■2007年10月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   赤心慶福 せきしんけいふく  up 2007.10.28


偽りのない心やまごころをもって、人々の幸せを考えること。


あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
(コロサイ3:17)
 


 

 

 これは四字熟語ではなく、二つの熟語が合わせられたものです。
   「赤心」…隠しどころのない心、まごころ
   「慶福」…幸せ、慶び、おめでたいこと
 私の出身地三重県特産の、創業300年の老舗の「赤福」が、30数年前から賞味期限を偽っていたニュースが流れたかと思えば、秋田では別の所の鶏を使って「比内鶏」のブランド名だけ借りて売り出していたり、さらには別の設計士による耐震偽造が発覚したり…信頼して使ったり食べたりしているものに不安をもたらすような出来事が起こっています。
 赤福餅は、「偽りのない心やまごころをもって、人々の幸せを願って」と名付けられましたが、私たちクリスチャン人生の考え方も、律法に記された「自分を愛するように隣り人を愛しなさい。」という大切なポイントと同じであり、クリスチャンこそ「赤福」ではないでしょうか。そして「イエスの名によってする」ことと「赤心慶福」は、同じ事を表していると考えました。
 なぜイエスの名によってすべてのことをするように勧められるのでしょうか。それは偽りのない心で、人の幸せを考えてコミュニケーション作りをし、社会を作っていくことが神の御心だと聖書に教えられているからです。イエスの名によってするということは、システム的に何でもイエスの名を唱えるということではなく、神を畏れる心を思い起こさせ、名前を通して良心的な生き方を意識し、神の前にすべて生きていることを思い起こさせる役割があります。欲望にとらわれた心に惑わされることのないようにしていただきたいと思います。

1.無くならない欺きと偽り(第2テサロニケ人への手紙2:9〜12)
“不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽り の力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対する あらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるため に真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが 偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を 信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”

 神を敬う人々への、全能者、主権者としての神の立場からの表現です。
 どうしてこの世界から欺きと偽りがなくならず、むしろ増え広がるようになっているのでしょうか。一つはサタンの働きによると書かれています。滅びる人たちとは不敬虔な人々を言い、その人たちは救われるための真理への愛−私たちを罪の裁きから救うキリストを通して語られた真理のことばを受け入れず、かたくなな心を持っています。それゆえ神は彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれた、というのです。それは彼らが裁かれるためです。−これは神の厳しい面からのことばです。イエス・キリストによってすべての人は信じていてもいなくても赦されています。安易に受け止める人は「何をしてもよい」と解釈します。神はサタンの働きを通して、敬虔な人と不敬虔な人を明らかに分けられます。逆に私たちの働きもこの地上において、神を敬う人々の心をはっきりさせていきます。 神を敬う者は、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」−行いにおいて100%救われることはできず、神の恵みによって救われるしかないという敬虔な心を持った人の行いが不完全だからといって救われないのは神のみこころではありません。そういう人が救われるために、神はイエス・キリストをお遣わしになったのです。敬虔に生きる人が永遠の滅びに行かないためです。彼らはクリスチャンを見て励まされるのです。敬虔に生きることは大切だと…。しかし、不敬虔な人は見えないサタンの働きによってますます欲望のとりこになり、心をかたくなにして神から離れていき、キリストを信じない人として確立されていきます。
 こうしてこの世が羊と山羊にはっきり分けられていくというのが神様のお考えです。中途半端な人をなくし、裁きがはっきりと行われるためです。誰が見ても明らかにこの人の心は敬虔に変わる余地がないと分かるようにされます。黙示録にも、世の終わりには敬虔に生きる人とそうでない人とはっきりと分かれていくと書かれています。行いによってではなく、神に対する姿勢(敬虔か不敬虔か)で、神は善か悪かを判断されます。
 行いによって100%神の御教えを守ることはできないと、世界の人々は知っており、だから宗教があり、救いを求めてきました。そしてその願いに神は応えて、ユダヤのエルサレムに証しをおかれ、二千年前に救い主が誕生されました。ユダヤ教徒でない、東方の博士たちに神の計画がはっきり示され、占いによって「この方こそ救い主だ」とプレゼントを持って来ました。神はイスラエル人を選ばれ、救い主イエス・キリストを遣わされ、乙女マリアからの人生の歩みをすることを計画されたのです。
 毎日敬虔な心と不敬虔な心が入り混じった心の状態が起こっているでしょう。だからこそ「イエスの名によってしなさい。」とパウロは言っています。敬虔に生きることに意識をし、神の前に正しい良心をもって自分の人生を進めていくようにと。人々はあなたの敬虔な生き方を見て、希望があり救いがあることを認めていくことでしょう。
 イエス・キリストのブランド名がついている人が救われるのではなく、イエスの名によってすべてのことを敬虔に成し遂げようとする人を、神は大事にしたいと願っておられます。その人は失敗した時に悔い改めますが、不敬虔な人は改めようとしません。
 「いのちに傷をつける」とは罪を犯すことであり、その傷をいやすのは悔い改めることです。神は悔い改めを通していのちに傷がついたのをいやしてくださいます。不敬虔な人はいのちの大切さを顧みず、欲望を満たすことに虜になり、彼らが偽りを信じるように、神は惑わす力を送り込まれるとは恐ろしいことです。
 しかし敬虔な人は惑わされません。これはまわりに関係なく、あなたが自分のいのちをどう大事にするかという生き方の問題です。敬虔な人は神が与えてくださったいのちを傷つけないように、大事にしようと心がけます。また罪でないと思っていたことが「神に喜ばれないことだ」と気づいたときから、少しずつ離れていこうという気持ちを持っていきます。
 またクリスチャン生活は救われたままの状態でいるはずはなく、敬虔な心が良いことを悟っていき、自然によい生活へと変えられていきます。この世が暗くなってもあなたは世の光としてその敬虔さが輝きます。それほど大事なあなたの人生であり、多数決に動かされないようにしてください。

2.神に選ばれていたしるし(第2テサロニケ人への手紙2:13〜14)
“しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝 しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊に よる聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救 いにお選びになったからです。ですから神は、私たちの福音によっ てあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させ てくださったのです。”

 そのしるしは御霊による聖めと、真理による信仰ということばで表されています。福音(神の良き訪れのことば)のことです。良心的歩みをしたいと無意識に良心に根付いている正義、良いものへの関心を持っていることが選ばれているしるしです。神に選ばれていることを明らかにするため、福音は地上にもたらされました。聖さを求め、悪に心を痛めている人を神が選ばれたのです。今の心の状態が神に選ばれた証しと知ったならば、感謝なことです。
 ただ、選びは自動的な救いではありません。選ばれても本人が受け止めなければ、無駄になってしまいます。仮に「選ばれました」とダイレクトメールが届いても、応答するかどうかは本人の判断によります。言葉についていけばその通りのものを手にしますが、信じなければ手にすることはできません。正しい良心に神が働きかけて選びを証ししておられても、応答しない人がこの世には多くいます。神の前に良心的に生きることは損だと、欲望中心の不敬虔な世界に心がとらわれてしまっている人は、そこで惑わされてはいけません。惑わしの力によって、神に裁かれる者に確定されてしまいます。真理のことばを聞いて、私は神に選ばれた者だと神のことばに重きを置いて選び取っていく時、あなたは永遠のいのちに至ります。
 どちらを選んでいくかを地上にチャンスが与えられている時に、人は判断しなければなりません。神はサタンとクリスチャンの働きを通して敬虔な者、不敬虔な者をさらにはっきりと分けていかれます。
 クリスチャンも不敬虔の者の為の惑わしの力に引きずり込まれないように気を付けなければなりません。

 

 

 

 

 

 
■2007年10月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   求平安 ごんぐへいあん  up 2007.10.21


すべての人との平和を喜んで求めること。


そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
(ローマ14:19)
 


 

 

 今回のみことばにある「追い求める」ということばは、あたかも迫害する者のごとく、目的のものが手に入るまで強く追い求める、という意味を持っています。また、題字に示されている「すべての人」とは、家族や兄弟姉妹にかかわらず、正に全世界の人々を指しています。
たましいの平和、平安、安心を得たいのに、実現は難しいものです。だからこそ追い求める価値があるのではないでしょうか。

1.イエス様のことばによって(ヨハネの福音書16:33)
“わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患 難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。”
イエス様のことばは私たちに平安をくださいます。地上だけに心を留めず、永遠に目を向けた時、イエス様のおことば(約束)は絶対の保証となり、安心をもたらすのです。

A)主権者のことばはどうして安心をもたらすのでしょう。(ルカの福音書7:50)
“しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救っ たのです。安心して行きなさい。」”
この女は罪深い生活を自ら知りながらも、開き直るしかない状況だったのでしょう。しかし、イエス様の行状を見聞きして、昔聞いた聖書の内容を思い出すなら、自分の未来を不安に感じます。不安を取り除くには、当のイエス様からの赦ししかありません。
私たちの場合はお互いに罪人同士、神様からの赦しを得た者です。自分を知れば、人を赦すことができます。
B)どのようなイエス様のことばによって安心があたえられましたか。
 イエス様のみことばを探してください。過去にどんなことばが、今どんなことばがあなたを助けてくださいましたか? そしてこれからはどんなみことばが必要になるのでしょうか。

2.善を行うことによって(ローマ人への手紙2:10)
“栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。”

A)『善』について考えてみましょう(ローマ人への手紙14:23)
“しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないこと は、みな罪です。”
 神様の前につながる善とは何でしょう。善は安心して行うことができるものですね。信仰から出ているものでもあります。キリスト・イエスを信じる信頼の心から出たものは何でも、神に喜ばれています。「私の罪のため、身代わりに死なれたイエス様。私はこの方によって赦され、生きている。」と常にへりくだった心でしていることはすべて、神に喜ばれるのです。
B)身近な生活の中での善行を考え、実行してみましょう。
 相手がたとえ悪い反応をしていても、自分が同じ罪人であることを常に念頭に置いていれば、責める気持ちや不満は出ないはずです。良い行いは人目につくものである必要はありません。思いやる心から来る小さな親切はすべて善行です。自分の得や楽を前提としてないか、心を観察してみてください。

3.御霊による思い(ローマ人への手紙8:6)
“肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。”
 『死』は神の御前に役に立たないこと、を指しています。御霊による思いはその反対であり、神の前に役立つものです。

A)御霊による思い(ローマ人への手紙9:1)
“私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。”
 良心と聖霊の関係を考え、たましいの平安を味わってみましょう。
良心と御霊とはつながりがあります。不敬虔な人は神を敬う心を持つものすべてに無関心です。
 御霊は神のことばです。いのちであり霊です。神のことばを朗読するなど、目に耳に神を感じるように、心まで届くように、あらゆる努力をしていきましょう。初代教会では毎回朗読があり、パウロも朗読を勧めています。たとえ「試みる者」がやって来たとしても、みことばは光ですから、それを告白する者に悪い者は近づくことができません。朗読は口による告白です。みことばは自分の霊と共に働いて、偉大なご自身の力を表してくださいます。心は平安になります。
 またみことばはいろんな時と場合に応じて、働かれる箇所があります。自分が苦しい時や悲しい時、喜んでいる時や楽しんでいる時、皆さんそれぞれ思われることは違うはずです。自分に合ったみことばを探してください。「こんな場合はこのみことば」と、用意しておくことは大事です。皆さんが各々に合ったみことばを得て、平安を得られるように願っています。

 

 

 

 

 

 
■2007年10月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   忠言逆耳 ちゅうげんぎゃくじ  up 2007.10.14


真心のこもった率直な忠告は、聞くほうにとっては気分の良いものではないが、必ず身のためになると言うこと。


こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
(第1テサロニケ2:13)
 


 

 

 テサロニケの教会では、パウロの語ったことばを神のことばとしてしっかりと謙虚に受けとめました。模範的な教会と言われるまでにこの教会の人々が成長した秘訣は、「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」ということばに表されています。重要なことは、「みことばを行う」という努力の前に「信じる」という努力が必要だということです。信じなければ、みことばは働くことができません。例えるならば、私たちは車で、エンジンが神様です。エンジンの働きを信仰というベルトで伝えなければ、車は動くことができません。私たちは、自分で変わろうと努力しても、なかなか変わることができません。しかし、みことばが内に働いてくださるのです。そのみことばが私を変えてくださると信じ続けているならば、みことばが働いて、あなたを変えてくださるのです。
「信じる」ということに心を向けましょう。
 どんなに真心がこもった忠告でも、聞いた時は気持ちが固くなってしまいます。「忠言逆耳」とは孔子が語ったもので、彼の語ったことば「良薬口に苦し」に続く言葉です。良い薬ほど苦みがあるように、忠告はどのように語られても、痛いものです。私たちに効き目のあることばや教えほど、心に痛いものであるようです。

1.口に甘く、腹に苦い(ヨハネの黙示録10:10)
“そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。す ると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、 私の腹は苦くなった。”

 黙示録は、ヨハネが百歳くらいの時に、口述筆記によって書かれました。彼は長老の中の長老であり、すばらしい霊的な傑出した人物でした。その彼が「口に甘く、腹に苦い」と感じたのはどういうことなのでしょうか。

A)『口に甘い』とはどういうことでしょう。(ルカの福音書6:45)
“良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉か ら悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話 すからです。”
 口と心は深いつながりがあり、心の状態を表現するのが舌です。舌が心の表現であることばを発します。また、舌は味覚を感じることができます。口に甘いとは、受け入れやすいということを表しています。心にある倉が良い倉か、悪い倉かで、この受け入れやすいという甘さの意味は違ってきます。ヨハネにとって、口にした神のみことばは甘く感じられました。それは良い倉=良い心を持っていたので、神のことばを甘いと感じ、受け入れたいと感じたのです。
彼の心が敬虔な良い倉であったために、神のことばは甘く感じられました。良い倉とは肯定的な信仰的な倉です。良い倉の心の人が苦いと感じる言葉は、良くないことばということになります。逆に悪い倉であって、口に甘いというのはどういうことばでしょう。悪い倉とは、否定的で不信仰な負の倉です。そういう倉にとって受け入れたいと感じさせる甘いことばとは、否定的な不信仰なことばです。
B)『腹に苦い』とはどういうことでしょう。(ローマ人への手紙16:18)
“そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に 仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことば をもって純朴な人たちの心をだましているのです。”

 自分の欲の「欲」とは「腹」のことです。この時代、欲望の中心は腹と考えられていました。特にここでは不健全な貪欲を表しています。それは神のことばより、腹を満たしたいと願う強い欲望です。欲望に苦いとは、受け入れたくないものであり、それは神のことばです。神のことばを欲望は受け入れません。なぜならみことばは自制を求めるからです。さらに忍耐も要求されます。ヨハネにとって、みことばは「口に甘く腹に苦い」ものでした。神のみことばは、これを見分けるのです。つまり、あなたの心が神につながっているか、腹=欲につながっているかです。
 みことばが甘いと感じるなら、あなたの心は神につながっていますが、苦く感じるなら、どこかで欲望につながってしまっているということです。そして気づいたなら正すことができます。もし、受け入れたくないという感情がくるなら、どこで悪い倉につながっているかを考え、良い倉、良い心につながるようにしましょう。人の心にはどちらの倉もあります。しかし良い倉から出すなら良い人となることができます。悪い倉とつながって、悪いものを出さないようにしましょう。

2.罪の働きを明らかにする(ローマ人への手紙7:8)
“しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさ ぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。”
 戒めや忠告などがない時は平安でいられます。しかし、戒め、忠告などがくると、反抗心が湧いてきたり、嫌な感情が湧いてこないでしょうか。
 欲望を節制するようなみことばが来ると、私たちの内に眠っていた罪が出てきて、その神のいのちに導くはずのみことばを利用して、刃向かわせるという働きが現れます。罪がそういう状況を引き起こし、まるであなた自身がそのように行っているかのように、欺きを与えるのです。罪自身がしていることを、まるであなた自身の心がしているかのように欺くのです。
 クリスチャンは既に罪赦され、神の支配の中に入れられているのに、どうして怒ったり、妬んだり、自己嫌悪に陥ったり、マイナスの反応をしてしまうのでしょうか。それは罪が宿っていて、罪がそのように姿を現すからです。罪とあなたをはっきりと分けるために、神のみことばは、罪をはっきりさせて、あなたの心と切り離すために働きます。もし悪い倉から悪いものがあなたの中に出てきても、それはあなた自身ではなく、罪が反応させたのだと、客観的に見るようにしましょう。感情に流されないようにしましょう。みことばは、私たちが罪と一緒にならないよう、引き離すため、感情を揺さぶられます。
 みことばからくるメッセージを聞いていて、何か心に負のものがくるように感じるなら、それがどこから来ているのかを調べ、罪と自分をしっかり切り離すようにしましょう。苛立たせるのは罪の反応です。切り離せないのは、罪と同調し、欲から離れたくないからです。苛立ちや怒り、反抗心は起こりうることです。それは罪があなたを欺いているのです。みことばにより、自分の心を整理してゆくなら、悪い倉から悪いものを取り出すことがなくなります。心を良く吟味してみましょう。

3.たましいを救う(ヤコブの手紙1:21)
“ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけら れたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたが たのたましいを救うことができます。”

救いとは一般的に魂に安心を与えることです。安心できない所から安心できる所に移されることです。みことばはこの救いをあなたにもたらします。
参考:ルカの福音書5:20
“彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」 と言われた。”
 イエス様は、病人の信仰でなく、彼を連れて来た友人たちの信仰を見ていやされています。そこから、この病人はとても否定的であり、悪い倉の状態であったことがうががえます。彼は絶望的であり、否定的でした。それは不安を押さえ込むための反応であったのではないでしょうか。それゆえイエス様は、この病人に「友よ。あなたの罪は赦されました。」とやさしく語られたのです。ユダヤの人々は、病気になることは、罪の呪いのせいだと信じていたので、このみことばは大変重要でした。また、罪を赦すことができるのは神様しかおられないのですから、ここでイエス様はご自身の神性を表しておられます。
 魂に安心をもたらすためにみことばは語られます。魂の安心を妨げているのが罪です。このことにすべての人が気づくなら、このイエス様のことば「あなたの罪は赦されました」がいかにすばらしいみことばかがわかります。今日、もしあなたの心に平安がなく、自分はダメだと断定しているなら、イエス様の十字架をもう一度見上げましょう。たとえあなたが自分を赦せなくても、神はあなたを赦しておられます。これは歴史に刻まれた、永遠に変わらない事実です。罪と自分を切り離しましょう。  神のみことばは、2つの方向性をもっています。それは「神を愛すること」と「隣り人を愛すること」です。この2つがゴールです。
みことばを信じてつながるなら、みことばはあなたをつくり変えます。あなたが心を使うことは「つながる」ということです。あとはみことばが働きかけてくださいます。
 みことばの力に信頼して、しっかりと歩みましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年10月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   品行方正 ひんこうほうせい  up 2007.10.7


行いがきちんとしていて正しいこと。。


また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
(コロサイ1:10)
 


 

 

 コロサイ人への手紙1章10節には、コロサイの教会の人々がさらに成長してほしいという、指導者であるパウロの気持ちが、祈り心として表されています。今日はこの『あらゆる善行のうちに実を結ぶ』私たちがどのような実を結ぶかを考えていきましょう。

1.実を結ぶために(ヨハネの福音書15:4〜5)
“わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまりま す。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶこと ができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなけれ ば、実を結ぶことはできません。
 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどま り、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多く の実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることが できないからです。”

 『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。』
 幹から直接ぶどうの実がなっているのは見たことがありません。なぜ枝からしか実がならないのでしょう。不思議に思われませんか。人となられた神、幹であるキリストから、枝という私たちがつながって、その枝に実がなる。神は人を通して実を結ばせるということを啓示しています。

A)私たちはぶどうの木の枝です。(ヤコブの手紙3:12)
“私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどう の木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることで しょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。”
 私たちはキリストの木です。キリストという幹につながった枝です。イエス様の木はどんな実を結ぶのでしょうか。私たちがキリストにつながるクリスチャンを選んだのなら、世の中の人々が神以外の何かにつながって結果を出したとしても、比較してうらやむ必要はないのです。

B)ぶどうの木についている枝(第1コリント人への手紙6:17)
“しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。”
 幹と枝は一体です。一体となるためにはしっかりとつながっているという関係を持つことです。それは交わるという意味です。
 私たちには、育ってきた習慣によって、悪い感情、妬み、嫉妬、怒り、色々なものを内側に見ることができます。それも一つの実であって、死に至らせる実です。そのように神に喜ばれない実もありますが、それとは別に、御霊の実を結ぶことができる救いを与えられました。ということは、私たちの悪い性格が消えてしまうわけではないということです。私たちがキリストの幹につながった枝であるということに集中する。そして、御霊の九つの実を結ぶことを願って、主と交わって一つ霊となっていけば、神が喜ばれる実を結ぶことが増えていくということです。私の家に柿の木があります。去年はたくさんの実がなったのですが、まだ青く小さい時期に、虫が葉を一枚残らず食べてしまいました。残っていた実もポトポトと落ちて、結局一個も収穫することができませんでした。今年は見事に葉が繁り、虫もつかずに夏の間青々と繁り続けました。ところが、何と一粒も実がなりません。しかし、今年実がならないからといって、来年もならないとは限りません。来年がダメなら再来年、なぜならその木は実をならせる木だからです。あなたのクリスチャン生活の中で、今九つの実をならせていないかもしれませんが、あなたはぶどうの木です。幹につながっている以上、ぶどうの木はぶどうの実を実らせるのです。
 そして、なぜイエス様がたとえにぶどうの木を選ばれたのか。もう一つのポイントです。ぶどうは房という単位で、複数の実が一つの塊となって実っています。御霊の実は一つの房として九つ同時に実っていきます。それはつながるというポイント一つで決まります。具体的に交流、交わるとはどういうことでしょう。神は霊です。またイエス様は「わたしが話したことばは霊であり、いのちである」と言われました。そしてことばは神であったとも書いてあります。そのことばを文字としてではなく、神様のお気持ち、お考えを探っていく、それも祈りの一つです。祈りの中で黙想することは基本的な一つの交わりです。

C)主と交わることによって結ばれる実(ガラテヤ人への手紙5:22〜23)
“しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。”
 神様は、できないと私たちを責めるために言われたのではありません。私たちがキリストにつながったぶどうの木であるならば、御霊の実を結ぶことができると紹介してくださったのです。
 不思議にこの「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の九つの実は、外側に現れてくる前の、心の内側の実です。特に欲望の中に結ばれる実ではなく、正しい健全な良心の中に結ばれる実です。神様があなたとキリストを出会わされて、キリストの枝とされたのは、御霊の九つの実を実らせたいからです。『あらゆる善行のうちに実を結び』善行という行いは、この九つの良い実から出てくるというところに、神様は目を向けておられます。
 あなたはぶどうの木です。 もしこの九つの実を結びたいのなら、イエス様につながれば自然に実っていくものです。ヨハネの福音書15章4〜5節の「実を結ばせる」というみことばは、つながるという所にポイントを置かれています。実を実らせようと実に集中するのではなく、幹につながることに集中することが大切だということです。私たちの努力するべき点は、幹であるイエス様にしっかりと留まる、つながっているということです。

2.注意点
A)ローマ人への手紙7:5
“私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちの からだの中に働いていて、死のために実を結びました。”
 肉にあった時というのは、クリスチャンになる以前のことを言っていますが、過去に戻ってしまうなら、同じように死のための実を結ぶ結果が出ることを暗示しています。私たちは油断すると死のために実を結ぶ状況が起こりうるということ。しっかりと幹であるキリストに留まる、つながることに意識を向けて行きましょう。

B)第1コリント人への手紙5:33
“思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこ なわれます。”
 友だちとは親しい交流を持ちます。御霊の実を結ぶことを妨げる友だちに気をつけましょう。私たちは選ぶことのできる自由を与えられています。
 私には、クリスチャンになる以前の悪習慣や環境によって形作られた性質も同時にあります。ですから『変わっていない』『ダメ』なのではなく、小さな変化が最後には大きなすばらしい結果を生み出す大収穫を望み見ること。そして実りのために忍耐強くぶどうの木であるイエス様にしっかりとつながるということを、みことばを読みながら体得していきましょう。
 神様はことばとして私たちの内にも生きておられます。そのことばには力がありますから、あなたを変えることができます。そのようにして、さらに深く、主なる神、全能者なる神、創造主なる神をぜひ知っていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 
■2007年9月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   滅私奉公 めっしほうこう  up 2007.9.30


自分のことは投げ捨てて、公のために尽くすこと。個人を犠牲にして、国家や社会に尽くすこと。


私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
(第2テモテ1:3)
 


 

 

 今日は「神に仕える」ということに焦点を絞ってみましょう。 テモテはパウロの片腕となる弟子、若い伝道者でした。さまざまな訓練の後、パウロはあるひとつの教会をテモテに任せて、次の旅へと出かけました。遠く離れる中、パウロはテモテのことを思い出すとき、いつも神に感謝しているというのです。私たちが祈るとき、心の中に浮かぶのは果たして感謝でしょうか、それとも思い煩いや葛藤でしょうか。心配ごとが先に出てきて、感謝があと回しになることが多いのではないでしょうか。パウロは、きよい良心をもって神に仕えていたので、感謝することを優先していました。若い弟子であるテモテについて、色々な心配ごとがあったことでしょう。しかしパウロは、「私が教えたように祈って指導しているだろう。テモテは忠実なしもべだから、神様感謝します。」とよいイメージ、前向きなイメージをもって感謝して祈っていたのです。これは祈りによってこの若い指導者を支え、助け、仕える姿ではないでしょうか。
 「仕える」ということがどういうことか、この「滅私奉公」ということばに表されています。さらに「神に仕える」ということについてご一緒に考えていきましょう。

1.仕えることとは(第2サムエル23:15-17)
“ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある 井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシ テ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、 それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲も うとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこ れを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの 血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇 士は、このようなことをしたのである。”

(1)『仕える』ことと『礼拝する』ことは同じ意味を持っています。ダビデの三勇士をとおして『仕える』とはどういうことかを考えてみましょう。

 ダビデには多くの兵士たちの中に30人の勇士がいました。さらにその中で、この三勇士が30人の中の特別な勇士としてここに記されています。他の人たちよりも多くの敵を倒した、戦いでよい業績を残した等ということではありませんでした。先のテモテへの手紙第2 1章3節に使われている「仕える」ということばは、「礼拝する」と同じ意味を持つことばです。つまり、「神に仕える」ことは「神を礼拝する」ことなのです。  私たちの礼拝は「仕える」こと、ライフワークです。生きる価値、喜びをもって生涯かけて行うものです。この集会も礼拝ですが、ここに来ることだけが礼拝ではありません。これは礼拝のほんの一部に過ぎません。私たちのいのちは主イエス・キリストによってあがなわれたいのち、人生のすべてが神様にあってのものです。ですから、このいのちをもって生きることは、神に仕えていく人生なのです。しかし、神様はこれを強制されません。ダビデも三勇士に命じたわけでも頼んだわけでもありませんでした。敵の陣地の中にある自分の故郷の水が飲みたいというダビデのごく個人的な願いを何とかしてかなえたいという気持ち、自ら喜んでそれをしようという三勇士のダビデへの「仕える」心からのものでした。そしてこれが礼拝につながる姿勢なのです。礼拝とは命令されてするものでも、報酬を受けるためにするものでもありません。信頼し尊敬する方の気持ちを成し遂げたいと思う心、これが礼拝です。心を開き、心を近づけて仕えるとき、それは礼拝の心構えと同じなのです。ですから神様のお心を理解し、そのお気持ちに自分の心を近づけていくほどの関係がなければ、礼拝という段階にはなかなか至りません。ダビデは三勇士が汲んできた水を飲みませんでした。それは彼らの血、即ちいのちであると主にささげました。これほどまでにダビデは、すべての兵士ひとり一人に対して、王としての心づかいと信頼をもって接していました。しかし、そのダビデの愛に目が開かれたのは、30人の勇士のうち、この三勇士でした。私たちも、罪の赦しのための御子のいのちという大きな愛を神様から皆同じように注がれています。この十字架を通して表された神様の愛に目が開かれるなら、ほんとうに礼拝をささげることができるのです。三勇士のような礼拝の関係に近づくのは、神様からの指名ではなく、私たちの神様への応答によるのです。

(2)イザヤ書6:8をあなたはどうとらえますか?
“私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」”

 イザヤはご臨在の中で、神様の「だれを遣わそう。」という御声を聞き、「私を遣わしてください。」と自分から応答しました。神様は私たちに強制されることはありません。しかし、この願いをかなえたいと願っておられます。この神様のお気持ちに気づいて、「私にやらせてください。」と自発的に行動をおこす、これが最も神様に喜ばれる最高の礼拝です。仕える気持ちが心に湧いてこないかぎり、これをすることはできません。では、どうすれば湧いてくるのでしょうか?それは方法論ではありません。主イエス・キリストの十字架のあがないの御わざが、私たちに仕える心、礼拝の心をもたらす神様からのしるしです。様々なことを通して神様は私たちへの愛を示しておられます。特に、罪のための代価としての御子のいのちは、すべての人に示された恵みです。その価値に気づくには、誰かの証や勧めが必要です。そのために私たちはキリストの証人として遣わされているのです。福音を伝える働きも、神様の願いをかなえるため、私たちが自発的に行うものなのです。さらに福音伝道における根本的な神様の願いを次に見ていきましょう。

2.神が願っておられること(ガラテヤ5:13)
“兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。 ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え なさい。”

(1)多くの神のみこころがある中で、一つの新しい戒めがイエス様によって 与えられました。福音を伝えるのもそのためです。ライフワークとなる 『主に仕える』ことを具体的に考えてみましょう。

 人が救われ、罪赦され、神の国に入る。神様はこれだけでは満足されません。神様が御子キリストをこの地に遣わされたのは、私たちが互いに愛し合う、仕え合うためなのです。神の家族としてよいコミュニケーションを持つことです。神の国に入り、私たちが互いに愛し合い、心一つにする家族・チームとなることを、神様は一番に願っておられるのです。しかし、神を敬う正しい良心を捨てたために、世の多くの人々が傷つけ合い、競走しあい、弱い者を自分の欲のために犠牲にするような世界に生きています。神様はその様子をご覧になり、心を痛めておられます。「誰がこの人たちにまちがいを示してくれるだろうか、行って語ってくれるだろうか。」と神様はおっしゃっています。しかし、「神様の願いは互いに愛し合うことですよ。」と語っても、実際に私たちの生活にその実が結ばれていなければ、語ったことばに何ら力はありません。マザー・テレサのことばに力があるのは、そのことばを後ろ盾する彼女の人生、生活、ライフワークが実を結んでいるからです。私たちはただみことばを聞くだけで終わってしまっては意味がありません。他の何よりも互いに仕え合うことを心がけてほしいと神様は願われます。
 パウロはテモテに祈りによって仕えました。心配事を祈るのではなく、テモテのよいところをみて、悪いところも前向きに変えられると期待して、神に感謝をささげました。これが仕えることです。神に仕えることは喜びです。人の悪いところばかり見て「何とかしてください。」という祈りは喜びとはなりません。悪いところがキリストにあってよい方向に変えられていく望みをみることが私たちの喜びです。パウロが幾多の苦難にもつぶされることがなかったのは、神様への信頼と、互いに仕え合う喜びが彼の心の内を満たしつづけたからです。ヘブル人への手紙11章1節に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあるように、願っていることがその通りになるよう信じつづけることが信仰です。「あの人の性格はかわらないだろうなあ。」と思いながら「何とかしてください。」と祈っても一向に成就しないのは、信仰が働いていないからです。
 信仰は創造の力です。サタンや悪霊の力よりももっと強い、無から有を生み出す力です。「この人はこのようによくなっていく」とあなたの信じた通りになるとイエス様が言われた信仰を働かせるのが、仕える祈りです。将来に対する希望をみる祈りは、私たちに喜びをもたらします。一方で、罪から働く否定的な幻もあり、聖霊様によって働く正しい良心のうちにわき上がる前向きな幻と、2つが心の中でせめぎ合っています。そのどちらに生きるかは私たちの選択です。パウロは神様に感謝することを選び、祈りの中で告白しつづけました。テモテが様々な困難に勝利していく姿を見て祈りつづけました。
 私たちの心にどのような思いを描くか、互いに愛をもって仕えるということがどういうことかを考えることを通して、本当に神に仕える礼拝の姿勢を悟っていきましょう。

3.互いに仕え合う(第1ペテロ4:10)
“それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良 い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。”

 飢餓の状態にある貧しい国々の人々を思いみるとき、例えば私たちが1ヶ月に食事できる回数とその人々の回数との大きな違いに気づくでしょう。私たちも決して裕福ではないかもしれませんが、私たちの貧しさは死ぬほどのものではありません。ユニセフや国際飢餓対策機構などからの援助もありますが、いつも同じ地域や部族にばかり配給することはできません。各々の地域に順番に配給されていきます。食べたくても食べられない状態が何日も続く中、一食分を3日分に、3日分を一週間分に引き延ばして次の配給を待っているのです。そのような状態にある人々に、私たちはせめて1日分、1食分の食費でもささげることができるのではないでしょうか。これが神の恵みによって与えられている賜物をもって互いに仕え合いなさい、ということなのです。  豊かさの中にある私たちは、考え方を変えなければなりません。神が豊かな人々を祝福されるのは、その豊かさをもって貧しい人々を助け、仕えるためです。そのように互いに助け合うためなのです。しかし、世の人々は、罪の奴隷となってしまったために、神のご意志を無視し、自己中心の生活を選びとってしまいました。競争社会の中で、互いに愛し合うことなど何の価値もない、勝たなければ無意味だという世の中の流れに、私たちは「それは違う。」と証しすることが必要です。「だれがそのために行ってくれるだろうか。」と主は願っておられます。

 互いに悪いところをもちながら、それでも互いに仕え合うことを祈りの中で悟っていきましょう。イエス様の十字架の愛にめざめ、悟るなら、ダビデの三勇士のようにいのちをかけてでも神様の願いをかなえたいという思いがわいてくることでしょう。だからこそ、広島エルサレムプランは、生涯かけて成就すべき価値のある神様のご計画であると、迫害のない日本で、いのちがけですることのできる神様の御心であると信じます。

 

 

 

 

 

 
■2007年9月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一致団結 いっちだんけつ  up 2007.9.23


組織や団体の全員が心を一つにして、力をあわせてまとまる様子。


私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。
(第3ヨハネ1:4)
 


 

 

 ヨハネが語る「私の子どもたちが〜」という言葉は、そのまま父なる神の御思いを代弁していると言えるでしょう。御父は、私たち子どもが真理に歩むことに、大きな喜びを感じておられます。
 今日はこの「真理に歩む」ことと「一致団結」との関係を探っていきたいと思います。

1.真理とは何でしょう(ヨハネの福音書17:17)
“真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理 です。”

(1)真理とは、倫理的、宗教的に正しい生活のことを示しています。
 みことばが私たちにとって真理であるとはどういう意味でしょう。
 神のことばは正しい生活のために必要なものです。正しい生活とは、私たちが本来あるべき姿のこととも言えます。存在の目的がない進化論には、あるべき本来の姿もありませんが、神を信じる私たちには存在の目的と、こうあるべきだという指針があります。自分にとっての神のみことばが真理である理由を、各自がそれぞれ考えてみてください。私(辻牧師)自身は、聖書のみことばが自分を証明するものだという悟りをもっています。

2.最も大切な真理は何でしょう(マタイの福音書22:36〜40)
“「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イ エスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽く して、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒 めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第 二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者と が、この二つの戒めにかかっているのです。」”

(1)聖書全体がこの二つの戒めにかかっていると語られた重要性を考えてみましょう。
 モーセの十戒も「神を愛する」と「人を大事にする(愛する)」の二つに分けることができます。これが自分の人生にどれほどの重要性を持つのか考えてみましょう。人間の根本的な存在意義が「愛しあう」ことにあるのではないでしょうか。他を出し抜き、自分が優位に立つことではなく。

3.真理のうちを歩む生活(第1ヨハネの手紙3:18〜19)
“子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、 行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私 たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の 御前に心を安らかにされるのです。”

 真理に属するものとしての証は本来、行いと真実をもって互いに愛し合う、という生活に根ざしたものです。しかし、神のみことばは教会(特別な場所)で聞くものだと思い始めると、自分の日々の生活とは切り離されたもののように扱い始めます。すると、聞くだけの者になってしまい、「アーメン」は会堂の中でだけ、「そうは言っても」という日常生活が別に存在するようになるのです。それではいけない、とヨハネは勧めています。
A.行いと真実をもって愛する(ピリピ人への手紙2:2)
“私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の 心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。”
 私たちは、キリストのからだという一つのチームです。一致を保つためにどのような愛、志を与えられているでしょう。
 親が我が子たちの仲の良さを見て喜ぶように、天の御父もクリスチャンたちの親しい交流を喜ばれます。教会は確かに問題のある人、困っている人、病んでいる人、そういう人たちの集まりではありますが、イエス様によって自己中心が砕かれると、本来その人が持っている良いところが現れてきます。そのために私たち一人一人は、自分の損になっても、誰かのためになるように動くのです。神ご自身が、罪の塊であった私たちのために、何者にも代えることのできないひとり子を与えてくださり、見本を示してくださいました。そんな神様のために何かしたいという気持ちが志となり、自分を砕いて心を合わせ、注がれた愛は人々への愛となり、互いの一致を保つのです。
B.チームプレーの大切なポイント(コロサイ人への手紙3:13)
“互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい。”
最も大切な真理のうちを歩むための最も大切なポイントである『互いに赦し合う』ことを、チームプレーとして考えてみましょう。
「協力」なしにチームプレーはあり得ません。そして失敗が誰にでもある以上、赦し受け入れることがお互いに不可欠です。自己中心は一致を乱します。「赦す」と一致できます。ますイエス様ご自身が私た ちを赦し、受け入れてくださいました。私たちというチームを一致させるためです。だから私たちも、自分の欲を後回しにして、お互いに犠牲しあうことができるのです。
 あなたがもし、すごいプロジェクトの一員になったとします。そうしたら、そのプロジェクトの一員であることに誇りを持ち、夢と希望が溢れてくるでしょう。そして目的の完遂のためにはあらゆる犠牲を払い、仲間との一致を保つために努力するでしょう。どんなに能力があっても、あなた一人では壮大なプロジェクトは動かません。しかし、チームの一員として全力を尽くす時、真理はあなたの存在意義を支え、皆と協力できるチームの精鋭にしてくださるでしょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年9月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   先見之明 せんけんのめい  up 2007.9.16


将来のことを前もって見抜く見識のこと。


また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
(第1テモテ6:19)
 


 

 

 将来に希望を持てない人は、将来に備えることをしません。今の若い人たちは、明日の事を考えて生きるより、今が良ければいいという生き方を好む傾向があるようです。しかし、昔の人々は、将来に備えて知恵深く行動をしました。私たちクリスチャンも未来に備えて、知恵深く良い基礎を築いていく必要があります。「明日」を支えるのは今日です。
 基礎の上にいろいろな物が建てられ、それらを支えていきます。それゆえ基礎は、今後建てられるものに大きな影響を与える大切なものです。明日のためにどんな良い基礎を今日築けるかに心を向ける事で、私たちのクリスチャン生活が、良い方向に開けていくようになります。
 「先見之明」を持つことによって、私たちの信仰はより生かされていきます。信仰は「未来を見る目」だからです。イエス様にあって未来はこうなる!という期待と行動を、今日していくことで、未来はその通りになっていきます。

1.物事の本質を見抜く(コロサイ人への手紙1:16〜17)
“なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、 地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配  も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によ って造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先 に存在し、万物は御子にあって成り立っています。”

 これは見識の意味です。将来を見極めるには、優れた判断力が必要であり、そのために知識も必要です。正しく将来を見極めるためには、いろいろな情報を手にして、その中から正しいものを判断していくことが大切になります。そのために必要なのが、物事の本質を見抜くことです。
 万物は神の御子イエス・キリストによって、しっかりとした計画のもとに造られました。そして、万物は御子によて成り立っています。つまり、万物の存在の本質を握っておられる方は、イエス・キリストです。  今、地球温暖化が、科学者の予想以上の速さで進んでいます。そのため永久凍土と言われていた北極、南極の氷が溶け出し、海水が増え、大気の動きに影響を与え、それは気候に変化を与え、植物や動物の営みにも変化を与えることになり、私たちの生活にも大きな影響を与えています。この地球温暖化の問題の本質は何でしょうか。二酸化炭素の過剰な排出は本質でなく、原因に過ぎません。問題の本質は、経済成長をあくまで追求する人間の「欲」です。人間の欲が地球温暖化を進めているのです。二酸化炭素が悪いとわかっていても、自国の経済力を落とすことはできないと、せっかく日本が提出した二酸化炭素削減計画をアメリカは拒否し、そのため中国やロシアも拒否して、結果的にヨーロッパと日本だけが残されてしまいました。
 ゴミの選別を細かく分けているのは、ヨーロッパの一部と日本くらいです。二酸化炭素をなるべく発生させないための努力です。しかしそういった努力を無視して、平気で二酸化炭素を工場の煙突から出し続け、他の国にまでその公害を与え続けている国もあります。自分の欲を満たすため、地球環境を破壊し、将来どうなるかということがわかっていながらも、それをやめられないのです。欲を抑えることは経済成長を阻み、そのため経済流通が滞って世界恐慌が起こるというのが彼らの説です。
 では世界の争いの本質は何でしょう。これも自分の民族、国の利益だけを考えた利己的な欲です。様々な問題の本質を考える時、「万物は御子によって造られ…御子にあって成り立っています。」というみことばが鍵になります。もし世界の人々が創造主である神を敬い、すべてを共有していこうという敬虔な心をもつなら、あらゆる問題は解決していくでしょう。すべての問題の本質は、創造主を無視している不敬虔さにあります。クリスチャンでなくても、昔から農業をする人々は、皆で助け合い、共に働き、大自然を大切にしてきました。そこによい結果が出てきました。しかし「自分だけ」という利己的な欲から、自然は破壊され、互いの争いもいつまでもなくなることがありません。
 こういった物事の本質を見抜かないと、しっかりとした未来の基礎を築くことはできません。

2.先見之明という思慮深さ(箴言10:5)
“夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥 知らずの子である。”

 これは難しい事ではなく、むしろ当たり前のことです。当然のことをしっかりとすることが思慮深さです。愚かな人とは、当然するべきことをしない人です。働ける間に働いておかないと、先にはもっと大変になってきます。今「ニート」が話題になっていますが、そういった状況を続けていけば、将来どのようになるかはわかりきっています。しかしそれにもかかわらず、先見之明を持たない人々が増えています。思慮深さとは、当たり前のことをするということですが、ここで難しいのは、やり続けるということです。そこに忍耐が必要となります。当たり前のことをやり続けることに空しさを感じていないでしょうか。それは不敬虔な人々の自分勝手な生き方を見て、当たり前のことをやり続けるという真面目な生き方を損と考えてしまうからではないでしょうか。最近は詐欺も悪質になり、巧妙になってきています。しかし、こういった事の行く末は滅びです。
 私たちは貪欲に囚われず、ごまかされないために、先見之明をもって未来をしっかりと見すえて、思慮深く生きることが必要です。

3.良い基礎を築くために

A.維持管理に気をつける(エペソ人への手紙4:3)
“平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。”

 御子あって万物が成り立っているということを忘れないで、お互いに平和を保ち続けることに気を使いましょう。王様は私たちではなく、イエス・キリストです。「生かされている」という謙虚な心で、互いに思いやりをもって生活していくことが大切です。「自分の意見に従わせよう」「自分に合わさせよう」とすると問題が起こり、精神的な維持管理が難しくなってきます。
 また、御霊の一致を熱心に保ちなさいとあります。私たちは人間を核として中心にし、一致を保つのではなく、神のことばに心を合わせていくようにしましょう。自分の意見や誰かの意見に心を向けるのではなく、万物を成り立たせておられる神のことばに心を向け、ひとつとなることが、心をしっかりと維持管理するための要になります。人のことばに心を動かされていないか、しっかりと神のことばに結びついているかどうか、日々のメンテナンスが必要です。このメンテナンスをしっかりとしていないと、必ず壊れてしまいます。すぐには壊れなくても、いつか限界が来て、ガタンと壊れてしまうのです。そういう先のことをよく考えましょう。

B.修復能力を養う(ヤコブの手紙5:15)
“信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。”

 これは修理する力です。プロの技術者はこの修復技能をしっかりと身に付けています。新しいものを造り上げるより、こわれたものをもう一度元通りに造り直す方が高度な技術を要します。
 私たちは自分の精神的に壊れた部分をどのように修復できるでしょうか。実は自分で自分を完全に修復することはできません。それは私たちが造られたものだからです。造ってくださった方にお任せするのが一番修復能力を養うことになります。
 「信仰による祈り」が病む人を回復させます。自分で自分の問題を解決しようとし、自分でするほど問題が大きくなっていくとわかったら、先見之明をもって、早めに神に祈っていくことが大切です。これが信仰です。早いうちに委ねる心を持つことが肝心です。自分ではどうにもならない問題は、早めに神に持って行きましょう。 神はどんな問題でも、信仰によって祈るなら解決してくださいます。 この約束をどこまで信じますか?  私たちは失敗することで修復能力を養っていきます。失敗しても前向きに捉え、未来を見すえて、地上のみでなく永遠の人生に向かって良い基礎を造っていきましょう。地上の人生は永遠のための基礎づくりの時です。しっかりと先見之明をもって、当たり前のことをしっかりと実践していきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年9月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   福徳円満 ふくとくえんまん  up 2007.9.9


物質的にも精神的にも恵まれているようす。


そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
(使徒2:38)
 


 

 

 今週の四字熟語「福徳円満」に表されているように、私たちのこの社会は物質的に非常に恵まれていますが、精神的には恵まれていないので、良いものになるはずの物質的豊かさがかえって格差を生み、多くの事件をもたらしているといえるのではないでしょうか。クリスチャンも物質的な豊かさに気を取られず、精神的にも恵まれた「福徳円満」が必要です。
 自分を生かすために他の多くの弱い人たちを犠牲にし、支配していく弱肉強食の世界が人間の本当の生き方ではないと聖書を通して教えられ、神の御霊様の啓示により人がどう生きるべきかを教えられ、今その道を歩める幸いを、私は心から神様に感謝しています。
 今日は「賜物として聖霊を受ける」ことを中心に語りたいと思います。「聖霊」とは「神様の霊」のことです(この箇所はギリシャ語で「神の霊」とはっきりと分かるように書かれています)。
 聖霊(神様の霊)を賜物(=直訳は「ただ(無代価)」の意味)、つまり「ただ」で受けるということです。値段を決めると価値が決まってしまいますが、それ以上に値段をつけられないほど良いものだから、「ただであげる」という神様の思いがここにあります。ただで与えられるほどの価値づけられないプレゼントである神の霊を私たちは内に持つことができる、すなわち共に住んでくださるということです。
 どうして「賜物」という言葉が使われているのでしょうか。罪人の私たちは、神様の霊を買うことも得ることも到底できず、むろん罪人の心の中に迎え入れるには不可能なお方で、罪人にはふさわしくないものなので、プレゼントしていただくしかなかったからです。「神が罪人と共に住まわれる」のはプレゼントしかないという意味です。どうしてそこまでしてご自分の霊を罪人と住まわせることを実現されたのでしょう。

1.賜物として与えられる聖霊の意味

(創世記2:7)
“その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのち の息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。”

(ヨハネの福音書20:22)
“そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊 を受けなさい。」”

(1)人が生きていると言えるのはどのような状態でしょう?
人として生きるため〜聖霊を受けなければ人は生きた者と言えない
 創世記2章7節には、人が造られた情景が書かれています。人は「いのちの息」が吹き込まれるまで、単に動くだけで、人格者としての生き物ではありませんでした。神の霊を受けなければ「生き物」と言えません。神の霊を持たない世の中は、考えられないような悪行が行われています。こことヨハネの福音書20章22節を読み比べると、イエス様は、創世記2章7節のおことばを知っておられたからこそ、「人は神の霊を受けなければ、本当に生きていると言えない、だから聖霊を受けなさい。」と、創世記2章7節を印象づけるために息を吹きかけられたのです。そして神は賜物として私たちに御霊を遣わされたのです。でなければ、肉の欲望の自己中心の考えに支配され、欲望のために他の人を犠牲にする考えから解放されません。クリスチャンは内に御霊がおられるので、罪に打ち勝つことができるのです。誘惑はあっても罪の奴隷ではありません。

2.『霊』とはいったいなんでしょう

(ヨハネの福音書6:63)
“いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わた しがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです”

 ヨハネの福音書6章63節は、誰でも、知性においても、神の霊を理解できるように、イエス様が霊について語られた箇所です。この箇所の「御霊」=神の御霊も「霊」も同じ「プニューマ」というギリシャ語が使われています。ことばと霊は非常に関係が深く、特に神のことばは私たちに「いのち」をもたらします。

(ヨハネの福音書1:1)
“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神 であった。”

(ヨハネの福音書4:24)
“神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しな ければなりません。”        
 [神=霊=ことば]
 神のことばこそ神の霊であり、聖霊が賜物として与えられるとは、生きた神のことばが私たちの内に住まわれるということです。霊的現象にごまかされないために、はっきりと分かるように神は「ことばなる神は霊であり、霊はことばなる神」だとヨハネを通して語られました。
 聖霊に満たされるとは、神の霊に満たされることであり、聖霊によって喜ぶとは、神のみことばが内にあふれ、そのみことばの啓示が心を喜びで満たすことです。感情的喜びだけでなく、ことばによるはっきりとした喜びがあります。すなわち、ことばを吹き込まれる→聖書を読んでいると息が吹き込まれ、霊が私たちの内に風のように入ってきます。窓を開けると冷たい風が入ってくるように、みことばもそのように私たちの心に入ってきて、喜びで心地よく満たし心を変えてくれます。
 みことばをそのように神の霊として内側に受け止めていく時、アダムが生きた者となったように、またイエス様が弟子たちに「聖霊を受けよ。」と息を吹きかけられたように、私たちも神のみことばなる霊を吹きかけられて、生きた者として歩むわけです。神は神様ご自身の霊を−お金で量れないもの−生きるために必要なものとして、神の霊をただで賜物として与えてくださったのです。

3.みことばである聖霊の内なる働き

A.神のことばを語らせる(ヨハネの福音書3:34)
“神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無 限に与えられるからである。”
 神様についてどう話そうかと思うまでもなく、御霊が話させてくださるまま、話したらよいのです。「迫害を受けて国の指導者たちの前に立たされ、裁判を受ける時も、内なる聖霊様が語るべきことを教えてくださる」と、イエス様も言われました。メッセージだけでなく、神について話す様々なことについて、御霊があなたの口を通して語られます。メッセージをする人がよく体験することですが、聖書研究をして自分で努力して集めたデータだけでは、神の深い本質的なものを理解することは難しいです。しかしメッセージを自分の調べた道筋をもとに話していくとき、自分の思いではとても考えられない啓示がどんどん出てくることがあります。これは御霊が神のことばを語らせてくださっているからです。このようにメッセージや証だけでなく、他国のことばをもって、また預言(内におられる御霊があなたの舌を用いて、あなたの知識ではなく神が語りたいことを、知性を通り抜け霊から語らせる)を、ことばなる神様があなたの口を通して語られます。

B.思いを判別する(ヘブル人への手紙4:12)
“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たまし いと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考 えやはかりごとを判別することができます。”
 神の御霊様は魂と霊の分かれ目などのわかりにくいものを判別する力を持っておられます。あらゆるものを識別、判別することのできる力は、特に神を畏れる者にとって大切な能力です。神の霊を持たなければ、神の御心を正しく知ることはできません。御心だけでなく霊も見分けることができます。同じ神のみことばを用いても、悪霊からのものか、御霊からのものかを御霊ご自身が私たちの内に判別できるように教え諭してくださいます。この世の中のあらゆる偽り者や欺きの霊も用いる聖書のおことばによって欺かれることのないように、内なる御霊の働きによって判別できるのです。特にこの先、偽預言者や偽キリストが出現してくる中で、御霊によって判別識別する力をしっかりと内側に備えていくことが必要です。

C.創造力をもたらす(ヘブル人への手紙11:3)
“信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを 悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのでは ないことを悟るのです。”
 神のことばなる御霊は創造する力を持っておられます。ことばは私たちの霊の中に存在していないものを霊の中に描かせる力があります。最初の造り出すべきイメージをことばなる神の霊によっていただいてこそ、実際の形にできるのです。モーセはシナイ山で神から天の幕屋の啓示を見せていただき、そのイメージ通りに造るように民に命じました。御霊の働きにより、神の幕屋のイメージを聖霊様がことばによってモーセの知識の中にいだかせたのです。出エジプト記には幕屋の細かい規定が全部、ことばによって書かれています。そのことばでイメージし、実際に形にしていく作業が生まれてきます。まずイメージが与えられて、それを創造(クリエイティブ)する力はことばにあります。ですから、箴言29章18節(幻=預言とも訳される)は神のことばによって具体的な方向やイメージを与えられなければ、それは欲望のままに生きるようになってしまうということです。目標があると自制を働かせる事ができます。どんなプロスポーツの選手も目標持たずして生活を金メダル目指して自制し続けるのは空しくなります。クリスチャン生活を聖く保つのは目標があるからです。目標がわからなければ辛い話です。みことばから一人一人が聖くあり続けるビジョン・幻が与えられる必要があります。みことばは私たちに人生の将来を創造する力、今まで考えたことのないような幻に向かって歩む力添えをしてくださいます。この御霊を持たないと、私たちは生きた人間とは言えないので、神は賜物として与えてくださった御霊を受ける条件として、悔い改め、罪を赦してもらうためのイエス・キリストの名による水のバプテスマを受けるように言われているのです。

・具体的生活の勧め
(コロサイ人への手紙3:16)
“キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を 尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感 謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。”
 キリストのことば=神のことば=神ご自身の霊をあなたがたの内に豊かに住まわせなさい、ということです。聖霊に満たされるとは、みことばに満たされることです。聖霊様が内に住んでくださるとは、みことばが内に住まわれることです。今あなたの正しい良心にどのような神のみことばが生きて住んでおられるでしょうか。  私が救われた当時の牧師先生は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とメッセージでよく用いられました。「新しく造られた方」と心の内にいつも生きて働き、自己中心との葛藤の中で罪から来る誘惑や欲望の火矢を、信仰によるみことばの盾をもって防御していたのです。あなたは肉の働きに対して、生きた神のみことばと剣なるみことばでそれを消し去り打ち砕くには、生きた神のみことばがあなたの内に住んでいなければ不可能なことです。みことばを告白しなさい。みことばは神の霊です。みことばを豊かに住まわせるなら、聖霊に満たされます。単なる書物でなく、御霊様ご自身が私たちの内に住まわれるおことばが印刷されているのが聖書です。それはすごいことです。この文字があなたの霊に神の息として吹き込まれてきたとき、それは生きたことばとして私たちをあらゆる良いものへと導き、造り変えてくださいます。霊を神のみことばとしっかり捉えて、みことばにさらに心を開き、興味を持ち、しっかりと内側にみことばを住まわせていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年9月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   困苦欠乏 こんくけつぼう  up 2007.9.2


生活に必要な物質が足りなくて苦しむ事。


いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
(使徒20:32)
 


 

 

 私たちは物質的には豊かな生活を送っていると言えるでしょう。しかし、内面的には困苦欠乏の状態にあるのではないでしょうか。食物が乏しくなると健康な状態は維持できません。そのため、苦しみ、力のない状態になってしまい、さまざまな肉体的・精神的問題が出てきます。クリスチャンといえども、見えるところは豊かであっても心の生活に苦しみを覚えているなら、霊的栄養失調になっているかもしれません。
 神のみことばは、あなたがたを育成する=育て成熟に導く、とあります。バランスのとれた健全な食事をすれば、からだは自然に成長していきます。同じように、私たちの心の成長のためには、みことばをいただくだけでよいのです。努力は必要ありません。みことばを食物のようにいただき、健全な霊的食生活をしていくなら、自然にクリスチャンとして成長していくものなのです。

1.神の子の食物(第1ペテロの手紙2:2)
“生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。”

 私たちの心には、闇の部分=肉の欲望に従って生きる心と、神を畏れる敬虔な心=正しい良心の2つの部分があります。そして私たちの魂は、正しい良心の内に宿っており、主イエス・キリストを信じる心はここにあります。肉の欲望に従う心は、ローマ人への手紙8章にあるように、正しい良心・神に従う心に反発します。神のみことばは、この肉の心を育てるための食物ではなく、正しい良心の成長のためのものであることに私たちは気づかなければなりません。
 自分の欲望を満たしたいがためにみことばを聞いても、何の役にも立ちません。実を結びません。私たちが神の子と呼ばれるのは、正しい良心の部分においてです。この神の子としての正しい良心を育てるために、神はみことばを糧として与えて下っています。ですから、自分中心の思いによってみことばを読むのではなく、神様を敬い愛する心によって読むならば、自然に私たちは神の子として成長していくのです。さまざまな罪の誘惑に勝利する良心の強さが生まれます。きちんとした栄養を摂るなら、体力や免疫力、回復力も高まるように、みことばも、そのような力を私たちの魂に対して持っているのです。
 みことばには、私たちを成長させる力があります。自分にとって都合の良い、自己中心の欲望を満たすみことばばかりを選んで、きよめや訓練など辛さや痛みを覚えるような神様の教えを拒絶していくことは、肉の欲望に従う心を養うための読み方です。これでは霊的なメタボリック症候群になってしまいます。偏った食生活があらゆる病気を引き起こすように、偏ったみことばの読み方は、霊的に不健全な状態を招きます。「生まれたばかりの乳飲み子のように」、純粋な、素直な心で神様のみことばを読んでいきましょう。神の子として成長するために、神のみことばが与えられていることをしっかりと基本に据えましょう。

2.みことばにある三つの栄養素(第1コリント人への手紙13:13)
“こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。”

☆永遠の存在である霊の食物が『信仰』『希望』『愛』なのです。
 たとえこの地上が滅びても残るもの、新しい天と地においても存続するもの、永遠に存在するものとは、この『信仰』『希望』『愛』、そして霊です。霊が存在し、健全に生き続けるために必要な食物として、『信仰』『希望』『愛』もいつまでも存続する必要があります。私たちの心、霊と魂にはこの3つが栄養素として必要なのです。

(1)みことばには『信仰』という栄養素がある(エレミヤ15:16)
“私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。”

 「楽しみとなり、心の喜びとなりました」とは、心を開いた信頼の証しとして、楽しみと喜びが心に湧いてくるということです。久しぶりに会った友人との会話は本当に楽しいものです。また、他の人がしてもあまり興味を感じない話でも、仲の良い友人がするなら興味深く聞くということはないでしょうか。これは信頼関係があるか、心を開いているかどうかの違いです。エレミヤは、人のことばよりも、神様のみことばに心を開いていました。ですから、神様のみことばを聞くことに喜びと楽しみの感じていたのです。皆さんはいかがでしょうか。みことばを読んでいても、少しも楽しみも喜びも感じないならば、 『信仰』という栄養素が心に吸収できていないということです。ではみことばから『信仰』という栄養素を得るために、どうすればよいでしょうか。みことばを「見つけ出す」ということがそのポイントです。ビタミンBが欠乏しているのに、あえてビタミンAを摂る人はいません。信仰が欠乏しているなら、信仰のみことばを探し出すのです。「主よ、私があなたに心を開けるようなみことばに出会わせて下さい。それを食べます。」という心、生きていくために必要なみことばを熱心に見つけ出そうとする心が、正しい良心を敏感に反応させます。そして、そこにみことばが生きて働くのです。信仰の成長を望む人、神様への信頼を得たい、心を開きたいと思う人、神様のみことばには私たちの心を神様に対して開く力があります。時間がかかっても、見つけ出すまでチャレンジを続けましょう。

(2)みことばには『希望』という栄養素がある(詩篇119:114)
“あなたは私の隠れ場、私の盾。私は、あなたのみことばを待ち望みます。”

 隠れ場、盾は、危険な時、いやしが必要な時、敵と戦えない状態にある時の回復のための場所です。もし私たちが回復してもなおそこに留まるなら、それは不自然なことです。安全、安心ということだけに安住してしまい、なぜ隠れ場にいるのかという目的を見失っています。そのような人には希望はありません。
 いやされ、回復を得たなら、隠れ場から出て、目的を果たすために、目標に向かって前に進むことが大切です。それには希望が必要です。希望がなければ安住の地からなかなか出ることはできません。特に恐れや不安があると出ることは難しいでしょう。しかし、恐れや不安よりももっと大きな希望が心にあるなら、出ていくことができるのです。この希望という栄養素を吸収するためには、「待ち望む」=みことばを黙想することが必要です。みことばを思い巡らすとき、みことばは生きて働きます。ヘブル人への手紙4章12節にあるように、神のみことばは生きていて力があります。みことばを黙想すればするほど、正しい良心は希望を感じ取っていきます。私たちの神の子としての心である正しい良心は、みことばに正しく応答するように作られているのです。もし否定的な思いを感じるなら、それは自己中心的な肉の欲望に従う心で黙想しているのです。これでは否定的な思いに向かうばかりです。
 みことばから希望を吸収するなら、自ずと前向きな心になってきます。そのような思いで聖書を読み、メッセージを聞きましょう。みことばにはいのちがあります。私たちの心の中でそのように働きます。但し、これにはむかう別の心、自己中心の肉の心、否定的な心があることも忘れないでください。信仰という栄養素と希望という栄養素を吸収できるように、落ち着いてじっくりとみことばを読みましょう。

(3)みことばには『愛』という栄養素がある(第1ヨハネ2:5)
“しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。”

 「愛が全うされている」とは、単に愛が存在しているというだけでなく、働いているということです。私たちは愛の存在を感情で量りがちですが、そうではありません。感情は不確かなものです。愛が私たちの内に存在し、働いているかどうかは、みことばを守っているかどうかにかかっています。愛を吸収するために、私たちはみことばを守っているでしょうか。
 ここで注意しなければならないことは、「みことばを守る」ということと、「みことば通りの結果が出ているかどうか」ということは分けて考えなければならないということです。みことば通りの結果が出るまで、みことばを行い続ける、何度もチャレンジし続けることは、「みことばを守っている」ことです。結果が出ないからといって、みことばを行うことをやめるなら、みことばを守っているとは言えません。しかし、「今はできないが、主がせよと言われるならやってみよう。主よ、助けてください。」という心でチャレンジを続けるなら、その人はみことばを守っているのです。たとえ、それによって心がかっとうし、悩み苦しんでいても、それはみことばを守ろうとチャレンジしているからこそ、起こるものです。もし、できないから、苦しいからとあきらめてしまうなら、それはみことばを守っていないという状態に決定づけてしまいます。決してあきらめてはいけません。あきらめずにみことばを行い続けましょう。みことばは実を結ぶ種です。私たちの心に種となって植えられたみことばは、私たちの生活に実となってあらわれてきます。実となるまでには育てること、育てる環境、また時間も必要でしょう。そう考えるなら、みことばの種も実を結ぶまで、結果が出るまでチャレンジし続けていくことが必要です。みことばを守ろうとして、四苦八苦し、正しい良心と肉の心とがかっとうする中で、神の愛が吸収されていくのです。

 私がなかなか赦せなかった人を赦せるようになったのはなぜでしょうか。赦そうと努力したからではなく、みことばに出会ったからです。一万タラントのイエス様のたとえ話から、どれだけ自分は神様から赦され、愛されているかということを示された時、神様への信頼が高まり、希望が湧いてきて、愛が生まれてきたのです。赦せない自分の心がとても小さく見えてきたのです。みことばから信仰・希望・愛が正しい良心に吸収されてくると、理屈抜きで赦せるようになるのです。苦々しい記憶は多少残りますし、感情も確かに出ます。しかし、そのような記憶や感情に支配されることはありません。確かにそんなときもあった、しかし神様は私をもっと赦してくださっている、こんな小さなことに目をとめる必要はない、そのような思いになるのです。
 この証を聞いて、「私もそうするべきかな」と思われた方もいるかもしれません。「そうするべき」というのではないのです。大切なことは、信仰・希望・愛を、みことばから正しい良心に吸収することです。吸収しようとするのではなく、読んでいく中で、正しい良心の内におられる聖霊様が、光をもたらすみことばを示して下さるのです。それが、吸収するためのみことばです。それを見つけたなら、「すばらしい!」だけで終わるのではなく、まず黙想しましょう。その中で聖霊様が必ずあなたの心、魂、正しい良心で黙想するように導いて下さいます。そうすると希望があふれてきます。神様の愛の大きさがわかってきます。愛にふれられます。そして、それまで自分を悩ませていた問題が本当に小さいものに感じられてくるのです。神様のみことばにふれていく時、必ず変化が出てきます。文章の流れの意味を読むことも大切です。一方で、ひとつひとつのみことばが生きて正しい良心に働きかけるような、落ち着いた環境の中でじっくりと読んでいく時、神のみことばにふれられるのです。これをエレミヤは「見つけ出し、食べた」と、詩篇の記者は「待ち望む」と、ヨハネは「みことばを守り続ける」と表現したのです。これはすべて同じことを、みことばに対する姿勢を言っています。
 もし、なぜ私の信仰は成長しないのだろう、という方がおられるなら、この魂のためのための3つの栄養素・信仰と希望と愛をいかに吸収するか、みことばを食物として正しく摂ることのコツを、聖書を読む中で、またメッセージを聞く中で、聖霊様によって教えられ、悟っていただきたいと思います。決して難しいことではありません。敬虔な心で聖書を読むならば、必ずみことばにふれられます。みことばはいのちがあり、生きて働く力強いものです。このみことばが私たちを育成するという希望と期待をもって、神様のみことばに心を向けていきましょう。