■2008年2月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   着眼大局 ちゃくがんたいきょく  up 2008.2.24


ものごと全体のなりゆきに注意し、気を配ること。『着眼』は目をつけること。『大局』は、ものごと全体の見通し。転じて、勝負の形勢をも指す。


あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。
(箴言4:25〜27)


 

 

 将棋や囲碁でも使われますが、人生すべてのことにおいて、全体のなりゆきを注意しながら、目標・ゴールに近づくという意味があります。箴言4:25〜27は当然のように語られていることばですが、実は「着眼大局」という知恵が含まれています。今日は、みなさんのクリスチャン人生に大きな力となる知恵を発見していただきたいと願っています。

1.ゴールへの知恵
 どんな人生を求めていても、ゴールへの知恵を持っていれば、人生における目標を達成することができます。その秘訣がこの3つの節に含まれています。

A.前を見る(箴言4:25)
“あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。”

 当たり前のように思われますが、「前を見る」ことは神が与えてくださった知恵です。人の体のつくりは前を見るようになっています。つまり前に進むように造られているのです。(目・耳・手…)すべて前進するためです。「前」とはゴールに向かうことを表しています。

「目を向ける」
 私たちは、目標となるところに目を向けます。視点をどこに置くかはとても大切なことです。視点を決めずにぼうーっと見ていると危険です。クリスチャンにとってはビジョン・目標を見ること、すなわち「これからその通りになる」という信仰の目を向ける、とも言えます。何をしていいかわからない人はいろいろなものを見てはいても、視点をしぼって見ていません。ターゲットがありません。そういう人は、感じるまま生きています。目標を持ち、視点を定めている人は、何らかの気持ちや願いを持っているので、そこに向かって進んでいきます。人は目を向ける方に進んでいきます。進みたい方を前にするからです。

「前方」
 どうして前方が正しいこと、正義かというと、それが目的の方向であり、ゴールだからです。人は過去に戻るのではなく、未来に向かって人生を歩んでいます。神はそれを人間の体にも表しておられます。私たちにとって「正しいこと」とは、目的に沿った人生を歩むことです。それぞれその立場から正義を持っています。しかし人間の基本的な正義は「人間は何のために存在しているか」に沿っており、「神がご自身のかたちに似せて私たち人間を造られた」目的から、私たちは神の家族としての存在目的をはたすためにルールが生まれ、価値観が決められます。人間の存在の目的からクリスチャンは共通の価値観を持っているので、考えを合わせられますが、それを持たない人とは一緒に行動できないでしょう。ですから、世の不敬虔な価値観に私たちが合わせることは元々無理です。目的以外の生き方を教会外でしていたら、前方を向いていないことになります。クリスチャン同士でも、正しいことの根本をしっかり悟っていなければ、いがみ合ってしまいます。どんな人でもすべて神のかたちに似せて造られた神の家族であると、家族愛・兄弟愛を持って接していくことが、私たちの存在目的に一番沿った生き方だと心に刻んでおきましょう。

「まぶた」
 目を開けていると視界に入ってくるものに気を取られますが、目をふさいで、見えなかったものが見えるようになることもあります。いったいどんな目標に向かって進んでいるのか、目を閉じて考える必要があるかもしれません。しっかりした決意を持って目標を見つめているでしょうか。「正しい良心をもって手を差し伸べる」という今年のモットーをまぶたに焼き付けている人は、どうしたら手を差し伸べることができるか、少しでも自分の苦手を克服しょうと考えます。

「まっすぐに見る」
 私たちはマイナス志向になりやすく、意識しないと直りません。憶測とは自分の価値観で評価をしすぎること、偏見は歪んだ見方をすることです。どんなにすばらしい家族でも、偏見を持って見ると悪くなってしまいます。心が偏見の病気にかかっていませんか。自分で自覚して、まっすぐに見る訓練が必要です。神を信じる素直な心で物事を見ていきましょう。

B.集中する(箴言4:26)
“あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。”

「道筋」
 道筋とは、歩む道が決まっており、大きな害や大木、水たまり、崩れている所や障害物があっても、そこを通らなければ先に進めません。クリスチャンは通るべき段階があるということです。人生に起こる思わぬ出来事を、あなたは神の前にどのように受け止めますか。「私が通らなければならない道。ゴールに達するために体験しなければならない事。」と受け止められる人は、神を敬う人ではないでしょうか。「通るべき所を通っている」という人生への受け止め方が、ゴールへ導く秘訣です。神の摂理の中にある自分から目をそらさないようにしましょう。

「心を配る」
 配慮するとは、問題と向き合い、事細かく必要に気付くことであり、配慮しない人は気付いても逃げてしまいます。また、良い配慮をするためには、その人の身になっていろいろと試すことも必要でしょう。さらに、人生に対して前もって予測し備えることも、配慮です。
 ※すべての道とは
   @ゴールに至るまでの行程すべてを表す
   Aベストの近道もあるが、遠回りの道も表す
 旧約時代のイスラエルの民は、背信のゆえにカナンの地に40年以上かかって入りました。私たちの愚かさ、失敗によって、同じゴールに着くにしても、その行程が変更することがあります。

「堅く定めよ」
 たとえ間違って第二の道を歩んでも、落胆せず、心を一新して「必ず永遠のいのちまで導かれる」と強い確信、揺るがない信念、不動の信仰をもって今を歩むなら、必ずゴールへ行きます。これが知恵です。

C.的を射た歩み(箴言4:27)
“右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。”

「右にも左にも」
 右や左に目をそらしてしまうのは、誘惑がある可能性があります。誘惑は前にはなく、横(左右)にあります。前にあるものは正しいものです。キリストを救い主とした敬虔な人が、例えばパチンコで生計を立てることを目標に置くでしょうか。パチンコは単なるゲームですが、しかしお金を賭け、欲望を起こさせることが罠であり、悪です。また罪の遊びとしてイメージを持っている人のため、パチンコは悪いものと受け止めることが敬虔さです。  あなたの強い信仰が、弱い人のつまずきにならないようにとパウロが語っている通りです。見渡すことがあっても、見とれてしまうことがないようにというのは、クリスチャンが「イエス様、イエス様」「他のものを見てはいけない」と外部からの情報を遮断していくと、カルト集団、マインドコントロールの世界に置かれていくからです。これには知恵が必要です。例えば運転の初心者は、2、3m前の道しか見ることができず、情報を処理する精神的働きに慣れていません。しかし熟練した運転者は、周りの情報を集め、あらゆる所に目を向けながら自分の道を運転します。クリスチャンも、救いの土台ができあがってきたら、他宗教のものに目を通しても問題でなく、ますます神のみことばの深みに気づくものです。とはいえ、最初は情報処理ができないので、聖書だけに目を通すことは必要です。

「それてはならない」
 「保つ」とは悔い改めて戻ることです。船は大海で目的地に進むために、24時間海流の影響を受けており、常に目的地からそらせる力が働き続けていることを考慮し、随時修正していきます。わたしたちの生活も24時間、不敬虔な人の影響を受ける中に置かれています。だから「それてはならない」とは、悔い改めて元に戻し、修正することが含まれています。悔い改めはとても大事です。悔い改めが少なければ修正の少ない船は飛行機のようです。最初は小さかった間違いが、放っておいたために大きな間違いになってしまうことのないように気をつけなければなりません。そのために、神は悔い改めの救いを与えてくださったのです。

「遠ざけよ」
 悪は世から消えません。断絶ではなく、影響力を受けないように人間関係を保つということです。その距離を生かして社会で役割を果たしていくことは大切です。悪影響を受けるようなものを環境に、人間関係に置いていないか確かめましょう。

2.大きな利益を受ける道(第1テモテへの手紙6:6)
“しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。”

 箴言4:25〜27に表されたゴールへの知恵にこのみことば・第1テモテへの手紙6:6を適応して、どういうことを言っているのか一週間黙想してみてください。(ヒントは、大きな利益は目的でないことに気付くことです。大儲けは目的でないことを悟っていれば大丈夫です。)

 

 

 

 

 

  
■2008年2月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一心不乱 いっしんふらん  up 2008.2.17


一つのことに心を注いで、他のことに乱されないこと。


力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
(箴言4:23)


 

 

1.『いのちの泉』のすばらしさ(イザヤ書58:11)
“主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。”

 人生の中で焼けつく土地を通ることがあります。そんな時神様はあなたの思いを潤し、骨を強くされる。それは、潤された園のようであり、水のかれない源のようである。このように神様は私たちに、愛・真実をこのことばを通して表してくださっています。
 『潤された園』には必ず泉が存在します。私たちの人生には色々な世の中的に潤す根源となるものがあるでしょう。しかし、私たちクリスチャンの生活が潤される理由は、いのちの泉があるからだということにつながってきます。
 また『水のかれない源』は常に水がわき出ています。泉は水が腐ることなく、いつも新鮮です。貯め水は腐り、古びて濁ってしまいます。しかし、泉の中に汚れたものを入れても、時間と共にその汚れは追いやられてしまいます。一方、貯め水はずっと汚れたままです。私たちが心の中に泉を持っていれば、たとえ汚されてもまたきよく戻るわけです。
 私たちは日本というすばらしい環境の中に住んでいます。水が豊かにあるために、泉の大切さをあまり感じていないかもしれません。緑に満ちた国で、砂漠もほとんどありませんし、荒れ果てた地もあまり見ませんね。日本には家一軒に井戸が一つ、が当たり前でした。しかし世界では村に一つ、または町に数カ所あるかないかです。エルサレムは、荒れた赤土の岩地の丘です。そのような所になぜ多くの人が住むのでしょうか。そこに泉があるからです。ギホンの泉があるおかげで、何千年も昔から中東の乾燥地帯の中で、町として栄えることができたのです。その泉は絶えることなく今も湧き続けています。泉を見つけた人はそこに住む権力を握るというほど、泉は大切なものです。泉を奪われることは死を意味します。
 15年前、私はインドに行きましたが、旧ポンベイからデカン高原へ行った時のことです。しばらく良い水がないということで、5リットルのボトルを一人3本背負って村へ行きました。ですから、水は命に関わり、村の存在に関わり、あらゆる生活の必要として重要なものなのです。
 泉の大切さを私たちは悟る必要があります。もしかすると、私たちは泉のように湧き出ている神様の恵みを安易に考えているかもしれません。泉の大切さを通してこの湧水が心の中にあることの幸いを見出すことが必要です。

2.いのちの泉はどこにあるのでしょう(詩篇36:9)
“いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。”

 神は唯一であるということは受け入れやすいと思います。色々な神々を信じている国民がいますが、誰も不思議に最高神を考えるようです。争いをしずめまとめる、平和を築くための中心となる者が必要と感じているわけです。ただ、『神と人との仲介者も唯一である』というところに違和感を持ってしまう人々がいるわけです。
 イエス・キリストがどうして唯一であるのか。他の宗教には、罪は赦しても、その罪をどう処分するかということは書かれていません。神様に赦す権威があるということは、その罪を処分する責任を負われるということです。罪を処分する救いの御業は、イエス・キリストが歴史的に成就しました。この方以外には、罪を処分した方はおられないのです。キリストが現れる何百年も前から、救い主の示しとして預言がなされ、歴史上に成就されました。これは間違いのない事実です。
神様が泉の源であるならば、私たちの心にその水が届くまでのパイプ役になってくださったのがイエス様です。神様との健全な関係を私たちが取り戻すためには、イエス・キリストを忘れては絶対にあり得ないということを聖書の神様は教えておられます。どうしてイエス・キリストの御名によって祈るのでしょう。イエス様のサイン入りだったら神様が受け取ってくださるからです。
 私たちの神様は、最高のいのちの泉をもたらすお方。そういう確信を持ったクリスチャンたちの人生は、太いパイプでいのちの泉からいのちの水が心に湧き上がっている状態です。豊かにその水が溢れていれば、他の神々が色々なことをしても、それは小さな泉です。キリストを遣わした聖書の神様がどれほどすばらしいかがわかればわかるほど、どんな宗教を信じている人々にでも、自信を持って知らせることができると思います。いのちの泉は神様がお持ちです。神様とのつながりを大切にしていきましょう。

3.力の限り見張って心を守る(第2歴代誌32:2〜4)
“ヒゼキヤは、セナケリブが攻め入って、エルサレムに向かって戦おうとしているのを見たので、彼のつかさたち、勇士たちと相談し、この町の外にある泉の水をふさごうとした。彼らは王を支持した。そこで、多くの民が集まり、すべての泉と、この地を流れている川をふさいで言った。「アッシリヤの王たちに、攻め入らせ、豊富な 水を見つけさせてたまるものか。」”

 ユダの王ヒゼキヤは、神様に忠実な良い王として有名です。そのヒゼキヤの元に、アッシリヤから侵略者がやってきました。その王の名前はセナケリブ。そしてイスラエルを包囲したという出来事がありました。そのまえにヒゼキヤはどうして泉や井戸をふさいだのでしょうか。ここにいのちの水がわき出る心を守るということのヒントがあります。
 泉がなければ町ができないという国の中で、アッシリヤ軍が大軍勢を連れて何十キロもの旅をしてカナンの地、ユダの国にやって来ました。10万、20万の兵士達が元気で力強く戦うためには、水と食糧を絶対に絶やすことができません。それを断たれることは大変なことです。アッシリア軍は侵略していく中で、行く町々、村々の食糧や水を奪い取ってユダヤまで来ているわけです。さらにユダヤの井戸や泉を見つけたなら、そこに居座る条件ができてしまいます。戦いにおいても水を持つことは有利な立場になっていくことです。自分たちの泉を敵に奪われないように守るということは、国の存続に関わる重要事なのです。ヒゼキヤは自分の国を守ることと同じ意味で泉を守った、つまり泉を塞いで敵に与えないようにしたわけです。
 このことが私たちの生活にどう関わってくるのでしょう。心を守ることは、私たちの内にある神の国の存続に関わってくることです。泉を持たずに戦争をすれば、どんなに強い軍隊でも負けてしまいます。
クリスチャン生活においても、あなたの内にいのちの水を持たないなら、誘惑が来た時に絶対に負けてしまいます。いのちの水なしにクリスチャンが勝利し続けることは無理です。だから、“力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。”と語られているのです。
 あなたの人生、罪を犯して汚れたものだと思っているかもしれません。しかし、あなたがイエス・キリストをいのちの泉を湧き立たせるパイプ役として、救い主として信じ続けるなら、その罪はきよめられていきます。そして最後にはまったく汚れがなくなるのです。ですから、悔い改めて、イエス様とのつながりをもう一度しっかり回復して保ちましょう。悔い改めこそ心を守る方法です。

(箴言4:23)
“力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。”

(マルコの福音書12:30)
“心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、 力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。”

 神を愛するとは、神を畏れ敬うこと、信頼することです。これは正しい良心でしか持つことのできない心の働きです。欲望の心で神を敬うことはできません。神を敬う人は争いよりも平和を築こうと努力します。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてとは、全身全霊をもって、正しい良心を見失わないようにしっかりと見守りましょう、ということです。そこからいのちの泉がわき出るのです。
 私たちの努力するところは、正しい良心を守ることです。いのちの泉の重大さを見失わないことです。罪を犯さないように努力する前に、正しい良心を失わないように努力していくと、泉の水が自然にわき出るように、正しい良心に力が付いて、色々な不敬虔なことに対して抵抗できる力強さが生まれてきます。
 そのようにして、皆さんの神様に対する思いを聖書の中から啓示されて、あなたの日常生活にぜひ取り入れていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

  
■2008年2月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   旭日昇天 きょくじつしょうてん  up 2008.2.10


朝日が勢いよく天に昇るの意から、勢力が非常に盛んなこと。


義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。
(箴言4:18)


 

 

 朝日が毎日昇ってくるのは、神が与えられた自然の秩序です。
今週、私たちは、あけぼのの光を内にいただいた者として、真昼になるまで輝きを増していく人生を歩む一週間としましょう。内側にいただいている命の輝きを、今週の四字熟語にしました。勢いよく天に昇る朝日を押しとどめることができるものは何一つありません。それは力強く勢いのある命の輝きです。

「義人」(ローマ人への手紙5:19)
“すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。”

 多くの人は、「義人」とは罪を一つも犯さない人、という意味にとります。しかし聖書では、違った意味を持っています。私たちはこの違いを理解して、人を単に行ないによって裁かないように、気をつけなければいけません。
 ローマ人への手紙5:19に「罪人」と「義人」ということばがあります。クリスチャンでない人々は、「すべての人が罪人である」というクリスチャンが言うと、反感を持ちます。まずアダムからこれらのことを見ていきましょう。最初にアダムは義人として創造されました。しかし、子どもが生まれるまでに、アダムは神のことばを守らないという不従順の罪を、エバと一緒に犯しました。そのために、彼は罪人の家系になってしまったのです。もし、その前に子どもが生まれていたら、その子は義人の家系となったのですが、二人には子どもがまだいなかったので、アダムは罪人の家系の初めとなってしまいました。それで、そこから生まれたすべての子孫は、罪人の家系となってしまったのです。しかし神は、御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、アダムの家系を再び義人の家系に戻されました。
 今、地上にいるすべての人々はアダムの家系であり、罪人の家系から回復された、義人の家系です。地上のすべての人は、イエス様の十字架の救いによって、誰でも義人として神の前に出ることができるようになりました。
 しかし、それだけではありません。さらにヘブル人への手紙10:38(“わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。”)では、「義人は信仰によって生きる」と語っています。義人でも「生きている義人」と「死んでいる義人」の二つがあります。生きている義人は信仰によって、とあります。この「信仰」ということばは、神と人との健全なつながり、信頼関係を表しています。敬うべき方を敬い、正しい関係を持つことが信仰です。この正しい神との信頼関係を持つことで、義人は生きるようになります。
 では「恐れ退く」とはどういうことでしょう。それは疑いを持って、信じることができない状態を表します。そういう心を神は喜ばれません。そういう人を、神は喜んで受け入れることがおできになりません。
 さらに生きている義人であっても、「死んだ信仰」と「生きた信仰」の二つに分かれます。
“たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。”(ヤコブの手紙2:26)
 よい行ないを守り続け、よい結果を出し続ける人が義人だと思ってしまいがちですが、私たちは100%行ないを全うすることはできません。それゆえ神は、イエス・キリストを遣わしてくださって、私たちが罪を犯すことで罪人の家系に落ちないように、義人の家系であり続けるようにしてくださいました。神は行ないによる義人というのではなく、神との正しい関係を保ち続けるという「義人」を考えてくださいました。
 死んだ信仰と生きた信仰の見分け方は、行ないがあるかないかで見分けます。神を信頼している人は、心の中で信じるだけでなく、信じたことには行ないがともなうものです。信じていると口先でいくら言っても、信じている行動が表されなかったら、それは死んだ信仰となります。例えば、夫がいくら妻に愛していると言っても、浮気をしているのだったら、その愛は信じられません。そして浮気をし続けるなら、そこにはもう夫と妻という関係はないということになります。信じ合っている夫と妻、最後まで信じつづけることを誓い合ったのが本当の夫婦です。行ないのない信頼関係は死んでいます。 神が義人として見てくださるのは、この生きた信仰を持った義人の家系の人々です。すべての人を義人として見たい、と神は願われますが、生きた信仰を持つ義人に、神は目を注がれます。
 この生きた信仰を持った人々のことを「あけぼのの光」として聖書は表しています。
 私たちは救い主イエス・キリストを信じたことによって、内に太陽を持つことになりました。しかし最初からすぐに太陽が輝き昇るわけではありません。キリストを信じることによって、夜に終わりを告げ、朝が始まる新しい人生を、私たちは今生きています。それは努力の光でなく、努力をする根本となるいのちの光です。いのちの勢いがあるからこそ、わたしたちはやる気を高めていくことができます。神が与えてくださるやる気、いのちの勢いは、湧水のように湧き上がってきます。どんなに絶望しても、イエス・キリストを信じて、この太陽を内にいただき、あけぼののような輝きを持った人は、決して失望に終わってしまうことはありません。ますます輝きを増して真昼に至る輝きを持っているのですから。
 ここが大切です。努力や修行では得られない力です。どんなに気分が沈んでも決して衰えることのないキリストのいのちの力を、私たちは内に持っているのです。
 それゆえ私たちは不思議な体験をします。私たちの内に感情と別の力、二つのいのちの真理を見るからです。失望しているのに、失望しきることのない自分に気づきます。これがイエス・キリストの「死を打ち破ってよみがえられたいのちの力」です。この力は私たちのどんな絶望的な人生をも、よみがえらせることができます。
 私たちは自分の知識や経験に目を向けるのではなく、与えられたいのちの光に信頼していきましょう。時として不信や疑いの雲がよぎってきても、それを吹き飛ばしてしまえば、私たちの太陽は変わることなくあり続けていることがわかります。それがクリスチャンの持つ不変の力であって、自分の力ではない、キリストの力です。自分の力でやっていないのですから、クリスチャンは絶望しきることはありません。それを受け入れるのが生きた信仰です。
 良い結果を出すことが義人ではなく、良い結果を出すためにチャレンジし続けていく人が義人です。これが生きた信仰です。この力はイエス・キリストの力です。この太陽を完全に輝かせるために私たちのするべき信仰の行ないは、疑惑の雲を吹き払うことだけです。疑いを捨て去る決心を、正しい良心でしっかりとしましょう。それさえすれば、後は、あけぼのの光であるキリストが、あなたのクリスチャン人生を、ますます輝かせてくださいます。

 

 

 

 

 

  
■2008年2月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一意専心 いちいせんしん  up 2008.2.3


一つの事にひたすら心を集中すること。


子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。
(箴言4:1)


 

 

(箴言4:1〜9)
“子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。
 私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。  知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。
 知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。
 知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。
 それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。
 それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。」”

 興味を引くものが多くある現代は、心を一方向に定めることが難しい時代と言えるでしょう。しかし、目先の楽しみにとらわれても、それはすぐに消えてしまいます。対して、聖書のことばは消え去ることがありません。底知れぬ深み、良いものがあるからです。
 箴言4:1にある「悟り」を得るために、私たちはひたすら心を集中していきましょう。普段の生活も、仕事も、ノルマを果たすためだけのものではありません。教会以外の生活にも、必ず悟るべき部分があるのです。

【父から子への呼びかけ】
 「父」→先祖、保護者、リーダー、頭、発起人、創設者
 「子」→子孫、息子、メンバー、まだ経験の浅い者

「父」は自分の人生経験から「子」に諭しを与え、「子」は学んで知恵深く生きることができます。

○一流の人はどう生きているのか
 プレッシャーに対してますますやる気が湧いてくるのが、本当のプロフェッショナルです。なぜなら、新たな力と知恵が、問題を通して発見され、発揮されてくるからです。彼らにとって、困難は最大のチャンスなのです。  また彼らは、自分の思い描く理想のために、その夢をかなえ、保ち続けるために努力も犠牲も惜しみません。このような一流の人々を尊敬する人々もまた、彼らをまね、その生き方を自分もしてみたいと願います。 私たちクリスチャンにも、先達たちが苦労して残してくれた多くの教えと悟りがあります。彼らの訓戒を得ることによって、速やかに自分の身に付けることができ、さらに新しい挑戦をしていくことができるのです。
 「父」の命令は、経験、体験からの諭しを与えるためのものですから、「子」を傷つけ、苦しめることは目的ではありません。かえって、諭しからの新しい気づきによって、インスピレーションが与えられ、モチベーションが上がるはずのものなのです。それは非常に大切なものと言えるでしょう。「子」のマンネリを打ち砕いてくれます。

(箴言4:6)
 「守る」→傷つけ、堕落させるような妨げから守る。
  悪いものを「見張り、気を付ける」ためにあるのが知恵、です。
  悟りを得ることは身を守ることでもあります。
 「保つ」→維持し続けること。
  堕落や腐敗から自分を守ります。新しく悟りを得続けることに
  より、若々しく、前進を続けることができます。

(箴言4:8)
 「高める」→結果的に昇進し、地位があがります。また、他の権威者から認められるようになり、完璧な人格者としての美しさをもたらします。
 日常のあらゆる出来事に観察する目を持てば、多くのことに気付くことができます。すると、無駄な心の痛みや傷が減ります。あらゆることから悟りを得るからです。聖霊様のおことばに耳を傾け、「何を教えようとしておられるのか。」に注意して求めていきましょう。

神の知恵と力に生きる
“しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者 にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。”(第1コリント人への手紙1:24)

 キリストの教え、行い、生涯のすべてが、自分にとって神の力であることを、クリスチャンは必ず心に留めおいてください。尊敬している相手は自分にとっては知恵であり、力です。目的に近づくための励みであり、目標です。
 ではイエス様は私たちにとってどのような方なのでしょうか?
「罪を赦してくださった」だけの方ではありません。この方は、神の力を体験し、神の子として生きるための力たる方なのです。いのちの力は、根源たる力です。新しい開拓、未来を切り開く力です。この世的に行き詰まる時、神の力が発揮されるのを見ることができます。先ほど述べましたが、人は苦しみによって、新しいもの、すばらしいものを生み出すことができるのです。ですから、私たちに苦しみがあるということは、イエス様のすばらしさをしっかり味わうための人生を歩んでいるということなのです。

(ローマ人への手紙6:3〜8)
“それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。”

 キリストと共に死ぬ、とは罪から解放されたことになる、と悟ってください。もはや罪に対して死んでしまった私たちなのですから、正しい良心に導かれて生きることができるのです。洗礼はいわば借金を返済した証拠です。罪が誘惑してきた時には、自信を持って拒否してください。罪は私たちの弱さをついてだまそうとしてきますが、悔い改めたら必ず赦される私たちなのですから、捕らわれる必要はないのです。
 キリストと共に葬られる、とは肉の人生の終わりである、と悟ってください。大事な人が失われた時でも、人は葬式を通して、心の区切りをつけるものです。洗礼は肉の自分の葬式です。水の中に肉の自分は埋もれてしまいました。ですから、過去は今の自分とは関係がないことを、心に教え続けてください。真理と現実は違う時がありますが、決してみことばを捨ててはいけません。
 復活はキリストと共に生きることと悟ってください。これからはずっと一緒です。あなたが失敗しても、悪いことをしても、たとえ堕落しても、聖霊なるイエス様は決してあなたを捨てません。いつまでもどこまでも一緒にいてくださいます。どんな時も、です。
 毎日、死と葬りと復活を深く悟っていけば、イエス様の身丈にまで達することができます。共に励んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年1月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   勧善懲悪 かんぜんちょうあく  up 2008.1.27


善行を勧め、悪行を懲らしめること。



 

 

 私たちのクリスチャン生活は、善に親しみ、悪から離れる歩みです。実際には、妥協や譲らなければならない状況も出てくるかもしれません。しかし「悪を憎み、善に親しむ」(ローマ12:9)という、神に喜ばれる心の姿勢を貫き、実生活に反映していけるよう、箴言からその知恵をいただきましょう。
 救い主イエス様が十字架による罪の赦しを与えてくださったのは、私たちが悪行を離れ、善を行うようになるため、善を行う力、復活の力を与えるためであることを忘れず、あきらめずに今週もチャレンジしていきましょう。

●1/28(月)(箴言3:11〜12)
“わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。”

 自己義により、感情的に懲らしめや叱責をする親やリーダーたちがいます。失敗した者への怒りをぶつけて、相手をつぶしてしまっているのです。これは間違いです。懲らしめと叱責の目的は、悪から離れさせるだけではなく、そこから立ち上がり、善を行うようになることにあります。そこには励ましが必要です。間違いを指摘し、正しい方向を示し、こちらに進むよう、励ましと希望を与える事が必要なのです。
 懲らしめを与える立場にある人は、このことを心に留めましょう。受ける立場にある人は、たとえ懲らしめだけで終わっても、「神様が私を良い方向に進むように励ましてくださっている」と受け取るようにしましょう。また、他の人が懲らしめを受けて傷ついているならば、あなたがキリストにあって愛をもって励ましていきましょう。神様の懲らしめと叱責を喜んで受けるなら、その度に希望と力が与えられるものです。健全な懲らしめは、その人を生かすものなのです。

●1/29(火)(箴言3:13〜15)
“幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。”

 聖書でいう知恵は、「心の知恵、心の賢さ」です。その基本は、善と悪を見分けることです。神を畏れる心、正しい良心をもって善悪をはっきり見分けることができる人は幸いである、とこのみことばは教えています。
 知恵は魂の価値づけを与えます。感情で物事を判断するのではなく、神様を畏れる心をもって正しく見極め、悪に染まらないように気をつけましょう。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」とイエス様が言われたように、悪に対しては注意深く、善に対しては素直に受け入れる心、これが知恵ある心です。

●1/30(水)(箴言3:27〜28)
“あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう。」と言うな。”

 助ける力があるのに、「明日、また来なさい。」という人は、助ける気持ちのない人です。それは愚かな心、知恵のない心です。このみことばが教えていることは、今年のモットーのみことば(ヤコブ1:27)と同じ意味を持っていると思います。
 あなたに善を行う力がある時とは、どんな時でしょうか?
それは、あなたよりも弱く、あなたよりも貧しく、あなたよりも問題の中にあって打ちひしがれている人がいる時です。逆にあなたよりも力があり、優れており、成長している人は、あなたが助けを求める人なのです。あなたの前にどんな人が現れるかによって、善を行う力がある者になったり、助けが必要な者になったりするのです。 神様の前に、すべての人は求める者であり、神の助けを必要とする者です。また、神様の前に正直に、自分が助けることのできる人を助ける、これが当然のことであり、知恵の心です。「自分は助けの必要な問題の中にいる」と思いこんでいないでしょうか。もしかしたら、あなたが助けることのできる人、あなたに求めてきている人がいるかもしれません。
 美しの門で、ペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、足の萎えた人が奇跡的に癒されました。私たちにあるもの、持っているもので、誰かの必要を満たすことができるのです。能力的・経済的な助けだけでなく、精神的・霊的な面も含めて、求めてくる人に助けを与えていくことです。たとえ自分自身が助けが必要な状況にあっても、自分が助けることのできる人に親切を施し、助けていくなら「受けるより、与える方が幸いである。」というイエス様のみことばの真理が悟らされ、心に力が与えられます。与えることの喜びに目覚めましょう。
 今与えられている持ち物、能力、健康も、私たちだけのためではなく、必要な人に与えるためにも、神様が祝福し、恵みを注いでくださっていることに心を向け、知恵の心を持ってチャレンジしていきましょう。

●1/31(木)(箴言3:29〜30)
“あなたの隣人が、あなたのそばで安心して住んでいるとき、その人に、悪をたくらんではならない。あなたに悪いしうちをしていないのなら、理由もなく、人と争うな。”

 “安心している様子を見て、悪をたくらむ”には、妬みや嫉妬がここに含まれています。自分よりも豊かな人、成功している人を見て、正しい良心では祝福していても、肉の心が騒ぐのです。
 知恵ある心は、肉の思いと正しい良心の思いとを、はっきり見分けることができます。私たちは意識しなくなると、つい感じる方に意識が向いてしまい、罪から来る悪い感情に引き込まれてしまうことがあります。しかし、それは本来のあなたではありません。イエス・キリストを救い主と信じて水のバプテスマを受けた時、肉と霊が切り離され、新しく生まれ変わったのです。以前は肉の力に縛られ、罪の奴隷となっていました。しかし今は、その古き人生はキリストとともに葬られ、キリストとともに新しく生まれ変わった、新しい心を持って生きる状況に置かれているのです。ごまかされないように、偽られないように気をつけて、本当の自分を絶えず意識していきましょう。
 感情や自己義は、罪がもたらす幻です。あなたの姿を借りた罪の働きが、感情の起伏や強情さをもたらし、人間関係を不健全なものとしてしまいます。みことばにあるように、私たちは、キリストにあってもう罪との関係を断ち切った者です。感情や自己義が起こってきても、「これは私ではない。」という心の姿勢をしっかりと保ちましょう。そのためのしるしとして、私たちは洗礼を受けたのです。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(第1コリント1:30)とあるように、イエス様を通して、私たちには善と悪を見分ける知恵が与えられているのです。私たちを悪に引き込もうとする肉の欲の働きを見抜き、神を畏れる正しい良心が私たちの内にあることを認めることができる。これが知恵の心です。神のみことばにあなたの心を照らし、欲望に引き込まれないよう、正しくコントロールできるようチャレンジしていきましょう。
 ただ、これは簡単なことではありません。失敗もあるかもしれません。しかし、多くの失敗を通して知恵と英知が養われるということに希望を持ってください。たとえ失敗しても、あきらめずにチャレンジを続けていくなら、それは失敗に終わるものではなく、一つ一つ賢さを増し加えていく過程となるのです。神様は回復の神です。失敗し、悪い状況にあっても、その都度悔い改めて正しい方向に向き直すなら、神様は喜んでくださいます。自分の心を見つめ、失敗してしまう原因を探り、心を変えていくことが必要です。悪の働きを見極めていく知恵ある心、正しい良心が養われることも、神様に求めていきましょう。

●2/1(金)(箴言3:31〜33)
“暴虐の者をうらやむな。そのすべての道を選ぶな。主は、よこしまな者を忌みきらい、直ぐな者と親しくされるからだ。悪者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。”

 周りを見ると、世の不敬虔な人々の方が成功し、祝福されているように見えることが多いものです。しかし、その祝福がどこから来ているのか、きちんと見分けることが必要です。父なる神様からの祝福か、悪の父であるサタンからのものであるか、見分けなければいけません。
 神様はあなたを貧しくする理由を持っておられます。サタンもあなたを祝福し、富める者とする理由を持っています。神様はあなたを、神の御国を受け継ぐ相続者とするために、貧しくしたり、富める者としたり、失敗したり成功することを導いたりします。しかし、サタンはあなたを神から引き離し、不信仰を持たせ、神を否定する者とするためにします。見えるかたちは一緒でも、目的が違います。もしあなたが祝福されて、「神様はいらない」という気持ちになってしまうなら、その祝福はサタンから来たものといえるのではないでしょうか。祝福されて、ますます捧げて、自分のためにではなく神様のために、貧しい人々のためにその祝福を使っていくことを喜ぶなら、主からの祝福を実感するでしょう。心の賢さを持ちながら、神様から与えられた祝福が、神様から心が離れてしまう呪いの祝福とならないように気をつけることが必要です。
 また、試練や貧しさ、苦しみが主を見上げ、主への信頼をさらに磨き、あなたを鍛え、強くするものであるはずなのに、「もういやだ。」と神様を捨てて、楽な方を選んでしまうなら、それは永遠の滅びに至るものとなってしまいます。神の祝福である貧しさや困難が、神を呪う原因となってしまうのです。サタンは神様のものを用いて、私たちを神様から引き離そうとします。ですから、心の知恵、賢さ、正しい良心をもって善悪を見分けることが必要なのです。

●2/2(土)(箴言3:34)
“あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。”

 神様の恵みなくして万物は存在し得ないでしょう。へりくだりの中に善行を求める本来の自分があるのです。テモテへの手紙第1 3章16節に「敬虔の奥義」とあります。敬虔=信心深さの奥義、つまり神の前にへりくだった心を持つことです。これはイエス・キリストの福音、死と葬りと復活の中に表されている、とみことばに記されています。へりくだりは負けではなく、みじめなものでもなく、神の奥義なのです。神ご自身であられるお方、イエス・キリストが自らへりくだりを表し、その奥義を私たちに教えてくださったのです。神様はへりくだるものに恵みを授けてくださるということを、キリストの人としての生涯を通して、また十二弟子たちを通して証しされました。
 漁師のかしらであったペテロは、ガリラヤ湖での嵐の中、そのごう慢さを砕かれました。漁師としての自信、ごう慢な心が、自然の力に対して何の役にも立たないことを思い知らされ、自分の才能や能力に頼れなくなった時、眠っておられたイエス様を起こし、「主よ、助けてください。」とへりくだりました。私たちは心がへりくだっていないと、なかなか神を求めることをしません。自分ができている時には、神様には頼ろうとしないものです。しかし、「万物は主がお造りになったもの、私たちの努力や才能によって事が進むのではない」ということをきちんと理解した人がへりくだった人です。仕事をして給料をもらうのは当たり前だと私たちは思いますが、へりくだった心はそれさえも神の恵みによる、と感謝するのです。世界の国々の中には、約束通りの給料が支払われないような国がいくつもあります。日本では秩序が保たれているため、そのようなことはほとんどありません。神は権威さえもお造りになったとみことばにあるように、この秩序も、神がおられてこそ保たれているのです。
 神様はクリスチャンだけでなく、へりくだるすべての人に恵みを授けてくださいます。クリスチャンであればなおのこと、ではないでしょうか。ぜひ、へりくだりという心の知恵にチャレンジしていきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年1月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   初志貫徹 しょしかんてつ  up 2008.1.20


思い立った時の最初の気持ちや志を、最後までやりとおすこと。



 

 

 今回は、一日一日を、その日いただいたみことばでやり通してみる、というチャレンジをしていきます。

●1/21(月)(箴言3:3)
“恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。”

 皆さんはこのみことばを読んで、何を感じられたでしょうか。
なぜ、恵みとまことを捨ててはならないのでしょう。人は一人では生きていけません。必ず誰かの世話になっているのです。恵みを忘れるとは恩を忘れることであり、自己中心になることです。恵みを捨てない人は、今まで生きてくることができた恩を忘れません。怒ったり裁いたり、嘆いたり自己嫌悪に陥るのは、自己中心の考えになった時なのです。
 この一日、与えられた恵みの全てを思い起こして、感謝して生きてみましょう。

●1/22(火)(箴言3:4)
“神と人との前に好意と聡明を得よ。”

 神と人、とあるのは、人の前では建前でも通るけれども、神の前には通用しないからです。神の前には心底からの誠実が必要なのです。誠実とは何でしょうか。自らの間違いを、間違いとして受け止め、悔い改める態度です。本当の信頼を受けるために、誠実を守る一日を送ってください。

●1/23(水)(箴言3:5)
“心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。”

 主に本当の信頼を寄せる時、自分の悟りを生かすことができます。さらに、間違った悟りは切り離すことができます。このことばは一人一人の能力や考えを否定するものでは決してないことに注意してください。考えなしに従うのはロボットと同じです。神様はそんなことを望んではおられません。人が考え悩むことに価値があるのです。悩んだ後に主に信頼を寄せるなら、「この方に信頼して良かった。」と、信頼する方のすばらしさを知ることができます。

● 1/24(木)(箴言3:6)
“あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。”

 認めたことは行動に表して証明するものです。主の存在を大切にし、御心を最優先して生きることを実行していきましょう。自分の考えを優先していくと、かえって回り道をしたり、横道にそれたりしてしまいます。どんな事があっても神様の教えを最優先していけば、最終的には一番安全に近道を通れます。

●1/25(金)(箴言3:7〜8)
“自分を智恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。”

 「自分を智恵のある者と思うな」とはどういう意味なのかを考えてみましょう。
 神の前にはへりくだっていても、人の前では自分の考えや悟りを優先しているなら、高ぶっていることになります。人からの忠告を聞き入れないのは、自分の智恵を最優先しているからです。神が人を通してあなたに忠告されたことを、人からの忠告だからと聞き入れないなら、神の前でもへりくだってないのです。「自分はまだ弱いから」「まだ愚かだから」と、へりくだるふりをして忠告を聞かない自分に気付いてないクリスチャンの何と多いことでしょう。しかし、悪から離れないでいる結果として、病や体の弱さがついてきます。

●1/26(土)(箴言3:9〜10)
“あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。”

 私(辻師)が初めて給料をいただいた時、この初めての収入で親に感謝を表しました。それは親に対する尊敬の証しです。
 では、父なる神様に対してはどうでしょうか。この弱い、愚かな 私たちが御心を実行できるようになるまで忍耐し、そのための贖いとしての御子イエス・キリストを与えてくださった、父なる神様。この計り知れない恵みに対して、今私たちに与えられているもので感謝を表して行こうではありませんか。
 はるか先の事を考えて不安がっているよりも、今与えられている恵みを感謝しましょう。この心は、主をあがめる心に変わっていきます。感謝とへりくだりを忘れて、主を畏れる心を失わないように注意してください。世の中の不平不満に迎合してしまうと、何を得ても、何をしても満足できない渇きの中に入ってしまいます。
 見えない神を見つけることのできる人は、見えない恵み、見えない感謝を見つけることもできます。

 これらのみことばを、朝5〜10分の間に心にしっかりと決心して、一日の間熱心に保ち続けていきましょう。

 

 

 

 
 

  
■2008年1月13日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 横路 満弘 師)

   報怨以徳 ほうえんいとく  up 2008.1.13


怨みを抱いている者に対して、慈愛と徳をもって接すること。


しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
(マタイ5:44)


 

 

 誰でも自分を愛してくれる者を愛することは易しいが、自分を嫌い、敵対し、攻撃してくるような者に対し、愛をもって赦し、親切を施すということは難しいものです。
自分を傷つけ、責めてくる人を愛し、その人のために祈るなど、とても自分にはできないと思ってしまいます。
 神様はもちろん私たちの弱さや受けた傷の深さをご存知のお方で、すぐに今日からみことば通りに実行することが私たちには困難であることもご存知です。
 しかし神様がこのように語られていることは、私たちの目指すゴールを示されているのであり、神様に助けられてこのゴールに達し、キリストの御姿に変えられて天の御国にふさわしい者となるため、チャレンジしてほしいと願っておられるのだと思います。今の私にはできないが、やがて神様の助けにより到達できるという希望があるのです。
 今日は新約聖書(ルカの福音書10章)の「よきサマリヤ人」の箇所から学びたいと思います。
(ルカの福音書10:25)“すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができるでしょうか。」”
 神の律法に精通したこの人は、正規に学ばれたことのないイエス様が権威ある教えをされているのを聞いて、それがどれほどのものであろうかと試そうとしたものと思われます。ところがイエス様は逆に質問され、その人の答えを聞いて良しとされました。そこで彼は、自分の正しさを示そうとして、「私の隣人とは、だれのことですか?」(ルカの福音書10:29)と質問しました。これは、彼らが罪人として見下し、差別していた多くの貧しく弱い人々に、イエス様が分け隔てなく隣人として交わっておられたことを批判し、自分の考えを正当化するための質問だったのです。
 イエス様はこの時、彼の間違いに気付かせるために、「良きサマリヤ人」の話をされました。

●1/14(月)「反対側を通り過ぎた」(ルカの福音書10:30〜32)
“「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。”

 あるユダヤ人が強盗に襲われ、半殺しの目にあって道に倒れているのを見た祭司とレビ人(エルサレムの神殿に仕える聖職者)が、これを見て見ぬふりをして通り過ぎて行った、というのです。
 彼らは、血を流して倒れている人を見て死んでしまっていると思い、死体に触れて汚れたくないと思ったのか、ぐずぐずしていると自分も同じように強盗に襲われるかもしれないと思ったのか、疲れていたので早くエリコにある自分の家に帰りたいと思ったのか定かではありません。が、とにかく面倒に巻き込まれたくなかったのでしょう、結局、自分の隣人(彼らの言う)である同胞を見捨ててしまったのでした。
 私(横路伝道師)自身も、先日このような経験をしました。
 教会前の車道に1台の車が停車し、運転者が座席を倒して寝ておられる様子が見えました。私は運転中の疲労から眠くなり、車を停めて仮眠しておられるのだろうと、その前を通り過ぎてしまいました。
 後でわかったことですが、その運転者は病気で運転ができなくなり、路上内端に停車して、救急車が到着するのを待っておられたらしいのです。
 私が通った時には助手席の女性の方は普通に前を向いておられ、側を通りかかる人に助けを求める様子も見られなかったので、私はまあ大丈夫だろうと判断して家路に着いたのでした。
 あの時近づいて一言「大丈夫ですか?」と、あるいは「何か助けが必要ですか?」と声をかけるべきであったと悔い改め、反省しました。私も疲れていて、自分の都合、思いを優先してしまったのです。

●1/15(火)「彼を見てかわいそうに思った」(ルカの福音書10:33)
“ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、”

 当時、混血であるとしてユダヤ人から人種差別を受けていたサマリヤ人が、倒れているこの人を見て「かわいそうに思った」のです。彼は、倒れている人が日頃自分たちを軽蔑しているユダヤ人であると分かったと思いますが、あわれなその人の姿を見て、怨みよりも深い同情心でいっぱいになったのです。
 このサマリヤ人はイエス・キリストの型と言われています。イエス様も、私たちが日頃の生活において神様に対する不信仰や、みこころを無視するような状態があるにもかかわらず、私たちの苦しみ、悲しみ、嘆きをかわいそうに思われ、深い同情心をもって見てくださる愛の神様です。

●1/16(水)「近寄って介抱したサマリヤ人」(ルカの福音書10:34)
“近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。”

 彼は急いで近寄り、ぶどう酒で傷口を消毒し、油を塗って傷の痛みを和らげ、包帯を巻いてロバに乗せ(自分は歩いて)、宿屋に連れて行って介抱しました。彼はあわれみのゆえに、大きな犠牲を払って心を込めて介抱したのです。これもまたイエス様の型です。深いあわれみのゆえに天から地上にくだり、私たちに近づいてくださり、十字架の血潮で私たちの罪を洗いきよめ、聖霊の油を注いで私たちを慰め、いやしてくださいました。私たちが罪のために滅びる他はないことをかわいそうに思われ、私たちを救い介抱してくださったのです。

●1/17(木)「彼は介抱を委ね、再来を約束した」(ルカの福音書10:35)
“次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います。』”

 本当にこのサマリヤ人の行き届いた配慮には感動します。費用を支払い、宿屋の主人に介抱を委ね、もっと費用がかかったら自分が帰りに(また立ち寄って)支払うとまで言って約束したのですから。
 もし帰りに支払うという約束をしなかったら、費用が多額になった場合に怪我人が支払えるはずもなく、奴隷として売られてしまう可能性もあったことからと思われます。
 イエス様も私たちのすべての罪の負債を支払ってくださったのみならず、ご自身が天に帰られる時、地上に残された私たちを心配され、力ある聖霊様を助け主、慰め主として届けてくださるという深い配慮をしてくださいました。
 「もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います。」とはイエス様が再臨される時に、それまで救われたクリスチャンである私たちが失敗したり、罪を犯したり、報われない労苦があったりすることのすべてを覆い、涙をぬぐい去ってくださるということのように思えます。

●1/18(金)「誰が隣人になったか」(ルカの福音書10:36)
“この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。”

 律法の専門家は「誰が隣人ですか」と尋ねました。これは隣人かそうでないかを区別することからの質問ですが、イエス様は「誰が隣人となったか」を問われました。これは、誰であっても分け隔てをせず、こちらから隣人となるため手を差し伸べることへのチャレンジを表しています。
 たとえ自分を怨んでいる敵であっても、その人の隣人となることを願っておられるのです。差別や敵対は神の御心ではありません。なぜなら、神様にとっては、すべての人がご自分の創造された愛する子であるからです。

●1/19(土)「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカの福音書10:37)
“彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」”

 イエス様は律法の専門家に対して、差別を正当化するより、あわれみをもって隣人となるよう教えられました。私たちも自分の考えや自分の都合、敵だからということより、すべての人をあわれみ、隣人となるため手を差し伸べることをしていきたいものです。
 以前聞いたことのある話をします。
 「京都の大学生I君が教会に導かれ、イエス様を主として信じて救われ、教会に通いだした時のことです。同じ寮にいた学生K君はI君がクリスチャンになったとたん、馬鹿にし、事あるごとにI君に意地悪をしていたそうです。やがてI君はK君のいじめに耐えられなくなり、ある時決心して、一人賀茂川のほとりに立って祈ったそうです。「神様、もう耐えられません。K君を私から除いてください。」と。すると不思議なことに神様が関西弁でI君に答えられたそうです。「Kを置いたのはわてやで。」
 「えーっ、神様がですか? 私はサタンが私の側にK君を置いたのだと思っていました。」I君は大変驚いて言いましたが、それからは神様が置かれたK君として、どんなに意地悪をされても祈って耐え、愛と親切をもって対応したそうです。
 そして、ある冬の日に寮の忘年会がありました。ひどく酔ったK君はその帰り道で雪の中に倒れ込んでしまいましたが、他の寮生は「ほっとけ、こんな奴。」と誰も助けようとしません。ただ一人I君だけが彼をかわいそうに思い、助けて寮に連れ帰り、一人で介抱したのです。次の朝K君は他の寮生から、自分が日頃いじめていたI君が助け介抱してくれたと聞いて、急いでI君の部屋へ行き心から謝ったそうです。それからこの2人は大の親友になったとのことでした。このI君は今日のみことば(マタイの福音書5:44)「報怨以徳」を実行し、K君の隣人となったのです。私たちの周りにも、自分に敵対し、迫害する人がいるかもしれません。しかしその人が神様から置かれた人であると受け取り、I君のようにあわれみと愛によって隣人として接するなら、神様は必ず私たちを助けてくださり、良い友としてくださることと信じます。

 

 

 

 

 

  
■2008年1月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   前途有望 ぜんとゆうぼう  up 2008.1.6


将来に大いに望みがある様子。将来、役に立つ見込みがある様子。



 

 

 今年は箴言から毎日デボーションをしていきます。
朝起きて一日を始める前に、まず箴言を読んでみましょう。神様が一日を始めるにあたっての知恵を与えてくださいます。
 私たちは今年「前途有望」でしょうか? キリストにあって、私たちは「前途有望」です。確かに私たちの周りには多くの問題が起きていて、経済にしても、国際問題にしても、大きな混乱が予想されるでしょう。明日を予想することさえ難しい状況とも言えます。
しかし、社会混乱が起きるほど、私たちはむしろ、神のみことばの成就が近いことを知らなければなりません。
 今は世の終わりの時代です。黙示録の預言が成就しつつあります。 私たちは日本の国が真の神に目覚めるためにとりなし祈り、日々世の光として忠実に歩むことが大切です。
 聖霊様とみことばによって、私たちは輝くことができます。毎日、聖霊様とみことばをもって歩むなら、神に用いられる器としてますます磨かれた者となっていきます。

●1/7(月)(箴言1:7)
“主を恐れることは知恵の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。”

 将来の希望を見つけることができる賢い人とは、知恵と訓戒を尊ぶ人です。最近の人々は、人からの忠告や注意を素直に受け取れず、腹を立てたり、ひどい場合は殺人にまで至ることもあります。
 しかし忠告はすばらしいものであり、大きな知恵と訓戒を与えてくれるものです。感情的には揺さぶられたり、怒りが湧いてきても、人を見るのではなく、主がその人を通して自分を教えてくださっているのだと受け止めるようにしましょう。
 人を見ず、主を見るなら、すべての忠告は知恵と訓戒となります。忍耐を働かせましょう。

●1/8(火)(箴言1:8)
“わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。”

 皆さんにとって父となり、母となるような人々からの「訓戒」や「教え」のことばを大切にしましょう。ある人は反面教師となるかもしれません。社会的な圧迫や苦しみによって、ある人は潰されてしまうような人生を送った結果、そうならざるを得なかったのかもしれません。しかしどのような人からも訓戒と知恵は得られます。
 前途有望な人は、目先の状況のみで判断するのではなく、すべてを教えと受け止めてプラスと考え、前向きに捉えることができます。あなたの人生に親はどのような影響を与えたでしょう。受け止め方によって、良くも悪くもなります。目先の苦しみを見るのではなく、自分の将来に希望を見い出しましょう。苦労したほど、将来に役立つ知恵と訓戒を得たのだと知りましょう。神は良い方です。
 親から受けたものを、心の傷・トラウマとしてとるのではなく、むしろ将来のために与えてもらった知恵として、プラスと受け止めてみましょう。心の傷ではなく人生の宝として、神にあってプラスと変えていただきましょう。神はあなたの人生を導いてくださっています。そのように主への信頼をもって、過去を見直してみてください。

●1/9(水)(箴言1:7)
“鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。”

 カラスは賢い鳥で、人のすることを良く見ていて、人の仕掛けた罠になかなかかかりません。前途有望な人は罪の罠を見分けることができる人です。罪はいつも、クリスチャンたちが堕落するようにと、罠をしかけています。私たちはその力、罠があるということを知らないわけではありません。注意しないといけません。注意を怠るなら、罠にかかってしまいます。
 心に不信仰や失望という闇を入れ込んでこようとする、罪の罠に注意しましょう。注意しているなら、不信仰や失望という罠に陥ることはありません。私たちはカラスよりも賢い者です。
 不敬虔な世界では、私たちの敬虔さ、純粋さを引き下げようとする、たくさんの罪の罠があります。しかし私たちは心の内をしっかり見張り、闇が入り込まないよう、ごまかされないよう気をつけていきましょう。

●1/10(木)(箴言1:32)
“わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。”

 わきまえのない者はいつも感情に振り回され、一時的な感情で失敗をしてしまいます。そしてその感情は前向きにならず、不信仰に走ってしまいます。そういう人は感情を自分と思いこみ、自分を見失っています。
 感情は自分ではありません。単に感覚であって、そこに人格はないのです。客観的に自分を見る主への信仰を持ちましょう。
 信じる者の内にはイエス様がおられます。嵐の中でイエス様は船のともの方に寝ておられました。感情の嵐の中、私たちはこのイエス様に目を向け、イエス様に話しかけてみましょう。
 また、何の根拠もない楽観主義も危険です。今流行っている「フリーター」は、確かに若い内はいいでしょう。しかしいつまでもアルバイトでつないでいくと、老後の生活はどうなってしまうのでしょうか。それこそ何の保障もありません。
 問題を先送りしていくと、良い結果は得られません。私たちの良い意味での楽観主義は、ちゃんと主への信仰という根拠が元になっています。みことばを見つけ出しましょう。

●1/11(金)(箴言2:11〜12)
“思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。”

 どういう自分を守り、どういう自分を保つのでしょうか。どういう自分でありたいのでしょうか。私たちはそのことを考える時間が必要です。思慮や英知は、なりたい自分になることを助けてくれます。思慮を身に付け英知を得るとは、心の賢い人とも言えます。いろいろな状況で、どのように適応したらよいか、自分はどうあったら良いかを見極め、判断する心の賢さです。主を畏れる心が内側に知恵を与えます。思慮深さは失敗を通して身に付けられ、英知は人を見て身に付けることができます。あらゆる過去の出来事が、その教訓となるのです。神はすべてのことを益としてくださいます。この知恵は主が与えてくださいます。「創造主がおられる」という敬虔な心が知恵を与えられます。

●1/12(土)(箴言2:21)
“正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。”

 これは神の約束です。不敬虔な人には逆のように思えるでしょう。この「地」はこの世だけでなく、永遠の地を指しています。私たちはこの永遠の地にしっかりと残る者となるために、神の前に正直な、潔白な者になりましょう。
 神の前に正しい良心を備えた人は前途有望な人です。
 この世の成功のみを求めているなら失望します。この世的な成功・失敗は、この世の人々が判断します。しかし神の前に私たちの人生はあるのです。神の前に生きているのです。この世界のままで永遠に生きたいと望みますか?
 この世は一度しかありません。一度しかないのですから、全力投球するしかありません。神の前に一心に正しい良心を貫いていく、そういう人を神は見ておられます。この世的成功や失敗に心を動かされてはなりません。どれだけ敬虔な心を神の前に持っているかが大切です。
 罪を神の前に認める敬虔な心に、悔い改め、やり直せる救いを、神は与えてくださっています。不敬虔な世界で虐げられ、悲しんでいる人々に希望を与えるために、イエス様は十字架で死んでくださいました。いくらやり直してもいい、合格するまでやり直せる…これがイエス様の十字架の赦しです。やり直すことをあきらめる人は高慢です。委ねるとは、神の前にへりくだることです。自分にはできないというところは神に委ね、何度でもやり直す心です。
 やり直していく時に自我が取れていきます。自我が取れてくると、欲望に縛られていた自分が見えてきます。
 神の前に自分の心の潔白さを見出していきましょう。