■2009年10月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   錬磨試命 れんましめい  up 2008.10.25


主なる神のご命令は、人を試み練り磨き上げるの意


彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
(詩篇105:19)


 

 

 これまで、みことばの働きをお話しております。先々週は、「神のことばは生きていて力があり、心の思いを判別できる。」ということでした。皆さん、みことばを通して心が探られているでしょうか。肉の思いと正しい良心の思いをきっちり分けて、肉の思いに引き込まれないように、みことばに心を合わせる信仰を働かせているでしょうか。みことばには、知識を越えて心にぐーっと入ってきて、探られて純真な気持ちになり、素直に間違いを認められるようにする働きがあります。また先週は、「みことばが私たちの徳を高める」ということで、私たちの人格、品性が高められていき、私たちを築き上げる働きをすることを話しました。それは単なる成長というよりも積み重ねが大事であり、過去から現在に至るまでの一つ一つのみことばによって、完成に向けて建て上げられているということです。
 そして、今週は「錬磨試命(主なる神のご命令は、人を試み練り磨き上げるの意)」です。3回とも、みことばに合わせた私(辻師)の造語です。「命」という漢字は「言いつける」の意味があり、治める(権威ある)者からの戒め、天(創造主なる神)の定めとして、またいのちとして使われるようになりました。ですから「命」は神の定めに生きることを表します。つまり、主なる神のご命令は、人を試み練り磨き上げるということで、ヨセフはその代表的事例として聖書に記されています。

1.「彼のことば」(創世記37:6〜8)※彼とはヨセフのことです
“ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。”
 彼のことばとは、ヨセフが話した、ヨセフが見た夢の内容のことです。見た夢を人に語らない限りは人に伝わりませんが、口で告白する時、その人固有のものとなっていきます。他の人から聞いたことであっても、自分の口から語れば、自分の所有のことばとなります。良いことでも悪いことでも、語ったならば、心は語ったことばの方へ向かっていきます。ビジョン・願いを心に持って語っていけば、自分のものとして進んで行く性質があります。ヨセフがお兄さんたちの前で語った夢―「お兄さんたちの束に囲まれたヨセフの束に、お兄さんたちの束がおじぎをする」―と聞いて、お兄さんたちは気分が良いはずはありません。その夢をヨセフ所有の夢としてお兄さんたちは捉えたので、嫉妬したのです。

2.「そのとおりになる時まで」(創世記45:4〜8)
“ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今,私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。…」”
「主はご自身の計画を必ず成就されます。どのような妨げや困難な状況があっても必ず成し遂げられるのです。」
主の時とは、主の計画が成就する時のことです。神は、神がヨセフに計画されたことを夢として与えました。ヨセフはお兄さんたちに妬まれることを恐れずに、その夢を自分のものとして語りました。もしヨセフが人を恐れて語っていなければ、単なる夢として終わっていたことでしょう。また、夢が実現するには、次にある。、「のポイント「主のことば」が「彼をためした」という段階に進んでいかなければなりません。

3.「主のことば」(創世記39:2、21)
“主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。”
“しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。”
ヨセフがパロ王の侍従長ポティファルの下へ奴隷として売られた時も、またポティファルの奥さんの誘惑を断り、無実の罪を着せられて投獄された時も、主はヨセフと共におられました。神は、夢が実現する時まで彼を導かれます。その途上でも主はヨセフと共におられたのです。「主のことば」とは、記録された神のことばである聖書を単に指すのではなく、ヨセフと神の交わりの中で主から出た、ヨセフへのことばのことです。「主が共におられる」のは、ヨセフが主と良い関係があったということです。
良い環境が与えられたり、思い通りになったりすることが、主に祝福されているということではありません。神との良い関係によって、たとえ逆境の中でも、神が幸運な者とされることが祝福なのです。ヨセフは奴隷に売られたり、無実の罪によって投獄されたりしても、そのところで主と良い関係を崩すことなく保ち続けたのです。
あなたがもし、思いもよらないような盗難に遭遇したら、神に対してどんな反応をしますか。「どうして守ってくれなかったのですか。」とつぶやいたなら、決して良い交わりになりませんね。ヨセフは主との関係を悪くしたくなかったので、奴隷になってもつぶやくことをしませんでした。ヨセフにとってもっと大事なこと―つまり、どんな状況に落ち込んでも、主が私を幸いにされるということ―を学ぶ必要がありました。聖書には、成功した結論しか書かれていませんが、実際には、おそらくそこに至るまでのヨセフのプロセスで相当悩んで祈り、最終的に「主との関係を悪くすることが、自分にとって一番マイナスだ」と、主とのデボーションの中で学んでいったと思われます。奴隷に売られたその日、反抗期の17才の彼の心…心のいろいろな痛み、苦しみを主にぶつけたかもしれません。デボーションは本当に大切です。主のことばがあなたにどう語られるか、そしてそのことばにあなたが「アーメン」と受け止められるかどうかです。語られたことばにいちいち食って掛かっていれば、良い関係は築けません。主のことばがヨセフを試しました。私たちも試されることで、建て上げられていくのです。

4.「彼をためした」(創世記39:3、23)
“彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。”
“監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。”
主との良い関係があれば、逆境の中でも主が成功をおさめさせてくださるということです。信じ方が悪いとは、具体的に主への応答のしかたが悪いということであり、合格になりません。デボーションではどんなに良い態度を示しても、日常生活で本物かどうか試されます。神はヨセフを見られました。彼がデボーションだけの良い関係ならば、おそらく奴隷として売られた不満はどこかで形となって現れたことでしょう。また能力もあったと見られるヨセフが、だんだん用いられていくにつれ傲慢になり、ポティファルの奥さんの誘惑に乗ったはずです。しかし、主を畏れている彼の姿勢は日常生活でもできていたので、誘惑に乗ることもなく合格し、成功へと導かれたのです。
 主は生きておられる神であり、文字だけの神ではありません。生きたことばを、あなたの生きた霊魂に語られます。そのように、語られたことばを本当に喜んで受け止めているかどうかを、日常生活で見られます。デボーションを終えた直後に、敬虔さからほど遠い、まるで信仰のない人のように、あまりに違いすぎる態度があるなら、神頼みと変わりありません。ポティファルから見ても、ヨセフは神と共にいることを感じることができたのです。デボーションで敬虔な思いを持ったなら、その続きを日常生活でしていくのです。どんなに環境が変化して、思った状況になく、むしろ逆境に陥っても、主との関係を喜び続けるかどうかを試されます。この試しが、ヨセフの内にある様々な思いを練りきよめ、建て上げていきました。
 私たちは(第1ヨハネの手紙1:3)を告白して、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」と掲げ、目指しています。そしてその時から、主のことばが私たちをその通りになる時まで、試しています。また広島エルサレムプランを聞き、あなたのビジョン・目標として告白し続ける時、必ず次にはヨセフのように、試みがやってきます。問題にぶつかり、主に近づいているはずなのに目標から離れていっているような現実が見えるでしょう。この試みの時に、あなたが主との関係において、心から「主はすばらしい」と言えるかどうかです。思い通りに事が進んでいれば、誰でも「主はすばらしい」と言うでしょう。しかし、思い通りにならない環境で「神は私を愛してくださっている」と告白する心は、本当に主を愛しています。神の恵み、愛、全能の力を利用して、自分の思い通りに神を動かし、自分の計画を実現させようとする、根底に潜んだ肉を取り除くため、練り磨き上げられます。だから、みことばであなたを試されるのです。
 能力・性格に関わらず、主との良い関係を持っているクリスチャンは成功し、またいずれ良い性格に変わります。ヨセフのわがままな性格は、奴隷生活、投獄、また牢獄の中で施した親切を忘れられる等、苦しい目に遭うことによって変わっていったのです。主を愛して、主との関係を大事にしているかを試されたのです。目標が大きければ大きいほど、試されることが必要です。良いものは、試みを経てこそ良いものとして出来上がっていくのは原則です。あなたは試されて、その時に向かって歩んでいるからこそ、うまくいかないのです。
「私たちのことばがそのとおりになるまで、主のことばは私たちをためします。」
 どうぞ気をくじくことなく、ヨセフのように試されていることに希望を持って、この試みを受け止めてほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2009年10月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   建徳聖言 けんとくせいげん  up 2008.10.19


神のみことばは、人の徳を建てる。


いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
(使徒20:32)


 

 

1.「育成する」について
「『育成する』と訳されているギリシャ語は、「建てる」「築く」という建築行為を包括的に意味する言葉である。
人に対して用いる場合、「品性を高める」「徳を建てる」「人を向上させる」「教育する」という意味で使用される。」
 建物を建てるにはまず土台から、が基本ですね。建物を建てるのにある程度の順序があるように、人も成熟するためには段階を踏む必要があります。
【参考】
「『徳』という漢字は、「直」+「心」に行動を意味する行人偏が付けられたものである。キリスト教的に意味を考えるなら「神の前における正しい良心によって歩む、人格的優れた人が持っている性質」となる。」
 皆さんが持っておられる素直な心を、実際の行動に移すことが大切です。

2.「あなたがた」とは?
A)個人を建て上げる(第2ペテロの手紙1:5〜7)
“こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。”
 
 今皆さんは、神の前に敬虔な人生を歩むと言う選択肢、すなわち信仰生活を選んでおられます。この信仰生活を歩むにあたっては「くれくれ」といういやしい状態にとどまらず、徳を加えることが必要です。
 徳、すなわち素直な心を実行するためには正しい知識が必要になりますし、知識を有効に活用するためには自制、セルフコントロールが欠かせません。セルフコントロールするためには忍耐力が必須となり、忍耐力はと言えば、ただの我慢と違って神を敬う敬虔からくるものであって、それ以外が源であればいずれ破綻してしまいます。さらに、神を敬うという心の神髄は、今いる兄弟姉妹を愛し敬うところにあります。そしてこの兄弟愛の究極の姿はアガペの愛、無償の愛であり、アガペの愛は信仰を支える基なのです。
 今日、特に注目すべきところは、信仰に加える徳が、アガペの愛につながっているということです。
「キリストにある自己実現であり、自己達成と言える。自分を建て上げることを忘れてはならない。」
 神様なしの自己実現はむなしいものです。一方、神様に従う自己実現は徳を建てるのです。この「キリストにある自己実現」を、“あらゆる努力をして”手にしなさいと語られています。手すきの間ではないことに注意してください。

【考えてみよう】
「肉の欲求を満たすことばかりに気を取られていませんか。私たちの霊の欲求である「建徳」にもっと心を向けましょう。」
 自分が内なる霊の欲求に答えているかどうかを、よく省みてみましょう。霊は人格です。その人格が高められるために、肉のからだを養うのと同じくらいの努力をしているでしょうか。
 霊には空腹や満腹はありませんが、自分をより良い人格に育ててくれるものをいつも探しています。時々、心の奥底に感じるなぐさめや励ましは、霊からやってくるものです。みことばは霊に不思議な力を与えてくださいます。みことばをもっと内に蓄えていきましょう。

B)集合体(教会=コミュニティー)として建て上げる(エペソ人への手紙2:20〜22)
“あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。”
「神のご計画は、ご自身の住まいとなる「神殿」「神の家」を建て上げることにある。その建物が私たちなのである。私たちの人生は、この神のご計画の中で導かれている。世界は、神の御住まいとして徳が高められることが正しい道である。」
 神はご自身の家の素材として私たちを選んでくださり、私たちが素材としてふさわしいものになれるよう、働きかけてくださっています。私たちの人生は、神の家を建てるための素材として成長するためにあるのです。全人類が徳を高められて、神の家の素材となることが、本来あるべき姿であり、神ご自身の望みです。

【考えてみよう】
「神様は、ご自分の住まいとして私たちを象徴的に表しておられます。そこには、どのような神様のお気持ちがあるのでしょうか。」
 皆さんに十分な財産があって、自分の家を建てるとします。その家は皆さんお一人一人にとって、どんな意味を持つものでしょうか。
「一国一城の主」は、男の一生の夢だと言われます。なぜそう言われるのでしょうか。家には「安心」があるからです。自分が自然体で安心して過ごせる場所として、家はあります。「家を建てること」は、多くの人にとって人生に多大な影響を及ぼし、人生における大きなパーセンテージを占めることでしょう。
 神様がご自身の家を建てられる時、それはもちろんお遊びなどではありません。ご自分が住みたいと願われる家のかたち、造りがあって、願われた通りの家を造られるのです。
 皆さんにとって住みやすい家とはどういうものか、なぜそうなのかを考えてみてください。また、家が欲しいと人が思うのはどうしてなのかについても、思い巡らせてみてください。こと自分が住む家に関しては、「安心する」という言葉が共通するのではないでしょうか。
 神様が家として選ばれたのは、私たちという集まりです。私たちの中で安心され、喜ばれ、そこにいたいと思い、そこで癒されるとおっしゃるのです。着飾らない、ありのままのご自分を出せる場所として、私たちを住まいのように感じられると、神様はそう見てくださっています。
 私たちの「教会」という複数の人間関係が絡み合う共同体の中に入りたい、と神様は思っておられます。この共同体は、神を畏れ敬虔に生きることと、互いに兄弟姉妹を愛することとを人生の基盤に据えています。だからこそ、ここに住み、そして永遠にいたいと思ってくださるのです。
 人はもともと、神の御住まいとなるべく造られたと言ってもいいでしょう。他の被造物と違い、私たちにとても親しみと愛着を持っておられることがわかるはずです。
 自分だけでなく、他の人も全員神様にそのように愛されていることがわかれば、自分だけの計画を無理に進めることはやめて、神にあっての計画を、愛されている同志たちと心を合わせて進めて行けるでしょう。そして、お互いを大事にしあえるなら、争いはなくなり、和解が広がるのです。

【建徳聖言】を体験する
★(第1ヨハネの手紙4:16)
“私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。”
「聖書の預言が成就した歴史的事実によって、神の愛を知り、信じています。完全な徳を持っておられる神は、愛そのものです。愛を実践する者は、愛なる神のうちに生きている者であり、神はそのひとをご自分の住まいとなされるのです。(意訳)」
 このみことばがお一人一人のうちに実るように、一週間黙想し、感動し、反すうしてください。みことばによって、皆さんの生活が一歩一歩徳の高いものへと成長されることを願っています。
「みことばを素直に受け入れ、行動していくとき、あなたの徳が高められます。そして、その行為によって人々の徳も高められるのです。」
 人の愚かさによって、自分の愚かさが引き出されてしまうことがあります。逆に、自分の徳によって、相手の徳を建てることもできます。どちらが良いかと比べるべくもなく、後者が優れています。
たとえ相手が不信仰なことを言ったりしたとしても、自分もその人も愛されている者であるという土台から離れず、信仰の目によって見直したならば、相手の不信仰を悔い改めに導くことも、やがてはできるのではないでしょうか。もちろん、自分の徳を高めるために、自分自身を戒めることも有効です。
 神のうちに生きようとするなら、神もその人のうちに生きてくださるということ、これは偉大な真理です。私(辻師)も、上にあるみことばを今週何度も黙想することによって色々な悟りが開かれ、今通っている苦難と試練に耐えるための大きな力をいただきました。
皆さんにも、その力に至る悟りが与えられますように、願っています。

 

 

 

 

 

 

■2009年10月11日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 横路 満弘 師)

   生言有力 せいげんゆうりょく  up 2008.10.11


神のみことばは生きていて、力がある。
また、生きている言葉は、人々に影響力を持っているという意。


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
(ヘブル4:12)


 

 

 まず、「神のことば」は、なぜ生きていて力があるのでしょう?
(ヨハネによる福音書1:1)には、“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”とあります。(第1ヨハネの手紙1:1)後半には、“私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて…”と、「神のことば」は「イエス様ご自身である」と書いてあります。つまり、「神のことば」は、道徳や教訓の単なる文字ではなく、死んでよみがえられ、今も生きて力あるわざを行っておられる神、「イエス様ご自身」であるのです。次に、神のことばはなぜ鋭くて、心の中のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのでしょうか。
(詩篇119:105)と(:130)を見ると、こう書いてあります。“あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。”“みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。”
 神のことばは剣のように鋭いと同時に「光」であり、すべてを明るみに出し、サーチライトのように鋭く隅々まで照らして、隠れているものをもはっきりと示し、悟りを与えることができるからです。
 この(ヘブル人への手紙4:12)は、リビングバイブル訳を見ると、このようにわかりやすく書かれています。
“神様のことばは、生きていて、力にあふれています。それは鋭い刃物みたいで、切れ味が良く、心の奥深くに潜んでいる思いや欲望にまでメスを入れ、私たちの赤裸々な姿をさらけだします。”
「神のことばが生きていて、力があり、心を探ってくださることを体験する一週間としましょう。」

1.神のことばは生きている(ヨハネによる福音書5:24)
“「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。”
A)いのちの源である神を信じるために、イエス様のことばが語られる。
B)それを聞いて信じた者は、永遠のいのちを持っている。
C)そのことばを信じ続けているなら、死からいのちに移っている。
【考えてみましょう】
「その人のうちにことばが生きて働く時の条件は、『信じる』ということです。
『ここちよい神のことばだな』『なかなか意味深い神のことばだなあ』と感心しているだけでは何も変化はないのです。
神のことばを信じましょう。そうすれば、神のことばが生きてい ることがわかります。」
 みことばによって変化を起こす「信じる」という心のスイッチを入れることが必要なのです。
 ベンツやポルシェ、レクサス等のすばらしい高級車が展示場に飾ってあっても、何年も展示しっぱなしで動かすことがないなら、人の役に立ちません。整備し、ガソリンを満タンに注いでいてもです。人が乗り込み、キーを差し入れ、エンジンを始動しなければ意味がありません。
 すばらしい聖書のことばも、「信じる」というスイッチを入れなければ、その人のうちに生きて、力に溢れる働きをすることがないのです。
 私(横路師)が救われる前のことですが、奇跡が信じられない時期がありました。処女降誕も昇天も半信半疑だったのです。しかし、みことば(創世記1:1)“初めに、神が天と地を創造した。”、みことば(ルカによる福音書1:37)“「神にとって不可能なことは一つもありません。」”によってわたしの心にスイッチが入りました。「そうだ、全能の神がおられるなら、どんな奇跡を起こされることもたやすいことだ。」と、その時からすべての聖書の奇跡をも信じることができたのです。
 また、十字架の上でイエス様が「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」といわれたことばが、実は私の罪の深さのゆえであった、とはっきりわかった時、2度目の信仰のスイッチが入りました。聖霊様が働かれ、私はその時感動に包まれ、洗礼を受ける決心をしたのでした。以来、私の人生はすばらしく変わりました。
 聖書は二千年も前の古い教典、道徳基準の単なる教理の本と考えたり、理想的なことが書いてあるが、今の自分にはとてもできないと考えている人には、「信じる」という信仰のスイッチを入れることができません。
 サタンはこの世の考え、周囲の人々を使って、信仰のスイッチを入れさせないようやっきになって働いています。神のことばを「信じ」、生きて働かれるみことばのすばらしさを体験しましょう。

2.神のことばは力がある(第1コリント人への手紙1:18)
“十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。”
 「十字架のことば」とは、「イエス様が私たちを救うために死んでくださった」という福音のことばです。復活のことを聞いて、そんな馬鹿なことは信じられないと拒絶する人が何と多いことでしょう。しかし、この十字架のイエス様の死と復活が自分の罪の赦しと永遠のいのちに関わることと信じ、受け入れた私たちにとっては、生きる力となります。
A)救いを受ける者にとって力となる神のことば
B)十字架のことばには、神の約束が語られている。
1)永遠の罪の赦しが与えられている。
2)永遠の御国の相続者となる。
3)永遠に神に愛されている。
 特に、「神に愛されている」ことを知ることは、大きな人生の力となり救いとなります。(イザヤ書43:4)で神様は“わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…”とはっきりと語られています。また(エレミヤ書31:3)では“…「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。…」”とあります。人は誰も神様が愛してくださり、この世に生まれさせてくださったのです。
 皆さんはこの実際にあった話をお聞きになったことがあるでしょうか。アメリカのボストンに一人の少女がいました。彼女はひどい精神病で地下の病室に入れられ、人が近寄ると奇声を上げ、恐ろしいことばでその人をののしり、手のつけられない状況でした。医者は全力を尽くしましたが、ついに回復不可能と診断し、少女の両親もあきらめて放棄、誰一人面会者もなく絶望的な存在となってしまいました。死を待つばかり、回復不可能、一生治らないとして見捨てられたこの少女に、人生の希望が少しでもあったのでしょうか?
 しかし、いのちのことばであるイエス様に出会えば、状況と人生が変わるチャンスがあるのです。この少女の場合、そうでした。年老いて退職した一人の看護士が、この少女に福音を伝え始めました。『イエス様はあなたを愛していますよ。」と。両親さえも見捨てた少女でしたが、看護士は六ヶ月の間あきらめず、福音すなわち主の愛を語り続けました。すると少しずつ少女の心が変わり始めたのです。心の暗やみが晴れはじめ、徐々に世の中に向かって心の扉を開き始めたのです。
 そしてついに、回復不可能と言われたひどい精神病が完全にいやされたのです。心の光を取り戻した少女はやがて、自分と同じように精神病で苦しんでいる人たちのために自分の生涯を捧げることを決心しました。
 この少女が、あの目が見えず耳も聞こえず言葉もしゃべれない三重苦のヘレン・ケラーを、世の光、奇跡の人に導いた教師、アン・サリバン・メイシー女史です。
C)神の力は、わたしたちを死の力から解放し、永遠の希望を与える。
【考えてみましょう】
「約束は、約束してくださった方の力によって成就されます。
私たちは約束のことばを信じ続ける努力が必要です。
神の力をとどめる者は誰もいません。
約束を手にすることのできる人は、信じる人だけです。
疑いによって約束を手にすることを遅らせていませんか?」

3.神のことばによって心を見分ける(エペソ人5:10)
“そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。”
見分けるためには探ることが必要です。「みことばの光」に照らし、また「みことばの剣」でたましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも→つまり心の奥深くに潜んでいる思いや欲望にまでメスを入れ、私たちの本心を探っていただくのです。
ここに自分の心の動機を見分ける三つのポイントがあります。
A)見分ける一つの基準は「主に喜ばれる」こと。
B)主が喜ばれることは聖書に記されている。
C)見分ける慎重さが必要である。
主が喜ばれることとして聖書に書かれているみことばはたくさんあります。イエス様は新しい戒めとして「互いに愛し合いなさい。」と言われました。互いに忍耐し合い、赦し合い、心から愛し合うことが「主に喜ばれること」です。
私が今していることは果たして「主が喜ばれること」だろうか、「互いに愛し合う」という基準から外れていないだろうかと、自分の心の中を探ってみるのです。人のことを考えず、自分のことばかり考える自己中心に陥っていないだろうか、といつも探り、点検してみることです。
【考えてみましょう】
「みことばをしっかりと心の目で見つめましょう。隠されている肉の欲の動機を正直に認め、それに影響されないように、神の前における正しい良心に意識をおいて、みことばを信じましょう。」
私(横路師)が救われて間もない頃のことです。福山の教会の水曜日の定期集会と、当時熱心に活動していた市民合唱団の練習日とが同じ曜日になり、主を第一とすることの選択で、心が探られた経験がありました。葛藤がありましたが、集会出席を選ぶことで、平安と祝福が豊かに与えられました。
小さなことから大きなことまで、毎日の生活の中で心探られることがありますが、神のみことばに照らし、主が喜ばれることかどうか、愛をもっての言動かどうか、をチェックしながら、この一週間を過ごしていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年10月4日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 百合子 師)

   旱天慈雨 かんてんじう  up 2008.10.4


日照りに降る雨の意から旱天は日照りが続き、長雨が降らないこと。
慈雨は恵みの雨の意で、恩恵が行きわたること。


イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
(ヨハネ4:13〜14)


 

 

 自然界の日照り、干ばつも大変恐いものですが、心の中の日照り、干ばつも大変恐いものです。雨の恵みがいかに大切なものかは、古代の雨乞いの儀式からも伝わってきます。人々が生きていくために、生活を営んでいくために欠かせないものなのですから。
 同様に、私たちの心をうるおしてくださる神の恵みの雨があります。この雨を当たり前と考えるのではなく、恵みと考えて、しっかりうるおしていただきましょう。何一つ当たり前のものはないのです。全ての存在のご計画であり、神の恵みです。

1.旱天による私たちの3つの渇き(第1テサロニケ人への手紙5:23)
“平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。”
 私たちにとって渇きは3つあります。肉体の渇きと、心、霊の渇きです。
(1)肉体…水を飲む、食べる、運動する、休養する 
 あらゆる自然的な欲求に対する渇き。
(2)心…人が求めるものは「永遠に変わらない愛」であると、聖書は言っています。人と人との関係において、また目標達成のための活動において、また芸術において、様々な娯楽などを追い求めることでの充足もあるでしょう。しかし、永遠に存続するものでないなら、一時的には満たされても、また渇いてきます。サマリヤの女も、愛を求めて次々と夫を変えていきました。しかしイエス様が「わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがありません。」と言われた理由は、心よりも深い部分である霊の渇きを、彼女に気づかせるためでした。
(3)霊…霊がうるおされないと、完全な満足はありません。その渇きをうるおすのが、永遠のいのちの水です。

2.慈雨による渇くことのない水、「永遠のいのちの水」はどこから?
(1)「いのちのパン」天からの水(ヨハネによる福音書6:32〜35)
“イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」”
 天から下って来た水を飲む者は、永遠に渇くことがありません。
(2)永遠のいのちのことばをもつ方(ヨハネによる福音書6:68)
“すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」”
 永遠のいのちの水は、イエス・キリストが持っておられる「いのちのことば」です。

3.どのように、永遠のいのちの水を得るか?
(1)イエス・キリストが与える水を飲む(ヨハネによる福音書4:13〜14)
“イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」”
 イエスが与える水は渇きを止めるだけでなく、その人のうちで泉となります。私たちは自分の専門分野、趣味等についてきかれたら、詳しくすらすらと語れるでしょう。しかし、自分の魂、心の状態をきかれたらどうでしょうか。いかに自分の霊、魂の状況が空しく、空っぽであるかがわかってきます。その空しさ、空っぽさは、いのちの水が内側にないからです。空しさを感じる理由は、永遠のいのちの水が霊の中に欠けているからです。クリスチャンであるなら、その水をどこかで見失っている可能性があります。肉において、精神的面において、いくら満足してもいずれ渇いてしまうのは、霊の奥底が渇いているからです。
(2)御子を信じる(ヨハネによる福音書3:16)
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
 御子を信じている人は、永遠のいのちを持ちます。そして死から永遠のいのちに移されているのです。
(3)御子=永遠のいのち=いのちのことばを信じる(第1ヨハネ:1〜2)
“初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについてーこのいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。ー”
 いのちのことばが目に見えるかたちで現れたお方、その方がイエス・キリストです。この方は神であられる永遠のいのちのみことばです。ですから、みことばを読むことで、永遠のいのちが豊かに宿り、さらに聖い神の子として、私たちは育成されていきます。みことばは生きて働き、力があります。聖書のみことばをしっかりと読んで信じ、信頼していきましょう。

4.いのちを与えるのは? 御霊です。(ヨハネによる福音書6:63)
“「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」”
 いのちを与えるのは「御霊」である聖霊様ご自身です。みことばを信じる時、御霊ご自身がいのちを与えてくださり、内住のキリストとして、私たちの内側に住んでくださいます。今日、どのみことばによって私たちは生かされているでしょうか。より多くのみことばをもって生かされていきましょう。
 みことばを多く読む時、それらのみことばは「ロゴス」ですが、その中のあるみことばが、御霊によってあなた自身に、より印象的に強く与えられることがあります。それが「レーマ」であって、その「レーマ」なるみことばは、あなたを解放し、変えていくことができます。
御霊は慈雨の御霊であり、聖霊のバプテスマを受ける時に、私たちの内に来てくださいます。
【聖霊のバプテスマを受ける】(ヨハネによる福音書7:37〜39)
“さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。”
 まず、自分が渇いているということに気づくことが大切です。多くの場合、肉体的、精神的満たしばかり求めて、真の霊的満たしの必要性に気づかないことがあります。
 この恵みの御霊から離れてしまうと、どうなるでしょう。しばらくは何も感じないかもしれません。しかし、一定以上には慣れてしまうと、急にガクッと落ち込んでしまいます。空しさから、絶望にがんじがらめになってしまうのです。私たちは決して神の恵みから離れず、霊の渇きをいつもイエス様にいやしていただく必要があります。
【生ける水の川が、川々となって心の奥底から流れ出す。
 そのいのちは、霊→心→肉体へ →世界へ流れる。
 その水に触れるもの全て生きる。】(エゼキエル書47:1,8〜9)
“彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。」「彼は私に言った。『この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」”
 神を知らない人は霊が死んでいるので、渇きを、肉的なものや精神的なものでいやそうとします。しかし完全には満たされないので、次から次へと追い求め続けていかざるを得ません。しかし、神様のいのちは、霊の中に入って霊を満たしてくださり、更には心を満たしてくださいます。
 神の霊から流れてくる神の愛が、真実な親の愛として私たちの魂に流れて来て、満たしてくださるのです。私たちの目的は、この永遠のいのちの目的と同じになり、肉体のうちにも働いて、その目的を実行、行動へと移していくのです。神を知らない人々の満たしは、肉から魂で止まってしまいますが、神を信じた人の満たしは、霊の満たしから魂の満たしに、そして肉体への満たしへと流れ、ついには世界への満たしへと流れて行きます。
魂と、霊から湧き上がってくる水は、私たちをきよめ、私たちを生かし、他の人と話す時、その相手にも流れていきます。それは世界へと注ぎ込まれていきます。「注ぎ込まれる」とはすばらしい表現です。「傾注」されるということです。注がれた水が流れていく時、私たちのものに良いものは何一つないのに、聖霊様が相手の人々に直接触れてくださり、その聖霊様のいのちの水が人々を救い、いやし、解放してくださいます。それが「もはや私が生きているのではない、キリストが内に生きてくださっている」という状況です。このことを知識で知るだけでなく体験してください。周りに天の聖い影響を与えていくのです。私たちは神に期待し、望みを持ちます。その期待は永遠にいたるものです。
“「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”(使徒の働き1:8)
【人々への救い、解放、いやしの川が、川々となり、あなたを通して全世 界へ流れ出て行く。】
 この神の恵みの雨を、内に宿していきましょう。
○私たちは御子を信じる時、永遠のいのちへの信仰のとびらが開かれます。
その泉は枯れない。はじめチョロチョロ、細く長く、そしてだんだん力強く、川となり、さらに川々となって勢いよく私たちの中から、永遠のいのちの水が湧き出し、流れ続けます。
 御子を信じる時、無限のいのちを得ます。信仰によって無限に与えられていくのです。
○もし今自分にその力がないように感じている人がいたら、だまされてはいけません。御子を信じる者は永遠のいのちを持つからです。そして泉はあるが、この世という土、泥で覆われてふさいでいないでしょうか?私たちは、それをイエスの御名によって取り除き、もう一度、神の御子を見上げることが大切です。
 永遠のいのちの泉が、この世の汚れた土、泥でふさがれないようにしましょう。永遠のいのちを軽んじることで、この世の汚れたものが入ってきます。この世を支配するのは、暗やみの支配者であるサタンです。このサタンに心を開いてしまう(永遠のいのちの恵みをおろそかにし、肉や精神的な楽しみにのみ心を向ける)時、せっかく解放され、永遠のいのちの恵みに入ったのに、再び闇に支配されてしまうようになります。私たちはその危険性を悟り、心を吟味することが必要です。私たちは、自分の中にあるこの世のものを取り去りましょう。(使徒の働き3:2〜8)に、足の利かない男の話があります。彼は最初はお金を求めて、ペテロとヨハネを見つめました。しかし、イエス様の御名を信じた時、天のものに彼の心は向けられ、変えられました。 私たちは決してこの世では味わえない、永遠のいのちを受けています。そして、イエス・キリストを知ることを求めましょう。ペテロが言った「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」という信仰が、私たちのうちにしっかりとあるでしょうか。この力強いいのちの川の泉があるでしょうか。この世のことでふさがれていないか、点検してください。

5.豊かな永遠のいのちへと発展する(ヨハネ10:10)
“…わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”
 天のいのちはイエス・キリストのいのちであり、復活のいのちです。死とハデスに打ち勝ついのちです。
 様々な暗やみの力、呪い等が世の中にはあります。しかし、神のいのちは、それら全ての闇の力に打ち勝つ力です。神を知らない魂はよみに下ります。そしてそのよみを支配しているのが、サタンです。この死の力に支配されている全ての人々を解放し、打ち勝たれたのがイエス・キリストです。そのイエス・キリストを死の力から解放された御霊が、今私たちの内に宿っておられるのです。
【天のいのち=神の御子のいのち=復活のキリストのいのち 
 これは暗やみの支配者、死の力を持つ者、サタンと死とハデスに打ち勝たれ たいのちです。キリストは、死とハデスの鍵を持っておられます。】
 (ヨハネの黙示録1:17〜18)
“それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」”
 死とハデスとの鍵を、既にキリストはサタンから取り戻されました。
【私たちも、御子を信じる時、すべての呪い、病、罪、死に打ち勝つい のち、勝利者としてのいのちが与えられます。】(ローマ8:37)
“しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。”
 勝利者とはもう倒れないという人ではなく、何度倒れても、何度でも起き上がってくる人ということです。私たちはまだ完全ではありません。最初はチョロチョロした流れにすぎません。しかし、大きな流れになるのです。たとえ負けた時でも、決してあきらめず、しっかり起き上がって歩き出しましょう。すべての呪い、病、罪、死に打ち勝つ力が与えられているのですから。私たちはたとえ死んでも、パラダイスに引き上げられるのです。私たちはどのような状況の中、日照り、干ばつ、の中にあっても、すべてに勝利して完成されるのです。その勝利者を目指して、しっかりと歩んでいきましょう。黙示録の7つの教会に与えられている全てのチャレンジすべき問題点すべて、勝利する力が与えられているのです。勝利者となれるいのちを、神によって与えられているのですから、サタンにだまされて、奪われないようにしましょう。
 御子を信じているなら、私たちは勝利者となる、この永遠のいのちを持っているのです。

 

 

 

 

 

 

■2009年9月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一読三嘆 いちどくさんたん  up 2008.9.27


文章を読んで何度も感心すること。


あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。
(詩篇119:140)


 

 

 神のおことば、聖書というものは、まさに「一読三嘆」するにふさわしいものです。聖書は、ユダヤ時代から数えれば、実に四千年以上も前から拝読されているにもかかわらず、常に新しい発見と感動をもたらしています。単に物語を知るだけではなく、そのできごとやことばにいかに味わいと深みがあり、感心するものがあるかを証明していると言えるでしょう。
 読むたびに新しい感動を得ることができる、この「みことば」という存在に、ぜひ気づいてください。

「みことばを読むことによって、たましいに感動や悟りが与えられます。みことばの魅力の深みを味わう者となりましょう。」    

1.「よく練られている」とは?
「練る」=もとは絹糸を柔らかくするための作業のことをいう。
絹糸を酵素をはじめとする各種精錬法で練ることにより、絹本来の美しさや光沢、しなやかさを引き出すことができる。
 絹糸も、まゆから採られた最初の状態では、硬くてつやもなく、決してすばらしいものとは言えません。その絹糸を「練る」ことによって初めて、本当の輝きを得ることができるのです。よく「練られた」絹糸は柔らかく、しなやかで、他にはない光沢を持っています。
「『よく練られたみことば』とは、絹に例えるなら、最高級品の絹糸ということができます。」

2.一読三嘆のみことば
A)聖書66巻の中で、どの書簡に心が動かされましたか?
「愛読の書簡はどれですか。どうしてその書簡を選んだのでしょう?」
 以下に私(辻師)が選んだ書簡を挙げて、理由を述べています。参考にしてください。
【例】
(1)ヨハネの黙示録
「罪に対する厳しい神のさばきと、主イエス・キリストを信じる敬 虔な者たちへの深いあわれみによる、永遠の人生に対する希望を 与える約束の書簡。」
 この書を読むほどに、自分が赦されていること、あわれみを受けて今講壇に立っていることを痛切に感じます。そして、この神様のゆえに、希望を持つことができるのです。どんな小さな敬虔も、神様はお見捨てになりません。小さくてもダイヤ、価値あるすばらしいものであると見てくださっているからです。

(2)伝道者の書
「創造主を畏れずに生きる人生のむなしさを教えている。」
 仏教でいうところの、仏の境地=成仏が、この書の言わんとするところです。私たちクリスチャンは、仏の境地から新しい人生が始まるのです。

(3)レビ記
「罪人を救うための贖いがいかに完璧であるかを、宗教儀式の中に象徴的に表現している。それによって、私たちがいかに愛されて いるかを感じ取ることができる。」
 難しい宗教儀式について書いてある、と敬遠されがちですが、実は、イエス・キリストの十字架がこの中に象徴されているのです。

 このように、聖書は、一生かかっても読み切れないほどの深い内容が秘められています。この上なく魅力あふれる書物であると言えるでしょう。

B)どの書簡の、どの箇所や節に心を動かされましたか?
【例】
(1)(ヨハネによる福音書6:27)
“「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」”
 無感動、無関心、無気力のただ中にいた私(辻師)の心を、このみことばが根底から揺るがしました。あなたの人生にも、神のみことばは、劇的な変化をもたらします。単なる「一読三嘆」では終わりません。人生を激変させるほどの影響を与えてくださいます。

(2)(創世記22:1〜19)
(1〜2節)“これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」”
(12節)“御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」”
 アブラハムに与えられた最後の試練は、今までの信仰を根こそぎにしかねないほど、つらいものになりました。奇跡によって与えられたひとり子イサクを、まるで異教徒がするように、いけにえとしてささげよと言われたのです。
 人生の苦しみと矛盾を忍ぶことの意味が、この箇所で示されています。すべては主を畏れ敬うことにつながっているのです。
「主を畏れ敬う神への信仰とはどういうものであるかを、アブラハムの神に対する応答によって教えられる。」
「また、主なる神が、私たち罪人を救うために、ひとり子イエス様をいけにえとして贖いの御業を成し遂げられたことを思うと、感動せずにはいられない。」
 聖書をよく理解し、悟ることができたなら、私たちはもっと、お互いに愛を抱いて仕え合うことができるでしょう。

3.一読三嘆をもたらすみことばの働き
(1)(ヘブル人への手紙4:12)
“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。”
 みことばによって自分を判別されることを恐れずに、真っ正直に向き合ってください。

(2)(使徒の働き20:32)
“「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」”
 霊的にも精神的にも肉体的にも、全人格的な成熟をもたらします。

(3)(詩篇119:105)
“あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。”
 足下を確かにし、行く道を指し示します。

(4)(詩篇119:130)
“みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。”

(5)(ヨハネによる福音書1:1)
“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”
 みことばの働きはすなわち、神の働きとも言えます。

 日常の忙しさや、目の前のできごとに心を奪われて、みことばをないがしろにしないように気をつけてください。たとえ一節でもいいのです。みことばを黙想し、瞑想し、心に味わってみてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年9月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   灯火可親 とうかかしん  up 2008.9.20


秋の涼しさと長い夜は、明かりのしたで読書するのに適しているということ。初秋のすがすがしい季節の形容。


この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
(黙示録1:3)


 

 

 「読書の秋」と言われる季節がやってきました。涼しくて過ごしやすく、頭の回転も良くなるすばらしい季節です。神様がせっかく与えてくださったこの季節に、ぜひ聖書の、特に今回は黙示録を読んでみてください。
「聖書が読みやすい自然環境を生かして、今週は黙示録を朗読しましょう。『時が近づいている』と記されています。知識だけでなく、心で、魂で悟れるように祈りつつ読んでみましょう。」
 (ヨハネの黙示録1:3)に記述されていることですが、この書を読み、心に留めることによって、幸いな人になってほしい、というのが、今回の黙示録朗読を勧めている大きな理由です。なぜなら、裁きの成就する時が迫っているからです。
 予測する、という言葉で連想されるのが、現代の災害予報の発達です。現在は昔と違い、衛星画像やレーダー反応などによって、かなり確実な災害情報や対策を得られます。そこで、神様の預言書である黙示録を読むことによって、私たちの持つべき心構えや、進むべき方向を知ることをお勧めするのです。

1.朗読の勧め(第1テモテへの手紙4:13)
“私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。”
 これは、パウロがいてもいなくてもしっかりやるべき事を教えています。勧めと教えはもちろん大事ですが、朗読の価値をもっと知っていきましょう。

「パウロは、テモテに心を用いることとして、みことばの勧めと教えることとに加えて聖書を朗読することを命じています。
聖書を朗読することによって、徳が高められる何らかの効果があるということです。」
 昔、ユダヤのシナゴーグ(会堂)でも、朗読はとても大事なことでした。ならば、現在の私たちにとっても、当然大事なことになるはずです。
「朗読とは、声を出しながら文章を読むということです。それには、感情を込めて読み上げるという意味あいも含まれています。
感情を込めて発生することでさらに肉体的・能動的な表現行為となり、より脳を活性化させると言われています。」
 脳が活性化すれば、色々な良い影響を私たちに与えます。他の人の朗読について告白するのも、記憶力を活性化させ、理解力を高めます。

2.聖書を読むにあたって
「どのような方が、どのような思いを持って、どのようなことを伝え教えようとして、聖書をこの世に与えられたのかを念頭に置いて読む。」
「そして、何よりも、読む側の私たちに一番大切な心の姿勢は、書かれた方の私たちへの愛を信じて読むことである。」
 例えば手紙は、手紙を受け取った時、書いた相手がどんな人か知っているほど、心に大きな反応を起こさせます。送り主を信じるなら、手紙に対して前向きな反応ができるでしょう。この「聖書」という手紙をくださった神様は、どんな方なのでしょうか。一人一人に尋ねると、「あわれみ深い」「全能なる方」「豊かな方」など、いろんな回答が返ってきます。あなたにとっては、どのような方ですか?自分にとってどのような方かというイメージが、手紙を受け取る際に大きな影響を及ぼします。手紙の文字に、心痛い、責められるような気持ちになっても、神様の愛を信じる人なら、前向きに受け止め、対処していけます。そして、たくさんの内容を詰め込んだこの手紙「聖書」は、あらゆる時、あらゆる状況に応じて、的確なことばをくださるのです。
(使徒の働き20:32)
“いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。”
この自学自習は、御国を継ぐという実を結ばせます。

(ヤコブの手紙1:21)
“ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。”
みことばによって、御国に入れます。

(ローマ人への手紙15:4)
“昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。”
 聖書を読んで、もし失望や絶望が起こることがあるならば、私たちの受け取り方が何か間違っています。正しく理解すれば、必ず希望が与えられるのです。
(第2テモテへの手紙3:16)
“聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”
 聖書は実質的に神の書物です。人から教えられるのは苦痛だと感じる場合でも、尊敬する神様からならば、すなおに「アーメン」と言えるのではないですか。
 教える人は、相手に強制するのではなく、ただ客観的に良いことを指し示すのみにしましょう。教わる人は、神様からのものとして受け取ったならば、つらいことであっても忍耐できますね。

(詩篇119:66)
“よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。”
 人の忠告、知識は、聞く相手からの信頼を得ていればこそ、有益なのです。その点、神様は、教えを受ける者たちからの尊敬と信頼を一身に受けておられる方ですから、安心ですね。

(第1ヨハネの手紙4:16)
“私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。”
 「愛を知り、信じている」ここが大事です。姿や利害に左右されない、高いレベルの愛を知り、それに信頼を置くのです。夫婦が、神の前に誓った結婚の誓いのゆえにお互いの愛を信じるように、です。何がすぐれているとか、何ができているからではありません。保証されるのが神であられるからこそ、相手に左右されずに誓いを貫くことができるのです。
 私(辻師)が神様を信じて洗礼を受けた時も、その「信じてみる」は決して気楽な判断ではありませんでした。この神様に全てを託せるのか、自分の人生を放り投げてしまうかのどちらかしかなかったのですから。そういう意味で、洗礼も、結婚の誓いと同じように、重要な神様への誓いと言えるでしょう。
 皆さんも、神様に育て続けていただいている最中です。神様の愛を信じ続けてください。人の愛も、神様が自分を愛して、すべてのことに責任を持ってくださるという保証のゆえに、信じてください。それらが、進み続ける中で非常に大切なことであると、今までの私の経験の中からお勧めします。

【参考】
★時間的余裕のない方は、黙示録1章、2章、3章と20章、21章、22章を一日一章ずつ読んでみましょう。
★できるだけ、22章まで読むことをお勧めします。その場合、一日4章を4回と一日3章を2回にすれば、黙示録を読み終えます。
★一人で朗読することもすばらしいことですが、家族や兄姉とともに朗読することも試してみてください。
以上を参考にしながら、この季節を生かして、ぜひ朗読を実行してみてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年9月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   南山之寿 なんざんのじゅ  up 2008.9.13


『南山』は、中国の西安市から東南にある終南山のこと。
『南山』が崩れることがないように、事業が崩壊せず、永遠に続くことを意味している。また、長寿を祝うときに用いる言葉。


英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。不正な利得を憎む者は、長生きをする。
(箴言28:16)

人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
(詩篇103:15)


 

 

 山の姿は何百年経っても変わらないのと同様に、会社が創業以来、長く変わらず祝福されていることを意味していることから、長生きすることは、祝福された人生である、とお祝いする時に使われています。
「福寿敬愛」のお祝いをするにあたって、『長生きする』ことについて考えてみましょう。」

1.(箴言28:16)の意味を考える
・英知=深遠な道理(ものごとのそうであるべき道筋)をさとりうるすぐ れた才知(才能と知恵)。
・君主=国の統治者、支配者。権威と力を持っている者。
・多くの者を強奪する=欲しいままに自分の物とする。思い通りにする。
 人は、多くの権威を持つと、つい自分の欲するままに事を進めようとします。手持ちの現金が少なければ、決めた物しか買い物をしませんが、ゆとりがあれば思いついた物を買ってしまいがちです。これらは小さなことですが、お金や立場など、まわりを動かす大きな力を手にすると、相手に無理強いさせ、従わせようとする傲慢さが生まれてくるものです。ですから、君主が英知を欠くと、他人のものさえ力ずくで奪ってしまうこともしてしまいます。
・不正な利得を憎む者=創造主を畏れ敬う英知ある者。(箴言2:3〜5)
“もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。”
 英知を求めると、天地創造の神を敬うことを悟る、と記されています。不正な利得を憎む者は、単なる自己義ではなく、神の前における自分の人生を考え、天地の主権者であり、悪を裁かれる神を心から敬っているので、不正の利得を憎み、それから離れます。神がおられるとは、裁き主がおられるということ。裁きがなければ、人は好き勝手を行います。「悪を裁く方がおられるので、私たちは悪から離れる」というのは、単純な賢さですが、これが英知のもとです。自分の思い通りにする人生は、責任を負わされることをわきまえておかなければならない、というのも英知です。
・長生きする=永遠の人生。神の国における永遠の人生に入る。
 長生きは地上における期間だけではなく、永遠の人生の始まりとして、神が地上で長らえさせる、祝福されるという永遠の人生を象徴しています。
【意訳】『権威と力を持つ者が、天地の統治者である創造主なる神を畏れないなら、自分の私利私欲のままにことを行う。しかし、創造主を畏れるまことの英知ある者は、神のみこころである永遠の人生に至る。』
 私たちクリスチャンは、主を畏れ敬う立場から聖書を理解していくことが大切です。
 永遠の神の御国に入り、そこで長生きできるのは、イエス様による罪の贖いのおかげです。救い主がおられてこそ、長生きの祝福があり、救い主がおられなかったら、永遠の火の池の苦しみが待っており、それは祝福ではありません。
 先週、地上の人生が永遠の人生の土台、基礎作りだとお話ししました。この地上はそんな大事な時期です。神様が裁きの座であなたに、「良い土台を築いたね。永遠の神の国に入りなさい。」とお祝いのことばを語ってくださるような人生を、この地上で送ろうではありませんか。

2.(詩篇103:15)の意味を考える
人の日=地上での人生。生涯。時間的長さ。
草のよう=小さな存在。短い期間。豊かさ。
『人は、全宇宙の大きさから考えると小さな存在であり、その生涯は一瞬のような短さである。』
 私たちは、光の粒子が発信して物体に当たり、反射して物体を見ることができます。星の光が地球に届くのに、数万年かかるような距離があるわけですが、光の粒子が反射して戻ってきていない夜空の暗いところがある状況もある偉大な宇宙に地球があり、そこに私たち一人一人が生きているわけです。全宇宙の大きさから考えると、私たちは細菌のような存在です。地球は誕生して60億年経っていると言われています。そのうちの私たちの100年にも満たないこの世の人生は、それに比べほんの一瞬です。
野の花=目立たないが、野の花の美しさがそこにはある。
 花は大小関わらず、美しさがあります。
咲く=人生において必ず花を咲かせるときがある。繁栄の象徴。
『人は、小さな存在で短い人生であるかもしれないが、野の花がそのうちに持っているいのちの美しさを咲かせるように、人生の花を咲かせることができる。卑屈にならず、高ぶらず、自分らしく生きるように。』
 まわりと比べるという生き方ではなく、「私は私である」という、自分らしく生きる生き方ー神様が私たちを置かれた場所で、精一杯生きること。
 家の壁のひび割れた所にキュウリの実がなったり、アスファルトのひび割れに何かの実ができた、というニュースを聞いたことがありますが、種はどこに落ちても、その種類の実をならせます。人間もどのような地域、環境に生まれようとも、「人間として」生きることができるという意味を、神様は私たちに教えておられるのではないでしょうか。しかし、私たちは「こんなアスファルトの割れ目に生まれてきた」と言ってしまうのですね。アスファルトで固められた、バス停のイスの下に咲いたタンポポが、「どうしてこんな所に生まれて来たのか」と、花を咲かせず、ショボンと肩を落としてしまうでしょうか。いいえ、植物は育つ条件が整えば、花を咲かせます。親や環境の悪さは問題でなく、大事なことは、あなたが神の姿に似せて創られた神の子としての種だということです。だから、内にある神のいのちを育てていけば、どんな環境であっても「神の子」としての自分を表すことができるのです。人のせいではありません。どこであっても、神の姿に似せて創られたいのちの種は、必ず神の子の実を実らせることができます。にもかかわらず、自由意志で「こんな所では無理だ。」と種を育てず否定するのは、愚かなことです。神がご自分のかたちに似せて創られたことを受け入れない人は、神より自分を上に置いた高ぶり、傲慢な位置にいます。創られた者が神に苦情を申し立てるなど、あってはならないことです。完全な神様があなたをお創りになり、あなたの内にいのちをお与えになったのです。そのいのちを神様のみこころに沿って輝かせていけば、絶対に長生きし、神の御国に入れる人生を歩み続けることができるのです。
 しかし、環境や出会った人々によって、卑屈になったり傲慢になったり心をゆがめたりして、神の姿であるその「いのちの輝き」を十分に発揮せず、自分の思い通りに生きてしまうなら、大変な状況を味わう人生になってしまうかもしれません。そういうところから私たちは悔い改めて、人を見て生きることを止め、神が与えてくださった神の子としてのいのちを輝かせ、その花を咲かせようと自分を変えていくーそのためにキリストをこの地上にお送りになり、神が私たちをお創りになった証明を歴史の中に与えてくださいました。 さらにイエス・キリストは、長生きできるはずのない罪人の私たちが、神の国という永遠の人生で長生きできるように、あるべき元の道に立返ることができる救いの道を完成してくださいました。悔い改める者はもう一度やり直すことができるという、長生きの祝福を受ける者とされているわけです。このことをしっかりと感謝していきたいですね。
【考えてみましょう】
神様から与えられている「いのち」の美しさを咲かせる人生とは?
(1)神様の愛への信頼(第1ヨハネの手紙4:16)
“私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。”
 どんなに喜ばれない過去があっても、神の愛を知って、神の愛を信じてください。「愛される資格がない者だ。」と、自分から神様の愛を避けていませんか。神様の愛を信じる時いのちが輝き、物質的な繁栄ではなく、心の豊かさをもたらすいのちの美しさを咲かせる人生になるのです。人は愛を信じて生きると、力強く輝き始めます。
(2)神様の愛に対する期待(第1テモテへの手紙6:17)
“この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。”
 経済社会では富は大きな力となり、思い通りに物事を進められます。ですから、つい傲慢になりがちです。豊かな財産を築いた取税人ザアカイの前に、人々は彼を尊敬してはいませんでしたが、その財産の前にペコペコ頭を下げていました.この世では力となるお金は、傲慢さを生み出してしまいます。そして、このお金に頼り、望みをおき始めます。確かに老後のために蓄えをすることは大事なことですが、最終的な望みにならないように気をつけなければなりません。神様が「私の人生に計画を持っておられ、それに沿って導いてくださっている」と、自分の将来に対して神様に望みをおきましょう。
 また、「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」とありますが、金額の大小で人生の豊かさを測る人は、まだ富に望みをおいた考え方をしていると言えます。
 野の花とバラでは、花を咲かせるための必要が異なるように、ここでいう「すべて」は自分の分をわきまえています。そして、これで十分だと、楽しませていただく人生だと気づき、今与えられているもので、自分の内にあるいのちを輝かすことができると気づくことが大切です。
(3)神様の愛への応答(第1ヨハネの手紙4:10〜11)
“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。”
 普通は、愛してくださった方を愛することが応答ですが、私たちが「互いに愛し合う」ことが応答となっているのはなぜでしょうか。例えば、良い王様が、国民が幸せに暮らせるようにと環境を整えても、国民が王様を尊敬はしても、国民同志に争いや分裂があるなら、王様はどんな思いをされるでしょうか。せっかく国民のために環境を整えても、かえって国民が利害関係で争うなら、王は心を痛め悲しまれ、何のために整えたのかと思うことでしょう。
 一人一人の罪のためにキリストが十字架で裁きを受けてくださったのに、私たちが争うのはみこころではありません。神が愛しておられる人々と平和に暮らすことが、神の愛への応答です。互いに愛し合うことによって、神があなたに与えた贖いのいのちが輝き始めます。
「永遠の人生にまで残る実は、信仰と希望と愛です」
(第1コリント13:13)“こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。”

3.神のさばきにおける「南山之寿」(マタイ25:19〜23)
“さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だたから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。…』”
清算のとき=神の最後の審判のとき 
預けられたタラント=その人の人生、いのち。
もうけた=神の愛に対する信仰と希望と愛をもって生きた実。
主人からほめられる=みこころをまっとうしたことへの祝いの言葉。
多くのものを任せられる=主人から信頼されるという報い
 私たちもそのように、神様から信頼される者でありたいですね。そのために、神の愛に対する信頼と期待と愛の応答をしていく生き方をすることです。あなたが「敬虔な生き方をしよう。」と努力する中で、神は裁きの時、言われるでしょう。「よくやった。あなたは草のような人生で、野の花を咲かせるようなわずかな物に忠実だった。悔い改めて、何とか罪から離れるような努力をし続けたね。」と。あなたが到達していない途上で、お祝いの「南山之寿」をいただけるのです。「永遠の人生に入りなさいよ。」と。
 ぜひ、祝福のことばをいただけるように目指し、イエス・キリストによる贖いのいのちの人生を,信仰と希望と愛をもって歩んでただきたい、と思います。

 

 

 

 

 

■2009年9月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   磨杵作針 ましょさくしん  up 2008.9.6


太い鉄の棒をひたすら磨き続けて、細い針にすること。転じて、くじけず努力を続けていけば、どんなことでも成し遂げることができるというたとえ。


また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
(第1コリント15:2)


 

 

 鉄の棒を、「ただひたすら磨いて針のサイズにまで仕上げろ」と言われたとしても、それを本気で実行する人がいるでしょうか。しかし、自然界においては、小さな水滴が岩に穴を開けるという、長い時間のなし得る奇跡を見ることができます。
 目に見えない小さな努力の積み重ねが、後にまわり中が驚くほどの結果をもたらすことになるのです。「福音のことばを保つ」という小さな積み重ねは、「磨杵作針」であって、実行し続ける人に救いという大きな結果をもたらします。
「だれも神のさばきから逃れることはできません。永遠の滅びの審判から救われるのは、救い主イエス・キリストを信じる事です。そして、最後まで信じ続ける者が救いの判決を受けるのです。」

1.救いを手にするための「磨杵作針」1(マタイ10:22)
“また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。”
憎まれる→太い鉄の棒→目の前の現実
救われる→細い針→目指しているゴール、目的、ビジョン
最後まで耐え忍ぶ→ひたすら磨く→みことばに合わせていく努力

 人は誰も、憎まれて心傷つきたくはないものです。だから、相手に妥協したり、機嫌を取ったりするのです。しかし、イエス様を一番にするなら、憎まれることを、甘んじて受けるときもあります。苦しみの時に、神への真実を自分の都合で退けてしまうなら、信じているとは言えないのではありませんか?神様への愛のゆえに、正しくないことを「良し」と判断する人々から責められることは「磨杵作針」、周りから磨かれていることになります。
 さらに言えば、イエス様を憎む人々から好かれたいと思う人が、私たちのうちにいるのでしょうか?今の自分の痛みから逃れることを、あなたの一番にしないでください。
 毎日、デボーションで「磨杵作針」の自己吟味をして、磨く事をやめたり、怠けたりしないように気をつけていきましょう。

2.救いを手にするための「磨杵作針」2(ピリピ1:6)
“あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。”
なかなか自分が変わらないという現実→太い鉄の棒
キリストの姿に変えられていく→細い針
良き働きを始められた方への希望を持つ→ひたすら磨く
 救われた時や、メッセージを聞いた時に、すぐ劇的変化が起こる人は少数です。ましてや、逃げてしまったり、横道にそれたりしたら、ますます良い結果が見えにくいものです。しかし、金属がきれいにつるつるになっていくのは、あきらめずに磨き続けた結果です。太さは違わないように見えるかもしれません。しかし、汚れや錆が取れ、光沢が出て来て、やがて鏡面のようにきれいになっていくのは、削れ続けている証拠です。これには本当に時間がかかります。
でも、良い働きを始めてくださった神様に希望を持つのが、ひたすら研磨を続けることとイコールになります。
 自己変革はたいてい、一朝一夕には起こらないものです。毎週礼拝に来て、メッセージを真剣に聞いている人々で、もう長い事教会に来ている人が自分を振り返ったとします。本当に、かけらも変わっていない人がいるでしょうか?
 神のことばは生きています。必ず何らかの変化を与えられるのです。それなら、神の約束として、ご自分の理想の姿に変えてくださるというのですから、必ず変えられると確信できるのではありませんか?
 希望を持ちましょう。それが磨き続けるということなのですから。

3.救いを手にするための「磨杵作針」3(第1テモテ6:19)
“また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。”
基礎工事の期間であるこの世の人生→太い鉄の棒
家の完成を目指す永遠の御国における人生→細い針
立派な家のための立派な基礎を築く→ひたすら磨く

 信じることによって与えられた「まことのいのち」は、神のさばきの日に現実になります。ワープロでひらがなを変換して、最も適した漢字を選んで確定するように、神様は私たちを判断して、確定されます。神様は私たちが、信仰を保っているかどうかを見られます。先に言いましたが、「神を信じた」というある日の出来事が信仰なのではありません。そして、信仰を保ち続ける事は、教役者であるテモテのような人でさえ、困難を覚えるようなものなのです。「私はなぜこんなことをしているのだろう。」「なぜこんなに苦しめられるのだろう」と思うようなことが、数知れず起こります。そんなふうに「磨杵作針」している私たちを見て、周りの人たちはどんな風に思っているでしょうね?私たちの理想を聞いて、不可能だ、馬鹿馬鹿しいと思っているのかも知れません。クリスチャン自身でさえ、あきらめてしまいたくなるような大きな目標です。でも、こんな自分を救おうとしてくださったイエス様のことを考えてみてください。うまくやれない自分を見て、「行いによって救われることはこんなに難しかったのだ。」と知ってください。そして、信仰による義を与えてくださったイエス様に、心から感謝してほしいのです。
 さらに言えば、神の前に罪を犯した者へのさばきが、どれほど恐ろしいものなのかということに思い至っていただきたいのです。私たちは、太い棒を磨き続ける→神に希望を抱き続ける、だけで救われるという、あり得ないような不思議にあずかっています。
 そして、神の与えられた命令はただ一つ、「互いに愛し合う」ということです。私たちの人生の基礎は、この「互いに愛し合う」を実践することに集約されています。この基礎をしっかりと据える事によって、永遠の世界において家が建つのです。私たちは、キリストがしてくださったように、兄弟を赦し、愛し、受け入れましょう。永遠の家のための基礎をしっかりと据えましょう。もちろん、赦し合い、受け入れ合い、助け合う愛を実践する日々は、決して楽ではありません。
 基礎工事は汚い、きつい、地味な仕事であり、結果はすぐには見えないのです。結果が見えないので、つらい気持ちになることも何度もあるでしょう。しかし、基礎工事なくして、家の完成も保持もあり得ません。今、苦手なタイプの人と交流して、赦し合いや受け入れ合いをすることは、自分にとって苦しく、つらい作業と言えるでしょう。反対に、そういう人と顔をあわせず、つきあわなければ、表面上は何事もなく時間が過ぎていきます。しかし、手抜き工事のツケは、永遠の御国でハッキリと現されて、恥を見ることになるでしょう。ですから、つらくても、苦しくても、この「人生」という太い鉄の棒をしっかりと磨き続け、互いへの愛を実行に移していきましょう。

「信じ、期待し、愛し合うという福音を、くじけずに続けてまことのいのち、救いを得ましょう。」
(第1コリント人への手紙13:13)
“こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。”
 先週のメッセージを覚えておられますか。遠い国から、みじめな姿で長い旅をする放蕩息子の心の支えは、父に対する信頼、父に対する希望、父の愛に対する愛の応答でした。これだけが、遠い国から長い旅をする彼の支えだったのです。
 私たちも、この信仰と希望と愛を持っていますね。これらだけは、永遠の御国に持っていける、永遠の価値のあるすばらしいものなのです。これらのものを、ぜひいつも携えていましょう。