■2009年8月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   懸崖勒馬 けんがいろくば  up 2008.8.30


切り立った崖で馬の手綱を引き押さえて、
間一髪のところで落ちるのを防ぐ意から、
間一髪のところで、はっと気づいて引き返すことのたとえ。


だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
(黙示録3:3)


 

 

 イエス・キリストの再臨は、神の裁きが始まるというしるしです。私たちは、主が再び来られるまでに、しっかりと自分の道を吟味し、もしそれているなら悔い改めて、正しい道に立ち返ることが大切です。再臨が来てからでは遅すぎます。私たちは今、目を覚ましていなければなりません。神の裁きを軽んじてしまうと、大変なことになってしまいます。そのことを表した四字熟語が今日のテーマです。
 車を運転していると、「はっ」と気づいて危険を回避することがよくあります。「引き返す」ことで、私の経験をお話ししましょう。ある聖会で、会場に向かって車を走らせていたところ、どうも行き過ぎてしまっているのではないかと気づきました。しかし、助手席に乗っていた妻が「道を間違っていたんでしょう」と指摘したので、つい意地を張ってそのまま行ってしまいました。そして、そろそろ引き返そうと思う度に指摘されるので悔しくなり、またそのまま行ってしまいました。そして悔い改めて引き返すのに大変だった、という愚かなことをしてしまったことがあります。
 間違っていることに薄々気づいているのに、意地を張って先へ進んでしまうことがないでしょうか?しかし、その先の事を考えてみる必要があります。もし、そのまま行けば切り立った崖だとわかっていたら、我を張るどころではありません。その危険性を悟っていないために、悔い改めることを遅らせていませんか?崖の向こうに神の審判が待っているなら、私たちは心をへりくだらせて、もう一度神のみことばに悔い改めて立ち返ろうと考えないでしょうか。

1.懸崖に向かう放蕩息子(ルカによる福音書15:12〜13)
“弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。”
 弟息子は、故郷を離れて自立しようと思っていました。単なる好奇心ではありませんでした。それでは、その心の奥底にあった的外れの考えを見ていきましょう。
(ヤコブの手紙4:1〜4)“何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。”
 このみことばはクリスチャンに対して語られたものです。なぜ戦いや争いがあるのでしょうか。私たちの心の中では、神の御心を行おうとする正しい良心と、欲望を満たそうとする自己中心が葛藤しています。そして、欲望を満たそうとする自己中心が強くなると、周りに戦いや争いを挑んでいくようになります。世の中を見てみると、この欲望が強くて、ストーカーをして、最後には殺してしまうという恐ろしい事件が絶えません。そういうストーカーの心の内にあるものが、実はこの弟息子の心の内にあるものと同じなのです。それは、「自分の思い通りにしたい」という欲望です。ストーカーは相手の思いは全く無視して、自分の思い通りに完全に相手を従わせたい、という欲求だけで動いています。ですから、思い通りにならないと戦ったり争ったりし、ついには殺してしまうのです。恐ろしいことです。
こういったことが,教会の中でどういう形で起こってしまうのでしょうか。例えば、小さないさかいがよく台所でありました。主婦が何人もいるので、各々が自分のやり方を主張し、それと違うことを相手がすると、機嫌を損ねてしまいます。思い通りにならないと、人は不機嫌になるものです。私自身もそうです。夫婦の関係では、それがよくあります。しかし、この「思い通りにならない」という感情を上手に治めないと、クリスチャン生活に大きな支障をきたらすことになります。もしあなたが、この欲求不満に圧倒され、ストレス一杯であるなら、まさに「懸崖勒馬」という、放蕩息子と同じ状態にあるのです。
たとえば、言っていることは正しく理屈は通っていても、そこに間違いが隠されていることがあります。弟息子はどこが間違っていたのでしょう。それは「私に財産の分け前を下さい。」と言った時からです。そこには、自分の思いのままに生きたいという思いが表れています。この思いが崖っぷちに向かわせていくのです。神の裁きにあい、永遠の滅びへと向かっていく第一歩が、「自分の思い通りにしたい」という罪です。
あなたの思い通りにできる範囲というものがあります。しかし、人はその範囲を越えたがるものです。たとえ我が子であっても、子どもを所有物のように見なし、自分の言う通りにさせることなどできません。子どもの自由意志を無視し続けるなら、子どもの反抗にあうでしょう。子どもにみことばを教えることも、子どもの心をコントロールするためではありません。子どもが、そのみことばに従って正しく判断できるように、教えるのです。教えは大切です。正しいルールを知らなかったら大変なことになります。例えば交通ルールにしても、よく新しいルールができますが、それを知らなくて違反しても、違反は違反として罰を受けてしまいます。知らなかったという言い訳は通りません。学ぶということは、違反しないために先に知らされる知識であり、とても重要なことなのです。ただ、それを守るかどうかはあなたの自由意志です。しかし、守らなかったら、安心して運転はできません。メッセージもそうです。私は皆さんを、地獄があるから、裁きがあるからと、支配するために言っているのではありません。放蕩息子のお父さんは、危険を承知で、どうして財産を分けてやったのでしょうか。無理矢理止めようとしても、子どもは反抗するだけだとわかっていたからです。いくら忠告し、知識を与えても、それでも行くというなら、当人の自由意志を誰もコントロールはできないのです。神でさえも、罪を選び取っていく人の意志を止めて、永遠の御国へ連れて行くということはできないのです。ひとりの人格者の自由意志は尊重すべきであり、成人した子どもは、自分の責任を自分でとらなければなりません。弟息子は、自分の自由意志で行っていると思っていましたが、実は欲望に操られているということに気づきませんでした。
「自分の快楽のために」とは、単に遊興、酩酊とは限りません。「自己実現」も入ります。それは、自分の思い通りに人生が進むように努力することだからです。この世の中の自己実現は、あくまで自分の思い通りにするということが中心であり、神に逆らうものです。では、クリスチャンの自己実現とは何でしょうか。「神があなたに持っておられる計画を全うすること」です。これは自己満足のためではなく任務であり、私たちの人生はミッションなのです。今、世の中では、自分を満足させるための「自己実現」という考え方が蔓延しています。そしてそのための可能性思考、成功思考に惹かれ、いつの間にか操られていることに気づいていません。こういった風潮の背後にあるものに気づかないと、いいように利用されてしまいます。私たちはこういった社会の中で葛藤しつつも、目を覚まして、人々に神の福音を証ししていくことが大切なのです。
 では、自分の快楽のために生きていないかどうかを吟味するには、何を見たらいいでしょうか。(ヤコブの手紙4:1)が参考になります。自分の思い通りにならないと気分を害し、孤立し、意固地になる、協力しなくなる等、他のクリスチャンとの関係を切ってしまう行動に出ていないでしょうか。こういう感情が出てきたら、神のためと言いながら実は自分のためであり、自己実現のためにやっているのではないかと気づき、悔い改めて引き返してください。

2.崖っぷちまで来た弟息子(ルカによる福音書15:14〜16)
“何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。”
弟息子は最初、気前よく財産を使い、周りの人々を楽しませました。しかし、彼が貧困となった時、誰一人与えず、助けようとしなかったのはなぜでしょう。それは、彼を尊敬する人が誰もいなかったということです。どうしてでしょう。ここに、出発点において間違った動機を持ったことの影響、結果が表れています。彼はお金で人を支配し、人の心をコントロールしたということです。人々はそれがわかっていたので、お金のある間はどんなわがままも受け入れ、聞いていましたが、誰も彼を好きにはなれなかったのです。彼の最初からの問題点、「自分の思い通りにしたい」という態度が見え見えだったために、彼が困った時、誰も助けようとはしませんでした。それは彼の無知と愚かさのゆえです。
 無知とは(第1ペテロの手紙1:14〜15)神を知らず、畏れ敬うべき方を敬わなかったということです。私たちも、聖書を読んでいても、神の裁きに関して無知であっては、とんでもないことになってしまいます。「信じたら赦される」「悔い改めたら赦される」と言いつつ、信じるということや、悔い改めについて、実は無知であるかもしれません。無知のゆえに怖さを知らず、突き進んでいくということは恐ろしいことです。的外れの恐ろしさです。いろいろな痛み、苦しみによって、賢く悟っていくならわかってきます。
 では愚かさとは何でしょう。(マタイによる福音書7:26)“また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。”
「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」とあります。砂の上に建てても、洪水が来なかったら流されることもないでしょう。あるかないかわからない災害に備えて、基礎工事にお金をかけるのは馬鹿馬鹿しいでしょうか。自分の思い通りにしたい人はそう考えるでしょう。しかし、賢い人は、いつ起こるかわからなくとも必ずやってくるという事のために備えをします。
 神の裁きはいつ来るかわかりません。しかし必ず来ます。それゆえしっかりと備えておかないとなりません。恐れを知らないということは愚かなことです。神は裁き主です。神への畏敬の心をしっかりと持ちましょう。クリスチャンであっても、神の裁きの前に立ちます。

3.懸崖勒馬の弟息子(ルカによる福音書15:17〜20)
“しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。”
弟息子は、ユダヤ人としての人間の誇りを捨てるかどうかの瀬戸際に立っていました。豚のえさを食べたいというところまで、空腹であったのです。弟息子は「我に返った」とありますが、何に気づいたのでしょうか。これは皆さん各々が考えてみてください。
我に返るの「我」とは、欲望に振り回されていた自分ではなく、正しい良心における自分です。彼は気づいて悔い改めの告白をしました。この告白は大変重要な内容です。まず彼は、誰に対して罪を犯したかに気づきました。天の導きと父親の導きを無視して、自分の思い通りにしたという間違いに気づいたのです。そして、そういう自分は何らの資格もないことに気づき、それを受け入れました。自分の無能さを受け入れたら葛藤はなくなり、楽になります。そしてどこからやり直したらいいかが見えてきます。受け入れられない人はプライドがあるので、どこからやり直したらいいかも気づきません。焦って形だけとりつくろってしまいます。受け入れたら、従順になりたいというへりくだった心に変わります。皆さんはイエス様に従いたいという気持ちになっていますか。自分の思い通りにしたいという気持ちが強いと、従いたいという気持ちは薄くなっています。「まだ自分で何とかできる」という部分が残る限り、へりくだることはできず、方向転換もできません。
 皆さんは、弟息子が故郷へ帰る旅の苦しさを考えたことはおありでしょうか。彼は遠い所から、ボロボロになって帰ったのです。例えば東京から一文無しで広島に帰るとしたら、どんなに辛いことでしょう。この苦しさの中で、あきらめずに歩き続けるよう、彼を支えたものは何でしょうか。
 悔い改めを安易に考えないようにしましょう。イエス様の十字架の苦しみによって、私たちは罪赦されたのです。赦してもらうありがたさ、その価値は、悔い改めて立ち返る苦しさの中で悟っていくものです。悔い改めは、その実を結ぶまで本当に辛いものです。弟息子は長い道中をひたすら家へ向かって歩き続け、父親の目に映るという実を結ぶまであきらめなかったのです。このことを悟ってください。恥も外聞も全て捨てて、ひたすら神に近づいて行くというところまで心が探られるのです。父のもとに帰るとはそういうことです。遠く離れた人ほど、悔い改めは厳しいのです。その苦しさのゆえに、悔い改めをあきらめてしまう人がいます。そういう人は、弟息子に比べて何かが足りません。
(第1コリント人への手紙13:13)“こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。”
 彼を支えたのは、「信仰と希望と愛」です。父親に対するこの気持ちが彼を支えました。私たちもこの気持ちが生まれてこないと、この世の誘惑に負けてしまい、悔い改めの実を結べなくなり、何度挑戦しても自分は変わらないとあきらめてしまうようになります。
 父なる神への信頼と希望と愛が、あきらめずに神の国に至るまで、地上で私たちを支えてくれる力となります。祈りつつ、父なる神の愛の前に真実な悔い改めへと導かれましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年8月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   雲散霧消 うんさんむしょう  up 2008.8.23


ものごとが跡形もなく消えるようす。


また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
(黙示録20:11)


 

 

 昨年起こったリーマンショックから始まる経済問題は、黒字を見込んでいた多くの企業に多大な損害を与えました。今まで「あるある」と思っていた財産が、一瞬にして消え去ってしまったのです。
 そんな風に、私たちが今暮らしている世界もやがて根底から消え去って、御座のさばきがやってきます。

「天地が雲散霧消のごとく消え去り、神の最後の審判がなされます。そのときには、さばかれない罪は何一つないと言う事を心に刻んでおきましょう。そして、白い御座のさばきが行なわれる事を信じている人は、「自己変革」変えられていくのです。」

1.賢く快適な生活を過ごしましょう。(ローマ人への手紙14:10)
“それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。”
【考えてみましょう】
「公共料金を支払わない人が多いようです。悪い事をしても平気な人がいます。人は死ねば死後は何もないと、好き勝手する人もいます。
このような考え方で生きている人々を、冷たい視線で見ている人もいます。これでは賢く快適な生活を過ごせません。どうして、このようなことが行なわれているのでしょう。何がどう間違ったのでしょう。」
 公共料金を支払わない人たちは、今、自分に害が及ばなければいいと考えています。しかし、クリスチャンである私たちは裁き主なる神を知っていますから、周りの人々が悪事で得をしているように見えても、それに習う事なく善を行うための努力の日々を送る事ができます。
 神は最後の日に、善には報い、悪には処罰をもって全てのことを決定されますから、何一つさばかれないものはありません。私たちから言えば、悪事を今さばかれないことの方が不幸です。毎日を快適に過ごせないのは、神を無視して生きるのが第一の原因です。

「もしあなたが交通違反取り締まりの情報を入手したとします。あなたは、どのような事を考えて運転しますか。また、運転しないなら、その情報をどう扱いますか。」
 警察の取り締まりがあると知っていながら、わざわざ違反をする人はまずいません。自分が運転しなくても、運転する人に教えて、罰せられないように気をつけるのが普通です。
 しかし、この取り締まりにしても、本来は皆が快適に過ごすために、一部の者の勝手な振る舞いを慎ませるという目的をもっています。では、未来に必ず神のさばきが来ることを知っている私たちは、なおさら皆が快適に過ごすための決まりを喜んで守る事ができるのではないでしょうか。お互いに「あの人は〜だ。」などと決めつけないようにしましょう。それは断定、すなわち裁きです。裁きあって快適になる事などありません。

2.公平にさばかれる方を信じる生活(第1ペテロの手紙1:17)
“また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。”
裁かれる方が公平な方で信頼できる方だ、という事が、正しく快適に生きるためにはとても大事な土台になります。権威を持つ立場の方が正しいか否かは非常に重要です。

「警察官、公務員、政治家、また、教師や親など権威を持って治めるべき立場の人が不正を行うなら、あなたはどう思いますか。」
 権威を持ち、人を治める立場の人が不正を働くなら、私たちは悔しくつらい気持ちになります。不正をやめて、正しくしてほしいと願いますね。しかし、もしこの人が自分の悪を改めなくても、神様が必ず正しいさばきをしてくださり、自分の苦しみには報いとして喜びを、その人の不正には罰を与えられると知っていれば、心安らかに日々を送ることができます。

「公平な取り扱いへの信頼をなくしてしまうと、秩序が保たれなくなります。それは、快適な生活が保たれなくなると言う意味です。」
 悪に対して刑罰がなければ、人はいくらでも悪を行い、とどまるところを知りません。しかし実際には、悪には必ずさばきが伴うのです。このことをわきまえていないと、人は得をする方へ流されやすいものですから、不正で得をする者のまねをしたがります。そして、不公平感が広がっていくのです。

「そのようなこの世で、快適に過ごす事ができるのは、公平なさばきを必ず行なわれる天地の主権者、主なる神がおられる事を信じているからではないでしょうか。」
 最後の白い御座のさばきが残っている限り、法律上無罪になっても、何らかの理由で追及を逃れても、罪は必ず正しくさばかれます。そのことによって、クリスチャンはいつも安心できるのです。
 反対から言えば、私たちが自分の生活においていつも神を認めていなければ、世の人々のうち誰が神様を認める事ができましょうか。神を畏れ敬うがゆえに、自分の生活を省み、自己変革しようと努力する中に、神の力が働き、自己変革が実際になされていきます。
また、私たちクリスチャンでも人の間に争いが起こるのは、罪ある者として避けられない事ですが、しかし早いうちに悟って、つまらない事でお互いを傷つけ合うよりも和解する事を選んでください。率先して自らを悔い改めていきましょう。前回のメッセージをもう一度読み返してみてください。
「(ローマ人への手紙13:1〜7)をじっくり読み、黙想して、賢く快適な生活を過ごす事をこころがけましょう。」

3.賢い快適な自由の律法に生きる(ヤコブの手紙2:12)
“自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。”
【考えてみましょう】
「交通ルールを守りながら日本中を自由に旅する事は、賢く快適に旅行するための基本です。」
「東京ディズニーランドで楽しく過ごすためには、3dayパスポートをもって決められている事を守りながら自由に楽しむのが賢い過ごし方です。」
「おさな子が親の愛の内に、しつけられながら楽しく自由に過ごしているようすを思い浮かべてみましょう。」
自由の律法=神の愛のうちにとどまること。
神の愛の中で自由にのびのびと過ごす事が、賢く快適な生活なのです。
 人が事故に遭う時、実際には決まりを無視したり、無茶をしていることが多いものです。「自分だけは大丈夫」という気持ちは、どういう心から来ているのでしょうか。
 また、みんなが順序よく並んでいるのに、列を乱す輩がいると本当に不愉快なものですが、たいてい係員が止めて一番後ろに行かされ、きちんと並んでいるみんなを安心させてくれます。
 また子どもが親からしっかり見守られながら育つ姿は、端から見てもとてもうるわしい光景ですね。神の愛にとどまろうとするなら、しつけを受けます。神の愛から抜け出して、自分の分を超えようとするのは放縦です。子どもが親の顔を見ながら自分の限界を学ぶように、神様が教えてくださる正しい範囲を知って、私たちは賢くなります。失敗はありますが、その失敗を教訓にできるこの恵みを大事にして、「雲散霧消」の時には、キリストとともにさばきの座に着座する者になりたいですね。
(ヨハネの黙示録20:6)
“この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。”
 第一の復活にあずかる者たちは、キリストと共に歩んだ者たちです。このようなすばらしい報いがあることを、いつも胸に刻んでおきましょう。さばきを恐れるクリスチャン生活ではなく、快適な楽しいクリスチャン生活を歩むために何をすべきか考えていけば、自然に神を畏れる生活ができるようになります。
 さて、白い御座のさばきを喜べるか、いやがるのか、それは皆さんの心次第です。喜べるように、一週間を過ごしてみてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年8月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   率先躬行 そっせんきゅうこう  up 2008.8.16


人々の先に立って自分で行うこと。


それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
(マタイ3:8)


 

 

「自己変革、成長、主と同じ姿に変えられていくために、悔い改めることも重要なポイントです。そして、悔い改めた結果(実)として成長という自己変革を見ることができるのです。」
 自分を変えるということは、苦しいことの方が多いものです。
「悔い改め」という言葉を聞くと、私たちの肉の心は非常にいやがり、痛い思いを感じさせます。しかし、悔い改めは将来と希望を生み出すものだと、前向きな正しい意味を捉えてほしいと思います。

1.将来に希望を与える悔い改め(使徒の働き11:18)
“人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。”
 ユダヤ人たちは初め、自分たちのためだけの救い主だと思っていましたが、異邦人の中にも悔い改めて立ち返る人たちが出てきました。ヨナが神様に遣わされて悔い改めを語った時に、異邦の民であるニネベの人々は悔い改めました。悔い改めは、異邦人にとっても、いのちに至る第一歩のすばらしい出来事だったのです。
 悔い改めは、用意されている未来の祝福を受け取る道への第一歩です。悔い改めを拒むことは、祝福を拒むことと同じです。私たちは、悔い改めを間違って受け止めています。あなたの存在を否定され、間違っているダメな人間だと言われているように感じ、正しい意味を心で受け止めていないのです。
 本当に悔い改めのすばらしさを知っている人は、悔い改めができるということは何と感謝なことだろうと考えます。悔い改めとは、赦しを含むのです。人から悔い改めよと言われると、なかなか素直になれず感情が反応しますが、悔い改めはすばらしい希望を与えるものだと心に刻むなら、前向きに悔い改めを受け止めることができます。

2.悔い改めの実を結ばせるもの(ローマ人への手紙2:4)
“ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。”
 戒め、責め、叱責を与えて忠告するよりは、神の慈愛をもって悔い改めに導く方が、お互いに傷つかないで済みます。慈愛とはあわれみ、いつくしむ愛です。将来に対して希望をもって、忠告、助言を与えていくと、それを受ける方も冷静に聞くことができます。そこで、単なる人間的な慈愛ではなく、神の慈愛と忍耐と寛容から考えると、悔い改めざるを得なくなります。正しい良心に言葉をかけるような気落ちで、悔い改めに導くことが大事なことです。神様は、私たちが毎日犯す罪をいちいち指摘されません。あなたの正しい良心に信頼して、委ねてくださっています。神様はメッセージや祈りやみことばを通して、語ってくださっています。神様は十字架を通して、ご自分の慈愛をはっきりと示してくださっています。私たちが自ら気づいて悔い改めることができるように、慈愛と忍耐と寛容をもって待ち続けてくださっているのです。

3.悔い改めの実は平安な義の実(ヘブル人への手紙12:11)
“すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。”

(1)『懲らしめる』
制裁を加えて懲りるようにさせる。
懲りる=ひどい目にあって二度とすまいと思う。
懲らしめは、罪から離れさせるための最終手段と言えます。

 神様の慈愛と忍耐と寛容は豊かです。その豊かさを軽んじて甘えてしまう人には、最終手段として、気づかせるため、懲らしめ、制裁を加え、ひどい目に遭わせるということをされます。それは、永遠の滅びに行くよりは、今懲らしめて苦しんだ方が、永遠のいのちに至るから、これは最後の神様のあわれみの手段です。ここまで待つ必要はありません。「神が注意されるのなら、懲らしめて止められますよ。」と、罪をやめようとしない横柄な人は、懲らしめられたら、こんな神様にはついて行けないと、離れてしまうかもしれません。子どもを懲らしめない親には、愛がありません。間違っていることを正してあげることが、子に対する愛の現れです。神様も、初めから懲らしめを与えられはしません。慈愛と忍耐と寛容を持って導かれます。それでも、中には甘えてしまう人がいます。その甘えを断ち切るために、懲らしめが最後に与えられるのです。ある人は、懲らしめられるのが嫌だから、すぐに悔い改めます。しかし、悔い改めにふさわしい実を結ばせるために、懲らしめを与えられることがあります。懲らしめによって、罪に対抗する力が鍛えられるという目的があるのです。同じような罪の誘惑に対して、拒絶するという力を生み出すために、懲らしめという体験がとても有効です。その時は苦しくて辛いですが、後になって、あの時の懲らしめが感謝だと思えるようになります。懲らしめは、耐える力を養ってくれます。忍耐すると、そこで力がついてきます。

(2)『これによって訓練された人々』
懲らしめによって鍛え上げられた人々。
罪に対抗する力を鍛えるために懲らしめる。
【考えてみましょう】(第2サムエル記24:10〜17)
“ダビデは民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」朝ダビデが起きると、次のような主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。「行って、ダビデに告げよ。『主はこう仰せられる。わたしがあなたに負わせる三つのことがある。そのうち一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。』」ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。「七年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めてください。」ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。」すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」”

王が民の数を数えることは罪である⇒所有欲と高ぶりの罪
そのようにダビデを動かしたのは、ダビデを取り扱わなければならない必要があったからである
悔い改めたダビデに、神は懲らしめを与えた。
悔い改めと懲らしめは、ダビデに自己変革を与えた。

 ダビデ王は、イスラエルの約束の領土を治め、ソロモンに譲る前に、最後のきよめのテストを受けました。彼は、自分の民を数えるように命令しました。しかし、(第2サムエル記24:1)には、主がそのようにダビデを動かされたと書いてあります。王が民を数えるということは、神の民であるのに、自分の民のように思う傲慢さから出て来るもので、罪でした。上に立つ者は自分の実績を測ろうとします。これは、傲慢と所有欲の領域に入ることです。王は神の民を治めるのであって、自分の所有物ではないのです。
 ダビデ王は後で良心の咎めを感じて悔い改めますが、そこに預言者がやって来て、懲らしめを三つの中から一つ選びなさいと言われました。これは、悔い改めたらもう何も懲らしめられないと思っている甘い考えの人に対する、神様の悔い改めと懲らしめの用い方を示しておられます。ダビデが、王としての品位と人格を備えるために、まだ取り扱わなければならない所があることを神はご存知であったので、ダビデが罪を犯すことを委ねられました。
 「どうして神様は、これだけたくさんの人が罪を犯して不幸なことが起こるのを止められないのか」と神様を知らない人は言います。しかし、神様は永遠のいのちを考えて、全世界の一人一人を取り扱っておられるのであり、そこには深い御思いがあるのです。
 神様は七年間ききんが起こるか、三か月間敵の手に陥るか、それとも三日間疫病が国に起こるかを選ぶようにと語られました。ダビデは人の手に陥るよりは、神の手に陥った方がいいと、疫病を選びました。すると、七万人の民が疫病で倒れたのです。ダビデは、罪を犯したのは自分なのに民が犠牲になっていくことで、心砕かれました。ダビデは、王という権威に立つ者たちの間違いによって、その人に従う人たちが犠牲になっていくということをいつもわきまえていたはずなのに、彼は傲慢になり、最後の人生の仕上げとして、この試みを与えられました。ダビデには、王として取り扱われなければならないものがあったのです。
 神様は権威を与えられた人の務めを重んじられます。多く与えられた人は、多くの責任があります。その責任の重さにダビデが気づくために、このことを起こされました。ダビデに与えられた責任は、多くの人の人生を左右するものでした。そして、リーダーに与えられた権威を軽んじてしまうことがないようにと、懲らしめを与えられました。悔い改めだけではすまされないことを知るためでした。ダビデは自分のための苦しみをいとわない人でしたが、自分のために弱い者が苦しむことは、一番辛いことでした。このことを通して、ダビデは学んだのです。社会的に上に立つ人や、それぞれの家の家長にも、その部下や家族に対する責任があります。
 神様は永遠を考えて、あなたが神の子として成熟し、キリストと同じ姿に変えられるために、今あなたを導いておられます。自分のいのちは神が与えられ、目的を与えられていることを忘れないでください。自分に与えられた分を超えたり、責任を果たさず目的から外れたりすることがないように、真剣に生きていくことが必要です。
 神のいのちの重みが、あなたの贖いのために使われたのです。そのことを受け止め、神様の慈愛と忍耐と寛容に感謝して、悔い改めの実を結んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年8月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   大死一番 だいしいちばん  up 2008.8.9


己を捨て、欲を去り、迷いを断ち切って仏の道に精進するという仏教語から、死ぬ覚悟で何かをすること。一度死んだつもりになって奮起すること。


私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
(ローマ6:4)


 

 

 今週は、自己変革の3番目として、「死を覚悟する姿勢で自分を変えていく」ということをお勧めしたいと思います。(ローマ人への手紙6:4)窮地に追い込まれなければ、死を覚悟する心情にはなりません。これまでヤコブの生涯を通して、自己変革していくことを語ってきました。「自分を変えなければ成長しない」というのが、大切なポイントでした。
 神様は、私たちが問題を取り除いてもらうことでなく、乗り越えることを求めてほしいのです。私たちが神の御国を相続する神の子として、どんな難問にも立ち向かって乗り越える強さを持つことを願って、この地上の人生の時間を用意してくださっていると言えるのではないでしょうか。
 自己改革の1番目は、自分の能力、努力ではどうにもならない難問に対して、神の存在に目を向け、その恵みとあわれみに頼らなければならない問題があることを悟り、神との共存を決心することでした。「神様が私たちの味方になってくださる…」まだ自己中心的な考えが多い段階の、神への信頼を持って神と共に歩む人生です。
 自己改革の2番目は、「愛する者のために自分を変えていく」ことでした。ヤコブは叔父ラバンの様々な朝三暮四の取り扱いを通して、練りきよめられて(聖化)いきました。子どもや部下など、人を育てる立場の人は、自分を変えていかないと、相手は成長しません。子どもの人格的な面の成長は、親の成長に比例します。神様が人を育てる環境に置かれるのは、育てる人も皆成長していく(変えられていく)ためです。
 そして自己変革の3番目は、「死を覚悟すること自体が自己変革である」ということです。(創世記32:7〜20)長子の特権のため二度もだましたヤコブへの恨みを14年間持ち続けている、兄のエサウがいる故郷へヤコブが帰るには、相当の覚悟が必要でした。「殺したい」という恨みは、長くなればなるほどふくらんでいき、決して消えることはありません。そのエサウの所に、しかもエサウが生きている間に、「時が来たから帰るように」と神がヤコブに言われたのは、ヤコブにその難問を受け止める成長が見られたからでした。

1.死を覚悟したヤコブの知恵(創世記32:7〜20)
“そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。……
どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。……その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。……彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか。』と言って尋ねたら、『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります。』と答えなければならない。」彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります。』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。”
(1)二つに分けて宿営した
 自分が助かりたいからではなく、これほど与えられた恵みを、自分の愚かさによって無駄に犠牲にしたくない気持ちがあったから。

(2)エサウへの贈り物を選んだ
 単純で感情的なエサウの性格を熟知して、どういう贈り物をすれば、エサウが喜ぶかを考えた。

(3)一群れずつ分けて、しもべたちの手に渡し、語るべきことばを教えた
 恨みを消すためには、一度に全部大量のプレゼントでなだめるより、時間をかけて、ヤコブが頭を下げてへりくだって、エサウを敬っているかを実感として伝わっていくようにした。

 このように窮地に追い込まれて死を覚悟して、何とか助かりたいと一生懸命工夫を凝らす時、これまで考えもしなかった知恵が湧いてきます。ですから、死を覚悟するとはあきらめることではなく、死を受け入れながらも最後までやり通そうという気持ちから、新しい発想が生まれるーすなわち自己改革が起こるということです。

2.死を覚悟したヤコブの信仰(創世記32:22〜28)
“しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」”
 ヤコブは、神様と格闘することを要望しました。
(1)ひとりになるために環境を整えた。
 死を覚悟して神様の前に出る時、感情的なものや人から邪魔されるような気になるものを全部取り除いて、環境を整えます。当時、レビ人や祭司以外の人が神様の臨在に触れると、打たれて死ぬと言う厳しい時代でした。しかしヤコブは、「どうしても助けていただかなければならない。」という強い願いを持って、神様の前に出たのでした。

(2)夜明けまで祈りの格闘を続けた。
 死ぬ覚悟があると、「つらい。休もう。」とは思いません。死ぬまで祈り続け、やり続ける時に、限界を超えて何かが生まれてくるーここが、自己変革の大事なポイントです。

(3)祝福を得るまで去らせなかった。
 死を覚悟する限りは、絶対にあきらめない強さが生まれます。あきらめてしまうのは、それほどの覚悟がなく、祈り願わないからであり、たやすくできる他の方法を知っているからです。ヤコブは手だてがなかったので、死を覚悟したのです。
 人は自分の能力でどうすることもできないと知った時、最終的には命がけで何かをしようとするか、あきらめるかのどちらかです。あきらめるような願いは、重要視していないことであり、逆に命がけで神の前にその願いを持ち続けるのは、あなたにとってそれだけ大事なものだという証明になります。
 今、私たちは神の前に出ても、イエス・キリストの十字架の贖いによって、打たれることはありません。だめならば、すぐ他の方向に行く安易さに陥ってしまい、神の前に祈り求めることのすばらしさを知らないのではないでしょうか。ヤコブが命がけで神の前に取り組んで祈る覚悟をさせた環境を考えると、私たちの神の前への祈りは、とても甘えた状態だと言ってもおかしくありません。皆さんは死を覚悟する体験をしたことがありますか。
 死を覚悟したなら、悩んだり自己卑下したりしてはいられません。「やるしかない」「恥も外聞も何もない」「ただ前進あるのみ」―これが自分を変え、成長させていくということです。「恥をかきたくない」「人からとやかく言われるのが嫌」と思っていたら、死を覚悟したチャレンジはできません。それは自分を変えたくないということです。ヤコブは死を覚悟して兄エサウのもとに帰りました。神様は、ヤコブが自分を変えていくことをみておられ、彼に助けを与えてくださり、エサウとの和解に成功したのです。

3.私たちにとっての死を覚悟した自己変革とは?
(1)(ローマ人への手紙6:11)
“このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。”
「自分の人生ではなく、神に対して生きる人生しか私にはない。」罪の誘惑にふらつくのは、罪に対して生きた者として対応しているからです。自分に死んでいるという意味を考えてみてください。

(2)(第2コリント人への手紙4:16)
“ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。”
 肉体は衰えても、内なる人格(霊、魂)は日々成長していくのです。モチベーション(動機)も新たにされるので、昨日の失敗をひきずりません。むしろ、昨日の失敗を教訓に、今日新しくチャレンジし直すように切り替えることをするよう、神は願っておられます。これが死を覚悟する自己変革という意味です。

(3)(ガラテヤ人への手紙5:24)
“キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。”
 死を覚悟した自己変革=「キリストに同化される」という意味です。それは、キリストとは異質な私たちが、キリストと同じようなものに変えられるということです。私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられることが、神様の目的です。神と同じ姿に成長することが、アダムの子孫である私たちに与えられた存在の目的です。ここから外れることが的外れであり、罪です。あなたは自分の人生の目的を何と考えていますか。そこから人生、命、家族、仕事を考えていかないと、地上だけで生きることを目的にした、死とともに終わる空しい人生になってしまいます。クリスチャンは死で終わらず、永遠に向けて地上で磨き、鍛え、準備し、成長を導かれる人生を送っています。この地上を去る時は、合格して「永遠」という本番の人生に導かれます。このことを徹底して神の前に悟らされることが必要です。これは暗示ではなく、神が存在している限り真実であり、真理です。そして神の前に立った時、今日私が語ったことについて追求されます。義には報いを、的外れには裁きがもたらされます。
 ですから、今あなたがしていることは、キリストと同化されるために正しい方向へ行っているかどうか、見直していただきたいと思います。また、様々な信仰の戦いや試練は、ヤコブが自己変革して成長していったように、私たちが変えられるために、神様がその環境を通り抜けるよう導いておられるしるしだと、ぜひ受け止めてください。

(4)(ピリピ人への手紙1:21)
“私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。”

4.ヤコブを通して教えられたこと
(1)自己変革とは、キリストの姿に変えられることであり、きよめられることである。
(2)きよめのプロセスにおける罪の失敗は、益になるよう用いられる。
(3)ヤコブの名前が変えられたように、罪の責めを負わせるのではなく、キリストの姿に変えられていくことをひとり一人に要求される。
 ヤコブがだまして長子の特権を奪い取ったことや、また神は一夫一婦制を教えておられますが、その教えに反して4人の妻を持ったことを、神様はそのままにされました。それを用いて、海の砂のようにイスラエルが増えることを実現されました。ここで悟ってほしいことは、変えられない過去の事実があっても、キリストの姿を目指して成長するのか、あきらめるのか、を考えなければいけないということです。キリストの姿に変えられていけば、同じ罪を犯さなくなります。ですからヤコブが4人の妻をめとった罪は、キリストの十字架によって贖われますが、しかしヤコブが自己変革を否んだなら、4人の妻をめとったことで裁かれるのではなく、罪を赦し、きよめるための悔い改めのチャンスを与え、救いを与えた、神のあわれみを無視したということで裁かれるのです。
 あなたが今日までどんな罪を犯してきたかを問われるのではありません。神の御心を聞いて心改め、救いの目的に向かって人生の方向を変えていこうと決断することが、今までの全ての罪が赦される価値を作り出していきます。しかし、キリストの姿に変えられることを否んだならば、単に行いによる罪ではなく、神のあわれみを無視したことで、さらにもっと重い罪の裁きを受けることになります。せっかくイエス様を信じたのに、永遠に後悔が絶えない歯ぎしりする場所に置かれることのないように、今みことばから語られている神の御心を、神を畏れて受け入れて実行していくことが大事です。
 聖められることのすばらしさは、女性の美しさに共通し、神の聖さを象徴します。聖さは魂が奪われるほど魅力的なものです。それを肉の欲望で隠され、鈍感にされてしまっているのが、この世界です。美しさを大事にするなら、魂の美しさ(聖さ)を大事にしてください。毎日美しくなる手入れをするなら、同様に、心(魂)の美しさのために、ぜひ毎日手入れをしてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年8月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   朝三暮四 ちょうさんぼし  up 2008.8.2


目の前の差異にこだわって、結果が同じになることに気づかないこと。また、言葉たくみに人をだますこと。現在中国では、考えや方針が定まらなくて当てにならないの意味に使う。


悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
(第1ペテロ3:9)


 

 

 上のみことばが私たちの人生に現れてくるために、神様は私たちを導いてくださっています。たとえそれが自分の願うものと違っていても、神ご自身は羊飼いとして「こういうふうになってほしい」という願いを持って、導いてくださっているのです。注意しなければならないのは、神はあなた一人だけを取り扱っておられるのではなく、教会全体の益になるように導いておられるということです。
 神を信じない人たちの侮辱や悪に対して同じものをもって返すことのないように、神様のみこころに沿った深い価値観を持つ者となりたいですね。 私たちは、自分で自分を変えることができるように、神様によって導かれています。神様に従わず、自分勝手な道を行く限り、自己変革など不可能ですが、導きに従えば実に簡単なことなのです。

 「朝三暮四」は中国の故事で、猿と猿回しの話です。猿回しが猿に餌として木の実を与える約束をします。朝三個、夕べに四個でどうかときくと、猿は真っ赤になって怒ります。それではと言い換えて、朝四個、夕べに三個ではどうかと問うと、猿は納得したというのです。
 このように、後から考えると大して良くなっていない、あるいは悪くなっている状況に自分が入れられた時、クリスチャンとして不本意な問題に直面した時、それをどういうふうに受け止め、自分の内に処理していくべきでしょうか。物事が順風満帆な時よりも、えてして問題がある時の方が、自己変革のチャンスとしては良いことがたくさんあります。

 ヤコブの自己変革(2)
「愛する者のために自分を変える」(創世記29:26〜27)
“ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう7年間、私に仕えなければなりません。」”
ヤコブは、叔父ラバンの「朝三暮四」のやり方を、愛するラケルのために誠実さをもって受け入れ仕えた。→(第1ペテロの手紙3:9)
 
 ヤコブの最愛の人ラケルのために、彼は7年間叔父のラバンに無償で仕えました。しかし、約束は破られ、ラケルの姉レアが妻として与えられ、ラケルが欲しければ更に7年、無償の奉仕をするようにとの要求が突きつけられたのです。ヤコブはその要求をのみました。この時彼の内で、どのような葛藤と自己変革がなされていったのでしょうか。

1.ヤコブにとって受け入れがたい三つの難点
(1)愛する者のために不本意なことを受け入れなければならなかった。『ラケルとの結婚を望んでいたのに、彼女の姉レアと結婚させられた。』
 愛していない相手を妻にするという苦しみ、眼中にない女性が自分の伴侶となるショックはいかほどのものだったでしょうか。

(2)愛する者のために習わしに甘んじなければならなかった。
『ラケルとの結婚の約束をしたとき、叔父のラバンは、その地域の習わしをヤコブに告げなかった。』
 ヤコブに対して、先に真実を告げなかったラバンには、陰謀の匂いがあります。私たちも「しまった。はかられた。」と悔しがっても後の祭り、ということがありますね。

(3)愛する者のために理不尽な条件を受け入れなければならなかった。
『ヤコブがラケルを愛しているという弱みにつけ込んで、ラバンは身勝手な条件を押し付け、ラケルとの結婚を認めた。』
 世の人は相手の弱みにつけ込んだ条件を出して、相手が断れないのをいいことに、その無理な条件を受け入れさせることがあります。

考えてみましょう
三つの難点を受け入れなければならなかったヤコブの心情を考えてみましょう。
 ヤコブは「ラケルへの愛」のゆえに、これらの条件を受け入れました。ヤコブにとって宝物であるラケルを失わないために、ラバンとの争いは絶対避けなければなりませんでした。自分は間違っていなくても、ラケルのために心を折らなければならなかったのです。

2.愛する者のために心を一新して難点を克服
アブラハム、イサクの神から祝福を受け継ぐ者としての自覚を持って

(1)不本意に対する心の一新(ローマ人への手紙8:28)
“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”
 神様がこの状態に自分を置かれたのなら、それには必ず深い意味があります。その結果、罪を犯さなければならない事態になっても、です。私たちの信仰のみで義としてくださる、神様の配慮の深さがわかります。

(2)習わしに甘んじるための心の一新(第2歴代誌7:14)
“わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。”
 この世の価値観と神様の価値観とは相反するので、私たちクリスチャンは板ばさみになって苦しむことが多くあります。しかし、自分を正しい者の立場に置くのではなく、元々自分は罪を犯す者、罪人であるということをいつも念頭に置いてください。自分の力で義を貫くことができないと認めるのは、へりくだることで、神を敬うことでもあります。人に追い込まれたにしろ、だまされたにしろ、自分が神の御前に正しくない罪人であることは事実なのです。これはとても大事なところです。現状より悪化させないように決心して歩むことができるようになりますから。
 神の前に赦しをいただき、人生を転換して歩むことが、私たちのなすべきことです。完全主義、自己義の強い人はよく考えてみましょう。あなたは神に誇れるほどの義人なのでしょうか。私たちは自分で知っている部分も知らない部分も、多くの罪を犯しながら生きている者です。そうしてやっと生きている私たちは、主のあわれみと赦しなしにはやっていけないのです。これを認めることがへりくだりであり、罪赦され、祈りが聞かれる秘訣でもあります。

(3)理不尽な条件に対する心の一新(第1ペテロの手紙2:17〜20)
“すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。”
 義が理不尽に押し曲げられたこの時、正しさを主張したら、ヤコブはラケルをめとることはできなかったでしょう。ラケルはラバンの娘なのですから、ラバンに従わなければならなかったのです。
 世界中に、間違ったことを強制したり悪いことを自分でもしている人はたくさんいるでしょう。しかし彼らの支配者は神様です。私たちは間違ったことに従ってはなりませんが、従わないことによって彼らから受ける罰に従うのは、彼らを支配しておられる神の権威を認めるからです。

 ヤコブは、自己義が変えられなければならなかった。それは、正しい者に主権(支配する力)があるという考え方が変えられることである。
 神は全てを裁かれる方です。この方を畏れましょう。心の一新をもって自己義を取り除いていきましょう。

考えてみましょう
 心を一新し、自己変革をして行くためには大きな力が必要です。「愛する者のために」という動機が大きな力となります。主なる神を愛する愛を深めていくことが、自己変革、成長につながることなのです。

 愛する者のために、どのように自己変革をしてきましたか?私たちの場合でも、好きな人のためにいろんな犠牲を払ったはずです。相手との関係を保つために、自ら進んで変えていったことがいくつも数えられるでしょう。ましてや、私たちのためにいろいろなことをしてくださっている神様に対して、私たちはどれほどの犠牲を払えるでしょうか。
 私たちは負荷をかけられる(問題が起こる)ことによって変えられていきます。ですから、今通らされている問題の中で起こる様々な葛藤、悔しさや人に対する恨み、理不尽なことに対して、今こそ自己義を砕いてへりくだる時と受け止めていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年7月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   自己変革 じこへんかく  up 2008.7.26


成長は変化である。変化なくして成長はない。


この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ12:2)


 

 

 自分を変えるのは大変なことです。しかし、自分を変えなければ、何も変わっていかないのです。私たちは(ローマ人への手紙12:2)にあるように、成長のレベルに応じた理解力を得るのですから、自分が成長するためにも、自分を変えることにチャレンジしてみましょう。
 「変える」ということに、大変な困難を覚える人もいるでしょう。世の中でも、自己変革のためにいろいろな本を読んだり、自己啓発のセミナーに出たりとがんばっている人たちがいます。しかし、聞いたり読んだりしても、自分の日常生活にそれを取り入れるのは自分です。
 神様は、今のままで私たちが成長しないのは望まれません。赤ちゃんは必ず大人へと成長します。成長を拒むことは不健全なことです。体と同じように、心も霊も成長します。成長のために「今」を変えていきましょう。
今日はヤコブを通して、自己変革について学びます。
 誓願を立てたヤコブ=人生の一大決心(創世記28:22)
“「私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。”
 神の前に誓うということは、大変重大な決意をするということです。その誓いの証、しるしとして、ヤコブは生涯十分の一を神に捧げるという決意をしました。

1.生涯、十分の一をささげる決意
 ヤコブは兄の恨みを買い、いつ殺されるかわからない状況にありました。生涯にわたる苦しみとなったのです。このような強い恨みに対しては、自分の努力では何もできません。話し合いも不可能です。里にも帰ることができません。ヤコブは神にしか頼れないという状況に追い込まれ、神にすがり、解決を神にゆだねました。その証として十分の一をささげる決心をしました。十分の一をささげるという意味は、神の権威を認め従います、という意志を表すことです。
 例えば日本の国に税を納めるということは、国家の主権に対し従うという意志表示です。従わない人は、税金を納めたがりません。
 ヤコブは十分の一を納めることで、従順に神に従う心を表しました。ですから、ここでのヤコブの決心は、自分の一生をかけて神に従いますという意志を表したものです。自分の人生を神にゆだね、すべての解決を神に任せるということです。ヤコブは幼い時は、信仰深い両親の下で、彼らにならっての信仰生活を送っていました。しかし、大きな問題に直面した時、彼は神以外に解決できる方はおられないと、自らの意志で神に従う一大決心をするまでに変わったのです。
 クリスチャンである私たちも、変わる必要があります。しかしどのように変わるのか、どうなりたいのか、その変化の方向性に注意しないとなりません。

2.洗礼による一大決心をした私たち(第1ペテロの手紙3:21)
“そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。”
 私たちの洗礼は、正しい良心の神への誓いです。一生かけて神について行きますという誓いです。ヤコブほどの一大決心はしていないでしょうか。
 しかし私は洗礼の時、「あなたは主イエス・キリストを自分の救い主として認め、生涯神に従って行く決心がありますか?』と必ずきいています。そして、皆さんは「はい」と返事をしておられます。その決意の深さは人それぞれでしょう。しかし大切なことは、洗礼を受けてから今日まで、洗礼の時の「神に従います」という決心がますます強くなっているのか、逆に衰えてしまっているのか、どちらなのかということです。信じた時より強くなっているなら、健全な状態です。
 「正しい良心の神への誓い」は幼子でもできます。むしろ彼らの方が純粋です。私個人は、ヤコブと同じような、これしか生きる道はないという命がけの決心をしました。もし神がおられないのなら、もう良心のとがめなど気にせず、好きに生きるしかないと思っていたのです。それが、キリストと出会うことができました。何の希望も期待も見いだせなかった人生が全く変わり、神によって目的ある人生へと変わったのです。その日から今まで、神の前で正しい良心をもって、善悪に気をつけて生きるようにしています。神が造ってくださったという創造論から、自分の人生を価値づけてきたのです。それゆえの様々な戦いがありましたが、決心は揺らぐことなく現在に至っています。
 イエス・キリストを信じた時、どういう決心をしたのか、その決心は今も変わらず、ますます強くなっているのかどうか、皆さんも吟味してみる必要がないでしょうか?
 人の心は、感情によって左右される弱さがあるものです。それゆえヤコブは十分の一をささげることで、その心の決心をその度に引き締め、しっかりと維持しようと思ったのです。それは誓願を持ち続けているという、証の行為です。収入の十分の一は生活に影響を及ぼす、痛みを伴うものであり、それゆえに、そこには誓願の強い証があります。金額の大小ではありません。誓願を立てたという痛みが必要なのです。なぜなら、主を畏れるという心が大切だからです。何の痛みもなく、習慣としてささげていないでしょうか。主を畏れる謙虚な心がそこにあるでしょうか。生涯主に従って行くという誓いをしているでしょうか。
 成長するための第一歩が、神の御手に自分を服させることです。従って行くという姿勢です。問題は変わらなくても、成長していくなら、その問題は乗り越えることができます。今、行き詰まりを感じているなら、成長することを願いましょう.

3.神様が進まれる方向(計画)に付いて行く(エレミヤ書42:6)
“「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」”
 自分の主観、考え方より、神のお考え、みことばに従うという決意を、イスラエルの人々は表明しました。自分の考えと神の御心のどちらを優先しているでしょうか。誓願の重さを忘れていないでしょうか.
 私が洗礼を受けた時、人生をあきらめるか、意義あるものにするかの、一大決心でした。それゆえ、自分の考えが違っても、みことばが来たなら、必ずみことばに従うようにしています。なぜなら、そこに大きな価値を見いだしたからです。
 妻がみことばから注意してきた時、感情は悔しさがあっても、みことばのゆえに従いますと、心の葛藤の中でも、神への誓いのゆえに感情的な怒りもすべて踏みつけています。それは簡単ではありません。しかし成長していかなければ、ビジョンを負うことはできません。

(1)(マタイによる福音書16:18)
“「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」”
 このみことばから、イエス様が何をしようとされているのかがわかります。(ヨハネによる福音書13:34)に「互いに愛し合う教会」とあります。「互いに」は一方的ではありません。助けられるばかりの人や、助けるばかりの人ではありません。貧しい人も富んでいる人も、互いに助け合えます。貧しいから助けられないということはありません。両方が助け合うのです。助けられたら、心から感謝し、敬意をもって愛の応答をすることができます。これが、一方通行でない健全なコミュニケーションです。性格や価値観が違っても、協力し合うことはできます。互いに愛し合えるからです。それゆえパウロは、「愛はすべてのものを結ぶ帯である」と語りました。違うものが1つになるのは愛しかありません。この教会が建て上げられるためには、自己変革が必要です。愛し合うことを通して、自分が変わっていかないとなりません。

(2)(エペソ人への手紙3:10〜11)
“これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。”
 教会を通して、神はご自身の知恵を示されます。特に、神に従わない権威に対して、神はご自身の豊かな知恵を示そうとされています。その知恵とはキリストです。つまり、神の知恵を示すとは、キリストを証することです。神がいかにすばらしい方であるかを、あなたを通して人々に示すために、あなたは成長する必要があります。それを神は願い、計画しておられるのです。

(3)(エペソ人への手紙1:11)
“私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。”
 神は、御国の相続人を迎え入れるという計画を立てておられます。そして相続人を捜し出したら、それにふさわしい人となるよう、訓練する計画ももっておられます。皆さんはその計画に従って導かれ、このみことばを聞く「今日」という日に相続人を選ぶ時、あなたはどのような条件を考えられますか?
 マイケル・ジャクソンは遺書の中で、父親や兄弟を除き、母親の名前を挙げていました。母親が彼にとって大切だったからです。なぜなら、自分を大事にしてくれたからです。関係の深さが大切です。神は、私たちすべてを相続人候補として挙げられました。選ぶのは、自分を大切にしてくれる人ではないでしょうか。相続は、残した人の遺志を継いで、発展させていくことを願ってなされます。
 神はあなたを、神の国の相続人とする計画をもって、今日ここに導いておられます。この計画に服していくなら、あなたは成長し変えられていき、あなたの誓願は完成されます。すべての問題は、私たちが成長していくなら、必ず乗り越えられます。神様のご計画に従った自己変革をしていきましょう。神によって成長していくなら、神には不可能はないという領域に入っていきます。そして私たちの人生は、死では終わりません。永遠のいのちをもっているからです。私たちの成長は、人類最大の壁である死をも乗り越えるものへと達するのです。
 自己変革にチャレンジしていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年7月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
2009年夏期聖会(第2聖会)

   「使命を感じ、受け止める」  up 2008.7.19


この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ12:2)

 「召しにふさわしく歩む」という言葉が、第二聖会の主題のみことばのポイントです。使命という点から「召しにふさわしく歩む」ことを考えて、使命を感じ受け止めたクリスチャン生活を、前に進めていただきたいと思っています。

使命=ミッション(宣教=「福音を伝えること」)
   使者として受けた命令
   責任を持って果たさなければならない任務
   天職(神から与えられた職務)
   この仕事をするために地上に生まれてきた、と思える仕事

教会=呼び出された者たち
(ギリシャ語ではエクレシア=議会に召集された議員の集まり)

(1)遣わされた(ヨハネによる福音書20:21)
“イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」”
 弟子たちに言われたイエス様のことばは、今の時代にイエス様の弟子という自覚のある人に語られている、と考えてお話ししますが、信じても弟子としての自覚があるかどうかは疑問で、弟子の自覚が出てくるように励まし、導く期間があります。イエス様から遣わされた、という自覚を持つにも差があります。ただ、イエス様は、ご自分について来る者たちに対して、「わたし(イエス)が父から遣わされたのと同じような意味で、あなたがた(教会)をわたし(イエス)が遣わす」と言われています。

(2)使者には必ず任務が与えられる(マルコによる福音書16:15)
“それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」”
 造られたすべての者に福音を伝えるためです。

(3)弟子を育てる(マタイによる福音書28:19)
“それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、…」”
 単に伝えるだけでなく、福音を信じ受け入れた人は、弟子として成長しなければならないという大事な部分があります。

(4)地の果てにまでキリストの証し人となる(使徒の働き1:8)
“「…しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”
 地上における私たちの立場は、神様から遣わされた使者ということです。感じていてもいなくても、教会に集まっている、イエス・キリストを信じている人々はみな、神様から呼び出された人々であるという意識を持っていただくというのが、大事な点です。そうしなければ、この地上で私たちが持っている役目がわからなくなり、世の人と同じことをしてはいけないのかと、世をうらやむようになってしまいます。
 信じたばかりのクリスチャンは、「主の使い」と言いながら、肝心なことを忘れ、自分のしたいことをしてしまうこともあり、自覚と成長が求められるわけです。また、具体的な目的がはっきりしなくても、みなさんには「イエス様の使者」という位置づけがあることは御心だと知ってください。神が使者として見てくださったことへの応答が、心の中に湧いてくる「わかりました。やりましょう。」という使命感です。使者として位置づけられるということは、使命が与えられる立場だと認められています。
 この使命をどのように受け止めるかによって、人生の結果が大きく違ってきます。ここでダビデ王とサウル王の使命の受け止め方の違いを見てみましょう。(第1サムエル記参照)結局、ダビデが2代目の王として立てられたのは、初代のサウルが中途半端な使命感を持ち、神様の意に沿わない行動をとったためです。

(1)ダビデは、父の羊のために命をかけて獣と戦ったが、サウルは父 の雌ろばを捜すことを、途中であきらめようとした。
(第1サムエル記9章)に、サウルはベニヤミン族の裕福な家庭に育ち、また美男子であったと書かれています。(イスラエルの民が、外見に左右される精神的に未熟なレベルに合わせた、外見への記述かと思われます。)迷子になった父の雌ろばを捜しに行きますが、すべて後手に回り、ついには「父が雌ろばより私たちを心配しているだろう」とあきらめかけます。
 一方ダビデは、父が飼っている羊を、命がけで熊や獅子から守りました。サウルは、父から言われた「雌ろばを捜す」ことをしてはいるが、実を結びません。どちらも父から命を受けて遣わされましたが、取り組み方、熱意が違い、当然、結果も違いました。命がけのダビデと、「このへんでいい」とあきらめるサウルの使命感には雲泥の差があることがわかります。同じくクリスチャンも、使命感への感じ方の違いで、同じように差が出てきます。

(2)ダビデは、主の名誉のためにゴリヤテと戦ったが、サウルは自分 の名誉と私欲のために戦いをした。
 サウルは主から遣わされ、アマレク人と戦っても、主の命令通りにはしませんでした。人間的には、サウルは無駄をなくし、いかにも神の前に用いようと判断しているかに見え、ダビデはことごとく徹底的に戦い、勝利していき、むしろむごったらしくさえ見えます。しかし、神の目には二人はどう映ったでしょうか。ダビデは決して自分の出世・名誉のためにゴリヤテと戦ったのではありません。ただゴリヤテが神の名を嘲り汚しているのを、放っておけなかったのです。主の使者として、自分の力ではなく自分を遣わした主の権威をもって主を信頼し、置かれている立場を聖霊の油注ぎによって無意識に理解していました。
 サウルは同じように油注がれていても、これを悟れませんでした。それは裕福な家庭に育ったサウルと、羊飼いの家庭に育ったダビデの違いがあるかもしれません。甘やかされ、自分の欲しい物が手に入り、それを満たすことが幸せと思うような生活では、たとえ一度は油注ぎを受け、王としての使命を感じても、それを退けるほどの強い欲望を、サウルは選んでしまったということではないでしょうか。ダビデは自分のためでなく、家族のため、父のために、父親から尊い仕事を与えられることを感謝し、羊の群れをしっかり守ることが自分の働きと受け止めていました。結局、使命感の捉え方の違いによって、サウル王は敗北的人生を送り、無惨な死に方をし、ダビデは主の前に長寿を全うしました。
 クリスチャンも同じように、聖霊の油注ぎを受け、使命感を感じる時があったでしょう。しかし、世からの誘惑には、贖ってくださったイエス様を忘れさせるものがたくさんあります。それだけでなく、仕事や家族を養うという重荷も神の使命感を惑わせ、忘れさせます。サウルのように、重荷・くびきとなる使命感は死んだ使命感であり、条件が整わないと失ってしまう未熟な使命感です。神への献身的な思いを持ったクリスチャンは、世の仕事が負担になる時、肉からの使命感も純真な使命感からも両方持っており、神は肉からの使命感を聖別するため、試されます。肉からの使命感は、サウルのように自分の名誉のため、自分が敬われたい、自分の立場を守りたいと、人間的な策略で神様の使命を果たそうとする欲望の力に無意識に操られています。この世的な価値観で判断していくと、油注ぎが消え、使命感は揺らいでしまいます。だから、あなたの使命感が本当に神のためかどうか、試されるのです。
 「父がどんな気持ちでイエス様を罪人のためにこの地上に遣わされたか」ーそれをイエス様は聞かれ、覚悟を持ってこの世に来られました。同じように私たちも、イエス様の御心・愛を聞いて、この覚悟でこの地上での人生を歩む決心が、使命感です。それは強制ではなく、自発的意志によって神に向けられる心の姿勢です。

『上記のような二人の使命感の違いは、尊ぶべき方への敬虔さの違いによって生じる』

 遣わされる方とあなたとの関係によって、使命感の度合いが違ってきます。ダビデは「心から主を畏れること」を自分の父親から学んでいたのでしょう。しかし、裕福な家庭に育ったサウルは、実の父親をどのように敬っていたかは、雌ろばを徹底的に捜し出すことに甘かったことから、尊敬の程度がわかるというものです。ダビデは命をかけて羊の群れを飼うという、父の命令を徹底的に守ろうと努めました。父に相当の尊敬があったのでしょう。ダビデの父エッサイが一生懸命家族のために働く姿を、ダビデは見て育ったのかもしれません。
「尊ぶべき方を尊ぶ」ことが、神からの使命をどう受け止めるかにかかってきます。今は親を敬う社会的教えが少なくなり、かえって引き下げてしまう情報が多くあります。親を敬うべき心が育っておらず、反抗・反感があると、神様に対して良いイメージを持てないことがありますが、本来の魂の霊の父である神様と健全な回復が与えられるよう、いやしを求めていくと、必ずいやし、奇跡を受けられると思います。
 ともかく、遣わされる方への敬虔な心、すなわちへりくだる心が、使命感を大きく感じる秘訣です。使命感をあまり感じない人は、イエス様への捉え方が浅く、知識的で、イエス様の苦しみの犠牲の大きさへの実感が湧きにくいためとも考えられます。

「召しにふさわしい〜召しとは身分の高い人からの呼び出し」
 誰から招きを受けているのかを理解しなければ、「召しにふさわしい」生活は考えられません。また、あなたより身分の高い人があなたを呼び出した目的を見つけなければ、召しにふさわしい生活はできません。
 望みに溢れるために、使命感を持てる望みに溢れる関係作りが必要です。私たちの魂は、値が付けられないほど価値がないのに、神様はキリストのいのちという代価を払って、ご自分の手の中に置いてくださいました。使者としてふさわしくない私たちという身分を知り、神はご自分の使者として認めて、信用して、大事な御心のために用いてくださるのです。罪人がキリストの御血潮によって、神のために用いられる使者として聖別され、重要な任務を果たす者として地上に置かれているという、神と自分の関係を知ることが、使命感が燃えるコツです。今、愚痴、不平を言う人、自分は無に等しいことを忘れていませんか。

『パウロは、主の囚人と位置づけて、召しにふさわしく歩むことを教えている。その狙いは何か。』
 パウロは、神様との関係において何と自分を低くし、申し開きもできない、何の権利も認められない囚人として自分を位置づけて、エペソの教会に「福音にふさわしい生活をするように」勧めています。
 霊的にいろいろな知識を持ち、悟りも深いと思っていたエペソの教会に、彼らが尊敬しているパウロが、自分を最低の身分と表して「福音にふさわしい生活をするように」語られているのは、エペソの教会に悟る力があったからです。
 教会の中でビジョン達成のために非協力的な様子を見て、人に左右される使命感は未熟であり、鍛えられていかなければなりません。極端に言うと、使命感に溢れた人は、一人でも使命達成のために進んでいきます。様々な環境の中で使命をどう受け止めているかを、神は見られます。大きな働きの使命であればあるほど、使命感の強さが必要です。神は私たちに、続セカンドステージとして、絶対に揺るがない使命を育てようと、今基礎作りをし、試みておられます。聖霊の声を聞き分けるまでにへりくだり、心砕かれるという悩みをもたらされるでしょう。しかし,自分で砕く方が楽です。悩み続け、葛藤し続ける中で砕かれていきます。今できることから行っていき、できないことをいかにできるようになるか、祈り考えていくー主の前に、主の使いとして、前向きに歩んでいただきたいですね。

 

 

2009年夏期聖会(第3聖会)

   聖霊の力による望み  up 2008.7.19


しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままにおのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
(第1コリント12:11)

「聖霊によって」ではなく、あえて「聖霊の力によって」と書かれているのは、それに望みのもとがあるということです。同じ神の御霊が、神に対する私たちの使命実現のための全ての必要を備えられる、とここに書かれています。

聖霊の力による望み
(1)賜物が分け与えられる(賜物=神様から与えられた能力)(第1コリント人への手紙12:11)
“しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままにおのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。”
※分け与えてくださる=必ず与えてくださると確信を秘めたことば
「みこころのままに」「おのおのに(個別に)」とは、神様が何らかのお考えを持って、一人に1つの賜物を共有しているのではありません。
どんなにすばらしく価値あるものが与えられるかによって、希望が心の内にもたらされ、未来がどんなに幸せになるか期待できます。クリスチャン生活がより発展的にすばらしくなることがわかれば、神の前に希望を持って、待ち望むことができます。
真実な神様は、私たちが罪人であったにもかかわらず、イエス・キリストを信じる心の姿勢を見て、御霊の賜物を分け与えてくださるとは、本当に感謝なことです。賜物をいただいた自分は未来が明るく、未来に対する存在価値も明るく捉えられます。聖霊の賜物が分け与えられるとは、まるで3億円ジャンボ宝くじが当たったかのように、恵みのプレゼントであり、将来は明るいのです。

あなたは聖霊の賜物を分け与えられることに望みを抱くことができる
聖霊の賜物に魅力を感じないのは、肉の欲を満たすことに心が奪われている証拠です。お金や人からの賞賛を求める人は、真剣に聖霊の賜物を求めません。聖霊の賜物のすばらしさに気づく人は、聖霊の賜物を分け与えられることに望みを持ちます。

(2)練られた品性は聖霊の力によるものである(ローマ人への手紙5:3〜5)
“そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”
「練られる」というのは、決して楽なことはありません。しかし、人生で、聖霊によって練られるものは失望に終わることがない、というのです。聖霊に練られた証は、positiveになります。「まばたきの詩人」と言われた水野淳三さんは、どうして障害を受け入れることができたのでしょうか。不信仰だった彼は、十字架の話、神の愛を聞いた時、障害を受け入れることがいかに大事で、内に練られた品性を作り出すものだと気づいた時、最高の幸せだと思い、すばらしい詩を書きました。
神に愛されていることは、不動の希望を与えます。不動の希望はネガティブな嵐を「黙れ。沈まれ。」と命じて、すべてポジティブに変えます。不信仰は聖霊の力によって、静め、取り去ることができます。聖霊は創造主の神の働きをされる方です。不信仰を信仰に変えることは、いとも簡単です。私たちの内におられる方は、イエス様を死者の中からよみがえらされた方であり、不信仰の嵐を静められないはずがありません。
聖霊の力によって練られている私たちは、ますます神に愛されていることに確信を得、希望が満ちあふれるのです。練っていくと物を柔らかにするように、私たちが練られると、寝る前にはなかった新しい性質が生み出されてきます。この人生でどれくらい練られるかで、永遠の人格が決まります。聖霊の力によって練られると、神の愛の深さがわかってきます。

(3)御霊に導かれる=力の影響を受ける(ローマ人への手紙8:14〜17)
“神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります。”
御霊に導かれるとは、その力の影響を受けます。希望の持てないクリスチャン生活は聖霊に導かれておらず、肉の力に影響され、導かれていると言えます。例えば、広島エルサレムプランというビジョンの実現に向け、使命感に燃えて走ろうとしている時、それを打ち砕くような試練、状況が来るのは、基礎を丈夫にするための神様からの悩みです。「こんなに苦しいのは、よほど大きな建物を建てるのだな。」と希望を持ってください。聖霊に導かれていると信じてください。それを疑うと、悩み・苦しみが無意味に思え、揺らいでしまいます。あなたは御霊に導かれている神の子ですよ。自分の思い通りになっていない悩みの時こそ、神の力の影響力を受けている証として練られ、きよめられて、神の子として導かれていることで、希望にあふれる道に歩んでいる証です。苦しみは基礎作りの時期だと思えば、これほどうれしいことはないのです。
聖霊の力を受けることによって、神の子であるという確信が増し加えられていきます。そして導かれていく中で、品性が練られていくわけですから、神のご計画、御心が感じやすくなっていきます。(V16)の「御霊ご自身が、霊とともに証してくださる」とは、聖霊様があなたの霊に向かって「神の子だよ」と語られ、あなたの霊はその通りだと感じる、ということなのです。なぜなら、聖霊に導かれ、ついていったから、神の子と確信できる段階へ進んだのです。同じところで足踏みしていて、神の子としての確信が弱いと、いくらでも信仰は揺り動きます。内なる聖霊様との問答がとても大切ですね。
そして神の子としての確信は、存在の確立を意味し、希望をもたらします。私たちはイエス・キリストによって、神の子となる特権が与えられました。特権を確信していくと、自然に希望が与えられてきます。信仰の弱さ、希望のなさは、神の子としての確信が弱いとも言えます。御霊に導かれている実感がなく、御霊の影響を受けていないのです。御霊の影響力を受けている人は、徐々に自分の成長がわかり、神の子としての確信が増していき、信仰も安定してきます。

聖霊の力によって神の子に生まれ変わった私たちの未来は、御国の相続人としての希望にあふれている

御国については、黙示録にしか書かれていません。新しい天と地に対する神のご計画は、御霊によって啓示され、見ることができます。神様と親しくなればなるほど、教えていただける分野です。神様は私に、永遠の世界で、無限の神様を見つけ出す仕事があると啓示されました。その永遠のために、今私は準備されていると思えば、苦手なことも取り組むかいがあるというものです。

聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように

このようなすばらしいものが3つも与えられたなら、外に溢れ出ないわけがありません。しかし、気づいていないと溢れません。希望??クリスチャンに希望があれば、生活も性質も考え方も変わります。変わらないのは、聖霊の力による希望が与えられていることに気づいておらず、価値がないとごまかされてしまっています。毎日確かめていくことが大切です。
資産家の人で、毎朝目の前に一億円の現金を見て頑張ろうと思う人がいるそうですが、お金の力に頼っている人は、力の大きさを目の前に見て安心するわけです。クリスチャンも、どんな賜物が与えられ、アガペーの愛がもたらされ、神の子としての身分が与えられていることの価値を悟り、毎日見ていたら、失望に終わることはありません。他の人は誰も奪えません。あなただけが、捨てる権利があります。
聖霊の力が、あなたの希望です。

 

 

 

 

 

 

■2009年7月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   寛仁大度 かんじんたいど  up 2008.7.12


心がゆったりしていて情け深く、度量が広いこと。


主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
(詩篇22:23〜24)


 

 

 簡単な問題なら、誰でも助けてあげられますし、すぐに良い結果を得られるなら、助けてあげたいと思う人は多いでしょう。しかし難題だったり、良い結果をなかなか得られない相手の場合、どれほどの人が忍耐して相手をしてあげられるでしょうか。けれども神様は、問題の大小で相手を選んだりはされません。「悩む者」の「悩み」を聞かれる方なのです。だからこそ、この「寛仁大度」な方を賛美するようにとみことばにあるのです。
 私たちもこの方になら希望、期待を持てるのではないでしょうか。この「寛仁大度」な神様に希望を持って賛美をささげていこう、というのが今回のテーマです。
 主のおこころの広さ深さは、はかり知れません。だからこそ、その寛仁大度に希望や期待を抱くことができ、賛美が湧き上がってくるのです。

1.聖書における悩む者
A)(詩篇34:19)
“正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。”
『不敬虔な者達の道徳観で満ちているこの世の中に、正しい者たちが敬虔に生きようとすればするほど、悩みは多くなる。』
 もしあなたが、この世界で大した悩みもなく生きているとしたら、それは大問題です。
 この世でまじめに生きるのは、本当に苦しく辛いことです。正しい良心を持つ者は、傷つき悲しむことが多いでしょう。しかし、それこそが、神に似せられた者として「生きている」証しでもあるのです。
主はそのような人を助け出される方なのですから、悩みを真っ向から受け止めて、解決されていくのを目にしようではありませんか。
 新しいものを作り出す開発部の人々が、試行錯誤の末にすばらしいものを発明して喜ぶような喜びを、私たち正しく生きる者たちも持つことができます。

B)(詩篇119:75)
“主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。”
『私たちのことを考え、目的をもって私たちを悩まされることがある。』
 神が私たちを悩まされる時には、ご計画があります。意味や理由がわからなくても、永遠のご計画に沿う者へと変えていってくださるのは間違いありません。

C)(イザヤ書10:2)
“彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。”
『弱い立場の者や貧しく力のない者のことを意味している。』
 このみことばにある「悩む者」は、口語訳、新共同訳では「貧しい者」と訳されており、貧しさと悩みは密接な関係にあることがわかります。この貧しさは、精神的、霊的貧しさも含みます。

2.悩む者の賛美すべき救い
 一度助けられたことのある者は、次の苦しみの時も期待を持って賛美することができます。なぜなら、神は約束を守られる方だからです。

A)多くの悩みから正しい者を救われる。
(1)義人ロト(第2ペテロの手紙2:7)
“また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。”
 創世記を読んでいただければわかることですが、ロトはアブラハムについてきただけの人であり、祝福もアブラハムからお裾分けされた結果です。行いも自己中心的なロトを、ペテロは義人と呼んだのです。 
『アブラハムほどの信仰者ではないロトが義人として強調されている。イエス様を裏切ったことのあるペテロにとって、ロトは義人として見ることができたのであろう。そのロトでさえ悩まされるほどの不道徳な社会が存在していた。』

 妥協点の多い、自己中心的な考え方をするクリスチャンの見本のようなロトでさえ悩まされる社会は、どれほどのものであったのでしょうか。逆に言えば、汚れた社会に悩むことによって、ロトは義人であると証明されたのです。
 今の日本、資本主義で、自己中心で、道徳は乱れ、弱い者を踏みにじる社会に、私たちは悩まされているでしょうか。「しょうがない。これが世界というものだ。」とあきらめるなら、この世と同じになってしまいます。
 アメリカでは現在、クリスチャン夫婦の離婚率が、ノンクリスチャン夫婦を上回ったそうですが、自分と相手との関係、状態は気にしても、「神の前に立てた誓い」を気にしないのはどういうことでしょうか。神の仲介された契約だからこそ、離婚は悪なのです。
 他にも「みんながやっているから」という考えで、聖書にないこと、禁じられていることをするならば、この世に流され、義人であることをやめているのではないでしょうか。むしろ、私たちは大いに悩むべきです。悩むのはこの世を憂いているから、義人だからです。

(2)賛美すべき救い(ローマ人への手紙2:16)
“私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。”
『神のさばきは、正しい者にとって福音である。』
 神は必ず人々の隠れたことも裁かれる、という事実は、正しく生きようとする人々の希望であり、なぐさめです。

【考えてみましょう】
この世の不道徳に対して悩まないクリスチャンがいるだろうか。
神のさばきを良きおとずれと受けとめて、待ち望むクリスチャンがどれほどいるだろうか。
 自分さえ恵まれていればいい、というクリスチャンがいたら、問題です。
 また今、突然に神が来られるとしたら、あなたは喜べますか。神が全ての悪を裁かれる日を、今か今かと待ち望むのが真のクリスチャンの姿です。

B)神様の意図された悩み
(1)主の働き人パウロ(コロサイ人への手紙1:24)
“ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。”
『兄弟姉妹のために悩むことは、神の意図された悩み。その目的は、互いに愛し合うことの大切さ、素晴らしさを悟るためにある。』
 たとえば結婚で、お互いが全てを知り尽くした後に結婚するというのは、まずあり得ませんね。結婚の後に起こる様々なトラブルによって、さらに互いの絆が深まるのが、結婚の意義です。
 教会の中で起こる問題も然りです。何がどうであれ、その人がイエス様を信じて敬虔な歩みをしようとしている限り、私たちは自分の思いなど後回しにして、助けていくのが愛の表れ、絆の深まりに役立つのです。人間関係は空気のようにただそこにあるのではなく、お互いに歩み寄る努力によって成り立つのですから。

(2)賛美すべき救い(第1ペテロの手紙4:13)
“むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。”
 苦しめば苦しむほどイエス様の救いにあずかれる、という喜びは、成熟したクリスチャンのものです。この言葉を記したペテロは、イエス様を三度も否んでしまったことの痛みのゆえに、自分が処刑される時もイエス様と同じかたちの十字架刑ではなく、逆さで吊るされることを選ぶほど、謙遜になっていました。
 (そこまでの信仰がなくても)キリストの再臨は、私たちにとって報いです。苦しむかいがあるなら、耐え忍ぶことができます。

C)弱い者、貧しい者を悩みから救われる
(1)ほんとうのやもめ(第1テモテへの手紙5:5)
“ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、”
 地上において、何の助けも望めない状態の人を「ほんとうのやもめ」と言います。その人々の悩みを理解し受けとめ、神から遣わされた者として、救いの手をさしのべるべきです。

(2)賛美すべき救い(マタイによる福音書25:40)
“すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』”
『悩む者への助けは、主を助けることと同じ。助けられる者、助ける者がともに主の救いにあずかることとなる。』
 困った人にとっては実際に助けになり、用いられる人自身も神のお役に立てるのだから、これはすばらしいことです。自分のためだけに生きる空しい報いのない生活から、もっとも小さい者のために用いられる救いの器として遣わされる尊い役目の日々に変えられるのですから。
 あなたはこういうクリスチャン生活でありたいと望みますか?悩み多き日々を、かえって主に賛美をささげる日々となすために、いろいろなみことばを今日は紹介してみました。あなたの今までの悩みは決して無駄ではなく、不信仰さえも受けとめてくださり、良い方向へと向かわせてくださる力と御心を持っておられる方が、あなたの味方です。自分がこの先どう動かされるにしても、神様は「寛仁大度」な方であることをいつも心に留め、疑うことなく、このクリスチャン生活を歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年7月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   欣喜雀躍 きんきじゃくやく  up 2008.7.5


雀が飛び跳ねるように、こおどりして喜ぶこと。


主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。
(詩篇28:7)


 

 

 この一ヶ月、賛美についてメッセージをしていますが、今日もその続きになります。
 私たちも「こおどりして喜ぶ」ような喜びをもつことがあります。このような喜びを神に向けることはすばらしいことです。そこには、幼子のような純粋さがあります。ダビデは生涯、この純粋さをもち続け、神に愛された人でした。
 私たち日本人は、喜びをあまり顔に表さない方が大人であるという考え方をしがちです。しかし、神の前に喜びを素直に表すことを、神は願っておられます。

1.こおどりして喜ぶのは、助けられたから
A)おりにかなった助け(ヘブル人への手紙4:16)
“ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。”
 おりにかなった助けを与えてくださるという確信を持っているので大胆に神に近づけます。
 では、「おりにかなった」とはどういうことでしょうか。それは、私たちが「今がその時だ」と思う時と違うことがあります。私自身、なぜ思った時に助けが来ないのかと祈ったことがあります。その時示されたのは、もし自分の思い通りの時に助けが来た場合、それが神のご計画にとって妨げとなることがあり得る、ということでした。神が計画を進めておられるのであって、私が計画を進めているのではありません。神は全体を見て、すべての点から考慮して、最善の時を選ぶことがおできになります。私たちが自分勝手に判断して、すべてを推し進めていたら、計画全体が狂ってしまったり、良いものがダメになってしまうということもでてくるのです。
 「今、助けが与えられない」ということは、「今は待つ時期なのだ」と知るべきです。神のご計画の下に人生が置かれているということを信じ、安心して、信頼を持って、神の助けを待ち望んでいきましょう。

B)この世の教えの奴隷から贖われた(ガラテヤ4:3〜5)
“私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。”
 「まだ小さかった時」とは、信仰を持ってまだ間もない頃、またはノンクリスチャンだった時ともいえます。「幼稚な教え」とは融通の利かない教えです。しかし、神の恵みの教えはより高度であって、多くの細かい事柄にも適用できます。そして、良心的な判断にゆだねられます。
 神の教えはより細かい目盛りのある物差しのようなもので、それはどんなに時と場所が変わっても、変わることはありません。この世の様々な価値観や教えに振り回されていた私たちを、神はイエス・キリストのあがないによって救い出してくださいました。このことを思い起こすだけでも、こおどりして喜べることではないでしょうか。
 どんなに辛い一日であっても、私たちは永遠の御国に入れるチケットを持っているのですから、そのことを考えるだけでも喜びが溢れてきます。
 神様の助けには、必ず目的があります。私たちが永遠のいのちに至るよう、的外れになってしまわないよう助けを与えてくださいます。
 私がインドにスタンレー先生達と3人で行った時、ある町で伝道集会を持つ予定でした。しかし、その隣りの町でテロが起きたばかりでした。そして一日目の伝道集会の時、スタンレー先生が、何人かの目つきの悪い人たちがいることに気づき、心が騒ぐのでみんなで祈りました。その時、普通なら通じなかった日本からの電話が通じ、妻が「あなたが殺される幻を見たので気をつけて!」と言ってきました。その言葉もあり、3人はその夜の内に移動しました。後から聞いたのですが
なんとそのすぐ次の日、「昨日の日本人はどこにいるのか!」と、テロリスト達が来たそうです。もう少しで人質にされるところでした。神の啓示によって助けられたのです。
 神の助けはいろいろな形で現されます。時間が遅れたおかげで交通事故から守られたり…遅れることにイライラしていても、実は何か理由があり、それが神の助けだったりすることもあるのです。

2.心がこおどりして喜べない自問自答(詩篇42:5)
“わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。”
 思い乱れる理由はいろいろあるでしょう。自分の願いがきかれなかったり、信じたいのに信じられなかったり、そういう時にむしろ自問自答して、「なぜ心が乱れるのか…神を待ち望め!」とダビデは言っています。
 思い乱れる理由には2つあります。

A)私は罪の奴隷であることの恐ろしさに気づいているだろうか?
 箴言7章に罪の恐ろしさが出ています。(箴言7:6〜12)(箴言7:21〜23)遊女の装いをした女は、実は既婚者であり、罪を象徴しています。もしばれたら、この時代は石打ちの刑でした。しかし罪は強い誘惑をもって、わきまえのない者を襲い、ついには永遠の滅びにまで至らせます。日本では不倫、姦淫は法的には犯罪にはなっていませんが、聖書では死刑にあたる罪となっています。この7章をよく読んで、罪の誘惑に陥る恐ろしさをしっかりと感じ取ってください。

B)私は神の子とされた素晴らしさに気づいているだろうか?
(箴言11:22)
“美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。”
 女性の美しさは、神聖さ、聖さを象徴しています。しかし、たしなみのない女は豚にたとえられ、罪と汚れの象徴です。
 美しさ、神聖さは、神を畏れる良心です。この良心をいつも自覚して、自分の意志をそこに置くことが、本当の自分であると自覚しましょう。それを忘れてしまうと、その良心は豚の鼻にある金の輪と同じで、無意味なものになってしまいます。金の価値をしっかりと持ち、正しい良心を忘れないよう、自覚して生きましょう。ただし良心には正しい良心とふつうの良心とがあります。ふつうの良心は、価値観と正しさの基準が時代によって変化します。しかし、本当の正しい良心は、神を敬うことを基準としていて、神の価値観と同じです。神に似せて造られたからです。しかし神を畏れない人の良心は、この世の多数決や、自分の経験による価値観が基準になっています。国や文化によっても変わります。
 しかし、クリスチャンの神を畏れる正しい良心は世界中同じです。この正しい良心の価値を決して忘れないようにしましょう。神の子とされたことに価値を見い出していますか?神の前にいかに聖く生きているかで、その人の人格の価値が表されます。正しい良心の叫びに耳を傾けましょう。