■2008年10月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
牽強付会 けんきょうふかい up
2008.10.26
自分の都合の良いように、無理矢理に理屈をこじつけること。
真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる。軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。
(箴言12:17〜19)
ここで対比されている「申し立て」と「証人」、「軽率に話し…」と「知恵ある人の舌」、「くちびる」と「偽りの舌」は、「語る」ことが共通のポイントです。
なぜ「偽りの証人」や「軽率に話し…」「偽りの舌を持つ」かという原因を考える時、今週の四字熟語の「牽強付会(自分の思い通りに強引に持論をこじつけて語る)」が当てはまります。今週、私たちは「真実の申し立て」「知恵ある者の舌を持ち」「真実のくちびる」をもって語ることを目指す一週間としてまいりましょう。
1.(箴言12:17)
“真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる。”
「真実の申し立て」は「忠実である」とも言い換えられ、またその人が真実で間違いがないことを語る「真実の証人」であると言えます。人がその人の語ることに信頼し受け入れるのは、その人がいかに忠実かに表現されているからです。
そして「真実」と「忠実」には、相手との相互関係ができています。初対面の人の言葉をそのまま真実の申し立てとしてすぐ受け入れるのは、少し難しい面がありますが、何らかの情報を得て「大丈夫な忠実な人」と分かってきて、信頼が向けられていくものです。
私たちは誰に対して真実であり忠実なのか、改めて見直す必要があります。無意識に「牽強付会」をやっていないだろうか。神様のことばに対しても無理やり理屈をこじつけて、自分の思いを全うしようとしていないだろうか…と。こうなると神様ではなく、偽りに忠実になってしまっています。「真実な申し立て」をする人は「忠実さ」によって真実性を測られることを覚えておきたいですね。
2.(箴言12:18)
“軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。”
言葉によるいやしは、たましいの救いを表しています。言葉は霊・魂に対して与えられており、心で聞き、深い霊の部分で聞いています。言葉によって徳が高められることがいやしにつながります。よい言葉で励まされ回復し、よい方向に歩み出そうとする力が与えられ、健全な状態へ向かいます。また苦しみの中にいる時によい言葉に触れると励まされ、救いに繋がります。安心が与えられることもあります。
しかし一方で言葉は剣のようなもので、軽率に扱うと問題を招きます。自分の言葉に人が怒ったり不機嫌になったりすることが思い当たらない場合、あなたの言葉が剣のようになっているという自覚がなく、何も考えず振り回している可能性があります。
あなたには傷つける気持ちはなくとも、軽率に言葉を語っていると、人は傷つくことがあるということです。
3.(箴言12:19)
“真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。”
堅く立つ」とは失われずそこに残り続け、役立ち、安定しているといった連想ができます。「いつまでも立つ」と「まばたきの間」ということばには、存在の期間の違いが表されています。真実な言葉は、忠実さに比例して信頼度が高くなり、いつでも信頼でき、その人が語った通りの言葉が実在するということです。
逆に偽りの舌(嘘)は実在しておらず、その場限りで、シャボン玉のようにすぐに消えてしまいます。最初は綺麗に見えても次々に消えていき、最後は何もないという現実にぶつかります。
●10/27(月)(箴言12:17)
“真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる。”
私たちは何かを対象に、自分の真実性・忠実性を立証しようとしています。「自分に対して嘘をつかない、自分中心」のヒューマニズムは、一見良いように聞こえます。しかし罪の働きかけを見逃すなら、とても危険です。
クリスチャンは厳密に言うならば、自分自身に対してではなく、正しい良心に対して真実・忠実です。というのは、私たちには欲望に振り回される罪の力に影響される心の部分と、神を畏れる正しい良心の部分があり、欲望の奴隷状態は肉体の欲求からのものであって、これまでも語ってきた通り、私たちの真実な心は私たちの正しい良心にあるからです。
ですから私たちは正しい良心、すなわち神を畏れる心に対して、最終的に神に対して真実・忠実であり、それがクリスチャンの本来の姿勢です。どうぞこれらのことを吟味してください。神様を利用して自分の思い通りに何かを進めようとしていないだろうか。自分の忠実さが偽りの方へ傾いていないだろうか。もしそのようなことに気づいたなら、心をイエス様の方に向けながら、真実な神様が救ってくださったことを感謝し、正直に神様に自分の思いを表してください。
「主イエス・キリストに忠実」とは、そのことばに従い、行うことです。そのためには、イエス様への信頼度がどの位あるかにかかってきます。
どうぞこの点をチャレンジしていただいたら、と思います。
●10/28(火)(ヘブル人への手紙3:2)
“モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。”
モーセは神が選ばれたイスラエルの民全体に対して忠実でした。神に対して反抗的で、愚痴・不平の多い民でしたが、神様からのお告げをそのまま忠実に彼らに語り、彼らのために祈り、彼らが不真実であっても真実を尽くしました。私たちは相手の様子を見て、真実・忠実を表しても無駄と思うとやめてしまうことがあります。相手がどうあれ、正しいことを表現していくことが、相手に対していつまでも真実であることの表れです。
イエス様はご自分をメシアとして立てられた、父なる神様に対して忠実です。(ヘブル人への手紙3:2)のみことばは、モーセは神に対して忠実だったからこそ、民に対して忠実を行い、逆にイエス様は神に対して忠実だったからこそ、私たちに対しても忠実であることを表しています。
神様の真実と忠実さは、不安定な人間が変わらず真実・忠実を表現していく原動力となることを悟らなければなりません。私たちは相手の様子を見て、神様が言われたことをするかしないかを判断してはいけないのではないでしょうか。もし神様が「赦しなさい」と言われるなら、相手に赦せない状況を見ても「赦していこう」という思いを持つのが、神への真実な態度、忠実な姿勢であり、さらにその人へも真実さ、忠実さを表すことになります。
人は信頼できる証拠を見ないと、自分の考えを変えようとしませんが、赦そうとする忠実さを表し続けることで、相手の人はいつか必ず信頼してくれるようになります。
●10/29(水)(箴言12:18)
“軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。”
「刺すような者がいる」ということは、言った本人は気づいていない場合が多いようです。人に傷つけられた経験を振り返ってみると、自分も同じように愚かなことはしたくないと思えるようになります。言葉を語る時は慎重にありたいものです。
●10/30(木)(詩篇107:20)
“主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。”
聖書のことばがあなたにとっていやしと救いとなっているなら、すばらしいことですが、反対に痛みを伴ったりするなら、神との関係を見直して欲しいというのが、黙想のポイントです。
忠告は腹立たしく思っても、尊敬する人からの忠告ならば、感情を静める力は働きます。ですから聖書のことばが「自分の悪いことを指摘されるばかり」という人は、何かがみがみ叱る人とイメージをダブらせていませんか。
ひとり子イエス様を私たちにお与えになるほど私たちを愛しておられる父なる神様が、どうしてことばであなたを傷つけることがあるでしょうか。神は良き神です。私たちの主観で読むのではなく、これを語られた神様の動機を見て読む必要があります。「良き神様がどうしてこう言われるのか」と考えていくと、必ずいやしと救いにつながります。主への見方を吟味することが大切です。
また、剣は身を守るため、安全のためにもあり、救いといやしのために与えられています。使い方によるということです。特に聖書のことばは切れ味の良いことばですから、受け止める人々の価値観をよく考え、みことばを語っていく必要があります。
●10/31(金)(箴言12:19)
“真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。”
真実なくちびるとして判断できる条件は、忠実さ以外にも考えられます。単に忠実だけでは、表面的に忠実を装うこともできるので信頼できる人としての条件を皆さんも探ってみてください。これを知ることは大切なことです。すなわち軽率に人の言葉を聞いていないかどうか、そのことは軽率に言葉を発していないかどうかにつながります。
あなたが人の真実なくちびるを受け入れる条件は、あなた自身が 人に対して真実のくちびるを証しする条件ともなります。あなたが人の言葉を測るのなら、自分もその条件を最低満たした条件で語るなら、あなたのくちびるは真実と言われるでしょう。
●11/01(土)(第1テモテへの手紙1:12)
“私は、私を強くしてくださる私たちの主イエス・キリストに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。”
皆さんはパウロをすごい人だと認識しているので、そのまま受け取られていると思います。
しかし、クリスチャンを迫害していたパウロが回心したわけですが、何かの拍子にまた元に戻る可能性もあることも考えられます。「罪人のかしら」と自称しているパウロは、神に不忠実な自分であることを実感していたのでしょう。自分につまずいており神への忠実さが欠けていたことを自覚していました。
しかし神はそんなパウロを任命し、責任を与えました。責任を与えることは、忠実な者と認めてくださったということです。忠実さの証拠を見なくても、忠実な者と見てくださり、神はパウロを任命されたのです。
イエス様の十字架の救いにあずかった私たちにも、同じ意味があります。神に対して益となるという証拠が私たちにあったから、イエス様の十字架を与えてくださったのではありません。むしろ私たちが罪人であった時に、私たちを神の子として忠実な者だと頭から信頼して思い込んでくださり、私たちが信じる前に愛を示してくださいました。これは冒険です。
神は私たちが良くなるという証拠を見られたからではなく、ただ信じてくださったのです。これが神の愛です。
パウロも、自分が忠実な者としての証拠がないうちに聖なる務めに任命してくださったことへの感謝が、パウロの内に湧き上がってきたのです。人は信頼されると励みになるものです。結果にこだわらず、一生懸命行っていることに信頼されていることがわかると、励まされ、やっていこうという気持ちになります。
結果だけで兄姉を判断せず、神への心をぜひ見続けてあげてください。神様にあって人を信頼することにチャレンジしてください。
■2008年10月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
隠忍自重 いんにんじちょう up
2008.10.19
苦しみをこらえて、軽々しい行動をとらないこと。
愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。
(箴言12:15〜16)
「愚か者」と「知恵ある者」は対比しています。誰でも、愚か者でなく知恵ある者に変わりたいと願っています。しかし、そうなるためには覚悟が必要です。私たちは、「自分は間違っていない、正しい」と主張したくなる時があります。そして、それをじっと耐えて抑えることは、苦しみを伴います。この苦しみがこらえきれない時、つい言葉や行動に出してしまい、そのためにとんでもない状況に陥ってしまうということがあります。そういったトラブルにならないために、私たちには「隠忍自重」が大変重要です。
1.高慢とへりくだり(箴言12:15)
“愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”
(1)自分が見えているか否か。(詩篇8:3〜5)
“あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。”
自分を知らない人、わきまえのない人は、自分が出てはいけない場所に出たりします。そして、そのために恥をかいてしまいます。
(詩篇8:3〜5)で、「人とは、神の前にいったい何者なのでしょう」ということばがありますが、これは神の前に自分という者は何者であるかを知り、へりくだったことばです。
平安な一日を過ごすために必要な姿勢は、このへりくだりです。心のへりくだった人は、自己義を主張しません。自分の悪いところを指摘されても、決して怒りません。
(2)『わかっている』という落とし穴。(ヨハネの福音書9:41)
“イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。”
「私たちは目が見える」これが、「わかっている」という主張です。人から間違いを指摘されると腹が立ち、つい「わかっている」と怒っていませんか?イエス様がここで言われたことばから、私たちは一体何がわかっていて何がわかっていないのかを、よく考えてみる必要があります。
パリサイ人は律法がわかって、よく知っていましたが、なぜ律法が与えられたかについて理解していませんでした。内容を理解しているのと、存在を理解しているのとは違います。
内容がわかっていても、その重要性を理解していないなら、軽視してしまいます。注意され、忠告される時、その内容でなく、重要性がわかっていたら、腹を立てず、受け入れることができるはずです。
じっと受け入れる忍耐は、「わかっている」という横柄な心を砕くために必要なものです。
(3)人間としての品格向上を目指す(テトスへの手紙2:9〜10)
“奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。”
自己義を立てようとする人は、「自分をこれ以上変える必要はない」という思いを持っています。変えないということは、成長することを拒むことなので、品格も向上することはありません。
このような考え方は、民主主義というヒューマニズムの影響によります。
ヒューマニズムは個人の尊厳を第一にしますが、行き過ぎると、何をしてもその人の自由意志なのだから認めるべきであるという考え方になります。善悪の基準よりも人権の基準で物事を判断してしまいます。そして「人間らしい」「男らしい」「女らしい」ということ、枠にはめられることを嫌います。だから男性の女装も認めてしまいます。
福音原理主義と言われるのは、聖書のみことばに忠実に従う動きで、それに対しリベラル派は、同性結婚も個人の自由として認めています。
しかし私たちは何をしてもいいというのではなく、目的を持って造られたのですから、目的に向かって歩むことが大切であり、みことばに従うことが大切です。
神の子として品格向上を目指し成長することが、私たちの向かうべき方向です。それを「強制」「束縛」と捉え、人々に悪い印象を与えようとするのがヒューマニズムです。そして、神の教えを軽視します。この価値観がいつの間にか、ニュースや世の中の人々との会話などから、クリスチャンにも影響を与え、メッセージを聞くことにさえ抵抗を感じるようになってしまいます。気をつけないといけません。
本当の自由とは何でしょうか。逆に「自由」という言葉に束縛されないように、気をつけましょう。神の教えは、人の人格を向上させます。純度の高い金になるよう、人格の向上を目指しましょう。原石の金のままでいるよりは、もっと純度の高い金になるよう、みことばに教えられていきましょう。
2.怒りと沈黙(箴言12:16)
“愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。”
すぐに怒る人の言い訳に「自分は正直だから」というのがあります。思ったこと、感じたことをすぐ口に出し、そうでない人を偽善者だと決めつけます。
しかし、そう言う前に、愚かであるか知恵ある者であるかを考える方がもっと有益です。正直が相手を傷つけるなら、その正直さは無意味です。人を傷つけることは律法に反します。愛のない正直さは罪であって、的外れです。
(1)感情に従うと的を外してしまう。(詩篇37:8)
“怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。”
人は、自分が間違っていることを理解したら、どんなに意地っ張りでも最後には改めようとするものです。
私(辻師)が妻と車に乗っている時、道に迷ってしまいました。通り過ぎたと分かっていましたが、妻の一言にカチンときてしまい、すぐにはUターンせず、しばらくそのまま行ってしまいました。
しかし5分ほど過ぎた頃、これ以上意地を張ったら本当に愚かであるということに気づき、Uターンしました。
いくら我を張っていても、危険を察知していたら、やはり改めようと努めるはずです。最後まで我を通し続けたら、とんでもないことになってしまいます。
(2)正しい良心による制御(ヤコブの手紙1:20〜21)
“人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。”
正しい良心に力がなければ、怒りという強い感情を制御することはできません。「素直に受け入れる」ということをよく考えてみましょう。怒っている最中に、どうして素直になれるでしょうか?
「素直に受け入れる」とは、何の抵抗もなくすんなりと受け入れるということではなく、正しいことは正しいこととして、努力してでも、葛藤していても、みことばを受け入れようとすることです。その時、怒りという感情と、正しい良心とがぶつかり合います。
それは辛いことです。けれども「素直に受け入れたい」という心があるから、努力します。大人の素直さは、葛藤の中にあっても、正しいことを選び取ることです。
みことばの影響力が、その時、力を与えてくれます。隠忍自重の中で得たみことばにはいのちがあり、力があります。そして成長して、影響力を与えるようになり、最後には怒りさえ鎮められるようになります。
みことばをもって忍耐するなら、みことばはあなたの意識とは関係なく、あなたに良い影響を与えるようになります。
これは努力ではなく、みことばにある力であって、魂を救うことができます。
(3)沈黙の目的(哀歌3:26)
“主の救いを黙って待つのは良い。(新改訳)
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。(新共同訳)”
黙っていることは幸いを得ます。取り乱す前に忍耐して、神の救いを待ち続ける。こういう姿勢を取るのが知恵ある人です。この沈黙は主の救いを待つためです。
救急車が来て、救急隊員がその人を担架に乗せようとしているのに、痛いからと騒ぎ立て、隊員がさわるのを拒否するなら、その人は助けを受けることができません。
私(辻師)が感情的になると、妻はすぐに引くようにしています。しかし、もし引かずに対抗し続けるなら、それはうっぷんを晴らしたいだけになり、そしてますます激しいバトルが繰り広げられ、お互いに傷つくだけになってしまいます。
「黙って主の救いを待ち望む」ことは大切です。
人にではなく、主に認められることこそ大切です。
■2008年10月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
創意工夫 そういくふう up
2008.10.12
方法や手段などを新しく考え出すこと。また、考え出した思いつき。
身分の低い人で職を持っている者は、高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。悪者は、悪の網を張るのを好み、正しい者の根は、芽を出す。悪人はくちびるでそむきの罪を犯して、わなにかかる。しかし正しい者は苦しみを免れる。人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。
(箴言12:9〜14)
思慮深さとは、創意工夫する力を持っています。先週に引き続いて、思慮深さについて学んでいきましょう。
1.思慮深さは生み出す力でもある
思慮深さには、さまざまな創意工夫をもたらす力があります。それは悩んであきらめるものではなく、道が開かれるために、様々な考えが生み出されていきます。思い煩いは否定的になり、新しいものを生み出せません。同じエネルギーを使うなら、思慮深い方に精神力を使って、活路を見いだしていきたいものです。
創意工夫の力を身につけるためには、発想力が必要です。私たちの受けた教育は記憶させる方法だったので、新しい発想をするのが苦手です。眠っている発想力を引き出すには、連想することが非常に有益です。
例えばペットボトルから何を連想するでしょうか。「清らかな水」→「冷蔵庫から出した氷」→「アイスコーヒー」etcと連想していくことができます。これは新しいものを生み出す訓練です。聖書のみことばも、自分の生活にどのように当てはまるか、連想してみてはいかがでしょうか。
2.人は「創造主」のかたちとして造られた
神ご自身が、創造する力を持っておられます。私たちはそのかたちに似せて造られたので、創造力、発想力があなたにはあります。新しいものを生み出す力があなたの内に潜んでいるので、それを認め、訓練していけば、すばらしいアイデアマンになれます。
3.どのようなことのために創造力を生かすのか
各自に与えられた創造力は、思慮深さを持って互いの平和と幸福のために創意工夫するように与えられています。
神様は天地や万物を造られ、最後に人間を造られました。人間を造った目的は、互いに愛し合うためです。クリスチャン生活の目的は、あなたが幸せになり、私も幸せになることです。自分を犠牲にして相手だけが幸せになればいいのではありません。愛ある犠牲とは、相手も自分も生かすものです。愛はお互いが必要なものです。しかし優先順位があります。相手が幸せになることが先で、私も幸せになるのです。これが反対だと、自分が幸せにならないと、相手を犠牲にしてしまいます。
イエス様の十字架も、私たちを最優先して生かすために、犠牲を払われました。その犠牲を払うことが、神ご自身の愛を生かすことなのです。だから、ご自分の愛を生かすために人を犠牲にすることは、絶対にあり得ないのです。優先順位がちゃんとあります。これが愛なのです。
思慮深さや創造力は、まわりの人々との平和を維持するようにと与えられたものです。それ以外のために使っていくと、貪欲に引き込まれていきます。あなたが今していることはみんなのためであり、そして自分のためです。この優先順位を忘れないようにしましょう。
4.思慮深さが不可能を可能にする
なぜ神様には不可能がないのでしょう。それは創造力があるからです。もうこれでダメだと留まるのではなく、いや何とかなるという思慮深さと創造力が、不可能を可能にするのです。
キリストの贖いによって、眠っていた神のかたちが目覚め、不可能を可能にする思慮深さが生み出されるのです。思慮深さは、敬虔な人の心の中にあるからです。しかしこの世では、貪欲のために創造力が用いられています。企業の開発部門では、創造力、発想力がないと、新しいものを生み出せません。
未信者が神のかたちを活用しているなら、私たちも神を畏れる者として、人々の平和と幸福のために、思慮深さと創造力をもっと使っていくことができるのではないでしょうか。それは、まわりの人々を優先して、あなたも幸せになるためです。
●10/13(月)(箴言12:9)
“身分の低い人で職を持っている者は、高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。”
《黙想のポイント》
『食』を生み出す『職』を持つ者がまさる→生産力が重要。
成人として認められる条件のひとつに『自立した生活』があります。
持っているもので生活をするには、思慮深くなければなりません。
甘えの信仰から、自立した信仰へと成長していきましょう。
ある時期には甘えが必要です。しかしその時期を過ぎても神様に頼んだら何でもしてもらえる、と当てにしすぎるのが、甘えの信仰です。今あるもので何とか自分でやってみる、というのが自立した姿勢です。
信仰が成長してくると、祈りに応えられない1つの理由として、あなたには求めているものを自分で手に入れることができる力をもう持っているのだよ、というしるしであると言えます。神は自立へと導いておられます。しかし本当に助けが必要な時には、祈り求める前からちゃんと助けを与えてくださるのが、私たちの父なる神様です。
●10/14(火)(箴言12:10)
“正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。”
《黙想のポイント》
すべての人の内にある『生み出す力』を大切にする。
家畜のいのちにさえ気を配るとはどういう意味でしょう。
人は、自分で何もかも出来るわけではありません。
生み出す力を互いに用いて協力し合いましょう。
正しい人は家畜を乱暴に扱わず、大切に管理します。家畜には人間に必要なものを生み出す力があるからです。しかし悪者は、自分の利益にならないと大切にせず、すぐに関係を切ってしまいます。
私たちは神のかたちに似せられた創造力を互いに持っているのですから、互いに認め合い、互いに協力し合うことが大切です。
●10/15(水)(箴言12:11)
“自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。”
《黙想のポイント》
自分の畑=今もっているものすべて。
耕す=思慮深さによって創意工夫する行動力。
思慮とは単に考えるだけではありません。行動が伴います。
みことばによって励まされたことを、創意工夫をもって実行しましょう。
畑や財産をどんなに持っていても、それを耕して有効利用しないと意味がありません。私たちの持っている能力や財産も、耕すという創意工夫の努力によって、何倍にも生かされることができます。
●10/16(木)(箴言12:12)
“悪者は、悪の網を張るのを好み、正しい者の根は、芽を出す。
【悪者は貪欲の網に捕らえられ、根がある正しい者は、再び芽を出す】”
《黙想のポイント》
思慮がなければ貪欲の網から逃れることができません。
思慮の根があれば、悔い改めて再びやり直すことができます。
思慮は、失敗をとおして思慮深さを増していくものです。
【】内は、三つの日本語訳と二つの英訳を参考にまとめてみたものです。今まで失敗してきたものが、思慮深さに変わるように考えていきましょう。
●10/17(金)(箴言12:13)
“悪人はくちびるでそむきの罪を犯して、わなにかかる。しかし正しい者は苦しみを免れる。”
《黙想のポイント》
くちびるでそむきの罪を犯す→破壊すること。
『生み出す力』の反対は『破壊する力』です。
神様が造られたものを破壊することは、そむきの罪です。その人は、自らの破壊によって苦しむことになりますが、生み出す正しい人は、思慮深く創意工夫するので、破壊の苦しみに遭うことはありません。
人は何のために造られたのでしょう。神様との幸せな交わりを持つためです。その交わりを生み出す創造力を、人間に与えられました。良いものを生み出すための創造力です。その反対は、破壊するということです。例えば自殺は、神様に造られたものを壊すことですから、そむきの罪です。また、忠告ではなく怒りをぶつけることは、破壊です。
そむきの罪を犯す人は、自分の事しか考えておらず、貪欲の網に捕らえられている状態です。
自分がそのような罪の働きかけに負けやすい者だとわきまえていたら、思慮深い根を持つ人は、悔い改めることができます。悔い改めが、思慮深さの第一歩です。悔い改めとは、価値観、考え方を変えることです。それは、あなたにはまだ希望があるということなのです。
●10/18(土)(箴言12:14)
“人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。”
《黙想のポイント》
言葉と行動の一致がもたらす報酬。
口の実=告白の行動=手の働き=創意工夫する行動
神への健全な信仰による告白は、思慮深い創意工夫の行動力が湧いてきます。
悪人でも創意工夫して悪いことをします。創意工夫は、善にも悪にも用いることができます。
『神にはできないことはない』『神は良いお方である』『決してあきらめないお方である』etc…という健全な信仰に基づいた信仰告白が創意工夫の行動につながっていきます。
広島エルサレムプランは、神様のご計画なので、私を通して何かをしてくださる、だからいろんなことにチャレンジしていこう、という前向きな創意工夫の行動力が湧いてくるのです。
今週、みことばを通して様々なものを連想し、悟りを得る力が与えられることを信じて、チャレンジしていきましょう。
■2008年10月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
脚下照顧 きゃっかしょうこ up
2008.10.5
他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足もとを見て自分のことをよく反省すべきの意。
人はその思慮深さによってほめられ、心のねじけた者はさげすまれる。
(箴言12:8)
思慮深さということを耳にしますと、能力的に優れていて、いろんなアイデアや考えが生まれてくる賢い人というようなイメージを持ってしまいがちですが、ここでは思慮深さと心のねじけている者とを対比させているわけですから、能力的な思慮深さではなく、心の思慮深さという意味だと思います。心の思慮深さを身につけていくための基本として「脚下照顧」を挙げました。
「脚下」とは足元、足元という表現は己を見るということ。「照顧」とはよく反省するということです。ですから、自分自身をよく理解して、自分のしていることを含めて、よく反省するという意味を持ちます。「脚下照顧」ということをポイントに、思慮深さを身につけて、相手を思いやることのできるクリスチャンとして、人から尊敬をいただける者を目指していただきたいと思います。
1.思慮深い者(マタイの福音書24:25)
“主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。”
するべき仕事の責任を果たすことが、どうして思慮深い者と言えるのか。
(1)主人が自分を選んで、責任を任されたことを理解している。
どうして主人は私を選んで、しもべたちの責任者として主人の家の管理をさせるようなことを考えられたのだろうか?このように考えていくことが、思慮深さに繋がっていくということです。思慮深くない人は「これで好きなようにできる」というような捉え方になりますが、思慮深いしもべは選んでくださったということに対して心からの尊敬と感謝を込めて、仕事を忠実にこなしたと思います。
(2)忠実さとは、主人の存在を心から尊ぶほどに主人を尊敬している
尊敬がなければ忠実さなどという心の態度は生まれてきません。仕事をきちんとすることが忠実とは限らないのです。従うということは行為における忠実さかも知れないけれど、心の姿勢の従うというのは、尊敬がなければ従うことができず、尊敬のない従い方は忠実とは言わないのです。主人に対して「たくさん仕事をくれていやだな。しないと給料が減るから」という思いだと、忠実なという形容詞は絶対に付かないと思いますね。ましてや思慮深いとは言い難いと思います。
(3)しもべという自分の分をよく理解している。
主人が何らかの考えをもって自分を選んでくださった。大事に思い、信頼してくださっている、とそのように考えたしもべは、主人の自分に対する信頼を、心からの主人に対する尊敬という形に変えて仕事をしましたが、あくまでも自分はしもべであるという立場を忘れず、他のしもべ仲間より上であるとか、任されたから好きなようにしていいとは考えませんでした。分を超えたら良くないというわきまえを持つことが、思慮深さということなのです。
このようなことは能力の問題ではないのです。あなた自身が自分というものをいかに知っているか、深く自分自身を掘り下げてわきまえているかという、それがはっきりすればするほど、思慮深い判断、決断をしていくことができるんですよ、ということです。
2.心のねじれた者(箴言6:14)
“そのねじれた心は、いつも悪を計り、争いをまき散らす。”
反抗心とはねじれた心から出てきているのではないか?と吟味してみてはいかがでしょう。そして、自分はどこからねじれてしまったのか、親にきつく言われた時ねじれたのだろうか、学校の先生に指摘されたことでねじれたのだろうか、うそをつかれてねじれてしまったのだろうか、といろんな原因がねじれの始まりですから、自分をよく知ると、そこに神様のいやしを与えてくださいと祈ることができるのではないかと思います。
この反抗心というのは、理由なしに反抗していきますよね。ということは、元々悪を計る動機がそこにあるという意味で、箴言には「いつも悪を計り」と表現されているのです。要するに、正しいことに行かないように、まとめようとしている話をまとまらないように、とか、一致させようとしているところを分裂させるようにと、あえてそのような気持ちが湧き上がってくる。これは悪を計る心がそこにあるわけで、この悪を計る動機は常に反対をしていくわけですから、争う心がいつもそこに存在しているので、争いをまき散らすということですね。私たちの内には、思慮深さと心のねじれた部分と2つが存在するということに気づくことが、「脚下照顧」の始まりです。
●10/06(月)(創世記1:27)
“神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。”
私たちが人間らしさと言う時に、その「らしさ」とは何を意味するのか。世の中の人の人間らしさというのは、みにくさという意味を含んでいます。聖書で言う人間らしさとは、神のかたちです。神に似せて造られた者ですから、私たちの本質は神と同じものを持っているということです。これがあなたが自覚するべき、大事なアイデンティティーです。私の内にどんな神の姿があるのだろうか、と深く探ることです。それの代表的なのが、「正しい良心」というふうに皆さんに紹介している部分です。
私たちには正しい良心があって、それが本来の私。でも別のひねくれたねじれた心がある。これが罪がもたらす部分なのですが、その線引きをするためにまず自分自身の自覚が大事だということで、自分を愛する意味でぜひ神のかたちとしての良い部分を見つけ出してください。
神がお造りになって、神が与えたものです。だから、まず自分で見つけてください。見つけ方が上手になると、他の人の良い部分も見つけやすくなります。どうぞチャレンジしていただけたらいいと思います。
●10/07(火)(ヨハネの福音書8:34)
“イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。”
罪の奴隷という部分に焦点をおいて、自分を深く知るということを考えていただきたいと思います。
私は罪の奴隷であったので、油断するとまた罪の奴隷に陥ってしまう者だという、そういう弱さを認めることが必要です。クリスチャンはもう罪を犯さない、ではなくて、クリスチャンこそ罪を犯しやすいというくらいに、少し極端かもしれないけど、それくらい自分の弱さを知っておくことが大事ですよ。弱さを知っている人は無謀なことをしないでしょう。あなたはどんな罪に弱いのか。怒りが引き出されやすい、否定的な感情に流されやすい、感情的な弱さや貪欲さの弱さ…。その弱さを自分で認めていたら気をつけるので、人から忠告されることも少なくなります。それを忘れてついやってしまって「人間誰でも罪を犯すよ」と言い訳して、ねじれた心になってしまわないように気をつけなければいけませんね。
●10/08(水)(エペソ人への手紙2:1〜3)
“あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”
このみことばで、パウロは禁欲主義的なことは言っていません。先週もお話ししましたように、健全な欲求を満たしていくことは、クリスチャンにとって何ら問題ありません。不従順の子らというのは、神に対して不従順をしている不敬虔な人のことです。不従順の子らというのは、限度をわきまえずに自己満足を達成していくことに心を使っているわけですから、常に限度を超えた欲求があるわけです。その中にあって肉の欲の中に生きるということは、彼らの基準に合わせて生きているということになるわけです。
不従順の子らの中に働いている霊とは、悪霊です。私は未信者の時に、悪霊に従って歩んでいるという自覚も感覚もなかったという人がほとんどだと思います。以前はオカルト映画とかオカルト現象を通して、霊的な世界に恐怖を抱かせて、霊的存在者である神様の存在よりも悪しき霊の存在を強調して神から心を遠ざけるような、そういう風潮がありました
今はどういう悪霊の影響をこの世界において見ることができるかというと、「言葉」です。情報化社会ですから、「ことばは霊」とイエス様は言われました。だから霊的現象を見ない限り、悪霊になど影響されていません、と油断している人がいるかも知れないけれど、違います。不敬虔な、すなわち不従順の子らの中ではやっている言葉、当たり前のような自然な言葉、その言葉がクリスチャンもいつの間にか耳から入ってきて、それが自分の価値観に影響しているということに気づかずに受け入れてしまっているところがある。それが霊に従っているということなのです。
忙しい、不景気、時間がない。ゆとりのあるクリスチャン生活なんかできっこないというイメージを持つような影響を、どこから受けたのでしょうか。そんなことを言うクリスチャンがいるのでしょうか?
世の中の情報が言葉として、あなたの思想、考え方、価値観に影響を与えて、「時間がない」という言葉の霊の影響を受けているということです。どうぞ、この世の霊「言葉」普通に使われている言葉に気をつけてください。
●10/09(木)(ヤコブの手紙3:9〜10)
“私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人を呪います。賛美とのろいが同じ口から出てくるのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。”
どうぞ相手を尊敬するために、神のかたちを見つけ出すということを、あなたの考えの中に優先的に持っていただいたら、平和がやってくるのではないかと思います。
●10/10(金)(ローマ人への手紙7:21〜23)
“そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。”
ここはよく使うみことばですが、本当に大事な箇所なのです。
私たちの内には、異なった2つの律法があって、善をしたいという心の律法があるにもかかわらず、逆の心があります。これをどのように理解するか、パウロのように罪の律法として自分とは別の意志がそこに働くというふうに考えるのか、思慮深く自分の心を整理してください。そしてパウロが言っているように、罪の律法と心の律法が戦いをしている、すなわち心の葛藤がクリスチャンにはいつもあるんだということを理解すれば、悩みがあり葛藤があって当然なんだ、それは健全な姿なんだと考えられます。
●10/11(土)(第1コリント人への手紙15:33)
“思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。”
まず自分に原因があるのではないか、と自分を深く探って反省します。見あたらなければ、自分の近くにいる人から、あなたの正しい良心の判断を揺さぶり、悪影響をもたらす種を蒔いている人はいないかということに目を向けていく。これも思慮深さの発展です。
それは人を責めるためではなく、自分の間違いを正して、2度と同じ間違いをしないように防御するための原因を見つけるということです。原因がわかったら、その人と距離を置くという防御の仕方もありますが、いつも人との距離を持つと自分勝手になり、孤立してしまいます。ですから、皆さんにチャレンジして欲しいことは、悪影響を受ける前に、良い影響を与えるという積極性を出していくということです。相手が否定的な言葉を投げかけたら、その2倍も3倍も良い言葉で返すということです。
相手に誉め言葉や、肯定的な言葉を返していくことにチャレンジする一週間になっていただけたら、さらに思慮深さが生まれてくるのではないかと思います。
■2008年9月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
恬淡寡欲 てんたんかよく up
2008.9.28
ものごとにあっさりしていて、欲が少ないこと。
善人は主から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す。悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける。
(箴言12:2〜7)
1.聖書における正しい者と悪者の区別(マタイの福音書23:27〜28)
“忌わしいものだ、偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。”
『偽善者』→本心からでなく、みせかけにする善事。
『白く塗った墓』→人には綺麗に見せることができるが、神は内側を見られる。
世の中の人々は、欲望を満たすことが人の本心、自分の欲が満たされたら幸せ、と考えています。良い動機は元々神を敬う心、親切は神を畏れる心から出ます。神の存在を考えない人は、自分の利益を考えて親切を施します。「親切をしてやったのに!」と見返りを求めます。神を畏れる人の親切は、困っている人を助けるのが自分の幸せと考えるので、お礼がなくても気に留めません。お礼が帰ってこないと腹立たしく思うのは、利益を求める自己中心があることに気づくことです。
悪者は神を心の中に置かないで自分が中心となる、物事の価値判断をします。正しい者は、神を畏れる敬虔な心から、良い動機で親切を施します。
2.正しい者と悪者の違い
『正しい者は、神の教えに立った道徳観を持っているが、悪者は、自らの考えによる道徳観を持っている。そして、常に神の教えよりも自分の考えを優先させる。』
『神』→治める者、創造者、法の基準である方。敬うべきお方。
『神の教え』→的外れをしないためのもの。
『的外れ』→神の形からそれること。
私たちは、正しい者となるか悪者となるかの決断を、いつもどこかでしています。神の存在を軽んじると、つい悪者の方の動機・自らの考えによる道徳観により物事を考え、判断(決断)してしまいます。神の教えが来ても、「それも一つの考えだな」と、自分の考えを優先させてしまうのです。
神様は「治める者」「法の基準」です。「助けを与える方」ではありますが、それは一部分です。神様は「平和を保つため、治める者」であり、創造主であるため、被造物を治める権威を持っておられます。「神様!」と呼んだ時、あなたを治めておられるお方、という尊敬の気持ちが含まれていることを意識してください。
「神の教え」は、的外れをしない(罪を犯さない)ためのものです。縛って窮屈にするためでなく、間違わないため、間違ったら元に戻すために、「神の教え」があります。
創世記にあるように、「神のかたち」に造られた私たちがその領域から外れるときに、「的外れ」の領域に入ったことになります。 あなたの描く「神概念」の中で、自分の決断をしていくことになりますから、同じクリスチャンでも、その人の描く「神概念」の違いにより、その人の「信仰生活の聖さ」が異なってきます。
その概念は、神の教えを深く知れば知るほど、神の教えの枠の中に正確に納まっていくよう、願うようになります。神の教えに立った道徳観・世界観を持って歩む人が、「正しい人」という言葉の意味です。
世の中の諸宗教は、それぞれの自分の悟り(自分の考え)、自分の経験(体験)、聞いたことから作り上げた道徳観を、神から与えられたものとしています。しかし自分(人)の悟りは、神の教えと同じものもあれば、違うものもあります。クリスチャンは、神の啓示だけでなく、すでに与えられている基準の「みことば」がある中での啓示なので、大きく外れることがありません。「みことば」に照らして、自分に与えられた啓示が正しいものかどうか判断できるからです。
天地を造られた神は、ご自身を信じる者、ご自身に対する正しい良心を働かせる者を見分けるために、御子イエス・キリストを地上に送られました。
神は「イエス・キリストを信じる者でなければ、天地創造の神のみもとに行くことができない」というルールを作られ、これを通して、天地創造の神を信じることのできる良心を持っているかどうかを測られています。また、このルールを信じるかどうかは、その人の生活の中でみことばの約束の実を結ぶかどうかの違いが出てきて神の御前で裁きを受ける時にそれがはっきりするのです。
イエス・キリストの十字架の救いを、単に罪の赦しとして考えるのではなく、神は創造主・愛なる神・聖い神・正義の神と確信することです。この確信がなければ「私は弱い。罪を犯しても赦されるから、まあいいか」という安易な考えが生まれます。クリスチャン生活の中で、真剣に神様と取り組む時が必ずやって来ます。そこで神を諦めてしまう人は、そこまでの道徳観をもっての人生しか送れません。求めて見出した人は、更にキリストに近づく道徳観を持った人生へと進めていくことができます。
求めるかどうか、永遠への責任を持って自ら選び取っていかなくてはなりません。
●09/29(月)(箴言12:2)
“善人は主から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。”
「恵み」の必要な人は悪人ではないか、と思ってしまいますが、善人も敬虔さのゆえに「悔い改めの恵み」をいただきます。
罪を犯さない人は誰もありません。善人であって、完璧にしたつもりでも、失敗することがあります。しかし失敗した時、どう考えどう対処するかが大切です。
「神様、ちゃんと確認したのにどうしてこうなったのですか」と祈るのは悪人です。善人はへりくだり、「神様、私にはまだまだ気づかなかったり、落ち度がある者です。どうぞ、お赦しください。今後更に気を配って、このようなことが起こらないようにします。」と心を砕いて祈ります。
この時神は「赦しの恵み」をくださいます。
悪人は、「悔い改めれば赦される」と、形だけ悔い改めるので、心に隠れた不敬虔のゆえに、悔い改めても罰を受けることになります。自動販売機にコインを入れたら飲み物が出てくるように、悔い改めたら自動的に赦されると考えるのではなく、本心から悔い改めをしないと、赦しの恵みは受けられないのです。
●09/30(火)(箴言12:3)
“人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。”
解釈の一例=正しい人は、神が目的を持ってすべてを造られたことを信じているので、不安や迷いに陥ってしまうことはない。
しかし、進化論を信じる不敬虔な悪者は、見えるものや感じるものに左右されて安定しない。
この世の成功者、財産のある人ー特に株主は、株価や為替レートの変動について、精神的に大変な毎日を送っています。1円の変動が数十億円の損得になるからです。
一方クリスチャンは、目先の出来事で人生の根本まで揺らぐことはありません。歴史は神が造られる。様々な社会現象の中で、神様が何らかの目的を持って(お考えがあって)、私たちを導いてくださっていると信じて、このことはどういう意味か、とみことばから祈りの中で神様のお考えを教えていただいて安心するのです。
●10/01(水)(箴言12:4)
“しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。”
解釈の一例=しっかりした妻(正しい人)は夫(神)の冠(栄光)。
恥をもたらす妻(悪人)は夫(神)の骨(真理)の中の腐れ(つまずき)のようだ。恥をもたらす妻が、悔い改めるのを、愛をもって待っている。
神のかたちに造られた人間が、そのとおり生きず、悪者として生きるということは、神様の骨である真理を腐らせる(人々をつまずかせる)ことになるのです。
神様は完全なお方であるのに、どうして骨が腐るのでしょうか。神は善人も悪人も自分の体の一部としてその痛みを耐え、癒され、健全な骨となるようその回復の悔い改めを待っておられます。
●10/02(木)(箴言12:5)
“正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。”
正しい人は「結果良ければすべて良し」とはしません。しっかり神の道を歩み、プロセスを重視します。良いプロセスは必ず良い結果を生み出すと信じて、神の前に公正な計画を進めていきます。
地上だけの人生を考えるのではなく、永遠をゴールとして目指す、落ち着いた人生のプロセスを歩みます。
広島エルサレムプランも、プロセスが大切です。いろいろ困難があってすぐに実現しないとしても、私の生きている限り努力するプロセスを、神の前に公正をもって一歩一歩前進することです。神の考えておられる千年王国の中で、広島エルサレムプランは完璧に成就すると信じ、無理をしないで、自分の持てるもので力を尽くしていけば良いと思います。
●10/03(金)(箴言12:6)
“悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す。”
「いじめ」を例に取ると、いじめる側は人を苦しめ、悲しませることが面白い、楽しい、気持ち良いことから安心感を持つのです。 自分の痛みを取り除くために、苦しみを紛らわせるために相手を痛めつけるのです。これが悪者の安心を得るやり方です。どこかでいじめられた人は、自分より弱い者をいじめて、自分の苦しみ、辛さを紛らわせます。夫は妻にあたり、妻は子どもにあたり、子どもは犬や猫にあたり、犬や猫は柱をひっかくのです。受けた痛みをどこかにぶつけないと、安心しないのです。しかし私たちクリスチャンは、弱い者の辛さをイエス様を通して知り、あわれみの大切さを教えられましたから、いじめられたら、いじめられた人の気持ちを汲んで、弱い人を助けて平和を作っていくのです。
正しい人は、人の苦しみを見て平安を得るのではなく、人が幸せになるのを見て安心するのです。いじめられたら、弱い人に親切を施して幸せを保ってください。
●10/04(土)(箴言12:7)
“悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける。”
人は死んだ後、神の前に立って裁きを受けることが定められており、その時悪人の成功は空しくなります。
私たちはそのことを知っているから、神の前に正しいことをして苦しみを受けることも良しとします。サービス残業をしても、神は報いてくださると知っているので、給料として今受け取らなくても、神の御前に立つ時、霊的な祝福を豊かに与えてくださると信じ、感謝できるのです。
正しい者は神の御前に立って裁きを受ける時、滅びないで永遠の神の御国に入り、その家は永遠に立ち続けるという希望があるのです。
これらの箴言の「正しい者」と「悪い者」の比較を通して、何を悟るべきでしょうか。
第一は「創造主なる神がおられる」ということを悟ることです。
その悟りによって、正しい者として生きる道を歩めるのです。
第二は「神の前に裁きを受ける時が来る」ことを本当に意識するということです。そんな時は来ない、とこの世の不敬虔な人たちは言いますが、私たちはその時までに、自分の直すべきところを直しておきましょう。また、そのための時間が与えられていることを感謝しましょう。
■2008年9月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
恬淡寡欲 てんたんかよく up
2008.9.28
ものごとにあっさりしていて、欲が少ないこと。
善人は主から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す。悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける。
(箴言12:2〜7)
■2008年9月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
知徳俊英 ちとくしゅんえい up
2008.9.21
優れた知識と道徳を兼ね備えること。また、そのような人。
訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ。
(箴言12:1)
「知徳俊英」とは、学識があり、人格的にも優れた成熟した人のことです。箴言12章1節の「訓戒を愛する人は知識を愛する」ことを通して、「知徳俊英」の領域に成長します。
1.訓戒を愛する者は知識を愛する。
『訓戒』=教えさとし、戒めること
「さとし」には、間違いを指摘され、理解し、正しい方向へ直されていく目的があります。「神託」という神のお告げという言葉からきており、私たちに言い聞かせるべき神様からの教えのことです。
ですから「訓戒」には、神のお告げのように権威を持って、権威を畏れる心に語られるべきものです。反感を持った態度に語っても「火に油を注ぐ」ようなものでますます悪くなります。
『戒め』=まだ悪い結果は出ていないけれど、放っておくとだめになってしまうので用心させ、道を外す前に道を外させないように教えさとすことです。
『知識』=ある事項について知っていること。単なる情報だけでなく、経験・体験としてのものもすべて含みます。
『知識』がもたらす良い効果
(1)動機を生かす(ローマ人への手紙10:2)
“私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。”
ユダヤ人たちは、神様に対して非常に信仰熱心でした。しかし、上べっつらの知識しかなかったので、感情に負けて熱心さが行き過ぎて仇になる、という現象が起こりました。
私たちの信仰も、熱心さがかえって人のつまずきにならないように、聖書から知識を蓄え、熱心さを上手に伝えるアドバイスをするよう、心に留めていきましょう。「熱心」がよくないのではなく、「熱心すぎる」とは知識が足りないことを表しています。
(2)正誤を正確に区別できる(第1コリント人への手紙15:34)
“目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。”
欧米諸国はキリスト教文化を重ねてくる中で、聖書の知識を正しく受け止めていないために、戦争、人権無視等の矛盾を目にすることがあります。正しい知識が増せば、決してあのような状態は起こらないでしょうし、神への信仰も増し加わったことでしょう。私たちも多くの情報を提供し合えば、互いの信頼関係は増してきて、良い関係を持てるようになります。
神様に対しても、正しい知識を持てば持つほど、歴史上で神様がなさっている様々な出来事を前向き、肯定的に受け止められ、「すべてを委ねる」信頼を持つことができるようになります。そうすると、何が正しくて何が間違いかをシビアにはっきりと区別できるようになります。たとえば、殺人を犯した人の行いは確かに悪いものですが、その人の生活環境、社会の影響もおもんぱかることができるようになります。私たちは、神への正しい知識を持って、世の中を見分けていくことができるのではないでしょうか。
(3)互いの愛を豊かにする(ピリピ人への手紙1:9)
“私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、”
2番目のポイントと同じように、多くの情報が与えられ、たくさんの経験を通して知識を得ていくと、愛がどのようなものか見えてきます。現代社会は愛について教えられることが難しい時代です。損得勘定で考える資本主義社会の構造が人の心を蝕み、損得勘定で愛を考えるようになりました。
“的外れについて、神のお告げのように言い聞かせられ、あやまちのないように注意されることを大事にする人は、動機を正しく生かし、正誤を正確に区別する知識として訓戒を受け入れる。それは、互いの愛をも豊かにする。”
2.叱責を憎む者はまぬけ者だ。
『叱責』=しかりとがめること。感情的にも責め、戒めること。
『憎む』=相手を倒したいという敵対心を抱き始めた時、起こる気持ち。
憎しみとは罪から出てくる感情の動きで、罪に影響される領域の中にあります。私たちは肉体を持っており、その中に罪が宿っていると聖書に書かれています。
その罪は私たちに憎しみをもたらし、欲求を阻む神の教えに対して不快感や抵抗感を持ちます。そして私たちの感情に伝えて、私たちは神に対して反抗的になってしまうか、訓戒や注意を与えてくれる人に憎しみを持ってしまうのです。
“しかりとがめられることに不快感・抵抗感を持ち、復讐心を抱くものは、人生において様々な欠点や不備を招く者である。”
●09/22(月)(ローマ人への手紙10:2)
“私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。”
私たちの持っている熱心さが、キリストの良い情報を与えることのできない熱心さならば、それはキリストの証にはなりにくいものです。どうすればキリストへの熱心さが理解されるかを考えながら伝え方を前もって準備しておく必要があります。そのために多くの知識が必要ですし、適切な言葉かどうかも考える必要があります。励ましているつもりが、かえってだめにしてしまうことさえあります。熱心さだけでは物事を正しく伝えられないことを心得て、会話に気をつけていただきたいと思います。
●09/23(火)(第1コリント人への手紙15:34)
“目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。”
イエス様の救いによって与えられた自由が、知識がないために放縦になってしまうことがあります。自由と放縦の違いを見分けるために、知識が必要です。神様がどんな動機と思いで救い主イエス・キリストを私たちのためにお遣わしになり、十字架において苦しみを受けられたのか、正しく受け止めていかなければ、単に「罪赦されて楽しもう」という自由だけが強調されてしまいます。そこに神の大きな愛が含まれており、神を悲しませることのないような楽しみ方にすることを忘れてはいけません。
世界では、いろいろな宗教的事件が起こっています。熱心な宗教家が過激派として行き過ぎて、本来人を生かすはずの宗教が、人を殺す方向へ走ってしまっています。彼らは神への正しい知識を持っていないのです。かえって神へのつまずきをもたらしていると気づいていない、いや気づいていたとしても、神を畏れていないのでそんなことよりも自分の利益のみを追求しています。
私たちも、特に神の愛とあわれみの深さについて知識が少なすぎると、神様に対して傲慢な態度を表し、愚痴・不平を言ってしまいかねません。ぜひ、正しい知識を聖書から一つ一つ得ていっていただきたいと思います。
●09/24(水)(ピリピ人への手紙1:9)
“私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり”
私たちの内に豊かな愛がなければ、物質的豊かさはかえって不幸をもたらします。ですから、神様の愛についての真の知識である聖書から、私たちはしっかりと家族愛・友愛・夫婦愛などの愛について、正しい知識を得ていくことが必要です。
キリスト教式の結婚式の司式者が牧師であれば、夫婦の愛についてしっかり教えさとします。しかし最近は、愛についてそのように教えてもらう場がほとんどありません。愛は単に学問上の知識ではなく、体験的なものです。お金によって愛がなおざりにされている日本の風潮の中で、私たちは真の知識を持っている者として、「愛はそのようなものではない」と、もっと証する必要があるのではないでしょうか。水曜日はぜひ、愛を分け与えていくことにチャレンジしていただいてはいかがでしょうか。
●09/25(木)(使徒の働き20:31)
“ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。”
パウロは、エペソというクリスチャンがいない地域に教会を作り上げました。その3年の間、複数の指導者を立てるほど教会は増え広がりました。そしてエペソの近くのミレトで、エペソの教会の指導者たちに最後の別れを告げた場面での言葉です。
訓戒には、深いあわれみの涙が必要です。訓戒を受ける時、愛を持って語ってくださると信じるなら、傷つくことは少ないです。
仮に未信者からであっても、神様が「私に訓戒してくださっている」と受け止めましょう。神は御子イエス・キリストを十字架にかけるほどに私たちを愛してくださっていますから、私たちをだめにするような怒り方をされるはずはなく、不敬虔な人を通して「私の傲慢さを砕き、きよめてくださる」と、神の愛から来ていることだと、神に信頼し、受け止めてまいりましょう。
また、訓戒を与える時は、涙をもって(どれほどの深いあわれみをもって語っているかを相手に伝えてから)でなければ、相手は受け入れにくいでしょう。たとえば親から子への訓戒をする場合、親が「自分の身を守る」ような言い訳っぽい訓戒ならば、子に伝わるはずがなく、親が自分の身を呈しての自己犠牲愛が伝わるような前置きの言葉は大切です。感情的にその場でやってしまわないように気をつけたいものです。
●09/26(金)(エペソ人への手紙4:13)
“ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。”
熱心さのみに進みがちな信頼の気持ちを正しくコントロールするためには、御子イエス様についての知識が必要です。
たとえば、社長は温厚でも、部下の言葉如何で社長のイメージがうまく伝わってない時があります。私たちは直接、イエス様について知識を正しく得ることによって、神様が私にどんなことをしてくださったかを正しく判断することができるようになります。
●09/27(土)(詩篇92:5〜6)
“主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。まぬけ者は知らず、愚か者にはこれがわかりません。”
なぜ「まぬけ者は知らず、愚か者はわからない」かというと、神を認めたくないからです。神がおられることを認めると、自分にもたらす利益が制限されるなど、不都合だからです。
「神についての知識を聞いても無意味だ」と、世の中の不敬虔な人たちと同じような気持ちになってしまわないように。せっかく与えられた神様についての良い知識を、歪んだ社会でも正されるようにと、神はあなたを用いたいのです。ぜひ応答していただきたいと思います。
人類が自分勝手に自然破壊をしている状況でも、神様はその人類も守り、自然も維持してくださっています。神様は、人間の愚かさを自ら悟る時間を与え、互いに協力し愛し合う実際的行動に移すよう、忍耐強く地球環境を維持してくださっていると、私(辻牧師)は捉えます。神様が私たちのために、どんなところに深い御計らいをもって営みを支えてくださっているかを考える、敬虔な心を毎日持つことも大切です。
どうぞ、知徳俊英を目指した一週間としてください。
■2008年9月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
人心収攬 じんしんしゅうらん up
2008.9.14
多くの人々の心をとらえてまとめること。
正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。
(箴言11:30)
正しい者の結ぶ実と、知恵ある者の結果は「いのちの木」というもので表現されていますが、それを具体的に言うと、「人の心をとらえる」という実を結ぶ、ということだと思います。
皆さんは、神を畏れる敬虔な人であるならば、知恵ある人です。知恵ある者は人の心をとらえるとあります。人の心をとらえるとは高く評価され、信頼を勝ち取るという意味があると思います。
クリスチャンは自分をダメな者だと口にすることが多いかもしれません。それは社交辞令的なものならいいのですが、本当にダメだと思ってしまうのは自分を欺くことになり、良くないことです。
確かに神様を信じるまではダメだったかもしれませんが、今は神を信じて知恵ある者となって、人々から信頼されるしっかりとした人格者なんだと、自分の人生に自信を持って歩んでいただきたいと願い、このところのポイントをとりました。
クリスチャンは平和を造り出す者です。ですから別にリーダーシップをとらなくても、何かの時にあなたの一言が人々の仲介となりまとめることのできるような存在。そのような神の子としての歩みを目指していきたいなあという意味で「人心収攬」を選びました。
では、人の心をとらえるとはどういう意味かを考えていきましょう。
1.人の心をとらえるとは?
単なる注目ではなく、その注目を保ち続ける状態が、「とらえられる」ということなのですが、人の心をとらえるとは、心(たましい)の必要に応えることではないかと感じます。
私はイエス・キリストにとらえられていますが、他の興味深いことにとらわれていることもあります。
人によってはお花に興味のある人、旅行が好きな人、芸能界のスターにとらわれている人、スポーツ選手のファンだという人がいるかもしれません。
そのように人々は、心を満たすために何かにとらわれるのです。心を何かで満たしたいのです。では人の心は何を求めているのでしょうか。
(1)「存在価値」
まず「存在価値」というものに人の心は興味があります。それはどういうところに表れるかというと、愛されたい、愛したいという気持ちを持っているということで、それで自分の存在に対する価値を見出そうとしている、という意味だということです。
私の存在はどれほどのものであろうか、価値あるものと評価されているだろうかと、高く評価されることを求めて、そのような思いを心に満たしたいと思うがゆえに、何とかして愛されたい、何とかして人を愛する者になりたいということですね。
さらに人の心の中には、常に役立つ存在でありたいという願望があります。尊敬される者でありたいということです。
これらはすべて、命を持っている者の健全な願いです。ですから私たちが愛されたいという気持ちを持つことは、決して罪ではありません。また人の役に立って尊敬される人間になりたいと思うことは決して傲慢ではないのです。それは求めても良いものであり、それを求める心は健康であるという証でもあるのです。
ただ、人を傷つけ、人をさげすみ、そして自分がのし上がっていくというようなやり方で、尊敬を受け、役立つ者としての存在を見出そうとすることが傲慢であり、罪の領域に入るということです。どうぞその辺をしっかり理解しておいてください。
人はまず「存在価値」を非常に求めている。自分の存在も相手の存在も含めて、その存在の価値はどれほどのものかということに対して関心がある。それは自分自身の存在価値を求めていることの表れだということです。
(2)「共有する喜び」
2番目は「共有する喜び」というものを人の心は求めています。スポーツでも個人種目よりも団体種目の方が人々にも喜ばれるし、選手たちも団体種目の方が関心が強く、もっと力が出るようです。人はチームワークを造ることを切望しますね。また、家族愛を持ちたいとか兄弟愛を求めて、血のつながりはなくても親友以上の強い絆で結ばれるために、兄弟の契りを結ぶこともあります。それは、「共有する喜び」を求めている表れです。
そして、自分の信頼しているものと同じようでありたい、自分の愛する者と同じようになりたい、また一つになりたいという気持ちも、「共有する喜び」を求める心の願いから出るものであり、幸せを共有したいという気持ちも同じです。
しかし全部を自分に合わさせようとする、自己主張の強すぎる者がいると、せっかく「共有する喜び」を得ようとしても、かえってそれを壊してしまうという結果を生み出します。人はみんな健全な心である「共有する喜び」を持っているのに、それを満たそうとする方法が的外れになってしまっていることが多いのではないでしょうか。
戦争も、どのように幸せを作り上げるかという政策の違いにより起こります。みんな幸せになりたいと願っているのはわかっているのに自分の幸せを人に押しつけてしまい、その押しつけに対して受け入れられない相手を滅ぼしていく、というのが戦争です。
でも戦争も同じ幸せを共有したいという動機から出ているわけで、そこが人間の心の複雑で矛盾している部分ではないかと思います。それが罪の奴隷となっているのだということを認めようとしないがゆえに、その問題が解決されないというのが、今の現実の世界だと思うのです。
私たちクリスチャンはその根本的問題を解決しました。互いに赦し合い、受け入れ合うということを神様の前に決心して、この「共有する喜び」をクリスチャン生活の中で味わっているのです。
(3)「確かな明るい未来」
さらに、人の心が求めているのは「確かな明るい未来」です。
人はみんな、今幸せでも明日幸せかどうかということに対する不安があると、今の幸せさえもだんだん不安になってしまいます。それはたましいがいつも「確かな明るい未来」を願っているということの表れです。
以上の3つがすべての人に共通しているたましいの根本的な願いの要素ではないかということで、選ばせていただきました。
この3つをイエス様が持たれていたがゆえに、多くの人々の心はイエス様にとらえられて、集まってきたわけです。そして今、あらゆる国でこのイエス・キリストの救いが宣べ伝えられ、神の御霊にとらえられた多くの人々が全世界で活躍しているのです。
イエス様が私たちの願いである「存在価値」「共有する喜び」 「確かな明るい未来」という願望を満たしてくださるものを持たれた、すばらしい人格者であり、心の必要に応えることのできるお方だから、人々はイエス様に心がとらえられていくということです。
皆さんはイエス様に心がとらえられているでしょうか。それとも他のものにとらえられて、それがかなうためにイエス様を利用してはいないでしょうか。私たちは紙一重で、そのような的外れな考え方を持ってしまうような愚かさがあるので、気をつけたいですね。何があろうとも、イエス様に心が向いていたら、私は幸せですと言い切れるでしょうか。考えてみてください。
2.心の必要を満たす十字架のみわざ
◎存在価値を満たす私たちへの神の愛(ローマ人への手紙5:8)
“しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”
神様はどれほど私たちを愛してくださっているのでしょうか。その愛はどのような形で表されたのでしょうか。それは、「キリストが私たちのために死んでくださった」ということばの中に表現されています。このキリストは、神のひとり子と言われる方です。
ひとり子というのは代えることのできない存在であり、父なる神様は一番大事なものを身代わりとしてでも、私たちを罪の奴隷から救いたいと願われて、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになったというわけですね。大きな犠牲ほど、どれくらい愛を注いでいるかということがはっきり見えてくるわけです。ですから神は、私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
だから私は神に愛されている、ひとり子を犠牲にしてまでも私を生かしたいと思うほどに、私の存在に対して大きな価値を見出されているという、そこに心を向ける時に、失望せず落胆せずに、それほど愛してくださっている神様が私をダメにしてしまわれることは決してない、と希望を持つことができるのです。
たとえあなたが神様に愛されていないんじゃないかと感じたとしても、神様からの愛は絶対に変わることはないと聖書に書かれていますから、どうぞその愛を信じて、私は神様の前に存在していい価値ある者なんだと、自分自身にしっかりと良い評価を与えていただきたいと思います。
◎共有の喜びに満たされる相互愛(第1ヨハネの手紙4:11)
“愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。”
知らない者同士でも、神様に愛されている者同士という共通点があることに気が付くと、互いに愛し合うという関係が生まれます。クリスチャンは仕事場でも、単に仕事をしているという関係だけではなくて、私たちは神様から大事な存在と見られているんですよ、と知らせてあげると、そこにチームワークができます。良い関係が生み出されていくのです。私たちは平和をもたらしていくことができるものをいただいているということです。
十字架がそれを実現してくださいました。十字架によって神の愛が私たちに明らかにされています。みんな同じように愛されていることの証がそこに表されているから、私たちは互いに仲間として神の家族として愛し合うことができるのです。
◎確かな明るい未来(テトスへの手紙3:7)
“それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。”
私たちの将来がどうなるのかということがはっきりしていないということは、非常に不安要素が大きいわけですが、それを考えても解答が得られないと、あきらめてしまい、今を目標にしてしまいます。明日はどうでもいいじゃないかと、要するに未来に対する明るい希望を確信していないために、刹那主義の人生に世の中は変わってしまいました。
しかし私たちの人生は地上だけで終わるのではなく、肉体を離れた死後の世界もあるんだということを、イエス・キリストの復活を通して神は教えておられます。人は肉体だけで生きているのではなく、体は土に戻り滅んでも、たましいは永遠に存在するということです。
そのことを証することができるのは、そこにおられる方がやってくることが一番確かなものであって、イエス・キリストは天から下って来られた救い主です。イエス・キリストは一度死を体験しなければ行くことのできない世界があることを伝えるためにこの地上に来られたのです。処女マリヤから生まれるということを通して、超自然的な世界があるということを証されました。
実際に死後の世界である神の国から下って来られたイエス・キリストが、この地上の歴史の中に表れてくださったことを信じて、明るい未来が待っているという人生を、クリスチャンは今歩んでいるのです。
■2008年9月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
漱石枕流 そうせきちんりゅう up
2008.9.7
強情で、負け惜しみが強いこと。
自分の富に拠り頼む者は倒れる。しかし正しい者は若葉のように芽を出す。
(箴言11:28)
これは中国の孫楚(ソンソ)という偉い人が間違って言ってしまったことばです。彼は間違ったことを訂正するのがいやで、無理矢理こじつけてしまいました。
「石で口をすすぎ、水の流れに枕する」これは全く逆ですが、彼が言い張ったために、このことば自体が強情で負け惜しみが強いことを表すことばになってしまいました。
夏目漱石というペンネームは、実はこのことばに由来しています。
しかし私たちは、このような強情さを持ち続けていたら倒れてしまいます。
1.(箴言11:28)の意味を考える
神の恵みを無視し、自分の力に拠り頼む人生を続けていくなら、結局その人は死に際に何一つ報われることはありません。報いは神の恵みによるからです。
しかし正しい人は神の恵みを重んじ、律法を守ろうとします。何度失敗しても、神の前に正しく生きようという動機をいつも持っているなら、たとえ律法的には罪人とされても、そういう人は信仰による義人とみなされます。
ただ、動機が正しいという人でも、その人が義人とみなされるには一つの条件があります。それは犯した罪をそのまま放っておかず、必ずその罪を処分することです。
この罪を処分するために、身代わりとなる方が必要でした。信仰による義人は、私たちの罪を身代わりとなって負ってくださったイエス・キリストによってのみ、初めて成立します。すべてはイエス・キリストの十字架によって全うされるのです。
自分の肉に拠り頼んでいる人は、倒れたなら二度と立ち上がることはありません。しかし、神の恵みを重んじる、信仰による義人は、倒れても必ず立ち上がることができます。これが両者の大きな違いなのです。私たちはイエス様の十字架によって、いつもチャンスが与えらています。素直な心で、神の恵みに拠り頼んでいきましょう。
〜Q&A(なぞなぞ)〜
Q.ペテロが水の上を歩いた…というお話から。
水の上を歩かせてくださいと願ったペテロに対してイエス様はこう語られたとします。
「ペテロのままでは沈んでしまうが、シモンとなれば、水の上を歩くことができる。」
どうしてでしょうか?皆さんわかりますか?
A.ペテロは『岩』、シモンは『葦』(植物)です。
岩は沈み、植物は水の上に浮きまず。つまり強情なままだと岩のように沈んでしまいますが、その強情を砕けば、柔らかい素直な葦のようになって、水の上でも歩ける…ということです。
シモンという名をペテロと改名されたのはイエス様です。岩は安定し、しっかりと立つという良い意味がありますが、悪くすると「頑固さ」につながってしまいます。そしてなかなか砕かれません。時と場合によってシモンになり、またペテロになるということが必要です。イエス様はそれでいつも、彼を「シモン・ペテロ」と呼ばれたのではないでしょうか。
強情さを貫いていくと、いずれは倒れてしまいます。
2.今週のポイント
◎信仰による義人のうちには、回復できるいのちが与えられている。
私たちは、イエス・キリストのよみがえりの力が与えられています。何度悔い改めても、なかなか罪から離れられないという弱さを持っていても、あきらめてはなりません。何度でも悔い改めましょう。
◎自分を誇る者は、自分の弱さや失敗を隠そうとする。しかし、神の恵みに拠り頼む者は、ありのままの自分を受け入れる。
自己受容ができる人は、自分の弱さや失敗も受け入れられます。開き直りとは違います。開き直る人は強情さを持っていて、素直にへりくだって謝ることができません。
私たちは本当に神の前に土の器に過ぎず、神の恵みなしには何一つできない者であると、へりくだって認めましょう。そういうへりくだった人は、完全に自己受容できる人です。
◎神の恵みによって生かされている日々を感謝し、福音に生きる。
福音による神の恵みは「赦し」です。赦されているからこそ、罪人がやり直すことができるのです。
●9/08(月)(ガラテヤ人への手紙6:14)
“しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。”
「十字架」は唯一のものです。人類の罪のために、身代わりとなって裁きを受けられた救い主はイエス・キリスト以外にはいません。この方を信じることこそ、私たちの誇りです。
イエス・キリストは、どんな宗教の人であろうと、すべての人類のために死なれました。ですからたとえ異教の人であっても、イエス・キリストを信じたら救われるのです。この方を信じる人はみんな救われます。
ある仏教のお坊さんが言われました。「キリスト教は罪の赦しがあるのですばらしい。悟りは仏教が深いけれど、仏教には罪の赦しというものはない。」と。
善いものを善いものとして受け入れられる、へりくだった姿勢は本当に尊敬できます。
★.チャレンジ〜
私たち罪人が善い行いをして報いが与えられるのは、イエス・キリストの十字架の贖いがあるからこそです。
罪を犯した者がどんなに善いことをしても、一つの犯した罪で罰せられ、滅ぼされます。善行が神の前に報われるためには、その人が一つも悪いところのない、罪を犯していない状況でないとなりません。死刑になる人がいくら心を入れ替えて善行をしても、その罪自体は罰せられないと消えません。イエス・キリストの身代わりの救いがなければ、誰一人救われることはないのです。罪人にとって、これほどありがたいものはありません。
●9/09(火)(ローマ人への手紙6:13)
“また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。”
死者の中から生かされた者として、善を行うことに徹しましょう。どんなに罪を犯しやすい者であっても、神は日々引き上げ、生かしてくださいます。
自己卑下せず、悔い改めてチャレンジしていきましょう。
●9/10(水)(第1コリント人への手紙15:22)
“すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。”
キリストによって、すべての人が生かされます。
負け惜しみが強い……アダムは神に言い訳しました。これは死人を代表するようなものです。言い訳やこじつけで自己防衛し、正当化しようとします。しかし、負けを認め、素直に悔い改めるなら、神の赦しにあずかり、キリストに属して生きる人とされます。強さも弱さも、今の達し得た自分としてそのまま認められるなら、言い訳することなく、相手の忠告も受け入れることができます。
神に赦されている自分を受け入れている人は、隣人も受け入れることができます。
●9/11(木)(第2コリント人への手紙12:9)
“しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さの内に完全に表れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。”
「弱さを誇る」これは、弱さの内に神の力が完全に現れるからです。自分の富に拠り頼むのなら、そこに神の力は現れません。そして、本当は力もないのに誇っている状況になります。プライドの高さは良いものではありません。むしろ自分の弱さを神の前に自慢してみましょう。神の赦しが実感として心に迫ってきます。
●9/12(金)(第1コリント人への手紙4:7)
“いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。”
神がすべてのものを造られました。人はそれを利用させてもらっているに過ぎません。材料はすべて、命さえも神のものです。その原点をいつも覚えて、感謝しましょう。
いくらぐち不平を言い、失望落胆しても、神の恵みの豊かさは変わらないのです。そして、あなたへの神の深い愛は少しも揺らぐことはありません。このことを忘れてしまうと、自分の富、才能にいつの間にか偏ってしまい、誇ってしまいます。すべては神の恵みによるのです。
●9/13(土)(箴言24:16)
“正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。”
どうして正しい者は起き上がれるのでしょう。それは自分の弱さを認め、神に助けを求められるからです。しかし悪者とは強情で決して神を認めないので、神に助けを求めません。正しい人は神に拠り頼みます。あきらめてはなりません。あきらめることは「自分の富」に頼っていたことになります。それは神様以外に拠り頼むものがあると思っているからです。自分で助かろうとしているのです。
「助かろう」とする気持ちと「助けてください」とすがる気持ちとは全く違います。前者は自分の強情をあくまで貫き、後者はへりくだる心を持つ人です。こういう人は、神の恵みによってどんな状況も乗り越えることができます。
あきらめなかったら、神が与えてくださっている恵みによって、どんなことでもできます。パラリンピックに出ている障害のある人々は残された機能を恵みと 受け止め、それを駆使してどんなことでもやってのけます。これは恵みによる信仰とも言えます。
クリスチャンはあきらめてはいけません。神の恵みを信仰によってしっかり受け止め、また起き上がって前進しましょう。
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