪いものに対抗する力を強めてくれます。聖書は心のサプリメントです。いろいろなみことばの中にいろいろな必要栄養が入っていて、私たちの心を強くしてくれます。
 最近言われる「セルフコントロール」も、育った環境や本人の経験のみに頼るのではなく、みことばによって心を強められることが大事です。自制心が強められるための心の栄養剤として、みことばをぜひ使ってください。

B)栄養補給(詩篇119:50)
“これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。”
「多くの栄養素を含んでいる蜂蜜は吸収が早く、すぎにエネルギーになるので、疲労回復、栄養補給に最善の食品と言えます。」
 最近はスポーツドリンクが普及して、運動や遠出に携帯するのが当たり前になっていますが、昔はよくレモンの蜂蜜漬けを使っていました。運動部の人だと、クラブ活動の後にレモンの蜂蜜漬けを食べると不思議に疲れが取れる、という経験をしたことがありませんか。蜂蜜は消化吸収が早く、必要な栄養素を素早く取り込めるため、病人の食物としても重宝されていました。
「同じように神のことばは、霊と心に力をもたらす霊的食品と言えます。人は神のことばによって生きるのです。」
 悩みの時、聖書のみことばによって心をさーっと変えられたり、調子が悪かったのに整えられたり、それはまさに蜂蜜のような働きといえます。
 新しい一週間、あなたの心に何か元気をくれたり、気持ちを変えられたり、くわしい理由はわからなくても「甘い」と感じたみことばを挙げてみましょう。あなたの慰め、励まし、希望になるみことばを数多く得てください。
 最後に、私(辻師)の「甘い」みことばを挙げておきます。
“神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。”(ローマ人への手紙2:6〜11)
 もし、どなたか「人生にはえこひいきがある」と思われる方がおられたなら、ここを読んで考えてみてください。神様は、正しい報いを与えてくださる方です。私たちの忍耐は、神様からの報いを期待してこそのものです。世の人々が好き勝手して暮らしていようとも、自分たちは「栄光と誉れと不滅のもの」を受けるという報いにあずかるために、彼らとは異なる生き方、道を選んでいるのです。それぞれの行いに対する正しい報いは、私たちにとって大きな喜びであり、希望です。

 

 

 

 

 

 

■2009年11月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   救世命言 きゅうせいめいげん  up 2008.11.8


いのちのことばは、乱れ腐敗しているこの世から、人々を救う


ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
(ヤコブ1:21)


 

 

 みことばとは、聖書のことば、神のことばのことです。ことばは生きていて力があり、私たちの心を変えることができます。そして、最も影響力があることばが、神のみことばです。
みことばは私たちを悪い世から救うとありますが、「救い」とは何でしょうか。

1.「救い」について
 「救い」が何か、具体的にわからないと言う人が多いですが、それは、日本が不況であっても福祉や医療が充実していて、安全が確保されている国だからでしょう。「救われるべき状況」が感知されない、助けてくれる所が他にある等、「救い」の必要性に気づかないのかもしれません。しかし、私たちの心はどうでしょうか。破壊や危険をまぬがれ、安全性を保てているでしょうか。
 非常に危険な破壊的な状況が、魂や心をむしばもうとしているということに全く気づかずに、快楽ばかりを追い求め、楽をすることばかりに心を向けているという人々が増えています。
 しかし、楽をすることが幸せとは限りません。楽をすることが、かえってあなたの人格を破壊していることがあるのです。幸せだと思って楽しんでいることが、あなたを危険な方向へ導いている可能性があります。
 体も、楽ばかりするとなまってしまいます。今、生活習慣病がいかに健康を害するかが取りざたされているのがいい例です。心も同じです。苦しいことをいやがり、楽なことばかり求めていると、人格形成がおろそかになり、欲しいものがあったら人を殺してでも手に入れるという、短絡的な人が増えています。自制ができない、感情がコントロールできない不健全な心の状態です。
 今、「救い」が本当に必要な時代ではないでしょうか。

2.どのような破壊や危険からの救いか?
 聖書でいう破壊や危険とは何でしょうか。
A)神の怒り(ローマ人への手紙5:9)
“ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。”

B)永遠の滅びの刑罰(第2テサロニケ人への手紙1:9)
“そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。”

C)滅び(第1コリント人への手紙1:18)
“十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。”
 神の怒りとは、永遠の滅びの刑罰を意味します。
「十字架のことば」とは、イエス・キリストがなぜ地上に来られ、死んでよみがえられたのかを解いた神のことばです。この十字架のことばを愚かと思う人は、すでに破壊や危険の中に入っています。子どもが、一万円札の価値を大人のようには理解しないように、愚かな人は十字架のことばの価値を理解しようとはしません。しかし、信じる私たちにとっては、十字架のことばは神の力であり、私たちの心を否定的に破壊していくような、滅びをもたらす不健全なものから救い出し、健全なものに変えてくださり、さらに保ってくださるのです。愛なる神が、どうして怒りや滅びの刑罰を下されるのでしょうか。疑問を持つ人に対して、私たちクリスチャンはどう説明しますか。

3.どうして「神の怒り・刑罰・滅び」があるのか
A)(ローマ人への手紙2:6〜11)
“神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。”
 神の一方的、独断的な怒り、刑罰ではありません。神はえこひいきをされない方です。クリスチャンだからとえこひいきをされるわけではありません。神は平等で、等しく扱われます。
 善・悪を裁く上で、神は、その人の行いに従って報いを与えるという平等さを示しておられます。「報い」とは、その働きに応じてふさわしい報酬を得るということです。これはえこひいきのない決断です。悪を行っている人が、善を行っている人と同じ報いを得ることは、決して平等ではないでしょう。神の怒りとは、悪を行った者への報いなのです。善を行った者には平安と永遠のいのちが与えられます。これは当たり前のことではないでしょうか。
 悪を行った者にも同じような良い報いを与えてやればいいという考えを、本当に人は受け入れられるでしょうか。そのような秩序を乱してしまうものは、愛ではありません。悪に加担するのは愛ではありません。

B)(第2コリント人への手紙5:10)
“なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。”
 「その肉体にあってした行為」とは、この地上にあってした行為ということです。善と悪に対する報いを、神は各々に与えられます。どんな報いを受けられる生活を送っているのか、私たちは「今日」という一日を、そのような真摯な思いで送る必要があります。しかし、私たちは神に喜ばれない、怒られるような行動をしてしまうことが多い者です。善よりも悪を行いやすい者です。人生をわきまえた人ほど、そのことに気づきます。達人と言われる人ほど足りなさを感じ、修行不足を感じるように…。
 徳を高めたいと願えば願うほどに、人間の愚かさに気づくのです。そういう弱い私たちのために、神は、私たちの善を生かすために、私たちの悪の報いを、身代わりにイエス・キリストの上に負わせられました。このような救いを、神は私たちに与えてくださったのです。私たちを破壊や危険から守り、安全や健全さを保つように、イエス・キリストは地上に来られたのです。十字架のイエス・キリストの死は、あなたが受けるべき悪に対する神の怒り、永遠の滅びの刑罰の苦しみを身代わりに受けられたものです。そうしたら、あなたの行った善だけが残ります。あなたは、その善に対する報いだけを受けられるのです。こんな都合の良い話が他にあるでしょうか…。
 しかし、この救いは秩序を乱したものではなく、きちんと秩序立てられたものです。悪に対して、身代わりの裁きを受ける者を立てて、あなたを安全で健全な救いを受ける者としてくださいました。これは神の愛から出た行為であり、慈悲です。神は私たちをご自身の子として愛してくださり、愚かさゆえに犯す罪をすべて、愛のゆえに処理してくださるのです。この処理が十字架です。この方のことばが、私たちの心を変えます。人の心は愛によって動かされ、変えられます。みことばは、神の愛のことばです。それゆえ、みことばによって、私たちは変えられるのです。そのために神は、具体的な十字架の救いを、歴史の中に表してくださいました。
 この神の愛のことばを素直に受け入れて、魂が救われる経験をもっともっと積み重ねていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年11月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   灯足光道 とうそくこうどう  up 2008.11.1


足もとにはともしび、道には昼の明かりのような光が必要。


あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
(詩篇119:105)


 

 

 私たちには、いつも、何らかのかたちで光が必要です。暗やみに囲まれた時には、足下を照らす光。元気な時には、行く先を照らす道しるべ。それらの光が神のみことばであることを、今日はお話したいと思います。

1.(詩篇119:105)を考える
「私の」⇒所有、所属を意味している。
     みことばは、自分に対して適応するもの。
     あなたが人をさばくためのものではない。
 神様があなたに与えてくださるみことばは、あなた個人に対して完璧に適応したものであるため、それを他の人にあてはめることはできません。自分にとって正しいことが、必ずしも他の人に当てはまるとは限らないのです。みことばをもって裁くことができる方はただお一人、天の神様だけであることをいつも覚えましょう。

「足」⇒足どり、歩行、物の基底部を意味している。
    今現実に立って歩いている時点。
 今日、今のこの瞬間を表しています。今、何をすべきかも、神のみことばが足のともしびのように、私たちに教え示してくださっていると言えるのではないでしょうか。
「ともしび」⇒たいまつの火、ろうそくの火、光を出す。
 近辺を照らすあかり。今という現実がよく見えるため。
 今、一番身近にある、「今日」という現実を見極めていくための光としての、みことばの役割を表しています。
「道」⇒小道、細道、生き方、方針を意味している。
    一人だけしか通れない道。固有の人生。
 私たちの人生は、それぞれが神によって与えられた、私だけの固有の人生です。
「光」⇒一日のあかり、昼のあかり、一日の始まり、発光体(天文)
    全体を照らし、遠くを見ることができるための光。

【考えてみましょう】
「上記にある一語一語の意味をふまえて(詩篇119:105)の意味を、聖霊様の助けによって考えてみましょう。」 
 上に示された一語一語を、自分なりに並べ直して、深く考えてみましょう。自分のことばに置き換えてみると、より理解が深まるはずです。

2.「みことば」と「ひかり」
A)生活における「光」の大切さと同様に、人生の「光」となるみことばは必要不可欠なものである。(マルコによる福音書4:21)
“また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」”
「あかり」を、「みことば」に置き換えて読み直してみてください。暗やみの世界、暗やみの状況では、あかりなるみことばはどれほど重要で不可欠なものでしょうか。 
 現代の生活で私たちは、帰宅して部屋が暗ければ何のちゅうちょもなく明かりをつけます。明かりは日常生活に不可欠なものです。そのように、人生において少しでも悩みがある時、困った時、明かりをつけるようにみことばを求めましょう。それはとても自然なことです。
 今日メッセージで持ち帰ったみことばを、しまいこんだり、隠してなくしたりしないで、あかりとして堂々と掲げる今週であってほしいと願っています。みことばは、私たちの生活に欠かせないものなのですから。
 さて、みことばを足のともしび、また道の光として歩む私たちの道は、どのような道なのでしょうか。この道はイエス様の道なのです。この道に光を当てると、(1)のように光り輝きます。

(1)主イエス・キリストを信じる者たちが歩んでいる道。(ヨハネによる福音書13:34)
“「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」”
 モーセは十戒を神様からいただいて、イスラエルの民に与えましたが、イエス様はただ一つの戒めをくださいました。「わたしは道である。」と言われた方は、兄弟姉妹が互いに愛し合う、という道であられます。これ以外に正しい道はなく、あらゆる戒めは、この道を歩むために存在します。
 そして、この道はクリスチャンであるか否かに関係なく、誰でもすばらしいと言えることであり、自分もそうでありたいと願う道でもあります。人が互いを尊重し、愛を与え合うことが平和への一番の近道だと、皆わかっているのですから。実際他の宗教でも、このことばを否定する人はいないはずであり、むしろ積極的に勧めているのではないでしょうか。
 ただ、注意すべき点が一つあります。みことばは、自主的に「愛せよ」と語られているのであって、「愛される」ことを要求せよとは書かれていないのです。求めるばかりでは、平和はやってきません。
 では、問題です。正しいことを皆言っているのに、なぜイエス様だけを信じてついていくのでしょう。それは、イエス様だけが、「わたしがあなたがたを愛したように」と、手本を示してくださったからです。イエス様は、罪人だった私たちのためにいのちを捨てるという、究極の愛を実践してくださったただ一人のお方なのです。

(2)ジーザスフェローシップ広島が歩んでいる道。(第1ヨハネの手紙1:3)
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”
 世界中に教会があり、それぞれの歩んでいる道がありますが、私たちの所属しているこのコミュニティに与えられている道は、(2)に示された通りです。この交わりを知らない全ての人たちに、この交わりのすばらしさを伝えることができるようになるために、私たちは御父、御子との交わりを求め、完成に向かって歩みを進めている最中なのです。そして、同じくこの道を歩む人が、私たちのメンバーズシップをとっている人であると言えます。皆さん一人一人も、この道を歩むことを念頭において日々を過ごすなら、皆と心を合わせて前進していくことができます。「広島エルサレムプラン」も、この道を成し遂げるための計画の一つです。
 教会の礼拝に来て、みことばを聞くけれど、教会の働きや活動には参加せず、自分の目標のみが最優先なら、その人は私たちのコミュニティには参加していないことになります。

(3)そして、あなたが歩んでいる道は?
 あなたが個人的にイエス様から示されて歩んでいる道とは、どんな道でしょうか?どんなみことばを持って、今歩んでいるでしょうか。私(辻師)は、(ヨハネによる福音書6:27)のみことばから召命を受け、現在に至るまで働いています。「永遠のいのちに至る食物のために働く」ことが、私に与えられた、私専用の道だからです。
 みことばは、あなたを前に進ませるために、いつも輝き続ける光なのです。

B)一般においても「ことば」は「光」のような働きを人にもたらす。
★「格言」「ことわざ」「助言」などを信じ受け入れることによって、励ましを受け、希望を持ち、助けられることがある。
 クリスチャンであるなしに関わらず、光としてことばが入ってくるためには、共通の条件があります。尊敬する相手からのことばは、素直に入ってきますし、感銘を受けたことばは、尊敬するので受け入れやすいのです。しかし反対に言えば、尊敬できない相手からのことばや、感銘を受けないことばには従いにくいことになります。しかし、それが正しいことをだと知っているなら、自分を砕いてでも従うことが必要ではないでしょうか。

★聞いた「ことば」を信じ受け入れることによって、どこに導かれるかを見極めることが重要。
 クリスチャンが特に注意を払うべき点です。世の中にも尊いことばはたくさんあるでしょうが、そのことばを実践していった時、行く道の果てはどこにあるのかを考えてみてください。神様のことばは天国へと私たちを導いてくださっていますが、他のことばはどこへ行くのでしょうか。行く先をしっかりと見極める必要があります。
みことばは死後も永遠も保証してくれます。しかし、どのような名言を残した人でも、人である以上は死ぬまでの間になす空しい努力にすぎません。
 みことばを多く知ることは、光を大きくすることと同じです。みことばは世界全体をも判断することのできる力を持っているのです。

★聖書は、私たちを存在の目的に導くための「足のともしび、道の光」である。そのことを証明するのが、主イエス・キリストの十字架なのである。
 二千年前のイエス・キリストの十字架による死という歴史的事実が、私たちの神への信仰の保証となってくださっています。この神様の教えは最初から完全なかたちで与えられ、さらにその証拠として、預言通りに御子が地上に来られ、十字架で死なれました。
 この確信をしっかりと抱いて、他の論理に言い負かされたとしても、動かされないようにしましょう。事実、十字架は誰にも否定できないのですから。