■2008年4月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   錦上添花 きんじょうてんか  up 2008.4.27


良いものの上に、更に良いものを付け加えることのたとえ。


知恵は自分の家を建て、七つの柱を据える
(箴言9:1)


 

 

 今週の四文字熟語の錦とは錦織の華やかな織物のことです。そこにさらに花を添えることで、ますます華やかなすばらしいものになるという意味です。それは「成長」ということにも例えられます。
(箴言9:1)にあるように、私たちの生活の知恵も、良いものの上にさらに良いものを付け加えて、ますます知恵深い生活を実現していきたいものです。
 ではどのようによい知恵の上に、さらによい知恵を付け加えられるかを、2つのポイントから見ていきます。知恵は「家を建てる」と 「知恵は柱を据える」というポイントです。

1.家を建てる(マタイの福音書7:24)
“だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。”

 賢い人は岩の上に家を建て、愚かな人は砂の上に建てるとあります。両者はどうして岩の上、あるいは砂の上という場所を選んだのでしょう。岩の上は労力も時間もかかります。しかし、洪水や地震などの自然災害が起きた時に、その成果は表れます。もしかしたら、一生に一度もそのような災害は起こらないかもしれません。しかし賢い人は、もしきたらということを想定して、時間と労力をかけて岩の上に建てることを選んだのです。つまり、将来どんな問題が起きても大丈夫なように備えることが賢さです。
 砂の上に建てた人は、将来のことより今をすぐ楽しみたいという人です。知恵は自分の家を建てます。あなたの中にある知恵が、あなたの人生の家を建て上げていきます。

A)『家』=家族、家系。人生の大成
 神が「イスラエルの家よ」と呼びかけられる箇所が聖書に何度も出てきますが、それは、イスラエルのすべての人々を指し、過去から未来までのイスラエルの血筋の人々すべてを含んでいます。
 この場合の「家」は各々の種族、グループを表しています。ですから、知恵が家を建てるというのは、あなたの家系、家族が完成へと築き上げられていくことを意味します。今の「私」というのは、これから後の子孫のための土台であるかもしれません。あなたが将来の子孫のための一部を担っているのです。あなたの家系、家族はそのようにして築き上げられていきます。つまり、将来子孫が良くなるか悪となるかは、あなたがいかに知恵を働かせて家を築いていくかによっているとも言えます。愚かな判断をしないよう、知恵を働かせていくことが大切です。愚かさは家を崩してしまいます。
 また、家は人生の大成とも言えます。家を建てるということは、男性にとっては人生を大成したと言えることだからです。知恵は家を建てるのです。今の家の形も、何世代に渡って、人々が知恵を積み重ねていくことで完成してきました。一代で完成できたわけではありません。個人個人の人生も、小学生、中学生、高校生と時間を経るに従って、ますます知恵が深くなり、築き上げられていくものです。このような知恵は、短時間でなるものではありません。即席でできあがるものでもありません。各々の味わいのある、オリジナリティーのある知恵を身につけるためには、時間が大切になってきます。

B)神が建てられる家(ヘブル人への手紙3:6)
“しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。”
 私たちが神の家であり、家系であり、家族です。神はアダムから始まった家系を大切にされ、イエス・キリストを送ってまでして、この家系を絶やさず築こうとしてくださっています。神の家系と聞くと、束縛されているように思えますか?しかしそれは大変光栄なことです。この世に対する良き模範、手本として、私たちは神の知恵によって建て上げられていきます。

C)神が願われている家(エペソ人への手紙5:27)
“ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。”
 栄光の教会とは神の家です。しみやしわのない聖い教会です。しみやしわとは、罪、咎、道徳的汚れ、無秩序、放縦、そういう類のものです。美しさの絶頂である花嫁のようなきよらかな教会を築き上げたいと神は願っておられます。それゆえ、教会では、きよめを大切にします。今完全でなくても、将来きよめられていきます。今、きよくない面があっても、将来きよめられていくという希望を持つことで、ますますきよくされていきます。失望やあきらめの強い人は、神のきよめの働きを拒絶してしまいます。
 私たちは失敗するものです。しかしその失敗を生かして、より良いものを作り上げていくことができます。それを信じて、クリスチャン生活を希望のあるものとしていきましょう。

2.柱を据える(第1テモテへの手紙3:15)
“それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会であり、その教会は、真理の柱また土台です。”

A)『柱』=家全体を支えている重要なもの
 柱と土台は、家にとって、同等に重要なもので、家を支えるための大切な基本です。柱がないと壁は安定しません。
 「その教会は真理の柱また土台」とありますが、真理とは「存在理由」であり、存在理由とは、なぜそれが存在しているかということです。それは神が創造主であって、すべてをイメージして意志を持って造られたからです。ゆえに存在そのものである神が真理です。「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」とイエス・キリストは語られました。また、教会は創造物の存在の柱であって、万物、宇宙は教会によって支えられているとも言えます。
 神は、神を敬う敬虔な一人一人を、宇宙の柱、土台と言われています。まさに、あなたのために宇宙は造られました。あなたの存在が宇宙の柱であり、土台なのです。
 神は人を一番最後に造られました。それは、すべてを人のために造られたからです。人が神と共に暮らし、過ごしやすいようにとすべてを整えられた上で、最後に人をご自身のかたちに造られたのです。何という神の愛、ご計画でしょう。このような大切な人を傷つけたり、殺したりするのは本当に恐ろしいことです。殺し合い、戦争は、こういった大切な柱である人々を失うことです。

B)神の家にふさわしい柱を選ぶ(コロサイ人への手紙3:12)
“それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。”
 以前は大工さんは、自分で山へ行き、木材を選んで柱にしました。「教会」は呼び出され、召し出されたという意味があります。皆さんは真理の柱、土台として神に選ばれたのです。
 人生を築き上げるため何をするか、何を大切なものとして人生に取り込んでいくか…、それはどんな家を建てるかという目標によって変わってきます。野球選手になりたい人は、野球を一生懸命練習します。その練習、訓練は一番大切な柱です。ところが、訓練をさぼってゲームセンターに行っていたら、それは柱ではありません。
どんな人生を目指しているかによって、何を方策、手段として選ぶかが決まってきます。私たちは広島で、神が与えてくださった目標があります。平和を発信する広島として、神は選んでくださっています。
多くの血を流したことで、広島は知恵を得ました。二度と戦争をしてはいけないという知恵です。勝つ者も負ける者も不幸を生み出すからです。これは知恵です。

C)教会ビジョンの4つの柱(方策)にどう関わっていくかを決める
★教会ビジョン『広島が、神に愛されたエルサレムのような平和の町となる』
第一の柱【コイノニアシップ】セルライフ…互いに助けが必要な時に助け合っていく。心を開いたコミュニケーションがもてる家族としてのつながり
第二の柱【エルシャダイ】このコイノニアシップをもって、貧しい人、弱い人々に助けを与える事業をします。これは単に教えでなく、実践です。イエス・キリストは実践して歩まれました。過去において多くのクリスチャンたちが、このスピリットで病院や施設、学校などを作ってきました。特に世の中で公的援助を受けられない人々に、イエス様はいやしと奇蹟を与えられました。エルシャダイの事業はイエス様と同じ愛の心をもって、自発的に喜んで捧げたいと願う人々によってなされていくものです。
第三の柱【セレブレーション】
第四の柱【ミッション】

 

 

 

 

 

  
■2008年4月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   殷鑑不遠 いんかんふえん  up 2008.4.20


戒めとすべき失敗の例は、そんなに遠い過去にあるのではなくて、身近にあるというたとえ。


わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。
(箴言8:36)


 

 

 カナンの地に入ったヨシュアから時を経て、イスラエルにはサムエルという預言者が与えられました。その頃、民の望みに応えて、初めてのイスラエルの王として神より選ばれたサウルは、彼のへりくだりのゆえに選ばれたのです。しかし彼はそれを保ち続けることができず、最後には王座から退けられてしまいました。彼がどうして退けられたのかを共に学び、私たちの糧としてまいりましょう。

1.知恵を見失う(第1サムエル記13:11〜12)
“サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。
今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」”

 ある時サウル王は、ペリシテ人の大軍を前にして、7日間待てとの主からの命を受けました。しかし刻限が迫り、自軍が敵の前に崩れ去ろうとした時に、彼は神のご指示を待ちきれなくなり、勝手にささげ物をささげてしまったのです。そして彼がささげ物をささげ終わったちょうどその時、神の人であるサムエルが到着したのでした。

A)神様の『時』を見失う(詩篇37:34)
“主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。”

 自分にとっては当然と思えることでも、神の前に正しいとは限りません。神様は失敗のないお方です。この方に自分が忠実に従うか、信頼しているかが焦点になります。サウルは信じきることができませんでした。
 私たちは神が定められた時の最後の一秒まで信頼を保ち続けることができるでしょうか?信仰は限界まで引き延ばされ、鍛えられます。

B)自分の『分』を見失う(伝道者の書5:19)
“実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。”

 一国会議員に総理の代わりを務めることはできません。私たちは自分で責任を負えないようなことに対して、大した考えもなしに行動してはいないでしょうか。自分の気持ちで、責任を負うべきことに対して自由気ままに振る舞ってはいないでしょうか。サウルは自分の分を超えて、祭司の役目をしてしまいました。私たちも周りの状況に振り回されたりした時に、自分の分をわきまえることを忘れがちです。

C)正しい良心を見失う(ヘブル人への手紙13:18)
“私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。”

 人はよく、目の前の感情に流されて本心を忘れます。ふとしたきっかけでそれは起こります。怒りも、正しくないあわれみも、感情の盛り上がりに流されて起こります。

2.知恵を退ける(憎む)(第1サムエル記15:20〜21)
“サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。
しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。”

 「憎む」という感情はすぐに分かるので、クリスチャンたちが持ち続けることはほとんどないはずです。しかし「嫌う(嫌だと思う)」=「退ける」=「憎む」と考えると、私たちにもその気持ちはあり得ると思いませんか。自分の思い通りにならないと、嫌い、退け、さらに憎むようになるのです。
 サウルも世の王たちがするように、敵をさらし者にし、分捕り物を持ち帰りたかったのでしょう。しかし彼は自分を正しい者としました。間違っていないと主張したのです。

A)自己解釈によってみことばを退ける(第2テモテへの手紙2:15)
“あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。”

 人からの説教を聞きたくないとき、自己解釈が始まります。みことばが自分の邪魔だから、別の解釈をするのです。人の説教を聞きたくない、聞かない、うるさく感じる、押しつけに思う、そんな時、私たちの心は危険にさらされています。上司や親からの言葉も、私たちは案外ねじまげて聞いていることがあります。こんな状況からは一刻も早く解放されなければなりません。

B)肉の欲によってみことばを退ける(ルカの福音書12:15)
“そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」”

 欲自体は悪ではありません。貪欲が問題なのです。欲する心を制御するために、以下の行程を試してみてください。
(1)「主よ」と声をかけ、心を主に向ける。
(2)「私は今肉の感情が湧いてきて、非常に自制しにくい状態です」と 告白する。
 口での告白がとても大切です。そして主に心を向けるために、聖霊様に委ねて祈っていけば更に効果があります。心が静まっていくのがわかります。欲する心を制御できるかどうかが勝利の鍵です。
(3)正直な心で祈る。
「神様、本当に欲しいんです。」と、素直に自分の心をお話ししましょう。私たちの弱さを知っておられる神様は、正しく私たちを満たしてくださいます。

C)人を恐れて主を退ける(箴言29:25)
“人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”

 サウルは王でありながら、民の意志を優先しました。実は自分も民と同じことを願っていたからです。
 たとえば仲の良い夫婦がいたとします。口さがない近所の主婦の妬みから出た中傷が元で、外ではお互いに知らん顔をしているようになりました。その主婦を刺激しないために、です。悪に押さえつけられたのです。(口さがない→口汚く言いふらしたがる)
 神様とあなたの関係が、他の誰かに壊されるなど、あってはいけないことだとは思いませんか。悪く言われるのが嫌だからと、人に隠してしまうような信仰なら、その人の心は小さいと言わざるをえないでしょう。本来人は、誰かの幸せを見れば、自分も幸せになるはずなのです。そして、誰もが幸せになりたいと願っています。だから、神様とあなたの幸せがすばらしいほど、周りの人々も幸せになるのです。

 身近なところで失敗の例を見つけましょう。テレビのニュースや、自分の身の回りなど、いろいろな所を見渡してみましょう。
 発明家として有名なトーマス・エジソンは、電球を発明するまでに5000回もの失敗をしましたが、それらは後の彼にとって「うまくいかない条件」として貴重な資料になりました。クリスチャンたちにも、厳密な意味での「失敗」は存在しません。必ず何かの学びや発見を含んでいるのです。
ただし「失敗」を「学び」にするには知恵が必要です。皆さんもぜひ、神の知恵をいただいて、何かの発見をしてみてください。

 

 

 

 

 

  
■2008年4月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   思慮分別 しりょふんべつ  up 2008.4.13


注意深く考え判断し、物事の道理をわきまえること。


知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。
(箴言8:12)


 

 

 今年の教会のモットー「正しい良心をもって手をさしのべる」を実行していくためには知恵が必要です。折りにかなった助けを互いにしていくために、箴言のみことばから今週も知恵をいただいていきましょう。「思慮分別」とは、心の中の思いや考え、計画をさしますが、行動をとりながらこれを働かせていくことが大切です。知恵は「分別を住みかとする」とあるように、知恵は分別のうちに見いだされます。この分別をみことばから正しく理解していきましょう。

1.『分別』という意味
ヘブル語=分別、熟慮、巧妙、狡猾さ、ずる賢さ、用心深さ、抜け目なさ、英知、賢明(細心の注意を払って取り扱う)
日本語=考えること、思案をめぐらすこと
 分別とは心の態度を現します。細心の注意を払って取り扱うこと、物事のうわべだけでなく、しっかりと考え先のことや、そのために今どうするかを考えることです。このことから、『知恵は分別をすみかとする』とは「熟慮するところに知恵を見出す」と捉えることができます。
 ここで使われているヘブル語の「分別」には、巧妙さ、狡猾さ、ずる賢さという意味も含まれています。巧妙な人、ずる賢い人は、私たちの考えも及ばないような策略を練るものです。しかし、そこでは思案をめぐらせ、知恵を働かせています。「分別」について考えるとき、そのような悪い意味の部分は脇に置いて、「深くよく考える」「先を見通して今準備をしていく」という点からその意味をとらえて頂きたいと思います。聖書の中でこのヘブル語の「分別」が使われているところから、さらに考えてみましょう。

2.分別を働かせる
A)ヨシュア記9:3-9
“しかし、ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行なったことを聞いて、彼らもまた計略をめぐらし、変装を企てた。彼らは古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身に着けた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、ぼろぼろになっていた。こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。」”

 ヨシュアたちイスラエルの民は、40年の荒野の生活を経て、ヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入りました。そこで、最新鋭の武器を持ったエリコの人々と戦い、勝利を得ました。これは、カナンの人々が神に背き続け、その罪が満ちたために、イスラエルを用いてその地の人々を裁くという神様のご計画によるものでした。このうわさを聞いて、カナンの人々はイスラエルに戦いを挑みましたが、その中でギブオン人だけは、神の裁きとしてイスラエルに滅ぼされることを恐れました。そして、何とか子孫が残るために方法はないものかと計略をめぐらせました。この「計略」ということばに、「分別」と同じヘブル語が使われています。自分たちの民族が生き残るために、イスラエルの奴隷として生きることを考え、そのための計略を練ったのです。
 ここで大切なのは、ギブオン人の「欺き」という罪に目を向けてしまい、彼らのへりくだった、神を畏れる心を見逃さないようにすることです。神の人ヨシュアが、なぜ彼らにだまされたのでしょう?何事においても神に伺いをたてていたのに、このときだけは聞かなかったのです。ギブオンの人々は、変装してイスラエルのあわれみを乞い、戦いを避けました。彼らの方法は、イスラエルを滅ぼしたり、傷つけるという悪意の策略ではありませんでした。欺きは悪いことです。しかし、そうまでしなければ生き残れないと追いつめられ、プライドを捨ててへりくだり、奴隷でもよいから、イスラエルの民の中に生き残りたいと願ったギブオン人は、イスラエルの後におられる神を畏れたのです。その心をあわれみ、神様もヨシュアが祈りにこなかったこと、またギブオン人のこの策略を黙認されたのです。
 私たちは、100%神様の前に正しいことはできません。つい自己防衛のためにうそをついてしまったり、大げさに言ってしまったりするものです。ギブオン人はそのような罪深い、弱い私たちを象徴しているのです。罪人である私たちは、へりくだり、神を畏れ、どうしたら生き残れるかを考え、行動することが必要です。「生き残るために何をしてもよい」ということではありません。悪いこと、うそをつくこと、そこに悪意があるものは、神様は決して受け入れられません。あわれみを注がれません。窮地に追いつめられ、自分たちの弱さを認めへりくだり、奴隷になることさえいとわなかったギブオン人たちの気持ちをよく考えましょう。そこまでしてもあわれみの方が大切である、ということを悟ることが必要です。ごう慢な者は一つでも罪を犯したら赦されません。しかし、神様を畏れて悔い改めるなら、その人の未来のために、神様はその罪を赦し、それだけでなくそのつぐないをもご自身が支払って下さるのです。私たちの神様はすばらしい神様です。窮地に追い込まれた時、へりくだって神様のあわれみを受けるために分別を働かせて考えることが必要です。

B)ルカ16:1-9
“イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』……この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。”

 このイエス様のたとえ話は理解することが非常にむずかしいものです。「ある金持ち」とは父なる神様、「管理人」とは私たちクリスチャンを表します。この管理人は主人の財産を自分のもののように乱費していました。私たちも、いのちや時間など神様から与えられているものを神様のためにではなく、自分の欲のために使っていることがあるかもしれません。主人は管理人をすぐにクビにするのではなく「会計の報告を出しなさい」と言いました。これは「すべての罪を告白しなさい」ということです。罪の告白の時間が与えられているのです。私たちは、神様の前にへりくだり、すべての罪を告白することが大切です。管理人は、辞めさせられた後のことを考えました。自分の罪、弱さを認め、将来に対して今どう備えるか、これが分別の正しい用い方です。人に罪をなすりつけて何とか管理人の職にとどまろうという狡猾さとは違います。管理人は債務者たちを呼んで証文を書き換えました。これは管理人の権限としてできることであり、これをどう評価するかは主人のすることです。主人はこの管理人を「抜けめなくやった」とほめました。神様は人の行いの罪を赦す大きな心を持っておられます。不完全な人間には、完全な行動はできないことをご存知です。私たちは不完全な罪人、不正の管理人と同じような状態の者です。神様はそれをよくご存知で、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と言われます。神から頂いたものではあるけれど、これを使って自分の永遠のいのちのために友を作りなさい、ということです。
 最も早く友を作る方法は、助けが必要な時に施しをすることです。本当に助けが必要な人は心から感謝します。そのように時にかなった助けをして友を作っていくなら、あなたが神の前に立ってさばきを受ける時、その友はあなたのためにとりなしをしてくれるでしょう。
 私たちは管理人としての役割を完全に果たすことはできませんが、時にかなった助けをすることは誰にでもできることです。それを惜しむところに問題があります。知恵が非常に必要です。「不正」ということばにとらわれないようにしましょう。私たちはクリスチャンであってもまだまだ「不正」な者、自己中心で感謝の足りない者です。ここで学ぶべきことは、神からの良き賜物の管理者として精一杯忠実にするけれど、まだまだ失敗の多い者であることを認め、与えられた人生で自分のために友を作ることが賢い方法であるということに気づくことです。
 神様は聖書の中で「あわれみの方が大切である」ということを何度も語っておられます。私たちは行いによって義を立てることは決してできません。神様からあわれみを頂くしか生きることができない、弱い土の器です。これをわきまえてへりくだった時、神様からほめられる本当の知恵が出てくるのです。

3.神の前における正しい良心を備えた罪人の分別(使徒9:36-41)
“ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。……”

 多くの良いわざをしたドルカスという女性が病気で死にました。その施しを受けていたやもめたちがこれを嘆いてペテロのところに来ました。それを見たペテロは、神の前にひざまづき、とりなしの祈りをして、ドルカスはよみがえらされました。
 聖書にはドルカスの良い行いについては記されていますが、性格については何も記されていません。裁縫の技術を生かして貧しいやもめたちのために一生懸命助けたのでしょう。彼女たちの関係は親密なものでした。しかしこのような良いことをした人が、なぜ病気で死んだのでしょう。初代教会の時代、パウロは病気になる一つの理由について、「みからだをわきまえない」、つまりみからだである兄弟姉妹に対する批判や、赦さない、受け入れない心などを挙げています。神の目には、ドルカスに何か病気になる理由があったのではないかと考えることができます。何らかの性格上の問題があったのかもしれません。 ドルカスの助けが必要でない人は、彼女の性格の悪い部分に批判的になるでしょう。しかし助けられている人は、性格がどうであれ、感謝し受け入れるのです。
 私たちは、神様の前に不完全な罪人、裁かれるべき者です。そのような私たちが唯一神様のあわれみを受ける方法は、人をあわれむことなのです。罪人同士あわれみ合うこと、これが神様が望んでおられる「互いに愛し合いなさい」ということなのです。
 神様にあわれんで頂くために、私たちは互いにどのようにあわれみ合うことが必要か、深く考え、分別を働かせなければなりません。これは自分の性格を変えようと考えることよりも優先すべきことです。助けの必要な人を深くあわれむことによって、性格が変わってきます。 ドルカスは自分の性格を変えられなかったかも知れません。しかし、自分の性格は自分では変えられない、と神に全面降伏し、自分に与えられた裁縫という能力を生かして、神に自分の人生をささげようと悟ったのではないでしょうか。そのことによって彼女は友を得ました。神様は、その友であるやもめたちをあわれんで、彼女はよみがえらせたのだと思います。
 
 クリスチャンは、神様のあわれみを悟るごとにへりくだり、悔い改めを通して変えられていくのです。人は神の愛を受けて生きていくものです。私たちは神様からの愛さえも頂いて、管理している者です。その愛を人のために使っていくように心がけましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年4月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   時々刻々 じじこくこく  up 2008.4.6


その時その時。時を追って。次第次第に。物事が引き続いて起こることに言う。


私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」
(伝道者の書3:17)


 

 

 「時があるから、すべての人に神の裁きがなされる」とは、どういう意味でしょうか。箴言には、「主を恐れることは知恵の初め、知識の初め」とあるように、知恵・悟りを得る初めは、神を認め、敬い、畏れることです。どうして神を畏れ敬うことが必要かというと、神が正しい人も悪い人も裁くお方だからです。「裁く」とは「終わりがある」という意味で、神が私たちの人生を最終的に評価されるということです。正しい者には報いを、悪い者には悪に従った報い、すなわち裁きをなされます。こうして公平さをもたらすのです。(正しい者と悪い者が同じ扱いを受けるのは、当然不公平です)それは秩序を保つためです。秩序は全体の調和を維持するために大切なルールです。全体の秩序が保たれていても、守らない人が一人いると全体がその影響を受けてしまうことを忘れてはいけません。公平な良い社会が保たれるために、各々が持ち場立場を認め合って、各々の分を果たすことが必要です。 また、秩序の中には権威が存在しますが、人をコントロールするためではなく、秩序を保つためのものです。しかし、今は不敬虔な世の中にあって、正しいはずの秩序が「人を縛り自由を失わせる」と、歪めて受け取られています。この間違った考え方は、善悪の基準を自分中心に考える進化論が根底にあります。私たちは人からではなく、調和を保つため、全体の益のために秩序に縛られているという理解をしていただきたいと思います。神は秩序を破る者に対して裁きを、守る者たちに対して報いを与えられます。なぜなら、すべての営み、すべてのわざに時があるからです。この「時があるから」という言葉に神の裁きの判断が含まれていることをお話しさせていただこうと思います。
 今週の四字熟語は「時時刻刻」です。私たちがどんなに願っても、時間を止めることはできません。時間の進み具合によって、まわりも変化しています。だから時にかなった営みとわざをする必要があります。それに対して神は報いを与え、時を損じた人を裁かれます。
 時が非常に大切です。一人一人が的を射た時をつかんで、どのような動機で何をすべきかを決断するかを、神は見ておられます。みなさんも毎日「時をつかむ」ことに心を向けて、実践していただきたいと思います。

●4/7(月)「時宜にかなった言葉」(箴言25:11)
“時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。”

 金、銀共に芸術的にも調和が取れ、高級感をもたらし、神の尊厳を表現しています。「ことば」と「時」も調和が取れた瞬間(時)があり、それを見逃さないで語るべきことを語るように、ということです。人に会う予定が分かっていれば、どんな言葉を語るか祈りの内で黙想し考えていくことは、賢いやり方です。また、一日の初めに最初に会う人(家族、職場の人々)にかける言葉によっては「銀の彫り物にはめられた金のりんご」のように、相手にいやしをもたらし、元気を与えます。私たちは言葉を語る時、あまり深く考えず、準備をしていないのではないでしょうか。「時宜にかなった言葉」が語れるように、準備し工夫してみてください。これだけでも人間関係が変わってきます。

●4/8(火)「その時には」(マタイの福音書9:15)
“イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。”

 神様は「〜しなければならない」と、一つの条件のように心が縛られ、負担をかけるような教えをされておられません。マタイの福音書9:15のみことばは何を悟らせようとしているのでしょうか。 花婿とは祝宴の主人公です。この花婿がいなくなると、喜びがなくなります。花婿がいなくても喜ぶ人は、食べに来ているのです。それで花婿がいなくなった祝宴の場所が断食の場所に変わるというのは、「悲しみ」「辛さ」を表現しています。私たちは人に言われて断食するのではなく、その状況が起こった時には断食をします。私たちの集まりの主人公は主ですが、その主のおられない所で賛美をささげても意味がありません。私たちに罪の赦しを与え、永遠のいのちをもたらしてくださった愛なる神様がおられるからこそ、賛美をささげることを喜びとします。
 断食したいという気持ちが起こったら、チャンスを逃してはいけません。祈りたいという状況が起こってきたら、仕事を休んででも祈ることは必要です。それは時にかなった行動だからです。神はそれに報いてくださいます。「導かれて」とはこういうことです。花婿がいなくなったら、私たちが祝う理由がなくなります。喜びから問題の中に入っていく状況が感じられ、そこに「断食」という言葉で「辛い」「重苦しい」という気持ちを表現します。
 私たちも状況の変化に合わせてどうするべきかが見えてきて、「その時には、そのようにしていこう。」と悟る必要があります。自分の気持ちが主体になるのではなく、まわりの状況が私たちの心に、例えば「今は断食するほどに求める時だ」と感じさせるのです。「KY→空気を読む」今は何をすべきか、神はどのように導いてくださっているかをしっかりつかむことの重要性を見逃さないようにしましょう。

●4/9(水)「時のしるし」(マタイの福音書16:3)
“朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。”

 空模様の見分け方は、体験・経験を積まないと身に付きません。私たちの人生にいろんなことを体験してきて、見分ける力がついています。それならば、神様がこれから何をなそうとされているかというしるしを、経験を積んで見逃さないように、ということです。クリスチャン生活で、いかに将来を見分けていく力を身につけていくかに心を向けながら、今まで神の前に報われる歩みだったのか裁かれる歩みだったのか、もう一度反省しましょう。もし裁かれる者だと良心的に判断したなら、気づいた時に悔い改め、正しく見極めていきましょう。悔い改めると人は価値観が変わり、先が見えてくるようになります。悔い改めると時のしるしが見えてきますが、傲慢な人には見えません。

●4/10(木)「自分の時」(ヨハネの福音書13:1)
“さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。”

 「自分の時」とは、決められたスケジュールに合わせた時が来た、という意味です。私たちにはいつか分かりませんが、「死ぬ時」がやってきます。本能的に死期を悟ることがあるようです。クリスチャンは聖霊様によって、「自分の時」を教えられます。正しい良心を敏感に働かせていくと、神様のご計画に従った自分の時がわかってきます。時間は進んでいます。いつまでも自分の時が与えられているとは限りません。よいものを人々に分け与えず過ごしてしまわないように気をつけたいものです。

●4/11(金)「時を移さず」(使徒の行い16:33)
“看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。”

 伝道旅行中のパウロとシラスの親切心からの行動は、役人の気に障り、二人は投獄されてしまいました。獄中で二人が賛美を捧げていると、地震が起こり、牢獄のドアが開き、囚人たちをつないでいた鎖が外れるという奇蹟が起こりました。囚人がみな逃亡したと思い込んだ看守が自殺しようとした時、パウロが止めました。そして看守は時を移さず二人を引き取り、傷の手当てをしました。パウロを見て感動し、敬う心を持った看守は、ローマの権威をも恐れず、パウロを大事に扱ったのです。本来は上司への報告、伺いの義務がある看守が、それをさておいても、自己判断によって時を移さず二人を引き取ることによって、彼の家族はみな救われたのでした。このようなケースもまれにあるということですね。
 私たちは牧師先生にしっかりと教えていただくことは基本です。しかし、場合によっては、時を移さず行動すべき時があるということです。だから聖霊様が内におられて、正しい良心による敏速な判断ができるよう、正しい良心をいつも磨いておくことが必要です。そのためには、神との交わりをおろそかにしないように気をつけてください。神との交わりは、正しい良心でしかできません。肉の欲望では、神と交わりを持てません。

●4/12(土)「地上の残された時」(第1ペテロの手紙4:2)
“こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。”

 迷うことなく、神のみこころを行う毎日を送りたいと思いませんか。特に新約聖書には、神のみこころが示されています。例えば神様は仕事の種類ではなく、選ぶ動機を問われます。正しい良心によって神の前に求めて就いた仕事なら、神が与えてくださったとやり抜くことは正しいことです。使命感が感じられるなら、なお良いことです。迷わせる心の中には、自分の願望を優先したい気持ちが働いていないか吟味し、正しい良心の中で求め、そして地上の残された時を、極端に言うとたとえ1秒でも生きる時間が与えられたなら、その1秒を神のみこころのために過ごすように、ということですね。

 これら全般に「時にかなったわざや営みをする」その時を選ぶことは難しいと思われているかもしれませんね。しかし状況や時の流れで信仰生活が進んでいくと「時」が分かってきます。祈っている人、みことばにふれ続けている人は分かるのです。神と密接な関係があるので、神から詳しい情報を得られるからです。それには「聞く」姿勢、「教えてください」というへりくだりの姿勢が必要です。へりくだった柔軟な心を持たないと、「時を知る」ことは難しいでしょう。ごう慢な人は鈍感ですが、へりくだった人は敏感に物事を察知します。また「敏感さ」と「強さ」は相反しますが、「悪いものをより分ける強さ」と「小さなものを見極める敏感さ」の両方が身に付くなら、相当高い人格が備わります。そのためには何度も砕かれる経験をすることですね。一番良い状態で神のみこころを察知できるように、神はあなたをへりくだりに導いてくださっています。辛い、悲しい出来事が、へりくだった柔軟な心が保たれるために、神が自分を縛ってくださっていると感謝して受け止めていかれるなら、神の「時」を感じていくことができるようになるのです。
 今週は毎日のように殺人、自殺の事件が起こりました。不敬虔な社会的価値観がもたらしている罪の表れです。敬虔さを軽んじているが故に、社会秩序が乱れてしまっています。それを崩さず保つようにと、神は私たちに期待しておられます。「あんなクリスチャンならなりたくない」と思われるようなクリスチャンでは、地上にいる意味が失われます。神は証ししたいのです。どんな愚かな人でも、敬虔な心を持つなら賢くなります、と。敬虔さがいかに美しく価値があり、人々の幸せにつながるかを、私たちクリスチャンを通して証ししたいのです。時を損じないようにしましょう。謙虚な心を持って悔い改め、備えていきたいと思います。

 

 

 

 

 

  
■2008年3月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   愚公移山 ぐこういざん  up 2008.3.30


怠らずに努力するば、どんな事業でも必ず成功するというたとえ。


なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。
(箴言6:6〜8)


 

 

 愚かにならないで賢い生き方をするために、蟻を通して、賢さとはどういうものであるかを学んでいきましょう。
 今日の四字熟語は、中国の故事のお話です。昔、愚公という老人がいました。ひとつの山が、将来子孫の発展の妨げとなると思い、その山を取り除こうと決意しました。そして毎日毎日、一人でその山の土を砕き続けました。彼の不屈の精神を見て、天の神はその山を取り除いてくださったということです。これは、誠実に勤勉に未来のために一生懸命努力し続けるなら、天の助けが与えられ、願いが実現するということを物語っています。
 蟻の働きもそのようなものです。一日か二日で仕上がるようなものではなく、毎日毎日せっせと働いて、一夏かかって食べ物を蓄えるという地道な労苦です。しかし、その働きを忠実に続けることで、子孫を養っていけます。その勤勉さを学びましょう。「義の虫」と書くほどまじめな虫です。

●3/31(月)「なまけ者の心」(マタイの福音書25:26)
“ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。』”

 これはタラントの例え話です。三人のしもべに主人は、その能力に応じて財産を預け旅に出ます。旅から帰った後、各々のしもべたちがどのような働きをしたか、主人は報告を受けます。五タラントと二タラントを預かったしもべたちは、各々その額を倍にする働きをして、主人にほめられますが、一タラント預かったしもべは主人を恐れて、土の中にお金を隠し、何の働きもせず、叱られます。この時の主人のことば、「悪いなまけ者のしもべだ。」は何を示しているのでしょうか。五タラントと二タラントのしもべは、自分の主人は良い主人だと理解し、預かった金額を感謝し、用いることによって、良い結果を得ました。主人への不信の思いは少しもなかったので、預かったお金を大胆に用いることができたのです。しかし一タラントのしもべは、主人を歪んだ心、偏見の心で見ていました。なまけ者の一番の問題点は、ゆがんだ心があるということです。物事を正しくまっすぐに見ることができず、偏見で心が満ちているということです。人の親切でさえ裏を考え、いつも逃げ腰の態度が出てきます。私たちは神様に対して、正しい心を持っているでしょうか。
 順調な時は良い思いを抱いていても、もし祈りが答えられなかったり、何か思いがけないことが起きた時、「やっぱり神様は私を罰して痛めつける怖い方だ。神様は罪人を裁いてやっつけたいのだ。」というような思いを持ってしまわないでしょうか。しかし、私たちの救いのために、十字架の死さえもいとわなかったお方が、あなたの間違いを責め、地獄へ追いやろうとされるはずはありません。神は良き方であるということは、イエス・キリストの十字架を通して、いつも私たちは知ることができるはずです。それを決して疑ってはいけません。この十字架は、神の変わることのない真実な愛の証なのです。
 少しでも自分の思い通りに行かないことがあると、神への不信を持ってしまう、これは愚か者の特徴です。どのような時でも、イエス様の十字架の愛を見て、神は良い神であると信じ続けることが、忠実なしもべの姿です。神に対して、また神の働きをしている人々に対して、否定的な偏見の目で見ないようにしましょう。

●4/1(火)「蟻のところに行く」(第1テモテへの手紙1:15)
“「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに価するものです。私はその罪人のかしらです。”

 蟻を観察するためには、姿勢を低くする必要があります。賢さを得るためには、へりくだりが大切です。便利屋の元祖、右近勝吉さんは、時には月額4千万円もの収入を得るような大成功をしている人です。たくさんの人が弟子入りに来て、とうとう学びに来た人が5000人を超えるようになったそうです。その中には俳優やミュージシャン等もいましたが、全員が成功したわけではありません。成功した人々の中には、ある共通点があることに気づいたそうです。それは、その人々が「自分には才能がない」と本当に気づいていたということです。口先で「自分には才能がない」と言う人は多いでしょう。しかし、ここで言う「才能がない」とは、自分はこれはできるが、これはできないと、正しく自分の力を見極め、自分を自己受容した上で、自分の分をしっかりとわきまえられる人のことを指します。自分の分をわきまえているので、自分の分を超える行動はしません。そういうことが自然にできてきます。これがへりくだった人です。自分を過小評価したり、過大評価しないということです。「何ができて、何ができないか」をわきまえていなかったら、便利屋はできないということです。そしてできないものがあったら、できる人を送る、これが右近さんの成功の秘訣です。全部自分でやろうとすると、失敗して信頼をなくしてしまいます。周りの人々と協力し、自分の分をわきまえて、その仕事を成功へと導いていくことが大切です。

●4/2(水)「そのやり方を見て」(ルカの福音書21:29〜30)
“それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。”

 すべての動植物は、季節ごとに営みが変わります。私たちはそのやり方を見て、素直に学ぶべき点がたくさんあります。そのやり方とは、神が定められたことです。木の芽が春に出てくることも、神が定められたことです。その自然の様子を見て、人格を持った私たちは悟るべき事がたくさんあるはずです。ただ人だけが、これらの季節の営みを破って、そこに囚われず、自由に動くことができます。これは人の特権であり、賢さです。しかし逆に、その賢さゆえに、逆に愚かさが目につくことが起きてきます。「するべき時にしない」ということも起きるのです。ふつう植物は葉が出て、それから花が咲きますが、桜や梅は葉のない時に花を咲かせます。花の美しさを際立たせ、冬の終わりを告げるため、花だけがまず見事に開きます。私たちの人生においても、ある時は自分の労苦を打ち破り前に進むために、派手に宣言する必要があります。長い冬の状況の中で、どこかで春がやってくる状況を示すことが必要です。今することは、今やり始めないといけません。勢いが必要な時もあるのです。
 
●4/3(木)「首領もつかさも支配者もいない」(第1コリント人への手紙1:10)
“さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。”

 女王蟻は支配者ではありません。人を従わせる方法は2つあります。一つは力によって強制的に従わせ、もう一つは愛によって、自発的に従わせる方法です。
 神様は愛によって従ってくることを願っておられます。それゆえ教会では、神の権威を振りかざして人を従わせるようなことはしません。ローマ帝国の法王の権威をもっての民衆の支配は誤りです。教会の中でも、牧師の権威を濫用し、支配的になることは間違いです。牧師はみことばを人々に語り教える務めをもっています。神に従わせるため権威を用いるというようなことはしません。権威を用いるのは悪霊に対してだけです。人に対しては、赦しや祝福の宣言などをする時で、無理矢理何かをさせるためではありません。神が与えられた権威は働きのためであって、支配的になるためではありません。

●4/4(金)「夏のうち、刈り入れ時」(伝道者の書3:1)
“天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。”

 ひとりの彫刻家を紹介します。平櫛田中(ひらくしでんちゅう)という方です。この方がある時、50年分の木をまとめて購入し、庭に置きました。そして黙々と彫り始めたそうです。50年分も購入したということは、これから50年彫り続けようという相当な意欲を持っていると考えられます。しかしこの時、彼は100歳だったのです。「今やらなければいつできる。俺がやらなければ誰がやる」という彼の考え方です。夏が来るのをじっと待つのではない、今できることは今しないとならない、できるのは今だけである、と「今」を考えることの大切さを教えています。昨日でも明日でもないのです。今できることからやり始めるなら、未来が見えてきます。彼は100歳になってもまだ意欲満々だったのです。「今を生きる」ことの大切さを、頂点に立つ人は知っています。私たちの神は「わたしはあってある者である。」と、ご自身のことを言われました。それは今を生きる神である、という意味です。今できることを精一杯していきましょう。

●4/5(土)「食物を確保し、食糧を集める」(ダニエル書11:32)
“彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。”

 このみことばは、ダニエルが未来のことを幻で見て語ったものです。ここで言う「彼」とは、世の終わりに世界統一をする反キリストのことです。クリスチャンでも少し不信仰になって、熱心さが欠け始めることがあります。そういう時に巧言をもって誘惑してきて、クリスチャン達を堕落させるのです。しかし、「今何をするべきか」をわきまえ知る人たちは、堅く立って事を行うのです。誘惑が来ても、それ以上に大切なことがあると気づく人たちは、ただ考えるのではなく、行動に移すのです。
 フリーターで成功し、本を出した菅野さんという人がいます。この人は時給800円の仕事をしていたのですが、一年間で、月収一千万円を超える事業を展開するようになりました。コンピュータの出始めの時、これで事業を始めようと決心したのです。その成功の秘訣は「人生はできるかできないかではなく、やるかやらないかで決まる」ということです。先のことを心配しすぎてやらないよりは、わかった分だけやり始めようと踏み出したら、次が見えてくるということです。「やるかやらないか」が問題です。やれば失敗もあり成功もあります。しかし失敗してもやることによって次が見えてくるのです。行動しなければ何も見えてきません。最近は情報化社会のせいか、口先だけの人が増えてきて、他人の仕事ぶりを評価、指摘するだけで、自分は何もしない人がいます。しかし、知識を持っていても、経験がないのは無意味なことです。
 もう一つ、鉄職人の話をします。一つの鉄を打ちたたき、1000円の馬蹄ができます。これをもっと打ちたたくと針として使え、3万円になります。更に打ちたたくとカミソリになり、それは20万の価値が出ます。しかしもっと打ちたたいていくと、ゼンマイに仕える鉄になり、200万円の値打ちがつくのです。同じ鉄でも打ちたたいていくほど価値が出てきます。神様は私たちのことを「わたしの目には高価で尊い」と評価してくだっさっています。原石で何ら練られてなくともです。
神は私たちが打ちたたかれていくほど、ますます高価なものに変わっていく、その可能性を見てくださっています。
 様々な人生の苦しみを耐え忍んでいく時、私たちの品性は磨かれ、価値ある者となっていくのです。自分に与えられた未来を信じて、今の苦しみをしっかりと耐えていきましょう。なまけ者の心を捨て、蟻を見習って今を大切にしていきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年3月23日 復活祭記念礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   狭く小さい門  up 2008.3.23


いのちに至る門は、狭く小さい門だと教えられたイエス様。それは、イエス様の復活と関連しています。何事も、復活という小さな門が解決の入り口です。


狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
(マタイ7:13〜14)


 

 

 人生に様々な問題が来ることは避けられません。簡単で手近な方法をとり、目の前だけをごまかしていく人々が多いこの世ですが、本当は正しい道、狭い門が存在し、きちんとした解決の方法があるのです。

●3/24(月)25(火)「救いを得る門」(ローマ人への手紙10:9)
“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。”

 死者の復活を信じることはとても大切です。信じようとしない人は、たとえ目の前でどんな奇蹟が起ころうと、それを信じることができないでしょう。
 私たちはいろいろな苦痛の中にあっても、そこから自分を救い出してくださる神を信じられるでしょうか。不信仰に陥ったら出る術はないと、一般論では考えられています。しかし実は、信じるか信じないかの瀬戸際、人の心はとても砕かれています。狭い門をくぐるように、小さく身を屈めて、膝をついて。
 イエス様の弟子達も、イエス様を失った時、心が粉々に砕かれました。そしてイエス様の復活を通して、今度は強く立ち上がらせていただきました。私たちも、イエス様の前に砕かれた心となって、神の大きな力をいただく者になりましょう。

●3/26(水)27(木)「大きな恵みへの門」(使徒の働き4:33〜35)
“使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。”

 イエス様を信じた人々は、その大きな喜びのゆえに神を心底敬い、お互いを極限まで与え合う生活をしていました。今の人生は必ず終わります。その時に持っていけない自分の財産にこだわることをやめたのです。愛する兄弟姉妹に分け与え、みなが満足する暮らしがそこにありました。
 復活を信じる信仰と、その告白が、神様のみわざを現すかぎとなります。どのくらい信じているか、が神の御力が現されるために大事なこととなります。私たちは神がなしてくださったことを、「神がなされたことだから」と無条件に信じられるでしょうか。死からのよみがえりがあるなら、他にはどんなことを期待でき、信じられるでしょうか。
 「私のような不信仰な者には奇蹟は起こらない」という心こそが、神の御力を塞ぐのです。でも、私たちは心を入れ替えることができますね。一度不信仰になっても、そこから心を入れ替えれば、また新しく始められるのです。

●3/28(金)29(土)「復活への門」(ピリピ人への手紙3:11)
“私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。”

 キリストの死と同じ状態とは、自分ではどうすることもできない状態のことを指しています。苦しまなければ救いは体験できません。苦しみの報いは、復活です。
私たちは神の救いを知りたいでしょうか?神のすばらしさをそこで知ることができます。
 パウロのように、苦しみを復活の前段階として捉えることができれば、大人のクリスチャンといえます。
 神が必ず救い出してくださると信じて、苦しみの試練にもチャレンジしていきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年3月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   掩耳盗鐘 えんじとうしょう  up 2008.3.16


良心にそむくことをしながらあえて、それをすることのたとえ。また、自分ではうまく罪を隠しおおせたつもりで、人々には広く知れわたっていることのたとえ。


人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。悪者は自分の咎に捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。
(箴言5:21〜23)


 

 

 掩耳盗鐘…耳を覆いて鐘を盗む、これは中国の故事です。
 ある泥棒が高価な釣鐘を盗もうとやって来ました。鐘が大きくて担ごうにも担ぐことができなかった彼は、持っていた金槌で壊して持って帰ろうと、鐘を叩きました。そんなことをすれば、釣鐘ですから、大きな音が
するわけです。『しまった!みんなに聞こえないように』と自分の耳を塞いだ、愚かな泥棒の話です。
 今週は受難週です。主が十字架にかけられた週として、私たちもその贖いのみわざを忘れることがないように、一日一日、十字架に関わったみことばを通して、知恵ある賢い歩みをしていきましょう。

●3/17(月)「人生は神の目の前にある」(マタイの福音書10:26)
“おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。”

 神様の目が私たちに向けられていると思うと、神様を怖がる人がいるかもしれません。しかし、イエス・キリストがこの地上に来られて、裁きからの救いを成就してくださった後、神様の目は私たちを救いたいというお気持ちで、毎日の生活を見ておられます。また、罪から離れるようにと、心を配っておられます。
 十字架が現れるまでの裁きの神様の目は、イエス様を通して、あわれみの目に変わっておられることに気づく必要があります。神様は私たちが罪を犯した時、責めるために見ておられるのではなく、悔い改めて立ち返るようにと、愛の眼差しで見てくださっています。十字架を通して正しく受け取りましょう。神様は決して恐ろしい方ではありません。

●3/18(火)「神の見守り」(詩篇121:3)
“主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。”

 神様はじっと私たちを守り、まどろむこともないお方です。私たちの足がよろけないようにと、見守り続けてくださるお方です。主はその道筋のすべてに心を配っておられます。それはどのような心配りでしょうか。それは、悔い改めることができる救いを与えてくださったということです。いつでも、間違いに気づいたなら、すぐに悔い改めて元に帰ることを神様は願って、イエス様の十字架の救いを与えてくださいました。
 私たちはつい、人の失敗を責めてしまったり、自己嫌悪に陥って自分を責めてしまうことがあります。反省も大切ですが、悔い改めなければ無意味になってしまいます。神様の目はいつも、私たちが悔い改めて正しい道に戻って欲しいという親心を持っておられます。私たちが自分の間違いに気づきながらも、我を張り、自我を通し、意地を通してしまうなら、『掩耳盗鐘』愚かさが現れてしまいます。そのようなことがないように、悔い改めの心を大切にしていきましょう。

●3/19(水)「咎からの解放」(ローマ人への手紙7:6)
“しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対し死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。”

 「私は間違ってない」と言い張りたいのは、間違いを裁かれたくないからですね。でもイエス様の十字架があればどうでしょう。「私は間違っています」と堂々ということができます。なぜなら、私たちの間違いを贖うために与えられているからです。ですから、罪をごまかさず、覆い隠すことなく、神様の前に誠実な心を持って、「私は間違っています。ですからどうぞお赦しください。もう一度やり直します。」と素直に言うことができます。それは、十字架の赦しがあるからではないでしょうか。
 私たちも、神様の前だけではなく、人の前にも、そのように自分の間違いを認めましょう。神様はそのような人々のために、赦しという救いを、イエス様の十字架によって用意されました。それを十分に活用して、悔い改めて、次に進んでいくことを積極的にしていきましょう。

●3/20(木)「罪からの解放」(第1ペテロの手紙4:1)
“このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。”

 『悪者は自分の罪のなわにつながれる』罪を止めたいと思っても止められない。的外れの道を正しい方向に戻すことさえできない不自由な状況。そこから私たちを解放してくださったのは、イエス様の十字架の苦しみです。私たちが受けるはずのものを、イエス様がその肉体をもって身代わりに受けてくださったので、私たちは罪との関わりを断ち切ることができます。それは、罪を止めることができるという意味を持っています。
 自分を卑下し悩むことにエネルギーを使うより、イエス様が私の罪のためにすでに十字架で苦しんでくださったという方に心を一心に向けて、そこから心の目が離れないようにと、一生懸命それを見つめる方が、よほど苦労のしがいがあります。
 実際の肉体の苦しみは、イエス様が受けてくださいました。私たちは十字架に一心に心を向けることによって、精神的な心の苦しみを味わうことを通して、罪との関わりを断ち切ることができます。ぜひ、解放されているということに目を向けていただいて、愚かな盗人のように自分の耳を塞ぐことのないようにしましょう。

●3/21(金)「懲らしめが人を生かす」(イザヤ書53:5)
“しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。”

 愚かな物の考え方。自分の身代わりに懲らしめられている様子を見て安心する。安易に心を喜ばせている者は、後々人々の尊敬を失っていきます。そして不安が心の中にやってきて、人々から見離されていくということです。逆に正しい良心から見るなら、身代わりに苦しんでくださっている姿を見て心が痛みます。しかし、本当の意味で罪の裁きから救われ、解放されることができるという感謝が内側から溢れてきます。これが本来の、平安がやってくるということです。そしてその感謝と共に、二度とその方が私のために懲らしめられてはならないという思いが心に生まれてきます。これが懲らしめの正しい効果です。二度と同じ過ちをしないようにという気持ちが強められていくわけです。
 神様はイエス様が身代わりとなって懲らしめられる姿を私たちが見て、どのように反応し、応答するかを見ておられます。『本当に罪から離れなければならない』としっかり心に刻むことができるかどうかを試しておられるのです。
 なんと勇気ある決断でしょうか。そのようにしてまでも私たちに対して心を配ってくださっているのです。苦しみを通して私たちが間違った捉え方をしないように、御子を身代わりに懲らしめられた。そのことによって全ての人が生かされていくということです。感謝なことです。正しい良心を持って十字架を見上げましょう。

●3/22(土)「愚かさは自分で切り離せる」(エペソ人への手紙5:17)
“ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。”

 「愚かさ」というのは、悟ろうとしない心、気づこうとしない心のことです。気づくべきものに気づこうとせず、無視していく愚かさが大きいために過ちを犯すと、箴言は言っています。
 ここでは「愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」と私たちに気づかせています。我を通し、プライドを守るため愚かな考えに向かい始めたなら、ぜひ「イエス様の十字架は誰のためか」思い起こしてください。プライドを捨てられず、愚かさに走ろうとする私たちをも愛して、父なる神様はひとり子イエス様をお遣わしになり、身代わりに懲らしめられたことに心を集中していくならば、プライドは消えていき、自己義もおさまっていきます。正しい良心がしっかりと現れてきて、愚かな私たちのためにでも、ひとり子でさえ惜しまない神様のお気持ちを考えられるようになると、心は冷静になっていきます。神様のお気持ちに心を向けることは、私たち自身にもできることです。
 今週、毎日一度はイエス様の十字架のすばらしい福音を思い起こして、『掩耳盗鐘』に陥ることのないように、神様の愛の内を歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年3月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   玩物喪志 がんぶつそうし  up 2008.3.9


珍しい物に心をひかれて心を奪われ、大切な志を失ってしまうこと。


あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。
(箴言5:15〜17)


 

 

 世の中は、様々な新しいものが続々と出てきて、私たちの欲求をあおり、心を奪われそうになります。例えば、夕食の材料を買いに行ったのに、他の物に目移りしてしまい、そちらを買ってしまったために、思っていた材料が買えなかったり…。「玩物」の「玩」は、もてあそぶという意味があり、大して大切でないものに気を取られてしまうことで、大切な目的から気持ちがそれてしまい、大事な時間やお金等を別のものに費やしてしまうということを、今週の四字熟語は表しています。
 今、不況と言いつつも、まだまだ物が溢れている中で、神を敬う者として、神から心を移させ、そらせるようなものに時間を費やしてしまっていないか、考えてみる必要があります。ある人にとってはテレビや読書だったり、ある人にとってはゴルフやスポーツだったりするかもしれません。それらも必要ですが、あまりに力を入れすぎると、家族や周りに迷惑をかけてしまったり、時間を取られすぎて予定がこなせなかったり、後であわてふためくことになるかもしれません。

1.その意味を考える(箴言5:15〜17)
“あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。”

 箴言は、ユダヤ人の社会から捉えた知恵のことばであり、パレスチナ地域のことも踏まえて読みとることが必要です。
「水ため」=生活のすべての面で水は必要です。水は私たちの生活から切り離すことのできない人生そのものを表しています。そして私たちは自分の水ため、人生を持っています。
「井戸の豊かな水」=金、銀以上に井戸を持つことが豊かさの秘訣です。そして井戸はどこでも掘れば出てくるものではありません。神から与えられるものです。
「外に散らし、通りを水路にする」=人通りの所に、何の考えもなくたくさん流してしまい、人々に踏みにじられ、汚されていくことを表します。
「自分だけのもの」=神から与えられた人生なので、自分らしく生きることが大切で、人の真似をして生きるべきではないということを表しています。
 自分の力量が分かっていて、神の前にあるべき自分の姿を知り、それにふさわしい生き方をしましょう。自分の力に合わない仕事をしていたら、疲れて長続きしません。しかし自分に合った仕事は楽しいものです。
「他国人のものにするな」=不敬虔な人たちを表しています。この資本主義社会は、約一割の裕福な人々のために回っています。ですから会社のためばかりに考えるのではなく、あなたは自分がどう生きることが自分の人生にとって価値があるのかを考える必要があります。
会社に勤めるにしても、そこで自分をどのように生かせるか、神の子としての人格的良さをどのように周りに伝えられるか…そのような面に目を向けることも、大切ではないでしょうか。ただ利益だけに振り回され、一部の人々の貪欲の犠牲にならないようにしましょう。どこかで経済中心の社会に利用されてしまい、盲目的にその経済成長の渦に飲み込まれてしまい、自分自身がボロボロになってしまっては意味がありません。
 今の携帯電話の新商品競走は驚くばかりです。少し前までは考えられなかったような、テレビ付きも当たり前になりつつあります。こういった新商品の開発部門の人々が、ハードな仕事の中で疲れ果て、うつ病に追い込まれたり、犠牲になっています。転勤にしても、単身赴任が今は増えています。会社の意向にそむくこともできず、家庭崩壊の原因にもなっています。いくら社会が家庭における父親の存在の大切さを訴えていても、そんなことには関係なくこのような状況が起きています。まさに「玩物喪志」の有様です。良い人生、良い家庭を願って大手企業に就職したのに、仕事に追われて破滅していくとしたら…。
 自分の人生を、不敬虔な人々によって操られないようにしましょう。自分に与えられた人生は本来、神が与えてくださった豊かな人生です。しかし、その価値に気づかず、「外に散らし、通りを水路にする」ような無駄な人生を送ってしまっていいものでしょうか。自分に与えられた、自分の水ためをしっかりと使って、他国人にだまされて利用されることがないような、賢い日々を送りましょう。

2.水が変えられる
 聖書には水に関係するみことばが多く出てきますが、「水が変えられる」という記事が、旧約と新約の二箇所に出ています。それはいのちそのもの、人生が変えられるということを表しています。

A.苦い水から甘い水へ(出エジプト記15:22〜25)
“モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。”

 これは奇蹟です。一本の木とは十字架の贖いを表しています。人生は悩まないと変えられません。問題にぶつかり、心を悩ませることで変えられていきます。苦い水にはそういう役割があります。イスラエルの人々がエジプトに渡ったのは、ヤコブの時でした。ヤコブもヨセフも苦しみの中で神に出会った人々でした。しかしヨセフを知らない王がエジプトに立ってから、民は奴隷とされ、400年間苦しみの時を経験します。400年前に先祖に与えられた神の約束を思い出さざるを得ないような苦しみの境遇の中で、彼らはアブラハムに与えられた神の約束の地は、エジプトではなくカナンであったと思い出し、それこそが最後の希望となったのです。
 そしてモーセという指導者を神が立てられた器として受け入れ、エジプトを出たのです。しかしマラに来て、水が苦くて飲めなかった時、彼らは人生に希望を失ってしまいます。クリスチャンもいつの間にか、自分の生活はクリスチャンになる前と少しも変わっていないのではないかという、苦い水に思える時があります。そこで苦い水を甘い水に変えるには、十字架が必要になります。この十字架の贖いを通して考える時に初めて、人生は甘い水となり、受け入れられるものとなります。
 十字架には、私たちの価値観を変える力があります。私たちの人生には永遠の先があります。この肉体の訓練を経験した後、永遠のいのちが続いていきます。どんな苦しみの人生でも、十字架によって、受け入れられるすばらしい人生となります。それは知識ではなく、神の啓示を受けることによって得られるものです。

B.水が上等のぶどう酒に(ヨハネの福音書2:6〜10)
“さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、−しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。−彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」”

 水が与えられているというだけでも、当時のパレスチナでは豊かさの象徴でした。結婚式は贅沢なお祝いの場所です。神様はあなたのクリスチャン生活を、単に豊かにしてくださるだけでなく、祝宴のような喜びに変えてくださることができます。しかし、このぜいたくな喜びは、普段の普通の生活があるからこそ、味わえるものです。この差があるからこそ、感謝が生まれてきます。十字架の喜びは毎日あります。しかし、聖霊の喜びを体験すると、それ以上の喜びが溢れてきます。それはまるでお酒で酔ったような喜びです。
 そして週に一度、兄姉姉妹と礼拝を守り、その祝宴に入れることはすばらしいことです。賛美の中で、一週間の様々な疲れから癒され、解放されるのです。お酒で酔わなくても、それ以上の喜びと解放がきます。イエス・キリストによって、私たちの内には豊かな井戸が与えられています。そして、その水を神は聖霊のぶどう酒に変えてくださいます。この水ためを大切にしましょう。神はその水を甘くし、ぶどう酒に変えてくださいます。ぶどう酒である聖霊の満たしを求めていきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年3月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   大逆無道 たいぎゃくむどう  up 2008.3.2


人の道に外れた、道理を無視した行為のこと。


他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。
(箴言5:3〜5)


 

 

 このみことばから、今週も知恵をいただいてまいりましょう。当たり前のことのようですが、知恵は悟ってこそ知恵となります。
 このみことばは、罪の誘惑の働きかけ、すなわち人としての道を外すような働きかけがあることを示しています。私たちは理屈ではわかっているのですが、果たして本当に大丈夫なのでしょうか?気をつけていきたいと思います。「大逆無道」とは道を外した状態を表しています。人の道とは一般的に道徳と言えますが、「大逆」とはこれを外すことであり、人を殺す・親を親と認めない・主権者に逆らう、ということに通じるものです。また道理とは真理の道、つまり存在の目的であり、「無道」とは造られた存在の目的を無視した行いを指します。私たちを正しい、本来の人生の歩み方からそらせる働きがあり、それによってそれてしまったものを「大逆無道」というわけです。罪の誘惑に乗ってしまうことは、それほど大変なことなのだ、と気づくためにもこの箴言のみことばをしっかりと心にとどめていくことが大切です。

1.滅びにいざなう者

A.誘惑の力(箴言5:3)
“他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。”

 「いざなう」とは、無理矢理ではなく、最初はそんな気はなかったのに、いつの間にかそんな気持ちにさせられてしまう、そのような誘惑の力を表しています。
『他国の女』→罪の深みに引き込む助けをする者、欲望を満たす存在。
『くちびる』→魅力がある、惹きつけられるもの。
       目が奪われるような、強い誘惑の力を現している。
『蜂 蜜』→力をもたらす、回復する、価値があるもの。
      貪欲や肉の欲を回復させ、強い欲求をもたらす。
『したたらせる』→美しさやみずみずしさが、あふれるほどある。
         罪の欲望を満たすものが、溢れるほどあるようす。
『その口』→言葉を語る器官。誘惑の働きのこと。
『油』→豊かさ、生活の必需品。
『なめらか』→すべすべしている。高級感、受け入れやすさ。
       安易に心を開いて受け入れてしまうようすのこと。
 これらの点をまとめてみると、『的外れ(罪)の欲望を満たす助けをするものの魅力は、貪欲があふれるほどかきたてられ、欲望をかきたてる誘惑の働きは、普通の豊かさに満足させず、いくらでも心を開いて受け入れさせようとする。』ということになります。誘惑とは生半可のなものではありません。簡単に避けられるものではないのです。一旦目に入れてしまうと、まぶたに焼きついて、「やめておこう」と思っても、またそちら目にを向けてしまう。誘惑はそれほどに心を惹きつけ、捕らえ、奪い取ってしまうような力なのです。神様はこのみことばを通して、このような危険な誘惑の力を私たちに気づかせようとしておられるのです。

B.誘惑に従う者の結末(箴言5:4〜5)
“しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。”

 『欲望を満たしているときは楽しいかもしれないが、その終わりは苦味を味わうことになり、鋭い剣で刺し通されるはめになる。誘惑にしたがって欲望を満たす者の人生は自分を見失う死んだ生き方、その行き着くところは不敬虔の報いである黄泉。』誘惑に引きずり込まれてしまい、欲望を満たしてしまう人々について、みことばはこのように語っていると解釈できると思います。
 ここで知恵として悟っていただきたいことは、「何事にも結末がある」ということです。誘惑の中で欲望を満たしている人々は、敬虔に歩む人々に対して「神を敬う生活なんて」「現にこうやって楽しんでいても何も起こらないではないか」というような言い方をすることがあります。確かに欲望を満たしているときは楽しいかもしれません。しかし、そこには必ず終わりがあるのです。結末を考えずに物事を進めていくことは本当に愚かなことです。神様は結末がどうなるかをよくわきまえるように教えておられます。  自分の欲するまま、感じるまま、欲望のままに生きる者たちの結末はどうなるのでしょうか。「苦み」は、とても口に留めることができないものであるばかりか、私たちの味覚をマヒさせてしまいます。また「もろ刃の剣のように鋭い」とは、刺し通されるという意味です。欲望を満たした後、最後には吐き出したくなるような問題、心痛むような問題に気づかされるのです。「死」とは、本来あるべき姿にないことを表します。人は、欲望を満たすために造られたのではありません。自己中心の自己満足を求める歩みは、本当の自分らしい人生ではなく、自分を見失った死んだ生き方なのです。また、すべての人は死んだ後、神の前に立って裁きを受けると神様は語っておられます。その人生の歩みのすべての報いを受けるのです。善を行う者には良い報いが、悪を行う者には悪に対する裁きがなされるのです。造られた目的から外れ、自分の欲望のままに、神様からいただいた大切ないのちをムダに使ってしまう人たちには、「黄泉」という不敬虔の報いが待っているのです。

 あなたはこれらのみことばから、どのような知恵を受け取り、どのように自分の歩み・生活を変えていくでしょうか。これが今週の課題です。この世界は、『他国の女』があなたの周りに立っているようなものです。今の経済社会は、人の道として歩む道から私たちの思いをそらせるような誘惑に満ちています。私たちは自分の人生の道・人の道をしっかりとわきまえておくことが必要です。聖書は、人はどのように生きるべきかを常に教えています。

2.他国の女の正体(ローマ7:15〜17)

“私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。”

 正しい良心で物事を見ていくとき、パウロは、自分の内に正しい良心という自覚とは別の力が働き、正しい良心の動きを封じ込め、その力が行動を起こさせていることに気づきました。その正体は「もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」と言っています。「罪」という存在が私たちのうちにあり、或るものを利用して、「他国の女」として誘惑してくるのです。物体そのものには罪はありません。酒、たばこ、パチンコ、競馬等々、私たちが罪と思っているものそれ自体は罪ではないのです。例えば、パチンコや競馬などは一種のゲームです。それにお金を賭けて、勝ち負けで競わせ、欲望をかき立てる。そこに私たちの内の感情や欲求が引き込まれてしまい、人格者としての自分を見失ってしまうところに問題があるのです。罪は良いものを通して誘惑し、本来歩むべき人の道から外れさせようと、貪欲に引き込むように働きかけてくるのです。そのような誘惑の働き・力、またその持ち主である罪が私たちの内に存在していることに気づかなければなりません。その存在を認めずには、私たちは神を畏れる敬虔な歩みを全うすることはむずかしいのです。敵が存在することと、どこにいてどう働くかを知るなら、そこに知恵が働き、防御することができます。神様は、私たちの内に罪が存在し、働いているという環境を利用しながら、私たちに知恵をもたらし、神の存在を悟らせ、神の愛の大きさを測り知ることができるように、あらゆる体験をさせてくださるのです。
 しかし、いろいろな体験をするために罪を犯すことをよいとするような、安易な考え方を決して持ってはいけません。「他国の女」=罪との戦いは真剣勝負です。真剣勝負の中でも、私たちは気をそらされてしまい、罪を犯すことがあるでしょう。それで失格となってしまわないために、神様は悔い改めの救いを与えてくださったのです。私たちが失敗を通して賢さを身に着け、同じ失敗をしない神の子として前に向かって進むことを願って、主イエス・キリストは十字架で私たちの罪を負ってくださったのです。悔い改めとは「二度と同じ失敗はしない」という決心です。「悔い改めればいいんだ」と同じ失敗をする許可を与えるものではありません。もう二度としない、という決心なのです。ただ、その決心をしてもなお、誘惑に負けてしまうこともあるかもしれません。その原因はあなたの愚かさかもしれませんが、もう一つ、その誘惑が以前のものよりも強くなっているところにあります。私たちの信仰は前に進んでいる、誘惑に対して強くなっていることをよく見極め、罪の誘惑に対して賢く行動していくことが必要です。
 正しい良心の思いと欲望を満たす罪の思いとを区別していきましょう。たとえすぐに勝利できなくても、この2つの思いの存在を自覚し、しっかりと対処していきましょう。

3.誘惑に陥らないために

A.主との交わり(第1コリント6:16〜17)
“遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。”

 「遊女」とはこの世・不敬虔なものを象徴しています。「からだ」という表現を使っているのは、罪はからだに宿っており、からだは欲望を起こさせるものだからです。この世と妥協し、調子を合わせ、不敬虔な者の考えに心を合わせることは、この世のからだである欲望とひとつとなることになり、罪の誘惑から逃れられなくなる、ということなのです。また、「一つ霊」とは、私たちの霊がある正しい良心の内に聖霊様が宿られるということです。正しい良心の内に本心がある、というのは、そこに神に似せて造られた私たちの霊が存在するからであって、肉にあるのではないからです。罪によって死んだ状態にあった私たちの霊が、キリストを信じて、キリストとともによみがえって復活したのです。だからこそ、正しい良心が生きた状態にあるからこそ、肉とのかっとうが強くなるのです。
 もし同じ失敗を繰り返しているなら、どこかでこの世と調子を合わせていないでしょうか。それはこの世と、欲望と一体になっているのであり、誘惑に勝利することができないのです。そこから切り離すには、主と交わることです。神から離れさせ、不敬虔や律法を犯させるすべての思いは、あなたの霊・正しい良心から出たものではありません。はっきりと区別しましょう。「神を畏れる心が自分自身であり、その他の不敬虔な思いはすべて欲望であり自分ではない」としっかり意識し、決心しましょう。そして、実際に正しい良心によって主と交わるということを考えてやってみましょう。続けていくならば、誘惑に関心が向かなくなっていくことに気づくでしょう。

B.目標を一心に求める(ピリピ3:14)
“キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。”

 皆さんはどんな目標をめざしていますか?しかし目標があっても、それを達成したいという心の力・原動力=意欲・前向きな心があふれていなければ、手にすることはできません。原動力となる心の願いが弱ければ、目標は空しい夢で終わり、実現することはありません。なぜあなたはその目標をめざすのか?その動機となる原動力が強ければ一心に目標めざして走ることができます。あなたは目標に対してどのような原動力をもっていますか?
 パウロにとっては「上に召してくださる神の栄冠」が原動力でした。自分の行ったすべてのわざが神様から誉められることが、彼にとって一番の幸せでした。誰よりも天地を造られた神様から「よくやった。あなたらしく、あなた自身の人生を一生懸命生きたね。」と言っていただくこと、これが「神の栄冠」です。パウロはこれを動機として、世界に福音を宣べ伝えるという彼の目標を実現していったのです。
この教会の歴史の中に、広島の歴史の中に、何か神様の喜ばれるものを残していきたい、これを協力してやっていきましょう、というのが広島エルサレムプランです。何も大きなものではなく、自分の持てるものでどこまでできるかにチャレンジしていきましょう。そうすれば、目標に心が集中し、誘惑には見向きもしなくなるのです。

 誘惑の力の働くこの世の中で、私たちははっきりと賢くこれに対処できるように、知恵を悟り、心がけていきましょう。