■2008年8月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一片氷心 いっぺんのひょうしん  up 2008.8.31


一片の氷のように澄みきった心の意から、名利を求めない潔白な態度のたとえ。


熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。
(箴言11:27)


 

 

 名声、名誉、富を得るために善を行うのではなく、神の前に潔白な心。これが熱心に善を求める者の心だと捉えました。澄みきった心は私たちの神を畏れる正しい良心です。澄みきっていない部分は肉の欲から来る自己中心の心です。いつもこの二つの心が私たちの中にあると感じています。
 しかし案外、欲望は感覚として五感に伝わってくるものですから、そちらに意識がいってしまうので、一片氷心はないと思ってしまいます。しかし歴史的事実としてイエス・キリストの十字架が成就した以上、あなたの正しい良心はキリストと共によみがえり、生き、存在しています。その心は澄みきった心です。事実を手にするためには信仰が必要です。

1.『善』(第3ヨハネの手紙1:11)
“愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。”
善=正しいこと、道徳にかなったこと、すぐれたこと、好ましいこと、仲良くすること
 聖書から考えてみると、『善を行なう者は神から出た者である』すなわち、神から生まれ出たということですね。善を行う者のふるさとは神、善を行う者の出発点は神です。
『悪を行なう者は神を見たことのない者です』すなわち、神を知らないという意味です。知らないということは、その存在さえも感覚的に認めることができないということです。
 善というのは神様とのつながりが深く、神様に属していることだと解釈します。善と悪を見分ける時の基準は、善は神様に属することだと捉えることが一番正確です。
 さらに発展させると、神を知っている者は善を行えるということです。動機は全く神を畏れるところから出ているからです。聖書から見るならば、善を行うということだけに留まらない、奥深いものです。

2.『熱心に捜し求める』(マタイの福音書6:21)
“あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。”
熱心=飢え渇いている、強い願望、あきらめない
   強く願い求めている、力が湧き上がっている
捜し求める=高い価値評価をしている、必ず手に入れたいもの、宝
『熱心に善を捜し求める』という意味を考えると、『善という宝を捜し求めている者』ということです。『あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです』と書いてあります。
 神様がイエス・キリストを通して一片氷心という心を私たちに備えてくださって、善を求める澄みきった心があるにもかかわらず、善を宝としてその澄みきった心に満たそうという気持ちになれないのは、あなたにとって善は宝ではないということになってしまいます。
 正しい良心の内には、善を捜し求める気持ち、願いが宿っているはずです。しかしそれ以上に肉の欲望、自己中心の欲望が強いために、正しい良心の欲望が感じられなくなってしまう。どうして私はダメだと善に対してあきらめてしまうのか? 善が心を捉える宝となっていないのではないでしょうか。

3.『恵みを見つけ出す』(エペソ人への手紙1:7)
“私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。”
 『善を捜し求める者は、恵みを見つけ出す』とは、善よりももっと優れたものが恵みだということです。ダイヤモンドの原石を捜していたら、ダイヤの王冠を見つけたようなものです。目的以上のものを手に入れるということです。
 私たちは完全という時に、行いの完全さを意識してしまいます。神の前に良いと認められる正義の行い、公義の行い、常にそこに行いというイメージをプラスして考えます。『信仰は行ないによって全うされる』と聖書にもあります。それは律法という規定、規約からみた完全さです。
 行いによれば、人は神の前に完全ではあり得ません。恵みによって完全です。すなわち、あわれみを受け赦されているから、完全であり得るということです。(エペソ人への手紙1:7)には『罪の赦しを受けていることが、神の豊かな恵み』と表現されています。
 神様は私たちに欠点があっても、汚れているところがあっても、それをないものとして評価してくださる。赦しがあるから完全だということです。ですから私たちは、愛される存在としても完全なのです。私たちのありのままを愛してくださり、未熟さをも受け入れてくださる神様を、私たちは信じています。
 私たちは恵みによって愛される存在として生きていく。その中で善を熱心に求めていけば、今までできなかった善行さえもできるようになります。すべてそれは赦し、あわれみという恵みによることに気づき成長していくわけです。
 罪を犯し、失敗を通して行いによって評価しようとしていた自分。多くの善を行うことによって神に愛されようとしていた自分に気づき教えられていきます。
 クリスチャン生活は前に進むための努力が必要です。その努力に報いてくださるのは神様です。世の中は報われないことが多くありますが、クリスチャンはすべての努力に報いが与えられる、これがキリストの救いです。善を行なっていきましょう。

●9/1(月)(詩篇34:14)
“悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。”
 恵みによらなければ、平和は生まれてきません。恵みとは、すべての人は神に愛され、赦されているということです。力で平和を造り出すのではなく、「あなたも私も神様から赦されている者。だからもう争いは止めましょう。」これが平和を追い求める方法です。

●9/2(火)(詩篇53:1)
“愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。”
 不敬虔は魂を腐らせるもの。だから平気で不正を行い、それに気づきません。世の中に不敬虔な人々が多くいる中で、あなたは神様を畏れる心を持つことができるのは、努力ではなく、恵みです。そのような思いが霊的DNAとして組み込まれています。それは私たちが得たものではなく、与えられたものです。ですから、与えられた神を畏れる心を意識した決断をチャレンジしてください。

●9/3(水)(アモス書5:14)
“善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。”
 『一片氷心』とは神の前における正しい良心であり、私たちはそれを持っています。『善』を追い求める動機はそこにあります。
 損得を考えた善の行いは肉の心から出てきますが、正しい良心を動機とした善の行いは、神を畏れる純真な心から出てきます。その動機こそ、自分らしく生きることができる源です。

●9/4(木)(箴言3:27)
“あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。”
 クリスチャンには善を行う力が与えられています。キリストの復活によって、正しい良心がよみがえったからです。力量にふさわしく、愛による親切の種まきをしましょう。
 あなたの心にどんなに善に溢れた思いがあったとしても、あなたの持ち物において人に分け与えるほどの物がない場合は、力以上のことをすることはできません。力以上のことをするならば、そこに無理がたたって、罪を犯すことになってしまいます。

●9/5(金)(ローマ人への手紙2:10)
“栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての人の上にあります。”
 真実な神は、『一片氷心』をもって善を行おうとする人を尊ばれます。クリスチャンであるかないかではなく、熱心に善を捜し求める者に、栄光と誉れと平和を与えられます。あなたが平和を得たいと思うならば、善を行う者となってください。一片氷心のように、幼子のような神に対する素直な心を持って、ぜひ神を敬う者としてふさわしい親切を人々に行なって欲しいと思います。

●9/6(土)(ガラテヤ人への手紙6:9〜10)
“善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。”
『善を行なうのに飽いてはいけません』私たちは飽くほどに善を行うということはないと思います。なぜ『飽いてはいけません』とあるのでしょうか。『失望せずにいれば』とありますから、『無感覚、あきらめ』という意味合いが強いと思います。善を行っても相手に喜ばれない、失望させられるような状況にあったとしても、それにめげずに続けましょう。時が来たら必ず刈り取ることになります。

 神様からあわれまれ、赦されている者として、お互いに良いことを施す、小さな善行の施しにチャレンジしていきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年8月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   豪放磊落 ごうほうらいらく  up 2008.8.24


気持ちが大きく、小さいことにこだわらない様子。


ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。
(箴言11:24〜26)


 

 

 クリスチャン生活の三大柱として、神様は「愛する・きよさを保つ・与える」ということを教えておられます。今週はこの箴言のみことばから、「与える・施す」ことへのチャレンジを通して、与える喜びを見い出していただきたいと思います。
「ばらまいても、なお富む人がある」とは、ばらまいた人すべてが富むのではなく、与えても与えてもなお豊かになる人がいる、というものです。また反対に、惜しむ心があると貧しくなる、とこのみことばから言えると思います。
「おおらかな人」は、惜しむ心がほとんどない人です。物質的にも精神的にもおおらかさがある人は、人の心を潤し、安心させ、人に好かれ、良い友に囲まれるでしょう。
 「穀物」とは主食にあたるものです。これを売り惜しむとは、金儲けのために利用しようとする、貪欲な心があるということです。
「しかしそれを売るものの頭には祝福がある」とあります。作物を育てることは多くの労力を要します。そのような労苦をしながら、農家の方々は私たちの買える安い値段で穀物や野菜を提供して下さっています。そのことを思うと食事するたびに感謝していただく心が湧いてきます。私たちも、手助けが必要な人々に惜しみなく与える心を持って、与えることにチャレンジしていきましょう。
 与えるときに、この「豪放磊落」という心が必要です。小さいことに注意を払うことも必要ですが、それにとらわれてしまい、大事なことが実行できなくなってしまわないように、気持ちを大きく持つことが必要だということです。
 エルシャダイの働きも、NPO法人の申請が終わり、認可が出れば介護事業から始めていきます。これも小さいことにこだわっていくと経営的な困難さだけが見えてきます。しかし、だからこそ神様の前に約束のみことばを持って歩む事が必要です。神様の約束のみことばがあるなら、小さいことにこだわらずに気持ちを大きくもって、この働きを進めていくことができます。
 その根拠となるみことばを3つ紹介します。このみことばをもって皆さんにも「ばらまいても、なお富む人」となっていただきたいと思います。

●8/25(月)・26(火)「全てを恵んでくださる根拠」(ローマ8:32)
“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”
 私たちが神様に祈り求めるとき、神様が祈りに応えて与えてくださる根拠がここにあります。
 神様にとって最も価値ある御子イエス様を、私たちを罪から救い出すために、その犠牲としてお渡しになりました。しかし、神様はイエス様だけを私たちに与えられたのではありません。イエス様がすべてのものを私たちに与えたという証しとして、神様は十字架でその愛を示して下さったのです。
 私たちは自分が富むために求めるのではありません。必要のある人たちに与えるためです。どんなに一生懸命働いても虐げられている人たちがいます。私たちは、そういう人たちのためにばらまきたいと思います。エルシャダイの働きも、その思いから始めていこうとしているものです。
 このような志のある私たちに、御子をさえおしまずに与えて下さった神様は、ばらまくべきものを与えて下さらないわけがありません。神様の前に正しい良心をもってこの働きを成し遂げていこうという姿勢を、神様が祝福して下さらないわけがないのです。御子をさえ惜しまずに与えて下さったのならば、どうして私たちが与えることのできない状況のままにしておかれるでしょうか。
 「隣人を愛しなさい」というのは、隣人に与え、隣人を潤していくために、私たちの人生があるということではないでしょうか。与えられるだけでなく、与えられたものを通して与えていくことで、愛の流れが起こってくるのです。必要が満たされることよりも、与える方が先なのです。十分になくても、今持っている範囲で与えていくとき、神様は与えた分を補って下さいます。与えられるばかりではなく、与える方も考えなければなりません。
 ぜひ皆さんも、小さなことからでもみことばを実行していただきたいと思います。その中で、与えることのすばらしさ、そして神様が私たちひとり一人を通して人々の必要を満たしてくださるのだ、と知ることができます。自分のことだけ、自分の生活だけを考える世の中です。私たち、神を信じる敬虔な者たちは、愛を流し出す、惜しみなくばらまくという気持ちをもって、必要な人々に与えていくことができるよう、このみことばを信じていきましょう。

●8/27(水)・28(木)「栄光の富で満たされる」(ピリピ4:19)
“また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。”
 私たちは預金通帳を見て、「これだけあったら、このくらい使えるかな」と計算し、安心してお金を使います。おおらかな気持ちを持つとは、安心感があるということです。つまり、たくさん持っているなら、惜しむことなく与えることができるのです。私たちの内にある惜しむ心を取り除く、神の約束がこのみことばです。私たちの神様は、栄光の富を持って、私たちの必要を満たして下さる、だからどんどん与えていきなさい、とパウロはここで語っているのです。
 また「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とイエス様は語っておられます。このみことばは、私たち自身の生活の必要だけでなく、私たちが神のみことばを行い、御国のために働くためのすべての必要を満たして下さる、ということなのです。
 このみことばに立つなら、たとえ電気代が払えなくても、今は電気代を払うだけの必要をしなくていいのだ、電気を使わない生活を学ばされているのだ、必要はすべて与えられているのだ、と思うことができます。これが神様のきよめの働きです。このような謙虚な心を持つようにと私たちを訓練して下さっているのです。それは、与えられすぎても神様を忘れることのないように、窮しすぎても神様をのろったりすることのないように、敬虔な心が養われるためです。
 しかし、神様はいつまでもそのような状況に置かれることはありません。私たちが多くのものを正しく用いることができるために、まず私たちを整えて下さるのです。その上で、人々に与えたいという思いで、私たちが神様の御心を行っていくとき、神様はご自身の栄光の富をもって協力して下さるのです。それでも必要な金額が満たされないなら、試されているのです。必要はすべて満たして下さっているのだからこれで行きましょう、という謙虚さ、神を畏れる敬虔さがここで生み出されてくるのです。
 エルシャダイの働きも、決して楽なものではありません。困難もやってくるでしょう。しかし、みことばの約束があるからこそ、私たちはこれを進めて行くことができます。神様の御心を行なおうとするとき、私たちの神様は、惜しむことなく必ずすべてを満たして下さいます。どんな状況になっても、すべて感謝して、誠意をもって実行していきたいと思っています。捧げる・与えるという気持ちを持たれた方はぜひ、神様のためにばらまく、という信仰を試してみましょう。
 モーセの幕屋が建てられたとき、様々な技術や資材が必要でした。これらすべてはモーセの強制によるのではなく、手伝いたい、捧げたいと、神様が心に願いを起させた人々が携わったのです。
 もし、惜しむ心があるなら、無理に捧げたり与えたりするのではなく、惜しむ心がなくなるまで待ちましょう。惜しむ心が起こらない程度に捧げ、奉仕することが大切です。

●8/29(金)・30(土) 「蒔く種が与えられる」(第2コリント9:10)
“蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備えそれをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。”
 「施し、与える」という義の実を結んでいくために、蒔く種を神様は与えて下さいます。私たちの目的は、与えられることではなく、収穫、つまり義の実を結ぶことです。この目的から外れた願いを神様の前に持つとき、的外れの求めとなり、この種まきの法則は成り立ちません。もし信じているのにその通りにならなかった、ということがあるなら、もしかしたら目的から外れた願いを神の前に祈ってはいないか、とよく吟味することが必要です。神様はどんな人に種を与えられるのか、よく悟りましょう。義の実を結ぶために必要ならば、金銭や物質的なものだけでなく、寛容さや忍耐など性格的なものや霊的なもの、能力をも与えてくださいます。人々の幸せのために与えるものとなりたい、喜んで与える心を与えて下さい、と祈るならば、神様はその心を与えて下さるのです。義の実を結ばせるために、神様は種を与えて下さいます。私は何も無い、という人は感謝です。これから与えられるからです。与えられることを感謝して、互いに愛し合うという人々のために生きる人生を、主の前に歩んで行きましょう。
 何のためにこのいのちが与えられているのかをよく悟り、主の前に求めていきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年8月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   純真無垢 じゅんしんむく  up 2008.8.17


心に汚れなく、清らかな様子。


正しい者の願い、ただ良いこと。悪者の望み、激しい怒り。
(箴言11:23)


 

 

 (箴言11:23)は、純真さがない人はすぐ怒りを発散しますが、純真な人、正しい人は常に前向きに未来に対して良い思いを抱きながら歩んでいくという意味だと思います。
 今回、「正しい者の願い、ただ良いこと」を現した四字熟語として「純真無垢」を選びました。
 正しい者  =神を信じる純真な心を持った者
 願 い   =つぶやきと疑いにゆさぶられない願い
 ただ良いこと=否定的なことをいっさい取り除き、前向きに捉える事
 この新しい一週間、私たちの内に神の形に似せて造られた純真無垢な心をしっかりと支えていきましょう。ただし「すべての人は純真無垢な心を持っている」ことを大前提とします。神を認めるか否かで大きな違いはありますが、ともかくすべての人が持っているきよい良心に宿っている純真な心を大切にしてほしいというのが私の気持ちであり、神様のお気持ちだと思います。
 そこで、純真な心をどのように「ただ良いこと」に思いを潜めていくよう勧められているかを、3つのみことばからご紹介しましょう。

●8/18(月)19(火)「正しい審判者の存在」(第2テモテへの手紙4:8)
“今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。”

・義の栄冠=神の前における信仰による義を最後まで保ち続けた 結果、得る栄冠
・かの日=神の最後の審判の日
・正しい審判者=神(=キリスト)
 その審判の日に神から、良い者には良い報いを、悪い者には裁きが来るわけですが、パウロは確信を持って、私には義の栄冠が与えられる生き方をしてきたとここで告白しています。
 私とはかけ離れていると思われる人がいるかもしれません。が、よく考えてみると、この「義」は行いの結果ではなく、今の新約の時代は、動機が神の前に義であれば「義人」だと、神はおっしゃってくださいます。それを可能にしてくださったのが、イエス・キリストの十字架であると聞いておられますね。これが「信仰による義」であり、造り主なる神を認める心が 「義人の心」です。その心を人生の最後まで持ち続けることができた人が、義の栄冠を受けるということです。
 神を信じる敬虔な心を保ち続けることが義の栄冠を受けることだとお気づきになれば、私もその中の一人だとご自分を勇気づけていただきたいと思います。私たちは必ず神の最後の審判がやってきて、正しい裁きが行われると期待しています。人でなく創造主なる神が、完全な裁きをなされると信じているので純真な心を保ち続けることができるのではないでしょうか。
 私たちは、神に対する正しい良心を持っていることを忘れないでください。
 こういう時に限って心が騒がされるようなことが起こるものです。しかし素直な心を持って、だまされたらそれでも良い、ただ正しい審判者に対する期待を持って、悪くとらないようにぜひ心を強めていただけるような葛藤にチャレンジしてください。そこには神の義の栄冠が用意されていることを忘れないでください。

●8/20(水)21(木)「つぶやかず、疑わず」(ピリピ人への手紙2:14〜16)
“すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。”

 私たちの純真無垢な心を汚していく始まりは、「つぶやき」と「疑い」です。これにとらわれると純真さが壊れ、傷ついていきます。疑えば疑うほど良くなりませんし、つぶやけばつぶやくほど純真さは消えていきます。
 つぶやいて状況が変わるでしょうか。疑い続けて真実に変わるでしょうか。先ほどの正しい審判者がいることを信じて、むしろ純真無垢な心を大事に守るためにつぶやきの心を捨て、疑いの思いから遠ざかり、「神様、あなたを信じて、委ねて純真な心を保ち続けたいのです。」と祈り、守られてはいかがでしょうか。
 純真無垢な人は、世の中において世の光として輝く存在です。あなたの神への信仰が純真であればあるほど、世の中の人は悪に染まっていく世界の中で希望を持つことができます。失望している人々のためにも、私たちはつぶやかず、疑わず、純真な心をもって神を信じる敬虔な歩みにチャレンジしていこうではありませんか。
ぜひこのみことばを実行してください。 

●8/22(金)23(土)「真理を喜ぶ」(第1コリント人への手紙13:4〜7)
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。”

 これは結婚式によく使われるみことばです。新郎新婦の最高に美しく輝く愛をいつまでも保ち続けるようにという願いを込めて、その愛はこういう応答をするという紹介がされたみことばです。
 これを読む度に、何と純真な心だろう、純真無垢な人はこういう心を持っているのだろうと思います。これを聖書は愛と呼ぶというのです。だから純真無垢は愛でもあり、この愛はアガペーという「神の愛」ということばが使われており、それは純真無垢ということです。この愛の中に神が共におられるとヨハネは語っています。
 罪人のために、ひとり子と表現される、ご自分にとって最も大事なものを差し出してその罪を赦すという救いのみわざを成し遂げられた神様は本当に純真無垢なお方です。
 裏切られる可能性も十分あり、全世界の全時代の人々の罪のためであっても、全員がイエス・キリストを信じることはあり得ない確率の低さだと知りながらも、そのようになってほしい(救われて欲しい)という気持ちは、だまされても信じ続けたいという純真無垢な人の気持ちと同じではないでしょうか。
 神様は純真無垢な方だから、疑いたくないのです。私たちはすぐ弱音を吐いて、神様よりも自分のことを守ってしまうようなところがあるにもかかわらず、正しい良心を保って心を入れ換えて人生を歩み直してくれるだろうと信じて、私たちが信じる前に、二千年前に、赦しの十字架のみわざが実行されたのです。こんな純真無垢な神様の心を私たちのような至らない者によって汚したくないと思うのは、正しい良心の自然な反応ではないでしょうか。
 神様の純真無垢な心を安易に傷つけたくない、大事にさせていただきたいという気持ちを持つことこそ、私たちができることではないでしょうか。
 どうぞ、「愛する」という真理をどこか一日でもチャレンジしていただけたらと思います。
 最近「クリスチャン」に対して失望することが多いように思います。行いができていないというのは、当然認めるところですが、最近は信仰の基本である、神様を信じる動機が疑わしいのではないでしょうか。純真無垢な心を軽んじているような気がします。つまり、教会ではクリスチャン、外では周りに合わせ世の中と変わらない状況にあり、教会の礼拝、集会で純真な心を持って来ていても、教会に置いて帰ってしまっているのではないでしょうか。
 神様を信じている人とそうでない人の違いは、神様を信じている純真無垢な心があるかないかではないでしょうか。しかしその純真無垢な心が失われてきているのではないでしょうか。
クリスチャンであってもなくても、純真無垢な心を持つことは大事だとつくづく思わされます。
 今から紹介する詩は15歳で人生を閉じた脳性マヒの男の子が亡くなる2ヶ月前に書いたものです。

 「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」

ごめんなさいね お母さん ごめんなさいね お母さん
ぼくが 生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う 母さんの 細いうなじに ぼくは言う
ぼくさえ 生まれなかったら 母さんのしらがも なかったろうね
大きくなった このぼくを 背負って歩く 悲しさも
「かたわな 子だね」と振り返る 冷たい視線に 泣くことも
ぼくさえ 生まれなかったら

ありがとう お母さん ありがとう お母さん
お母さんが いる限り ぼくは 生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが 大切で 悲しさこそが 美しい
そんな 人の生き方を 教えてくれた お母さん
お母さん あなたが そこにいる限り

お母さんの返事は
「やっちゃん(男の子の名前)、生まれてきてくれてよかった。ありがとう。」でした。

 脳性マヒという状態…。障害児をもった人しかわからない苦労があります。ここで大事なこととして私が教えられたことはこの親子が他の親子が味わえなかった、美しいすばらしい人生を歩まれたということです。
 この15歳の少年は、マイナスとも思える自分の存在をつぶやくことなく「お母さん、ありがとう。」とプラスに変えています。これが純真無垢な心です。
 彼は、負担とも思える自分の存在を大事に愛して支え続けてくれるお母さんがいる、という一つのことに心を向けました。そして、「お母さんがいる限り、ぼくは生きていくんだ。」とただ良いことに目を向けたのです。このことは今皆さんに悟って欲しいことなのです。
 この詩を読んで、私(辻師)は脳性マヒの少年を自分自身のようにみました。お母さんは父なる神様です。女性にとって出産が命がけであるように、神様もひとり子イエス・キリストのいのちをかけて、純真無垢な心を持つ人々の救いのために、私たちを生み出してくださいました。イエス様を信じて洗礼を受けても、イエス様のようにすべて正しいことができるわけではなく、むしろ霊的な障害を持つような者です。神様にとってはお荷物状態です。
 私(辻師)は牧師をしていることを恥ずかしく思いました。それは、この少年がお母さんにしたように、自分は神様に感謝をしているだろうか…と。何の役にも立たないのに、ひとり子イエス・キリストをささげるほどに、大きな負担になるはずの私を愛してくださっている…。牧師として私が語ることによって、かえって神様の良いものが妨げられてはいないだろうか…
 しかし、少年が自分の努力でも人の努力でもどうしようもない現状があるように、現実の私はこれしかないのです。
ただできることは、ありのままの私を神はよしとしてくださって、牧師として立ててくださり、「後のカバーは全部わたし (神様)がするから」と言ってくださっているなら、私は「ありがとう」の一言しかありません。
 この少年の気持ちと十字架を用意してくださった父なる神様の気持ちを考えた時に、この少年の詩が私にイエス・キリストとしてこの地上に来られ、いのちをおささげになった父なる神様の気持ちを教えてくれたのです。クリスチャンからではなく純真な心を持った人から教えられたのです。クリスチャンは特別な人間ではありません。大切なことは、神様の前に純真無垢な心を大切にしていこうという気持ちがあるかないかです。このことは子孫に伝えていきたいことです。人にとって一番大事なものであり、神が願っておられることではないでしょうか。
 キリストを伝えるのは、神が人を造られた純真無垢な心を救うためです。世の中にはそれを役に立たないと思っている人も多いようですが、そんなことはありません。その証明のためにも、こんな私でも神は生かしてくださっていると、「正しい者の願い、ただ良いこと。」という純真無垢な心を大事にしていく一週間としていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

  
■2008年8月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   陶犬瓦鶏 とうけんがけい  up 2008.8.10


犬には夜の番をする、鶏には夜明けを告げるという役目があるが、作り物ではその役目を果たすことができないことから、形ばかり立派で、実際の役に立たないもののたとえをいう。


美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。
(箴言11:22)


 

 

1.(箴言11:22)の解説
“美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。”
このお話は男性に対して語られたものです。
 神様は人を男と女に分けて、ご自分に似せて創造されました。神様のすばらしさが男性と女性に分けて与えられています。そして、神様の美しさが、女性に現されていると思います。不思議に人は、美を追求していくと女性に行き着きます。あらゆる美しいものの中で女性に匹敵するものはないと、芸術家は言います。
 この外面的美しさを持っていながら、たしなみのない女性。内面的心の問題を持っているということです。
 金の輪は美しく高価で、神聖さを象徴します。豚は汚れたものの象徴です。鼻は高ぶり、高慢の象徴。美しいけれども鼻の高い、鼻につく女性。男性を見下すような女性。そのような様子を思い描いていただいたら分かるように、どんなに美しくてもたしなみのない女性は、ちょっと遠慮したいというのが男性の気持ちでしょう。男性に語られたおことばなので、よく分かるわけです。

2.このような表現をする目的(第1コリント人への手紙4:14)
“私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。”
(箴言11:22)を女性向けに表現すると、「力強いが、やさしさのない男は、主の剣が猿の手にあるようだ。」力で服させて、猿のように刀を振り回す。(箴言11:22)は、私たちに何を教えているのでしょうか。このようにきついことば、女性には聞かせたくないような、女性差別のような言い方をする目的は何でしょうか。
『さとす』ということは、悟る心のある人にのみ語られることです。ですから、このように厳しい表現によって叱責・注意が与えられているということは、まだ望みがあるということです。悟りのある人は、直接悪い所を言われるより、自分の愚かさに気づかされる言葉を言われると、はっと気づき目覚めることができます。
 ですから皆さん、このような言葉がかけられた時は、高く評価されているということです。
 目的は私たちが悟るため、それは見えなくなっていたものが見えるようになるため、気づいていないことに気づくためです。正しい良心を持って聞くことのできるかしこさを持ちたいですね。

3.このみことばの応用(第1ペテロの手紙3:9)
“悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。”
 私たちは祝福を受け継ぐ者として、どんな状況にあっても祝福で返すようにと言われているわけです。なぜですか。
 神様に愛され、イエス・キリストの血潮によって罪きよめられた正しい良心のうちには、神様からの祝福のことばしか入っていないのです。それなのになぜ、人を呪い、傷つける言葉が口から出てくるのでしょうか。それは感情、知性が、肉の欲に動かされて出てくるのであって、本来の魂から出てくるものではありません。自己中心は欲望です。それにあなたの魂が負けてしまう。
 しかしキリスト者は、正しい良心が強められ、新しくよみがえらされ、命が与えられました。ですから、肉の欲求の力に抵抗する力が与えられています。神を畏れる心の方に意識を持って欲の力に立ち向かうと、それを押さえることができる。ここが、救われているかいないかの違いです。私たちの意志、感情が妥協してしまわないように、そこが戦いですが、そのような歩みの中では、私たちは忠告や叱責ではなく、励まし、祝福が必要です。人は励まされるとやる気が出てきますね。
(箴言11:22)を祝福の言葉で表現すると『美しく、たしなみのある女は、金のりんごが銀の彫り物にはめられたようだ』
 一番高価な装飾には金と銀を使います。金と銀は芸術的にも非常にマッチし、バランスがとれています。ただ大事なのは、銀の彫り物に金のりんごです。逆では値打ちが下がってしまいます。高価なものは少しあるのが評されるのです。
 外面的、内面的長所を、身の回りにあるすばらしいことにたとえることによって、その人を励まし、徳を高めることができます。
 例『笑顔の中の歯が白く、天真爛漫なあなたは、夏の日差しに輝く雲が、透き通る青空に浮いているようです。』とてもわかりやすく、感動的なものです。しかし、その場ですぐに思いつくものではありません。前もって準備しておいてください。
 人はほめられるとうれしいものです。他の人から高く評価されることは、気持ちが落ちつくものです。ですから、祝福しあいましょう。

●08/11(月)(マタイの福音書14:19)
“そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。”
 人の良い性格を祝福してあげてください。良い性格が増えていきます。祝福の法則です。5つのパンと2匹の魚をイエス様は祝福されました。すると、5000人の人を養うことができたのです。

●08/12(火)(マルコの福音書10:16)
“そしてイエスは子どもたちを祝福し、彼らの上に手を置いて祝福された。”
 悪いと思われる子どもも、祝福することが大切です。なぜなら、祝福した通りに子どもは育っていくからです。子どもは自信を持って、どんなつらいことにも難しいことにもチャレンジする勇気が生まれてきます。子育ては、子どもを祝福することです。

●08/13(水)(使徒の行ない3:26)
“神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。”
 邪悪な生活から立ち返らせるためにまず第一にするべきことは、その人を祝福することです。
 呪うと、更生する気持ちをそいでしまいます。責めて罵倒すると、やる気をなくしてしまいます。やり直す気持ちがないように見えても祝福することによって少しでもやり直す気持ちが生まれてきます。
モチベーションを回復させるコツが祝福することです。

●08/14(木)(ローマ人への手紙12:14)
“あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。”
 迫害し反対する者を祝福するということは、敵対心を取り除くという効果が出てきます。相手がどんなにあなたを呪い、反対する心があったとしても、その言葉に反応することのないように、かえって祝福しなさい。そして祝福しつづけるなら、相手のあなたに対する敵対心が和らぎ、大きな争いを回避することになり、最後には仲間として受け入れることができます。

●08/15(金)(ヘブル人への手紙7:7)
“いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。”
 多くの祝福を受けたいと思うなら、へりくだることです。
 祝福は、上から下に流れてくるものだからです。

●08/16(土)(ヘブル人への手紙11:20)
“信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。”
 自分を愛することは、自分の未来を祝福することです。
 重たい心が変えられていく一つのコツは、『イエス・キリストにあって自分の未来は希望がある』と祝福することです。現在のあなたが変えられていく一歩一歩なのです。
 また他の人の未来も祝福してください。神様はその祝福に応えてくださるのです。

 

 

 

 

 

  
■2008年8月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   同気相求 どうきあいもとむ  up 2008.8.3


同じ気質のものどうしは、互いに親しみあって集まるということ。


このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。
(箴言11:19)


 

 

 クリスチャンは、性格や価値観の違いがあったとしても、霊的な気質、すなわち義を愛するという思いを共通のものとして、安心して共にいられる仲間と言えるのではないでしょうか。ですから、気の合う者同士が集まり、親しみ、良い交わりをしていくことが大事だと思います。今週は、ひとりひとりが義を求めると同時に、仲間がいるんだという意識を持った生活を通して、正義を求めることの大切さを、もっと世の中の人々に表現していきたいと思います。

1.義を追い求める人(ヨハネの福音書3:30〜31)
“悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。”
 私(辻師)は、イエス様を信じてから、ふと疑問に思ったことがあります。それは、他にもいろんな宗教があるのに、どうしてイエス様を信じたのだろう、ということです。その時にこのみことばが心に留まったのです。「悪いことをする者は光を憎む」なぜ悪いことをするのか。その気質に、光を憎むものがあるということです。逆に「真理を行なう者は光の方に来る」まじめである、正しいことを価値あるものとして守りたい、という人は、光を求めて光の方に来るという気質があるのです。すなわちイエス様は、「私は世の光である」と言われたように光なるお方です。だから、光を求める心が反応して、イエス様の下に来て、イエス様を自然に受け入れることができたのだなあ、と理由がわかったのです。
 真理とは、あるべき正しい生き方のことを言います。あるべき、とは存在の目的のことです。なぜそれがそこに存在しているのか、それは目的を持って造られたものであり、その目的に添った存在のあり方が真理ということです。だから、「わたしは真理」とは、イエス様が全存在のあるべき姿、中心であるという意味が含まれていると思うのですが、このあるべき正しい生き方を行う時、それを義と言います。 人間が人間としてあるべき正しい生き方をしている時、その人を義人と言います。これらの真理、義というものを、光ということばで象徴しているわけです。神様は(真理なるお方)(義なるお方)ですから、(光なるお方)というように結びつけることができるのではないでしょうか。
 私たちの内には、その光を求める本能的な心が備わっているのではないかと思います。だから、義を求める人は、光の方へ無意識に近づいてくるのです。
 人それぞれ、イエス様の下に来るまでにはいろんな経験をされていると思いますが、単に楽をしたいから、という理由でイエス様の下に留まっている人はそう多くないと思います。きっかけはそうであったとしても、今はなぜか不思議にイエス様に対して安心できるものを感じておられるとしたら、あなたは義を追い求める者であり、イエス様の光とあなたの心の波長、気質が合っているので親しみ合うことができているということです。
 つまり、人は神のかたちに似せて造られたので、無意識に光の方に来るということであり、光を求める人々がこのように集められていることは励ましです。どうぞ、兄弟姉妹がいることを感謝していきましょう。

2.『いのち』とはどういう意味(マタイの福音書19:17)
“イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」”
“私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。”(第1ヨハネの手紙3:14)
 聖書で言う「いのち」は、一般の人々が考えている「いのち」とは違うようです。「いのちに入りたいと思うなら」すなわち、そういう領域があるようです。
 「戒めを守りなさい」神の戒めの大事な部分は何だったでしょう。まず「主なる神を愛すること」そして「自分を愛するように隣り人を愛しなさい」ということです。
 戒めが何のために与えられているかというと、人としてしてはならないことと、するべきことをはっきりと教えるためです。ですから、戒めを守っていたら、あるべき正しい生き方ができ、真理の中に留まり、義を行っているということになります。あるべき姿としての神の律法、すなわち「神を愛し、兄弟を愛する」これが私たちの存在目的であり、そのために私たちは造られたということです。ここでいう兄弟とは、義を追い求める敬虔な人々のことで、光を愛する仲間のことです。義を追い求める者同士が互いに愛し合っている、すなわち心を自然に開くことができている、これが、あなたがいのちに移ったしるしですよ、ということです。
 私はクリスチャンとの交わりにおいて、心を開き、安心して共にいられるという体験をしてから、血のつながりのある親・兄弟とは違う領域の家族愛と信頼というものを感じました。肉の家族も愛しているけれど、それ以上に義を追い求めている兄弟姉妹を、無意識の内にだけど大事にしているなあということに気が付いたのです。
 同じように皆さんの内にも、義を追い求める者の気質として、兄弟姉妹を大事にしたいという願いがあるはずです。
 だけど以前に、裏切られたり傷つけられたりした経験があると、クリスチャンも完全ではないので…と心配して、心を開くことができなくなっている人がいるかもしれません。しかし、それはあなたの古い性格の、罪に影響された感情的なものであり、イエス様を信じた正しい良心の思いはそうではないことに気づいてほしいと思います。
 私たちは神様に似せて造られた者であるけれども、人を愛することに生きるなら、いのちの領域に生きることができます。でも人と争う人生を選んだら、それはいのちのない生き方になるんだということをわきまえて、「いのち」とはどういう意味があるのかをしっかりと理解して、今、自分は「いのち」の領域にあるだろうかということを考えていただきたいと思います。

3.『いのち』への道(ヨハネの福音書3:16)
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
 義を追い求める者たちが、いつも真理のうちにあって義を行うことができているかというと、そうではありません。失敗もしています。この失敗という罪が、義を追い求める人の妨げとならないように、神が救いを与えてくださっている、これがイエス様の十字架なのです。
 ある人がコンビニ強盗をして、現金とジュースを盗んで逃げたとします。その途中で、荷物を抱え、暑さで汗だくになったおばあさんに会いました。強盗をしたその男はおばあさんを見てかわいそうに思い「どうぞ飲んでください」と冷たいジュースを渡しました。
おばあさんはなんて親切な人だろうと感謝して、「ありがたい、ありがたい」と言っていました。そこへ警察官が来て男に手錠をかけ、逮捕したのです。おばあさんが、なぜこんなに親切な人が捕まえられたのかとびっくりしていると、警官が事情を説明しました。おばあさんは、ジュースも盗んだものだと知り、いったいこの男の親切は何だったのかと悲しくなりました。
 このように、罪を犯し、罪が処分されないままで親切をしたからと言っても、その親切の価値はぐっと下がり、空しいものになってしまいます。
 しかし、この男が強盗の刑を終えて、同じようにおばあさんと出会い、今度は自分で買ったジュースをあげたとしたらどうでしょう。そこに警官が来て、その人は以前強盗をしたけど、罪を償い心を入れ替えたのです、と言えば、おばあさんはその親切に対してものすごく価値を感じるでしょう。
 私たちの罪が処分されないままでいくら善意を行ったとしても、神様の前に立った時、処分されない罪のために裁かれます。善意を行うことによって罪が処分されるなんてあり得ないのです。
 神様が義を追い求める者たちに、どうしてイエス・キリストの十字架の贖いを用意されたかというと、私たちは不完全ですから、完全に至るまでの様々な罪の代価を身代わりに負ってくださり、処分してくださることによって、義の行いが生かされていくためです。これはすごいことです。
 義を追い求め、光を愛する人は、一つでも罪を犯さないように気をつけながらも、それでも私たちは弱いですから、神に喜ばれないことをしてしましまいます。人にも喜ばれないことをして、迷惑をかけてしてまいます。でも、その罪があなたに義を追い求めることをあきらめさせ、挫折させてしまうことのないようにと、イエス・キリストはすでに2,000年前に、あなたの罪を処分してくださっているのです。
 だから私たちは後ろのものを忘れ、失敗したことにこだわらずに、その失敗が生かせるようにと一歩一歩いのちに至る道を歩むことができるのです。
 この事に感謝をして、互いに励まし合い赦し合ってゴールに至ることが大事です。これが兄弟を愛しているということです。

 

 

 

 

 

  
■2008年7月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   直情径行 ちょくじょうけいこう  up 2008.7.27


相手の気持ちなど考えないで、自分の思うままに、ただちに言ったり行動したりすること。


隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める。指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。
(箴言11:12〜14)


 

 

 今は感性の時代と言われ、自分表現をすることが流行っています。しかし、良いか悪いかに関係なく自分の思ったことや感じたことをそのまま出してしまう、といった節制のない状況になってしまい、最近の事件の多くが、そういったむしゃくしゃした感情をそのまま殺人につなげてしまうという、短絡的で凶悪なものになってきています。マスコミの自由主義の悪い影響もあるかもしれません。

1.『思慮深さと沈黙』(箴言11:12)
“隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。”
 人が人をさげすんでいる様子を見るのは、当人でなくても醜くて嫌なものです。自分の気持ちのままに人を裁き、忠告するというのは、相手をさげすんでいることになります。いくら正しくても、感情のままに相手に語っているなら、直情径行であって、思慮のない語り方に他なりません。
 どういう語り方をしているかに気をつけてください。怒りは何もかもぶちまけてしまうことであり、さげすみの態度です。
英知のある人は言いすぎることなく、むしろ沈黙します。それは考えのある沈黙であり、周りや相手のこと、さらに自分自身もよく観察するための沈黙です。

2.『中傷と配慮の違い』(箴言11:13)“歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める。”
 例えば、「誰にも言わないでネ」ということばは、聞いた人の心を縛り、聞いてしまったゆえに、聞いた本人が悩む場合があります。多くの場合、こういう秘密は悪い内容です。相談したくても、裏切ったと言われたくなくて、一人で悩んでいたり…。
 しかし中傷する者は一人では留まらず、歩き回ると記されているように、何人にも話していくことです。ひとり、ふたりの人に、相談のため話すことは中傷ではありません。そういう大事な秘密を聞いた場合は、一人で悩むのではなく特定の信頼できる人に相談すべきです。それは秘密を漏らすことにはならず、むしろ配慮になります。真実な心をもって他の人に相談するのは中傷ではなく、秘密を漏らすことでもなく、その秘密を解決するための、愛を動機とした行いです。
 ただ、秘密を聞くと他の人にも言って回りたくなるという誘惑に勝てないという人は、なるべく人の秘密を聞かないようにしましょう。中傷と配慮の違いを賢くわきまえましょう。

3.『指導の役割』(箴言11:14)
“指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。”
 指導者とは牧師のことを言っているのではなく、子どもにとっては親、学校では先生、会社では上司だったりします。指導者を敬う姿勢がなぜ大切かというと、彼らは「助言を与える」者だからです。
「助言者」という表現を余り聞きませんが、このみことばであえて使っている理由は、指導者とは支配者ではなく、助言を与える者であるからです。指示する意味は、助言のためです。間違いを見つけてそれを正し、健全な方向へ向かわせるためです。
 支配されると思い込んで反抗的にならないようにしましょう。こういう反応のしかたは、親や先生たちが、本来の助言者としての指導ではなく、支配的な指導の仕方をしてしまったゆえにできたトラウマからのものです。
 ただ、最近はそれを避けすぎて、指導自体できない先生たちがいます。これはもっと悪いことです。正しい指導はコーチのようなもので相手の良さを引き出していきます。

07/28(月)『さげすむかわりに』(ピリピ人への手紙2:3)
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。”
 さげすむとは人を見下すことです。相手のことをよく知りもしないのに、自分が頭の中で感じたまま、その人を見下すのは愚かなことです。わからない時は、自分より優れた人という目で接した方が、賢い判断ができます。
 平日教会を初めて訪問された方(特に営業で)は、ほとんど私が牧師だとは思えないようで(服装?)、むしろ横路先生を牧師と思い込まれるようです。それで、初めのあいさつをないがしろにされた人は後で私が牧師とわかって、慌てられます。見かけだけで判断してしまうと、慌てることになります。

07/29(火)『観察力を生かす』(マルコの福音書10:27)
“イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」”
 このイエス様のことばは、弟子たちが「救われること」に対し、不信仰・落胆をもってしまったので、語られたことばです。
 イエス様は、ことばを発する前に、彼らをじっと見られました。その間ちょっとした時間の間があったのです。この「じっと見る」は効果的であり、見られた人はおのずと注目し集中します。「何を言われるのだろう?」と弟子たちはイエス様に注目しました。イエス様は弟子たちをじっと見渡して、彼らの心の動揺を観察し、それにふさわしいことを語られました。
 弟子たちはこのイエス様の沈黙で、イエス様の思いに心を向け集中し、時期にかなったおことばによって、救いは人の力ではなく、神様によるのだという真理に目を向け、瞬間的に不信仰から解放されたのです。
 すぐに相手の言葉に反応して、感情的に言葉を返すのではなく、沈黙し、相手や自分の心を観察することによって、時期にかなったふさわしい言葉を語るようにしましょう。決して相手を見下すような言葉を発しないように気をつけてください。
 自分の考えを押しつけるような印象を与えないためにも、人の言葉に耳を傾けることの大切さを知ってください。相手の言い訳もよく聞いて、相手の気持ちを汲み取るようにしましょう。そうしたら、さげすむ言葉も出なくなるはずです。

07/30(水)『中傷ではなく配慮を』(イザヤ書58:10)
“飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。”
 信頼できる人に相談することは、中傷ではなく配慮であるということを心に留めてください。
 秘密の厳守に心をとられ、その秘密の重さ、重大さに気づかないでいたら問題です。その秘密の重大さに対し、配慮すべきです。そのまま放っておいてよいのかどうか、助けることができないか、打ち明けてくれた人に対し、心配りをする必要があります。それが「飢えた者に心を配り」です。中傷と配慮は違います。
 ただ、罪の性質として、秘密を聞くといろいろな人に話したくなるものです。そしてその秘密に対し、いろいろな批判をしていきます。これは中傷になります。
 こういう誘惑に弱いと思う人は、秘密を聞くかどうか判断してください。そして信頼できる人に相談すべきと判断したなら、きちんとそれを相手にも伝えられたらベストです。そういう信頼できる信仰の友を得るようにしましょう。

07/31(木)『秘めることと罪をおおうこと』(第1ペテロの手紙4:8)
“何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”
 秘密にすることの多くは良くないことであり、罪をおおう必要のある事柄が多いということです。ですから、一人きりで負うより、相談する方がいいのです。罪をおおうことは、秘密を聞くことと深くつながります。
 秘密を聞くことで、聞く方も話す人と同様に損失を受けるという覚悟がいります。罪をおおう覚悟をもって聞きましょう。
 「真実な心の人は事を秘める」というのは、その秘密が愚かな人の耳に触れた場合、大変な事態になることを察して、限定された領域でのみ扱われることを悟って行動するということです。誰にでも彼にでも言うべき内容ではないが、一人だけで負いきれる内容でもないということを判断し、共に負える人に持っていくことは正しいことです。
秘めるとは罪をおおうことです。牧師は自分の罪より人の罪をおおうことが多いものです。
 秘めている罪を牧師に告白しに来られる場合、その罪から離れたいという思いがないと、その告白は単に罪を容認して欲しいという甘えにしかなりません。あくまでも目的は罪をおおうことであり、それは罪から離れるようになることです。そういう気持ちのない人の罪はおおうことができません。

08/01(金)『倒れないために』(第1テサロニケ人への手紙5:12)
“兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。”
 指導を受けるとは指示されることですが、それには目的があってこそ受け入れられるものです。建設的でない指導は、誰も受け入れたくありません。批判や責めだけなら、受け入れたくないものです。
「主にあって〜求めなさい」とあります。あなたの上に立てられた指導者はあなたの助言者です。たとえ性格的に問題があったとしても、その道の専門家であり、あなたを正しい方向へ導けるはずです。指導する人を認めることと、その人の品性や人格を認めることとは分けて考えてください。ただ専門分野で、あなたより技術的にレベルの低い人であれば、指導を受ける必要はないでしょう。
 イエス様が弟子たちに、「パリサイ人や律法学者の言うことは行ないなさい。しかし彼らのまねはしてはいけません。」と言われたように、彼らは律法の専門家で、大変詳しく知っていました。ゆえに律法に関しては正しく判断できました。しかし、彼らの生活態度はその正しい判断とは離れていたのです。それでイエス様は、彼らの言うことを聞いても、やっていることはまねてはならないと言われました。
ですから、指導者の言うことは聞いても、もしその指導者が悪い行いをしているなら、その悪いことに習ってはいけません。もちろん、その逆もあってはなりませんが。
 たとえ悪い行いがあったとしても、指導者として、その道のプロとしての助言に対しては聞く必要があるということです。「主にあって指導し…」というのは、神がその教会におかれた指導者であるなら、たとえその人が若くても、性格に問題があったとしても、その言葉が正しいなら、主にあってその人の言葉の正しさはきちんと認めるべきであるということです。そうしないなら、「指導がないことによって民は倒れ」という事態を招くことになります。

08/02(土)『助言の力』(詩篇16:7)
“私は助言をくださった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。”
 人生の最大の助言者は、天地を造られた神です。どのようにしてこの助言は与えられるのでしょうか。「私の心が私に教える」がヒントです。
 正しい良心によって、私たちは神のみことばを正しく判断することができます。諭しは肉の心でなく、正しい良心の内に来ます。この諭しが知・情・意を教育します。助言とは諭すことです。
 どんなに内容が良くても、もし怒りをぶつける形で語られるなら、助言になりません。また、いつも答えだけを与えてしまっていたら、それも助言になりません。なぜなら、同じことが起きたらまた答えだけを聞きに来て、自分で判断しないからです。
 その人が本当に悟れるような助言の与え方ができたら、その人は次からは自分で対処できるようになります。これが助言の効果です。
 良いコーチは選手が悟るために、すぐには答えを与えない時もあります。本人が考え、苦しんで悟るなら、それは本当に身に付くからです。同じ失敗を繰り返す人は、悟るべきことがあるということです。悟りを深くするためには、時として懲らしめによって、心がへりくだらされる必要がある場合があります。人は心がへりくだり、砕かれることによって、諭しを受け入れることができるからです。これは神が直接介入される事態に至った場合です。
 多くの場合はみことばや周りの人々からの助言によって諭しが与えられます。ただ、いつまでも高慢で、人々の助言を受け入れられないなら、神はその心を砕くために懲らしめをもたらされることがあります。私たちは、そうなる前に助言を素直に受け入れる姿勢を持つように心掛けましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年7月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   セカンドステージ  up 2008.7.20


2008年夏期聖会(第2聖会メッセージ)


私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
(ピリピ2:2)

あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
(ピリピ4:9)


 

 

 私たちの人生の目的は、滅びに向かっている人々が滅びから永遠のいのちへ移し入れられるために、キリストの証人として、地上で世の光、地の塩となることです。今日は礼拝であると共に、聖会でもあります。「セカンドステージ〜キリストの愛によって前に進もう」(ピリピ人への手紙4:9)には神様の働きに協力していくため、すなわち平和の神が共にいてくださるためにするべきことが書かれています。
5つの「To Do」
 ご利益宗教は「神が私たちの願いをかなえてくださる」という考え方ですが、本当の中心(主人公)は、天地を造られた神様です。そして、全宇宙を完成しようとして今も働いておられる神様の働きに協力させていただくために、私たちは造られました。「私の人生、私の人生」と主張するクリスチャンは、造り主がおられることを悟っていないので、自分の願い通りにならない神様は受け入れられません。大事なことは、神様がご自分の計画のために全人類をお造りになったということです。しかし罪人は、神が自分を造られた目的から外れた的外れの人生を歩んでいるのです。
 確かに最初は「神にお願いする」祈りが多いことでしょう。しかし問題がなくなると願うことがなくなり、自分勝手な道を歩み始め、元の罪の世界に戻ってしまうクリスチャンもいます。はたして、神はなぜ神の御姿を捨て、私たちと同じ人間の姿になってこの地上に来られ、私たち罪人の身代わりに十字架にかかられ、贖いのみわざとして苦しみを受けられ、命を捧げられたのでしょうか。あなたの思い通りの人生を送らせるためでしょうか。そうではありません。大きな犠牲が払われたのは、私たちを神がお造りになったあるべき姿へと立ち返らせるためです。このことに心の目が開かれない人は、ご利益宗教と同じくいつまでもわがままな子どものようで、神様と人格的交わりができません。神様のすばらしいご人格に触れられない悲しい状況になります。自分の願いがかなえられた後、神様のことばに縛られた窮屈な生活は嫌だと言って、どれほど大きな恵み、助けを与えられたかも忘れて、恩知らずの愛のない不敬虔な人々がイエス様から去っていきました。人間は何と傲慢で横柄で愚かなのでしょうか。敬虔さを持つことは大切です。今日は神様と共に歩むことを前提として、神様が私たちに願っておられることを成し遂げるために、大切な5つのことをみてまいりましょう。

07/21(月)『学んだこと』
★何を学ぶのか(ヨハネの福音書13:34)
“あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも愛し合いなさい。”
 まず第一に、「神に従うこと」を言われても不思議ではありませんが、イエス様は大事なこととして「互いに愛し合いなさい」と、1つだけ言われました。「互いに愛し合う」ことは全人類の悲願です。
 互いに愛し合えない者同士が争っており、夫婦、親子でも「互いに愛し合う」ことがわからなくなっています。経済社会に引き込まれ、夫婦、親子がつながりを利害関係で捉えてしまい、自分のわがままを優先してもらえる関係かどうか量っています。思い通りになることが愛されていると思っていますが、全くの一方通行であり、愛は成り立ちません。「お互いに」という考え方が大切です。この20年間、「互いに愛し合う」ことを中心にした、私のメッセージであると気づいていただければ感謝です。
★誰からどのように学ぶのか(マタイの福音書11:29)
“わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。”
 イエス様が牧師の器官(声)を用いて皆さんに語っておられることをしっかり受け止め、イエス様から「互いに愛し合う」ことを学ぶことが重要です。イエス様は心優しく、へりくだっておられますので、「互いに愛し合う」ことを叱りつけて教える方ではありません。イエス様はご自分が十字架にかかられ、その苦しみを全部受けられることによって、身をもって「互いに愛する」ことを示されました。罪を犯したことへは懲らしめが与えられるでしょうが、「互いに愛し合う」ことに対して、神は怒って愛する気持ちを引き出すようなことはされません。
 どうぞ福音書を通してイエス様から「互いに愛し合う」とはどういうことかを学んでください。特に十字架の出来事は、神様からの私たちへの「互いに愛し合う」ことのメッセージであり、学ぶ点です。
★To Do 
 私たちは、主が愛されたように互いに愛し合うため【   】合います。 愛し合うことの具体的行動を書いてください。
 
07/22(火)『受けたこと』
★何を受けたのか(第1テモテへの手紙1:16)
“しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。”
 あわれみを受けました。私たちの心にあわれみ深い愛が注がれており、その同じ愛を与えることしかできません。
★その目的は何か(第1テモテへの手紙1:16)
“しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。”
 イエス様を信じて永遠のいのちを得ようとしている人の見本にするためです。パウロのようにクリスチャンを迫害した罪深い人でも、神はイエス・キリストを救い主と信じて悔い改めたならば、その罪を赦してくださるというお手本にするためです。神はどんな人でもあわれみを注がれるお方だという見本として、あなたにもあわれみを注がれました。
★To Do 私は、主からあわれみを受けた者として【   】をあわれみます。 例…(人の名前、街の名前)を【 】の中に入れてください。

07/23(水)『聞いたこと』
★何を聞いたのか(ヨハネの福音書18:37)
“そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」”
 それはイエス様の声です。神を畏れる正しい良心の中に、イエス・キリストの御声が聞こえてきます。善を選び取るための声〜ことばというより、思い・イメージ〜ことばにならない声が正しい良心の中に聞こえてきます。
 私たちには欲望の声と羊飼いなるイエス様の声と2つ聞こえてきます。欲望の声は五感に訴え、心の中に大きく響いてきます。しかしイエス様の声は五感には感じず、正しい良心の中にしか聞こえてきません。神を敬う意識をしっかり持った上で黙想する時、方向性が示されます。羊飼いは羊たちを憩いの水の方へ向かって導くために、「こちらだよー。」と声をかけます。そして羊たちはその声の方へ動いていきます。
★聞いた真理とは何か(マルコの福音書1:15)
“「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」”
 悔い改めは本当にすばらしい良き知らせです。何度も失敗することがあっても、あきらめない限り、何度もやり直すチャンスが与えられており、前に進むことができるということです。それはイエス様の十字架での血潮の犠牲のゆえに、成立しているのです。このチャンスを生かさないともったいないです。
 悔い改めがキリスト教の一番大事な部分だと言われるのは、永遠のいのちに至るか、滅びに至るか、分かれ道だからです。心を入れ替える決心をするかどうかです。自分の罪を認め、さらに変えられて良い方向に進みたいという願いが与えられなければ、真の悔い改めに至りません。
 神は公平な方で、いろいろな宗教の人にも、どんな罪人にも、すべての人に悔い改めるチャンスを与えておられます。悔い改めの価値をぜひ見つけ出してください。大切なポイントです。悔い改めはあなたを責めるものではなく、生かすものです。自分を変えられない人は、変えられるよう祈ってください。心が砕かれるため、懲らしめがくるでしょう。しかし、自分を変えようとしない人は、前進することも、神と共に歩むことも難しいでしょう。
★To Do 私は、赦しの福音にあずかっている者として【   】を赦します。 赦します=あわれみますとされてもいいです。

07/24(木)『見たこと』
★何を見たのか(ヨハネの福音書13:15)
“わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。”
 まずイエス様が、福音書の中に模範として神の子の歩みを示されました。そして弟子たちがその模範を残し、歴史上で多くのクリスチャンの証が残されています。
★その目的は何か?(第1ペテロの手紙2:20〜21)
“罪を犯したために打ちたたかれて、それを堪え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。”
 善を行い続けると不敬虔な人から苦しみを受けます。それを忍耐することによってもたらされる報いを、模範者の人生の結果を見て耐え忍ぶように、私たちに勧められています。
★To Do 私は、神様に従う者として、イエス様の【   】を模範とします。  模範とするとは、真似ることです。具体的にイエス様のことば、助け方、赦し方、人間関係の結び方か、あなたが変えたい、磨きたい部分に対してイエス様を模範として見習ってください。

07/25(金)『実行すること』
★何を実行するのか(ヤコブの手紙1:22)
“また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。”
私たちクリスチャンが実行することはみことばです。実現にむかってみことばを実行することが大切です。
★実行するとどうなるのか(ヤコブの手紙1:25)
“ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。”
 北京オリンピックが近づいてきましたが、どの競技も、コーチは選手に良い成績をもたらすためにコーチングしていきます。しかし1度では身に付かないものです。指導に対して文句をつけたりしません。みことばを実行するとは、みことばが言う結果が出るまで、あきらめずにやり続けることを意味します。
実行し続けると、必ずよい結果が出ます。
★To Do 私は、神様に祝福されているので、みことばにある【   】を行なうことができます。
 何をするべきか示されているなら、それを書いてぜひチャレンジしてください。

07/26(土)『教会ビジョンに当てはめる』
1.神のみこころを学んだ。
「互いに愛し合う」こと。私たちと交わりを持つようになるためだと愛について学んできました。
2.ビジョンを受けた。
 神が愛しておられる広島の街が、平和に感じて模範の街となるようにと、使命(広島エルサレムプラン)が2年前に与えられました。
3.その方策を聞いた。〜広島エルサレムプランの実現のため
・エルシャダイ
・コイノニアシップ(セルライフ)−小グループの交わり
・セレブレーション−神様を祝い、礼拝する
・ミッション−イエス・キリストの証人となり、全世界へ出て行く
4.実行し始めた人を見た。
・NPO−事業計画(介護事業)
・おはぎ作り−介護事業の支援
・Jox Box−交わりの場を広げる(歌を通して)
・ハッピー本舗−技術、何でも屋
踏み出さなければ始まらない(パンの注文へ取り組みを始めた人もいる)心に与えられる部分を形にする
5.私も実行する。
 自分も行動するところへ足を踏み入れていただきたいと思います

 

 

 

 

 

  
■2008年7月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   好評嘖嘖 こうひょうさくさく  up 2008.7.13


評判がよく、人々が盛んにほめるようす。


直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる。
(箴言11:11)


 

 

 「嘖嘖」とはすばらしいなあ、という感嘆の気持ちを表わすことばです。広島が、人々から、世界中から評判がよく、盛んにほめられることを私たちは願っています。広島エルサレムプランの目的は、広島がほんとうの世界の平和の町へと変革されることです。そのために、「直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられる」ことを、聖書から学んでいきましょう。

1.『直ぐな人』(詩篇11:7)
“主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。”

 「直ぐな人」とは、正義を愛され、正しくあられる主を仰ぎ見る人です。正義の基準であられる神を信頼し、畏れるということです。そういう人は神の前における正しい良心を持っています。神の目の前に自分の心を常に明らかにし、自分の価値評価ではなく、神の判断に合わせるのです。
 「主を仰ぎ見る」とは、主をよく知っている、尊敬していることです。あなたはどれくらい神様を知っているでしょうか。直ぐな人は神をよく知っており、困難や苦しみの中でも神への尊敬を失いません。神は十字架によってご自身を私たちに知らされています。大切なひとり子イエス・キリストを、私たちの罪を赦すためにこの地上にお遣わしになり、十字架で苦しみを負わされました。そんな神が私たちに災いをもたらしてつぶしてしまうようなことは決してなさいません。すべての困難や試練は、私たちを磨くためのものだと、直ぐな人は知っています。ですから、そのようなときも十字架を見上げ、前向きに考えます。十字架をはっきりと認めたからです。イエス様は「わたしは門です。」と言われました。十字架は神を知る入口、天国への入口、正義への入口です。

2.『祝福によって』(創世記39:5)
“主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。”

 兄弟たちに妬まれ、エジプトに売られていったヨセフは、パロの侍従長の家で奴隷として働いていました。そして主人に信頼され、すべてを任されるまでになりました。それは「ヨセフのゆえに」、主がその家を祝福されたからです。「祝福する」とは、良いものを与えて幸せにすることです。ですから、物だけでなく、相手の心が前向きになり、力が湧いてくるようなことばをかけることも祝福です。具体的な祝福のことばが必要です。「聖霊に満たされて輝いていますね。」ということばは祝福です。たとえその人が輝いていなくても、この祝福のことばによって元気づけられ、祝福の輝きが出てくるのです。否定的なことばはのろいになります。しかし、祝福のことばは、その人をのろいから祝福へと導きます。互いにもっと祝福のことばをかけ合いましょう。相手を高く評価することでその人の心が満たされる、これが祝福です。

3.『町は高く上げられる』(第2サムエル23:1)
“これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。イスラエルの麗しい歌。”

 ダビデは高くあげられた者です。神に選ばれ、信頼され、人々から愛され、尊敬されたのです。「町は高く上げられる」も同様です。広島の町が高く上げられることは、「直ぐな人の祝福によって」実現します。神が私たちをここに置かれたのは、ヨセフのゆえに侍従長の家が祝福されたように、私たちのゆえにこの町を祝福して下さるためです。箴言11章11節のみことばは、広島エルサレムプランに大きな助けとなる霊的原則です。「直ぐな人たち」とは、主イエス・キリストを通して神を敬い、正義を愛する私たちです。私たちの口を通して、この町を祝福しましょう。この町がエルサレムのような神に愛された町へと変えられることを願い、この町のすばらしさを人々に語り続けていきましょう。

●7/14(月)(詩篇109:17)
“彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。 祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。”

 のろうことを愛する者→そののろいが返ってくる
 祝福することを愛する者→その祝福が返ってくる
 祝福することを喜ばない者→祝福は遠く離れる
 のろうことを喜ばない者→のろいは遠く離れる
これは霊的原則です。よく理解するなら、のろいに対して祝福で返すことの意味がわかります。この町を祝福するなら、私たちも祝福され、町も変わってきます。

●7/15(火)(箴言27:14)
“朝早くから、大声で友人を祝福すると、かえってのろいとみなされる。”

 「祝福だ」と思ってしても、相手にとっては祝福とはならないこともあります。祝福の動機を主は教えておられます。相手の気持ちや状況を考えず、自己中心によって人を祝福するなら、かえって嫌われるような結果となってしまうこともあるのです。神様が私たちを祝福して下さるのは、私たちに幸せになってほしいというお気持ちからのものです。祝福することは、幸せになってほしいという隣人愛から出てくるものです。

●7/16(水)(第1コリント10:16)
“私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。”

 このみことばは、聖餐式について教えています。特にキリストの血を象徴した杯は、祝福の杯と言われます。杯を祝福する行為は、「キリストの血にあずかること」、即ち主イエス様が血潮を流されたことによってもたらされた契約が、私たちの上に成就するということです。血潮の力を意味しています。この血潮の力にあずかるために、イエス様の十字架の御わざを祝福しましょう。イエス様が流して下さったこの血潮は、私たちの罪を赦し、永遠のいのちに導くものです。
 初代教会の時代、人々は家々でパンを裂きました。主なる神を認めて血潮を祝福することは、血潮を尊ぶことであり、そこには神のきよさと威厳が下ってきます。聖餐式は単なるセレモニーではなく、実質的な力が現れるものです。私たちも各々の家庭で集まり、家長が聖餐式を導くことにチャレンジしましょう。キリストにあって家族はひとつであることを告白し、血潮の守りといやしがもたらされるようにと願いましょう。
但し、絶対にアルコールのぶどう汁は使わないで下さい。それがわなになる人がいるからです。100%のぶどう汁を使って下さい。サタンにすきを与えないために、聖餐式が汚されることのないために、きちんと節度を守りましょう。

●7/17(木)(ヘブル9:14)
“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”

 主イエス様の血潮である主の杯を祝福し、それによって人々を祝福していくとき、どんな力が私たちに現されてくるでしょう。
 まず良心のきよめです。血潮を尊ぶことにより敬虔な心が生まれ、神のきよい臨在が下り、良心がきよめられます。血潮には罪を取り除く力があります。さらに死んだ行いから離れさせます。貪欲に縛られ、悪癖から離れられない人も、良心がきよめられるなら悪から離れる力が与えられます。そして、生ける神に仕える者とします。創造主なる神の存在について、自分の存在の意味について、真理に対して目が開かれます。神との交わりと悟りが与えられます。良心がきよめられ、悪から離れる心を持った人は、「主よ、あなたの前に仕えさせて下さい」という心が湧いてきます。このようにへりくだった心には、神に仕えることは神と交わることと同じことなのです。

●7/18(金)(第1ヨハネ1:7)
“しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”

 人間同志の交わりにおいて、互いに罪の影響を受けやすいために、問題が起こることもあります。しかし、その交わりも、イエス様の血潮によってきよめられ、回復されていくことをこのみことばは教えています。罪の影響によって健全な交わりができないことがあっても、互いに神の前に罪を告白し、悔い改めて、互いに赦し合ったというしるしとして聖餐式がもたれるのです。聖餐式を通して、血潮を仰ぎ見、その力を受けます。イエス様の血潮のゆえにきよめられていることを認め、自覚してそのように行動をとっていきましょう。

●7/19(土)(第1ペテロ2:24)
“そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。”

 「打ち傷」には血が含まれています。イエス様の打たれた傷から多くの血が流されました。その血によって、私たちはいやされるのです。病は罪ののろいの結果としてもたらされるものであることを聖書全体から悟ることができます。罪の遺伝子をもった全人類は、そののろいの結果として病気になる可能性がいつもあるのです。しかし、イエス様の血は、イエス・キリストを信じる者たち=私たちクリスチャンを罪からきよめ、そののろいから解放されます。そして、私たちを罪のないものとされ、内に聖霊様が宿られるのです。聖霊様はいやしと奇蹟の力を持っておられます。その聖霊様の力が内側から働いていやされるのです。イエス様の血潮がこのようにいやしの道を開いて下さっているのです。イエス様の血潮に対する信仰を持った人は、必ずいやされます。

 イエス様の血潮の力、十字架をしっかりと悟るなら、これほどのろいや不幸に対して守りとなるものはありません。主の血潮をほめたたえましょう。主の祝福の杯として、主の血潮をたたえましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年7月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   正々堂々 せいせいどうどう  up 2008.7.6


「正々」は軍旗が正しく整うさまをいい、「堂々」は陣構えの勢いが盛んな様子のことから、態度や手段が正しくて立派なさまのことをいう。


直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕えられる。悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。正しい者は苦しみから救い出され、彼に代わって悪者がそれに陥る。神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。
(箴言11:3〜9)


 

 

 (箴言11:3〜9)には、直ぐな人、潔白な人、正しい者…ということばが共通の意味を持って出てきます。今週はこの「正しさ」「正義を愛する者」としての歩みを心掛ける週としましょう。「正正堂堂」の言葉はどこから来たのでしょうか。これは孫子が「軍争」の中で語っている言葉です。正面切って、何の小細工もせずに、実力でもって進んでいく姿勢を表します。
 クリスチャン生活も、神の前に正正堂堂と歩んでいくことが必要です。それは正義を愛し、人生の価値観をそこに置いて歩むことを表します。その正義を守り行うために、どのような苦難が起きても、神の前にその姿勢を貫き通すことが必要です。
イエス・キリストを信じるということは、正義を愛し、公平と公義を愛し、聖めに価値をおく生き方をすることに他なりません。
現実の社会や自分自身にすら欺きを感じ、失望を禁じ得ないような偽りの多い世の中に生きていますが、私たちはそのような中にあっても、正しく生きることを強く願っています。

1.神が人に求めておられること(ミカ書6:8)
“主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。”

A)『人』が神の似姿に創造されたのは、悪を行うためではない。
「主は何をあなたに求めておられるのか。」とは、神は不可能ではなく、当たり前のことを求めておられることを意味します。
 ただ、今の人々は「ありのままの姿」ではありません。神が造られた「ありのままの姿」は、罪を宿さない、イエス・キリストのような姿でした。ゆえに、ありのままの人にとっては当たり前の生き方を、神は求めておられるのです。しかし、私たちは当たり前の自分を罪を宿した自分であると捉え、受け入れてしまっていないでしょうか。
 もし罪を宿している自分を当たり前の自分と捉えてしまっていたら、公義を行い、誠実を愛するということに、強い願いを持つことができなくなってしまいます。それが不信仰となり、神と共に歩むことが楽しくなくなってしまいます。
 創造の目的をしっかりとつかみ、神の似姿に創造され、イエス・キリストによって本来の姿に取り戻されたことを信じ、それを見失わないよう、疑う心、不信仰と戦いましょう。

B)『正義』を愛して、正正堂堂と歩むことが人の本分である。
 正義を愛することが、あなたのライフスタイルのメインになっているでしょうか?金儲けやあるいは憎しみ、嫉妬がメインになってしまっていないでしょうか。
あなたの心を満たしているものを、あなたは語ります。そしてその語る言葉によって人生は左右されるのです。
「神を愛し、公義を行なうなら…」それが自分の本来の姿であることを、しっかりと受け入れることが大切です。そこから本当のあなたらしさが表れてきます。

2.律法の中の重要なこと(マタイの福音書23:23)
“忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。”

A)律法や戒めは、正義を愛する心を持って行わなれなければ価値がない。
 律法を守ることで大切なことは、どのような思いでそれを守ろうとしているのか、その心が大切であると、イエス様は語っておられます。嫌々、また悪意を持ちつつ守ることもできます。
 律法は正しい人のためにも、違反する人のためにも書かれています。正しい人のためにとは、正義を愛する者たちのためのルールであって、違反したらそれを教えるためのルールです。
 しかし正義を守ることに対しての価値評価がもし低かったならば、なんとかルールを守れば良いという、形だけのクリスチャン生活になってしまいます。そして、そういう守り方は価値がありません。

B)律法や戒めは、律法学者やパリサイ人のように悪用できる。
 また、悪意を持って律法を守るとは、どういうことでしょう。律法学者やパリサイ人は、律法を行いにおいてはしっかりと守っていましたが、悪用していました。
 今の私たちの時代ではどうでしょう。例えば1/10の返金にしても、正義とあわれみ、誠実の方が大切なのだから無理にしなくてもよいと解釈して、そのように行ったら、これはみことばを悪用していることになります。それは「惜しむ心を隠している」という悪用の仕方です。
そういう時は、「神様、私は生活が苦しくて、1/10を捧げられません。」と告白した方が、まだ正直です。それを告白せず、1/10は無理に捧げなくても良いと正当化して、ごまかしてしまうところに悪意が隠されているのです。言い訳するのではなく、神の前に正直に、自分は1/10を本当は捧げたいのか捧げたくないのかを、はっきりと言い表すことが大切です。「捧げたいができない」のか「捧げたくない」のかを正直に神の前に言い表しましょう。神は、あなたの心の思いを誠実に明らかにすることを願っておられます。
 できるかできないかではなく、心掛けが最も大切であるという意味を、正しく捉えてください。守りたいという願いがあるなら、誠実にチャレンジしていけます。その心を神は喜ばれます。

3.関心を持つべきもの(ピリピ人への手紙4:8)
“最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。”

A)『善』に対する高い評価基準を持つ。
 どのようにしたら持てるのでしょうか。善に触れ、その良さを味わい、体験することです。善を行うことに対し、失望することが多かったら、善に対して高い価値評価を持てません。ただ、人は神に似せて造られているので、善に対する価値評価は、すべての人が生まれながらに持っています。誰もが、善は価値があるとわかっています。生まれながらに持っていたその価値評価をうまく育てられたかどうかで、その高低の違いが出てくるようです。しかしどんなに悪い生活環境で育っても、強い善への価値評価を持っている人もいます。
 イエス様を信じる人々は全て、この善への高い価値評価を持っていると言えます。なぜなら、キリスト教の中心は、何かの願いがかなうとかいうご利益主義ではなく、キリストのようになること、つまり正しさ、きよさを求めることだからです。正義、きよさに渇いている人でないと、キリストのもとに来ることはないとも言えるでしょう。

B)神の前における正しい良心によって、情報を選り分ける。
 この基準が正義を愛する心であり、善に対する高い評価値です。どれだけ高く評価しているかによって、選択の決断が違ってきます。たとえばパチンコや競艇は、昔は悪行として捉えられていましたが、今はゲーム感覚で捉えられています。社会の基準は変わりますし、クリスチャンによってもその基準は変わるでしょう。(例:お酒を飲むクリスチャンもいます)しかし大切なのは、あなたが神様の前で、どのような善に対する価値評価を持っているかです。そしてその姿勢に対して、神さまの報いが各々にあります。
 私のメッセージは強制ではありません。教えとして100%の完璧さを語りますが、自分がその何%を目標とするかは、人各々です。決して脅迫観念を持たないようにしてください。

●07/07(月)(箴言11:3)
“直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。”

 ダビデ王は国のため、王のために尽くすほど、王に妬まれ、命を狙われました。正義を行っていく時、人々から妬まれ、その妬みによって害を受けることがあります。しかし、それも神の導きであると、大きな心で捉えましょう。たとえ妬まれても、それによってむしろ社会的に大きな力量を身に付けるという、成長のステップになるのだと、ダビデの生涯を通して考えましょう。

●07/08(火)(箴言11:4)
“財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。”

最後まで正義を全うできる理由は、「神がおられる」からです。神は最後に、地上の全ての隠されている罪を裁かれます。それはイエス・キリストの再臨の時です。悪は必ず裁かれるのですから、正義をいつも追い求めることができます。そしていつも悔い改めて、罪を捨て、神の前に正しく生きることができます。

●07/09(水)(箴言11:5)
“潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。”

「平らにされ」とは、最初は平らでなかったということです。
ヨセフの生涯を見てみましょう。ヨセフは兄弟に裏切られ、奴隷として売られ、仕えた家で奥さんに陥れられ、牢獄で善を行っても忘れ去られるという辛い人生を送りました。しかしそのような中でも、ヨセフは正義を愛し続け、そして遂に彼の人生は平らにされました。
 神が与えられた賜物によって、パロ王の夢を解き明かし、王の信頼を得て、エジプトを治める大臣の位にまで引き上げられました。
ただ潔白が証明されるまで、待ち続けることが必要なのです。神があなたの正しさを見られて、人生の道を平らにしてくださるのを待ち続けましょう。どんなに正しいことをしても良い実を結ばず、むしろ悪い結果が起こっているかもしれません。そのような時、ヨセフの生涯を思い出し忍耐してください。忍耐はあなたを完全な者とします。

●07/10(木)(箴言11:6)
“直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕えられる。”
 災いにあっても、神はその中から助け出されます。松岡先生は伝道熱心に働いておられましたが、交通事故で大けがをし、顔も大きく傷つき、「神様、どうしてこんなことが起きるのですか?」と嘆き苦しまれましたが、その時十字架のイエス・キリストを思い起こされ、奇跡的な回復をされました。そして今度は死をも恐れない伝道師となり、海外へも行かれるようになりました。そしてアメリカで歯の癒しを行う伝道師と出会い、自分の虫歯に集会中に金が入るという奇跡を体験しました。彼は子どものように素直な心でいつも神を呼び求め、試練の中から救い出されるというたくさんの奇跡を経験しています。神はこのような素直な心を愛されます。

●07/11(金)(箴言11:8)
“正しい者は苦しみから救い出され、彼に代わって悪者がそれに陥る。”
 苦しみ続ける時、正義を愛するか不信仰に陥るかという葛藤を経験します。しかし、自分を変えようとしないで、悔い改めをしようとしない人は、憎しみや悔しさを持ち続け、心の傷を持ち続け(神のいやしを信じず)ます。そして苦しみは終わることがありません。
 しかし正しい者は自分の心を探り、悔い改め、心を入れ替えるので、その苦しみから逃れることができます。これが苦しみから救い出されるということです。

●07/12(土)(箴言11:9)“神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。”

 たとえあなたが正しくても、それが相手を裁いていい理由にはなりません。正しい人は、裁かれる唯一の方は神だと知っています。また、正しい人は、助けるべき人は誰かをわきまえる知識を持っています。「あなたの敵を愛せよ」とイエス様は言われました。敵だからと拒絶することは易しいですが、神の前にいのちの尊さを重んじ、敵であってもあわれみの心を持つこともできます。そのためには、正義を愛するというしっかりとした心の決断が必要です。
 しかし、正義を愛するには保障が必要です。愛し続けて報われるのかという保障です。その保障がイエス・キリストの十字架であって、確かにすべてを裁かれる神がおられるという信仰です。
 神への明らかな信仰をもって「正義を愛する」決心をし、正正堂堂と神の前に歩む一週間としましょう。