■2007年8月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   三釜之養 さんぷのよう  up 2007.8.26


孔子の弟子の曽子は、わずか三釜〈一斗五升〉分の貧しい給料でも親に孝養ができる時は楽しかったが、後に出世して高給を取るようになっても、親が亡くなったので楽しくないと言ったという故事から、薄給の身で親に孝養を尽くすことを言う。


また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
第2コリント5:15 


 

 

 「キリストのために生きる」とは決して強制ではありません。<そうしなければならない>というのは理論上では正しいのですが、だからといってパッと従えるわけではありません。ではどういう心の思いを持てばいいのでしょうか。それが「三釜之養」という言葉に表されているのです。
「三釜之養」に映し出される、幸せな親子関係を見てください。そこには物質的豊かさとは全く異なる楽しさがあります。
 神は何も足りないものはないお方ですが、私たちの父であられるがゆえに、子たる私たちとの交わりを切に願っておられます。しかし、その交わりがなされるかどうかは、私たちの自然で自発的な思いに委ねられているのです。

1.どうして自分のためにではないのでしょう
(ルカの福音書9:24)
“自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自 分のいのちを失う者は、それを救うのです。”

(1)自分のために生きることによるプラスとマイナス面は?
 自分のために生きるとは即ち「自己満足」であり、「自己達成」です。全てのことは自分の欲望を満たすためにあります。どんな善良さも親切も、人のために命を捨てることさえも、です。
(2)ルカ9:24は一つの霊的原則です。
 この原則は、神を信じる信じないに関わらず、すべての人に適用されます。今まさに、社会の主戦線を離脱しようとしておられる、団塊の世代と呼ばれる人々を見てください。この人々は、自分のためではなく「国の未来のため」に、滅私奉公してこられました。その結果として、日本の経済大国への成長が現在あるのです。
 対して、自分のためだけに生きた人々は、商売にしろ、飲酒運転にしろ、自分自身にも社会的にも悪い影響を与えています。自分を守ろうとして人を傷つけるケースなどは、枚挙に暇がないほどです。

2.キリストの死と私たちの誕生
(第1ヨハネの手紙5:1)
“イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれ たのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によ って生まれた者をも愛します。”

(1)イエス様の死には、どのような意味が含まれていますか?
 「愛してくださった」「罪が赦されている」等、いろいろな意味がありますが、その中に「信じる私たちを神によって生まれた者としてくださった」ことも、今回欠かせない事柄の一つでしょう。
(2)生んでくださった方と生まれた者との関係を考えてみましょう。
 母親と新生児を考えてみましょう。子どもの内にあるのは、無意識の親への信頼と愛情であり、対する母親にも子どもへの愛情と思いが存在します。自分のために生きていては、子育てはできません。子どものための大きな自己犠牲が、子どもを包み育てていくのです。そして親の尊い自己犠牲の中で育った子どもは「親孝行」とう気持ちを持つことができるようになります。
 「自分のために」というのが世の中の生き方ですが、クリスチャンでも影響を受ける可能性は大いにあります。影響されると、神のことより自分のこと、自分のためになることなら何でも、という心になってしまいます。例えば、奉仕の内容を自分の損得勘定で選んでいたり、気づかないところで「自分のために」が出ていることはよくあります。もしそのことに気づいたら、神様に「ごめんなさい」と「こんな自分を赦して、受け入れ続けてくださってありがとう」と、感謝してください。罪人である自分を素直に認めることはへりくだりであり、とても大事なことです。さらに「神様に喜ばれる自分へ変わりたい」という願いを持ち、神様に申し上げることができればベストですね。

3.イエス様の生き方
(ヨハネの福音書4:34)
“イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行な い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」”

(1)御父のために生きる御子の喜びと楽しみ。
 食事は生き物全ての本能であり、生きている喜びを最大限に感じさせるものでもあります。イエス様は御父のために、御父の喜ばれることを成し遂げようとされました。そして、御父の思いは「実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」だったのです。ですから、イエス様は私たちを愛し、十字架にまで従ってくださいました。それがイエス様の「生きる喜び」であられたのです。
 生んでくださった方と生まれた者との強い絆がそこにはあります。父なる神様とイエス様は本質的には同一の方であり、それはあたかも母と子が出産の前に一つであった状態のようです。
(2)あなたにとって『死んでよみがえった方のために生きる』とは?
 私たちもイエス様を通して、父なる神様から生まれた者です。それは本質的には一つである、ということです。ならば、心を同じくすることもできるはずです。
 今この地にも、未だ目覚めていない私たちの兄弟姉妹が数多くいます。御父はこの人々のためにもイエス様をお与えくださったのです。私たちにそのお心がわかったなら、親の気持ちをかなえたい、と子どもが願うのは至極当然のことでしょう。そしてそれが、「キリストなるイエス」を、未だ目覚めぬ多くの兄姉に伝えさせる原動力となるのです。
 生んでくださった方である天の父なる神様に、孝養を尽くすなどおこがましいことです。しかし、イエス様の死によって生まれた私たちは、生んでくださった方との関係が、喜びであり楽しみなのです。

 

 

 

 

 

 
■2007年8月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   開口一番 かいこういちばん  up 2007.8.19


口を開いて、話し始めるやいなやということ。


会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。
使徒13:43 


 

 

 今日のポイントは「いつまでも神の恵みにとどまっている」ことです。私たちは知的欲求を満たすためだけに教会に来ているのでしょうか。それだけで終わっては意味がありません。パウロとバルナバが、話を熱心に聞いた人々に本当に言いたかったことは、「神の恵みにとどまった生活をするように」ということでした。私たちも、単にメッセージを聞きに来ているというのではなく、今日聞いたこともまた神の恵みであると受け取り、人生のすべてを感謝する心を忘れないようにしたいものです。   私たちの心の姿勢は、ことばの中にも表れてきます。私たちクリスチャンが開口一番に出ることばは何でしょうか。一番多いのは「感謝します」ということばです。でも、単にあいさつ代わりにしていないでしょうか。何に感謝しているのでしょうか。「神の恵みの故に今があります。あなたと再び会えて感謝します。」という思いがこの一言に込められているはずです。その思いを自覚することが大切です。

1.神の恵みを受け取るために(ローマ人への手紙9:20〜22)
“しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造 られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのような ものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同 じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらない ことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、 もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられる のに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐し てくださったとしたら、どうでしょうか。”

(1)言い逆らうことをしない、正しい良心による悟りについて。
 神から受けている恵みを、本当に恵みと感じられる悟りを自分の心に持つことが大事です。まず、造られた者と、造った者との関係を知り、わきまえることが必要になります。「あなたはなぜ、私をこのよううなものにしたのですか。」と、造り主に不満をぶつけるような人に、神の恵みを感じることはできません。「恵み」とは無代価で与えられる施しです。しかし、自分の欲しいものが与えられなかったなら、せっかく与えられてもそれを恵みと感じない人々が増えています。私たちも、神様が下さったものが自分が欲しいと思った物と違っていたら、恵みと感じない場合が多いのではないでしょうか。私たちが欲しいと思う前に、もっと大切なものが無代価で与えられています。せっかく神様が大切なものを与えてくださっているのに、それを恵みとも感じず、不平不満を言っているとしたら、与えてくださっている神様はどんなに嘆かれることでしょう。
 形造られたものが、形造った者に対して言い逆らうということは、自分が造られた者であるということを理解していないということです。造ってくださった方がおられるから、私がいるのです。自分の欲求を満たすもの以外は全部不満であるというのは、何と高慢なことでしょうか。それは良心が麻痺して自分中心にしか物事を見ることができないということです。造られた者と造った者との関係による悟りこそ、正しい良心による悟りです。どんな人も重要な存在であり、神は人を分け隔てなく大切な存在として造られました。仕事の内容などで人を差別して考えるのは正しいことではありません。
 また、ヒューマニズムは人間の権利こそが最優先であると考えます。造った方の権威以上に大切であるとするのです。しかし私たちは造られた者として、造った方の権利を敬う姿勢が大切です。これを正しい良心で悟ることによって「恵み」を感じることができるようになります。神は善人にも悪人にも雨を降らせ、日を輝かせてくださいます。それは人として、すべての人は大切な存在であると認めてくださっているからです。この神の恵みを悟る時、良心的な人は悪から離れ、善に親しむようになろうと努力します。しかしそれにもかかわらず悪を行い続け、神の恵みを踏みにじっていくなら、神は最後の審判で裁きを行われます。正しい良心を麻痺させてしまう欲望に気をつけましょう。

(2)豊かな寛容によって忍耐できる心には何があるのでしょう。
 もし小さい子があなたに向かって失礼なことを言っても、その幼さゆえにあなたは忍耐して赦すはずです。それは相手が無知で、まだ正しいことがよくわからないゆえに、あわれみの心を向けられるからです。神が私たちに寛容と忍耐を示されているのは、私たちがまだ未熟なものであるというあわれみのゆえです。イエス様は十字架の上で、ご自身を侮っている周りの人間たちのために、「彼らは何をしているかわからずにいるのです」と祈られました。それらは彼らが無知のゆえに、神の子を十字架につけるという罪を犯しているのをあわれまれたからです。また、私たちが愚かさに気づいて直していくことを、神は期待しておられます。ただ恵みを恵みと感じていないなら、そういう人はいつまでも罪から離れようとしません。恵みを感じる心こそ、罪から離れる力になります。

2.与えられている最大の恵み(ガラテヤ人への手紙2:21)
“私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られると したら、それこそキリストの死は無意味です。”

(1)あなたにとって最大の神の恵みは何でしょう。
  また、その理由は?
 恵みは私たちの努力では得られないものです。私たちは社会人になるまで親からたくさんの恵みを与えられています。しかもそれは無償で与えられます。同様に私たちも神からたくさんの恵みを無償で受けています。各々が、今、自分にとって何が最大の恵みであるか考えてみてください。ただ、与えられている恵み(社会的なものも)を、損得勘定で考えていたら、いろいろな問題が出てきます。例えば医療費も、年を取ったら無料なので使わないと損とばかりに、たくさんの老人が病院に行ったために、今は有料になってしまいました。こういった損得勘定は、社会の悪循環をもたらします。
 すべてを恵みであると感謝して生きるなら、幸せに生きることができます。パウロは、罪赦されて義とされていることが最大の恵みと考えていました。キリストの死によって罪赦され義とされたという自由さ、喜びはどんなに大きいことでしょう。クリスチャンはこの赦しを受けています。すべての犯した罪は赦されます。敬虔な心を持たない損得勘定で動く人は、赦されているんだからいくらでも罪を犯してよいと考えます。しかし、赦しは敬虔な心の人のためにあります。神は最後の審判ですべての人を正しく裁かれます。

3.働きの原動力としての神の恵み(第1コリント人への手紙15:10)
“ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、 私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての 使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私に ある神の恵みです。”

(1)神の恵みによって、どのようなあなたになるでしょう?
 これはパウロのことばです。赦されたからといって、自分勝手な生き方に走るのではなく、彼は神の恵みを無駄にせず、神のために多くの働きをしました。神の恵みは大きな原動力となって、あなたを変える力があります。恵みがどれほど与えられているかに気づいたら、心に喜びと感謝の心が満ち、生活態度が変わってくるはずです。

(2)恵みが原動力となった人生を想像してみましょう。
 恵みが原動力になると、自分中心に自分のために生きるという姿勢から、赦してくださった神のために生きたいと願うようになります。「多く赦された者は多く愛する」というみことばの通りです。恵みに気づく時、私たちの内には善を行い、神のために何かをしたいという力が湧いてきます。

 この恵みを実感するなら、もっと輝いた喜びで、お互いに「感謝します」と言い合えるようになるはずです。

 

 

 

 

 

 
■2007年8月12日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 小栗 恵子 師)

   終始一貫 しゅうしいっかん  up 2007.8.12


始めから終わりまで一筋に態度や行動を変えないこと。


それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
イザヤ30:18 


 

 

 主は、私たちの側がどんな状態であっても変わらず、いつも「恵みたい」「助けたい」「主の愛を受け取ってほしい」と、そのご意志を豊かに働かせておられることがわかります。私たちは罪人の自覚もなく、また主のあわれみ無くして生きていけないのに、そのあわれみを無視して、主の御心から大きく外れて生きているようなところがあるかもしれません。しかし、そんな無礼な私たちに対して、仮に私たちがどのような行いをしていても、私たち自身に主は「終始一貫」変わることなく愛を注ぎ続けてくださっています。  創造主なる主は、良い作品として私たち人間を造られ「非常に良かった」と言われました。そしてアダムとエバと一緒にいることを喜ばれ、そこにはうるわしい愛の関係がありました。ところがサタンにより人は誘惑され、罪が入り、均衡が破れてしまいました。聖なる神と、汚れを持ってしまい的外れの歩みをするようになった人が一緒にいることはできません。
 しかし、神は人との関係の回復を願われ、キリストを十字架におかけになりました。キリストの十字架だけが、私たちと神との間を埋める唯一の方法です。神は聖なる方なのに、あえて罪を犯した人を相手として選んでくださり、「愛するわが子よ。」と呼んでくださり、今も道を備え、導き続けてくださっています。 罪の世の中であえぎ、叫び声を上げている私たちに、「何とかしてわたしのところに来なさい。」と父なる神が呼んでくださっていることは間違いありません。 また神様は、ヨハネの黙示録21章3節で永遠にある私たちへの約束を語ってくださっています。道を外し、神の御心に生きていないことも多い私たちが、地上での苦しみを清算され、神と共に住む新しい地へ移されるまで導いてくださることは本当に感謝です。
 今日は、創世記に出てくるヤコブの人生から、主の導きによってどのように変えられていったかを見て参りましょう。

1.ふたごの兄弟エサウとヤコブ(創世記25:21〜 )
 出産の時、弟ヤコブは兄エサウのかかとをつかんで出てきました (ヤコブ=「押しのける者」の意味)。兄は猟師、弟は天幕に仕え、二人の働きは違っていましたが、根本的に違っていたのは長子の権利への意識でした。
 ◎長子の権利〜財産をもらう時、2倍の分け前がある。
        神がアブラハムに約束された祝福をいただける。
 弟ヤコブはその長子の権利に執着していました。双子が母の胎内にある時に、主の御心は「兄が弟に仕える」というものでしたが、スープ事件によって、兄エサウの長子の権利への意識が明らかにされたのでした。ヤコブが煮ていた煮物を見て、飢えて猟から帰って来たエサウはヤコブの提案通りに「長子の権利」を「今の私に何になろう。」と惜しげもなく売って、自分の腹を満たすため、煮物を手にしたのでした。
 兄エサウは、自分に与えられている長子の権利の価値がよく分かっておらず、軽んじました。祝福の内容以上に、神様が与えておられる関係の価値に、エサウは全く目を向けていませんでした。このエサウをヘブル人への手紙12章16節で「俗悪」と評しています。
 ○俗悪=神に対して無関心
     世俗の事のみに心奪われている人(不敬虔・ 冒涜的)
 後になって涙を流して祝福を求めても退けられたと、その後に書かれてあります。結局、長子の権利を軽んじるとは、それを与えておられる神様ご自身を軽んじることになるのではないでしょうか。私たちも、目の前に見えることに心を奪われていないでしょうか。罪を犯す時は、正しい良心がいくらとどめる必要があることを忠告しても、罪の力に押し切られてしまいます。エサウのように、今腹を満たされれば後はどうなっても良い、という欲に仕えきってしまうのではなく、今以上に、永遠に用意されている祝福に目を留めてほしいと神は私たちに願っておられます。人は霊的な生き物であり、神様から与えられる霊的なものをおろそかにして肉に仕えていては、成長は望めません。この世は神の愛、聖さをみくびります。もし自分の腹に仕えている状態のエサウが長子の権利をそのまま手にしたなら、神様の祝福の価値が無駄になりはしないでしょうか。私たちもキリストを信じて、神の御国を受け継ぐように神の子どもとされましたが、イエス様の十字架の恵みを侮ることのないように点検して参りましょう。
●弟ヤコブ〜父イサクを意図的にだます
 兄エサウが父イサクから長子の権利の祝福の祈りをしてもらうと知り、ヤコブは策略を練りました。毛深いエサウのようになるべく、首に手に子ヤギの毛を付け、エサウの服を着て、目のうとくなっている父イサクをだまし、兄に成り代わって長子としての特別の祝福を受けたのでした。長子の祝福は、誰に与えてもよいという内容のものではありません。その後駆けつけたエサウは祈ってもらうことができませんでした。意図的欺きを行ったヤコブは兄エサウから命を狙われ、逃げていくことになりました。

2.逃げたヤコブ(創世記28章〜 )
 長子の権利に執着し、主を畏れる心があったヤコブは、本当の意味で神を知ってはいませんでした。人間的知恵で長子の権利を奪い、祈りを受けたものの、ここに来て孤独となり、将来がまったく見えない闇の状態におかれたのでした。
 私たちも神の子どもとして真の相続者となるために、試みが必要です。それが「闇」です。神はあえて私たちを闇の中に置かれます。何も見えない闇の中で、神の答えがきます。ヤコブは寝ていただけです。私たちが人間的な策略を止めた時に、実は神の答えが来ます。彼は一つのしるしとして、天から地に向けてはしごがかけられ、神の使いが上り下りしている夢を見ます。闇の中で神は働かれ、私たちに助けを与えられます。主のことばの中には、あくどいことをしたヤコブへの責めは見あたりません。いやむしろそんなヤコブに「あなたと共にいる、あなたを守る、この地に連れ戻そう。」と約束され、「それまで決してあなたを捨てない。」とまで言われます。私たちが性質的に神の前に届かない者であっても、神はお捨てにならず守られ、約束が成し遂げられるまで導いてくださいます。サタンが私たちの不完全さを突いてきても、私たちのために流されたキリストの血潮が私たちを守ります。
 ヤコブはここで初めて、主との関係が築き始められます。肉において切磋琢磨して働いている時には、主を知る領域に行きません。自分の努力を止めた時に、ヤコブは主がおられることを知りました。そしてここをベテル(=「神の家」の意)と呼び、神をあがめ、十分の一をささげるという誓願を立て、彼の主を畏れる心が具体的に表されていきました。
●伯父ラバンのところで
 ヤコブはラバンの所で神様により訓練を受け、人間的な狡猾さなど、彼の肉の性質が取り扱われました。すなわち、要領よく立ち回ることなく勤勉に働くこと、目的(結婚)のために苦しみを忍耐すること、さらに自分が父イサクをだましたように、妹ラケルと思って結婚した相手が姉レアだったように、伯父ラバンにだまされることにより、だまされる苦しみを身をもって味わうことを体験しました。しかしラバンの所から出る前にはまだ人間的知恵をもって、強い家畜が自分の所に来るようにしていますが、彼は「神がラバンが自分に害を与えるようにされなかった」と神を認めており、ラバンの所から出る時期も神が用意されていたことがわかります。

3.エサウとの和解(創世記32章〜 )
 ヤコブが生まれ故郷へ戻る時に、ヤコブには20年前にエサウにしたことが責めとして残っています。その報復を恐れ、エサウが400人連れて来ていることを知り、ヤコブはまたしても人間的策略を図ります。陣営を二つに分け、一つが打たれても一つは残るように計算をしています。(主を知ったヤコブはそれでも主の前にへりくだった祈りもしていますが)一方で贈り物によってエサウに取り入ろうともします。しかし恐れを消すことのできない彼は、たった一人で神と格闘したのです。つまり自分の贈り物等、自分の力や作戦では前に進むことができなくなった彼は、神の前に出るしかない、と祈ったのです。25節にもものつがい(からだをを支える力のある所で、自我を表す)が外れたとは、彼の肉の思い、自我が砕かれたということです。根本的には、神の前に「自分自身を砕いてください」という祈り、神の前に1対1になることが必要なのではないでしょうか。ヤコブはこれを致しました。そして自我が砕かれ、頼るところが神しかなくなったヤコブは、「私を祝福してくださらねば去らせません。」と神への信頼を持ってしがみついたのです。そしてイスラエル(=「神の王子」「神と戦う」の意)と呼ばれるようになり、ヤコブという肉の名前ではなくなりました。
 この場所はペヌエル(=「神の御顔」)と呼ばれるほど、神と近い関係にあることを意味します。神様は終始一貫、恵もうと待ってくださっていますが、私たちが自我(自分の思い)や世のものをつかんでいては、神は与えることができません。それらを離す時、神の恵みが上から豊かに注がれてきます。
*「…大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ人への手紙6:15)
*「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、
  神の子どもです。」(ガラテヤ人への手紙3:26)
 ヤコブは肉の働きをする人から、神に自我を砕かれ、全く新しい人となりました。私たちは肉の思いを十字架につけ、新しい歩みを為す者です。またイエス様が流してくださった血潮を仰ぎ、罪赦された者として信じる信仰により神の子どもとされ、相続を受ける者となりました。
 神と私たちの距離を埋めるものはデボーションです。ヤコブのように神と1対1となる時、祈りによってみことばによって、神は必ず御心を示してくださるに違いありません。この一週間、神が私たちにくださっているあわれみと恵みを受けとめ、また新しい自分として歩みをなして参りましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年8月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   喜色満面 きしょくまんめん  up 2007.8.5


喜びの表情が、顔面に現れている様子。


さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
(詩篇95:1)
 


 

 

 喜び、これにはどんなすばらしい力があるのでしょうか。様々な人々との関わりの中で、互いに認め合い、受け入れ合い、赦し合うために、主に向かって歌い、叫ぶ喜びが大きな力になるのです。日本文化では、喜びをそのまま、まともに表すことをよしとせず、喜びを抑えてつつましく表す傾向があります。しかし、それでもこらえきれないほどの喜びがある、これが「喜色満面」です。内にある喜びを表し、輝かせていくなら、それはその人にとって人を赦し、受けとめる大きな力となっていくのです。

1.一万タラントの免除(マタイ18:23-25)

“このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。  清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のと ころに連れて来られた。  しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、 自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。  それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予く ださい。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。  しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除して やった。  ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から 百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を 絞めて、『借金を返せ。』と言った。  彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返す から。』と言って頼んだ。  しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れ た。
 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その 一部始終を主人に話した。  そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあ んなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえを あわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきでは ないか。』  こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡 した。
 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの 父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 このたとえ話で最も重要なポイントは何でしょうか。「人を赦さないと自分は赦されない」であるという印象を持つことが多いでしょう。実際に赦せない状況にある方などは、「ああ、私は赦されていない、もうだめだ。」という思いになってしまうかもしれません。しかし、イエス様は私たちが否定的になるためにこのたとえ話をされたのではありません。イエス様は律法やルールを言われたのではなく、私たちが人を赦せるようになるために、この話を用いられました。一万タラントも赦された人がどうして百デナリ貸した人を赦せなかったのか、またもし彼が赦せたならば、何が赦す力となったのか。ここでの重要なポイントは、「赦された喜びを分け与える」ということです。正しい良心からこのたとえ話を読み、人を赦すコツを学びたいと思います。
 主人は借金の清算のために、しもべに自分も妻子も持ち物全部も売るように命じました。どんな理由があるにせよ、一万タラントの負債は返さなければならないと責めたことでしょう。その責めに対して、しもべは色々な言い訳や弁解をして猶予してもらおうと必死に懇願したことでしょう。責められれば責められるほど、心を痛め、「ああ自分は何と大変な借金をしてしまったのだろう。」と悔いて追い詰められた状況になっていました。その様子を見て、主人は「かわいそうに思って」一万タラントを免除しました。一タラントは6,000デナリ、一デナリは当時の一日の労働賃金に相当する金額です。つまり、日給を一万円とすれば、一万タラントは6,000億円にも相当する、とてつもなく大きな金額です。いくらかわいそうと思っても、6,000億円もの借金を赦すことができるでしょうか。普通ではとてもできることではありません。それでもこの主人が赦せるほどにかわいそうと思った、このしもべの状態はどのようなものだったのでしょう。とことん追い詰められ、正気を失ったかのような状態まで陥っていたのではないでしょうか。それほどに心を砕き、へりくだっていたということなのです。
 人を赦したいという気持ちは、相手がごう慢な態度であったらわいてきません。自分の義を押し付けて、「わたしは間違っていない」と言い続ける限りは、心から赦したり、受け入れたりはできません。しかし、正直にすべてを告白し、本当にへりくだって心砕かれた様子を見るなら、赦してあげようかな、という気持ちになってきます。へりくだることが赦される大切なポイントです。そして、どれだけ大きなことを赦されたかということを理解すればするほど、その赦された喜びは大きくなるのです。この一万タラントもの借金を赦された喜び、これが詩篇のみことばにある、主に向かって歌う喜び、主に向かって叫ぶ喜びを表しています。
 また、私たちが人を責めるとき、その目的を誤ってしまうと、相手を傷つけ、その人の存在に対する価値評価を下し、潰してしまうような責め方になってしまいます。神様が私たちを責める目的はこれとはまったく違います。神様は私たちを生かすために責められます。私たちにあわれみを注ぎ、赦したいというお心から、罪を責めてあらわにし、私たちがへりくだることを願っておられるのです。私たちも人を責めるときは、赦すことを前提に責めることが必要です。赦すつもりがなければ責める意味はありません。もしそうするなら、結果として「人を赦さないなら、天の父もあなたをお赦しになりませんよ」という意味で、最後に言われているのです。人に対して責任を追及し、事情を聞いて正しく判断し裁きをするときに、厳しい責めをするのならば、「かわいそうに思う」心をもって赦すことを目的に責めることが、人を生かす最善の責め方であることを覚えましょう。

2.あわれみを受けたように人をあわれむ

 一万タラントを赦されたしもべの喜びは、どれほどのものだったでしょう。しかし、その大きな喜びの中にありながら、しもべは百デナリの貸しのあるしもべ仲間を赦してやることができませんでした。そのしもべ仲間も彼と同様、借金を責められて心砕かれ、「もう少し待ってくれ。」と頼みましたが、赦されませんでした。どうしででしょうか。
 一万タラント=6,000億円も大きい金額ですが、百デナリ=100万円も大きな金額です。ここに人を赦せないからくりがあります。
私たちは、人が自分に犯した罪を非常に大きく捉えてしまうのです。自分が赦された罪よりも、人が自分に犯した罪の方が大きいと無意識に捉えてしまう心の動きが、赦せなくしてしまうのです。人を赦すための大切なポイントは、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」という主人のことばにあります。  百デナリは、一万タラントの60万分の一です。言いかえれば60万円に対しての1円です。あなたが60万円持っていて、誰かから「1円貸して欲しい」と言われたら、利子をつけて貸すでしょうか。ほとんどの場合、「さしあげましょう」というのではないのでしょうか。相手に施すとき、金額の大きさによって心が試されます。与える分と自分が持っている分をと比べて「小さいな」と思えば、貸してあげるというよりさし上げることができる。これを人を赦すときに用いなさい、と神様は言われます。6,000億円を赦された喜びは、6,000億円の宝くじに当ったのと同じ喜びです。6,000億円という金額は手元になくても、6,000億円赦された、その喜びは心に残るのです。
 神様の前に赦されない罪を赦された、その大きな喜びを、もっと感謝して味わうことが必要です。その喜びを抑えてしまったり、隠してしまっては、自分で喜びのエネルギーをもらしてしまうことになります。喜んでいれば、様々な困難や問題、悲しみをも乗り越えることができます。大きな喜びは大きな悲しみや苦しみを乗り越える力、そして人の重荷をも受けとめることのできる力となるのです。6,000億円赦された喜びは、100万円の相手の罪を簡単に赦せるほどの力です。これが、主イエス・キリストの十字架の赦しの御わざです。あなたが赦されている罪は、誰かがあなたに犯した罪のような小さいものではありません。侮辱された、心を傷つけられた等、あなたにとっては大きく感じるかもしれませんが、それはほんの1円にすぎません。神の前に犯したあなたの罪は、神の御子イエス・キリストのいのちをもってあがなうということですから、本来値段のつけられないほどのものなのです。それ以上に、罪を犯すことのないお方、罪を犯して汚れることのない、神であられる御子イエス様が、私たちの罪を負って、ご自分は罪を犯していないのに罪に染められて、十字架で私たちの身代わりに裁きを受けられたということは、単にいのちをささげたということだけにとどまりません。このことは神としては本来あり得ないことなのです。そうまでしてでも私たちを救いたいと願われた神様の愛と、そのために支払われた罪なき神の御子のいのち、そこまでの犠牲を払わなければあなたの罪は取り除かれないということを考えるならば、これを信じるだけで赦しを得られるということは、どれほど大きな喜びでしょう。このことをこのたとえ話を通して実感して思いみることが必要です。そうすれば、人の罪は小さく見えてくるはずなのです。
 ただ、人の罪が小さく見えても、相手がへりくだらなければ、あわれみの心、赦す気持ちはわいてきません。心を砕き、へりくだった善人を赦すために、神の御子のいのちはささげられたのです。神様の救いは善意に対して善意で応える人のためのものであり、悪を返すような人のものではありません。神様は悪人が心を入れ替えることを願っておられます。悪人のまま、ごう慢な心のままで救われることを願ってはおられません。ごう慢さを取り除いて、自分の罪を認め、弱さを認める正直さ、誠実さ、へりくだった心を持つようになることを望んでおられるのです。そのような人は、失敗を繰り返すことがあっても救われるべき人々です。神様は、人々の正直さ、誠実さをみたいのです。すべての人はその心を持っているはずです。それを隠さずに表に出してほしい、だから神様は罪を責められるのです。すべて洗いざらい、正直に言いなさい、全部赦すから、これが神様のお気持ちなのです。
 心の正直さ、誠実さ、この神に似せて造られたよい部分を、ごう慢さやプライドによって心の奥底に閉じ込めてしまわないようにしましょう。心の内をあらわにして神様の前にさしだして、「どんなにがんばっても私は100%よいことができるものではありません」と自分の弱さを認め、受け入れる正直さが必要です。色々な努力によって私たちは様々なことをすることができます。しかし、神に対する不敬虔の罪は、努力して赦されるものではありません。へりくだってこそ、赦されるものです。そして、その罪の賠償を、神様ご自身が肩代わりしてくださったのです。これが神様の私たちへの愛です。この愛を喜びとして受けとめて、人を赦すという心の力を内側に持つことができるのです。赦された喜びを知れば知るほど、たとえ人の罪に対して一時的に感情が波立つことがあっても、十字架を見上げることができるのです。そして、相手と同じごう慢な態度を自分も神様に対してしていたのだ、神様のお心をどれほど傷めていただろうか、とへりくだることができるでしょう。このようにして、少しずつでも赦すことができるようになるのです。
 赦さなければならない罪を見る前に、赦された罪の大きさを見ることが、人を赦すための大切なポイントです。あわれまれたように人をあわれむ、自分の赦された罪をもって心に喜びを見出すことです。この喜びはすでに与えられています。イエス・キリストを信じた人は、皆同じ一万タラントの赦しの喜びをすでに与えられているのです。この喜びは、6,000億円の宝くじが当って小躍りするようなものです。だからこそ、赦された罪の大きさがわかったならば、「主に向かって喜び歌い、われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」ということばが自然に出てくるのです。一度に全部、赦された喜びを見出すことはむずかしいかもしれません。しかし、毎日の生活の中で、少しずつでも見つけ出すことができるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 
■2007年7月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   飛耳長目 ひじちょうもく  up 2007.7.29


事物の観察が鋭くて敏感なことのたとえ。『飛耳』は、遠のく音をよく聞くことのできる耳。『長目』は、よく見ることができる目。本来、君主の備うべき条件のことをいったことば。


口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分ける。
(ヨブ記34:3)
 


 

 

 今日は「神のことばを正しく聞き取る」ということをテーマにお話します。
 今週の四字熟語の「飛耳長目」は、リーダーの立場の人に特に必要とされるものです。リーダーの人々は、物事をよく観察し、するどく見極める必要があります。そのためにことばを聞き分ける耳は大切な器官です。目や口、耳は各々の情報を伝えてきますが、実はその情報を判断するのは、その人の「心」です。例えば食物の味、舌は味の特性を伝えてきますが、それがおいしいかどうか判断するのは、経験を積んだ心なのです。
 今日は、私たちが「神のことばを正しく聞き取る」ために、聞き取る前の心の準備について考えていきます。聖書は私たちに向けて書かれた神のことばです。人の手紙でも、書いてくれた相手の心を知っていたら、シンプルなことばの表現でも、その気持は伝わってきます。
 ただ、その相手の心を誤解していると、その手紙の文面はどんなに良いことばが並んでいても、すべて否定的に悪いように思われてきます。つまりは、聞き取る側の心をしっかりしていないと、聖書もただ読んでいるだけで何も感じなかったり、心に響くこともなくなってきます。神のことばを正しく聞き取るために、3つのポイントを挙げましょう。

1.主とあなたの関係を思い出す(詩篇84:12)
“万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。”

 信頼して幸いという関係にあることを、私たちは気づいているでしょうか。どれくらい信じているか、その信頼の度合いによって変わります。そのひとつに献金があります。自分の収入のどこまでを神に捧げるか、それは神への信頼の度合いによって変わります。また、みことばにどこまで従順であるかによっても、信頼の度合いは量れます。全き信頼をしている人は、どんなみことばにも従えます。聖書を読んで理解できないと言う時はどんな時でしょう。自分の心を掘り下げて考えてみると、神に対して、全き信頼には至っていないという状況が見えてきます。
 神様のことを理解していくには、まず信頼する心を持つことが大切です。信頼なしに理解することはできません。神への信頼度とみことばの理解度は比例します。では、信頼度を高めるためにはどのような体験が必要でしょうか。十字架が神から与えられた最高の体験です。私たちの将来を保障するために、イエス様がすべてを投げだし、ご自身のいのちをもって贖いを完成してくださいました。
 この十字架に示された神の愛がわかってくる時、神への信頼が高まってきます。長い信仰生活の間で神が自分に何をしてくださったのかだけに目を留めていては、信頼度は高まりません。神の私たちに寄せられる根本的な愛の姿勢に気づいたら、目の前に起こってくる色々な現象によって、信仰が上がり下がりするような事はありません。
「御子を犠牲にしてまで、自分を愛してくださっている」という神の心を知り、信頼を高めましょう。
 また、人は相手への関心が薄れてくると、当然信頼度も減ってきます。しかし、いかに、また何について関心を持つかは各自の自由意志であって、強制できません。主とあなたとの関係はどうでしょうか?

2.あなたに対する主のお気持ちを知る
“人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。”(箴言5:21)
“わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−主の御告げ−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”(エレミヤ書29:11)

 神はあなたに心を配っておられます。例えばよく気が付く奥さんがいる夫は幸せですね。心配りができる友人と一緒にいると、安心して心が落ち着きます。それは自分を理解して、いろいろ準備してくれるからです。
 神様も、私たちの様々なことに気配りしてくださっています。人によっては気配りされたくないという人もいるかもしれません。それは人間関係における気配りをイメージするからです。神様は決して私たちに親切を押しつけてきたりはされません。ただ、神様の気持ちを理解していないなら、どのような気配りも良いものとしてとれなくなります。神様のお気持ちを理解していくなら、みことばに含まれる意味も自ずとわかってくるはずです。
 エレミヤ書29章11節のみことばの中に、神様のどのような気持ちが含まれているでしょうか。幸せになってほしい、たくましくなってほしい、愛している…などの様々な気持ちを読みとることができます。その気持ちをまず読みとることが大切です。そうしたら理解していくことができます。
 そして気持ちを想像するには、信頼が必要です。信頼がないと、せっかくの気持ちも良いものとして理解することができません。

3.主のお気持ちを押しのけない(第1サムエル記15:23)
“まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。”

 このみことばは厳しいものです。なぜなら、神のことばを退ける、つまり従わないなら、神もその人を退けるとあるからです。
1と2のポイントをまず思い出しましょう。神はあなたとの関係において深い信頼を寄せておられます。あなたがイエス・キリストを受け入れ、十字架の贖いを信じたのもご存知です。そのことを思ってもう一度、サムエル記第1 15章23節を読んでみてください。
 ことばの中には語る人の気持ちが込められています。そのことばを退けるとは、その人の気持ちも退けることになります。神の気持を退け、理解しないということは、神に頼まれた仕事をもはや続けることができないということです。神があなたに頼みたいと願われる仕事は、上部だけ、形だけやればよいというものではなく、心を込めてやってほしいと願われるものです。単に技術ではなく、職人のようにいかに精魂込めてやるか、を神は大切に思っておられます。
 サウルを退けられた時、神は大変残念に思われました。彼は気が小さく、へりくだった心を持っていたので、神は彼を王として選ばれたのですが、王になってから彼は高慢になってしまい、神の権威と力をまるで自分の権威と力のように感じてしまい、自分の考えを神の権威を用いて押し通してしまいました。これを神は「退けた」と言われたのです。しかしサウル王は、その神の心から残念に思われているお気持ちを聞いても、さらに自分のメンツの方を気にして、自分の意見を押し通しました。つまり、神の気持を退けたのです。本当に愚かな行為です。人間関係でも、互いの意見の食い違いで言い争いになる原因がそこにあります。
 言い争いは、ことばの内容よりも相手に自分の立場を押しつけることです。その強制する力で相手の気持ちを押しのけ、自分の気持ちを入れようとするのですから、誰でも傷つき、反抗したくなります。
 神は寛容な方で、決して強制してはおられません。ですから自分の考えを強く押しつけようとし続けるなら、その人に対して神は退かれ、結局その人は神のみこころがわからないままになります。
 主のお気持ちを強く押しのけないようにしてください。神にもあなたへの思いがあります。強く押しのけていくなら、良い関係もこわれてしまいます。神はご自身の気持ちを預言者を通して文字に残されました。文字に残されることで、何度もそれを読み返し、書いた相手の心を探ることができます。ただ会話だけであったら、聞き間違いや誤解をすることがあっても、文章だとその前後からでも読み直すことで、より正確に知ることができます。これは私たちへの深いご配慮です。罪を宿した私たちは、その影響を受けてしまい、間違った聞き方をしてしまうことがあります。しかし後で読み直せる事で、その間違いに気づくことができるのです。
 聖書を繰り返して読む時、私たちはより深く、正確に神様のお気持ちを理解できるようになります。つまずいた部分も、理解することで乗り越えられるようになり、前向きにとれるようになっていきます。
 私たちの勝手な解釈で神のみこころを退けることなく、今日の3つのポイントを生かして、もっと深くみことばから神を知っていきましょう

 

 

 

 

 

 
■2007年7月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   明々白々 めいめいはくはく  up 2007.7.22


非常にはっきりしていて、疑いのないこと。「明白」を強調したことば。


パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」
(使徒23:1)
 


 

 

 議会に引き出されたパウロの心からの告白。その気持が「明明白白」です。このような弁明ができる、確信あるクリスチャン生活を送りたいものですね。神の前に「明明白白」と歩むことは、「全くきよい良心」と同じ意味を持ちます。
 今、「自分に正直に生きる」とか、「自分を偽らずに生きる」という言葉が流行っています。しかし、多くの人は欲望が自分自身であるかのような勘違いをしているようです。欲望は自分ではありません。「良心」が本当の自分なのです。神と共に生きる者としての自分は、良心を働かせて生きていけます。そして、すべての人が持つことのできる「全くきよい良心」が確かに存在するのです。パウロなどの特別な人だけができるわけではありません。

1.『きよい良心』とは?(使徒の働き23:1)
【口語訳】
 パウロは議会を見つめて言った、「兄弟たちよ、わたしは今日まで、 神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」。
【新共同訳】
 そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟た ち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生 きてきました。」  

口語訳では「ひたすら明らかな良心」、新共同訳では「あくまでも良心に従う」と書かれています。
 パウロのクリスチャン生活は、神の前に良心を働かせて生きていく生活でした。私たちが自分をパウロと遠い、近いと考えるとすると、それは何を基準にして考えているのでしょうか?出来た出来ないでしょうか?行動の結果をパウロとの距離として認識していないでしょうか。
 「罪を犯さない」「罪とは決して妥協しない」などの行いは、ほとんどの人ができないでしょう。しかし大事なのは結果ではなく、たとえ悪い結果だとしても、そこに至るまでに神様と共に歩んだ道程、良心なのです。パウロ自身も失敗をしています。(使徒の働き23:2〜5)で彼は自分の失敗(非)を認めています。これが本当のきよさです。
 自分に正義があれば、相手をないがしろにしてよいものでしょうか?パウロの言い分は正しかったのですが、彼は「秩序は守られなければならない」ことを知っていました。それで、自分の行き過ぎに気づいた時、すぐに自分の非を認めて、へりくだったのです。神の前における正直さがここに現されています。

2.明るみに出す(エペソ人への手紙5:11〜17)
“実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明 るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、 口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き 出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにさ れたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「 眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれ ば、キリストが、あなたを照らされる。」そういうわけですから、 賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、 よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だか らです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるか を、よく悟りなさい。”

 このみことばを聞いて反抗心が出た人は注意してください。闇の立場にいるかもしれません。コントロールされたくない自分を持っている、従いたくない、自分が主人でありたい。それが闇の立場です。しかし、本当は不幸せで、不安で、傷ついて、みじめな状態なのです。

(1)『明るみに出す』とは?
 神を畏れる心(良心)に照らし合わせること、隠していることがないことです。イエス様は、神を畏れる心の中におられます。そしてどんなことでも、明るみに出したら、イエス様は「赦してあげる」と言ってくださるのです。

(2)『光によって』とは?
 光とは神様ご自身です。キリストはご自分の血をもって、私たちの恥ずかしい罪を赦してくださいます。パウロは自分の罪をみことばによって明らかにしました。それはイエス様を信頼し、従っているからです。

(3)『眠っている人よ。目をさませ』とは?
 眠っている人は、自分が見えていない人です。良心に気づいていない人でもあります。ですから、神を畏れる心である良心に照らし合わせよ、と言われているのです。
(4)『キリストがあなたを照らされる』とは?
 キリストが、正しく自分自身を見ることができるようにしてくださるということです。「わたしはあなたを赦してあげるから、悪いところを直すんだよ。」と言ってくださいます。

(5)『賢い人』とは?
 失敗を隠さない人です。本当に暗やみにいたい人はいません。みんな「愚か」「賢くない」「間違っている」と言われたくないだけなのです。でも、世の中の価値ではそれらのマイナス評価を受けていたとしても、イエス様の前ではマイナスの評価はありません。罪をあらわにした人は赦されるのです。そして、本来あるべき姿、「神の前に喜ばれる者」としてくださいます。

(6)『主のみこころをよく悟る』とは?
 正しい良心をもって主を知る人がそうです。神様は私たちを赦したい、存在を喜びたいと願っておられます。
人生に起こるいろいろな矛盾も、難解なできごとも、光の立場から見ていく時に、理解することができるようになっていきます。パウロのように、行いによらず正直な心によって、神に喜ばれることができます。良心的な立場から物事を考え、光によって諭しを与えられていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年7月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   済世之志 さいせいのこころざし  up 2007.7.15


世の中の弊害を除き人民を救い助ける志のこと。


たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
(第1コリント13:1〜3) 


 

 

 神様から教会のビジョンとしていただいた広島エルサレムプランは、まさに「済世之志」と言われるにふさわしい神のご計画です。昨晩は、今私たちが広島にいることは、神様の大きなご計画があることを、広島とこの教会の歴史を通してお話しいたしました。今日は、神様のご計画に自分たちがいるという前提で話をしていきます。
 人類の罪によって、原爆投下という悲惨な目にあった私たちの町広島は、今世界に向かって平和を訴える町へと変えられました。しかし、どんなに「神様の平和を世界に」と発信しても、志となる動機が悪ければ、何の役にも立ちません。「済世之志」は、どの宗教も言っていることかもしれませんが、現実に実現できる救いの道を開いたのは、イエス・キリストだけです。この志のための動機を持った宣教師たちの行動は、世界の歴史を変えていきました。その動機とは何でしょう。

○動機となるみことば〜(第1コリント人への手紙13:1〜3)
“たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。”
 愛(アガペ)から出たあわれみの大切さは、正しい良心を持った人は理解できるでしょう。愛はすべての行動の価値付けの基本です。しかし今は、お金が基本になってしまい、お金で愛を測ったり買ったりする時代になっており、その不敬虔な世の中の価値観に巻き込まれないためにも、このみことばはとても大切です。
心のこもったものに価値があることが一般社会でも認められていても、現実には形式だけの誕生日プレゼント、バレンタインデーの義理チョコetc…のように、できていないことも多いです。神は動機を大切にされます。なぜ愛が大切なのでしょう。
 全宇宙は愛から生まれ出たものです。なぜなら、愛なる神様がすべてを創造されたからです。ですから、すべての行為に愛がなければむなしいのです。私たちの内に起こされた、どんなにすばらしい志であっても、愛からのものでなければむなしいのです。
 愛によって造られたものだから、愛によって用いていき、応えていく…。愛なる神様は愛を込めて全宇宙を造られました。愛する条件があったわけではありません。あなたも神が愛を持って命を与え、人生をもたらし、ここに置いておられるのです。愛のこもった一人一人が心を通じ合わせる基本は、互いに愛を持ってコミュニケーションを取ることです。単に言葉の内容だけにとらわれず、心を込めて受け止めると、誤った言葉の使い方であっても正しく受け止めることができます。

1.神への信仰の動機は?(ガラテヤ人への手紙5:6)
“キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。”
 信仰の動機も愛によってなされなければむなしいのです。まるで便利屋のように神様に祈るのは愛から出ていることでしょうか。思い通りにならないことや理解できないことが人生に起こっても、愛があれば神への敬虔な心を持ち続けられます。あなたは愛の動機で神様に祈っておられますか。
 もはや「〜してください」は少なくなり、「神様、あなたの一番良い時に、私の願いに応えてくだされば、本当に感謝です。しかし応える必要がなければそのままに、どうぞしておいてください。あなたのなされるままに私の人生を、あなたの前に歩んでいきます。」と祈りが変わっていくのではないでしょうか。
 愛を動機にすれば、夫婦げんかも1/10くらいに減るでしょうし、いろいろな問題も解決するでしょう。国同士の戦争の基本的解決も互いを思いやる気持があればしやすいでしょう。しかし少しでも自分が得するようんと条件を要求して、争いが起きているのが現状です。みなさん動機を考えてください。
信仰も愛によって神様への信頼を向ける動機を大切にしましょう。どんなに良い志やビジョンであっても、愛からの動機でなければすべてはむなしいのです。

2.この動機はどのようにして起こされるのか(第1ヨハネの手紙4:9〜10、19)
“神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。…私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”
 愛の動機は一人では起こせません。人格的な愛を感じるには対象者が必要です。
(1)神の愛が私たちに示された〜目の前に愛が示されなければ、私たちの内に愛は起こりません。十字架は歴史に刻まれた出来事として、神が私たちを愛されたしるしです。すべての時代の人が神の愛を感じなくても、神が愛されているしるしです。
(2)ここに愛があるのです。〜神の愛は、十字架以降、この地上に存在し続けています。愛は見えず、触れませんが、十字架の贖いに神の愛はあります。十字架をもっと深く考察すると、あなたの魂は神の愛に目覚めてくるでしょう。
(3)神がまず私たちを愛してくださった〜愛されてこそ、愛することができるのです。最近は親自身が子どもを愛することが分からず、お金をかけて教育することが愛だと思っています。心からの愛による触れ方がおろそかにされ、表面的になっています。愛に触れなかったので、愛することができません。私たちもまず愛されなければ、愛することがわからないのです。

3.動機が起こされた後(ピリピ人への手紙2:13)
“神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。”
(A)主のために何かをしたい
 いただいたプレゼントを通して伝わってきた相手の愛に応答したくなります。その愛の大きさが分かれば分かるほど、お返ししたくなります。神が私たちの罪の身代わりにひとり子を裁かれるほど、私たちに示された愛に対して、私のできることをさせていただきたいというのが正しい良心の応答です。
そして「何かをしたい」というのが志(心の向かうところ)の始まりです。「主のために何かをしたい」というのが愛の動機による志です。
(B)神の御心(神の計画・願い)が伝えられる
 みこころが伝えられると「主のために何かをしたい」という志を持った人は「はい、わかりました」とビジョンと使命を持ちます。自分でその願いに「私をぜひお使いください」と、愛の動機によって神様の働きを健全に行う姿勢が生まれてきます。
C)しっかりとした構えを持って取り組む
 無知な熱心さは分を越え、迷惑をかけてしまうこともあります。情熱だけでは問題になります。理念(正しい考え方)を持って願いに応えていきましょう。

4.ジーザスフェローシップ広島の理念(しおりP1〜P7参照)
 主のために何かをしたいあなたは、神様の気持ちが広島に神の平和の町になってほしいことだと知ると、あなたは少しでも役立てればと思うことでしょう。
(イザヤ書6:8)
“わたしは、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」”
 イザヤは自分に語られたわけでなくとも、「主よ、私がここにおります。私を遣わしてください。」と反応しました。私たちのクリスチャン生活は、イザヤのこの姿勢のような自発が基本です。神様のしてほしいことがわかると、一部でも実現できないかと考えることが、愛への応答ではないでしょうか。相手が願っていることを言われる前に行動することは、価値ある愛の行動です。一方、その願いに気づいても、言われてから行動するのは義務です。主の願いが私のビジョン・目標であり、それを実現することが私の使命です。(愛の動機の人は愛のお返しとして、愛してくださった方の願いに応えることが目標となる)神が広島に願っていることを私たちの目標とし、それを達成するために努力していくことが私たちの使命です。だから広島に今あなたが住んでいることは、非常に意味があります。あなたは選ばれた人です。

使命達成の土台(理念)P5
理念=事業・計画などの根底にある根本的な考え方
広島を平和の町にする神の願いを実現するために、愛を動機として正しい良心を持って取りかからなければなりません。熱心に感情的になるほど、争いの種は生まれてきませんか?汝の敵を愛するあわれみが豊かであることも必要です。
教会理念=神からのビジョンを実現するための愛の動機という、
     抽象的なものを具現化したものである
正しい良心による判断=神の教えを基準としている
(1)〜(6)は良心の大切さについて語られています
※(5)大伝道者パウロは、平和の基本である争いがなく力によって支配することもなく、あらゆる宗教の人に責められることのないように、良心を聖く保つ姿勢を持っていました。
※(7)私たちが神の子として父なる神から受け継いでいるDNAはあわれみ深さであり、愛である。DNAの中に刻まれたプログラムが何かの環境に遭遇して始動するように、「敵を愛する愛は敵が現れて初めて始動するDNAです。霊的DNAです。敵を愛するその資質を持っているのです。
<あわれみの法則>
(マタイの福音書18:33)“私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。”
・あわれみを受けた者は、人にあわれみを施さなければならない
あわれみを施さなかったしもべは、また牢屋に入れられました。神様からあわれみを受け、罪の赦しを受けた私たちは、兄姉の罪を赦すのです。そうしなければ、あなたの借金(罪)は赦されません。
・あわれみの深さは相手の立場に立ってどのくらい理解する事ができるかに比例する
私たちが人を赦せないのは、その人の立場に立って考えていないからです。その原因に触れたら同じかもしれない、と共通点を見出すと、あわれみを向けられるようになるでしょう。あわれみを施そうとする人は、何とか相手を理解しようと努めます。

4.ジーザスフェローシップ広島のビジョン4つの特徴を持つ教会
(1)神の魅力ある教会
 「本当に神様はおられる。私は神様に触れられた。」と人々が語り合うようになる。たとえば、令子さんのすばらしさを支える神の臨在?存在?がある」といい、「他のコンサートと違う」と言うようになる。
(2)敬虔な教会
 神を信じている者のうるわしさを見て、私も彼らのようでありたいと人々が語り合うようになる。不敬虔な未信者の人々が、あなたを見て「ああいうふうになりたい」と品格的な面を感じ、語り合うようになる教会です。
(3)交わりの教会
 私もその交わりの中に入りたいと人々が語り合うようになる
(4)落ち穂拾いの教会
 社会的に尊敬され、私たちにはとても真似ができないと人々が語り合うようになる。
 社会的に尊敬されるとは社会貢献することです。「何でそこまでするのか」と言われてこそ、落ち穂拾いの教会です。たとえば、育った環境によって社会順応できない人が社会復帰するため、果てしなく同じ失敗を受け止める心が必要です。単なるあわれみでなく、あわれみ深さが求められます。
神の願いの実現のため、この4つの特徴を備えていくことが必要です。これは福島正則の時代の1250人のクリスチャンが持っていたものです。広島の中心的場所で病人を世話し、宣教師の知恵、力も合わせ、町作りをしていきました。(しかし日本のクリスチャンはどんな良いことをしても、最後は殉教しました(殺されました)。)そんな歴史を持つ日本であり、広島です。神は日本をあきらめておられません。もう一度そのような人々を起こそうとしておられ、その期待を広島に向けておられます。その期待に一番近い人が教会に集まっています。あなたはこの状況の中でしっかり時間をかけて決心に至っていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 
■2007年7月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   千鈞之重 せんきんのおもみ  up 2007.7.8


きわめて重いこと。非常に価値が高いこと、または、そのようなもの。


そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
(ルカ12:15) 


 

 

物質的豊かさにある現代社会の中では、財産や持ち物でいのち=存在の大切さを量ってしまいがちです。しかしこれは神を信じない不敬虔な人々の価値判断です。それでは「人のいのちは財産にあるのではない」とは、どういうことでしょうか。「鈞」とは重さの単位です。「千鈞之重」とは、無形のものについて実感するほどの、重みを表すことばです。
いのちの重みを実感できるでしょうか。神様からいただいたこのいのち、量りでは決して量ることのできないその重みを、実感することができるならば、もっと大切に扱うことができるでしょう。

●7/09(月)・12(木)「いのちの重み」(詩篇27:10)
“私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。”
「取り上げてくださる」には、「大切にする」という意味が含まれています。「大切にする」の逆は「しいたげる」です。無視する、捨てる、ということです。なぜこのしいたげが起こるのでしょう。
しいたげは、優位性、すなわち「その人の存在の価値があるかどうかの判断」によって生まれてきます。その判断がこの世では持ち物、財産、能力や地位によってなされてしまうのです。私たちはこの価値判断が無意識に身に付いてしまっています。はっきりと捨てなければなりません。
父と母がその子を見捨てることがあるでしょうか。昔は貧しさのゆえにやむを得ず我が子を売り渡すということもあったようです。しかし、そのような事情もなく子どもを見捨てるとは、何を基準に判断したのでしょう。例えば、自分の願う学校に子どもが入らなかったからといって子どもの前で嘆く親、彼らは子どものいのち、存在を利害関係で捉えてしまっています。そのような価値観では、自分にとって害と見える状況になると、子どもを見捨ててしまうのです。真の親は、子どもに才能や能力があるかどうかに関係なく、子育てをします。私たちの真の親である主は、父や母、家族や世の人々が私たちを見捨て、しいたげても、私たちを取り上げてくださいます。
主は私たちのいのちを大切に扱ってくださっています。私たちの存在そのものの価値を見出してくださっているのです。良い悪いではありません。神は悪人をも愛されます。悪人は、いのちの用い方が悪いため、悪人としての結果が出ています。神様は罪によって御心に反する結果を出していることに心を痛めておられます。しかし、そのいのちそのものは愛しておられます。だからこそ、罪から離れるようにと注意を与え、懲らしめ、悔い改めに導いておられるのです。
存在を大切にする。これが「人のいのちは財産にあるのではない。」と言われたイエス様の私たちへの勧めです。

●7/10(火)・13(金)「いのちを大事にする」(ルカの福音書10:35)
“次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』”
存在を大切にする、いのちを大切にするとはどういうことでしょうか。イエス様がされた、よきサマリヤ人の例え話の中にその大切なポイントが教えられています。
『あるユダヤ人が旅の途中、強盗に襲われ、持ち物をすべて取られて瀕死の状態で倒れていました。そこに同じユダヤ人の祭司やレビ人が通りかかりましたが、助けようとはしませんでした。次にサマリヤ人が通りかかりました。サマリヤ人はユダヤ人から差別を受けていた人々でした。このサマリヤ人が、倒れているユダヤ人を助け、傷の手当てをし、宿屋に連れて行き、介抱したのです。それだけでなく、宿屋の主人に費用と一緒にあずけ、もし足りなければその分も自分が払うと申し出たのです。』
サマリヤ人がこのユダヤ人を助けるためには、ユダヤ人から民族的差別を受けて苦しんでいるという心の痛みをまず乗り越えなければなりませんでした。しかし彼は乗り越えることができるほどに、傷ついたユダヤ人のいのちの大事さを感じたのです。しかも、全く見ず知らずの初対面の人です。個人的な関わりのない人を助ける、ともすれば面倒くさい、関わりたくないという否定的な考えをも乗り越える必要があったのです。
彼はユダヤ人の傷の手当てをし、自分のロバに乗せて、宿屋まで連れて行きました。そしてユダヤ人のための費用を支払い、さらに足りない分までも支払う、と言ったのです。なぜ、ここまでできたのでしょう?ユダヤ人に恩を売るためでしょうか?貸しを与えておくためでしょうか?そうではなく、その人の存在を大切に思ったからです。ユダヤ人、自分たちを迫害する者、ということは全く関係なかったのです。ユダヤ人もサマリヤ人も、どちらも必要な存在、自分のいのちと同等の存在なのだという考え方、いのちの大事さを優先した考え方です。
私たちも自分のいのちを大事にするように、隣人を大事にしていきましょう。大事にするとは、愛することです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と律法の最も大切なことばの一つとして、イエス様は教えられました。大事にすることのポイントは、自分を犠牲することです。このルカの福音書のみことばには、相手のいのちが安全になる、安心できる状況になるまで犠牲するという姿勢が見られます。傷が完全に癒されるまで、費用の心配もなく、安心して家に帰れるようにしてあげるという、いのちを大事にする自己犠牲です。
そしてこれは、イエス様の十字架の愛を表しているのです。
あなたは一番愛する人を本当に大事にしていますか?わたしにとってあなたの存在は大切です、と神様は詩篇27篇10節のみことばを通して語ってくださっています。そのことを覚えて、たとえ少し苦手と感じる人がいたとしても、だからこそ自分にとって大事な存在なのだ、と互いの存在を受け入れ合っていきましょう。それが互いのいのちを大事にするということなのです。

●7/11(水)・14(土)「大事に扱われた神様」(詩篇8:4)
“人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。”
神様ご自身が、私たちを大事に扱ってくださっています。このことを知るならば、私たちは互いのいのち、存在を大切にすることができるようになります。すべての人は、イエス様の十字架を通して、神様が自分たちを大事に扱ってくださっていることを知ることができます。アダムとエバが罪を犯した時、罪の種が入り、彼らによって罪人の子孫が増えることを、神様は知っておられました。しかし、神様は彼らを処分されませんでした。神様は処分することのできる立場にあられたお方でしたが、それをされず、そのため罪人の子孫は増え続けました。なぜでしょうか。神様は行いによっていのちを評価されないからです。そして、罪を犯した人間を更にあわれんで下さいました。それほどに神様にとって人間は大切な存在なのです。だからこそ、大切なひとり子イエス・キリストを私たち人間の罪の身代わりに十字架にかけてくださったのです。容姿がいいから、頭がいいから、神様をよく敬っているから、ということで大事にされたのではありません。ただ、あなたがそこにいる、その存在そのものが神様にとって大事なのです。何とかこのいのちを生かしたい、どんな犠牲を払ってでも、本来の神様と私たちの関係、私たちのつくられた目的である、神の子としての関係を、神様との家族としての愛の関係を作り上げたい。そう願って、今も一生懸命心を配ってくださっているのです。
このことに気づくなら、自分が大事にされたように、他の人をも大事にします。決して神様を独り占めして自分のわがままだけを通そうとはしません。自分のいのちの重みがどれほどであるか。それを十字架を通して、聖霊様によって実感するなら、隣の人のいのちも、全世界の人々のいのちも同じ重みがあるのだとわかります。そして、簡単に人を傷つけることなどできなくなります。神様にとってあなたはいてほしい存在、大切な存在です。どれほど神様があなたを大切に扱っておられるか、正しい良心によって気づく一週間としましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年7月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   為而不恃 なしてたのまず  up 2007.7.1


何かを行なった場合に、その成果を期待し頼りとすることがないこと。行為において結果を当てにしない。


私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
(詩篇32:5〜6) 


 

 

 今日は、祈りについての基本的な事柄を皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。
 さて、すばらしいものに触れるほど、私たちの心は変わっていくものですね。そして、神様はとてもすばらしい方です。そのすばらしい方、すばらしいものに触れるために、祈りはとても大切です。
 しかし、私たちの祈りはどんな祈りでしょうか。結果を必ず要求するこの世のシステムに習って、神様に対しても結果を要求してはいないでしょうか。
子育てで結果を要求するなら、必ずトラブルが起きると言ってもよいでしょう。子どもが出した結果をいちいち気にして、叱ったり誉めたりするなら、子どもは親を信頼できなくなります。

1.聖徒はどうして皆、主に祈るのでしょう。
(1)どんな時、どんな内容の祈りをするのか。
 私たちの祈りは、いつ、どんな内容のものをしているでしょうか。神様に対して請求書を送りつけたり、苦情などの投書をしていないでしょうか。
 神様は私たちが正しいから、罪を告白したから、赦されたのではありません。それは私たちにとって結果を期待しての行動になるのです。その場合、主がもし告白した罪を赦されないことがあるなら、私たちは罪を告白しにくくなっていくでしょう。
 「聖徒がみな祈る」のは、主に正直であろうと決心した時点で、すでに神様は赦してくださっているからです。神様のお気持ちはこう例えることができます。
 あなたには大切な友人がいて、心から信頼しています。しかし、彼はあなたが貸した車を傷つけてしまいました。
 友人はあなたに心から謝ります。そしてあなたは友人を喜んで赦します。
 彼が告白してきたから、しょうがなくではありません。彼の人格を信じ、愛しているからです。
 神様もそうです。そして、そんなお方だからこそ、信頼のおける方だからこそ、「聖徒はみな祈る」のです。
(2)祈りへの応答内容を気にするか、応答に対してどう反応するか
 不信感を抱いたり、つぶやいたりするなら、それは答えの内容だけを気にして、応えてくださった神様のご性質を信じていない、神様に頼ってない証拠です。「いただくもの」だけを目当てにするのは、相手を軽んじている行為です。私たちは一体どのような方に祈っているのでしょうか。お金のいらない自動販売機でしょうか?
 偉大なる方に対して失礼極まりないことをしていないか、自分を省みる必要があります。

2.祈りを正しく捉えた人の祈り。(箴言15:8)
“悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。”
(1)時をわきまえて祈るとは?(詩篇69:13)
“しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。”
 祈りは本来喜ばれるべきものです。心を喜ばせるような会話が良いコミュニケーションであるのと反対に、怒りと争いをもたらす悪いコミュニケーションもあります。「みこころの時」に祈ると主に喜ばれますが、それはどんな時でしょうか。
 現実の時間帯ではありません。相手の気持、存在、人格を大事にしている気配りのことを指しているのです。
 主はご人格を持たれたお方です。人間が相手の気持ちを思いやる人を喜ぶ以上に、神様はご自分を大切にする人の気遣いを喜ばれます。
 反対の自分本位な請求書や苦情には、心傷まれる方です。
(2)『香』のような祈りとは?(詩篇141:2)
“私の祈りが御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。”
 香を選ぶ時、私たちは自分にとって心地よい、好ましいものを選びますね。良い香りは心を落ち着かせ、相手にも良い印象を与えます。人との関係において香りの善し悪しは大事な要素の一つと言えるでしょう。
 では神様の心をなだめるような良い香りとは、どんな祈りなのでしょうか。神様が不愉快に思われたり、怒られる(正しい裁きをされる)時は、私たちが罪を犯している時です。汚れたものに触れないでいられるならベストなのですが、私たちは失敗をする弱い者です。そんな私たちに何かできることがあるのでしょうか。
 何もありません。ただイエス様のなだめの血潮だけが、神様の正しい怒りを鎮めることを可能とされます。
 神ご自身が遣わされた仲介者イエスを尊ぶ者は、遣わされた神を尊びます。「こんな私たちを見捨てないでかばって気遣って、愛と配慮をもって接してくださっている。」とキリストを尊ぶ心をもって祈ること、それが神の御前に香り良き香なのです。
 人に立派に見られなくても、日々を感謝して主に委ね、なし得るところをして、主を尊ぶ人こそ、「為而不恃なしてたのまず」です。