■2007年12月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   箕山之志 きざんのこころざし  up 2007.12.30


俗世間から離れて、自分の節操を守ること。


父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
(ヤコブ1:27)
 


 

 

 新しい年のみことばを基礎として一年を歩むために、三つのことに気が付くことが必要です。ビジョンに向かって『箕山之志』をもって進んでいきましょう。

1.どういう世界に生きる自分なのかに気付く(ルカの福音書12:31)
“何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。”

 私たちは神の国を求め、究極に向かってさらに求め続け、神の国に生きる世界の人です。信念を持つ人は自分の世界を持っています。それは他人には干渉できない確固たるものです。同じように信念を持つ人は、その人を理解することができます。相通じるものを持っているからです。何も持たない、単に欲望を満たすだけの人にはわかりません。その人は多数決に流され、フラフラと人生をさまよっているのですから。クリスチャンであるみなさんはむしろ胸を張ってください。野球の一流選手が自分を節制するのと同じように、クリスチャンは天国の民として自分を節制しているのです。
 ザアカイの話(ルカの福音書19章1〜10節)を読んで、彼がなぜ心を入れ替えることができたのか考えてみましょう。
 ユダヤ人は血を重んじ、家系を重んじ、同族で深いつながりを持つ人々です。ザアカイも当然その中で育ってきました。しかしザアカイは取税人になりました。神に愛された部族ユダヤ人でありながら、ローマの社会に、いわばこの世に属する者になったのです。彼は成功し、金持ちになり、周りの人々は彼を表面的には敬いました。この世たるローマでは、金であれ地位であれ、勝利者であることが一番価値のあることだからです。一方で、彼はユダヤ人としての安らぎある人生を失いました。神の選民たるユダヤ人は弱い者を助け、同族で愛し合うのですが、彼は弱い者を踏みつけるこの世に属することにしたからです。彼を愛してくれる家族は今や一人もいませんでした。けれどイエス様だけは、そんな彼の名を初対面で言い当て、彼の家に泊まって一緒に食事をしてくれ、彼に御国の福音を伝えてくださったのです。そして彼はユダヤの民に帰ることができました。弱い者を助け、同族で家族としての交わりをする、温かいユダヤ部族の一人に戻れたのです。財産も地位も失っても、彼は喜びに溢れていました。
 私たちは、自分が神の国に生きるために生まれた者であることを、もう一度胸に刻みましょう。

2.自分は何者であるかに気付く(詩篇8:5〜6)
“あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。”
 神は人をどれほどすぐれた者としてお造りになったか、気付かれましたか?『いくらか』とは、それほど差がない時に使う言葉です。人とは本来、神様の被造物の中で最高の作品なのです。さらに栄光と誉れの冠を与えてくださり、御手のわざの多くを忠実に管理する者として、人は任命されていました。でも、人は神を裏切って自分勝手な生き方を選んでしまいました。自由意志というすばらしい賜物を汚してしまったのです。そして全ては歪み、争いと悲惨に満ちた世界になってしまいました。今では「神はいない」と主張するまでになり、自分を主とすることで世界中が争っています。強い者が勝つという考えの下では、誰も戦いを否定できないからです。
 クリスチャンは優劣と争いに満ちたこの世の基準に妥協してはいけません。不必要な存在も、喰われるべき弱者も、神の基準の下には一人もいません。神はすべての者に、それぞれの器に応じた役割を与えておられます。
 『みにくいアヒルの子』という童話を知っておられますか。彼は本当は白鳥の子だったのに、種族の違うアヒルたちの間で生まれたばかりに、いわれのないいじめを受けました。家族と思っていた者たちからも疎外され、みじめに逃げ続ける生活を送りました。空を見れば美しい白鳥、自分はアヒルだと思っていた彼はあこがれるだけでした。でも、次の年の春、彼は美しく変身し、本来自分がいるはずだった場所に戻ることができました。大空を美しく舞う白鳥は、もはや地べたをはいずるアヒルの側にはいません。
 私たちも白鳥の子です。不敬虔な社会の中で、周りの人々と同じ生き方をしないからといじめられ、疎外されます。でも多数決は正義ではないし、この世自体も絶対ではありません。神ご自身だけが絶対者であられ、この方の基準こそが完全正義なのです。そして私たちは白鳥であって、白鳥としての真っ白い生き方をするのです。愛と善の生活を。

3.尊い方がおられることに気付く(第1ヨハネの手紙4:11)
“愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。”

 ある魚屋の父と息子の話をしましょう。息子は魚屋の仕事が大嫌いでした。臭い、汚い、きつい、格好悪い。彼は不良仲間と悪いことばかりし、ほとほと困り果てた父は、ある牧師のもとを訪ねました。
 「あなたが息子さんを心から愛していることを知れば大丈夫ですよ。」とのアドバイス。それから幾日も経たないうちに、父は警察に呼び出されました。息子が万引きで捕まったのです。
 父は警察に行き、土下座して床に頭をこすりつけ、「息子の罪は自分の罪」と心から詫びました。「そんなにしなくても」と警察から許されて帰る途中も、父は息子を一言も責めず、ただ許されたことを喜んでくれました。父の真心を見つけた息子は、父を見る目が変わりました。仕事をする父を少しずつ手伝いはじめ、それから一年もしない内に、魚屋を継ぐ決心をしたのです。
 人は尊敬する者を真似したい、そのすばらしい所を受け継ぎたいと思うものです。魚屋の息子が父を尊敬したからこそ、あれほどいやがっていた仕事を自分から継ぐ決心をしたのです。皆さんは神様を尊敬していますか?神様のされたことを真似たい、そのすばらしさを受け継ぎたいと思いますか?私たちは神様に似せて造られた者です。神様の霊的DNAを自分の内に受け継いでいて、神様と私たちは親子なのです。
 あとは心からの尊敬を持っているか、自分の内をよく吟味してみましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年12月23日 クリスマス記念礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   破邪顕正 はじゃけんしょう  up 2007.12.23


不正や誤った考えを打ち破り、正しい考えや正義を明らかにすること。


あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
(コロサイ1:21〜22)
 


 

 

 「処女から子どもが生まれる」という、あり得ないことをしるしとして、神は救い主を世に送られることを証言されました。一方でこれに反対する一つの考え方があります。私たちは、これらの2つの考え方をよく吟味し、どちらが私たちの存在に対する正しい意味を語っているのかを知っていただきたいと思います。
 そしてキリストが歴史的に地上に現れてくださった事実を通して、聖書で語られていることばが、人類にとってあらゆる問題を解決していく根本的考え方であると気づいていただきたいと思っています。
 今年の漢字として発表されたのは「偽」でした。「破邪顕正」には、誤りを一つ一つ明らかにし、正していくという意味があります。間違った考えを持つことで、空しさ、道徳的低下など、いろいろな社会問題が出てきているのではないでしょうか。

1.神から離れ、心において敵となって、悪い行いの中にいる
 ある男の子が学校から帰るなり、「ぼくはお母さんの子でなく、宮島の猿の子だ。」と言ったそうです。なぜならその日、学校で進化論を習い、親からの遺伝子は93%なのに猿からの遺伝子は98.3%も似ていると聞いたからです。このように、あたかも真実かのように説得される理論によって、嘘でも信じた価値判断が心の内にできあがってしまいます。生物学上だけならまだしも、進化論者は世界中に広がったことをいいことに、進化論を社会に、人生に、哲学に当てはめる社会進化論を作り上げました。私たちはいつの間にかこの進化論の影響を受けた生き方をしてしまっています。

A)進化論の影響
・進化論的倫理説
 メディア、政治、医学、食物、コミュニケーション…etc.に至るまで、私たちはこの進化論的倫理説の影響を受けています。
・ダーウィン
 突然に体質が全部変わる「変異」が起こった個体がそれぞれ競走しあって、強い方が生き残る、または環境に適応する者が生き残る「自然淘汰説」を提唱しました。
・スペンサー
 スペンサーのいう自由は進化論に基づいており、みな好き勝手に生きてよい、責任は自分で負う。人の考えに支配される必要はないというものです。私たちもいつの間にか束縛されたくない…と自然淘汰を促す考え方をしてはいないでしょうか。生き残る者は強い者、環境に適応できる者、世渡りの上手な者であり、適者生存の考え方です。そしてこの進化論が行き過ぎるとナチズムに走り、民族浄化〜劣った人種は滅ぼしてよい、弱い者は生き残れない種族だから助けなくてよい、という考え方を生み出します。

B)どのようなところに進化論の影響を受けているでしょう
 つまり、いかに楽しんで遊んで生きるか、ということに心を向けている学生たちもおり、「まじめに生きることは損」「共通の基準は不必要で、それぞれに生きたらよい。その価値観を戦わせて優性が支配すればよい。そして進化していく」という考え方が生まれてくるのです。公には語られていませんが、この世界で行われていることは、まさにこのような状態だと気づかれませんか。  また進化論の世界は戦争を正当化し、戦争をしないと自分が滅びることを意味します。自分が生き残るために戦います。「適者生存」という進化の法則は、世界平和を願っている多くの人々がいる中で、逆に争いが絶えない現状を生み出します。進化論は「神はいない」「創造主はいない」という前提で考えられています。根本的には「神を認めたくない」のです。私たちが自由、個人主義で人権を守ろうとする考え方の根本が進化論からきていることに気づくと、神を信じることの大切さがおわかりになってこられるのではないでしょうか。
 超越した存在を信じるように国は徳育を強調しています。神の存在を認めて、敬虔な心をもって社会生活を送ることが社会に道徳を広める大切なポイントだと哲学的にはわかっています。しかし、進化論を信じる日本にとって、神がいないとしながら道徳性を築き上げていこうとするのは、矛盾が起こります。例えば、国家という権威の存在に反抗すると、秩序を乱す違反者として国家に罰せられ、隔離されます。国家という主権があるからです。罰する者がいないのに「ルールを守りましょう」と言っても、なかなか守りにくいの ではないでしょうか。私たちがイエス・キリストを主張するのは、メシヤとしての様々な預言がイエス・キリストを通して成就したという、歴史的事実としての動かぬ証拠があるからです。
 神を見ていなくても、神が語られたことが実現したことで、神の存在を知ることができますが、認めるかどうかは皆さん次第です。認めた人は、罪を裁く、愛とあわれみをもった神がおられることをしっかりと心にもって、道徳基準を決めていきます。  親を心から敬う子どもは、親に迷惑をかけないように社会生活を送りますから、自然と高い道徳規準を持ちます。しかし敬わない子は、自分の生き残りのために親を利用するだけです。いつの間にか適者生存の自然淘汰の法則によって、人生を判断していることになります。生物学者は「生物学には存在があっても、何のために生きているかという目的はない。」と言います。進化論は最終的に強い者が残るというしかありません。しかし天地を創造された神は愛なる神であり、優劣は問題ではなく、自分のいのちをもって造った万物を愛しておられます。

2.キリストの誕生と神の和解(ローマ人への手紙5:10)
“もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。”

 和解とは、被害者が加害者の条件を受け入れて為されるものです。神の和解は、ご自分が被害を受けたのに、加害者の人間に代わり、イエス・キリストを遣わすという、自分で納得できる和解策を用意されました。神はなぜそこまで私たちと繋がりを持ちたいと願われるかというと、私たちの存在に重要な気持ちが向けられているからです。それが愛です。
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(ヨハネの福音書3:16)

3.和解の目的
 その和解の目的は、私たちをご自分の前に立たせるためです。それは特別な良い関係があり、交流があることを意味します。神はイエス・キリストという和解の代償を用意され、私たちをご自分のもとに引き寄せ、関係を保ちたいと願われました。十字架によって私たちへの神のお気持ちを知ることができます。創造主の気持ちが表されたキリストの誕生を感謝します。
 そして、私たちが差し出すことのできなかった代償を神が準備し、プレゼントとして御子イエス・キリストを地上に遣わされたことによって、キリスト教社会にはプレゼント交換する習慣が始まったと言われています。今日、間違った人生観に進まれることのないように、「破邪顕正」にぜひ気づいていただきたいと思います。神がおられ、私たちを造られ、私たちとの関係を保ち続け、何かを見出すことを願っておられることから人生を見直していただくというのはいかがでしょうか。そしてみなさんとご一緒に、神を敬うすばらしい人生を歩んでいけたらと思います。

 

 

 

 

 

 
■2007年12月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   円満具足 えんまんぐそく  up 2007.12.16


十分に満ち足りていて、少しも不足がないこと。また、人格や顔つきが、不満がなく穏やかなようす。


主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。
(詩篇104:24)
 


 

 

 私たちは何一つとして法則を作り出すことはできません。法則を見出すことはできます。そしてそれを応用して活用していくこともできます。しかしその法則は神が創られたもの。『地はあなたの造られたもので満ちています。』
 『全て』ではなく『満ちている』ということばをあえて使っています。それはもう数え切れないほどあるということを印象づける表現だと思います。見えるもの、見えないもの、気づかないものに至るものまで、すべて神が創られたもので満ちている。神の創造の複雑さを表していると思います。その世界の中で私たちは生きています。ですから、私たちの心の思いとしては、すばらしい神様がお造りになったものに対して、不平・不満ではなく感謝をしていくことが大切だと思います。そこで『円満具足』、この神様の創造の御業の中に今私たちがいる、それを感謝の毎日として過ごせるように、三つのみことばから学んでいきましょう。

1.万物の造り主(イザヤ書44:24)
“あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。”

 生命が誕生し、私たちがそこで幸いな人生を送ることができるように、神が知恵をもって万物をお造りになりました。それは私たちのためだと思う時、神様と私たちの関係を考えてみましょう。
『あなたを贖い』
 贖うとは、私たちが失敗したものを取り戻し、償い、やり直してくださるという意味です。ですから、決して私たちを失いたくないという創造主の気持ち、一度造った作品をダメだと判断して壊してしまうのではなく、ずっと保ちたいという願いがあるから、贖いというみわざを現してくださったのです。
『母の胎内にいる時から』
 どれほど大事に私たちが造られているかを表現しています。母の胎内に宿る。神様は女性の器官を通して、私たち一人一人を造られました。それは、母が胎児を大事に扱うように、神様も私たちを大事にしてくださっているという表現です。
 もっと、被造物・自然に対する神のみわざのすばらしさをさらに深く味わい、これらを造られた方が私をも造られたこと、そして人となってこの地上に来られたイエス・キリストに思いを潜めてみましょう。このお方は、自ら私たちの罪の裁きを身代わりに受けてくださって、私たちを救ってくださり、生かしてくださいました。それだけでも、何と感謝なことでしょうか。神様のお考えがあってすべてがなされているということに目を向けて行きましょう。

2.被造物への思い(詩篇145:9)
“主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。”

 この世界においても、手作りの作品には価値があります。一つ一つ違いがあって、全く同じものができあがらないというのが、手作りの良さです。同じものは二度と造ることができません。また、心が込められているというのも、手作りの良さです。ロボットは組み込まれたプログラムに従ってのみ動きます。手作りという私たち、いのちを持った者の作品は、思いを込め、いのちのぬくもりを折り込むことができます。そしてそれを感知する能力もあります。さらに、ものを作る時にはいのちの労苦が必ず必要です。そして作った人の考えが形として表現されます。ですから、いのちのある神様が造られたものは、更にすばらしいものです。
 神様はいのちのある方ですから、いのちある私たちも、姿は見えませんがその込められた思いを、被造物である自然の中から感知することができます。神様は、ご自分が造られた作品に対して、慈しみ、あわれみを持っておられます。
『あわれみ』
 賞賛することであり、愛すること。
 この賞賛というのは、単に言葉でたたえるだけではなく、何か報いを与えるものです。それほど、ご自分の造られたものの存在そのものに対するすばらしさを見てくださっています。私たち一人一人は同情ではなく、賞賛のあわれみを神様から受けているのです。どんな人も神が創られた人です。『あわれみ』ということばを正しく理解してください。創造主である神様は、被造物である私たちを決して失いたくないという気持ちを込められています。そして万物をお与えくださっていると思えば、感謝の心が湧いてきます。そして小さな人間社会の中にあっても、心が安らかに平安になることでしょう。

3.神が造られたものとは(第1テモテへの手紙4:4)
“神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。”

 このテモテへの手紙第一 4章4節で語られているパウロの気持ちは、本来神の造られたものはすべて良いものである、悪いものは神が造られるはずがないというものです。敬虔な心、正しい良心で受け止める。神様の造られたものは何一つ捨てるべきものとは考えないということです。
 確かに、私たちにとって害になると思えるような生き物もいます。しかし造られた目的は違います。人が罪を犯す前は、すべての動物はアダムに従っていました。そして新しい天と地に対する神様の表現は、獅子でさえも乳飲み子と共に遊ぶと書いてあります。それほどに、すべての動物が人間に好意を持って従うものだと、聖書から見ることができます。しかし、アダムとエバが罪を犯しました。それを通してバランスが崩れてしまったのです。ビデオにありましたが、すべてのものはエントロピーという滅びの法則になぜか向かっています。神様は人間が汚された、罪を犯した世界と共に滅びることがないように、新しい天と地に導かれるために、救い主であるイエス・キリストをお遣わしになりました。誰一人差別されることなく、新しい天と地に入ることができます。
 造られたものはすべて良い物です。ただ、間違った使われ方、間違った方向に進んでいるが故に、悪い物になっている。これが罪を犯した状態、的外れです。キーボードやピアノ、音楽を奏でるために完璧に作られた楽器を2,3才の子どものおもちゃとして与えるなら、何ともったいないことでしょう。
 あなたの人生はどうですか。神に似せて完全なものとして造られたのです。でも使い道が間違ってしまうなら、不幸をもたらしてしまいます。自分は不完全であるという意味を正しく捉えてください。完全だから、不完全なことも選び取ってしまうのです。神様は自由意志をも完璧に造られました。それが的外れを選んでしまう自由をもたらしているのです。自ら選び取るという力が与えられた、その力を通して良い物を選び取っていく。そこに愛が生まれるということを神様は理解しておられるのです。  それでは生まれながらに障害のある方はどうでしょうか。
乙武さん、レーナ・マリアさんは、なぜあんなに明るいのでしょうか。彼らはクリスチャンホームで育てられました。神を敬う価値観を持った親が育てたのです。障害者と見ないで、神様が与えられたものを喜んで使っていく。たとえそれが命だけであったとしても、感謝して受け止めるなら、生きる喜びを見出し、感じることができるのです。そしてその結果、実を結んでいくことができます。
 神様が人を完全に造られたのは、形だけではなく、人格として神のかたちに似せて造られたということです。どんな逆境や環境にあっても魂は完全です。神のようにすべてを前向きに肯定的に感謝して受け止めていく。この魂の姿はすべての人に与えられています。どうぞみなさん、天地を造られた神、その神が造られたものは、みな良いものです。私もあなたも良いものです。自己評価を低くしないようにしましょう。勝ち組・負け組、それは人間社会において差別されたものであって、神様の目の前ではすべての人が高価で尊いのです。
 神様は私たちを慈しみ、あわれむお方。 私たちを贖い、母の胎内にいる時から形造られた方。そのように捉えていく時、『円満具足』という人生を歩むことができると思います。

 

 

 

 

 

 
■2007年12月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   斗南一人 となんいちにん  up 2007.12.9


天下第一の人、世に並ぶ者のないすぐれた人の事をいう。


神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
(第1テモテ2:15)
 


 

 

 もうすぐクリスマスですね。クリスマスには、聖餐という意味があります。イエス様との交わりの中に入る、というのが本来の大切な目的なのです。イエス様は私たちの代わりに死なれた唯一の方。このイエス様を信頼すると、大きな祝福がもたらされます。神と人との唯一の仲介者としてのイエス様を信じることの大切さを、今日はお話ししていきたいと思います。

1.霊的な成長が見られる(ヤコブの手紙1:2〜4)
“私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない 喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。”

 唯一の救い主イエスを信じつづけるには大きな忍耐を必要とします。特にこの日本では、「唯一」という考え方を嫌う傾向がありますね。そんな中で「この方だけが私の代わりに死んで、罪を贖ってくださった方」と、イエス様への忠実を守るのは大変なことです。しかし、この心を貫き通すなら、忍耐によって完全な者になることができると、聖書は明言しています。
 世の中には、「楽をしたい」という思いが溢れています。しかし、皆さんはこの思いに従って、世の中と共に流れていかないように注意してください。人の体は、楽な暮らしには向いていないつくりになっているそうですが、人のたましいにも同じことが言えます。自分の心に楽なことばかり好み、神に求めもせず、忍耐もなく、うまくいかなければ愚痴不平がすぐに出るような状態で、神にぶらさがっていては、信仰は歪んでしまいます。
 マタイの福音書15章21〜28節に記されている、カナン人の女の記事を読んでみましょう。彼女は娘を救って欲しい一心で、イエス様のところまできました。しかし、「私の娘を救ってくださるのはこの方だけ」と、イエス様だけに心の底からより頼むために、イエス様はあえて「小犬にやることはできない」と、手ひどい断り方をされました。そして彼女は確かにイエス様により頼み、彼女の信仰は娘を癒す結果をもたらしたのです。
 クリスチャンはどうでしょうか。案外神様以外の何者かを、他の助け手として持っているのではないでしょうか。イエス様を唯一の方と仰ぐのなら、どんなに忍耐することも、待ち続けることもできるはずです。

2.心の不安定さを取り除く(ヤコブの手紙1:6〜8)
“ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。”

 二心というのは、あっちにふらふら、こっちにふらふらすることです。唯一を信じるとは、土台にしっかりと立つことです。よくクリスチャンは視野が狭いと言われますが、しかし、皆さんがキリストを信じるに至った過程を思い出してください。そちらのほうがよっぽど狭かったのではないでしょうか。
 聖書にある内容を知り、生活していく中でいろんな体験をして聖書のまことを悟っていく、これは視野の狭い状態でしょうか。むしろ視野の広い、一つの視点と言えると思います。神は唯一、仲介者も唯一と。

3.心が感謝で満たされる(ローマ人への手紙7:25)
“私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。です から、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えて いるのです。”

 パウロは、神の前に完全な忠実を持てない自分に悩んでいました。しかし、イエス・キリストが自分の悩みを救ってくださったことのゆえに、彼は神に感謝しています。自分の肉は感覚に従おうとするが、自分の霊は正しい良心に従うことを熱望していると悟り、そして唯一の仲介者たるイエス様は、そんな自分の弱さや醜さのために十字架にかかってくださったのですから。罪は誰しも犯すものです。しかし、イエス様のゆえに救われていると思えば、成功も失敗もみことばを為すことも為せなかったことも感謝できるのです。
 ルカの福音書17章11〜19節にある、10人のらい病人のいやしについて考えてみましょう。10人みながいやされたのに、戻ってきたのは一人のサマリヤ人でした。9人のユダヤ人たちは、律法で決まっているささげものをするために、みんな神殿へ行ってしまいました。彼らにとっていやしは神のものであり、イエス様は唯の代理人に過ぎませんでした。しかしサマリヤ人はユダヤ人の神殿に入ることはできません。しかし、彼はこの喜び、感謝をどうしても伝えたくてイエス様のもとに駆け戻ってきたのです。そしてイエス様は帰ってこなかったユダヤ人たちを責めるようなおことばを言われました。なぜでしょう。
 神殿で捧げられるいけにえは、すべてイエス様を象徴しています。つまり、イエス様の仲介のゆえに私たちは神に受け入れられるのです。ユダヤ人たちはこの真理に対して目が開かれていませんでした。
 すべて、きよいものとされるにはイエス様の仲介によるしかありません。だからこそ、神は救い主をお一人に定められたのです。人は唯一の方に心を向け、そして心を一つにします。仲介者が何人もいたら、どうなるでしょうか。軽い気持ちで仲介者を扱い、そして結局すべてを失うでしょう。仲介者を唯一の方にされた神の知恵と、慮(おもんぱか)りに感謝します。唯一だからこそ、忍耐も、待つことも、時には願いに答えられないことがあっても、この方の重要性を感じれば当然と受け取ることができ、感謝できるのです。
 みなさんも、このイエス様にもっと自分を賭けてみませんか。必ずすばらしいことが待っています。

 

 

 

 

 

 
■2007年12月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   神色自若 しんしょくじじゃく  up 2007.12.2


平然と落ち着いて、顔色一つ変えない様子。


この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
(ヨハネ1:4)
 


 

 

 今日はみことばの「このいのちは人の光であった。」に焦点を当ててお話していきたいと思います。ここで記されている光は、安心をもたらす光であり、闇の中にいる私たちを安心させてくれるものです。
 冒頭の四字熟語にある「神色」は心の思いが表れること、「自若」は平然さと落ち着きを表していますが、そのように、周りの環境に左右されず、内側に与えられている安心、平安をもって、落ち着いてクリスチャン生活を全うしていきたいものですね。
 神を敬う良心の内に本当の自分があると確信していると、世の中にも影響されず、感情の動きに惑わされない人生を送ることができます。

『神が生きておられる』という福音
 ところで、このヨハネの福音書にあることばは、ずいぶん変わった言い方をしていますね。「この方にいのちがあった。」とは普通の人に対しては使いません。このことばは「神は生きておられる」ということを強調しているのです。当時のローマは多神教であり、多くの偶像の神がありました。しかし、そのローマの神々と、クリスチャンの信じる神との決定的な違い、それが「この方にいのちがあった」ことなのです。この神を信じ、義を貫き愛を貫いたクリスチャンたちは、他の人々からも尊敬されていました。
 「人の光」とは他に何とたとえることができるでしょうか。一つに「希望」があります。希望のある人は、目先の楽しみにのめり込むことはありません。目的のために、今思い通りにならなくても、希望のかたちに近づけるための最大限の努力を払います。苦しみを厭いません。希望の有無は光の有無、光の有無はいのちの有無に大きくかかわっています。そしていのちの根源なる神との触れ合いは、どんなに私たちに希望をもたらすことでしょう。

1.過去からの解放の力となる (第2コリント人への手紙5:17)
“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者で す。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”

 過去からの解放が十分ないと、神が生きておられることへの信頼が薄くなり、過去を断ち切れない、惰性的な生活に陥りやすいものです。しかし、歴史的にイエス・キリストが存在され、犠牲として死なれた事実は厳然としてそこにあります。これは永遠の証拠です。私たちは過去の遺跡を見ると、その頃の文明に思いを馳せるでしょう。それは確かに存在したのです。イエス様の十字架の贖いも確実に歴史に残され、成された約束も現在に至るまで続いています。
 「私の過去を処分してくださった神が今生きておられる」なら、その神にすべてゆだねて、前に進んでいこうではありませんか。時間を含めたすべてのものを造られた永遠無限の神様は、完全なる報いと償いを与えてくださいます。

2.今日を生きる力となる(使徒の働き23:1)
“パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日ま で、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」”

 「全くきよい良心」をもって神の前に生活することなど不可能と思う人は多くいます。神を畏れない人々の中で正しい良心を貫くのは難しいと。ではパウロの言う「全くきよい良心」とは何でしょうか。
 彼の姿勢の根本は「神は生きておられる」であり、共におられる神に対して、一瞬一瞬を全力投球することでした。イエス様と毎日一緒にいることを意識したら、私たちはどうするでしょうか。弟子たちはイエス様と共に暮らした間、野宿したり、食べ物がなくて麦の穂をもんで生麦を食べたり、決して楽な生活ではなかったのにとても幸せでした。そんなふうに自分の目前にいつもイエス様を置いた生活を歩みたいものですね。
 夫婦が共に歩む日々は、互いに不都合な時や場合があってもいつの間にか馴染み、さらにはもっと大きな喜びを重ねる内にそれらを消し去っていくものです。イエス様と共に歩むことも、これに似ています。「神が生きておられる」限り、今日を生きる力は与えられ続けていきます。

3.明日への希望の力となる(ローマ人への手紙15:4)
“昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。 それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるため なのです。”

 旧約聖書には、人間的には厳しすぎるように見える記述が多くあります。「神が生きておられる」ことに心を留めておかないと、失望してしまうかもしれません。例えば「聖絶」のものに関する記述で、多くの殺される命に、「なんてむごい神だろう」と感じられたことがありませんか。しかしこの「聖絶」とは神への良いささげ物であることを覚えてください。神はご自身の創られたものを、ご自身の手に返され、すべての責任を取られるのです。人の思う「虐殺」とは全く意味が異なることに注意してください。これは造り主の主権であり、私たちのあずかり知らぬ範囲のことなのです。
 このように、自分の立場をわきまえて、神を畏れかしこむ生き方こそ、「生きておられる神」を認めた生き方と言えるでしょう。

 私たちも、パウロのような生き方に見習って生きたいものです。皆さんもぜひ、こういう生き方を目指してください。

 

 

 

 

 
■2007年11月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   光彩陸離 こうさいりくり  up 2007.11.25


きらきらする光が乱れ交じって美しく輝くさま。まぶしいばかり、輝かしいこと。


あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
(詩篇119:105)
 


 

 

 みことばが内に輝く時、人は何をしたからでなく内からの輝きを持つことができます。「陸離」とは、光がまばゆくきらきらと交差して飛び交うようすを指した言葉ですが、今日は、皆さんが聖書を少しでも読んで、どこかの箇所が足のともしび、道の光としてきらきらと輝くために、ご一緒に学んでまいりたいと思います。
 光は、私たちの生活に欠かせない大切なものであり、かつ美しく心惹かれるものですが、みことばが光に例えられているのは、やはり大切で、心に大きな影響を与えるものだからです。

1.『足のともし火』
 足下を照らす火として、今は懐中電灯という便利なものがありますが、昔はたいまつや提灯がその役目を果たしていました。なぜ足下を照らす光が必要なのでしょうか。それは、足下にある障害物や危険から回避するためです。ではみことばが示す足下とは何でしょうか。現実的なもの、目の前にある状況がここに当てはまると言えます。この世は一寸先は闇だといいます。目の前にある危険を察知できれば回避しやすいでしょう。しかしともしびを持たずに歩けば、足下の危険に気づかず、転んだり怪我をしたりします。しかもそれは、安心している時に、突然やってくるものです。闇の世界であるこの世で危険があるのは当たり前ですが、ともしびなしで転んで、神様に愚痴不平を言わないためにも、ぜひ毎日聖書を通読してみてください。みことばは毎日、目の前の危険を教えてくれ、気づかせてくれます。罪を示されたり、誘惑されていることに気づかされたり、惑わされていることを知ったり、心が痛い時もあるかもしれませんが、受け止めてください。

2.『道の光』
 行く道の光は、目指している場所への道程を照らして、間違いなく着けるようにしてくれるものです。街灯などがそうですね。みことばは、魂の故郷である天の御国を指し示してくれます。また、これから歩んでいく将来の道筋をも教えてくれます。遠い光でも、ゴールが見えれば何とかしてたどり着こうとするものです。それに加えて道を照らす街灯まであるならなおさら安心ですね。目的地までの街灯に、足下を照らすともしびが加われば、鬼に金棒です。そのように、みことばが与えられている時の心強さを考えてみてください。
 皆さんそれぞれにあるはずの、足のともしび、道の光になるみことばは何でしょうか。

3.みことばを見つけ出す参考
A)教会モットーのみことば(第1ヨハネの手紙1:3)
“私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あ なたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交 わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”
 このみことばは、自分だけでなく教会メンバー全員のモットーとなるみことばです。このみことばが自分の内に光り輝くまで読み返し、黙想してみてください。

B)今年のモットーのみことば(エゼキエル書20:20)
“また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたと の間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知 れ。』と。”
 礼拝とは、世のしがらみを全部置き去りにして、神の家族としての霊的食事会をするようなものです。家族一緒にいることの安心感、喜びを味わいましょう。弟子ヨハネは、神を基とした正しい家族の交わりのすばらしさをここで言っています。今の世界は愛が本当に冷えていますが、私たちはそれとは違う、みことばが指し示す世界を求めているのです。

C)キリストを信じるに至ったみことば(ヨハネの福音書14:27)
“わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたに わたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が 与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。 恐れてはなりません。”
 私(辻師)はこのみことばでイエス・キリストを信じるに至りました。この世のものとは違う絶対の平安が欲しかったのです。このみことばでは、平安を残していくから、それはあげるよ。欲しい者には誰にでもあげるよ。自由に取っていいよ、という安心をくださっています。
 みなさんもご自分に示されたみことばがあると思いますが、そのみことばは一時的に必要なものではありません。大事に取っておいて、道の光、足のともしびとして持ち続けてください。

D)自分のモットーのみことば(第2コリント人への手紙11:2)
“というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思 っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとり の人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。”
 私(辻師)が牧師としての人生を送る中で、決して忘れない、モットーとしてのみことばです。
 他にも色々な場面でみことばはみなさんに語られています。みことばが自分の内で光彩陸離となるために、聖書をできるだけ読むようにし、「これがいいな」程度のレベルでない、あなたにとって手放せない、輝きを放つすばらしいみことばを見つけてください。この世のあらゆるものが邪魔をしてくるでしょう。しかし、絶対に負けないで、永遠に残る宝を見つけましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年11月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   暖衣飽食 だんいほうしょく  up 2007.11.18


暖かい衣服を着て、飽きるほど食べ物を食べることから、何不自由なくぜいたくに暮らすことを言う。


だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
(マタイ6:24)
 


 

 

 人は何不自由なく自由気ままに暮らしていても、教えがなければ動物と同じで、真の価値は発揮されていないものです。日本に暮らす私たちは、飽きるほど食べることもできれば好きな服を着ることもでき、経済的には富んだ状態だと言えるでしょう。しかし、豊かさが与えられているのには必ず理由があります。その理由を考えずに、自分の肉の思うままに暮らしていくなら、ハマルシア(的外れ)の罪を犯すことになります。今回の聖句を読めば、主人は一人しか選ぶことができないものとわかります。
 私たちは、自分に与えられている豊かさが自分だけのためのものかと、己に問いかける必要があるのではないでしょうか。豊かさを独り占めしているなら、富に仕えている状態ではありませんか。「神様は大事だが、お金なしには何もできないのが現実」と心の底で思っているなら、命のない道具である「お金」に仕えている状態とは言えませんか。お金あっての神なのか、神あってのお金なのか、どちらだと思われますか。

1.『富』のデメリット
A)富に望みをおいて高慢になる(第1テモテへの手紙6:17)
“この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、 たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべ ての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。”

 「命じなさい」ということばは、絶対に〜という強い気持ちの表れです。富は高ぶりをもたらし、神に望みを置かせなくします。経済力は人を従わせる力を持っています。ですから、富む者は自分を見失いやすいのです。自分が何者であるかをきちんとわきまえる必要があります。

B)神からの慰めが受けられない(ルカの福音書6:24)
“しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに 受けているからです。”

 富によって自分の心を慰め、励まし、満足を与えていこうとするとどうなるでしょう。本来人は、神との交わりのために造られました。ですから、神との交わり、人格的触れ合いなしには満足できるはずもないのです。しかし、お金で目先の欲望を埋めて、ごまかしていくことはできます。すると神様はもう要らないかのような錯覚に陥りますが、本当はちっとも埋まっていないし、満足もしていないのです。神は的確な判断力をもって、必要なものを必要な時に与えてくださいますが、富は「今すぐに、何でも、欲しいだけ」調達できるかわりに、忍耐も節制も生み出しません。

C)みことばの働きを妨げる(マタイの福音書13:22)
“また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心 づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人の ことです。”

 富に惑わされると、みことばを素直に受け取ることができません。「みことばはすばらしい。でも現実は違うんです。」と思っていませんか。私たちが成功を求めるのはなぜでしょうか。事業成功が最終目的なのではありません。その成功を通して、みことばが成就するのが最終目的です。でも、神様のために用いているはずの富が、主目的にすり替えられていることがあります。気づかないことも多く、みことばで指摘されても目をつぶってしまうことも多いのですが、これは恐ろしい結果をもたらすことになりかねません。

“金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(第1テモテへの手紙6:9,10)”

2.『富』のメリット
A)困っている人に施しをする(エペソ人への手紙4:28)
“盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困って いる人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほね おって働きなさい。”

 富には困っている人を助ける力があります。福音は貧しい人、罪人に対して宣べ伝えられました。初代教会も貧しい人、弱い人、困っている人を大事にしました。富は分け与えるために存在し、持っている人は困っている人を助けることができます。日本社会では貧しい人でも、他のもっと貧しい国では富んでいる人になります。たとえ十円でも余裕があるなら、その小さな富を生かして助けられる人が確かにいるのです。
 「困っている人に施しをするために…働く」このことばは何と、盗みをするほどの境遇にある人に向かって語られています。金持ちが施しをすればいい、ではなく、「自分にできる何か」を神様と相談して みてください。きっと何かがあるはずです。

B)惜しみなく施す心(第2コリント人への手紙8:2)
“苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜び は、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみな く施す富となったのです。”

 実のところ、富は自分のために存在するのではありません。富を持つ者は惜しみなく施す心になることができます。自分の中にある豊かさを見つけ出してください。罪赦されるとは何と大きなプレゼントでしょう。永遠のいのちは何という豊かさを内に抱えているのでしょう。今肉の手にある物理的な豊かさではなく、心の豊かさに目を留めて、もっと大事にしてください。それは惜しむ心を葬り去るでしょう。

3.神に仕える者(第1ヨハネの手紙3:17〜19)
“世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心 を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、 行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私 たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の 御前に心を安らかにされるのです。”

大事なのは金額などではありません。与える心です。クリスチャンの心には、イエス様の霊的遺伝子によって「与える」がいつもあります。そしてそれはどんな小さな助けでも「互いに愛し合う」という心の元に、惜しみなくなされるものなのです。
 皆さんお一人ひとりの身近な所から、気づいていったこと一つ一つに、できるだけのことをしてみてください。「行ないと真実をもって愛する」者になりたいという気持ちは誰にもあるはずです。たとえ日本の中では困っている人でも、他の国の人を助けることはできるという事実を、皆さんはどう受け止め、考えていかれますか。物的財産、知的財産、実行力などのいろんな「富」をフルに活用していけば、驚くほどの成果を上げることも可能です。自分で限界を決めずに、チャレンジしていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年11月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   優勝劣敗 ゆうしゅうれっぱい  up 2007.11.11


力が優れている者が勝ち、劣った者が敗れること。また、生存競争で、強い者や環境に適したものが栄え、弱い者や環境に適さないものが滅びること。


世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
(第1ヨハネ5:5)
 


 

 

 今、世にあるものすべてが信じにくい状況が起こっています。食べ物の日付偽装に始まって、数え上げれば枚挙にいとまがありません。そんな中で、もっと他の人に真実を感じてもらえるような生き方を、クリスチャンはするべきではないでしょうか。
 勝者と敗者では誰も勝者になりたいと望みます。そして、一見弱い者の集団に見えるクリスチャンが『世に勝つ者』と言われているからには、世の中よりも優れたものがあるということになります。それは何なのでしょうか。

氈D『世に勝つ』とは?
(エペソ人への手紙2:1〜3)
“あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころ は、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支 配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいま した。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の 欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、 生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”

 本当の勝敗は神の目からご覧になってどうか、で決まります。そして、「罪過と罪の中に死んでいる」状態は神の御前には「負け」であり、「イエスを神の御子と信じる」ことによってよみがえった者たちは、神の御前には「勝ち」と言えます。これは能力や才能によりません。人を愛することにおいて、神に用いられているかどうかが生死の分かれ目なのです。
 人を愛することは、人を赦すことでもあります。イエス様に多く赦された人は、多く赦すことができます。皆さんも、自分がどれほど神に赦されているのかをよく知ってください。そうすれば今まで赦すことができないと思っていたことでも、赦すことができるようになります。もっときよい生き方をしたい、不従順の霊に従いたくない、神の御霊に従いたい、と、イエス様を愛する者なら誰でもそう願うはずです。 世の中での成功にこだわるなら、私たちは勝利の本質を見失うことになる可能性が高いでしょう。それとは全く違う神の目にかなう生き方に目を留めていきましょう。良心に目覚め、神を知らずに生きていた頃と違う、神を敬う正しい生活を求めて生きましょう。それが世に勝つことです。

2.世に勝つことを望んでいるか
(ヘブル人への手紙5;7)
“キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うこ とのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願い をささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。”

 完全無欠の偉大な神の御子が叫びと涙を持たれた理由を考えてみましょう。イエス様が人として生きておられた頃、完全な生き方に徹するために、多くの迫害を受けられました。イエス様も中傷や誹謗に心傷つき、涙を流されたのです。また、いやしても救ってもまだまだ多くの傷つき、病んだ者がおり、弟子たちは未完成であり、彼らの行く末を思えば、叫びと涙を持ってとりなさずにはいられなかったのです。無限の神であられるイエス様が入られた人の器は余りにも小さく、限界がありすぎたのです。
 叫びは切望する心の大きさを表し、涙はへりくだりと、心砕かれたことをあかしするものです。
 皆さんは涙するほどの切なる祈りを捧げたことがおありでしょうか。その祈りは神への敬虔さを表し、御座に届くでしょう。

3.勝利はイエスを神の子と信じること
(ピリピ人への手紙2:9)
“それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名を お与えになりました。”

 力ある神の御名を使う自分は罪人であるち事実をわきまえてください。イエスの名によってサタンに立ち向かう時、サタンは「おまえは罪人だ。私とどこが違う? 私が従う理由などない。」と、私たちの罪を責めてくるでしょう。しかし、ここに彼の偽りがあります。真理は「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し…(マルコの福音書16:17)」と言っています。信じる者、すなわち、行いが伴ってなくても、思いが完全にきよくなくても、イエスを神の子と信じる者には御名を行使する権利があるのです。ですから、正当な権利は要求し続けてください。ついには悪魔があきらめて退くまで。
 イエス様は罪の全く無い方であり、悪魔が反論する余地がなかったので、イエス様の命令には即時従いましたが、私たちには付け入る隙があちらこちらにあります。しかし、だからこそ御名を使う時に謙虚な心になれるのではないでしょうか。イエス様の「おかげ」を忘れないようにしましょう。
 神への敬虔な姿勢を最低限の「世に対する勝利」として、私たちみなが持つようにしたいものですね。

 

 

 

 

 

 
■2007年11月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   本立而道生 もとたちてみちしょうず  up 2007.11.4


根本がしっかりとできあがると、自然に仁道は生じてくる。


あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
(コロサイ3:17)
 


 

 

 今週は、コロサイ人への手紙3章17節から、(1)すべて主イエスの名によってなす(2)主によって父なる神に感謝する、という2点を学んでいきましょう。
 今回の熟語は孔子が語った言葉です。意味は「根をしっかりと張ると自然に仁道(人を重んじあわれむ心)が生じてくる」ということです。私たちの根本は「イエス・キリストに対する信仰」です。この心をしっかり保つため、根本を建て上げるためのみことばがコロサイ人への手紙3章17節であり、この根本がしっかりと築かれていくならクリスチャンの仁道である「自分を愛するように隣り人を愛する」という気持ちが自然に湧いてきます。これは努力ではなく、自然に湧き上がってくるものです。

1.主の名によってなすことが根本(使徒の働き4:12)
“この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの 御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名 も、人間に与えられていないからです。”

 どの宗教の教えも、自分の罪のためには修行して、自分で解決していくということを教えます。しかし法律的に考えてみても、違反してしまった後いくら今度は違反しないようにと努力をしたところで、以前犯した違反が帳消しになるわけがありません。違反してしまった事に対しては、その裁きを受けないとなりません。スピード違反をしてしまってから、今度はしないようにやり直させてくださいと言っても、警察は赦してくれません。犯した違反に対しては、裁きを受けないと解決はされません。
 同様に神に対して罪を犯したら、やり直すことで犯した罪がなくなるということはあり得ません。裁きを受けないといけません。この裁きは自分で自分に課すものでなく、法律や律法をつくった権威者から与えられるものですそれは、人が罪を犯した場合、人の力でそれを償うことはできないということです。私たちの罪を裁くのは神です。しかし、他の宗教の教えでは、罪の処分について考えられていません。聖書のみに、罪の処分の方法が具体的に書かれています。私たちの罪を身代わりに負い、処分された唯一のお方がイエス・キリストです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言われているのは、ただイエス様だけが、私たちの罪を代わりに受けてくださり、処分してくださったからです。実に私たちは、イエス様のおかげで、罪赦されて救われたのです。これが土台です。その土台にしっかり根ざしていると、自然に私たちの心に隣人への愛が湧いてきます。
 イエス様の身代わりがあったからこそ、今の自分がある。すべてはイエス様のおかげであるということを知り、すべてを主の名によってなすなら、私たちの心はへりくだり、おのずと仁道の道を歩めるようになってきます。

2.主によって父なる神に感謝する根本(ヨシュア記4:5〜7)
“ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたの神、主の契約の箱の前に立って行き、ヨルダンの中に進み入り、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、おのおの石一つを取り上げ、肩にのせて運びなさい。これはあなたがたのうちに、しるしとなるであろう。後の日になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石は、どうしたわけですか』と問うならば、その時あなたがたは彼らに、むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたことを告げなければならない。こうして、それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」。”

 なぜ石を積み上げたのでしょう。それは体験した本人たちの子孫たちがその石を見て、いつまでも神様のわざを忘れず、感謝するようになるためです。神様のおかげだというしるしを、全人類に、神は歴史上の事実として与えられました。それがイエス・キリストの十字架刑です。ローマの法律による最も重い罪の裁きとしての十字架刑です。私たちの罪を負ってくださったという、このしるしである十字架を見る度に、私たちは神への感謝の心が湧き上がってきます。この十字架を見る度に、敬虔な心が戻ってきて、正しい良心の力が湧いてきます。十字架を目の前に思い浮かべることで、高慢な心や苛立ちを静めることができます。クリスチャン生活が長くなるほど、神がしてくださった救いのみわざである十字架をしっかりと心に刻み、この十字架を思い描いて歩むことが大切になってきます。そして黙想していく時に、その感謝の心は深まってきます。B)の「感謝の心はどのように生じてくるのでしょう。」という答えはそこにあります。
 世の中の人はどうして神に感謝しないのでしょう。それは、神がどんなことを自分にしてくださっているかを知らないからです。そして知ろうともしないからです。クリスチャンも、神が自分に何をしてくださったかを自分なりに考え、具体的に実感していかなかったら、表面的な感謝しかできず、心からの感謝は湧いてきません。私たちは過去の出来事を思い巡らすと、感情が湧いてくるものです。同様に十字架を思い巡らすことによって、私たちの内に感謝が湧いてきます。感謝は正しい良心から湧いてくるものであって、自己中心的な欲望の心からは湧いてきません。そしてどのような苦しみの中にあっても「神様のおかげ」という感謝の心が湧いてくると、その苦しみは愚痴不平にはなりません。こういう感謝の心を、毎日のクリスチャン生活にしっかりと根ざしていくなら、アガペの愛が生まれてきます。

3.「おかげ」が隣人愛を生み出す(第1コリント人への手紙15:10)
“ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、 私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての 使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私に ある神の恵みです。”

 パウロにとって「おかげ」は「神の恵み」でした。どんな苦しみ、試練を通っても、パウロはそこに「神の恵み=おかげ」を感じたのです。あわれみを受けた人は、人をあわれむことができ、隣人を愛するという行動に移っていきます。あわれまれたのに人をあわれまない人は、正しくあわれみを受け取っていないからです。いくら恵みを受けても、人に対して恵みを与えられない人は、口先で「おかげです」と言っているだけで、自己中心の心から離れられない人です。神の恵みを深く感じることに比例して、人は隣人を愛することができるようになってきます。マケドニヤの教会の人々は大変貧しく、貧しさゆえに差別されてきました。しかし「神のおかげ」ということを福音によって示された時に、迫害を受けているエルサレムの教会の人々を何とか助けたいという心が湧き上がり、貧しい中からも様々な贈り物をしました。貧しい中にあっても豊かな心を持つ幸いを彼らは体験したのです。クリスチャンだけでなく、良心の目覚めている人々は、このような愛を持つことができます。
 イエス様は私たちにすばらしい救いの恵みを与えてくださいました。その大きな恵みを知っていながら、自分だけで恵みを独り占めしようとしているなら、それはおかしなことです。イエス様はすべての人のために、平等に救いの恵みを与えてくださいました。すべての農民が水不足に悩まされないように、すべての田んぼに平等に水が行くよう、水路を築いた加納という人が、昔、私の里にいました。人々はその人に感謝して加納神社をつくり、今も年に一回、感謝の心を表す祭りを行っています。そのように人の心は、恩を受けたら恩を返したいと願うものです。「おかげ」を忘れてしまうと、人は利己主義に陥ってしまいます。私たちもイエス様のおかげであるということを忘れず、感謝の心を神に捧げていきましょう。そうすれば人々への愛も自然に湧いてきます。