■2009年4月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   尽忠報国 じんちゅうほうこく  up 2008.4.26


君主に対してまごごろを尽くし、国家のために報いる事。


まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
(詩篇23:6)


 

 

 自分のことをさしおいても、国を治める者に忠実で、自分のことよりも全体のことの方が大事だと、自分を砕いて周りに奉仕をしていく人のことを、「尽忠報国」といいます。
 このポイントを詩篇23:6から見て、これをしるしたダビデの心情から考えてみましょう。

1.『尽忠報国』→成熟した羊のこころ(ヨハネ10:4)
“彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。”

 良き羊飼いについて書いてある章です。「先頭に立つ」とは、いつも列の前にいるということではなく、たとえ列の後ろにいても、リーダーシップをとり、導き続けているということです。
「羊飼いの声を知っている」とありますが、生まれたばかりの羊は声を知りませんし、若い羊は、知っていてもなかなか従いたがりません。羊飼いの声をよく知って、ついて行く羊は、実は成熟した羊であり、羊飼いと長く共にいた羊です。
 つまり、成熟した者が「尽忠報国」という心を、羊飼いであるイエス様に抱くことができるということです。
 君主を知らなければ、真心を尽くすことはできません。君主のことをよく知り、その良さ(人格)がわかる程に、しっかりとついて行くことができるようになるものです。
「ついて行く」とは、信頼し、忠誠心を表すことです。私たちも、最初からイエス様について行けるわけではありません。信じてから10年後の方が、信じたばかりの時よりも、しっかりとイエス様について行けているというのが、健全なクリスチャンです。
 こういった心の成長の度合いは、どれだけイエス様の御心を知り忠実について行っているかで測ることができます。単に知識だけではなく、忠実さを表しているかどうかが大切になります。
 知識でイエス様を理解しても、心を開いて「触れる」ということをしなければ、信頼と忠実の気持ちは湧き上がってきません。そういった点から、イエス様を信じて何年も経っていたとしても、自分は本当に人格的に成長した羊かどうかを、吟味していきましょう。
 どれだけイエス様に対して忠実さを示しているでしょうか。ある時期、祈っても答えられないという状況がやってきます。それは忠実さが試されている時であり、自分と神様の関係がどのようなものであるか、深い信頼関係にあるかどうかを考えてみる時です。こういった訓練の時こそ、さらにイエス様を深く知るチャンスです。

2.「いつくしみと恵みが追って来る」(第1ペテロの手紙5:7)
“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

「いつくしみと〜主の家に住まいましょう。」は、成熟した羊の告白です。成熟していく時、このような心境に変えられていきます。「思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。」とは、忠実さを試されていることばです。
 ゆだねられない理由は何でしょう。思い煩いの原因を考えてみましょう。あなたが正しいと考えている考え方に、周りの人々が合わせてくれない、動いてくれないというのが中心になっていないでしょうか。環境が思い描いている状況に変わらない、自分が聖書の言っている通りに変わっていかない、そこでストレスが溜まります。自分の思い通りに動かしたいという欲望が、動機になっているからです。
 神様に願い求めていく時、何もかもが100%自分の思い通りにならないと気が済まず、それで不信仰になり、ストレスを溜めていくという状況になっていないでしょうか?問題はそこにあります。
 溺れているその時に、助け方ややり方などにこまごまと注文をつけ、思い通りにいかないと思い煩っていないでしょうか。そこに祈りが答えられないと思う理由があります。
 また、ある人は期限をつけて祈ったりします。そのために断食を何日するか決めたりします。しかし、これも自分の思い通りに神様を動かしていることと同じです。
 「ゆだねる」とは、時期も方法もすべて神様にお任せすることです。信じているとか言いながら、ぐち不平が出てくるのは、忠実さがないということに他なりません。「言うことを聞いてくれたら信じます」というのは、主従関係が逆転している状態です。
 神はあなたがたのことを心配してくださっています。ひとりひとりのことを気にかけておられます。その心配とは、まず未熟で若い羊を心配する、という心配であり、そして成熟している羊への心配です。それは、その羊がもっと能力を発揮し、最大限に生かすために、どのようにしたらよいかという配慮です。
 そういう意味のいつくしみと恵みが、いつも、必要な時、必要なだけあなたに与えられています。いつもイエス様の目はあなたに向けられています。忠実なクリスチャンは、いつも道が開かれます。それは、言われたことを忠実にやり、自分の思い通りのやり方、考えに固執しないことです。

3.「主の家に住まいましょう」
 これは、お客様としてのんびり楽をしましょうというのではありません。家族の一員となることです。そこにずっと住むのですから家族としてやるべき奉仕が与えられます。
 ある人は、自分が洗礼を受ける前と受けてからでは周りのクリスチャンの態度が違う、前のように大切にもてなしてもらえなくなった、と不平を言います。それは、いつまでもお客さんでいたいと言っているのと同じです。家族になったのですから、各々その役割を喜んで分担していきましょう。

1)羊飼いへの忠実(ローマ人への手紙14:7〜8)
“私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。”
 
 このことばを極端に取り上げて、信仰を持って間もない人に強制したら、ただの特攻隊的なスピリットを、狂信的に振り回しているに過ぎなくなります。このみことばのような気持ちになるには、どれだけ神を知っているかによります。神を深く知り、そのすばらしさ、愛に触れて初めて、この心境になるのです。それを飛ばしてしまうなら、ただの狂信者に過ぎなくなります。ますます神様を知り心を一つにして忠実さを表現していきましょう。そこには深い絆があるのです。簡単に言えることばではありません。

2)神の家であるキリストのからだへの忠実(第1コリント12:26〜27)
“もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。”

 これも1)と同じです。まず主人なる神に対して忠実な心が与えられたら、教会や神の家族に対して忠実な心が与えられます。神の家族として、身体のようにつながっていれば、一人の兄弟姉妹の大変な苦しい話を聞いた時、他人事でない自分のことのように受け止めて、祈らされるという気持ちが湧いてくるものです。つながりがある、という自覚がないと、その思いは持てません。
 メンバーシップとは、キリストのからだのつながりを表します。互いに愛し合い、支え合い、助け合って生きていくことです。無関心はよくありません。

4.「いのちの日の限り、いつまでも」(ガラテヤ2:20)
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。”

 これは大変堅い決心のことばです。
 「いのちの日の限り」とは、生きている間ずっとということであり、「いつまでも」とは、日の区切りのない永遠を表します。この地上においても、後の世界でもという、強い決心を表しています。これは神の前に誓った真実な心の表れです。
 今ネガティブな心であっても、あなたを造り、愛しておられる羊飼いなる神がおられます。それゆえポジティブに生きることができます。

 『私のような罪人のために、最大の代価を支払われた羊飼いであられ御国の君主でもあられる方に、尽忠報国の志を持ってついて行こう。』の心が湧き上がってくるでしょうか。
 イエス様を信じて知るほど、忠実な心が湧き上がってきます。成熟したクリスチャンの心をもって、ダビデは、「主は私の羊飼い」と告白しました。そして「いつまでも主の家に住まいましょう」と心からの信仰を告白したのです。これは自然に生まれてきた、心からの願いです。誰にでも告白できることばではありません。
 
 詩篇23篇を、各々味わいながら読んでみましょう。羊飼いなる主は、あなたにいつも目を留めておられます。

 

 

 

 

 

 

■2009年4月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   掌上明珠 しょうじょうのめいしゅ  up 2008.4.19


非常に大切にされている人のたとえ。また、最も大切にしているもののたとえ。


私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
(詩篇23:5)


 

 

 「掌上」とは手のひらの上という意味で、「明珠」とは光り輝く宝石のことです。手のひらの上にのせるというのは、大事にしているという表現です。(詩篇23:5)から、いかに私たちが主の羊として大事にされているかを見ていきましょう。私たちは、神様の御手の中の宝物のような者なのです。
「私たちは、神様の手のひらにある宝物のように、いかに大切にされているか。信じる者は、いますでに非常に大事にされているのです。」

1.『敵の前で食事をととのえ』
A)(第1ヨハネの手紙5:18)
“神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。”
「圧倒的な勝利の中に安心して過ごすことができる。敵は指一本触れることができない、完璧な守りの中におかれている。主について行くことは、自動的に掌上明珠として守られているのである。」

 キリストによって守られている人は、悪い者に指一本触れられることはありません。敵の前で食事をととのえるとは、このような意味があります。戦いの前に勝つと決まっている状況の中では、敵の前で宴会をすることができるのです。それほどに神様の守りは完璧であるということです。何があろうとも、絶対に大事なものには触れさせないという、神様の私たちへの思いがこのみことばに込められています。大事なものとは、命がけで守るものです。神様は私たちをそのように守ってくださっています。
 羊飼いにとって羊は宝なのです。羊あっての羊飼いの存在であるように、神様は私たちをそのようなかけがえのない存在として見てくださっています。だからこそ、ひとり子イエス・キリストが救い主として私たちの身代わりに罪の裁きを受けられたのです。あなたは神様の宝物なのです。
 自分をダメな者だと思わないでください。神があなたを宝としてしっかりと手のひらに握ってくださっているのですから。

B)(詩篇34:7)
“主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。”

「神様の大事な宝の羊たちを、御使いが守っている。その陣内で、神様との楽しい交わりが行なわれている。ネガティブの中でポジティブが影響されずに存在している。主について行くことによって、いつでも安心の中で主を中心として交わりを持つことができる状況にある。」

 主は御使いを遣わして、私たちを守ってくださっています。
 沖縄の水族館では、サメの本物の歯があって、記念撮影ができるようになっています。また、大きな水槽の中にはサメや大きな魚が泳いでいますが、その水槽の前に食事ができるコーナーがありました。
 誰もそこで怖がる人はいません。怖がるのは小さな子どもだけですが、そのうち、こっちにやって来ないとわかると、怖がらなくなります。
「私の敵の前で食事をととのえ」とはこのような状況です。どんな敵が来ても、防御壁があるので安心して食事ができるのです。
 私たちの回りにはネガティブな出来事がいろいろ起こってきますが、あなたとその状況との間には、御使いが陣を張って守っているのです。しかしその状況を見て恐れるのは、小さい子どもと同じです。そこに大きな防御壁があることをわからないからです。主を畏れる人の回りには主の使いが陣を敷いて守っていることを、忘れているのです。
 ヨブは家族や財産を失い、自分も大変な病気になりましたが、それはサタンが神様に許可を求めてきたので、許可をしてそうなったと書いてあります。しかしヨブの命には触れてはいけないとあります。サタンは何もかも自由にはできないということです。それを信じることが大切です。私たちには天使の守りがあって、ネガティブな出来事がやってきても、近づくことができないのです。
 しかし、どこに行っても安全なわけではありません。基本はイエス様が私たちについて来られるのではなく、私たちがイエス様について行くのです。そこから外れてしまうと安全ではありません。
イエス様について行くことが大切です。

【考えてみよう】
「敵はネガティブな存在、食事がととのえられるとはポジティブなこと。 掌上明珠であることを思いめぐらしましょう。」

 ネガティブなパーティーはあり得ないことです。パーティーとは楽しいものです。敵の前で食事をととのえるとは、勝利の凱旋を祝う宴会のようなもので、捕らわれたネガティブという敵の前に勝利の祝いをしているようなものです。

2.『頭に油をそそいでくださる』
A)(ヨハネによる福音書1:12)
“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。”

「聖書では、油そそぎを受けることは権威を授けられることを意味する。
 被造物の中で特別に与えられた権威、権利である。神の子どもという最 高にポジティブな身分におかれること。主について行くことによって、 神の子としての力をまとうことになる。」
 権威をもたらされる時、それが神からのものであるというしるしとして、頭に油が注がれました。油が注がれたら、それはねっとりとしてなかなか取れなかったでしょう。神様の権威・力は油のように私たちを覆い、それは染みつくのです。
 聖霊のバプテスマは、力の伴った聖霊様の臨在です。それはぴたっとついてなかなか取れません。しかしいつかは取れてしまうのでいつも油注がれる必要があります。頭とは権威の場所です。頭に神様からの公式な力が注がれるのです。
 この油注ぎは特権として与えられます。特権とは、被造物の中で特別に与えられた権利のことです。神から生まれた者はイエス・キリストだけです。あとは造られた被造物です。しかし私たちは、神から生まれた方と同じ、神の子とされる特権が与えられたのです。特別な身分が与えられたのです。それほどまでに神様は、あなたを掌上明珠として大事に思われているのです。

B)(第1ヨハネの手紙2:27)
“あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、−その教えは真理であって偽りではありません。−また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。”

「真理を悟る力が与えられる。
 ポジティブな知識を悟らせる力を受ける。
 主について行くことは、真の知識、真理を悟っていくことである」
 
 神の子どもとして与えられる権威は、真理を悟る力があります。神様のお気持ちやご計画や動機などがわかってくる力があります。 真理とは神様のお心です。全てのものが存在する意味と価値が見えてくる力が、油注ぎです。それは経験ではなく、神の御霊による悟りです。
 油注ぎは、主の羊の群れを自覚させ、地方教会の大切さを理解する、悟りを得させる力があります。一匹一匹が好き勝手に生活することを、油注ぎは絶対に教えません。神の羊として群れをつくることを悟らせることが、油注ぎの大切なポイントです。
すなわち、互いに愛し合うことがどういうことであるか、教えることが油注ぎです。
【考えてみよう】
「上からの力を意味する油そそぎは、何のため、だれのために与えられ、もちいられるのでしょうか。」
 力とは、力のない者のために用いられるものです。金持ちは、貧しい人々のために与えられている富であり、能力のある人は、能力のない人のために用いるように与えられているのです。健康もそうです。弱い者、貧しい者、病める者のために、力は与えられているのです。この油注ぎはあなた自身のために用いるのではなく、隣人のために用いる、神の子としての特権です。

3.『杯はあふれている』
A)(第2コリント人への手紙9:8)
“神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。”
「正しい良心と言う杯が、神様のあらゆる恵みであふれている。」
 杯とは、お祝い、喜びの象徴です。ここでの杯はぶどう酒を入れる器です。神様はあなたをすべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えてくださるのです。あなたの人生を、そのように喜びと祝福であふれさせてくださいます。

B)(ローマ人への手紙15:13)
“どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。”
「たましいは、神への信仰によって喜びと平和で満たされ、まだ見ていない望みに対する確信を、聖霊の力によって不動のものとしてくださる。」
 実際に与えられた時の杯と、前祝いの杯があります。家を建てる時には、起工式で前祝いをします。まだ完成していないのですが、完成すると信じているのでお祝いをするのです。そのように、まだ実際に目の前に事実として現れていないことを、神は必ず成し遂げてくださるという信頼の下に、前祝いの杯があふれているのです。
 あなたのクリスチャンとしての完成はまだです。でも、聖霊の力があなたに臨むなら、必ず完成されると信じることができます。
 私は完成する、キリストの姿に変えられる、と信じて喜んで祝っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年4月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   土崩瓦解 どほうがかい  up 2008.4.12


ものごとが根底から崩れてしまうことのたとえ。


イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
(ヨハネ11:25)


 

 

 死んでも生きる、よみがえることができるというのは、世の人々にはとても理解できないことです。それは目の前にある大きな山が崩れ、立派な瓦屋根を持つ堅固な寺が壊れてしまうような、信じがたい出来事でしょう。しかし、そのような人間の常識を根底からくつがえされるのが、イエス様のおことばなのです。

1.土崩瓦解の真理の言葉
A)創造論(コロサイ人への手紙1:16)
“なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。”
「この世の世界観は進化論が基となっています。それは、すべての存在には目的がないということです。善も悪もないのです。」
 強い者が支配し、律法を作り、善悪を定めるのが、進化論の主張するところです。負けた者は、強い者に喰われて滅びるだけです。この考え方が、今さえ良ければどうでもいいという考え方をもたらしました。
★創造論によって、生きる目的を決め付けられることを嫌うのは、その考え方にどのような問題点があるのでしょう。
 思い通りに生きたい、創造主がいたのでは好き勝手できなくなる。進化論を主張する人々には、自分を神としたい自己中心が根底にあるのです。しかしその実、罪の欲望に支配され、身動きが取れなくなっている状態が彼らの真実の姿です。
 クリスチャンでも、自分の生活はきゅうくつだと感じるようなら、罪を主人とする人生を良しと考え始めていないか、自分の心を吟味することが必要です。

B)死後の世界の存在
1)死後のさばき(ヘブル人への手紙9:27)
“そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、”
 死後は何もなくなってしまうと思うなら、人はみな好き勝手に楽しみを求めるものです。しかし、死後に裁きがあると知っている者たちは自制をし、慎みをもって生活します。

2)行為に応じた報い(第2コリント人への手紙5:10)
“なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。”
 神の存在は死後の世界があることを証明しています。肉体にあってした行為が報いをもたらすとわかっているなら、どんな生き方を選びますか。
 この世界でも、警察があり、法律を犯した人を取り締まります。ですから、多くの人は自制をします。罪を犯せば裁判にかけられ、罪を裁かれるのですから。であるなら、死後に完全なる裁きがあるとわかっている人は、どのような生き方をしていけばいいのでしょうか。

2.『信じる者は、死んでも生きる』
A)(第2コリント人への手紙4:16)
“ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。”
「信じない人は、人生が死で終わると考えているのでネガティブで終わってしまいます。信じる者は、死後に希望を持っているので日増しにポジティブになります。」
 肉体を持つものはすべて、やがて衰え、死んでいきます。しかし、体が衰え、朽ちる日が来ても、その次には永遠のいのちがいただけるという希望があれば、心に大きな喜びを抱きながら毎日を過ごすことができます。
 この世で得た地位も財産も名誉も人脈も、何一つ永遠の世界に持っていくことはできません。しかし主に従って生きた人は、こちらの世界での喜びも苦しみもすべて報いとなるのです。

B)(第2テサロニケ人への手紙1:6〜7)
“つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。”
「敬虔に生きる者は、常に不敬虔な人々によって傷つけられています。神を畏れて人生をまっとうする人に、キリストは報いてくださるのです。」
 不敬虔な者は敬虔な者を傷つけます。しかしそれでも、もっとまじめに、もっと神を愛し、もっと正しく生きていきたいという心に、神は正しく報いてくださいます。そして敬虔な者を傷つける者には、報いとして苦しみが与えられるのです。

3.復活を信じる者は救われる(ローマ人への手紙10:9)
“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。”
1)神への敬虔さを抱くことである。

2)その人の世界観が根底から入れ替わることである。
 死んでも生きるということばを信じることは、世界観が根底からくつがえされる事態です。これを悔い改めというのです。忍耐を働かせて、世の流れに逆らっていきましょう。

3)道理に従うことである。
 何のために生きているのかという、自分の存在に対する疑問が、神を認め従うことによって、本来の存在意義に立ち返ることができ、解決できます。
「イエス様の復活には、死と葬りも含まれています。中でも復活を信じることは、その人の世界観が土崩瓦解することであり、新たなる世界観を持つという、悔い改めをもたらすのです。」

◎デボーションのために
復活を信じている証として、あなたの価値観、倫理観、歴史観はどのように変わってきていますか。

 イエス様が十字架にかかられた日、ヨハネ以外の弟子たちはみな逃げていってしまいました。イエス様が復活された朝、マグダラのマリヤが隠れている弟子たちに復活を伝えに来ても、彼らは信じることができませんでした。今、私たちは本当にイエス様の復活を心から信じているでしょうか?
 イエス様と3年半一緒にいて、数々の奇跡を見続け、直接教えを受けてきた弟子たちでさえ、イエス様の復活を信じるかどうか激しく葛藤したのです。
 神様は、見えるイエス様に頼ろうとする彼らの信仰を、イエス様の姿が見えなくても信じ続け、さらに強く結びつけるために聖霊を送ってくださいました。心の内に復活のイエス様の御霊をいただくことによって、いのちさえも惜しまないほどの信仰をもつ者に弟子たちは変えられました。
 私たちも御霊様がいてくださらなければ、自分一人で信仰を保つことはできません。ですから、「信仰さえも神の賜物である」と聖書のある箇所に書いてあります。(エペソ2:8)
 今週、皆さんの価値観、世界観、倫理観が、最初に信じた時と比べてどのくらい変わってきているかを振り返って、「死んでも生きる」ということばをよく噛みしめてみてください。

 

 

 

 

 

 

■2009年4月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   光風霽月 こうふうせいげつ  up 2008.4.5


心が清らかで、すがすがしいことのたとえ。


たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
(詩篇23:4)


 

 

「光風」は五月晴れを思わせるような空気が澄み切った様子、「霽月」は雨上がりのすっきりした中に、雲が切れて月が光り輝く風景を表し、これらを人の心に例えた言葉が「光風霽月」です。詩篇23篇4節から「主と共に歩むこととは、主について行くこと。そうするならば、わざわいを恐れることはなく、また主の懲らしめが励ましとなって、「光風霽月」のように心が満たされるとなぜ言えるのか。」見てまいりましょう。

1.『わざわいを恐れません』(第2歴代誌20:17)
“この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。”
 羊の立場から詩篇23篇を神の霊によって啓示されたダビデは、「わざわいを恐れません」と言っています。決して勇士ではなく、弱い立場である羊が、どうしてこのようなことが言えるのでしょうか。
(第2歴代誌20:1)
“この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。”
 イスラエルが北と南に分裂した時期、南のユダ王国のヨシャパテ王は、ダビデのように神様を尊び、その教えにのっとって国を治めていたので、神様は繁栄を与えておられました。忠実な歩みをしている中に突如として、敵のモアブ人、アモン人が攻めて来たのです。
私たちも神の教えの中を忠実に歩んでいても、「なぜこのようなことが起こるのですか」ということがあります。神様を信じていてもいなくても、人生には突如として災いがやってくるということです。山あり谷あり、死の陰の谷のような所を歩くこともあります。信じたから災いに遭わないのではありません。
 クリスチャンであっても災いに遭う時、羊飼いと共に歩むのか、あるいは一匹の迷える羊として歩むのか、違いが出てきます。
敵が攻めてきてあわてたヨシャパテ王は、すぐに神殿に行き、神の前に祈ったと聖書に書かれています。

A)死の陰の谷
 この世界は、神を畏れない人々の支配下にある、不敬虔な世界です。最後の審判でこの世界は裁かれ、新しい天と地にもたらされる計画を、神は黙示録の中で示されています。しかし、神を求める人が、この世界のために一緒に裁かれてしまわないように、裁きの前にイエス・キリストを遣わされて、神の恵みを知らせるように、私たちを証し人として地上においておられます。この世界そのものは死の陰の谷のようで、暗やみの支配に囲まれ、死で終わってしまうネガティブ(否定的)な世界です。どんなにポジティブ(肯定的)でも、死の力に勝利することはできません。
しかし、イエス・キリストは死というネガティブな力を、復活というポジティブな力で打ち破り、よみがえられたお方です。この世界の「死んでしまえばおしまい」というネガティブな人生論に影響されてしまわないように、私たちはこの救い主に従って、ネガティブな世界をポジティブに歩む世界を得ているのです。

B)あなたが私とともにおられますから(第2歴代誌20:21)
“それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物をつけて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」”
 神様は、「この戦いは羊の戦いではなく、羊飼いの戦いだ」とおっしゃられました。羊は狼と戦えません。逃げまどうだけです。羊が、ネガティブないろいろな圧迫を持ってくる力に真っ向から立ち向かうようなことをしてはいけません。羊は狼に勝てないのです。狼を追い散らし、やっつける力を持っているのは羊飼いです。私たちは、自分が戦わず主が戦ってくださるので、後をついて行けばいいんだという気持ちが、「あなたが私とともにおられますから、わざわいを恐れません」ということなのです。
 ヨシャパテ王とイスラエルの人々は相談して、「羊飼いなる神様が戦ってくださるのだ。ハレルヤ!」という喜び、言うなれば「光風霽月」という心すがすがしい気持ちで、戦場で武器を持つ人の前に聖歌隊を置いて、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と歌わせたのです。
 私たちクリスチャンは永遠を目指して今を準備しており、この世界は死の陰の谷のようでも、この向こうには緑の牧場、いこいの水のほとりがあります。たとえ死の陰の谷が恐怖に感じても、羊飼いに従順について行けば、安心そのもの。光風霽月の思いで、喜んで死の陰の谷を歩んでいくことができます。
 ネガティブな世界の中で、ポジティブに生きることができるという、不思議な状況が私たちの人生に表れてくるのです。死の陰の谷にいて、周りを見ればネガティブな感情が襲ってくるでしょう。しかし羊飼いに、みことばに目を向けるなら、安心です。

C)光風霽月なポジティブ生活のみことば
1)(ローマ人への手紙8:28)
“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”
 羊の、羊飼いに対する信頼の告白です。私の羊飼いなるイエス様は、私たちがついていく道筋の計画を考えておられ、通り道にあるすべての体験を益に変えられるお方であり、たとえ死の陰の谷を歩くことになっても、それはプラスであり、けがをしても私にとって大きな教訓だと告白しています。神を愛する者のために、すべてを益に変えられるお方だと。神は私たち羊が歪まないように、最善を尽くして気をつかって導いてくださっています。今皆さんが苦しいところを通っておられるなら、神様はそれも計算ずくであることを知ってください。

2)(ローマ人への手紙8:32)
“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”
 まさに受難週の大切なポイントのみことばと言えるでしょう。「御子」とは「ひとり子」と神は表現されていますが、「これ以上、大事なものはない」の意味です。
 私たちの罪が取り除かれ、神との交流を保つという、造られた目的に立ち返るための犠牲として、御子イエス・キリストが私たちの身代わりに罰せられたーそのような計画をされた方が、どうしてひとり子イエス様と一緒にすべてのものをめぐんでくださらないことがありましょうか。私たちの人生に災いがやってきても、神は滅ぼすためにそんな所を通しておられるわけではありません。それではキリストを世に遣わした意味がありません。良い羊だけを集めようとして、いろいろな所を通らせ、失格者を作ろうとしておられるのではありません。誰でも救いを得るように道をお与えになった神様が、問題や困難の中で私たちがネガティブな世界に引き込まれて不信仰になり、罪の世界で滅ぶことをお考えになるでしょうか。私たちが強くなるための試みであり、みんなが御国に入るようにと、個別に試みを通して強くしてくださっているのです。問題の中で、乗り越える知恵をぜひ得ていってください。

3)(ローマ人への手紙8:38〜39)
“私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”
 羊と羊飼いの関係を外部からの力で引き離すことはできない、と語っています。あなたの心を神様の愛に結び合わせてつかんでいるならば、神はそれ以上をもって、誰からも奪われないように守っておられるということです。神はポジティブな方ですから、私はあなたについていきます、でいいのです。羊は本来ネガティブな動物ですが、ポジティブな羊飼いについて行けば、安全なのです。あなたがどんなにネガティブでも、それ以上に、死からよみがえられたキリストのポジティブは強いのです。イエス様の強い愛をしっかりと見つめて歩んでいただきたいと思います。

2.『むち』と『杖』は私の慰め
A)知恵を与える『むち』(箴言29:25)
“むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。”
 悪いことをしたら「これは悪い。親を敬わなければいけない。」と子どもが悟れるように、叱責=むちを与えることが大事です。注意をする時、優しいだけでもまた反対に厳しいだけでもいけません。優しさと厳しさを織り交ぜ、知識でなく知恵を子どもの心に与えていくことが大切です。ですから、賢い人でなければ、効果的にむちを与えることはできません。言葉が通じない小さい子は特に難しいです。むちが与える痛み、悲しみによって何かを悟っていきます。

B)公正な主権の『杖』(詩篇45:6)
“神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。”
 その人の存在の力、見えない力で支えられている権威を表します。うまく使われないと、民、部下、家族、子どもは苦しみます。私たちの羊飼いであられる主が持っている杖は、公正の杖です。不平等の扱いは一切ありません。杖はむちと同じように、羊の群が散らないように使われますが、むちの場合は権威・力で従わせます。

C)悲しむ者は幸い(マタイによる福音書5:4)
“悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。”
 ネガティブな出来事によってもたらされる悲しみを、羊飼いなる神様があなたの益となるために与えておられるとしたら、どうでしょうか。あなたの人生において、死の陰の谷を歩くことが何度かやってくるのは、導き手である羊飼いがそこを通っていくからです。羊の群にとってプラスになるからです。羊たちは狭い道を一列に並んで、前後をわきまえ、落伍者が出ないように、群れとしての一致を保つ訓練をされます。
 悲しみがなぜ慰めになるのでしょうか。私(辻師)が運動部に在籍していた時、上位の大会に出場するため監督から自分の弱点を厳しく叱責されても、かえってプライドが砕かれ奮起する気持ちが起こりました。監督の私に対する真意が伝わっていたからです。言葉はネガティブでも、心がポジティブなので、励ましとなっていたのです。ここまで私に目をかけてくださって、一緒に試合を戦おうと思ってくださっているのがわかったからです。私たちも試みを与え、災いの苦しみを通らせる羊飼いの真意を考えていくなら、悲しみは慰めに変わります。この慰めはやる気を与え、方向転換させ、やり直す力となっていきます。

【考えてみましょう】から
★ネガティブな世界でも、羊飼いについて行けば、ポジティブに生きることができます。
★(箴言3:11〜12)が引用された(ヘブル12:5〜6)で、箴言にある「叱る」という言葉がヘブル書では「むち」と意訳されています。つまり「むち」とは「叱る」ことであり、「むち」がもたらす痛み、悲しみによって知恵が与えられることが目的です。「むち」という道具にだけ注目しないでください。
★また(第2コリント7:10)においては、自分の体験やドキュメント番組を通して、「むち」と「杖」が慰め(力づけ)になることを考えてみてください。
 どうぞ、私たちの羊飼いを前向きに捉えてください。私たちのネガティブがポジティブに変わるために、羊飼いにできるだけ接していけば、良い影響を受けます。みことばをしっかりと何度も繰り返し、心に味わうことによって、みことばなるイエス様との交わりができてきます。良き羊飼いについて行くことが、「光風霽月」の心を持ってついて行くことだと、実感していただけると幸いです。

 

 

 

 

 

 

■2009年3月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   死灰復燃 しかいふくねん  up 2008.3.29


一度火が消えた灰が、また燃え出すの意から、
一度失った勢力が盛り返すことのたとえ。


主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
(詩篇23:3)


 

 

 人生には誰にも、調子のいい時と悪い時があります。良い状態から悪い状態へと移るのはよくあることですが、悪い状態から良い状態へと変えていくのは難しいものですね。しかし、そんな時こそ、羊飼いなるイエス様のすばらしさが、私たちにわかるのです。

「罪のために死んでいた羊である私たちを、救い主によって生き返らせ、二度と死ぬことがないように永遠のいのちを与えてくださった神様は、羊飼いの誇りにかけて、私たちを義の道から迷い出ないように導いてくださるのです。」
 クリスチャンでも、たましいが死んでしまう時があります。教会に来ることさえ苦痛な時もあり得ます。その時、いかにして自分を回復させることができるでしょうか。感情的に盛り上げようとしても、一時的なもので終わってしまいます。それがおできになるのは、たましいを生き返らせることのできる方、イエス様だけです。

1.『たましいを生き返らせ』
A)たましいの『死』について(創世記2:17)
“しかし、善悪の知識の木からは、取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。”
 アダムは、善悪の知識の木の実を取って食べた時、肉体的には死にませんでしたが、たましいが死んでしまったと考えることができます。

●不従順によってもたらされた『死』(民数記14:43)
“そこにはアマレク人とカナン人があなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。”
 不従順にはこらしめ、裁き、何らかの罰が与えられるものと私たちは考えますが、実のところ、それらは主が共におられないから出会ってしまう苦しみといえます。主が共におられないから、勝利ができないのです。
 問題は人生に必ずやってきます。誰もこれを避けることはできません。しかし、主の後についていけば、問題を乗り越えることが可能です。ついていかないから、乗り越えられないのです。
 以上のことから、神との断絶こそが、罪の結果である『死』だと捉えられます。
 アダムは自分の欲望を優先して神様のお気持ちを退け、禁断の実を食べた瞬間、神様と一緒にいられなくなってしまいました。心が繋がらなくなって、離れてしまったのです。
 あなたの体は教会に来ていても、神様と心が繋がっているかどうか、そういう礼拝をささげているかが肝心です。もしそうでなければ、あなたも死んでいるのです。生き返るためには、神様からの救いをいただくより他はありません。自分では何もできることはないのですから。ただ、恵みを謹んでいただくのみです。

B)『たましいを生き返らせ』とは?(アモス書5:4)
“まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。」”
「求めよ」ということばには、もっと深い、近しい関係を欲せよ、という意味が込められています。人が誰かを「求める」時、そのそばに近づきたい、もっと親しくなりたい、もっと相手のことを知りたい、もっとハッキリと感じ取りたいという心があります。神様は私たちが、ご自分に対してそういう心を持ち、そして創造主なる神を求め、神を知ることによって生きよ、とおっしゃっています。
 しかし、このように誰かと繋がりを持つためには「交わり」が必要です。ギリシャ語の原語「コイノニア」は、互いにプライベートなところにまで踏み込み、関与しあうという深い交わりを意味しています。この交わりこそが、主の求めておられるものなのです。
 もし今日あなたが、形式的礼拝のために出席しているなら、死んでいる状態の礼拝といえます。神様との触れ合いのない、交わりになっていない状態です。しかし神様は「わたしのたましいを生き返らせ」てくださる方、重い心を引きずりながら嫌々教会に来たとしても、心を喜びで一杯にする賛美とみことばで溢れさせてくださる方です。この方が自ら交流のために心を開いて働きかけてくださるのですから、私たちはこの方のご好意を受け取り、臨在の中に心を委ねましょう。そして交流が始まるのです。

2.『御名のために、義の道に導く』
A)『御名のため』
 これは神ご自身の利得のためではないことを、よく肝に銘じておいてください。このことばは、私たちを大事にしておられることの強調なのです。愛している者たちをただの一人も失わないために、全知全能なるご自分の御名にかけて、誓われたのです。私たちへの大きな思いやりがそこに表されています。
B)『義』について(ガラテヤ人への手紙2:16)
1)救い主を信じる信仰による『義』
“しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。”
 人間は100%ルールを守り続けることのできない生き物です。几帳面な人ほど、その自分が許せなくて苦しみます。誰しも、自分で自分を正しいと評価したいのです。しかし、たとえばもし六法全書を完全に知ってしまったら、あちらこちらに法律破りが存在していることを知って、恐ろしくて生きていけなくなるかもしれません。人はそれほどに不完全な存在なのです。
 しかし「自分は、自分の力で義を手に入れることのできない存在だ」と悟るために、あえて律法はあるのです。これを悟るのはとても大事なことだからです。人を批判したり、裁いたりする人も、やはり罪を犯す弱い存在であることでは同じレベルなのですから、ゆめゆめ人を裁くべきではありませんね。

2)与えられる『義』、自分の義ではない(ピリピ3:9)
“キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。”
 裁判官なる神に「義」と宣言されるのは、救い主を信じる信仰のゆえです。罪のせいで神との関係を持つことができない私たちのために、交わりを持つことができるようにと、罪を取り除く救い主を神は送ってくださいました。ここで、罪を犯す犯さないよりも重要になることは、私たちと交わりを持ちたいと願ってくださっている方のお気持ちを信じることです。
 義はプレゼントされたものですから、私たちはこれを自分の力で得たもののように誇ることはできませんね。ただ感謝して、プレゼントしてくださった方を誉めることはあるでしょうけれども。
 こんな大きな恵みをいただいても、恩を忘れ、文句を言ったり、怒ったり、すねたりする私たちですが、神はそれでも義を与えてくださるのです。こんなに自分を愛してくださる方を、今度は自分が大事にしようではありませんか。また、この方の計画に従うことによって、自分自身をも真に大事にしていきましょう。

C)義の『道に導く』(詩篇139:24)
“私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。”
 神様が私たちのために用意してくださった義の道に、傷があるはずがありません。傷のある道は偽の道ではないでしょうか。神様に、自分の進んでいる道が、神様の導いておられる道であり続けるようにと願い、導きを求め続けていきましょう。
 神様は私たちを、「義」であり続けるように、正しい道から迷い出ないように、また存在の目的をわきまえることを、自分で悟れるようにと、導いておられます。

「その道に導かれていくには、羊飼いとのかかわりが必要です。ただなんとなく、羊飼いの後をついて行くのではありません。」

 羊飼いと羊とはお互いをよく知り合って、羊飼いは一匹一匹をとても知っているし、羊も羊飼いに非常になれていて、他の人とはハッキリ区別しています。だからこそ、羊は羊飼いにつき従うし、羊飼いは羊一匹さえ見落とすことはありません。いかに深い交わりを持っているかが、非常に大事なことになります。神様を、自分はどのくらい知っているだろうか、と省みてください。
 今、たましいが死んだ状態にあるなら、弱った羊には、神が特に深くかかわりを持ってくださるチャンスですから、ぜひ、大きく心を開いていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年3月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   養生喪死 ようせいそうし  up 2008.3.22


生あるものを十分に養い、死んだ者を手厚く弔うこと


主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
(詩篇23:2)


 

 

 「養生」には、父母や妻子を豊かに生活させる、生きている者を大事にし、その人の成長のために必要なものを与えていく、という意味があります。また「喪死」には、死者へのを尽くす意味があり、故人との関わりがあった人の気持ちを表現しています。アカデミー賞外国語部門を受賞した映画「おくりびと」は、日本文化において死をどう捉えているかが表現されています。葬儀を大事に扱うことは、死者への敬意を表しており、偶像礼拝ではありません。もてなしの総決算とも言えます。
「養生喪死」とは、生きている間も死んだ時も、命の尊さ以上に、存在そのものを尊ぶ表現です。この言葉のポイントを通して、(詩篇23篇2節)から、主についていく、主と共に歩む人生を考えてみましょう。
 神様は、生きている私たちに、多くの祝福をもって、神の子として成長するために、必要すべてを与えてくださいました。また、私たちがこの世を去っていくことにおいて、立派な行いをすること以上に、それぞれの役割を果たし、与えられた力を精一杯生きていくことに大きな喜びを持っておられます。「聖徒の死を尊ぶ」とも、聖書に記されています。
 このみことばから、まるで羊に対する羊飼いの思いのように、主なる神は私たちにどれほどの思いを込めて存在を支えておられるかを見ることができます。

1.『羊飼いが持っている主導権』
羊が主導権を持っているのではありません。羊飼いが羊の様子を見て、その必要のために羊を伴ってリードしていくのです。
A)だれのための権威か?
1)(マルコによる福音書10:42〜44)
“そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。”
 異邦人の社会を例に挙げて、権威を帯びている者(リーダー)とはどういう者か表しています。圧迫をかけ、力で従わせ、自分の利益を求めて思い通りに権力を振るう異邦人の支配のやり方は、みこころではなく、悪い例として挙げられています。権力はみなのしもべとなるために使うように、イエス様は言われています。

2)(使徒の働き20:28)
“あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。”
 群れの監督者は、群れを牧するために、権威が与えられています。
権威は自分の欲望を満たすためにあるのではありません。ワンマンに振る舞う父親のように、自分の思うままに家族を虐げる権威ではありません。世の中は、自分の利益のために権威を欲しがります。なぜなら、この世界には、力ある者が支配者になり、幸せになるという考え方があるからです。しかし聖書には「権威は神によって造られた。神によらない権威はひとつもない」と書かれてあります。神は羊を幸せにするために羊飼いに権威を与えられたように、国の指導者・権力者にも期待して、民を治める権威を与えられました。
 また「強い人は、弱い人の重荷を負いなさい。富める人は貧しい人に施しなさい。」と、神がこの世で力の差を認められた理由は、互いにコミュニケーションを持ち仕え合うため、信頼し合う(愛し合う)ためです。力ある者の力は弱い人を養い支え、また弱い人は力を貸してくださる方へ協力していく結びつきが、強い信頼関係を生み出します。
 もし私たちが何らかの権威を与えられているなら、自分のためでなく、自分の権威の中にいる人のため、ということをしっかり意識して、その権威を使っていただきたいと思います。

B)権威(主導権)の使い方(マタイによる福音書8:5〜9)
“イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。”
 この箇所は、単に権威ある者は従わせる力があることだけを言っているのでしょうか。普通、このように病気になって倒れた兵隊は、見限ってやめさせるものです。どうしてこの百人隊長は、病んだこのしもべを直してほしいと、救い主イエス様の下に願い出たのでしょうか。ここに百人隊長としもべの結びつきが単なる秩序によるものでなく、深いものであることが読みとれます。百人隊長は自分の昇進のために兵隊たちを使っていたのではありません。権威について正しい捉え方をしていました。
 権威とは、グループ全体をまとめ、みなが安全に過ごすために統率する力です。特に軍隊では、権威に従わなければ命取りになり、しかも一人だけでなく、グループ全体が危険にさらされます。ですから、軍隊では絶対服従です。
 この「服従」というところにだけ焦点を当てて、権威への偏見を持つ人がいますが、それは違います。家族、会社等のグループには権威者が必要です。この権威を持って全体の益となることをしていくためです。決して自分の利益のために、従う者たちを利用してはいけません。
 この百人隊長は、部下のために権威を用いていました。権威には全体のために用いられるという考えのもと、イエス様が神から遣わされた救い主(権威者)ならば、その権威は私たちのために使われるに違いないと理解していたので、イエス様にお願いしたら、必ず聞いていただけるという確信を持って行きました。この姿勢を尊んで、イエス様は、イスラエルの中にもこれほどの信仰者はいないとほめられたのです。
 どうぞ、「養生喪死」という言葉のポイントを踏まえて、百人隊長の権威の使い方を考えながら、家族を養うとはどういうことか考えてください。大事なことは結びつきです。百人隊長が中風の部下のために、権威を畏れてイエス様の下にいやしを求めに行ったように、家族のために与えられた力をいかに用いていくかーこれがリーダー(家長等)が死後裁きの時に問われるポイントです。権威を帯びることは緊張感があります。大事にしていかなければなりませんが、使わなければ意味がありません。神が与えてくださった権威を正しく使えるように、聖書から学んで行きたいですね。

2.『緑の牧場に伏させ』
A)羊への主導権の目的。
1)羊の健康のために、最適な食物を提供する。
 権威は、羊の健康のために用いられます。羊飼いは、青々とした牧場に羊を導くため、他の所に行きそうな羊の危険回避のために強いる権威が与えられています。自分の利益のためではありません。

2)安心して食物を食べることができる環境を提供する。
 また、どんなに緑の良い牧場でも、外敵が入り込んでくる可能性があります。羊飼いには、羊たちが安心して食べられるように、守っていく権威があります。
 人は何らかのリーダーシップを持つと、与えられた権威が後ろ盾となって、確信と勇気を持って大胆に行動できるようになります。サタンに対しても、私たちは神から権威を与えられ、みことばの約束があるならば、自分の力はなくとも「与えられた権威によって、それができる」と確信を持てます。敵と戦う上でも、権威を与えられることは大事なことです。それを自分の利益のために用いることが的外れであり、罪なのです。神はそれを正しく裁かれます。

B)提供されるものを手に入れるために。
1)羊飼いについて行く。
 羊飼いが、羊のため適切な緑の牧場に連れて行くように、神も、私たちの人生に今必要な導きを与えてくださいます。神の子としての成長のために、私たちの人生を導いておられます。

2)群れについて行く。
 また、群れとは共同体、すなわち一地方教会です。神は一個人ではなく、群れ全体を導いておられます。十匹の羊をばらばらに導いておられるのではなく、一つの群れの中のあなたを導いておられます。教会の牧者を通して、一人一人が神の子として成長していくため、番犬として牧師を用いていかれます。

3.『いこいの水のほとりに伴われる』
A)羊飼いの気配り
「いこい」という言葉には、羊飼いが羊の存在をどれほど尊んでいるかが表されています。人間でも、必ず水がある所にいこいを求めています。水は私たちにいやしを与えます。療養所が水と関係ある所が選ばれているのはその例です。神は最終的に、いやしと回復がもたらされ、輝きと潤いがもたらされるところへ私たちを導いておられることを知らなければなりません。その途上にどんなことがあっても、神が連れて行ってくださるところは、緑の牧場であり、いこいの水のほとりなのです。
 そして「連れ添う」ように、とは、介護士の方が徘徊する人の心の作用を考え、ついて行きながら、最終的に施設に連れ戻すように、主導権は介護士にある様子を表しています。同じように、神様も主導権を持って、羊飼いが連れて行くいこいの水のほとりがいかにすばらしいかを悟れるように、私たちがどこに行くべきかを考えられ、遠回りしながらでも、連れ添うように共に歩まれます。これが気配りです。「伴われる」とは、私たちの自由意志を尊重され、無理矢理従わせておられないことを表します。

B)気配りを受けるために
 気配りは、相手の心を感じ取らねばなりません。神は私たちを、群れと共に移動するために、適度な距離を保っておられます。私たちがそれから離れると、手の施しようがなくなります。これが不信仰の状態で、神の手を払いのけています。神を敬う心を絶対失わないように、神の気配りが届く範囲で、群れに添って自分の人生をしっかりと神の国に向かって歩んでいくことが大切です。
(エペソ人への手紙1:5)
“神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。”
 神は私たちをご自分の子にしようと、目をつけておられたのです。ひとり子イエス様のいのちに代えても、私たちを救いの中に導きたいという大事なポイントがあります。
(第1ペテロの手紙5:7)
“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”
 羊がいくら思い煩っても、羊以上に羊飼いは心配してくださっています。羊飼いの気持ちを理解してほしいですね。

(エレミヤ書31:3)
“主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。”
 「遠くから」とは、私たちと神の関係が遠のいている状態を表しています。神は離れている羊に対して「今日まで愛してきた。私は今も、これからも誠実に尽くすよ。」とそのお気持ちを語っておられます。
 こうしてみると、神様がいかに養生喪死の思いで、一人一人の魂(羊)を愛し慕っておられるかを考えることができるのではないでしょうか。主導権を持たれた羊飼いイエス様は、私たちを緑の牧場に安心して伏させ、いこいの水のほとりで回復やいやしを与え、またそれ以上に一人一人の輝きを増し加え、潤された人生を与えるために、導いてくださっています。

 

 

 

 

 

 

■2009年3月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   竹頭木屑 ちくとうぼくせつ  up 2008.3.15


役に立ちそうもないものを保存しておいて、
あとで役に立てることのたとえ。


主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
(詩篇23:1)


 

 

 昔、中国のあるところに船大工がいました。彼は竹と木を使って仕事をする際に、残った切れ端や屑を仲間のように焼くことはせず、大事に持って帰りました。そして、冬になって大雪が降ると、彼は集めておいた木屑を仕事場にまいて滑り止めにし、また古い舟の修理には、同じく取っておいた竹の切れ端から器用に竹釘を作り出して修理に用いたそうです。
 このように、はたから見れば何に使うのか頭をひねるようなものでも、知恵のある人はきちんと用いるべき場所を用意しているものなのです。
「主とともに歩むとは、羊飼いに羊がついて行くことです。そこには罪人に対する「竹頭木屑」の計画があるのです。」

1.『主は、私の羊飼い』
A)主との関係をわきまえている表現。
1)自分の分をわきまえている。
 自分は羊、神様が羊飼いであるということです。
2)羊飼いのおかげで生きていける。
 羊は迷子になりやすく、羊飼いなしでは生きていけません。
3)羊飼いと羊とは共存している。
 羊がいなければ、羊飼いとは言えません。一方羊も、羊飼いなしには生きていけません。神様も、私たちがいなければ、神様とし ての意義をなくしてしまうし、私たちは神様なしで存在できません。
4)羊飼いにとって羊は家族である。
 一匹一匹に名前をつけるほど、大事にしています。

 主イエス様との関係において、私たちはどのようなわきまえを持っているのでしょうか? 親に不平不満ばかり言っている子どもは、わきまえがありませんね。また、本当に尊敬する相手に対して、愚痴不平ばかり言うのは自分でもいやではないですか?自分の愚かさを露呈することになるだけですから。すばらしい神様に飼われている自分の幸せを、よく思いみてください。

B)羊飼いと羊の心のつながりが見えてくる。
1)罪の赦しのために小羊がいけにえとしてささげられた。
 モーセの律法において、自分の罪が贖われるために、一歳の小羊をいけにえとしてささげることが決められていた。

 この時代にも、愛情なしに羊を世話している人はいました。商売として羊を売るために世話していたのです。そういう人は売って手放すことも、羊が殺されることもまったく気にしません。しかし、本当の羊飼いにとっての羊は、心血注いで育てた子どものようなものです。その羊を、自分の命が助かるために神の前に差し出し、罪のための犠牲として死なせてしまうのはどんな気持ちだったでしょうか?
2)父なる神様は、罪人である私たちのためにひとり子イエス様をおささげになられた。
“しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”(ローマ人への手紙5:8)
 本当の羊飼いなら、自分のために大事な小羊を死なせてしまった後、次からはこの大事な羊たちの犠牲を少しでも減らすためにと、罪を犯さないように細心の注意を払うのではないでしょうか。
 ましてや、羊どころか、ご自分のひとり子を私たちのために殺された、神の痛みと愛の大きさはどれほどのものでしょうか?
「羊飼いが自分の罪のために小羊をささげるのに躊躇するなら、罪人のためにひとり子をささげられる神様は、いかに大きな愛を私たちに注いでおられることでしょう。」

2.『私は、乏しいことがありません。』
A)羊飼いへの信頼の証し。
 すばらしいこの羊飼いを、羊たちはじっと見つめながらついていきます。そして幸せをかみしめます。
 この方につき従うこと自体が、大きな喜びなのです。また、この方は必ず私たちを守り、大切にしてくださるので、安全であり、幸せをいつも心に持っていられます。そして、この方についていけば、必ず目的地まで行けるので、将来に希望を抱いていられます。

B)何も持っていないが、すべてを得ている。
1)羊飼いに従えば、必要な望ましいものに不足しない。
 羊飼いは、いつも先を見ています。水の必要、運動の必要など、羊の必要をいつも考えています。
羊飼いに任せておけば、一番安心なのです。

2)失敗などで失うことがあっても、追補してもらえる。
 一人だったら失敗するとやり直しがきかないことも多々ありますが、頼れる人がいれば、やり直しをするチャンスがもらえます。子どもの時は、保護者が助けてくれたように、クリスチャンは神様が助け船を出してくださいます。

3)存在を生かしてくださる唯一の方。
 私たちはあきれるほど忍耐力が弱いものです。人が何か失敗をすると、すぐに関わりを断とうとします。でも、そんな時神様は、ご自分が赦してくださった私たちの数々の過ちを思いおこさせて、いさめてくださいます。
 この世的価値観から見るなら竹の切れ端、木屑でも、神が大切にしているわけは、神の目には『使える、大事なもの』だからです。
責める目ではなく、あわれみをもって人々を訓戒していく必要があります。主がそうしてくださっているように。人の弱さは責めるのに、自分の弱さは言い訳ばかりする私たちですが、神様の悲しみを思いみるなら、こんなことは絶対にやめましょう。

「ある人がリサイクルショップで、あるものを新品よりも高い値段で買い取りました。そこにはどのような理由があると思いますか?」
 神様が、こわれてしまった品物である罪人を大事にしてくださっているわけは、個人的につながりをもっているからです。
 あなたも神様と個人的につながりを持っていて、とても大切にされています。そのことをよく考えながら、羊飼いなる神と羊である自分の関係について、黙想してみてください。

『竹頭木屑』と(詩篇23:1)を併せてのデボーション
★「役に立ちそうもない罪人を、イエス様を代価として買い取り、手入れを施して保存し、のちにやってくる新しい天と地において、役立てようと計画してくださっている羊飼いのみことばについて行きましょう。」
 語られているのは神のおことばであることを正しい良心で言い聞かせ、従っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年3月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   季布一諾 きふのいちだく  up 2008.3.8


決して裏切らない固い承諾、約束のたとえ。
一度承諾したことは必ず守らなければならないという戒めの語。


そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
(第1ペテロ3:21)


 

 

 このことばは、中国の故事からきています。昔、中国に季布という人がいました。この人は、一度承諾したら必ずそれを成し遂げる人で、どんな状況であっても、いかに時間がかかっても、約束を果たしました。その人物から、一度承諾したことは必ず守らねばならない、という、私たちへの教訓のことばができたのです。
このことばから、私たちの神への信仰は軽々しいものではない、ということに気づいてほしいと思います。
『信じる』とは、『ついて行く』ことです。正しい良心からの信仰告白である神への誓いとは、キリストについて行く、私たちの『季布一諾』を証しています。

1.『季布一諾』の信仰告白(第1ペテロの手紙3:21)
“そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。”

A)『承諾』について
 バプテスマとは、私たちの神への応答です。「つき従って行きます」という決断のしるしです。ただしい良心の神への誓いであって、決して軽々しいものではなく、真剣に考えての決断です。
 ここに、今日の四字熟語の意味を重ねて、皆さんに考えていただきたいと思います。信仰とは、「承諾」して、神について行くことです。イエス・キリストを信じるにあたっての、ただしい良心の神への誓いとは、「承諾」したことを表します。それは、神からの申し入れがあったということで、その申し入れを聞き入れた証明が、バプテスマなのです。

B)『季布一諾』の信仰告白とは?
「誓い」ということばには、強い決心と、必ず果たすという覚悟が含まれています。

2.神様からの申し出とは何か?(第2コリント人への手紙5:20)
“こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。”

A)意味深い「神様の懇願」について思いめぐらす。
 神が私たちに対し懇願しておられ、キリストも願いを持っておられます。それは、ご自身の和解を受け入れてほしいということです。
懇願とは、目下の者が目上の者に向かって切に願い求めるというイメージがあります。しかし神は、ご自身の立場を捨てて、私たち罪人に対し頼み込んでこられているのです。なぜでしょう。そこには深い理由があるはずです。他人事でなく、ご自身のことのように私たちのことを考えておられるから、懇願されるのです。

B)「救い主であるイエス様の願い」について思いめぐらす。
 「キリスト」ということばの中には、既に「あがない」という意味が含まれています。ご自身を犠牲にしてまでも、私たちとの和解を願っておられるとは、どれほどの願いなのでしょう。ぜひ、この点を深く思い巡らしてみてください。私たちは人と話す時、相手がどのような思いでそのことを話しているのか、その人の思いを推し量ってみるものです。
 イエス様の私たちへのお気持ちを、「清いあわれみ」ということばで表現してみました。ご自身の得になるかどうかに関係なく、純粋に私たちへのあわれみによって、イエス様は十字架にかかってくださいました。このイエス様のお心を思い巡らせてみてください。私たちの感情は、相手の心を思い巡らすことによって、その思いが伝わり、再現することができます。そしてイエス様の気持ちに少しでも近づくことができます。
 みことばを、知識だけでなく、感情によっても、また心のすべてで味わってみましょう。

C)『神からの和解』について思いめぐらす。
 本来なら、私たちから申し出るべきものです。罪を犯して滅びるばかりの状況から、どうか和解のチャンスをくださいと懇願するのが普通です。しかし神はご自身から、和解のチャンスをぜひ受け取って欲しい、と懇願してくださっています。
 それは、もし和解しなかったら、私たちの将来は確実に滅びに向かっていくという、大きな危険があるからです。しかし、和解の理由は、単に裁きを免れるという目的だけではありません。私たちの永遠、天国には、偉大な計画が用意されています。その計画に、私たちが参加して欲しいと、神は願ってくださっています。私たちの存在は、神にとって、御子の十字架を通してでも手に入れたいと思ってくださるほど、大きいのです。
信じられないようなことです。しかしそれを理解しないと、『季布一諾』の決心をすることはできません。その神様の私たちへの深い思いを知る時、私たちはぜひついて行かせてくださいと心から誓うことができるのです。それを献身といいます。この献身は、すべてのクリスチャンがバプテスマを受けることで表現しています。たとえその時、深い知識がなくても、神に付いていく時、だんだんと神への信頼が深まり、献身の姿勢ができてきます。

3.和解の目的は何か?(マタイによる福音書6:10)
“御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように。”

A)主の祈りの中の重要なポイント
 イエス様に付いていくという時、2つのタイプがあります。それは、私がイエス様に付いていくのと、イエス様が私に付いてきてくださいというもので、この2つは主導権が全く逆です。(先週お話しました。)
 主の祈りを自分本位に捉え、自分の願いを成就するためにささげるなら、あなたは神より自分に主導権を持っていることになります。願うとは、人を動かすことです。
「主の祈り」は自分に主導権を持って祈るものではありません。これは神が立てられたご計画、御心が成されるようにという、神に主導権を認める祈りなのです。その違いに気づいてください。私たちは、この神の御心が成されることを祈り、付いていくのです。

B)神は国づくりをしておられる(ヨハネの黙示録1:5〜6)
“また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。”
 国とは、民がいて初めて成るものです。国は人間の一つの集合体です。それゆえ、神の国とは、私たちのことです。神の国は、この世の国のように土地は持ちません。クリスチャンがいる限り、神の国は地上に存在しています。そして世界中に神の国は広まっています。人々が救われてくるとは、神の国が拡大していくことであり、私たちがキリストのように成長していくことは、神の国が繁栄していくことなのです。これが神のご計画です。そしてこれが「私たちを王国とする」という意味です。私たちなしに、神の国、王国は存在しないのです。これは信じられないような、偉大なみわざです。それゆえ、神は私たちに和解を申し出てくださっています。
 主の祈りは「神様、ついていきます」という心で祈るよう、心がけてください。神のご計画に参加し、協力させてください、という心が必要です。
 
4.『季布一諾』の信仰告白を日々こころがける。
 このような姿勢で日々生活していきましょう。そしてこの決心の心で過ごす時、どのように自分が変わっていくかをみてみましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年3月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   夫唱婦随 ふしょうふずい  up 2008.3.1


夫が言い出し、妻がそれに従うこと。夫婦仲のよいこと。


しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
(黙示録3:4)


 

 

「夫唱婦随」この四字熟語を選んだのは、その言葉が意味するものが、神様と私たちとの健全な関係を思い起こさせるからです。

「私たちが主とともに歩むという意味は、すばらしい夫に妻が心から喜んで従う『夫唱婦随』のような関係のことです。」

 神が主権者たる方であるということよりも、尊敬に値するすばらしい方であるということの方が、神様に従う私たちにとって、実は重要です。力による支配ではなく、私たちが愛と尊敬をもって自ら従うことのできる主人。この方がどんな方かわかるほど、自発的に喜んで従っていけるようになります。

1.クリスチャンと他の人との歩みの違い(ヨハネの黙示録3:4)
“しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が、幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。”
 今、イスラムの過激派によって捕らえられ、命を奪われようとしている宣教師たち、また既に命を奪われた人たちもいます。しかしそれでも、召命を受けた人々は、自分のいのちを引き換えにして神様に従っていきます。命をかけても神様に従っていけるほどの強い信頼が、彼らにはあるからです。
 主なる神とともに歩む者には、死を恐れないほどの強い絆があり、そして主に引き上げられるという良い報いが待っています。
では、「主なる神とともに歩む」ということについて考えてみましょう。

●「主とともに歩む」ことに、二つの捉え方がある。
(1)主が私に付いてきてくださる (2)私が主に付いていく、の二通りが考えられます。
(1)の場合を考えてみましょう。
 私たちは自分の思い通りに主を連れ回します。主は付いてきてくださいますが、私たちは「あれが欲しい、これも欲しい」と自分の願いを満たすための寄り道ばかりして、ちっとも目的地に着きません。しかも、このような目先の喜びを満たす人生のために、ひとり子なるイエス・キリストのいのちを無駄遣いしているのです。だいたい、私たちは目的地を知りません。行く方法もわかりません。しかも行く力を持っていないのです。これは良くないですね。目的地のない、行くことのできない旅路はむなしいものです。このことから、私たちが主導権をにぎるべきではないことがわかります。

(2)の場合はどうでしょうか。
(ヘブル人への手紙12:22〜24)にこう書いてあります。
“しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たち
の霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。”
 主が主導権を握られたなら、この方には目的地がちゃんとあります。そして連れて行ってくださる力と方法ををお持ちです。この方が主導権を持たれるべきなのは明白ですね。

●『主導権』を意識してみことばを読みとっていく。
(1)(ヨハネによる福音書14:13〜14)を考える。
“またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、私の名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。”
 この時イエス様は、誰に向かって語られていたのでしょうか。ご自分に付いてきた弟子たちや群衆に語られたのです。ご自身を動かそうとする者に対して語られたものではないことを、よくわきまえておきましょう。
 私たちがすることは、たとえば献金一つにしても、主なる神をどんなにか大切に思い尊敬して、何かお返しをしたいという思いからするので、決して自分の利得のためではありません。同様に、付いていくにも神に対する尊敬と信頼が必要です。自分の願いばかり神に押しつけているのは、実は自分を主人にしているのです。どんなにささげ物をしても、何十日断食をしても、人に親切をしても、自分が主では意味のないことです。
 神に付いていく人は、神に従うために必要なことを願うはずです。動機は「神に従いたい」心から出ています。求めることすべてが応えられないのは、私たちの心が悪いか、弱さのゆえに悪い方向にそれてしまう危険があるからです。

(2)(エレミヤ書29:11)を考える。
“わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。ー主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”
 このように神は、私たちのために計画をお持ちです。しかし、私たちが神に引いていただくのでなければ、うまくゴールにたどりつくことはできないでしょう。(詩篇23:4)に『死の陰の谷』ということばが出てきますが、死の力が働こうとするこの場所を、弱い人間である私たちが自力で通り抜けることは不可能です。神を主として、守られながら導かれてこそ、安全に抜けることができるのです。
 私たちにはいろんな思いがありますが、それらが神の御思いを基にしたものかどうか、よく吟味する必要があります。神のご計画はとてもしっかりと立てられていますから、この方の主導権を正しく理解して、それから自分の願いを組み立てていけば、必ず前に進んでいけます。

2.「白い衣を汚さなかった者」が主とともに歩む

A.『白い衣』の意味
「清潔、純潔、神の義、きよさ、新鮮さ、ういういしさ。
キリストを信じる信仰によって与えられる。」
 私たちは本来汚れた者であって、救われる望みはありませんでした。しかしそこにビッグニュースが飛び込んだのです。神の子を信じたら、白い衣をもらえる。そこで信じた私たちの心をよしとして、神様は受け取ってくださいました。そのおかげで、今白い衣を着ているのです。神様のお心を大事に感謝していたら、白い衣を大切にするでしょう。汚さないように注意して行動し、汚れるような場所は避けるし、もし少しでも汚れたらすぐ洗います。でも、くださった方の心を大事にしなくなったら、衣もいいかげんな扱いをするでしょう。
 洗うこと、これが悔い改めです。主に従う気持ちが強いほど、汚れに敏感になります。反対に、自分が主導権を持つ割合が大きくなるほど、鈍感になります。とても大事なことなのに、クリスチャンはこれをよく忘れます。そして祈りがかなわないと文句を言うのです。神様から心がどんどん離れているのに、願いだけかなえてほしいというのは、無理なことではありませんか?

B.『汚さなかった』という意味
「主との関係を保ち続けた。主に愛されていることを大切にし続けた。『夫唱婦随』であった。」
 主に愛されていることを大切にするなら、この方に望まれていることを何でも、可能な限り実行していこうと思うでしょう。私たちは主権を持っていませんし、その器でもありません。このことを、ハッキリと自覚しようではありませんか。神様から離れて、私たちに成しえることは何もないのです。
 神の主導権と、従う自分の立場を悟って、この良い夫に喜んで従って行きましょう。