■2009年6月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   感謝感激 かんしゃかんげき  up 2008.6.28


あることに深く感動して感謝の気持ちが湧き上がり、
心が強く動かされること。


全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。
(詩篇100:1〜5)


 

 

 今回のテーマに関して、私が注目しているのは、「心が強く動かされる」という部分です。湧き上がってきた感情が力となって、次の行動に移るための動機付けになるのです。もし聞くだけで終わるなら、死んだ「感謝感激」になってしまいます。
 今週のみことばについても、もし感激を持たずに詩篇を読んだなら真の理解はできないでしょう。しかしダビデと共感できる人がこれを読むなら、同じ感謝の思いをもって、この詩篇のことばを告白できるのです。
 ネガティブな感情→否定的行動
 ポジティブな良い感情→信仰的行動
 否定的な思いの人も、「感謝感激」できるようなことに出会えば、変えられます。それは自然な心の成り行きであり、努力ではありません。ただ、私たちがなすべきことは、「感謝感激」できる事柄を見つけ出すことです。この一週間、みことばと聖霊様の導き、また様々な出来事の中に「感謝感激」を見つけ出して参りましょう。

1.『感謝』とは?
【辞書からの意味】
ありがたく感じて謝意(感謝の気持ち)を表すこと。
『ありがたい』→『有り難い』(仏教用語)
「有る」ことがまれだということから出た言葉。
 お経の中にある『盲亀浮木(もうきふぼく)の比喩』に出て来る釈迦のたとえ話で、人間に生まれたことは大変「有り難い」ことだから喜ばねばならないという教え。
 どんなに苦しくて辛いことがあったとしても、自分が今人として在ることはとても幸せな状態なんだということです。

2.感謝すべき二つの真理
A)私たちは、神のかたちに似せて造られた。
(1)(創世記1:26〜27)
“そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものとを治めさせよう。」と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。”
 皆さん、考えてみてください。盲目の亀が、大海にさまよう流木の穴に偶然顔を出すような奇跡が、自分に与えられているのです。それが、「神のかたちに似せて造られる」ということなのです。
(2)(詩篇8:5)
“あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。”
 「いくらか」ということばは、神様とほとんど同じであると捉えることができます。それは現在ある高性能コピー機でコピーしたものとその原本のようなものです。コピーと原本を比べてみても、ほとんど違いを見つけることができません。
 私(辻師)は神を知る以前には、人間の精巧な体の作り、細やかな心の動きを疎んじていました。しかし、神様を信じた時に、自分の体や心の精巧さは、神様そっくりに造られたところから来ていることに気づいて、自分を感謝できるようになったのです。
【考えてみましょう】
 神に似せて造られた自分であることを、どのような点に感謝感激できるかを考えてみましょう。

B)贖いの代価による罪の赦し
(1)(エペソ人への手紙2:7)
“私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。”
(2)(第1テモテへの手紙2:6)
“キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。”
(3)(イザヤ書53:5〜6)
“しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を、彼に負わせた。”
 私たちにあって神様にはない、罪の性質というものによって、私たちは罪を犯す者となり、死して尚、呪われた者として永遠の火の池で苦しみの裁きを受けるはずでした。罪の性質は、神様の計り知れない好意とあわれみと慈しみを無駄にして、神様のお心に計り知れない傷を負わせてしまいます。差し出されたあわれみの御心を邪険にはねのけて、なおかつ「自分に罪などない」と言い張っている人間。本来なら滅びるのが当然でしょう。
 しかし、その永遠の裁きの代価を、神ご自身が支払ってくださったのです。ご自身が肉体と血とをもった人間として地上に降りてくださり、私たちには支払うことのできない、永遠の罪の代価を、ご自身のいのちの犠牲をもって支払ってくださいました。私たちを捨てずに、神なる方が代価を支払われるなど、本来あり得ないことです。
 もし私たちの生涯が、この世的には不幸の連続だったとしても、決して動かされることのない、二つの感謝すべき事柄があります。
 それは、神に似せた存在たる「人」として生まれた事と、永遠の救いを神により与えられている事。たとえ自分の生涯が百年間不幸しかなかったとしても、永遠の世界における祝福が待っているのです。今の自分の人生は、永遠の祝福の前には一瞬の火花にすぎません。
 このように私たちが永遠を楽しみにし、希望と期待を持ち続けるなら、神を知らない人々でさえうらやむほどになるでしょう。
【考えてみましょう】
 的外れの罪人から、的を射た義人とされたという観点から、罪が赦されることがいかに感謝感激であるかを考えてみましょう。

3.感謝感激の賛歌(詩篇100篇より)
A)喜びをもって主に仕える。(v2)
B)喜び歌いつつ御前に来たれ。(v2)
C)私たちは主のもの。(v3)
D)感謝しつつ、賛美しつつ…はいれ。(v4)
E)信頼の表現。(v5)
【考えてみましょう】
 ダビデの感謝感激は、どのようなことに深く感動し、心が強く動かされたのでしょう。

4.感謝感激の人生として歩む
A)願いがかなえられていることへの感謝(ヤコブの手紙5:13)
“あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。”
 「苦しんでいる人は、まだ願いがかなえられていないので苦しんでいるのですから、願いがかなえられるまでお願いしなさい。かなったなら、できうる限りの方法で感謝を表しなさい」と、ヤコブは言っています。
 大きな恩を受けた時、人はその相手を決して忘れず、礼を尽くします。「感謝感激」が大きいほど、礼を尽くす程度も期間も大きく長くなります。救いの「感謝感激」に溢れた人の場合、「神様の喜ばれることを何かしたい」「御用を申し付けていただきたい」と、神に使っていただき、お仕えしたいと思います。
 私たちはどれほどの感謝感激をもっているのでしょうか?神様の払ってくださった犠牲に、少しでもお返しできるような感激をもちたいものですね。
 また、忍耐の必要な祈りは、それだけ大きな事柄である証拠でありかなった時の嬉しさはいかほどのものになるでしょうか。その願いがかなった時には、人目を気にせず、神様に素直な喜びと感謝を表そうではありませんか。神様は、どれほど喜んでくださることでしょう。

B)思いどおりにならないことへの感謝感激(第2コリント12:7〜9)
“また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。”
 私たちには、決してかなえられない願い、聞き届けていただけない祈りがあります。その時、無理に自分の願いを通すべきではありません。かなえられないのは、自分を傲慢の罪に陥らせないためです。神様は、私たちの召使いではありません。あくまで神様の恵みとあわれみによって、願いを聞いてくださるのであって、本当は私たちの願いなど、御前に届くはずもないものなのです。イエス様の血の犠牲によって、あり得ないはずの幸運が与えられているのです。このことを心に留める時、自分の思い煩いや、争うことの愚かさが見えてはきませんか?クリスチャンは、自分自身のことをよくわかっていないのではないでしょうか。人がちりで造られたのはなぜでしょうか?高ぶることのないために、つまらないもの、とるに足りないもので造られたのです。
「高ぶり」が人にとっていかに危険なものであるかをいつも心にとどめ、思いどおりにならないことを感謝しましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年6月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   旱天慈雨 かんてんのじう  up 2008.6.21


日照り続きに降る恵みの雨。
また困窮している時の援助や物質のたとえ。


その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」
(イザヤ12:4〜6)


 

 

 今週のテーマである4節から6節のみことばは、「主をほめたたえる」ことをテーマに記されていますが、これは、先週学んだ1節から3節の「採薪汲水」という、神の恵みの中にゆったりと生きていく中で生まれてくる、神への賛美です。
 神様への賛美が湧き上がってこない理由の一つとして、恵み溢れる「採薪汲水」に慣れてしまっているからではないでしょうか。
 
 今のクリスチャン生活が、以前のどんな状態から救い出されて、どれほどの恵みを受けているかを忘れているのではありませんか?エジプトから40年間荒野で生活していたイスラエル人は、雲の柱火の柱、岩より流れ出る水によって守られている奇跡を、不思議とも思わなくなっていました。同じようなことが、あなたにも起こっているのではないでしょうか?

1.『採薪汲水』=恵み溢れる生活(イザヤ書12:1〜3)
“その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。”

(1)みことばの薪が聖霊の火で燃える。
みことばは、聖霊様によって生きた言葉として私たちを生かされる。薪も燃やさなければ役に立たない。

A)私を怒られた=懲らしめ
私たちへの怒りは、的外れから立ち返るための懲らしめである。
みことばの薪が聖霊の火によって燃えるとき、たましいに厳しく聞こえて来る。

 礼拝のみことばが自分に厳しく聞こえる時とは、どんな時でしょうか。「生きている」みことばは力があるので、肉の心が強くなると、反抗したい心が起こってくるのです。そこで自分の心の動きに気づいて、正しい良心に立ち返りましょう。肉のわがままを続けると、だんだん痛い懲らしめになってしまいます。

B)私を慰め=あたたかさ
落胆と失望の中に陥ったとき(砕かれたたましい)、主は私たちをあたたかな愛によって慰め、励まし、いやしてくださる。みことばの薪が聖霊の火によって燃えるとき、たましいにやさしく聞こえて来る。

 これは多くの人の喜びであり、このあたたかさを受けて救われた人は多くいらっしゃるはずです。しかし、こればかりを求めないでください。成長するためには、人は懲らしめを受ける必要があるのです。

(2)救いの泉から水を汲む
霊的干ばつの世界であるこの世の中に、唯一の泉としてもたらされたイエス・キリストによる救いのみわざ。

 人を生かすのは霊であり、神のみことばです。それは砂漠の中にある湧き水、オアシスであり、これを見つける人の喜びは大きいのです。

預言の成就=わき水が湧き出て、現在に至っている。
神の子として生きるためにはこの泉からいつも飲むことが必要。

 イザヤは神からの啓示を受けて、イエス・キリストを信じる者が受ける恵みを預言しました。

2.採薪汲水は旱天慈雨の喜び(申命記28:12)
“主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。”

 季節ごとの雨は、恵みの倉から降り注がれるものです。それは神が主権をもって管理しておられます。
 現代は自己中心の強い世界で、雨をうっとうしく思うことが多いのですが、もし雨が降らなければ、私たちは生きていけません。世界でも雨の少ない地域では、雨が降る時、人はわざと雨に濡れて歩き、雨を喜びます。神を畏れる人も、自然の営みを大事にして、雨を感謝します。ましてや、神を敬う人にとって、霊的天の倉を開いて神が恵んでくださる雨はどういう意味を持つのか、よく考えてみましょう。

(1)暗やみの世界で光の生活をする(第2コリント人への手紙6:9〜10)
“人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。”

 ひでりで干ばつ。この世は正しい良心に従って生きたい人々にとって、そういうところです。しかし砂漠のオアシスなるイエス・キリストを、私たちは発見したのです。罪の生活から神の子としての生活に移された、これが恵みの雨です。このすばらしさに気づけば、マンネリと思われる日々を抜け出すことができます。

この世の人が思うほどに、クリスチャン生活は行き詰まったものではない。
かつてひでり続きに降る恵みの雨を体験している。

2今が旱天慈雨の時である(第2コリント人への手紙6:2)
“神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。”

 今はまさに旱天慈雨の季節です。御霊の九つの実を結ぶことができるのも、神の恵みの雨のおかげです。農夫たちは昔から、祭りを通して天よりの恵みを感謝していました。では、私たちはこの恵みの大きさに、どれほどの感謝をささげるべきでしょうか。

今のクリスチャン生活は、旱天慈雨を受けている毎日であると気づいているでしょうか?

3「その日、あなたは言う」(イザヤ書12:4〜6)
“その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。
主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。
シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」”

賛美は旱天慈雨だと気づいている人の心から湧き上がって来るもの。
A)感謝の賛美(v4)
B)感激を告げる賛美(v5)
C)大声で歌う(v6)
 A〜Cは自然と湧き上がってくるものです。恵みを与えられた感激からやってきます。
 私たちが繁栄しているのは、神から与えられた資源を活用できているからです。与えてくださった方への感謝を忘れてはいけません。
 また、自分の思い通りにならなくても感謝できる心の広さを持ちましょう。
 クリスチャンは真理によって目が開かれて、色々な出来事をプラスに受け止める広い心の視野が与えられています。

3.福音を旱天慈雨と受けとめる賛美の生活

イザヤ12章は、救世主による福音が採薪汲水という恵みの生活と、旱天慈雨という喜びと感謝を信じる者にもたらすものであることを示している。

雨を嫌う人が多いこの時代、神様の恵みの雨を煩わしいと捉えてしまっているクリスチャンが多いのではないか。
 
旱天慈雨と思える賛美の日々を過ごせるように、福音を味わうことが重要なポイント。

 神様の与えてくださる、みことばの薪を集め、聖霊の水を汲むのは私たちが生きていくために絶対必要なものです。私たちは、神様なしには生きていけません。それは特に、困難にぶつかっている時にこそ味わうことができます。神様の薪と水によって自分のできなさ、至らなさが、洗練された良いものに変えられていくのです。罪によって生じた歪みが、神の子としての輝きに変わります。みことばの薪と聖霊の水を集める毎日のありがたさを感謝する時、人生は良い方向に変わっていきます。
 神の恵みの高き嶺に到達することのできる感謝を、イエス様の十字架にささげていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年6月14日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 小栗 恵子 師)

   採薪汲水 さいしんきゅうすい  up 2008.6.14


自然の中で生活をすること、自然の中で質素に暮らすこと。


その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
(イザヤ12:1〜3)


 

 

 都会のあわただしさから離れ、ゆったりとした落ち着きを求めて、人はあえて自然の中に身を置くこともあります。人間が創り出した文明の利器は、私たちの生活をより便利にし、効率を上げるものとなりました。しかし、その便利さは、神様が主権をもって統括されている自然にも、人間が自分たちの都合のために分を超えて入り込んで崩して手にしていったものとも言えます。
 今日、私たちはあまりに多くの便利と思えるものに囲まれてしまい本当に必要なものが見えなくなってきているかもしれません。物質文明に執着した結果、創造主から与えられた自然の中の造られたものが本来もっているすばらしさを見失ってきてはいないでしょうか。同時に創造主なる方と私たちの関係が薄れてしまっていないでしょうか。
「薪を採ってきて火を起おこし、自然の水を汲み上げて飲む」という一見原始的と思える状況を表す「採薪汲水」の意味するところから、(イザヤ書12:1〜3)のみことばを通して学んでまいりましょう。 
 
1.神の怒りが去り、慰められて感謝(1節)
●私たちは御怒りを受ける者だった(エペソ人への手紙2:3)
“私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”
 罪が入り、私たち人間は神様から遠く離れて、自分中心の自分勝手な生き方を選ぶようになりました。真理とは、造られた目的に沿って本来あるべき状態にあることです。神様に造られた人間が、罪の力に支配され、神様を知っていても肉の思いを優先させて神を否定し、また神に従わせられていると思う歩みをしているのは、真理から迷い出てしまっているのではないでしょうか。神様はそのことに心を痛められ、とても悲しまれたのです。

●神自ら、ひとり子を私たちのために差し出され、怒りをお去らせになった(ローマ人への手紙9:22)
“ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。”
 神様は、私たち人間が罪の力に支配され、もがき苦しみ、しかし断ち切れないその悪循環をどうしようもできないことを知っておられました。そこでご自分から罪人の赦しのために、ご自分とも言える御子イエス・キリストをなだめの供え物として(第1ヨハネの手紙2:2)差し出され、ご自分の怒りをなだめられたのでした。私たち人間は何もしていません。神様が大きな決断をしてくださったのです。

●ゆるされたことへの感謝をささげる(詩篇51:17)
“神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。”
 神様は私たちに問われます。「あなたの心の中に、キリストは何番目に重要ですか」と。神に知られているのに、神を知らないと言ってはならない、あなたのために身代わりとなられたキリストを、もはや知らないと言ってはならないのではないでしょうか。キリストは、何をしてくださいましたか。今でもまだ神から心を離しているかもしれない私たちを見られて、十字架にかかることを選んでくださったのです。ですから、この方の前に心からへりくだり、ぬかずきたいと思います。
 ダビデについては、有能な戦士でしたが、心に罪の誘惑がきた時、部下の妻を呼び寄せ、みごもらせ、その事実を隠すため、ついにはその部下を戦場で最前線に立たせて死ぬように企て、実行されました。すべてはダビデの胸の内に隠されたこととなっていましたが、神の前には明らかでした。神が予言者ナタンを通してダビデの罪を指摘された時、ダビデははっきりと神の前に罪を犯したことを認めました。そして、この詩篇のことばを語ったのです。
 私たちも神の前に罪を犯す者ですが、その罪を神の前に明らかにし(第1ヨハネの手紙1:9)申し上げることが大切ではないでしょうか。

2.主への信頼(2節)
●私たちと神様との関係は切れない(ローマ人への手紙8:38〜9)
“私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”
 先日の雨の中、教会のある兄弟が傘をさして、幼い我が子が濡れないように抱きかかえて歩いていかれるのを目にしました。その光景は父なる神様と私たち人間の姿に重なりました。
 私たち人間がどんなに罪に汚れていようとも、神様は「おいで」と呼んでくださいます。私たちの出来ることは、ただ父なる神様にしがみつくだけです。甘えていいのではないでしょうか。どんな出来事が起こっても、そこに神を見ることができるでしょうか。振り払われるように思えることがあっても、罪人のためにキリストを差し出してくださった神様が、私を打ち滅ぼされるようなことはされないと、神への信頼を持ちたいですね。出来事だけでなく、これまでの自分の歩みが神様からどんなに心を離していたかを考えてみる時、今赦されて神の前に出られる者とされていることを知るなら、多く赦された者として神の前に心からへりくだり、神を愛する思いが与えられるというのが、2節のことばが表しているところではないでしょうか。
 日常的なことに心を捕われて、「神が待っておられる」ことが見えなくなっていないでしょうか。神は近づき、いつでも手を差し伸べ、待ってくださっています。

3.救いの泉から水を汲む(3節)
●イエス様から与えられる水を求めましょう(ヨハネ4:14)
“しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。”
 私たちは水ではなく一時的にのどを潤す飲み物をよく口にします。しかし、含まれている成分の量を考えると、必ずしも体に良いとは言えないものもあります。同様に、私たちは快楽の水(自分を喜ばせる。その場が良ければよい)、失望の水(自分を否定し、自己憐憫に陥る)、批判の水(自己義を立てて、批判していく)…等々、自分の霊を傷つけていくのに、飲み続けている水があるかもしれません。
 最近は自然の水が注目されており、体に良い成分を含んでいると言われています。イエス様がくださっている水は、永遠のいのちの水です。救いの泉です。地→天へ、罪→赦し(救い)へ、自分中心→神中心の生き方へと私たちを変えてくださる水です。この水を、神は飲んでほしいと願っておられます。そして自分を生かし、新たにし、生きていて良かったと自分を支えるまことの水を見つけ出してほしいと思っておられるのではないでしょうか。
 私たちの生活には、この水を見つけ出しにくくする、あまりに多くのものが溢れています。私たちの内側(霊)は自分を支える水が必要と感じていても、見つけ出せず、一日が過ぎていってしまうかもしれません。私たちの霊を満たす泉とは、聖霊のバプテスマのことです。これこそ私たちを生かし、助け、支え、強めてくださる水です。だから、この水を得るデボーションが大切なのですね。その中で、自分の心が何を求めているかを探るためにも、「採薪汲水」のごとく、気持ちの上で、神と一対一になるところを作り出すことが必要です。その時に、神様が自分に何をしてくださったかを語ってくださるのではないでしょうか。
 神様は、私たちが本来受けるべきはずの御怒りを去らせるために大切なイエス様を身代わりに十字架にかけられたほど、私たちを愛してくださっています。常に神様の前におかれている自分をわきまえるために、神様だけを見上げる時間を持ちたいですね。そして、救いの泉の水を汲んで、飲んでいく一週間といたしましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年6月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   歓天喜地 かんてんきち  up 2008.6.7


天を仰いで歓声を上げ、地に伏して喜ぶの意から、
この上もなく大喜びすること。


こうして、彼らは、神の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真中に安置した。それから、彼らは神の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。そしてイスラエルのひとりひとりみなに、男にも女にも、それぞれ、丸型のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を分け与えた。
(第1歴代16:1〜3)


 

 

 この「歓天喜地」とは、湧き上がる喜びの力でじっとしていられな いという状況を表しています。第一歴代誌16章の前に、ダビデは気が狂ったように神の箱の前で踊り、ダビデの町に契約の箱を運び入れました。その喜びをもって、ダビデは何をしたのでしょう。
 神を賛美するとは、単に歌を歌い、ほめ言葉を言うだけでなく、体でそれを表現するだけでもないということを学んで、賛美の生活を共に歩んでいきましょう。

1.神様を迎え入れる喜び
 ダビデ王は自分の町に神の臨在の象徴である神の箱を「歓天喜地」をもって迎え入れました。それは、私たちが救い主イエス様によって神様を信じ受け入れる喜びと同じものです。
 ダビデの喜びは、神様を賛美する行動となりました。私たちも同じように神様を賛美しましょう。
 感動を覚えないと、湧き上がる喜びは出てきません。ダビデはものすごい感動を感じたので、気が狂ったと見えるほどに、踊りをもって体全体で神様を迎える喜びを表現したのです。
 まず、この喜びはどのような感動の下に湧き上がってきたのでしょうか。感動とは、意識的に見つけ出すことができるものなのです。
 人は感動すると、心に力が湧き上がります。その力によって、前向きになることができます。ネガティブをポジティブに変える要因は、どれだけ心に感動を持つかではないでしょうか。
 同じように神様をほめたたえることにおいても、感動のない、形だけの賛美は、あまり神様に喜ばれないのではないでしょうか。やはり感動をもって賛美を捧げると、神様は喜ばれると思います。
 何のために私たちに感情が与えられているのでしょうか。それは感動を感じるためです。この感動をしっかりと受け止めていきたいと思います。まず、「神様を迎え入れる喜び」とは、どのような喜びかを考えてみましょう。

A)神様との和解成立による喜び(ローマ人への手紙5:11)
“そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。”
 私たちは、神様と和解したことに対して、スポーツ選手が優勝した時のように感動を表したことがあるでしょうか。ダビデとパウロは、神様との和解を大いに喜びました。
 ダビデ王は、イスラエルの歴史の中で自分が王様になるまでの間、神様との間に和解がなかった国の状態があったことを、生活の中で体験してきたので、神様と和解して迎え入れるということが、とても大きな喜びであると実感できたのです。
 パウロは、自分が罪人の頭であることを自覚していたので、罪赦されて、神様と交流を持つことができる状態になったということを、大いに喜びました。
  「主権者と和解することは、この上もない歓天喜地である」
 
 神様は宇宙の統治者であり、裁き主です。その方に反抗し、敵対するということは、どれほど損なことでしょうか。神様と和解することは、安心であり安全なことです。ダビデとパウロは、神様の主権を本当に認めていたから、和解を多いに喜んだのです。
 私たちは、神様がどんなお方であるかを、あまりにも軽んじているのではないでしょうか。それが、賛美や感謝が溢れてこない理由ではないでしょうか。

B)イエス・キリストによる福音の約束を信じる喜び(エペソ3:6)
“その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。” 
 神の国を相続するということは、神の国の王子、王女になるということです。身分とは社会的権威、地位、力です。あなたはその力を何の努力もなしに相続できるのです。そのような良いものがあなたに約束されているということを知らされ感じ取ったら、大きな喜びになります。
 パウロは律法を深く学んでいたので、人は行いによっては義とされず、イエス・キリストによって神の子としての身分が与えられるということを知り、すごく感激したのです。私たちは、何を相続するのかをよく考える必要がありますね。

「奥義を知らされ、それにあずかる者となる約束は歓天喜地である」

C)神様が味方になってくださる喜び(ローマ人への手紙8:31)
“では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。”
「創造主である神様が私たちの味方になってくださる歓天喜地は、
 ほかにはない」

 たとえ患難や危険に遭っても、心が不信仰で満たされても、あなたは神様の愛から離れません。神様が私たちをつかんでくださっているのです。神様が味方であるということに目が開かれてくると、大きな喜びが湧いてきます。
 パウロはこれらの感動を持っていたので、あのヨーロッパに、勇気を持って福音を伝えていったのです。キリストを証しし、福音を伝える原動力は、この感動を内側に持つことです。
 感動は行動力の源です。賛美も、感動をもってする賛美を聞きたいと、神様は願っておられると思います。

2.溢れる喜びによる賛美の行動
A)【いけにえをささげた】
 全焼のいけにえ→付き従う信頼の証。献身。
 和解のいけにえ→平和の交わりの証。契約。
 まずダビデは、神に対しての姿勢を表明する行動をしました。いけにえをささげる行動です。ヘブル13:15では「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」とあります。また、貧しい人々に分け与えるいけにえも、神様に喜ばれるとあります。ともかく、神様を迎え入れた喜びの応答としての行動は、神様への信頼、強い絆が心の中に湧き上がってくるものです。

B)【民を祝福した】
  王が民を祝福→健全な秩序関係が生まれる。
 国の指導者やリーダーは、自分の立場を利用して、私利私欲のためにその権威を使ってしまいがちです。しかし本来指導者とは、ついてくる人々を祝福するために立てられているのです。家長は、家族を祝福するために立てられています。祝福するなら、自然に家族に尊敬されていきます。
 祝福された者同士→祝福を受けた者たちの交わりが生まれる。
 祝福されたら、そこに連帯感が生まれてきます。平和がそこに生まれ、健全な社会秩序が生まれます。祝福は社会を良くします。
 祝福するとは、まず言葉で人をほめるということです。悪い所も良い所も全部前向きに、良い方に受け止めていくことが、その人を祝福することです。神様に祝福されている者同士として、ほめ合うことをしていきましょう。

C)【分け与える】
 パン→食物の代表。物質的なものを分け合う。
 持てるものをもって分け合うことです。

 なつめやし→「蜜」とも呼ばれる。心を分かち合う励まし。
 蜜は甘みがあり、回復を与えるものです。心を開いて証をする時、人には励まされるのです。
 
 干しぶどう→保存食。御霊の九つの実を分かち合う。
 いつまでもくさらずに残るもの、それは御霊の九つの実です。これらの実(“ガラテヤ5:22〜23”愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)は、全て1人では味わえず、相手がいて初めて生かされていくものです。それは、人に分け与えるために結ぶ実なのです。私たちが神様からいただいた喜びをもって、人々に分け与えていくと、その姿や生活そのものが、神様を喜ぶ動機からの与える行動であり、神様を賛美しているように見えるのです。
 歌を歌う以上に大切な賛美とは、神様を知った感動から出てくる行動です。それが人々に感動を与え、キリストの証し人としての実を結んでいくことができるのです。

 共感し共有する関係が、神様を迎え入れる喜びによって生まれる。このようなコミュニティー(共同体)が神の国である。
 これこそ偉大な神様への賛美である。

3.喜びを表現する
 今週から、喜びや感謝を表現することをはじめましょう。神様との個人的な交わりの時であるデボーションにおいて、神様に喜びと感謝を表現してみましょう。デボーションによって湧き上がった喜びを持って人々を祝福しましょう。つまり、その人をほめることです。何かの助けが必要な人に、自分の力でできる範囲において助けの手を差し伸べてみましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年5月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   今将之感 こんしょうのかん  up 2008.5.31


今と将来とを思い比べて、その相違の大きさに無性な喜びを催す感慨。


すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。
(詩篇117:1〜2)


 

 

 「賛美」という言葉を聞くときに、皆さんは、歌を歌うことが賛美だと思ってはおられませんか。
「賛美」は決して歌だけのものではありません。むしろ、自分のもてるもの全てをもって、主をほめたたえることが、賛美なのです。
ゆえに、あなたの人生そのものを賛美として捧げることもできうるのです。

1.詩篇117:1〜2の解釈
“すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。
 その恵みは私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。”
主なる神様は、将来どんなすばらしいものを、私たちに与えてくださるのでしょうか。それを思い巡らして、自分の出来る限りの方法をもって賛美していく時、そのような心開かれた状態に対して、聖霊様の賜物はもたらされます。

A)すべての人々に、主を賛美することをアッピールしている。
「全く面識のない人にも伝えたくなるようなことが、内側から込み上げてくる喜びのようす。」
 世界の人々に訴えたいほどの、溢れ出る気持ちを体験したことがおありでしょうか。感動の大きさは、伝えたい相手の数や、面識の有無などによって推測できると思います。ならば、距離を超え、面識の有無を超え、誰彼かまわず伝えたくなるほどのものが、一番大きい感動といえるのではないでしょうか。日本人は、喜びをおおっぴらにしないことが美徳とされていますが、海外の国をみていくと、自分自身の喜びを自由に、日本人から言わせるとちょっとやり過ぎに見えるほどに表現します。恥ずかしさを吹き飛ばすくらいに、大きな感激があるということではないでしょうか。
 私たちも、自分の感動をありのまま表現する練習をしてみてはどうでしょうか。そこから賛美は生まれてきます。

B)私たちに対する主の恵みの大きさに感動
「自分自身だけに主の恵みが大きいのではなく、主をまだ知らない人々にも主の恵みが大きいことに感動している。」
 ふだん私たちは、自分のことだけに思い煩い、神様との関係も、自分中心にしがちです。しかし「私たちに」とは、神様が自分だけでなく、全ての人に恵みを注いでおられることに気づいた喜びを表しているのです。それは全く境界を持ちません。他宗教の人にも、主に自ら背を向けている人にも、まったく気づこうとしない人にも。主の心の広さ、優しさ、愛の深さはどれほどの大きさなのだろうと思いを巡らせるとき、賛美が生まれます。

C)主のまことはとこしえに至る。
「主が語られた私たちへの約束は、とこしえに変わることがない。」
 主がいかに約束を守られる方かを、私たちは旧約聖書におけるイスラエルとの関係を見ることによって知ることができます。これについて、私たちは聖書を読んで調べ、もっとしっかり知りましょう。
 普通、契約とは双方の立てた条件を互いに守ることによって成り立つもので、片方が条件を破ればその効力を失います。すると、もう片方も契約を守る必要がなくなります。しかし主は、イスラエルが何度裏切っても、約束を守り続けられました。
 私たち人間の心は移ろいやすいもので、誠実を保ち続けることは不可能です。しかし、神様はそんな信頼のおけない私たちに、あえて誠実を尽くし続けてくださる唯一のお方です。この方は、ご自分の立てられた誓いを決して破ることのない方です。私たちの弱さ、汚さを最初から知っていて、なお約束を守られるお方なのです。さらに、私たちをゴールへと導いてくださっています。

【考えてみましょう】
 あなたは、まわりの人々に伝えたいほどの感動を経験したことがありますか。探し出してみましょう。
参考のみことば(ルカによる福音書15:4〜10)
“「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけ るまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで
 帰って来て、友だちや近所の人を呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに 言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つ けたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」”

 この素晴らしい神様に救われ、愛されているという感動を保ち続けることが、心を燃やし続ける秘訣ではないでしょうか。
 人は裏切るものです。でも、自分も裏切ります。人は簡単に約束して、簡単に破ります。しかし自分もそうなのです。人は信じられないと思われますか。でも、自分自身も信じてもらう価値がないのです。神様の基準に照らし合わせれば、自分が何者なのかを嫌というほど知るでしょう。それでも神様は私たちを愛していて、宝物としてくださっているのです。この感動を、また時に応じて感じられる良い感動を何度も思い返してください。良い感動には、体の働きを良くし、脳の働きも活発にさせる力があります。昔、信仰が燃やされた時の感動を思い出すことも良いことです。信仰が再び燃やされ、今を変えることができるために。

2.今と将来の相違
A)(ローマ人への手紙8:17〜18)
“もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続 人であり、キリストとの共同相続人であります。”
「神の相続人としての将来が私たちに約束されているのですから、あきらめないでみことばについて行きましょう。」
 この頃、クリスチャンは迫害を受けて、苦しみの中にありました。パウロはその時、主からいただいたビジョンに基づいて、やがて来たるすばらしい未来に対する感想として「とるに足りない今の苦しみ」と表現しました。パウロ自身も極限までの苦しみを受けているにもかかわらず、彼はそう断言したのです。
 信仰はこれから起こることへの期待であり、「今将之感」の実際の姿であり、ゆえに神様の喜ばれる事柄になります。

B)(第1コリント人への手紙15:51〜52)
“聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちない者によみがえり、私たちは変えられるのです。”
「いつまでも今の状態が続くのではなく、主は私たちを迎えに再び地上に来られるのです。それだけでなく、この煩わしい肉体が、再臨の主と同じ新 しいからだに変えられるのです。」
 私たちは、この肉体があるが故に、どれほど主への誠実と忠実を邪魔されていることでしょうか。
肉体から魂が抜けて、束縛から自由になれれば、どんなに楽になれるでしょうか。そう考えると、早くこの肉体の檻から解放されたいと願いたくなります。若ければ欲望に引かれ、老いれば自由が利かなくなる。この肉体は本当に不自由なものです。

【考えてみましょう】
 どれほど素晴らしい将来が約束されているかを、思いめぐらしながら心に感動をもって賛美をささげましょう。

 この約束が真実であると証明するために、イエス様は地上に生まれてくださり、死からよみがえってくださいました。そして今は天に座しておられます。さらに、いつか私たちを迎えに来てくださいます。このことを心の底から期待して、主をほめたたえ続けましょう。

3.感動を見つけ出す
 感謝や喜びが湧き上がってくる感動は、精神的にも肉体的にも健康をもたらすものです。一日ひとつ、感動することを探し出しましょう
 偶然、感動的なことに出会うかもしれません。また、見過ごしてしまっているかもしれません。『主の恵みは、私たちに大きい』のですから、見つけましょう。
 感謝や喜びは、体も心もリフレッシュさせる働きがあります。感動を受けての賛美は、力を持っています。本人も、その周りの人々にも影響を与え、さらに喜びを倍加させていきます。
 今、体裁や建前よりも感情を大事にして、個人的デボーションを始めてみてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年5月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   今昔之感 こんじゃくのかん  up 2008.5.24


今と昔を思い比べて、その相違の大きさにしみじみと催す感慨。


わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇103:2)


 

 

 「今昔之感」とは、今と昔を比べ、どちらが良いにしても、その違いに心が感動することです。
 クリスチャンとして私たちは、昔に比べ今はさらに変えられていることに、神に感謝する前向きな姿勢をもって、今日のみことばを学んでいきましょう。特に「賛美をする」ことの大切さを、「今昔之感」から考えてみましょう。
 メッセージの前の余興的な意味に捉え、少々遅れても大丈夫と、賛美の時を軽視してしまっていないでしょうか。賛美もメッセージもどちらも大切なものです。賛美を軽く捉えてしまうということは神に対して礼を欠いた心の姿勢であって、そのような態度では、聖霊のバプテスマを受けることはできません。来週のペンテコステに備えて、今日は賛美をする私たちの心を吟味してみましょう。

1.詩篇103:2の解釈
A)「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」
 ダビデは自分のたましいに呼びかけ、主をほめたたえることを教えています。彼は賛美できない辛い状況に置かれていました。正しいことをしたにも関わらず、逃亡生活を強いられている中で、不満を持ったかもしれません。しかし、そういう自分の心の状態に対し彼は客観的にその思いを正し、再び主への賛美、感謝にあふれるよう、自分自身を叱咤激励しているとも言えます。
 また逆に、神の恵みによって、誰よりも若くしてイスラエルの将軍となり、どんな兵士よりも活躍して、すべてが順調にいっている中で、むしろへりくだって、神がいかに恵んでくださったかに目を向け、高ぶった思いを抱かないよう、自分自身を目覚めさせていることばかもしれません。
 どちらにしても、自分自身のたましいに賛美するよう言い聞かせねばならないような状況に置かれていたということです。
 それでは、どのようにしてほめたたえることを促しているのでしょう。

B)「主の良くしてくださったことを」
 「良いこと」を自分の主観的判断で決めてしまうのが、普通でしょう。しかしダビデは、今日までのすべてのことを、自分にとって良いことであったと捉えています。
 今日まで神は、自分に対してすべて良いことをしてくださった。たとえ逆境であっても、すべての出来事は神の恵みであり、自分にとって最善のことであったと捉えています。

C)「何一つ忘れるな」
 強制的にダビデは、自分のたましいに「主をほめたたえよ」と言い聞かせているのではありません。ほめたたえる動機を与えようとしているのです。
 賛美は強制してできるものではありません。湧き上がってくる感情をもたらす動機がなければ、賛美にいたらないのです。心からの賛美とは、湧き上がってくるものです。感動をもって、今までの人生で起きた一つ一つのことを受け止め、思い巡らせ、そこから湧き上がってくる感情が、賛美となります。
 感情は神の愛を感じられる大切なものです。罪もこの感情をよく利用し、ゆさぶられますが、感情がなければ、私たちは神の愛に感動し、感謝することはできません。

この3つのポイントを、さらに2で具体的に学んでみます。

2.今と昔の相違に気づく(エペソ人への手紙2:1〜6)
“あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。ーキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。”

A)ノンクリスチャンのときからの自分を、今の時点から見直す。
 パウロは、クリスチャンになる前の状況を書いています。イエス・キリストを信じるようになった今、正しい良心から過去を振り返ると、自分が正しいと判断してやっていたことが、実はこの世の霊に従ってやっていたのだとわかったのです。サタンと悪霊に従って歩んでいたということです。
 このように過去の自分を見られたわけは、今、救われた状況で、正しい良心をもって振り返れたからです。それまで見えなかったものが見えたのです。
 隠れていた罪、動機が、聖霊の光の下ではっきりと見えるようになったのです。
 私たちも過去を見る時、過去の自分の心の状態のままでみたら、同じ辛い気持ちしか湧いてきません。後悔の念や悔しさが溢れてくるかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じ、真理に目覚めた自分の正しい主観から見るなら、それは違ってきます。後悔や悔しさを超えて、今日に至るまで導かれたという、神の愛と恵みにむしろ心が感謝で満たされてきます。
 今の自分、ここまで到達できたという観点から過去を見るなら、すべてのことが益であったと思えるようになるのです。
永遠のいのちに至るよう、神が導いてくださったすべてのことが、何一つ無駄でなかったとわかるのです。素直な心を神に向けましょう。

B)神様からどのような御計らいを恵みを受けていたかに気づく。
 神の御計らいと恵みとは何でしょう。あわれみ豊かな神は、行いによって義とされるという本来のあり方ではなく、救い主イエス・キリストを信じるなら救われるという道を開いてくださいました。
罪人が救われるために、神ご自身がその罪を負い、処分してくださったのです。
 罪は罰されることなく赦されることはありません。修行をしたからといって過去の罪は消えませんし、慈悲だけですべての罪を見過ごすことはできないのです。イエス・キリストは、ご自身のいのちをもって、私たちの罪を処分してくださいました。神が人となられた方であるからこそ、全人類の罪を負うことができたのです。

C)それから今、どのようなことをしてくださっているのかを知る
 なお、救われた後、神はどれほどのことを私たちにしてくださっているのでしょうか。

「ともに天の所にすわらせてくださいました」とあります。それは私たちの国籍が天にあるということです。日本人は日本の国籍を持っています。それゆえ海外でトラブルに巻き込まれたら、日本の大使館へ行けば、同じ日本人ということで助けてくれます。日本政府は、日本人ということで守ってくれます。籍があるということは、その国の主権で、自分の立場が守られるということなのです。
 天に籍があるということは、地上で起きる様々なできごとに対して、天国の主権で守られるということです。あなたの力が弱くても天の国には力があります。それゆえ、イエスの御名によって、すべてを成すことができるのです。イエスの御名によって、闇の力に対し、要求することができます。このすばらしさに気づくことが、 「今昔之感」なのです。

 これらの3つのことから、賛美する動機が与えられ、賛美が心から湧き上がってきます。
そのような感謝と喜びが湧き上がってくると、同じ賛美をたとえ30分繰り返しても、心から歌えるようになるのです。

3.湧き上がって来た動機を表現する(詩篇149:3)
“踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほ め歌を歌え。”

心に湧き上がってくるものを外に表現するのが賛美です。

A)湧き上がる感動を、みことばや自分の言葉であらわす。
 心に溢れる感動を、みことばや自分のことばで表現する。

B)それらを歌(音楽)をもって表現する
 歌や音楽で表現する。賛美は音楽ではありません。音楽は賛美を表現するものです。

C)その歌を、からだ全体を使って伝える。
 その歌を、からだ全体を使って伝えます。ほめたたえる心が神に伝わることが大切です。それによって神も感動してくださり、私たちと神の心が一つとなるのです。それはすばらしい時です。
 賛美の時間をメッセージ前のウォーミングアップと捉えないでください。私は(第1コリント人への手紙1:26〜29)のみことばをもって、心からの賛美を表現します。
“兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありませんしかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しい者を選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。”
 このみことばは、私が救われた時の喜びを、そのまま表現しています。弱い者、人生の負け犬と思い込んでいた私が、神に選ばれ、救い出されました。それはこの世の知恵ある者をはずかしめ、強い者をはずかしめるため、とあります。
 私はこのみことばに出会って初めて、自分が弱い者であって良かったと思えたのです。

 皆さん各々、与えられた神の恵みを表現し、神にその感動を伝えていきましょう。すばらしい喜びが心に湧き上がってきます。それが本当の賛美です。

 

 

 

 

 

 

■2009年5月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   杓子果報 しゃくしかほう  up 2008.5.17


食べ物をたくさん分けてもらうこと。
転じて、幸運に恵まれること。


また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
(伝道者の書3:13)


 

 

「幸せを見いだす」の見いだすとは、探し出すことです。神の恵みの賜物は、私たちに毎日十分与えられていますが、探し出さないために、「杓子果報」の状態に気がつかない日々を送っているかもし
れません。

1.『しあわせを見いだす』という神の賜物
【一般辞書】
『しあわせ』=めぐりあわせ、天運、機会、幸福、好運、幸い。
【聖書辞典】=『さいわい』
ヘブル語@「進む」「うまくいく」という動詞から出た感嘆詞。
(第1列王記10:8、第2歴代誌9:7、詩篇1:1など)
Aギリシャ語=「マカリオス」=おもに霊的祝福について使われている。
時間や状況によって変動するはかないこの世の幸福ではなく、悲しみや不遇によっても消されることのない神の祝福を意味する。
(マタイ5:3〜11、ヨハネ13:17、ヤコブ1:12など)
 幸せとは天からの運命であり、超自然的存在者が、一人一人の人生への計画を持っています。何かの巡りあわせによってもたらされる出来事は、チャンスです。それは「よい方へ向かう」と使うようになったので、幸せということばにつながったようです。
 そこで「幸せを見いだす」ことについて、(伝道者の書3:13)のみことばを3つに分けて、考えていこうと思います。

A)「食べたり飲んだりし」(第1テモテへの手紙6:8)
“衣食があれば、それで満足すべきです。”
 一般的に、「食べたり飲んだり」することは、幸せのもとです。高齢者の方々は、体が動かなくなったり、仕事ができなくなったりして、たとえ食べさせてもらうようになっても、食べ物を味わえることに「すごい幸せ」を感じるのだそうです。
 それでは「衣食があれば、満足すべきです。」のみことばは、どういう幸せを語っているのでしょうか。「貧しくあるべき」ということならば、ちょっと理解に苦しみます。
 ここで言われている「衣食があれば」というのは、それぞれの今の生活体系を指しており、「力量にふさわしく生活できていることに満足し、力以上のものを求めてはいけません」ということです。その時点で愚痴・不平をもらして不信仰になるのではなく、「私にとって神様から与えられた賜物だと感謝しなさい」と、私たちへの神様からのメッセージなのです。しかし、私たちは成長していきますので、力量が増していきます。そうすると持ち物も増えていきます。そのあなたの力量を何に使うかを、神は問われます。貧しい人を助けるため、神はあなたを祝福されたのに、自分のためだけに用いていくことが問題です。神様はなぜ、富める人と貧しい人を造られたのでしょうか。いつも言っていますように、助け合う関係、愛が生み出されるためです。みなさん、あなたの力に応じた生活をしましょう。もし、あなたの生活がその力にふさわしくない小さなものならば、神様はあなたをもっと祝福し、財産を増やしてくださるでしょう。そこに、神の計画があるからです。しかし、願っても増えないという時、根本的に言えることは、もし今いただいている恵みを軽んじているならば神がどんなに大きな計画を先に持っておられても、前に進めないということです。なぜなら、たとえ小さいものであっても、与えられた神の恵みに感謝できない心を持った人が大きな力・財産を持たされると、傲慢になってしまうからです。
 人は多くを持つと、自分の力・領域をわきまえずに、してはならないことまでもコントロールし始めます。自分ではへりくだって、求め、御心にかなって祈りをしているのに応えられない問題の奥には、傲慢さが隠れていることを悟ることが、賢いと言えます。この部分が取り扱われ、聖別されるまで前に進めないということです。
「衣食があれば、満足する」という人は、どんな状況でも不平、不満を吐かず、横柄にならず、むしろ「これが私にとって十分なのですね」と受け止めます。このような姿勢が、合格していく大事な心の姿勢ではないかと思います。神から与えられた今日という一日の中で、財産的にも能力的にも感謝して、今を受け止めていくというのが神様からのメッセージではないでしょうか。

B)「すべての労苦の中に」(マタイによる福音書6:34)
“だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に、十分あります。”
「何が起こるかわからない」と、否定的に明日のことまで心配しすぎてしまう人もおられるかもしれません。今日与えられた神の恵みを上ベっ面だけ見て、明日のことを否定的に心配してしまう神への信仰姿勢で一日の労苦を考えることを直すように、と(マタイによる福音書6:34)は語っていると思います。
 まず今日がどういう日であるかを理解しなければ、明日への希望を持つのは難しくなります。今日のすべての労苦の中に、神の恵み・賜物があるのです。神様からいただいている今日一日の恵みを見いだしもせずに、どうして明日のことを心配するのでしょうか。
 例えば、中身がいくら国産牛の高級ヒレステーキであっても、新聞紙で包んであるのをもらったとしたら、外側だけで中身を見ずに判断して、放っておくこともあるかもしれません。しかし、新聞紙で包んだような、そのあまりうれしくない豪華でない一日、労苦が重苦しく感じるような一日の中に、神様は国産牛のヒレステーキを包んでおられるかもしれません。これが神の恵み、賜物です。
 あなたが「うまくいった。良い日だった。」と言う一日は、化粧箱の中にそれなりのものが入っていて、外側の労苦にふさわしい報いを得ていると言えるでしょう。私たちは案外、一日の労苦を上べだけで判断して、中身を見ず、せっかくの神の恵みをおろそかにしている可能性があります。「労苦はその日その日に十分あります」とは、労苦しがいがあるということです。「惨憺たる一日で、良いことが一つもなかった」というような、ぼろぼろの新聞紙に包んだような一日の中に、神の恵み、賜物があるということです。そしてそれを見つけたなら、明日に希望を持つことができると、(マタイによる福音書6:34)から(伝道者の書3:13)と合わせて理解することができます。
 どうぞ、苦しすぎて報われなかったと思わないでください。私を愛してくださっているイエス・キリストは、そんな一日の中に良いものをお与えくださっているに違いないと、探して見つけること─
これこそ、すべての労苦の中に幸せを見いだす神の賜物であると捉えることができた人は、イエス様を信頼している人ではないでしょうか。

C)「しあわせを見いだす」(ルカによる福音書17:20〜21)
“さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」”
 私たちはまるで自分以外のところに幸せがあるかのように比べ、自分を不幸と思い、悩んでしまうことがあります。しかしイエス様は「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われました。これは個人的に、私たちの中心(霊)に神の国があることと、私たちの互いの交わりの中心に神の国があることの二つの意味を言われています。
 そこで、神の国が私たちの内にあることから考えてみますと、神の国は信じた者の内に訪れているわけですから、あなたは神の国の国民です。そして神の国のルール、価値観に従って生活します。ですから、神の国の価値観、存在そのものを自分の内側に探すということ、つまり正しい良心による、神を畏れるところからくる価値観・主観を自覚するように、と言われているのではないでしょうか。
まず神の国を自分の内側に探し出してから周りを見なければ、自分より優れた人や幸せそうな人を見ると、比較して自分を不幸せだと思ってしまいます。しかし、自分の内側に神の国を持っていると、「神がその人に、祝福された人生を与えられているのだ」と捉えることができます。
 神様はそれぞれの差にふさわしく、意識して差をつけられます。皆が同じではありませんが、同じようにしてほしいのが、人間の愚かさです。それぞれの違いを理解し、与えられるものも違うと、正しく公平・平等を理解していかないと、いつも皆が同じでないといけないという傲慢な考え方で物事・出来事を受け止めていくと、不満ばかり出て、それこそ不幸せです。
 私(辻師)は思います。私の能力・信仰生活の歩みの中で、牧師に導かれたことを考えると、足りないもの、身につけていないことはありますが、しかし、私の器に神様が与えてくださったものが、私に一番ふさわしいと考え、今メッセージをさせていただいています。私には、私への神のご計画があるのです。あなたの横にいる人にも、その人への計画があるのです。

2.杓子果報のための参考(マタイによる福音書16:24)
“それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を背負い、そしてわたしについて来なさい。」”
 私たちがイエス様について行くならば、十字架と切り離せない人生を歩んでいます。十字架を負うという時、楽ではありません。決して遊びではなく、むしろ忍耐を働かせることが含まれているのではないでしょうか。
 十 + 立 = 辛い
“信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。”(ヘブル12:2)
 イエス様から目を離さないとは、信仰の完成者であり、死に至るまで従順であり、三日間の闇の苦しみを負って、よみがえられた方に目を向けること、すなわち、よみがえられたイエス様を十字架から見上げよ、ということです。イエス様は苦痛の人生の後に、苦痛にまさる喜びが待っていることを知っておられたので、父なる神様を信頼して、耐えられました。
 辛 + 十 = 幸い
「幸せ」という漢字には、辛いという字が含まれています。ではどうしたら幸せになるかというと、よみがえられたイエス様に目を向けて、イエス様を辛さ、つまり死という苦しみからよみがえらせる神の力を信じて、イエス様を見上げるということではないでしょうか。
 十字架を背負って歩いているクリスチャン、その辛さは間違いではありません。すべての労苦の中に幸せを見いだすことから考えると、この地上で私たちがクリスチャン生活を送ることは大変な労苦ですが、それにふさわしい報いが隠されていることを見つけなければ、クリスチャン生活を全うすることはできないでしょう。途中で燃え尽きて、倒れてしまいます。そこには常によみがえり、回復、いやしが必要です。いやしは復活のイエス様から、私たちにもたらされるものです。イエス様をよみがえらせた御霊様の働きは、イエス様を見上げていく、ということです。ここに、幸せを見いだすコツがあります。
 
『神から多く与えられている恵みは、すべての労苦に隠されている。』
 労苦、苦しみが多い人は、もっとたくさんの恵みが隠されています。杓子果報を思い出してください。その中に神の恵みが含まれています。

 

 

 

 

 

 

■2009年5月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   飛花落葉 ひからくよう  up 2008.5.10


花も葉もいずれ散り落ちるということから、
この世は無常であることをたとえていう。


世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
(第1ヨハネ2:17)


 

 

 咲き誇る花もいつかはしおれ、新緑の輝きも、やがて枯れ果てます。すべてのものには終わりがあるのです。だから、知恵のある者は、常に先を見て行動していきます。

1.永遠を決める毎日の生活(ヨハネの黙示録20:12〜15)
“また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスもその中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”
「『世と世の欲とは過ぎ去る』とは、この世のものはすべて飛花落葉であって、終わりがやって来るという意味をあらわしている。そして、終わりとは、神のさばきを受けることを意味している。」
 この毎日は、この世が終わった後の永遠を決めるための一日一日です。繰り返しているように見えた日々は、終わってしまえばもはやそこにはありません。人々は、それぞれの選んだ行いによって、永遠の時を過ごすべき場所に行きます。
 クリスチャンでも、しっかりとした信仰を持っていた人々と、中途半端な信仰の人とでは、結果が異なってきます。しっかりとした信仰を持っている人々には、第二の死はやってこないことが約束されていますが、中途半端な信仰の人には、不信仰な人々と共に裁きの座に立つ可能性もあります。
「永遠の時」に向かうための大事な今です。

自由意志によって永遠を決める(ルカによる福音書10:42)
“しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。”
「マリヤは永遠のいのちに至るために、自由意志をもって行動を決めた。イエス様はマルタが選んだ行動を非難しなかったが、マリヤの自由意志による決断に対して、マルタがマリヤを非難したことに対して注意した。」
 なぜ、どういう意味で注意されたのでしょうか。
人には自由意志というものがあります。神様でさえ、それに無理強いはされません。それこそが、人が人であることの理由なのですから。マルタは、接待のために準備することを選びました。マリヤはイエス様の話を聞くことを選びました。どちらも自由意志で決めたことです。自分が責任を取らなければならない部分です。誰も強制してはいけない部分なのです。
 私たちは、意見・助言はできても、相手を従わせようとしてはいけないのです。今日、多くの人々が滅びに向かおうとしています。しかし、神様は、自由意志として存在する「自分自身」を大事にされているので、彼らがご自分を踏みつけにして離れ行くのを、力づくで引き戻すことをされないのです。
【考えてみましょう】
「あなたは何に基づいて意思決定をし、行動していますか。
あなたの自由意志による決断は、神様に評価されるのです。それは、存在の目的に沿った評価がくだされるのです。」
「何のために造られ、存在しているのか」という基準で、裁きは行なわれます。
 私たちはみな、自分の欲望や、人に好かれたいという気持ちや、その他いろんな基準で行動しています。しかし最後には、自分の存在する目的に沿っていたかどうか、で裁かれるのです。

2.キリストのよきパートナー(エペソ人への手紙5:31〜32)
“「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。”
「『みこころを行なう者』とは、よきパートナーのことをしめしている。よきパートナーとは、選んでくださった方に対して自由意志をもって応えることである。」
 夫婦、男と女、夫と妻は、このみことばを理解させるために造られたものだと私は考えます。おおもとは、キリストと教会からきているのです。つまり、女性は男性のためにふさわしい助け手として造られたものなのです。アダムがエバを見たとき、直感的に最高のパートナーとして認めました。男性が完全になるために、女性は欠かせない存在なのです。
 最高のパートナーは、相手の心を理解し、価値観を受け止め、考え方に同意して、相手の短い一言からでもすべてを察知します。例えばご主人が「ケーキを買ってきて」と言ったとしたら、良いパートナーである妻は、彼の一番好きなもの、あるいはそれに準ずるものを買って来るでしょう。彼の好むものをよく知っていて、彼の気持ちに応えたいからです。
 このように、良いパートナーは強制されていません。自由意志で主人の思いを全部理解した上で、行動していきます。

【考えてみましょう】
「キリストの贖いの御業は、私たちをよきパートナーとして選んでくださったしるしだと言えます。
あなたが、もしよきパートナーを得たいと思うなら、どのような人を選びますか。」

3.永遠とは完全な確定である(マタイによる福音書25:31〜46)
“人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。またいつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことにあなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。”
「よきパートナーであるか、パートナーとしてふさわしくないかが決定してしまうのが永遠と言う世界である。それが「いつまでもながらえます」という言葉に含まれている意味。」
「いつまでもながらえる」とは、いつまでもその状態でいるということです。この世では、まだ決定がなされていないので、良くも悪くもなれますが、一旦決定されてしまえば、その状態から変わることはありません。ある人には良い状態、また別の人には悪い状態が永遠に続くことになります。
「永遠の確定とは、神への愛と信仰と従順が認められたことになる。」
良い時もあり、悪い時もある。失敗するが、成功もある。再び失敗もする。
 繰り返す今の日々は、やり直しができるためのチャンスです。今よりもさらに良くなるために、繰り返しがあるのです。
 農家には豊作も凶作もあります。どちらにしても、次の収穫のために工夫と努力を重ねます。良くなるための繰り返しです。
 生き続ける日々をマイナスに捉える人もいますが、それはその人の自由意志で、「マイナス」に捉えているのです。人は環境に左右されずに、自分の意志を保つことができます。どんな事柄が起こっても、心を決めるのはいつも自分です。神様は絶対に心を縛られません。
 あらゆる状況・環境・問題において、自分の心でどう対処するかを、いつも見ておられます。永遠において良きパートナーとなるよう、導かれるために、今のこの変化する世界があるのです。
 人格は、必ず自由意志を伴っています。私たちの自由意志は、すぐに罪の誘惑に負けるような弱いものですが、神様はそれでも、助け主聖霊様を与えてくださり、なおかつ自由意志は尊重されています。世の人々はともかく、クリスチャンには完全なる自由があります。善も悪も、自分の欲するものを選ぶことができます。これは、良いパートナーとなることができるための訓練だからです。人を育てるというのは、その人の自由意志を尊重しつつ、持っている隠された能力が引き出されるよう、導いていくことです。神様は私たちに対して、そのようにしてくださっているのです。

【考えてみましょう】
「この世は、季節がゆきめぐるように、繰り返しながら移り変わっていきます。それは、やり直しができるためです。
しかし、飛花落葉のときがやって来ることも心得ておかなければなりません。(气ハネの手紙2:17)のみことばがあなたへの個人的メッセージとして、神様から語られているとするなら、どのような意味として受け取りますか?」

 祈り心を持ち、黙想しながら、聖霊様のさとしに心を傾ける一週間を過ごしてみてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年5月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   柳暗花明 りゅうあんかめい  up 2008.5.3


春の野の美しいながめのたとえ


イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
(ヨハネ8:12)


 

 

 春の野の美しさという「柳暗花明」から、私たちの心に春がやってくると受けとめて考えてみましょう。心に春が訪れるために、1つの変化が与えられるのです。このことを「いのちの光を持つ」というみことばから見てみましょう。

1.「いのちの光を持つ」
『わたしに従う者は=羊が羊飼いについて行くようすを思い浮かべる。』
「わたしに喜んでついてくる者は」と訳す方が、神様が願っておられる「従う」という意味に近いと思います。
『やみの中=わきまえのない状態。不敬虔不信仰ネガティブの中。』
『いのちの光=春の光は冬からの目覚めをもたらす。そのように、心に柳暗花明をもたらすみことばの光。』
“みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。”(詩篇119:130)
 春の訪れは暦ではなく、太陽の光の注ぎが春をもたらすのです。この光が、植物や動物たちを春へといざなっていくのです。
光が当てられなかったら、例え5月でも6月でも植物は芽を出さず花も咲かせません。いくら種や球根を植えても、光が注がれなければ芽を出しません。
 あなたの心にネガティブな思いや不信仰が蔓延して、冬のような何も良い実を結ぶことのできないような状況がやってきたら、ぜひこのいのちの光、霊的春の光であるみことばを、あなたの内に照らしていただくということを思い起こして下さい。
 春はいやしと回復の季節です。春先に咲くピンクの花を見て、人々はいやされたのです。しかしこの花の色は、花自身が出しているのではなく、持っているだけです。光を受けなければ、その花の色は輝かないのです。光が当てられなければ、土が温められて、その中で眠っていた種が芽を出すこともできないのです。光がなければ何も息づいてこないのです。花自体に色の要素を持っていても、光が当てられなければ、それを放つことはできないのです。春の光は命の光といえます。
 私たちにみことばの光がさすと、春の光のように、私たちのうちに眠っている神のかたちに似せて造られた良きものが芽を出し、花を咲かせ、実を実らせていき、春、夏、そして秋の収穫へといざなっていくのです。
 いくら能力や才能があったとしても、春の光であるみことばの光を受けなければ死んだも同然であって、何の役にも立たなくなってしまいます。神様のいのちの輝きに触れられることによって、神のかたちに似せて造られた、本来の自分自身を輝かすことができるのです。みことばの光は、そのように働きかけてくるのです。
「持つのです=ついて行くことによって、そこに存在し続ける。」
 ついて行くことをやめた途端、いのちの光は差し込まなくなります。しかしついて行くと、すでに光は差し込んでいるのです。ついて行くこと自体が、もう光を受けることなのです。
『イエス様について行く者は、盲目な人生を決して歩むことがありません。むしろ、そのみことばが放つ光に心が満たされるのです。』
【考えてみましょう】
『春の光は、自然界にどのような覚醒をもたらすでしょう。みことばがあなたのうちに春の光のように降り注いでいるでしょうか。』

2.「みことばによる柳暗花明の心」
A)(ローマ人への手紙15:13)
“どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。”
『このみことばが放つ光が、柳暗花明の心へと覚醒させるポイントは「望みの神」(どんなときでも神様に心を向けると、望みが湧き上がって来る)です。』
 あなたがネガティブであっても、主を仰ぐとポジティブに変わっていきます。光が注がれると、大自然の法則が現れてくるのです。

【考えてみましょう】
【例】羊飼いと羊
 羊にとって羊飼いは望みです。未来へと導いてくれる存在です。自分勝手にうろうろして群れから離れると、危険が待ち受けています。でも、その時点から方向を羊飼いの方に向けると、安全がもたらされます。羊は小さい時からそれを学びます。教訓を得た羊は、どんなに群れから離れても、ある一定以上離れたら、羊飼いがどこにいるかを探します。そして成長と共に自由に動ける範囲が広がっていきます。でも、ある一定以上は羊飼いから離れません。その関係が、望みの神との関係なのです。
 私たちが祈る時、愚痴不平、不満も祈るでしょう。しかしそれが祈りの中でだんだん安心と平安に変わっていくという体験をするなら、その人は主を望みの神として信頼しているしるしです。しかしもっと不信感を抱いてしまうなら、望みの神という関係を築いていないのかもしれません。
 あなたは羊飼いを求めているのでしょうか。それとも鳩が欲しがればいつでも餌を与える観光客のように、欲しい時に必要なものを与えてくれる神を求めているのでしょうか。羊飼いは羊の健康を考えて、必要な時に必要なものを与え、導いてくださいます。

B)(エレミヤ書17:14)
“私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。
私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。”
『私たちのささげる賛美は、春の光を受けた草花が、芽を出し花を咲かせるようなものである。みことばの放ついのちの光を受けた人は、必ず賛美が湧き上がり、心が柳暗花明へと変えられて行く。』
 光を受けた応答として、賛美が内側から出て来るのです。あなたの賛美はそのような賛美でしょうか。それとも「このメロディはいいなあ」という音楽的なものとして歌っているのでしょうか。賛美と音楽は別の問題です。
 賛美とは相手を誉めることです。そこには尊敬があります。「わあ、すばらしい!」という感動の表現として、賛美が生まれてきます。賛美とは湧き上がってくるものです。春の日差しを受けて、土から新しい芽が出てくるように、湧き上がってくるものなのです。だから、感動がないと、賛美は本来生まれてこないものなのです。
 みことばが、あなたの心を覚醒させます。冬の状態から春へと、眠っていたものが少しずつ現れてくるのです。私たちの心の思い、感動を表すのが賛美です。
【考えてみましょう】
【例】結婚式を迎える新郎と新婦
 愛するという言葉の別の表現として「私の賛美です」と言うことができます。いろんなものを、私の賛美です、ということができますが、その中で最も私たちの心に春の光をもたらすお方は、救い主イエス・キリストだけです。
「主は私の賛美」と言えるくらいに関係を深め、理解を深め、コミュニケーションをもっていくなら、クリスチャン生活は楽しくなってきます。単にみことばを味わうだけでなく、ことばを語られた方のお気持ちに触れていくことです。神様は人格を持ったお方で、臨在の中で、私たちの魂に直接触れて語ってくださいます。
 今日、あなたの心にみことばの光が当てられているでしょうか。罪のために裁きを受けなくてはならない冬の人生であったのに、イエス様の十字架を通して、春の訪れをもたらしてくださいました。このことを一週間、思い巡らしてみましょう。