■2008年12月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   直往邁進 ちょくおうまいしん  up 2008.12.28


ためらわずにまっすぐ突き進むこと。


望みがかなえられるのはここちよい。愚かな者は悪から離れることを忌みきらう。
(箴言13:19)


 

 

 「望みがかなえられるために、あきらめずにまっすぐ目標に向かって歩んでまいりましょう。」という気持ちで、四字熟語「直往邁進」を選びました。人の言葉や環境、出来事を通して、私たちの信念が揺らいでしまうこともありますが、それらの妨げや誘惑に負けず、まっしぐらに私たちの歩むべき人生の道を歩み、さらに来年は望みがかなえられ神への感謝をささげられる一年となるように、期待する思いを込めた四字熟語です。

1.箴言13:19の解釈
 何にしろ、自分が願ったことがかなえられるのは気持ちが良いものです。一方で、ストレス解消のため、スリリングなことを成功させ、気持ちがほっとする心地よさを味わうために、万引きをするような事件も起こっています。悪から離れようとしないのは、この心地よさを失いたくないからです。そこで、悪から離れるためには、悪に対する強い願いよりも、もっと別の良い願いを強く持つ必要があります。そうでなければ、悪いことを行って味わう心地よさからは離れられないのではないでしょうか。

2.正しい良心からの強い願い(ヘブル人への手紙13:18)
“私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。”
 ここで言う「正しく行動しよう」という願いは、口先だけではありません。「正しい良心を持っている」と確信しているからこそ、神の前にいつもそのことを意識しており、「何事においても正しく行動しよう」という強い決意が表されています。それくらい、その人の内に強い願いが湧き上がっていると言えます。
 私たちには、欲望を満たしたい肉の心とは別に「何事についても正しい事を行動し続けたい」という正しい良心の願いがあります。 そして、この願いが強い願いとなるには、動機付けとなる出来事が必要です。でなければ五感に左右されて、正しい良心への自覚を失ってしまうことがあります。それで神様は敬虔なクリスチャンの人生に対して、正しい良心の働きを気づかせるための動機付けをされる出来事(痛み、失敗…)を起こされることがあります。
 今回、以下に取り上げた事件から、みなさんの正しい良心が「直往邁進」するための方向性を見い出していただきたいと思います。
 07年9月、千葉市の高校三年生の男性が、自宅に窃盗に入った近所の14才の少年と鉢合わせになり、一旦逃走した少年が発覚を恐れて現場に戻り、彼を殺害したという事件です。彼が亡くなる1年前に作ったラップ調の歌詞を見てください。
「今の世の中」
YO! 最近、悪い事件多いよね。皆、口をそろえて言う「恐い」とねって。いつ現れるかわからん通り魔「なぜこの人を」と問えば そして返ってくる言葉は「ただ金が欲しかった 別に誰でもよかった」と顔色一つ変えずに言った。
そんなやつらの考え理解できねえ。そんなやつらがいたんじゃ良い未来できねえ。年々増える犯罪者を減らさなきゃ増えてしまう被害者。(略)
今の世の中 頭おかしくくさってる野郎をできるだけ減らすんだ
今の世の中 今の時代の現実を見ろって人ごとにしてられないんだ
今の世の中 本気で変えなきゃダメだろう 未来変えなきゃダメなんだ
(略)
おれにとっちゃ許せないことばかり 一生消えない思い出や怒り もう我慢できなくて
この現状変えたくて 本気で変えてほしくて 今の世の中 本気で変えなきゃダメだろう
本気で変えなきゃダメだろう 未来変えなきゃダメなんだ

 この詩には17、8才の青年が、今の世の中の身勝手な出来事を通して感じている、その社会に出ていく失望感と、逆に「変えていかないと…」という気持ちが表れています。未来を見つめて、純真な気持ちでこのような歌詞を書くような高校生は、最近は非常に少ないのではないでしょうか。「正しい、良い世の中に」という思いは誰しもが心の片隅に持っている気持ちです。正しい良心にある願いです。しかし、あきらめてしまっているのが現状です。いったいどうなってしまうのだろうという世の中に、自分も流れてしまう空しさ、悲しさの中で訴えている彼の歌…クリスチャンとして、神を畏れる者として、彼の歌をどう受け止めますか。
 これを読んで、このような純真な青年たちが生かされる社会を、大人たちが協力して作っていかないと、という気持ちにさせられるのが、人としてのあるべき健全な心ではないでしょうか。 それを批判したり、価値なきものと考えたりする人生の捉え方はすでに自分の欲望だけを満たす、まるで動物のような生き方であり、神が与えてくださった命の尊さに気づこうともしていないのではないでしょうか。
 生きるために邪魔者を獲物にしていく弱肉強食の自然淘汰の世界に生きているとし、神を畏れない進化論の考え方が道徳性を失わせ人格をも失わせていることに気づかなければなりません。
 神を畏れる者として、この歌詞を読んで発奮しなければなりません。このような青年たちが、このような犠牲になる事は決してあってはならないと。神を畏れている敬虔な人は、心を発奮させることができるはずなのです。
「仕方がない」と見過ごしてしまうクリスチャンは、本当に神を知っている、信頼し愛している、と言えるのでしょうか。
 広島にもこのような純真な青年たちがいると思いますが、どうして教会に来ないのでしょうか。それは、教会に失望しているからではないでしょうか。教会に来ても、この気持ちを実現する姿がクリスチャンたちに見られないからではないでしょうか。
 昔のクリスチャンたちは、世界的にも非常に尊敬され、実際に生活・文化に大きな影響を与えました。福祉面も初めはクリスチャンからです。それが今は、世の大きな流れに巻き込まれてしまい「事なかれ主義」をとり、よい影響を与えるはずのクリスチャンが逆に悪い影響を受けてしまっていないでしょうか。私(辻師)はこの歌を聞いて神様から心グサッと突き刺されるようなメッセージが正しい良心に語られました。
 自分だけの幸せのために、私たちは教会に来ているのではないのです。イエス様がこの地上に来られ、十字架で苦しみを受けてくださったのは、私たちが「互いに愛し合う」ためです。互いのために生まれ、人生があり、命が与えられていることに気づいていない身勝手なクリスチャンが多いのではないでしょうか。
 世の中から尊敬されなくなったクリスチャン…正義に対する熱い思いを持ったクリスチャンが少ないのは残念なことです。
 神の子であるならば、世の中に希望を与えるような人生を邁進していこうではないか、クリスチャンとして堂々と胸を張って生き、あの人のような生き方をしたいと思われるような道を選んでいこうではないかという気持ちが、「直往邁進」の四字熟語に含まれています。また「よい望みがかなえられるここちよさ」を神の前に期待しながら、「互いに愛し合う」という言葉が実現する社会に変えられていく一端を担う一人一人として、「互いに愛し合う」という言葉に邁進していきましょうという気持ちで、(箴言13:19)を紹介しています。

●08/12/29(月)地の塩(マタイによる福音書5:13)
“あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。”
 クリスチャンがクリスチャンらしさを失うと何の役に立ちましょうと言われているようなものです。「クリスチャンはきよい、正しい」とのイメージが失われつつある状況の中で、いやもう一度塩けを取り戻して、この世の中が罪で腐っていかないように、人生に味を与えるような存在となるように直往邁進していきましょう。
「地の塩」とはどういう意味なのか考えながら、自分の生活に具体的に適用し、チャレンジしてください。

●08/12/30(火)世の光(マタイによる福音書5:14〜16)
“あなたがたは、世界の光です。… ”
 実行する前にどういうことをするのがよいのかを考えることが必要です。光とは、人々の暗闇を輝かせ、暗闇で見えなくなっているものを、見えるように光を当てます。クリスチャンがこの世の中で世の光として歩むとは、人々の罪を明らかにする働きがあるということです。あなたが神の前に敬虔に生きることを通して、人々が自分の罪に気づくということなのです。正しい良心に痛みを感じている人は、クリスチャンの一心に神を信頼した聖潔な生き方を見て、「そのように生きたい」という気持ちにさせられます。私たちは世の光として人々の暗闇を照らし、自分の本当の姿に気づかせる、鏡のような役割をする人生です。世の光という自覚をさらに祈りの中で教えられながら、チャレンジしてください。

●08/12/31(水)神の子(ガラテヤ人への手紙3:26)
“あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。”
 私たちは神の姿に似せて造られた神の子であり、その真の姿に立ち返るためにイエス・キリストは私たちの罪を取り除き、悔い改めを通して神の子として成熟、完成する道を備えてくださいました。
 神の子としての自覚が、人生に大きな影響をもたらします。神の子としてのプライドを失ってはいけません。人格を失わない人生を歩むように…。神の子として、人格的存在者だからこそ、人生を悩みます。なぜ、ここにいるのかということも、聖書のおことばを読みつつ、悟らせていただけるように、神の子として直往邁進してまいりましょう。

●09/01/01(木)自由を与えられる者(ガラテヤ人への手紙5:13)
“兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい”  放縦と自由は全く違います。放縦には秩序がありません。クリスチャンは罪を犯すこともでき、また正しいこともできる自由があります。敬虔な心を持っている人は罪の力に悩まされており、強い意志力を持たねば引き込まれてしまい、なかなか自由にされていないという悟りを持ちます。クリスチャンも同様に感じる人が多いですが、それはごまかされています。
 本来、自由は、誰からも束縛される権限はなく、神も私たちを束縛する権利を放棄されました。ご自分の大事なものを私たちの罪の代償にお与えになったのにもかかわらず、私たちを自由にされました。私たちは、イエス・キリストの贖いによって強制的に罪を犯す人生から解放され、自由になりました。罪を選ぶこともできるし、正義も選べます。憎しみも選べるし、赦しも選べます。
 神があなたを自由にした理由は、あなたに「正しいことを選びたい」という思いがあることをご存知だからです。あなたの本心である正しい良心を生かすために、自由を与えられました。肉(欲望)の働く機会とせず、愛をもって仕えるように…喜んで良いことをしようとする気持ちを行動に移せるよう、神は自由を与えてくださったことを、クリスチャンは悟らなければなりません。いろいろ誘惑があっても縛られていないのは、クリスチャンの救いです。神を信じていない人は縛られています。クリスチャンでも元に戻るのは、自由の中で欲望を満たしたいために、自分の意志で戻っているのです。誘惑をはねつける自由が与えられていることを悟らねば、同じ繰り返しをしてしまいます。

●09/01/02(金)聖潔を得るため(第1テサロニケ人への手紙4:7)
“神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。”
「きよさ」への憧れがないと、得たいとは思いません。神を信じ、敬虔さを持つ人は、きよさへの憧れがあるはずです。「そのようになりたい」という憧れはあっても、きよく生きることが絶望的なこの世の中では、求めようとしなくなります。神は私たちに聖潔を得させるため、イエス・キリストに出会わせ、信じる心を与えてくださいました。ですから、もっと「きよさ」に憧れ、得たいと努力することが必要です。そのために神のきよさを一心に求めて「直往邁進」の姿勢が必要です。
 今はまだ罪を犯す者だからこそ、きよさに憧れ、きよくありたいと願うのです。この願いを失ってはいけません。きよさを求める人生はクリスチャンの証です。

●09/01/03(土)祝福を受け継ぐ(第1ペテロの手紙3:9)
“悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。”
祝福=称賛を受けるにふさわしい状況にあること。
 私たちは価値ある良い存在として互いに称賛を与え合い、自分を保ち続けることが必要です。神の目から見ると、ひとり子イエス・キリストを犠牲にするほど、罪の裁きから救い出してでも手元においておきたいほど、あなたには良いものがあるということが、祝福の中にあるということです。神があなたをすばらしいと言っているのに、「どこがすばらしいのか。」と言ってしまうなら、神はお怒りになりますよ。
 完全な絶対者である神様が私たちを祝福してくださっているのに私たちが互いにけなしあっているのを神様が見られると、心が痛まれるはずです。だから「互いに愛し合いなさい」と言われるわけです。互いの良いところをほめ合うために存在していることが、祝福を受け継ぐことです。そうすれば意欲が湧き、前向きになり、前進していけるのではないでしょうか。この世の中は相手を引き下げていく競争社会ですが、神の国は互いを祝福し合い、成長し、勝利を得ていきます。
 私たちは神の国にあって祝福を受け継ぐ者としてここにいることを意識し、ぜひ良い言葉をかけ合っていきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年12月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   益者三友 えきしゃさんゆう  up 2008.12.21


交際してためになる三種の友人のこと。正直な人、誠実な人、博識な人のこと。人と付き合うにあたって、友人をどう選ぶかを述べた言葉。


わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
(ヨハネ15:15)


 

 

 この(ヨハネ15:15)は、イエス・キリストが弟子たちに語ったことばです。イエス様は、弟子たちを友と呼んでくださいました。友人というのは、自分の気持ちを打ち明けることのできる相手です。イエス様は父なる神様から聞いたことを、私たちに全部知らせてくださいました。
 救い主は、私たちの友としてこの地上に来てくださいました。しかし、受け入れるかどうかはあなたの自由です。
 友になろうと声をかけてくださる人に対して、私たちは吟味することが必要です。「益者三友」から、イエス様は自分にとって本当に友とすることのできるお方なのかを見ていきたいと思います。

1.敬虔な人生の二つのタイプ
(1)「マッチ売りの少女」タイプ
 マッチ売りの少女は両親と死に別れ、育ててくれた優しいおばあさんも亡くなり、マッチ売りの商人の元で働いていました。年末の寒い中マッチを売りに行くと、人につきとばされ、おばあさんの形見の靴が脱げた上に、それをみなしごの男の子に取られてしまい、はだしのまま売らなければならなくなりました。
何一つ良いことのない人生を、少女は耐えてきました。
 そんな中で少女がマッチを一本つけてみると、その炎の中に、幸せそうな家庭の幻が見えました。その幻には人の恨みなど一切ありません。これを、クリスチャンの前向きな姿勢と考えてみてはいかがでしょうか。
 神様を信じて真面目に素直に生きていくが、だれも相手にしてくれず、何も良いことが起こらないで、ただただ神様の前に正直に生きていくことだけが取り柄のクリスチャンの姿です。この灯は、心の中に思い浮かべる希望です。希望の灯をともす度に、すなわち聖書のおことばを聞く度に、いろんな前向きな神様の恵みを思い出しながら、心の中だけに希望を持つわけです。
 最後に火をともすと、優しかったおばあさんの幻が出てきます。なるべく長くおばあさんといたいと、ありったけのマッチに火をつけますが、その中でおあばあさんが「さあ、行きましょう。」と少女を天に連れて行く、という悲しい物語です。
 これは本当に真面目なクリスチャン人生の型です。しかし希望は死んで天国に行く、というだけで、そのためにどんな災いも神様を信じて耐え抜いていくのです。このようなクリスチャンは「マッチ売りの少女」タイプの人生を歩んでいると言えます。
 優しいおばあさんは救い主を象徴しています。イエス様は十字架にかかられ3日目によみがえり天に引き上げられました。イエス様は天におられるので、天を見上げ、イエス様が迎えに来られるか、自分が死んで天国に行くかを待つのです。つまり死を待つだけのクリスチャン生活です。神様を信じていない人から見たら、我慢して楽しみを1つもしないで、神様がおられるというだけを信じて死んでいくという、現代ではあまりなりたいとは思わない人生です。
 もう一つは足長おじさんタイプのクリスチャン人生があります。

2.足長おじさんタイプの救い主
(1)はっきり姿がみえない。
(2)将来のための確かな助けを必ず与える。
(3)手紙を書きつづけるという条件によって、築かれていく友の関係。
(4)生涯最高の『友』を得るという幸せをつかむ。

「足長おじさん」は、1900年代初頭に、アメリカの小説家が書いた有名な小説です。
 一人の孤児の少女の、小説家になりたいという夢を聞いた、一人の裕福な孤児院の評議員が、この子には将来があると才能を感じてその子に奨学金を出して援助していきます。その条件は、毎日必ず手紙を出すということでした。
 この足長おじさんは、絶対に自分の姿を少女の前に出しません。ある時その人の影を見たら、足が長く見えたので、「足長おじさんへ」と、手紙に書くようになります。
 この足長おじさんをイエス・キリストとして考えてみましょう。足長おじさんは少女に将来の希望を抱いて、彼女を支えていこうとしました。そこでコミュニケーションを図りながら、だんだんと心が育っていき、友情が生まれ、人間関係の成長が描かれています。すなわち、共に人生を歩むということです。
 物理的には同じところにはいませんでしたが、必要な時に必要な物をさっと与え、手紙という手段を通じて心を通い合わせました。
 イエス様は私たちの目の前には現れません。はっきり姿が見えません。2千年前にそういうお方がおられたという話を聞くだけで、本当かどうかわからないが、将来のための確かな助けを必ず与えてくださるお方です。
 手紙を書き続けるという条件によって築かれていく友の関係とはイエス様に対して祈ることによって、心の中を知ってもらい、コミュニケーションを取ることです。その中で、必要な時には助けを与えてくださいます。手紙を書き続けることで援助が受けられるように、私たちも祈りを続けることによって、イエス様の助けを受けることができます。
 そして、生涯最高の「友」を得るという幸せをつかむとは、最後に足長おじさんの正体がわかるのです。それは少女が休みの時にいつも行っていた農園にいた一人の男性が、足長おじさんであったということがわかり、ハッピーエンドで終わります。私たちにとってイエス・キリストは生涯最高の友となって下さるお方です。
 聖書では、イエス・キリストが人類のすべての罪を裁く最後の審判の時に再び来られることが、はっきりと語られています。
 私たちはその罪の裁きから救われることが必要でした。神様は私たちの永遠の将来に対する望みを見てくださり、救い主をお遣わしになり、あなたが受けなければならない裁きを、イエス・キリストが身代わりに十字架で受けてくださいました。
 このお方を友として受け入れるなら、この友がすべてあなたに必要なことをしてくださいます。罪の代償も払ってくださり、神の子として育っていくための必要を満たしてくださいます。
 苦しみの多い人生と、楽しみの多い人生のどちらがいいかではなく、大切なことは私たちが一社会人として自立することです。苦しみが多すぎて、悲観的に愚痴不平を言って生きることもできるでしょう。しかし、その苦しみを通して自分が磨かれることを悟ることのできた人は、良い人生を送ることができます。あなたの人生に対する捉え方で幸せになるか否かが決まります。
 そこで友というのは、あなたの人生に対して大きな支えとなり、助けてくれる存在です。考えに変化を与え、心に勇気を与えてくれるものです。イエス様は単なる友人ではなく、足長おじさんの役割を果たしてくださる友です。

3.益者三友の救い主イエス様
(1)「正直」(マタイによる福音書26:63〜64)
“しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。”
正直に語れば語るほどご自身にとって不利になるにもかかわらず、正直に、真実を語られるイエス様の姿。
 イエス様はねたみによって捕らえられた時、ご自身が神の子キリストであるということを、命をかけて正直に語られました。私たちは、命をかけてでも正直に語ることができるでしょうか。イエス様は正直で真実なお方です。

(2)「誠実」(ルカによる福音書23:34)
“そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。”
不当な苦しみを受けておられるにもかかわらず、人々の弱さを責めることをされずに、かえってとりなしておられる誠実なイエス様の姿。
 イエス様が裁判の後十字架につけられた時に、その苦しみの真っ直中でこの祈りをされました。どれだけ私たちに誠実な心を持っておられるかが、この死に際ではっきりと現されています。形だけや建前ではなく、本当に真心を持って祈られました。全世界の人々に対して、このように思っておられる誠実なお方です。

(3)「博識」(コロサイ人への手紙2:3)
“このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。”
パウロがイエス様を友としてともに歩む中で実感した、イエス様の知識の広さを証ししている。
 いろんなことを知っている人と話すと楽しいものです。パウロはイエス・キリストを友として歩む中でいろんな啓示を受けました。今まで律法の専門家として、人間の知性と最高の知恵をもって聖書を研究してきましたが、キリストを祈りの中で友とすることで、自分が今まで気づかなかったことを啓示され、悟らされることを多く体験したことを通して、このように表現しています。
 イエス様はあなたにいろいろな悟りを与えてくださる友です。しかし秩序をわきまえた友人関係です。

4.聖書における『友』とは、契約関係である(第1サムエル記18:3)
“ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ”
 真実な友だちとは、契約関係を結べる友です。契約とは約束を守り続けるためのしるしです。あなたが友として選ぶ人は、命をかけることのできる友でしょうか。契約を結ぶことのできる友でしょうか。
 イエス・キリストは、私たちを友として受け入れるために、ご自分のいのちをかけてくださいました。あなたの損失は全部わたしが受けましょう。ですから友として一緒に歩みましょう、という証が十字架なのです。イエス様の方から、契約を結ぼうと近づいてくださっているのです。
 一人一人が友の関係を結ぶようにと、お手本として神が人となってこの地上に来てくださり、私たちがどんなに至らない者であろうと、友として受け入れ続けてくださるという姿勢を表してくださいました。それほどのお方を友としなければ、大きな損失です。

5.神は、救い主を友としてお与えになった(ヨハネ3:16)
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
 このみことばを事実として受け止めるか、宗教の中の出来事として自分とは関係ないと受け止めるかは、皆さんの自由です。ただこれが歴史的に事実であるということは、間違いのないことです。もしこれが全世界の一人一人に対して本当に語られているものであるならば、どうでしょうか。
(1)ひとり子=かけがえのないもの、最も大切で価値ある存在。
(2)世を愛された=すべての人を友とする愛の現れ。
(3)滅びることなく=友のために命を与える覚悟。

 イエス様は、友の身代わりに自分を犠牲にして、友を生かすという覚悟を持って、私たちとの間に友達関係を結びたいと願われ、これを実現してくださいました。神がそれほどに私たちと共に歩みたいと思われているのなら、信じてみようというのが私の最初の気持ちでした。
 イエス様が友として信じるに価する方かどうか、あなた自身が確かめることです。正直に祈りの中で悩みを告白し、相談していく時に、悟りが与えられます。あなた自身がイエス様と心で触れ合い、どんな方であるのかを知ることが大切です。

 

 

 

 

 

  
■2008年12月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   軽率短慮 けいそつたんりょ  up 2008.12.14


決定や行動などが軽はずみで思慮が足らないさま


みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。
(箴言13:13)


 

 

 さて、今週のみことばをよく見ると、『みことば』と『命令』は同等のものと考えることができるのがわかります。
 今回の四字熟語「軽率短慮」は、下にある「さげすむ」ことを指しています。神のご命令をさげすみ、侮ることのないように気をつけて、学んでいきましょう。

1.『さげすむ』ことと『敬う』こと
『さげすむ』=みくだす、みさげる、軽蔑する、侮る。
 高ぶりと不従順の態度、重要さを感じない(←鈍感であり、何を言っても受け付けない)
『敬う』=喜ぶ、尊重する、重んじる。へりくだりと従順な姿勢。
 正しい良心からもたらされるもの(使徒23:1)
“パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。”
 上にあるのは裁判の場におけるパウロの言葉ですが、彼はあえて「良心」という単語を使っています。
「良心」という言葉は、すべての人の前に通じる正義と誠実の言葉です。それを使うということは、神の前に裏表なく忠実に生きてきたという弁明なのです。神を敬う人々はみなそうやって生きています。私利私欲からのものではないという証ですね。
 私たちも、正しい良心に従って、神の前に裏表のない人生を歩みたいものですね。

2.神様に対する軽率短慮な考え
 ノンクリスチャンの拒絶はわかりやすいものですが、クリスチャンの取る拒絶の態度やさげすみは、自分で気づかないことも多いものです。
以下に挙げた例から考えてみましょう。

(1)「神様、そうおっしゃいますが…」=私の気持ちがわかってない
 この考えは、さげすみが始まる兆候です。祈っている中で「みことばはそうかもしれないけど」と思う時、それは神より自分を上にする始まりです。
 みことばからの対応(ローマ人への手紙8:27)
“人間の心を探り窮める方は、…”
 本人さえ気づかないことも神はご存知である、という真実がそこにあります。神がおわかりにならないことはないし、むしろ自分自身の方が自分を知らないことが多いのです。

(2)神様は、私が通ったことを経験されたことがないから。
 神様は私の状態、状況をご存知ないから、という思いです。私は大変だった。または今大変なんだという考えです。本当に神様はご存知ないのでしょうか。おわかりにならないのでしょうか。
みことばからの応答(ヘブル人への手紙4:15)
“私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。”
 イエス様は人として来てくださった時、母の胎内に宿るところから、死に至るまですべての人の道を通られました。しかも、今の私たちには創造もできない不便さと極貧生活を味わってくださったのです。さらに、公生涯においては、数々の奇跡と癒しに対してほめられるどころか、迫害され、人々の罵声と虐待、弟子たちの逃亡による孤独など、善に対しての悪の報いは想像を絶するものでした。
確かに、あなたの苦しみはあなた自身にしかわからないものかもしれません。しかし、イエス様はそれ以上の苦しみ悩みを受けられ、罪に対する神の裁きさえ体験されました。この方に匹敵する者はいません。ゆえに、あなたの苦しみを、深い同情をもって受け止めることがおできになります。

(3)神様は弱さを知らない方だから、出来ない人の辛さがわからない
 ゲッセマネでの祈りに、イエス様の弱さを見ることができます。
 汚れた者の罪を全部自分が負い、神様から見捨てられること。これはイエス様にとって耐え難い苦しみでした。さらに、弱いところのないはずの神が、その弱さを表すことの恥と傷つきを見せたのです。
 血のような汗が流れたのは、魂の奥底からの呻きがさせたことです。普通の状態ではありえませんし、意識して集中したからといってできることでもありません。
よく考えてみましょう。あなたの言う弱さは、そこまでの苦しみを伴う弱さでしょうか。
みことばからの応答(第2コリント人への手紙13:4)
“確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。”

3.みことばは『命令』でもある
 『命令』は生きるための定めであり、人としての基本的法則といえます。それを守らないなら、もはや人として生きているとは言えないでしょう。
 また、本当は『令』には報いがあります。最後の裁きがあると、聖書には明言されています。ですから、今の状態での損得ではなく本当の報いのために、正しい良心を働かせて生きていきましょう。
できるか否かではなく、「そうしなさい」と言われることを素直に実行するのが「うやまう」状態です。

●12/15(月)『忙しい』に対する命令(ルカによる福音書10:42)
“しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。”
 「今、この瞬間」に大事なこと、最優先事項は何でしょうか。 「神を愛し、隣り人を愛する」ことを、基本として考えてみましょう。各々選ぶ内容は違っても、それぞれのベストな選択ができるはずです。

●12/16(火)『不景気』に対する命令(第1テサロニケ人への手紙4:11)
“また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。”
 収入や職場の環境などにかかわらず、落ち着いた生活を保ち続けるにはどうしたら良いのでしょうか。みなで心を合わせ、神様に頼り祈って、正しい良心にあって自分のできるベストを選んでください。

●12/17(水)『いらいら』に対する命令(エレミヤ書31:17)
“あなたの将来には望みがある。−主の御告げ。−あなたの子らは自分の国に帰って来る。”
 今をいらいらしながら過ごすより、将来(希望)がある、と大局を見てじっくりと計画を練ってみましょう。人生は山あり谷ありです。

●12/18(木)『嫌気』に対する命令(ローマ人への手紙8:28)
“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”
 失敗を多く重ねてきた人ほど、物事を嫌になりやすいものです。 しかし神様からご覧になれば、結果がどうであろうと、人から見て失敗であろうと、全部成功であると判断していただけるのです。
 神様よりも人の評価や自分の感覚を重んじたら、それは傲慢ではないでしょうか。神様が良いと言ってくださるのなら、他の評価などどうでもいいではありませんか。神様の絶対評価があれば、安心して次にチャレンジしていけます。
「失敗は成功の母」ですから、すべてを益にしてくださる神様を信じていけば、必ず良い結果になるのです。

●12/19(金)『不安』に対する命令(ダニエル書10:19)
“「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」”
 「神に愛されている私」であることを肝に銘じてください。その「私」を神は必ず助けてくださるからこそ、このみことばが与えられているのです。何度もみことばを告白してください。これは暗示ではなく、事実の確認です。そして、みことばをくださった神様のお心を考えてみましょう。

●12/20(土)『欲求』に対する命令(第1テモテへの手紙5:21)
“私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行ないなさい。”
 「欲求」に支配される前に、急いで正しい良心を働かせてください。いろんな立場、角度から自分の考えを観察してみましょう。 「欲求」が暴走して「貪欲」になってしまうと止められません。何らかの結末を迎えるまでは、暴走し続けるのです。
そしてストレスを爆発させるか、神の前に自分を砕くか、神ご自身に懲らしめられるか、が待っているでしょう。
早い内に自制を働かせることが大事です。

 今日はこれ、明日はこれ、というやり方でなくても、皆さん一人一人の内にチャレンジしてみたいみことばをぜひ、正しい良心を持って実行してみてください。

 

 

 

 

 

  
■2008年12月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   倣岸無礼 ごうがんぶれい  up 2008.12.7


おごり高ぶって、礼儀に外れているようす。


高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。
(箴言13:10)


 

 

 今週は、「高ぶりはただ争いを生じる」ということをポイントとして、お勧めをさせていただきます。
 争いの一つの原因となるのが「高ぶり」であると、そのように意味を捉えるわけですが、もちろん「高ぶり」だけが争いの原因ではありません。しかし、争いの原因として多くを占めるということで箴言に載せられているのでしょう。
 このことを心に留めて、自分自身をよく吟味しながら、争いをなくすために「高ぶり」をどうコントロールすることが必要なのか、という点も踏まえて考えていきたいと思います。
 そこで、「傲岸無礼」という四字熟語は「高ぶり」のことを言うわけですが、案外無意識の内にやっているかも知れません。そういう点に気をつけながら、できるだけ争いの少ない一週間を過ごしていただけたらと願います。

1.『高ぶり』が持つ3つの特徴
(1)人を汚す。(マルコによる福音書7:21〜23)
“内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。”
 自分を高く置いて周りを低くするという上下の差を、心の中や価値観において持つことが「高ぶり」であり、人を汚す原因の一つとしてあげられています。「汚す」とは、不健全な状態に物事を追いやっていくことを言います。
 ですから、「高ぶり」を持った人があるグループの中に入ってくると、そのグループは最初は平安であったのに、その人が来たために何か雰囲気が変わってしまい、そのグループから、一人、二人と去っていく…というような状態が起こります。それはなぜかというと、良い交わりが汚されて、不健全な状態になってしまうということなのです。
 教会も健全な状態であれば、人々は安心して来られるし、喜んで集まって来るわけですが、汚されるような何かが交わりの中に起こってくると、人々が次第に離れて行き、全体として規模が縮小されていくという現象が起こります。
 「高ぶり」を持っている人自体、罪を持っている汚れた者であると言えるのですが、その人が、自分だけで汚れを留めることができず、まわりの人をも汚してしまうことが特に問題です。
 本人は自慢するつもりはなくても、自慢しているような話し方の人がいて、それも一言二言では終わらず、数十分も繰り返し話をされると、安心して聞くことができなくなります。
 良い証を聞いて励まされるのはいいのですが、また同じように言い始めると、だんだん励まされた気持ちが低くなってきて、「わかってるよ」というような気持ちになってきます。それが汚されてきた状態です。そこに本人は気づいていない「高ぶり」が潜んでいる可能性があるのです。
 しかし、無意識の内に高ぶった行動や言葉の出てくることの多い私たちです。汚されることのないために「人のした悪を思わず〜」(第1コリント人への手紙13章の“愛は〜”という中に)とあります。
人のした悪をいろいろと考えるから、私たちは心が騒ぐのです。
人のした悪に対して無視はしませんけれど、「思わず」ですから、高ぶりという感じに受け止められるけど、高ぶっている人ではないんだと受け止めれば、言っている本人が傲慢な人であっても、私たちは汚されないということです。
 そのようにして、出来る限り悪影響を受けないように、人のした悪にこだわらないように、神様の前に前向きに捉えていくことが、自分自身の心を健全に保つための秘訣であり、愛の行動ということですね。チャレンジしていただいたら良いと思います。

(2)神の知識に逆らう。(第2コリント人への手紙10:5)
“私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、”
 私たちは悪に対して、また闇の力に対して、更に悪霊やサタンに対して、逆らうことが必要です。逆らうこと自体は罪ではありません。何に逆らうかで、罪であるかないかが決まるのです。逆らう対象者をしっかりと見分けていくことが必要です。
「高ぶり」というのは、神の知識に逆らうということが大きな特徴であると言えると思います。
 みことばについても、意味を知りたいという理由で疑問を持つことは、とても良いことです。
 例えば旧約聖書の中には、神は「聖絶せよ」「乳飲み子にいたるまですべて殺せ」と語られている箇所があります。新約聖書から見れば信じられないことばですよね。神はあわれみ深い神、ゆるしの神と書いてあるのに、旧約聖書ではこのようにおっしゃっているのは一体どういうことだろうか?」とそのような疑問を持つことは良いことです。しかし、自分の思い通りにならないという理由からの疑問には気をつけましょう。
 どういうことかと言いますと、同じみことばを読んでも「殺せ」と言われる神様のことばにこだわって、そういう一面を持っている神様は嫌いだと、すなわち、自分の思い通りの理想の神様概念を持っている人が、それに合わせようと聖書の神様を捉えていく時に、自分の思いと違う部分が出た時に不信感を持ってしまいます。
「キリストの愛は所詮ここまでよ。私の考えているのはもっと崇高な、もっと大きな愛の神様だ。」というふうに考えていく人。こういう意味での疑問を持ち、つまずく人は「高ぶり」が内にあるという意味なのです。その違いをよく考えて、聖書のみことばに対しての疑問、質問を持つその持ち方をよく吟味しなければなりません。
 神様を自分の考えに合わせさせようと、神をコントロールするような立場になれば、それは「高ぶり」の領域に入っていくのだということです。

(3)むなしい誇りを支えとしている。(ヤコブの手紙4:13〜17)
 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」
 神様はここで、将来のことを考えてはいけないと言われているのではありません。考えてもいいけど、大事なことはそれが「むなしい誇り」から出た発言かどうかということなのです。いったい「むなしい誇り」とは何なのでしょうか?
 このヒントとなるのが「明日のことはわからないのです。」または「あなたがたのいのちはいったいどのようなものですか?」「あなたがたは〜霧にすぎません。」というところの意味です。
 神様の存在は認めるけれど、神様とは別に私は自分でちゃんと生きているんだという思い、これは「むなしい誇り」すなわち「実体のない」という意味です。
 真実が存在するにもかかわらず、真実と違うことを考え出して、それを自分の考えの支えとしていること。これを「むなしい誇り」と言うのです。
 案外私たちは気づかないで、このようなことをしているかも知れません。深く神様の御教えを読みとることをせずに、安易に自分の悟りだけで、ああだこうだと神様のみことばを解釈して得意げになっているということもあるかもしれないですね。これを「むなしい誇り」と言い、勘違いしていることと同じです。
 私たちは神様よりも先に生まれた者ではありませんし、私たちは神様を造った覚えもありません。全部逆です。神様は私たちよりも先に存在し、神様が私たちをお造りになりました。神様なくして私たちの存在はあり得ないのです。
 神様を無視した将来に対する考え方、それは「高ぶり」がそこにありますよ、ということです。
 すなわち、神様にコントロールされた人生は嫌だ、ということです。支配されたくない、認めたくない、そのような「高ぶり」の種が、自分の無意識の部分にないかをよく吟味しておかなければ、素直に神様の教えを聞くことが難しくなります。
「高ぶり」の種が、あなたの耳から入ってくる言葉に全部影響を与えます。それは神様よりも上の立場からそれを聞くからです。その辺をよく吟味しなければいけませんね。

 聖書をしっかりと読むために、ぜひ皆さんに身に着けていただきたいことは、聖書全体を通して神は何を言わんとしておられるのかをつかむ、という方向性を持って読んでいくということです。
 その結果、ある人は聖書全体に(神は善き神)というメッセージを受け取り、(神は善き神)という視点から聖書を読んでいくようになります。そうすると「殺せ、殺せ」と書いてあるけれど(神は善き神)なのだから、この時神は何をどのように感じられたのだろうという、そのような読み方が始まるわけです。神の言わんとされているメッセージをそこから引き出すことができるのです。
単に文法的、言葉的に考えていたら、右にも左にも、上にも下にも考えられます。だからいろんな神学が出てきてしまうわけです。
 イエス様がすべての人々に語られた神のメッセージは、「主なるあなたの神を愛しなさい」「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」という2つの戒めに旧約聖書はまとめられるということでした。では、あなたは新約聖書に関してはどのように捉えているでしょうか。

2.高ぶることのないために(第1テモテへの手紙6:6〜11)
“しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。
 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。
 ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。”

(1)満ち足りる心を伴う敬虔な生活。

(2)自分の意志によって存在しているのではない。

(3)衣食があれば、それで満足すべき。

(4)『金銭を愛(優先)する』ことに気をつける。

(5)『神の人よ』という自覚を失わない。

(6)正しい良心を築き上げるために、熱心に求めるべき6つのもの。
 
 まず何を求めたらいいのか、何をしたらいいのかと思うのなら、この(第1テモテ6:6〜11)を求めて下さい。これらを求めながら実際生活に入っていくと、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めざるを得ない状況が与えられ、そこで練られ聖められていきます。これらのポイントを黙想しチャレンジしていきましょう。
 
 

 

 

 

 

  
■2008年11月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   揚清激濁 ようせいげきだく  up 2008.11.30


清らかな水を溢れさせて、濁った水を砕きさえぎることから、善を賞でたたえ、悪を除くこと。


どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
(ローマ15:13)


 

 

 前回お話ししたことですが、口は、心に満ちているものを話します。そして、口から出る言葉は人生を左右します。では、「すべての喜びと平和」が心を満たしていたなら、どんなにすばらしいでしょうか。私たちもぜひ、希望に満たされた一週間を送ろうではありませんか。
「揚清激濁」とは、きよらかな水を溢れさせる工夫と、汚水を取り去る努力を指し、転じて善に対する労苦に励ましとしての賞を与えてたたえ、次の善に向かうための力を増し加えることを表しています。
 神から与えられる純粋なもの(平和と喜びと望み)を心に留め、この世の汚れたものに侵されないように、良いものを心に満たしていきましょう。

1.(ローマ人への手紙15:13)を考える
“どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。”
 望みの神→神は望み(明るい希望)に満ちた方です。永遠のご計画とその実現をパワフルに進められます。
 信仰による→救い主がいなければ、自分たちは神様から何も受けられなかったことをわきまえているのが、敬虔な心といえます。
 すべての喜びと平和→これを知らないと言われる方はぜひ神様に求めてください。必ず教えていただけます。神のご実在と、それによる完全なる安心と保証を。また愛されていることの確信を。
イエス・キリストという特効薬を用いて、不治の病(罪)であった私たちを癒すという、熱烈な愛を注いでくださったことの意味を。
聖霊の力によって→イエス様のおかげで、尊敬と期待を集めるにふさわしい方、聖霊様と一緒に暮らすことができます。
 神は、わたしたちの信仰によって、心(精神)に喜びと平和を満たされ、正しい良心のうちに宿らされた聖霊によって、望みに溢れさせてくださる。

2.生活への適用
(1)肉の欲、目の欲、所有欲(支配欲)にきよめられた正しい良心が汚されないために、神様が与えてくださる喜びと平和と望みを受け入れる。
 肉の欲、目の欲、所有欲(支配欲)を完全否定するわけではありません。しかし、度が過ぎれば貪欲になります。それに注意してください。

(2)それは、キリストの死と葬りと復活の福音が悟らされることによってもたらされる喜びと平和と望みである。
 イエス様(救い主)のおかげだと心の底から納得して、初めて喜びと平和と望みが湧いてきます。皆さんもご自身で求め続けてください。

(3)福音を通してきよめられていく人生を、この世の濁った敬虔(不敬虔)から影響されないように、正しい良心を持って善悪を見分ける。
 この世界でいう敬虔は、神の前には全く意味のないものであり、不敬虔です。感情、人生経験などはこの世の基準に過ぎません。正しい良心をしっかりと見つめてください。

(4)善悪を見分けるために、正しい良心のうちに宿られる聖霊様の御声ある神様のみことばを悟るためにしっかりと反芻する。
 反芻するとは、食べたみことばをもう一度思い起こして、色々考えてみることです。時間が経てば人の心は変わり、捉え方や状況も変わります。気づいたところも違うかもしれません。何度も反芻してみてください。

(5)今週のデボーションである箴言からのみことばを実践する。
 6つみことばがありますが、一生懸命やってみて、ただ一つでも身になるなら幸いですね。

●12/01(月)(箴言13:5)
“正しい者は偽りのことばを憎む。悪者は悪臭を放ちながら恥ずべきふるまいをする。”
 自分の思い通りにしたい気持ちも、「偽りのことばを憎む」ので注意が必要です。自分の立場や身分をわきまえず相手に指図するなら、行動自体は正しくても心の部分が正しくありません。支配欲が根っこにあるからです。
 自分の基準に合わない相手に意見したい時、神の前に自分の心をさらけ出して、是か非かを尋ねてください。いらない問題を起こさないためです。
 また、自分の現実は罪人であって、イエス様の犠牲のゆえに義の衣を着させていただいていることを忘れないでください。神様は義の衣のゆえに罪なき者と見てくださっていますが、人の罪に気づく自分も、実は罪の悪臭を知らず知らず放っている可能性が常にあるのです。
 神は人に愚かさや弱さを残されました。ルシファーと同じ、高慢という失敗を犯さないためです。人は自分の弱さを知っているから他の人に同情したり、親切になれるのです。イエス様ご自身も、人の弱さを知るために、この世に降りてくださいました。

●12/02(火)(箴言13:6)
“正義は潔白な生き方を保ち、悪は罪人を滅ぼす。”
 正義は正しい良心の基準です。しかし、この世の不敬虔な人々からくる、いろいろな好ましい事柄が心を濁らせます。
 この汚れに打ち勝つためにみことばを告白しましょう。みことばの告白を重ねていくことにより、必ず心に
良い効果をもたらします。

●12/03(水)(箴言13:9)
“正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。”
 良い言葉を心に持つ人は、ノンクリスチャンでも輝いています。ならば神のことばを持つ人は、胸にある希望のゆえに更に輝くでしょう。
 ことばは霊であり、生き物ですから、聖霊様によって胸によみがえる時、私たちの内に力をもたらすのです。

●12/04(木)(箴言13:17)
“悪い使者はわざわいに陥り、忠実な使者は人をいやす。”
正しい良心の願いは「善をしたい」です。しかし現実には目の欲、肉の欲、持ち物の誇りをかなえるために、あくせく働いていることが多いものです。すると心の中は混乱し、ストレスが溜まってきます。本来の希望である「善をしたい」願いを実現出来ればノイローゼなど起こりえません。
 黙想してみてください。正しい良心をしっかりと保ち続けないと心がバランスを取るのに苦労します。世の中の人は正しい良心を眠らせてしまって、欲望のままに生きるので苦しくはありませんが、悩んだり苦労することは、心が鍛えられた強くなるために必要なことです。苦しくてくじけそうな人は、正しい良心が強められるように願ってください。

●12/05(金)(箴言13:22)
“善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。”
 良いものを子孫に受け継がせたいという気持ちは、神の愛に基づいた正しい良心からのものです。神様は、罪人の財宝さえ無駄にされません。正しい良心から出た思いを、自己中心によって濁さないために、神様が私たちをいつもほめてくださっていることに、心を向けましょう。その証拠が、助け主として私たちのうちにおられる聖霊様です。

●12/06(土)(箴言13:25)
“正しい者は食べてその食欲を満たし、悪者は腹をすかせる。”
 自分のからだを愛し、正しい良心による自制をもって食生活を満たすのが、正しい者です。貪欲は悪者のしるし。何を食べても満足して終わりません。
 デボーションのポイントをよく読んでチャレンジしてみてください。心の奥底に支えとなるみことばがきっと見つかります。

 

 

 

 

 

  
■2008年11月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   苦心惨憺 くしんさんたん  up 2008.11.23


心をくだいて非常な苦労を重ね、工夫をこらすこと。


なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。
(箴言13:4)


 

 

 勤勉さとなまけ者の違いは、満たされるか、何も得られないかです。勤勉な人は自分の自己中心、なまけ心を砕いて、苦労して様々な労苦を重ねて、心の内の願いを実現していきます。

1.(箴言13:4)の解釈
“なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。”
「心が満たされる→心が肥え太っていく」と言い表しています。
 今日は、私たちの願いは労苦をしないと手に入れられないということから、願いも選び分けないとならないということを学んでいきます。

2.願いを選び分ける
(1)神からの願い(ピリピ2:13)
 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を 行なわせてくださるのです。
(2)誘惑による願い(ヤコブ1:14)
 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
(3)正しい良心によって選び分ける(第1テモテ1:19)
 ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。
 
 正しい良心の内に、神はご自身の思いを入れて下さっています。それはボランティア活動、慈善、親切等の愛の行動をしたいという願いです。しかし、その神からの願いを妨げるもう一つの願いがあります。それが(2)の誘惑による願いです。誘惑による願いには、必ず誘惑してくる存在者がいます。それは人であっても、見えない存在であっても、私たちの欲望に声をかけて引っ張っていく働きかけをします。
 この(1)と(2)が私たちの心の内にあります。同じ願いでも明らかに違うものです。(2)は欲望を満たしたいという願いであり、(1)はもっといいことをしたいという願いです。
 どちらの願いもなまけ者は実現しません。というのは、どちらの願いであっても、私たちが応えていかなければ、決して満たされないからです。
 (3)に、自分の内にある願いが(1)であるか(2)であるかを、正しい良心によって選び分けることの大切さが書いてあります。
 もし、神のために良いことをしたいという(1)の願いを選ばず、(2)の誘惑による願いを選んでいくなら、その人の信仰生活は破綻してしまい、道を外してしまうことになります。
 その具体的な例を聖書から見ていきましょう。

3.アダムとエバの教訓から(創世記3:4〜6)
“そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。”
 まず、神は園の中央に、善悪の知識の木を置かれました。他の木の実はどれでも食べて良かったのに、この木の実だけ食べてはいけないと言われたのです。

(1)「食べるな」という理由は、神のみしか食べられない、アダムとエバにはダメという意味で禁じられたのでしょうか。
 神様はどんな方でしょうか?神様のご性質を考える時、単に二人にはやらないという理由のみであったら、神は善悪の木を造られることはなかったのではないでしょうか。
 いずれ二人が食べることができるものとして、この善悪の知識の木を造られ、今は食べてはいけないという意味で、禁じられたのではないでしょうか。私はそのように考えます。
 いずれ食べられる時がやってくるからこそ、食べてはいけない木をわざわざ園の中央に置かれたのではないでしょうか。それは彼らに興味を持たせ、願いを起こさせるためだったのではないでしょうか。彼らにまず「善悪を知る木」がある、ということに興味を抱かせ、食べたいけれど今はその時ではないと忍耐して待つ時間を与えられたのではないでしょうか。
 この木は時間をかけ、体験を積まなければ、食べられないものだったのでしょう。未経験なことをみことばで語られても、それは単に知識に留まってしまいます。しかし経験を積んでみことばを聞くなら、それは悟りとなって身に付くのです。この一週間の出来事を通して、あなたはそれを体験できます。
 アダムとエバが誘惑によって食べてしまった、善悪を知る木の実を、人類は後々今に至るまで、様々な経験を通して、今なお食べ続けていると言えるでしょう。様々な失敗を通して、何が善で何が悪であるかを見分けることができるように、人類の歴史は続いています。
 つまり、私たちは歴史から、何が人にとって本当に善であり、悪であるかを悟ることができるのです。聖書を通して歴史を見る時、多くの教訓を得ることができます。

(2)今は食べてはいけないという時に、誘惑による「今食べたい」という願いが起きてきます。同じ食べたいという願いでも、誘惑による願いは、「時をわきまえない」という違いが出てきます。「ルールを破って願いをかなえさせる」これが誘惑による願いです。
 神からの願いは苦心惨憺によって満たされます。もしアダムとエバが、どうしたら善悪を知る木の実を食べられるようになるかを神にきいていたら、神はその条件を教えてくださっていたでしょう。
 その方法、条件をクリアしていくことが、『苦心惨憺』です。そのためには考えて、苦労していくことが必要になってきます。まさにそのことを神は願われて、ルールを作られたはずです。
そう考えると、みことばの様々な約束があっても、祈ってすぐにはかなえられない理由がわかってくるはずです。応えられる時があるのです。苦心惨憺して食べるなら死ぬことはありませんが、誘惑によってすぐに食べるなら、神の子としての心が死んでしまいます。
 正しい良心を捨てて別の欲望に従うなら、神の子としての良心が麻痺し、信仰の破船にあってしまいます。

(3)神はこの出来事から、『苦心惨憺』の必要性を啓示しておられます。
 この1〜3を踏まえて、伝道者の書から6つのポイントを選びました。それは労苦することの幸いを示している箇所です。

●11/24(月)(伝道者の書1:13)
“私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。”
 神が与えたつらい仕事とは、神が与えられたご計画であるということです。人生で起こる様々な出来事に真理を求めて追求していくということは、神が私たちに与えられた、つらい、悩む仕事です。
 人生に悩むということは大切なことです。この悩みから逃げ、快楽の方に走り、お金ですべての願いを満たそうとする人々の人生観は浅く、道徳観も低下し、私たちの考える社会常識も理解できず、いつまで経っても、年をとっても、精神的に未熟なままです。
 人生を悩み、苦心惨憺することは仕事であって、悩んだ分報酬を得られます。そこに心の成長、豊かさが生み出されます。
 ただ悩むだけでなく苦心惨憺して、いかにうまくできるかを工夫して乗り越えていきましょう。楽していく人をうらやむ必要はありません。

●11/25(火)(伝道者の書2:24)
“人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。”
 食べたり飲んだりすることが人生の最高のことだというのではありません。自分の労苦に満足することが大切です。
 労苦には犠牲が伴っています。あなたが犠牲を払うところに価値があります。払った犠牲に対して報いが返ってきて、それに感謝することが、人にとって最も良いことなのです。
 犠牲に対して正しく報われることほど嬉しいことはありません。ただ小遣いとしてもらった一万円よりも、アルバイトをしてもらった一万円の方が、価値を感じないでしょうか。それは単なる一万円ではありません。それゆえに大切に使います。また、小遣いとしてもらったとしても、下さった人の犠牲を考えるなら、やはり安易には使えないでしょう。このように犠牲を払うことによってもたらされる報いに満足することが、人生にとって良いことです。
労苦することによる喜びをしっかりつかみましょう。

●11/26(水)(伝道者の書3:13)
“また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。”
 労苦の中にしあわせを見いだすというのは、思いがけない、驚くようなプレゼントをもらうようなものです。そのことを信じて、苦心惨憺していきましょう。人生の労苦の多い人ほど、すばらしいしあわせがその中に包まれています。ですから、苦心惨憺して、その包装を解いていきましょう。

●11/27(木)(伝道者の書4:9)
“ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。”
 チームワークが大切です。お互いを認め合い、生かし合うその労苦が、良い報いを受けます。スポーツでも、このチームワークの良さがわかる時、その喜びは勝ち負け以上の報いをもたらします。

●11/28(金)(伝道者の書5:18)
“見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。”
 私たちは他の人の分を受けることはできません。人各々に受ける分があります。その自分の受ける分を悟り、へりくだって受け入れていくことが大切です。

●11/29(土)(伝道者の書1:13)
“実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。”
 楽しみとは、自分の労苦を喜ぶことです。楽をしないことです。神が労苦を与えられるのは、それによってその人が練られるためで何一つ無駄な労苦はないのです。報いを信じて、すべての労苦を神にあって喜んでいきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年11月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   言行一致 げんこういっち  up 2008.11.16


言っていることと、行なっていることが一致していること。


人はその口の実によって良いものを食べ、裏切り者は暴虐を食べる。自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。
(箴言13:2〜3)


 

 

 今週は(箴言13:2〜3)を通して、私たちの信仰生活が言行一致の生活となるように見ていきたいと思います。

1.2つの言行一致の生活(箴言13:2)
“人はその口の実によって良いものを食べ、裏切り者は暴虐を食べる。”

(1)口の実を食べる(ヘブル人への手紙13:15)
“ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。”
 このみことばから一般的に、賛美とは歌を歌うこと、くちびるの果実は神をたたえることと理解されています。今日も礼拝で賛美をささげました。それは御名をたたえるくちびるの果実を神にささげた、ということになります。しかし、このくちびるの果実とは果たして告白だけだろうかということに、更に心を向けていただきたいと思います。
食べる=生きること。生活。楽しみ。賛美=ほめたたえることば。
いけにえ=神の前に生きる生活。
神をほめたたえているにふさわしい生活をしているだろうか? 
 果実とは実のあるもの、形あるものです。単に告白だけでは終わらないものです。聖書では、告白は行動と一緒であると捉えています。告白とは行動に移すための第一歩です。くちびるの実の果実とは、告白通りの行いであると考えることができます。だから、行いのない言葉というのはただ発しただけで、本当の意味での告白にはなりません。
 これらのことから考えると、「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実」とは、神をたたえている者にふさわしい果実、告白の行動と言えます。「いけにえ」とは、神の前にささげるということです。あなたの生活が神の前で営まれているというのが、いけにえなのです。あなたの人生は神の前にあるささげものなのです。その生活は賛美の生活です。礼拝で私たちがささげた賛美に、ふさわしい生活をしているかどうかです。
 あなたの生活のどのような行動に「主はすばらしい!」という言葉の実が実っているでしょうか。それが神へのいけにえ、ささげものなのです。あなたが歌っている賛美にふさわしい生活の実、行動が現れていれば、それは言行一致です。言葉と行いが一致している人は、その実を食べる、すなわちその行動によって実を刈り取ります。
 例えば、感謝できないことを感謝していけば、その実を刈り取ります。心が大らかになり、感謝の心にあふれ、今まで否定的に見ていたことも、違う角度から見ると感謝に思えるようになります。このような生活が、言行一致の生活です。
 私たちの生活が主をほめたたえているというなら、その言葉の実を刈り取っていく生活をしましょう。礼拝だけが賛美の時間ではありません。その告白が私生活に帰った時に実っていくかどうかが、この一週間の大事なポイントです。

(2)暴虐を食べる
 言行一致のもう一つの側面です。暴虐とはむごく苦しめることです。それを食べるとは、「むごく苦しめることを食物として生きている人」です。
例)嫉妬やねたみ、自己義の主張など、自分の思い通りにならないことを動機とした不平不満の言葉を告白すると、言いふらすという行動が伴う。
心が満足するまでその行動は続く。
不平不満を抱くことは、その原因となる人を批判することになる。
言いふらすことは、人をむごく苦しめることである。
 不平不満の動機は、自分の思い通りにならないということです。その動機でマイナスの言葉を告白すると、それは自分だけではとどめられなくなります。
 例えば、人と比べて自分は劣っていると、自分に不満を持っている人は、いろんなものに八つ当たりしていきます。その不満を何とかして発散しようとします。これも言いふらす行動の一つです。
 他の人に不満を持つとどうでしょう。例えば誰かにある不満を抱くとします。初めは正しい良心で抑えていますが、ぽろっと誰かに言い始めると、一人では治まらなくなり、なんとかして他の人も不満の仲間に入れようとしていきます。これも言行一致です。
 それは暴虐を食べる、すなわち不満を持っている相手を苦しめていくことが喜びとなり、それで自分が安心するという食事の材料になるのです。
 言いふらされて一番苦しむのは、言いふらされた人自身です。たとえ事実であっても、心はとても痛みます。それは人をむごたらしく苦しめる行動です。そのことを通して心に平安を得ようとすることが、暴虐を食べることです。それを楽しみ、生活の一部としてしまっているのです。
 罪の力がどのように働きかけてくるか、気をつけていないと、いつの間にか人の苦しみを見ながら自分を満足させている可能性があります。このようなマイナス的な言葉は、絶対に言行一致であってはなりません。

(3)言行一致が良いとは限らない。(マタイの福音書21:28〜31)
 “ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。”
 これはイエス様が、パリサイ人や律法学者たちに、行いが伴っていないと教えるための例話です。しかし大事なことは、罪人と言われていた取税人や遊女たちも言行一致の生活をしていないけれど、彼らの方が先に神の国に入ると言われているのです。これはとてもおもしろいイエス様の知恵です。
「行きます」と言って行かなかった兄と、「行かない」と言って行った弟。これは、言行一致がすべて良いとは限らないということです。
 良い言葉に対する行動の一致は良い実を食べますが、悪い言葉に対する行動の一致は悪い実を食べます。言行一致は必ず実を食べるようになり、それが楽しみとなります。
 人の批判をし続ける人は、それがまるで食事のように楽しみとなり、誰かの批判を言わないと気が済まなくなってきます。
 不満をいろんなものに持つ人は、まるで暴虐を食べるようです。1つの不満が解決すると、次の不満を見つけ出していきます。
 正しい良心から、批判する心を測ればわかります。正しい批判はその人が気づくための注意ですが、本人が気づいているのに更に批判し続けるのは、暴虐を食べる生活です。神を畏れる心から見るとわかるはずですが、そういう人は認めようとしません。
 暴虐の実を食べないようにしましょう。正しい良心から見て、心を入れ替えていきましょう。神を賛美する者にふさわしい生活をしていきましょう。

2.口を見張る(箴言13:3)
“自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。”
見張りは安全のためにです。口を見張るとは、一般的には言葉に気をつけることです。しかし、なかなか難しいことです。言葉の原理があります。

(1)告白の原理(ルカの福音書6:45)
“良い人は良い倉から良い物を出し、悪い人は悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。”
 憎しみを持っていても良いことを言う人は、心に悪だくみがあります。私たちの心に満ちていることを、口が語るのです。どんなに美しい言葉を語っていてもその動機が憎しみなら、それは陥れるため、滅ぼすためです。
 何が心を満たしているかを知らなければ、本当の意味で口を見張ることはできないのです。どのような感情で満たされているかで、それに伴った言葉が出てきます。
 あなたが「知・情・意」に意識をいつも置いて、それを自分だと思っていたら、心が安定しません。矛盾しているからです。あなたの心を治めることができるのは、新しく生まれ変わった正しい良心だけです。そこに聖霊が宿られています。聖霊の力に助けられて、自分の精神をコントロールすることができます。
 感情が怒りで満ちていても、正しい良心に隣人を愛する愛が満ちていたら、正しい良心に意識を置いている以上、怒りの感情を抑えることができます。しかし感情に意識を置いていると、抑えることができません。どこに意識を置いているのか、自覚の問題です。
 正しい良心に意識を置くことを習慣づけるなら、自分の心を制御することができます。正しい良心で意志を働かせないと、くじけてしまいます。
 このように心の原理を見つけ出していくと、だんだんと、復讐心で満たされていく心と、神の赦しの愛で満たされている心と、二つの心を感じるようになります。そこで選ばないといけません。良い倉から取り出した人は、良い人となるのです。しかし悪い倉から取り出したら、悪い人に変わるのです。あなたがどちらの倉から出すか、選び取るようにされました。それは神への信頼を強めるための負荷なのです。
 告白の原理は、どちらの倉から言葉を出すかで決まるということを心に留めて、あなたの心に満たされているものをよく考えてください。イエス様を信じた人は、間違いなく正しい良心の内に良い物が詰まっています。しかし、古き人の自己中心や欲求の心もなくなってはいないのです。
 神様は、良い人になりたければ、良い倉から良い物を出しなさいと言われています。不平不満があっても、悪い倉から取り出さないようにしましょう。正しい良心の内には、神様の愛と感謝の心が満たされているのですから。
 どちらを選ぶか、正しい良心に意識を置くように、しっかりと時間を取りましょう。

(2)いのちに至る言行一致のために
 これらは、正しい良心にどのようなものが満ちているのか、参考になるみことばです。
(第1コリント人への手紙12:3)
“ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。”
 あなたの正しい良心には聖霊が満ちておられるので、心から「イエスは主です」と告白できるように造りかえられているのです。しかし肉の心をとってしまうと悪い思いがよぎってしまうことがあるのです。だから私は聖霊に満たされた正しい良心が与えられているということを悟って下さい。

(第2コリント人への手紙2:17)
“私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。”
これは神を敬う敬虔な心が正しい良心に満ちている場合に、神の御前でキリストにあって語ることができるのです。神は創造主であると心から尊敬し、このお方には間違いがないと敬う姿勢から、敬虔なことばが出てくるのです。

(第2コリント人への手紙4:13)
“「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。”
 正しい良心は、神に対する絶対的信頼で満ちています。それをしっかりと自覚すると、確信に満ちた信仰のことばを語ることができるのです。
(第1テサロニケ人への手紙2:4)
“私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。”
 神を喜ばせたいという気持ちは、神に愛されたいという心から来ています。私たちが罪赦されるためにどんな犠牲を払われたか、知れば知るほど、この神様に愛されたいと思うのは当然です。しかしその愛されたいという思いをどう満たすかで、罪を犯してしまうこともあります。でも動機は正しいものですから、愛されたいという思いを大事にして下さい。良いことばで、愛されたいという思いを満たして下さい。
 どうぞこの一週間、永遠のいのちに至る、言行一致の生活をチャレンジしてみて下さい。

 

 

 

 

 

  
■2008年11月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   莫逆之友 ばくぎゃくのとも  up 2008.11.9


互いに気心が通じる親友のこと。


正しい者はその友を探り出し、悪者の道は彼らを迷わせる。無精者は獲物を捕えない。しかし勤勉な人は多くの尊い人を捕える。
(箴言12:26〜27)


 

 

1.みことばからのポイント
 良い人、尊い人、友を得るということが、今週のポイントになります。友とは気心が知れ、その気持ちを汲み取り、その願いをかなえようと努める間柄の人を表します。
莫逆=逆らうことをしない。莫…「ない」ということ
今日はこのみことばから、心の通じ合う本当の友をつくっていくための学びをしていきます。

2.友の関係を築く
(1)まず第一に、イエス様と、友の関係を築き上げていく。
(ヨハネの福音書15:15)
“わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをあみな、あなたがたに知らせたからです。”
 神様と私たちでは、上下関係として捉えてしまいます。しかしイエス様は、私たちを友と呼ぶと言われました。それは、言われたことをただこなしていくしもべとは違って、もっと心の近い存在として共に過ごしたいという願いの表れです。しかし、そのためには、大変な覚悟が必要だったはずです。
 神が罪人である私たちを友としてくださる…その神様の心を汲み取ることが必要です。神様は、私たちを友と呼ばれるための準備も覚悟も既にしてくださっています。後はただ私たちが、神様にどのように応答するかです。
 ある人々は人間関係で傷つき、いろいろなトラウマを抱えているために、イエス様に対しても、なかなか心を開けないかもしれません。私たちのそういう状態を、イエス様は理解してくださっています。イエス様は正に「莫逆之友」だからです。
 私たちがまず信じるための証拠を、イエス様は歴史の中に事実として現してくださいました。それが十字架の贖いのみわざです。
私たちが裁きを受けて滅びないように、私たちの罪の身代わりとして、すべての罪をご自身に負ってくださいました。
 自分に直接関わってこない罪に対しては、誰でも簡単に許せるでしょう。しかしもし、その償いをしなければならないとしたらどうでしょう。イエス様は私たちの罪の負債のすべても負って赦してくださったのです。これほどの大きな赦しの愛は他にはありません。
それゆえイエス様が私たちを友と呼ぶために、どれほど真剣なお心であるかがわかります。
 あなたが人を友とする時、その人はどれほどあなたの負債を負うことができるでしょうか。どんな地上の友でも負いきれない負債があります。それは神への不敬虔の罪です。
 しかし神は、ご自身からその罪の負債を負い、赦し、私たちに心を向けてくださり、友と呼んでくださっています。このことを考える時、私たちの内に信仰が湧いてくるはずです。私たちの信仰とはイエス様と友の関係を築き上げていくことです。
 イエス様は心を開き、打ち明けることのできるまことの友です。その関係に入っていくなら、私たちはますます神様の御心を知り、身近に感じることができるようになります。
イエス様に心を開き、応答していきましょう。

(2)同時に私たちも、互いに友の関係を築き上げていく。
(第1ペテロの手紙1:22)
“あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。”
 真理とは、私たちを友と呼んでくださる神様です。良い友人に出会うと良い影響を受け、人格的にも高められます。神様は霊なるお方ですから、神様と共にいることで、私たちはたましいが清められます。清められたしるしは、兄弟愛が心に湧いてくることです。神様の影響によって、心を広げることができるので、周りの兄弟姉妹に対して寛容になってきます。
 どんなに相手の性格に問題があっても、相手のイエス様への信頼を見る時、そこに友としての信頼を持つことができるようになります。

(3)そして、私たちの友の関係の中に人々を導く。
(第1ヨハネの手紙1:3)
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”
 上原令子さんのコンサートに今回初めて来た人たちが、深い感銘を受けて、また来年も来たいと言ってくださいました。令子さんの歌やトークの中にイエス様との深い関係があり、そこに人々の心が惹かれていきます。私たちも宗教活動によって無理にイエス様を伝えていくより、イエス様と深い友の関係を築き、そこから成る実によって、人々にイエス様を紹介していくことができます。
 様々な心の思いをイエス様に伝え、イエス様の思いを受け止め、さらに深くお互いにつながっていくなら、どのような問題も解決していきます。
 クリスチャンのつながりも、家族のつながりです。神を愛しているならお互いを赦し、受け入れ合うことができるようになります。性格を変えることで相手に受け入れてもらうのではなく、ありのままのあなたを互いに受け入れ合うのです。
 このような赦し合える家族のような友人関係を、お互いに結び合っていきましょう。受け入れる痛みがあっても、その向こうにもっとすばらしい絆が見つけられます。この友人関係の最高のものは夫婦です。これは同性では得られません。一体のつながりは夫婦のみです。

●11/10(月)(詩篇25:14)
“主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。”
 恐れるとは敬うということです。尊敬し合う心がなければ、親しくなれません。悪いところを知っても、良いところへの尊敬を強く持つなら、親しくなることができます。互いに尊敬し合うことは大切な条件です。

●11/11(火)(ヤコブの手紙4:4)
“貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。”
 神は決して罪を愛することはできません。罪を犯した人を赦しても、罪を好まれることはありません。ですから、神の好まれない 「罪」を友とするなら、神はあなたから離れざるを得ません。あなたの優先順位は何でしょう。神ともっと深い友人関係を築きたいならあなたは神の御心を優先すべきです。あなたは選ぶ必要があります。

●11/12(水)(ローマ人への手紙15:7)
“こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”
 イエス様と父なる神の関係は親子関係で、最高の友の関係です。互いに心を通じ合える深い信頼関係があるからです。
 神は私たちをご自身のかたちに造られ、誰一人滅ぼしたくないと思われ、イエス様はその父なる神の御心を成就したいと願って、地上に来てくださいました。「神の栄光のため」とは、「神の御心が現れるため」という意味です。神の栄光は、その御心のすばらしさであり、罪人をあわれみ、赦すという思いです。これが神の栄光、すばらしさです。私たちはこれを手本として、互いに愛し合い、赦し合うことを心掛けていきたいと願うはずです。
「友なるイエス様のために」相手を受け入れたいと願いましょう。イエス様を友としているのですから、私たちは人格的にもますます高められ、寛容になっていけます。

●11/13(木)(气yテロの手紙4:9)
“つぶやかないで、互いに親切にしてもてなし合いなさい。”
 つぶやく理由は、相手を友として認めていないからです。相手はイエス様の友であり、自分もイエス様の友、だから相手を友として認めよう…と努めていきましょう。

●11/14(金)(ピリピ人への手紙4:5)
“あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。”
 今は赦しの時、恵みの時です。しかし、裁きの時が来ます。再臨を信じているからこそ、今互いに赦し合い受け入れ合うことを努めることができます。なぜなら聖書には「あなたが人を裁く、その裁き方で、神はあなたを裁かれる」とあるからです。もし、終わりの時にそのように裁かれるとしたら、怖いことです。
「赦す」ことこそ、平和をもたらします。

●11/15(土)(第1テサロニケ人への手紙5:15)
“だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。。”
 悪をもって悪に報いない、それにチャレンジできるのは、イエス様を友としているからです。イエス様は友としてあなたを励まし、力づけてくださいます。
 イエス様のゆえに、私たちはこのことに努めることができます。

 

 

 

 

 

  
■2008年11月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   精神一到 せいしんいっとう  up 2008.11.2


精神を一点に集中すること。また、そうすれば、どんなことでも出来るというたとえ。


悪をたくらむ者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。正しい者は何の災害にも会わない。悪者はわざわいで満たされる。偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす。勤勉な者の手は支配する。無精者は苦役に服する。心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。
(箴言12:20〜25)


 

 

 世の中のいろんなものに目移りしてしまい、心を騒がせられて、一つのものに集中することのできない時代です。クリスチャンも神様が大事と分かっているけど、ついよそ見をさせられてしまういろんな出来事が目の前にあるために、心が効果的に育っていくことが妨げられているような気がしています。そこで私たちはどんな目的を持って、何に対して「精神一到」するべきであるのかを、箴言のおことばから説明させていただきたいと思います。皆さんも月曜日からひとつひとつチャレンジしてみてください。

●11/03(月)悪をたくらむより平和を図る(箴言12:20)
“悪をたくらむ者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。”
 絶対に罪を犯しませんと告白しても、犯してしまうのが私たちの弱さです。ですから、罪を犯すことは避けられませんが、罪を犯しても悪をたくらむ方向に引きずり込まれることのないように気をつけなければなりません。
 なぜなら、悪をたくらむ『たくらみ』とは、罪を罪と思わないように、又は間違いを間違いではないと言い張るところに、悪のたくらみが表れてくるということだからです。
 クリスチャンでも罪を犯してそれを正直に言えなかった時、隠そうとするならそこにたくらみが始まっているわけです。人から注意された時に責められたと思い、私はそんなつもりでしたのではないと言い訳していくところに、次第にたくらみが表れてきます。そして自分を守るために、嘘やごまかしをしなければならない、すなわちあざむきの領域に入っていくわけです。
 罪を犯した時どう処理したらよいか、そこに心を備えておくことが重要です。すなわち、悔い改めを常に意識することです。悔い改めは喜びです。神様は間違いを直すチャンスを与えてくださっている、ああ感謝だと喜んでください。
 神の前に間違いであることは早く認めて、罪から離れる方向転換をするという心の切り替えが、クリスチャン生活のコツだと思います。
 罪を隠してあざむきの方へ行くということは、更に問題を大きくしてしまいます。「これ以上問題を起こさないために、何が一番良いだろうか。まずあの人に謝って償いをしなければいけないなあ」と、悔い改めの実としての償い、謝罪をすることはとても重要なことです。そこには平和が生まれます。悔い改めは平和への道です。 平和への方向転換のポイントです。悔い改めなくして、正しい方向に帰るは無理なのです。罪の処理の仕方としての表現が、平和を図るということばであると思います。

●11/04(火)最後の審判がある(箴言12:21)
“正しい者は何の災害にも会わない。悪者はわざわいで満たされる。”
 神様の最後の審判があらわれるまでは、何事においても早合点をして結論を出してはならないということです。どうぞ今、あなたがこの地上で出会っている様々な出来事によって自分と人を比べて、何で私はこうなのにあの人はああなの、と決断を早く出し過ぎないように気をつけてください。
 神様の前に立つまでは、何が災害で何が幸福であるのかはわかりません。イエス様にあって私たちは、「良き神様なのだから、必ずそこには意味がある。私たちのプラスになることをしてくださっている。」という信仰を持って受けとめていきましょう。

●11/05(水)喜ばれるか嫌われるか(箴言12:22)
“偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。”
 ここで考えたいのは、クリスチャンだけが主に喜ばれるか嫌われるかを考えればよいのだろうか、ということです。というのは、私たちは神様が存在しておられるということを信じる立場ですが、無神論者は神様がいないということを信じる立場の人々です。ではどちらが本当でしょうか。
 この社会において、どちらも100%正しいという証拠を出すことはできません。それならば仮に五分五分だとして、神がおられると信じている人が、もし神がおられないという事実に直面したらどうでしょう?何の問題もありません。でも逆に神様がいないと信じている人が、神様が万が一おられたらどうなるのか、これは大変なことです。
 ノンクリスチャンの人でも、私はいないと信じる方だけど、もし1%でもいたら大変だから信じておくというのが、賢い人だと思いますね。私はノンクリスチャンの人にイエス様のことを話す時に、このようなきっかけを話すのですが、どうでしょう。ひょっとしたらおられるかもしれない、というそんな心配な気持ちをも、神様はあわれんでくださると思いませんか?
 最初からイエス様を信じ切ることはできなくても、教会に来て触れていけば証拠が見えてくるので、確信が増えて、信仰に到達することができるでしょう。
 あなたの真心からの、神様はおられるというこだわりの人生が、信じることのできない人々に、ひょっとしたらおられるかもしれないという不安を与えるのです。神様は最後の審判の時に、「○○さん、あなたの横にこういうクリスチャンがいたでしょう?どうしてそれを見て信じることができなかったの?」と質問されて、その不信仰を罰せられるのです。
 だから、主に喜ばれるということは、あなただけの問題ではなくて、ノンクリスチャンの人々にも影響を与えるポイントだということです。

●11/06(木)(箴言12:23)
“利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす。”
 人は物知りだと言われると嬉しくなります。これはいいのですが嬉しくなるという感情が始まりになって、何度も言われるうちに優越性を心の内に持ち始めます。優越感は次第に高慢に変わっていきます。賢い人はそういう心の動きを知っていますから、必要以上のことは言わないのです。知識のプラス面とマイナス面を良く理解して、利口な者は知識を隠すという意味を深く噛みしめてください。
 愚かさを表さないように賢さ・正しい知識を判断していくために正しい良心に意識を集中させると、自分を正しく見ることができます。自分を正しく見ることができない理由は、感情的な面や思想的ないろんな考えから自分を測ったり、人を測ったりするからです。
 またはプライドにのっとって自分を測ってしまうと、出来ない自分を受け入れることができません。でも正しい良心すなわち、神様を畏れる心の基準で自分を見たり人を測ると、正しく見ることができます。だから、どこに私たちの精神を集中させるのか、正しい良心に心を向けるように習慣づけてください。

●11/07(金)(箴言12:24)
“勤勉な者の手は支配する。不精者は苦役に服する。”
 どうして勤勉な人は支配し不精者は苦役に服するのかというと、勤勉な人は人から注意されたり、命令されたりする前に、自分で気づいて用事を済ませていきます。しかし不精者は言われないと勉強をしない、仕事をしない、それは本当はしたくないという心があるのです。つまり、勤勉な人は命令される前に仕事をするので、支配されることはないのですが、不精者は命令しないと動かないので、いつも命令される立場であって、服する、従うという立場に居続けるわけです。
 皆さんの中に人から注意されるのをいやがる人がいるならば、注意される前に先にすれば良いのです。一度言われて嫌な思いをしたならば、二度と命令されないためには、しっかりと言われたことを心に留めておくことです。不精者は、わかっていながらも動こうとしないという強情さがあり、その強情さがいつまでも命令される立場にいるという結果を生み出すのです。これが罪の力です。
だから気づかないことを教えられたならば感謝して、よし次は言われないようにやるぞ、と心を決めて取りかかったら、あなたの生活は変わります。
「今何をするべきか」という発見ゲームを通して、楽しみながら勤勉な者への一歩一歩を進めていったらいかがでしょうか。

●11/08(土)(箴言12:25)
“心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。”
 どうして私はこんなに否定的なんだろう、と落ち込んでいく人がおられると思います。その理由は心に不安がある、自信が持てないからです。不安が否定的な思いを呼び起こすということは確実であり、不安がある限り前向きには絶対に考えられないのです。
 そこで、その不安を取り除くためにイエス様の救いが必要なのです。大丈夫だという確信が与えられる、神様のおことばが必要なのです。
 おまえはダメな人間だ、何もできない奴だと否定的な言葉を言われて育った私は、しっかりとした自分を持てなかったので、否定的な人間でした。どうして今はそれがなくなったかと言うと、親や先生からダメ人間という印象の言葉を言われたのに対して、神様が、「いやいや大丈夫だよ」と言ってくださり、「わたしはあなたを高価で尊いと見ている」とそのことばが私に自信を与えてくださったからです。だから、人と比べて私は劣っているかもしれないけれど神様の前にあなたはそれで大丈夫だと言われたので、私は神様の前に生きることには自信があります。私の人生は神様によって支えられています。私の良いところも悪いところも全部それをOKだと認めてくださって、そこからが出発だと励ましを与えてくださっているからです。