■2007年6月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   有頂天外 うちょうてんがい  up 2007.6.24


仏教で、この世に存在する最上位の世界のこと。その有頂天からさらに外に出たところの意味から、この上なく大喜びして夢中になる様子のこと。


それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
(ピリピ3:8〜9) 


 

 

 私たちが主を喜ぶ時、有頂天以上の、有頂天外の気持を持つなら、どんなに幸せでしょう。
 幼子は喜びが溢れてくると、じっとしていられなくなります。私たちにとって主は、この上なく大喜びして夢中になるような、すばらしい方ですが、そこまで主への喜びを持っているでしょうか?
(ピリピ人への手紙3:8〜9)は、主に対する有頂天外の心情が溢れているパウロの手紙の一部です。
 キリストを知るすばらしさを知っているのに、他のものに少しでも心を移す時間を取ってしまったことを、心底もったいないことをしたと悔やむ、パウロのような経験を皆さんはしたことがあるでしょうか。パウロにとってイエス様はそのような方なのです。
 人は本当にすばらしいものを持っていると、他のもの(例えばコンピューターゲームなど)の誘惑にもかかることはなくなります。そしてたとえ大きな迫害が起こっても、キリストを知る喜びに満たされているので、少しも恐れなくなります。
 では私たちは、キリストのすばらしさをどのように見い出していけるでしょうか。少なくとも、3つの条件が必要になります。

1.知性において『良い知らせを聞く』(箴言15:30)
“目の光は心を喜ばせ、良い知らせは人を健やかにする。”
 良い知らせは心を喜ばせ、その結果、体も健康になります。毎週の礼拝メッセージは、あなたにとって「良い知らせ」となっているでしょうか。「良い知らせ」となっているかどうかは、あなたの価値観によります。神にとって「良い知らせ」であっても、あなたがそこに価値を見い出していなかったら、あなたにとって「良い知らせ」とはならないからです。まず、あなたにとって「良い知らせ」とは何かを知ることが必要です。あなた自身が興味を持つ証を聞くことが必要です。
 また、聖書を読んでいて、自分の心にぐっと力を与えてくれるようなみことばに出会ったことはありますか?そういうみことばは、あなたにとって「良い知らせ」です。
 ですからまず、イエス様があなたにとって良い知らせとなる方であるかどうかを知らなければ、イエス様があなたにとって有頂天外の方になることはありません。
今日、あなたにとって良い知らせとは何でしょう。あなたは何を願っていますか?何があなたを夢中にさせるのでしょうか。それに気づかないと、たとえ目の前にそれがあっても、手に入れることはできません。
 正しい良心をもって、肉が求めているものと、魂が求めているものとを見分けて、しっかりと自分の求めているものを見つけましょう。私の若い時は「生きることは何か?」と人生について悩み求めている若者がたくさんいました。それでイエス様に出会った彼らは、イエス様に夢中になり、朝早くから祈ったりみことばを読んだりを楽しみました。今はこういったことを語ると、強制的に感じてしまう人々がいます。しかし、もしイエス様に夢中になり、有頂天外になっている人なら、昔の信仰の猛者たちの話を聞いたら、それは喜びとなり、励ましとなります。その人にとって「良い知らせ」であるからです。主をもっと知りたいと願っている人にとって、主を知るための証しやアイデアは、聞くことが喜びとなります。ここに強制的な重荷となってしまうか、喜びとなるかの違いが出てきます。
 知性においてあなたを力づける「みことば」にどんどん出合っていきましょう。

2.感情において『その魅力を感じ取る』(イザヤ書6:6〜7)
“すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」”
 「負い知らせ」「福音」は聞くだけで終わるのではなく、「体験」することが大切です。イザヤは神に激しく渇いていました。その時セラフィムが彼の口に触れたのです。私たちは触れた時、感情が動きます。神は霊なので、神と触れるのは私たちの霊です。しかし初めからうまくはいきません。まずは感情にまで伝わってくる、神に触れられた体験をすることが必要です。それを聖霊のバプテスマによって体験した人は、神のすばらしさ、イエス・キリストのすばらしさを身に受けた人です。
 それは異言を語るとか、預言をするとかいう現象が大切なのではなく、神に触れられたという喜びの体験が、何ものにも代え難い最高の魅力なのです。
 しかし、せっかくそういった最高の体験をしても、3に移行していかなければ、それだけではあなたの体験した聖霊の満たしは不完全なものに終わってしまいます。

3.意志において『服従の決意にいたる』(イザヤ書6:8)
“私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」”
 その喜びが、神に喜んで従いますという意志になる時、100%聖霊の満たしを体験した人の応答が表れてきます。求めている心に良き知らせが届き、それを体験したなら、私たちは自分をキリストにささげるという決意が湧いてきます。従うかどうか悩み迷う心は湧かず、そのすばらしさに触れたならば、命令されなくてもすぐに従いたいという意志がしっかりと出てきます。
 この3つがイエス様のすばらしさを持っている人にはあります。それがないと肉の誘惑に悩まされ、古き人との戦いに疲れてしまいます。何よりも私たちが大切にすべきことは、聖書を知ることではなく、主ご自身を知ることです。そして主に触れられて健やかになり、キリストのために何かをしたくてたまらなくなります。
 まずは1のあなたにとっての「良い知らせ」を知性において得てください。神を敬う人は「義人」と認められるようになるという救いを、イエス様は十字架の贖いによって与えてくださいました。
 正義について、義について悩んでいた私は、このみことばによって救われ、神を体験し、献身へと導かれてきました。神はいつも正しい方です。それを知り、体験し、決心したので、たとえどのようなことが周りで起きても、私の心はゆらぎません。肉の感情はゆらいでも、正しい良心が受けた良き知らせと体験と決心はゆらぐことはありません。これらのことは洗礼に表されています。
 主を求めましょう。神の魅力ある教会、それにはまずあなた自身が神の魅力に捕らえられることです。そうしたら、人々は集まって来ます。主は有頂天外となるにふさわしい方だからです。

 

 

 

 

 

 
■2007年6月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   百戦錬磨 ひゃくせんれんま  up 2007.6.17


数多くの戦いに出て、武術を鍛え上げること。転じて、多くの経験を積んで事情に通じていること。


俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
(第1テモテ4:7〜8) 


 

 

 敬虔さを保つことは、私たちの信仰を神の前に正しく保つためのキーポイントになるほど大切なことです。改定訳聖書では、「俗悪な年寄り女」という部分は除かれて、「俗悪で愚にもつかない空想話を避けなさい」となっています。つまり「俗悪な年寄り女」という表現は、女性は話し好きという特性があることから、それが悪く出てしまうと、マイナス的イメージでありもしないことを想像して話してしまうことがあり、これは神を気にしていない話し方になっているということから、不敬虔の代表として使われていたわけです。
 そこでパウロは、無分別で不敬虔な人々に引き込まれて、そのような者にならないように、そこから離れて、敬虔のために自分を鍛錬しなさいと言っています。
 この鍛錬するというポイントを「百戦錬磨」という四字熟語で表しました。
 宮本武蔵は剣術の極みを求めた、正に「百戦錬磨」の武士であったと思います。様々な戦いをし、その戦いを一つ一つ勝利することにより、いろいろなことを学び身に付けていきました。
 私たちの人生も、敬虔を身に付けるために自分を鍛えていく「百戦錬磨」の人生なんだというふうに捉えてみました。

1.『敬虔』は人格者としての一つのしるし。(第1テモテへの手紙6:11)
“しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。”
 聖書で神の人とは、神が遣わされた人、すなわち、神様の人格的すばらしさを受け止め、理解してそれを伝えることのできる人格を持った者です。人格者に必要なものは「正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和」とあります。ということは、敬虔さがなければ、他のものを持っていても、神の人としては未熟であると言えます。敬虔さは人格者としての一つのしるしでもあるほど重要なものなのです。
 世の中の人は、クリスチャンは本音と建て前のある苦しい生き方だと言います。クリスチャンでない人々は、欲するままにしたい時にしたいことをするのが自分の本音だと考えます。しかし、欲求というのは人格的な働きではないということを理解しておかなければなりません。欲するという欲望は、人格がなくても湧いてくる感覚です。ですから世の中には、本音が分からない人が多くいるわけです。それは、人間と動物という進化論の影響によります。動物は食べたい時に食べて、寝たい時に寝ているように見えます。しかし食べる時でなければ、目の前にどんな獲物がいようと手を出しません。そのように規則正しく創られているのです。しかし、人間には人格があり、自由意志が与えられています。だからお腹一杯なのでもう食べないという人もいれば、自分の好きなものならまだ食べるという人もいるわけです。
 私たちは神のかたちに似せて造られた人格者です。神を畏れる敬虔な心を持っていればこそ、道徳的判断をすることができ、悪いものから離れ良いことを行い、行き過ぎないように節制します。これは全部、敬虔な心から生まれてくる人格的な心の動きです。
 ですから、人格的な決断、判断をしてこそ、それが本音と言えます。敬虔さがなければ、欲求だけを表現するただの動物になってしまいます。敬虔さはそれほど重要なものだということをまずわきまえてください。

2.鍛錬する(第1テモテへの手紙4:8)
“肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。”
 鍛錬とは主に金属を鍛えることをいいます。日本刀などは、煉瓦のような鉄の塊を一本の刀に仕上げるために、叩き延ばしていきます。熱しては叩き、また熱しては冷やし、とそれを何度も繰り返し、金属は鍛えられて刀が作り出されます。一日ではできません。時間がかかります。
 パウロが金属を鍛えるように自分を鍛えなさいと勧めているのは、そこまでしなければ敬虔さは身に付かないのだということなのです。私たちも人生の中でいろいろと叩かれます。しかしこれを損だと思ってはいけません。私たちは神様に人生をお委ねした者です。永遠の神の御国において、神のご計画を成し遂げるための名刀として、この世で鍛錬を受けているのです。そのような目標があれば、苦しみが多いほど私は名刀として仕上げられているんだと思うことができます。自分を甘やかしたり、逃げないように気をつけましょう。
 でも疲れます。疲れるからこそ、イエス様は「休ませてあげよう」と言われています。私たちにとっての休みは礼拝です。人生の様々な鍛錬の場所で打ちたたかれ、苦しみ、冷やされ、熱せられ、楽しいことも苦しいこともいろいろ通って、一週間悩み苦しんで来るわけです。神様は私たちが折れてダメにならないように、日曜日に休みを与え、新しい力を注ぎ、励ましも与えて下さいます。また一週間鍛錬していただけるための備えを、礼拝で受けることができるのです。鍛錬するということの意味を自分の人生に当てはめて、愚痴や不平を悔い改めたら、それが鍛錬となります。しかし悔い改めなかったら鍛錬にはならないのです。

3.神様との関係において鍛錬する(箴言17:3)
“銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。”
 私たちは神様との関係において、自分を鍛錬することができます。今、このような統計があります。イエス様を信じて洗礼を受けたクリスチャンが信仰生活を始めますが、約二年半で消えていくのだそうです。今の日本はその繰り返しなので、クリスチャン人口が増えないのだそうです。ということは社会の中で神の子としての育てられ方に問題があるということです。二年半〜三年というのは、自分の思い通りのことが聞かれなくなってくる時期なのです。ではどういうつもりでイエス様を信じたのでしょうか。最初は御利益宗教的に信じるでしょう。でも聖書のおことばを通して真理を悟ってくると、人生が見えてくるようになります。これに対して同意できる人は、本当の意味で創造主なる神はイエス・キリスト様だと信仰をもっていきますが、単なる御利益宗教で自分の思い通りに神を動かそうとする人は、思い通りに行かないと離れていくのです。それは敬虔さが身に付いていないということです。
 敬虔さとは、神を畏れ敬う、すなわち主人を敬うことと同じです。離れていく人はどちらが主人か分からないようになっていくのです。
 わがままを直すために、神様のお取り扱いがあります。そこで私たちは鍛錬され、私の信じている神様は創造主なるお方ということを悟らされるようになります。それこそが敬虔の土台なのです。

4.人との関係において鍛錬する(第1ヨハネの手紙1:7)
“しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”
 後半部分の「私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とは、つながりのない文章のように思えますが、どのようなつながりがあるのでしょうか。兄弟姉妹の間で、奉仕などを通して関わりを持つ時、相手の言葉や態度によて受け入れがたい思いになることがあります。そこに罪を犯す問題点が生じます。相手に対して腹を立てたり、悪い思いを持ったままだと、そこでお互いの交わりは切れてしまいます。
 交わりを保ち続けるには、相当の努力が必要になってきます。相手の気持ちや立場を考えて、思いやりを持った接し方をお互いにしていくためには、自制心が必要です。その自制心を持つことができるために、御子イエスの血が私たちをきよめてくださるのです。
 あなたの苦手な人が教会にいるかもしれないですが、その時こそ鍛錬されるチャンスだというふうに捉えると、イエス様の血潮を心に持ち、準備をして来るようになります。そうすると、少しずつ相手を受けとめることができるようになっていきます。私たちが交わりを保とうとする時に、イエス様の血潮がなければ無理なのだと気づき、へりくだりがコツなのだと気づかされます。そのへりくだりこそが敬虔さです。人を通して私たちは自分を鍛錬することができます。

5.肉の思いとの関係によって鍛錬する(ローマ7:24〜25)
“私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。”
 肉の思いこそが、自分を鍛錬するための根本的なものです。パウロが「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」と言っているように、自分の心に感じる部分を、肉に仕える心と神様の霊に仕える心と二つにはっきり分けることが、非常に大切です。それがはっきりわかってこそ、肉の思いとの関係によって自分を鍛錬することができます。
 ここで間違っていただきたくないのは、パウロは心を神様に従わせていて、行動はそのまま肉に任せているのだとは言っていないということです。肉には、自制できないほどの様々な欲求をもたらし、自己中心の考えをもたらしてくる罪の働きかけがあって、その罪の働きかけにこのからだの欲求は従わせられています。
 しかし、心で受ける神の律法に仕えている正しい良心は、その肉の働きかけを止めて自制させ、神の律法に従うように無理矢理からだを動かしていきます。
 私たちは心は解放されているけれど、肉の内に罪の力が宿っているから、これを放っておいたら罪の思いのままに欲望を満たしてしまいます。ですから、神を畏れる敬虔な心から神の律法に従うように、と肉を無理矢理神のみことばに従わせているわけです。それをしないと、自分を鍛えることはできません。この自分とは正しい良心(神を認める心の部分)であり、正しい良心こそが敬虔さなのです。
 これを強めて鍛えていかなければ、肉の内に宿っている罪の力に、今度は心が無理矢理従わされてしまうという結果になります。ですので、パウロは、罪にからだは支配されているけれど、正しい良心をもってそのからだを神に従わせていくのだという姿勢をちゃんと持っていたということです。でもそれは非常に辛いことであり、みじめに感じます。早くそんな生活から解放されたい、救われたいとパウロは言っているのです。それはキリストの再臨の時で、新しいからだをいただく時に、その罪と肉の思いとの葛藤も消えてしまいます。それまでの間その葛藤を残されているのは、「百戦錬磨」、あなたが敬虔のために自分を鍛えることを神が良しとされたということです。
 これは神の真理です。私たちの歩むべき人生の道はそこにあるのです。

6.敬虔による一つの悟り(エペソ人への手紙2:10)
“私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。”
 敬虔さが身に付いてくると、みことばが色々と悟らされてきます。エペソ人への手紙2章10節は、私が個人的に悟らされたみことばです。謙虚になればなるほど創造主と被造物という関係がはっきりと悟らされてきて、創造主を心から敬うという敬虔な心が生み出されてくるということに気づかされたのです。
 私たちは単なる被造物ではなくて、神の作品と言われています。作品と呼ばれるということは、作者の価値観がそこに置かれています。そして、賞を取ることができるほどのレベルであるということです。ですから、作品と呼ばれることには非常に価値があるのです。
 それも創造主なる神様が作品と呼んでくださるのです。神の作品ということは、超一流の無形文化財に指定されるほどの職人さんの作品のように、他に類のない唯一つのものだという意味が込められています。
 神は創造主であるお方という思いが強くなればなるほど、他の人がどうであろうと、環境がどうであろうと、神が私を作品として仕上げるためにすべてのことをしておられるということがわかります。そして、それが主を畏れることであり、敬虔さなのだと教えられました。どうぞ皆さんも、みことばを深く悟っていくことによって、敬虔のために自分を鍛錬していってください。
 それは今のいのちと未来のいのちを約束されているすばらしいものなのだということを忘れないでいただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 
■2007年6月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一視同仁 いっしどうじん  up 2007.6.10


すべての人を差別なく、平等に扱うこと。


主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。
(詩篇113:7〜8) 


 

 

 私たちの教会の特徴のひとつ、「落ち穂拾いの教会」から、神様がお考えになっている平等について考えてみましょう。
 「落ち穂」というと、何か差別的な、卑下したイメージがあるかもしれません。しかし本来は、刈り取りの時に手からもれてしまったものであって、刈り取った穂と同じ価値のものなのです。「落ち穂」のような見落とされた、誤解された状況にある人々も、神様の前には他の人々とまったく同じ価値であり、神様は平等に扱われます。
 では、神様の平等とはどのようなものでしょう。

●6/11(月)・14(木)「詩篇113:7〜8を黙想する」
“主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。”
 私たちも神様と同じように、人々に対して平等に接していくことができれば、すばらしい交わりが生まれてくるでしょう。秩序を重んじるタテ社会の中では、これが行き過ぎてしまって、肩書きや持ち物によってその人自身の価値、いのちの価値までも量られてしまいがちです。
 金持ちや地位の高い人のいのちの方が尊い、そんな考え方です。確かに大統領や総理大臣にはたくさんのガードマンが周りに付いていますが、これはその働きの重要性からのものに過ぎません。いのちの重さは大統領も一般の人もみな同じです。では「弱い人」「貧しい人」とは、誰が決めたのでしょうか。強い人、富んでいる人に対して、弱い人、貧しい人という考えが出てきます。つまり、人と人との比較の中で、弱い・貧しいと決められてしまうのです。このようにして、神を畏れない人間社会の中で差別が生み出されてきたのです。神様は人を「弱い・貧しい」とは言われません。神様にとって、すべての人は同じ「一視同仁」なのです。このみことばにある、「起こす・引き上げる」とは、回復を意味しています。回復するとは、もとあった状態に戻すことです。
 つまり、もともと弱い・貧しい状態であったのではなく、不敬虔な世の中で「ちり・あくた」=無価値とされる領域に追いやられてしまっていたのであり、そこから神様はもとのあるべき姿に回復される、ということなのです。
 さらに神様は、回復された人々を「君主たちとともに…王座に着かせ」ると言われます。王座とは権威の置かれている場所です。人に権威があるのではなく、王座に着いた者がその権威を行使します。弱い者、貧しい人も、君主たちと等しく尊い役割を持っている、ということなのです。君主がいなければ国民はバラバラです。国民がいなければ、君主だけいても国は成り立ちません。君主あっての国民、国民あっての君主なのです。ここから神様と私たちの関係を考えてみましょう。天地を治める神様の王座に、ちりで造られた私たちを着かせる、とはどういう意味があるのでしょうか。造り主の存在価値と被造物である私たちの存在価値とを神様は同等に見てくださるということなのです。これは本当にすごいことです。神なくして被造物はあり得ません。逆に被造物なくして神はあり得ない、というこのようなへりくだった謙虚な神様の姿勢をこのみことばを通して知ることができます。被造物なくして神が一人でおられても無意味である、造り主として様々なものを造ってこそ、神としての存在価値がある、と自覚しておられるのです。ですから、神様はご自身が造られたものを大切にされます。ご自身と同じくらいに大事な存在である、と神様は私たちを見てくださっているのです。このような神様だからこそ、救い主イエス・キリストをお遣わしになることができるのです。私たちの信じる神、創造主なる聖書の神様は、本当にすばらしい神様です。神様のこのようなお心を悟るなら、私たちは正しいへりくだりができるのではないでしょうか。周りにいる人々があっての自分、互いに支え合っている存在だと思えるなら、もっと大きな心になることができるでしょう。

●6/12(火)・15(金)「箴言14:31を黙想する」
“寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。”
 なぜ弱い者と貧しい者を顧みないことが造り主をそしることになるのでしょう。例えば、ゲームをしようとしていて、相手のチームに不器用な人が入った時、「これは自分たちの勝ちだ」とゲームをする前に言ったとしたら、それはこのみことばにある「造り主をそしる」ことになります。器用・不器用は誰が決めたのでしょう。神様ではありません。人の判断によって「不器用な人がいるから自分たちが勝てる」と言うのは、実際の行ないとしてはなくても、思いの中でしいたげたことになります。人と比べて不器用かもしれませんが、比べなければ普通、その人はその人なのです。神がお造りになったひとり一人に対して、造り主でもない私たちが良い・良くない、優れている・優れていない等、表面だけをみて評価することはあってはならないことです。神様は人と人を比べて評価してはおられません。
 精神的・肉体的に弱っている人、貧しい人を、自分を基準に評価しないように気をつけましょう。神様がその人をお造りになったということを畏れなければなりません。ひとり一人は神の作品です。行ないに対して善と悪を判別することは必要ですが、その人の存在価値まで評価しないように気をつけましょう。また自分自身に対しても同様に、卑下したりみじめに思うことは神様をそしることになることを覚えましょう。神様は私たち自身をも等しく大切な存在としてくださっています。造り主を敬うことを通して、私たちは自分を大切に愛することができるようになります。

●6/13(水)・16(土)「ガラテヤ人への手紙6:2を黙想する」
“互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。”
 キリストの律法とは、ヨハネの福音書13章34節“…あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”にある、「互いに愛し合いなさい」というものです。これを全うするために、「重荷を負い合いなさい」と言われています。互いに重荷を負い合うことが平等に対処する方法です。神様は私たちを平等に扱われるだけでなく、私たちも互いに平等に対処しあうことを考えて、私たちをお造りになっています。
 どうしてお金や能力がたくさん与えられたり、環境が整っていたりする人と、そうでない人がいるのか。その「差」は互いに平等に接し、互いに重荷を負い合うためにあるのです。皆が完全であれば、誰も助けを必要としません。そうなると助け合う、重荷を負い合うという信頼関係、人格的関係=聖書でアガペー(兄弟愛・家族愛)として表されている関係は生まれてこないのです。例えばお金をたくさん持っていても、記憶力があまり良くないとします。いくらお金があっても、お金で記憶力を戻すことはできません。反対に、お金はないけど記憶力の良い人が協力してともに仕事をするなら、互いに重荷を負い合う関係ができてきます。差があればこそです。そのようなつながりが持てるようにと、神様はすべてのものをお造りになっています。しかし、人は神を敬うことを退けてしまったために、自己中心な判断をして差別を生み出してしまったのです。
 能力のある者同志が競い合うために神様はその能力を与えられたのではありません。会社などで各自の成績を競争させることによって業績を上げさせるということがありますが、これは神が造られたシステムではなく、人間の欲望が作ったシステムです。そこで人は差別され、悩み、苦しむのです。私たちは不敬虔な人々の作りだしたシステムにはまってはいけません。神のみことばを通して、そこから解放されていくことが必要です。不敬虔な人々の欲望によって私たちの人生がむだにされることのないようにしましょう。
 神の国とその義とをまず第一にするなら必要な者はすべて与えられると神様はみことばで約束してくださっています。たとえ豪邸に住んでいなくても、人と比べて貧しくても、神の子として幸せな人生を全うする道を神様は教え導いてくださいます。私たちの魂の幸い、お金持ちになること以上の幸せに気づかせてくださるのは、神様です。その幸せに気づくために、互いに重荷を負い合うようにと言われています。私の持っている力で、それは他の人と比べたら多くはないかもしれないけど、持っていない人を補うことによって、互いに同じ力を出すことができる。そこに、助け合う、重荷を負い合う喜び、幸せの関係が生まれてくるのです。自分の力が5であるとしたら、3の人を助け、また8の人に助けられるという、3と5と8の人たちの人間関係ができるのです。互いの存在の役割の大切さ、その幸せを感じることを、神様は「互いに愛し合いなさい」ということばで教えておられるのです。その一つの例として「重荷を負い合い」と言われています。あなたも自分の力が足りなくて重荷を負っているかもしれません。耐えられないような悩みがあるかもしれません。自分自身で心を整理することが難しい時、自分より力のある人からの励ましを素直に受けとめていくこともできるのです。もちろん、神様から直接励ましと力をいただくなら、もっと良いでしょう。しかし、神様は人を通して助けを与えられることも多くされます。そのことによって、私たちの間に重荷を負い合うことを通して人格者の間に生まれる兄弟愛、そのつながりを持たせたい、と願っておられるのです。神の家族としての関係を作り出すことを願って、互いの重荷を負い合うことを、神様は私たちに勧めておられます。兄弟も夫婦も競い合うのではなく、互いの違いを認め合い、助け、助けられることによって、一つとなることができるのです。
 神の家族として一つとなるために、神様は各々に違いや格差を与えられました。一つの面だけでなく、あらゆる面において格差があります。それらを補い合うことによって、私たちは神の一つの家族につながる、その幸せを神様は考えておられるのです。これが神様の平等です。世の中の平等はすべて同じようになることを考えますが、しかしこれは「平等」ではなく「同等」です。
 神様は「一視同仁」のお方、すべての人を差別なく平等に扱われるお方です。このことを前提に、この3つのみことばから、平等についての神様のお考えを黙想し、聖霊様によって正しく悟らせていただきましょう。そして私たちも同じ神の子として、同じように周りの人々に接していくことができるように、チャレンジしていきましょう。あなたも私も平等です。力の差はあるけど同じ存在価値、神様にとって大切な存在であり、価値のあるものなのです。

 

 

 

 

 
 
■2007年6月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   異体同心 いたいどうしん  up 2007.6.3


からだは異なっていても、心は同じであること。


しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
(第1ヨハネ1:7) 


 

 

 私たちと神との交わりは光の交わりです。
 交わりとは、互いの心が共鳴し、同調して初めて成立するものです。神はどのような交わりを私たちに勧めておられるのでしょうか。
 私たち兄弟姉妹の関係を実際に行動に移すのが交わりです。「光の中を歩む者同志」をまず理解していきましょう。「光の中」は明るいということです。つまり、そこでははっきりと物事が見えます。隠すものはなくて全部あらわにされるのです。それは互いに隠し事なく、正直に誠実に歩むという意味も含みます。

1.光によって内側を明確にする(ガラテヤ人への手紙5:17)
“なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。”
 光の中を歩んでいるのですから、私たちは自分の心の中にも光を迎え入れないとなりません。心の中を明らかにすること、自分を知るということが大切です。自分を知り、理解できれば、どのように自分をコントロールしてゆけるかがわかってきます。
 明らかにしても、どうしてよいかわからない、あるいは何もできないと言われる人もおられるかもしれませえんが、まず自分を知ることがすべての出発点になるはずです。では、内側をどのように明確にしていくのでしょうか。神に属するものは光であって、今日語っているみことばも光です。みことばを聞いた時、光がもたらされ、今まで見えなかったものが心の中ではっきりと見えてきます。心には2つの領域があり、一般には良い心、悪い心と捉えられています。
 心の混乱を楽にするために、ある人は強い方へ引っ張られるがままにしてしまいます。
 例えば万引きをしようとしている子どもがいます。善悪を教えられている子どもは、その時良心の咎めを感じて心に葛藤が起きてきます。その時とる道は2つです。「盗まない」と心を決めるか、良心の声を聞かないで退けるかです。ただ退けるだけでは心の葛藤は治まりません。そこでその葛藤を なくすために、悪い心の方を選び、良い心を殺していくという方法をとるようになります。良心の咎めを殺すと良心の働きはなくなるので、楽になります。
 こういうことをやり始めると、良心の咎めを感じないで犯罪を犯し、しかも少しも反省しないという人間ができあがります。母親を殺して首を切った少年は、その反抗の後でも少しも反省のことばを口にしていません。むしろ自分の行いを正当化するようなことを口にしています。完全に正しい心を殺した結果です。この少年はカルトの雑誌やビデオを見続けることによって、善を無視し、完全に抹殺してしまい、悪の価値観を作り上げていくことによって、良心の咎めも、正しい心もなくなってしまいました。
 良心は神を畏れる心が根本です。私たちは神を敬い従うという決心をしました。そして神の御霊が内側に来てくださいました。それゆえみことばを聞く時、私たちの内にある御霊はそれに従おうとし、肉の願いは従うまいとします。ここで心の中にこう着状態が置き、何もできない、自分のしたいと思うことができないという状態に陥ります。イエス様を信じると、この葛藤が強くなるので、苦しくなります。その心の思い煩いから逃れるために必要なのが次のポイントです。

2.思い煩いから離れる(ヘブル人への手紙10:35)
“ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。”
 私たちはイエス・キリストを信じ、従って歩むという道を選び決心しました。それが私たちの確信であって、それを決して捨ててはならないのです。決心が揺らぐと心も揺らぎ迷います。決心を支えるために、私たちは大切なしるしを人生の歴史につけました。決心を保つためにしるしは必要です。そのしるしが洗礼です。
 例えば結婚指輪は結婚しているというしるしです。他の人のためのしるしというより、互いに誓約を結んだ
 ことを思い起こし、自分は愛するべき人をもっているというしるしになって、自制とわきまえをもつことができるようになります。
 私たちはいろいろな記念を見える形で持つことによって、自分を励まし、確認することができます。洗礼によって、私たちは神と共に歩むと決心しました。ですから、心に大きな葛藤が起きてきた時に、この洗礼を思い起こすことによって、その決心を思い出し、御霊の勧めに従う道を選び取ることができるようになります。
 思い煩いから離れるために、私たちには洗礼というしるしがとても役に立ちます。そしてこの決心には大きな報いが伴うのです。イエス・キリストが再臨される時、私たちはその報いを受け取ることができます。

3.心の安定(ローマ人への手紙13:14)
“主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。”
 この思い煩いから離れ、安定した心を保ち続けるために、必要なことがあります。いくら心が決まって落ち着いたからといって、肉の欲に心を用いる機会を多く持っていると、再び誘惑に陥りやすくなり、葛藤が起きてきます。ですからそういう機会を避けることが必要となってきます。
 心の力の使い方に気をつけましょう。キリストを着るということに心の力を使っていきましょう。例えば急に宅配が来て、寝間着を着替えるヒマがない時、私たちはその上に上着を着て、寝間着が見えないようにして出ます。同様に、私たちの醜い汚れた肉の心の上にキリストを着ていくのです。肉のもの、いやなものをむき出しに見て生活するのではなく、その上にキリストの愛、キリストのものにされたということを意識して、それに心を向け、生活していこうということです。「今日、何を着ようか」と考えて今日の服を選び、着てこられたはずです。神の前に出る時、私たちは身支度をします。良いもので体を囲むことによって安心するのです。神は私たちの罪を十字架によって処分してくださり、もはや罪を犯したことを思い起こされもしません。私たちはキリストを着ることを意識して、良いものを身に付けることに心を向けることによって安定した心を持つことができるようになります。
 これら3つのポイントを通して、私たちは光の中を歩む者同志として交わる準備ができます。では、神が言っておられる交わりとはどういう交わりであり、それを保つとはどういうことでしょうか。

4.交わりを保つとは?(第1コリント人への手紙1:9)
“神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。”
「交わり」=ギリシャ語で「コイノニア」
 関与する、施す、参加する
 関与するとは、その人と深い繋がりを持つことです。良い時も悪い時も、その人に関わり続けることです。
 イエス様が地上に来られたのは、御父の御心を行うために、関与し、施し、参加するためでした。
 神のみこころは、聖書から2つ読みとれます。ひとつは魂の救いです。救い主イエス・キリストを通して神を敬うことを受け入れることによって罪が赦され、救われます。神は敬虔な心を持つ人々が滅びないために、イエス・キリストを地上に送られました。神は私たちが救われるために、イエス・キリストの交わりの内に私たちを入れてくださいました。
 もうひとつは、各自がきよめられることです。罪の生活から善を尊ぶ生活を楽しむきよめのために、イエス・キリストは来られました。
 キリストと交わりを持つということは、キリストと同じ働きをしていくことです。私たちは、この世が救われるためというイエス様の働きをするために、チームに参加しています。その目標を達成するためキリストに自分を委ね、みんなが心を合わせて交わりを持っていきます。それが「異体同心」です。
 この交わりには世界の多くの人々が参加していますが、広島のこのジーザスフェローシップにはどのような神のみこころがあるのでしょうか。それは「広島エルサレムプラン」として皆様に紹介しているものです。
“そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレム<広島>は安らかに住む。(ゼカリヤ書14:11)”
広島は原爆に多くの人々が命を失い、町は全壊しました。このような不幸なことがあったからこそ、人々は平和の大切さを世界に向けて発信することができます。
神は平和を造り出し、神が願っておられる平和を実現するために、私たちは広島に置かれています。私たちは初穂、手本として置かれているのです。自己達成のために与えられたいのちではありません。この神の御心をしっかり受け入れ、平和のためにしっかりとキリストと交わり、兄弟姉妹と交わっていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年5月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   聖霊充満 せいれいじゅうまん  up 2007.5.27


聖霊のバプテスマを受け、聖霊に満たされ続けること。


神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。
(ヨブ記33:4) 


 

 

 今日はペンテコステ記念礼拝です。聖霊様の働きについて話していこうと思います。
 今、イエス様は天において、御父の前で私たちのためにとりなしてくださっています。そして、天に上げられる前に、弟子たちに「わたしと同じような助け主をあなたがたに送ります。それは真理の御霊です。」と話されました。イエス様はご自分の霊を私たち一人一人にお遣わしになって、いつまでも共にいてくださることを実現してくださいました。毎日の生活の中で、私たちが意識すべきことは「助け主なる聖霊様が私たちといつも一緒におられる」ことです。「聖霊様」という方ともっと身近な関係を持てるということです。なぜイエス様のお名前が必要かというと、イエス様は神様と私たちの間に立ってとりなしてくださる仲保者であり、救い主イエス様の名前を通してでないと、祈りを受け付けてもらえないからです。そのことの故に、聖霊様は私たちの内に御父から遣わされました。イエス様の名前によって私たちがお願いする時、イエス様はとりなしてくださり、聖霊様はイエス様の十字架の贖いのみわざにより、私たちを罪のない者と見てくださり、私たちの内に願ったことを起こしてくださいます。実際に働きをされるのは聖霊様です。イエス様ご自身が「助け主なる聖霊様を送られた」と言われているので、「聖霊様、私の内にあって、私の正しい良心を諭し、今日も導いてください。」と祈るのは正しいことです。こうして、神の臨在を意識することが大切です。なぜなら、神の霊がないとキリストの姿に造り変えられず、今はその途上です。聖霊様によらなければ、私たちは完成されることがないのです。だから、聖霊に満たされることをいつも意識しておくことが必要だということで、今週の四字熟語はキリスト教専門用語の「聖霊充満」です。
 聖霊に満たされてこそ、人が人であり得るのです。単なる肉のかたまりだけではないことに気づき、神とともに歩む人生を楽しみましょう。

1.聖霊充満の聖書的根拠(創世記2:7)
“その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。”
 神の御霊がなくても、単に生物学的生き物として生きることはできます。しかしそれでは神が人としてお造りになった目的に沿った生き方はできません。神が計画された人が人として生きるには、神が直接ご自分の霊を吹き込まれることが必要です。ここに創造のみわざの中で、聖霊充満の根拠が表されています。あなたがあなたらしく人生を完成させるには、聖霊なくしてはありません。もし聖霊様があなたの内におられなかったら、単なる動物に過ぎません。彼らと違う点は、人にのみ神の息が吹き込まれたということです。では「生きもの」となったとはどういうことでしょうか。それは私たちの内に吹き込まれた霊に満たされて、神と交わりを持つことができるようになったということです。心の内を語り伝え理解する、言葉による交流を持てる人格的交わりをすることができるようになったのです。神の霊こそ、神のことばそのものであり、「いのちの息を吹き込まれた」とは、神と交わることばを与えられたとも言えます。
 しかし人はアダムにおいて、罪という、神との交流を持てない壁を作ってしまいました。それを取り除くためキリストが遣わされ、再び交わりを持つことができるようになりました。私たちが死んだままで人生を終えないように、最初に「生きもの」として完成するため、救い主を遣わされたばかりか、再び神と交わることができるように、神の霊を注がれたのです。
 今私たちは、生物的命を持っています。また、人格形成のための魂のいのちもあります。しかし魂は、イエス・キリストを信じるまでは役立たない(神と交流が持てない)死んだ状態でした。そこに救いがもたらされ、イエスの名によって祈り、語り合う関係がもたらされました。あなたのクリスチャン生活が生きたものか死んだものか、その違いは神と共に歩んでいるかどうかです。人が人である真の姿は、神が共に(横でなく、内におられて)歩んでくださることです。聖霊様が私たちの内におられる状態こそ、正しい良心を働かせる条件です。

2.聖霊充満の大切さ(ヨハネの福音書6:63)
“いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。”
 パウロは、私たちの肉体を「聖霊の宮、神の霊が住まわれる場所」と教えています。本来、住むべき主人がいなければその建物は無意味であり、主人以外の他の人が住むなら何の益にもなりません。私たちは神の霊が住むべきものとして体が与えられているのに、神の霊を住まわせなかったら、その建物は何の意味もありません。「肉は何の役にも立たない」とはこのことです。聖霊充満を実現しなければ、私たちの体は何のためにあるのでしょう。体がなければ聖霊充満はありません。そのために神は罪の宿っている肉体を聖霊の宮とするため、キリストの十字架の贖いによって罪を取り除かれました。
 では御霊がおられることはどうしてわかるのでしょう。これまでペンテコステ教会では多くの場合、聖霊の臨在を五感により感覚的に捉えていた点があります。これも当然必要です。心に臨在される聖霊様をどう意識するかというと、イエス様のことばは霊であり、聖霊様が内におられるなら、イエス様のことばに心が反応します。
 みことばを聞くと、二つの反応が心の内に現れます。一つは神の霊に反する動き(肉は御霊に反する)です。神のことばの実行の勧めに対し反発する反応です。これは肉の動きです。しかしもう一つは、神のことばの実行を大切だと反応する正しい良心の動きです。肉を意識している人は、正しい良心の動きが弱いので、いつも肉に引っ張られます。私たちは神のみことばを聞いた時、この二つの心の動きのどちらに意識を置いているでしょうか。聖霊様は正しい良心の内に住まわれます。みことばが語られた時、正しい良心を通して聖霊様が反応され、良心的考えが生まれてきます。だから聖霊様がおられると、とがめを持ったり、罪に対して敏感になったり、神のことばに心を打たれたりするようになります。神のことばを実現するため、聖霊様が働き始められ、良心の部分から精神の部分、そして肉体の部分へ影響力を及ぼすようになります。
 みことばを聞いてすぐ実行できるほど正しい良心が強められている人は、いろいろな試みに勝利されてこられたのでしょう。また経験と一致する内容なら他宗教家も納得して行えるでしょう。しかし神を畏れない人にはできないことがあります。
 ヨハネの福音書で「御霊はわたしについて証しをする」とイエス様が言われたように、御霊は唯一の神、救いはイエス・キリストだけと啓示し、三位一体の神を啓示します。聖霊充満によって、神との交わりだけでなく、神を理解するように助けてくださいます。みことばを喜ぶ心の方を決断してまいりましょう。

3.聖霊に満たされるために(使徒の働き2:38、ヨハネの福音書7:37〜39)
“そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。…」(使徒の働き2:38)”
“さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネの福音書7:37〜39)”
(使徒の行い2:38)聖霊を賜物として受ける条件
・悔い改めること(神と共に歩む人生に立ち返るという方向転換を決心すること)
・バプテスマ−洗礼を受けること−(罪を犯した不敬虔の裁きを身代わりに受けてくださったキリストにあなたも合わされ、水の中に葬られ、キリストが3日目によみがえられたように、水から上がる時には神と共に歩む新しい人生を出発する。)
 水から上がった時はアダムが土のちりで造られた状態と同じで、さらに聖霊に満たされることが必要です。赦されただけでなく、神の霊が吹き込まれることが大切です。
 また御霊が内に住んでおられることを実感することが聖霊のバプテスマの体験です。それは大きな感動があったり、じっとできず跳び上がって喜んだり、大声を出したくなったり、まるでファンが優勝の感動を全身で表すようなものです。内向的な人はそれらを抑えたりしますが、胸のつかえを感じたりすることもあります。唯一、聖霊が語らせることば(異言)を語ったり、預言、賛美をしたりする客観的にわかる反応が現れることもあります。
 しかし反応に頼らず、みことばの約束を信じ続けることが大切です。「悔い改めると、賜物として聖霊を受ける」と書かれてあるように、賜物とは好意をもって差し出されたものですから、受け取りのサインをし、「いただきました」と告白することが必要です。これは努力ではなく、「悔い改めて、洗礼を受ける」以外の条件はありません。
 神を畏れるコルネリオは、メッセージ中に聖霊に満たされました。考えて行うことではなく、正しい良心の内に浮かんできたことをするだけです。内におられる聖霊様の反応にぜひ応答してください。
(ヨハネの福音書7:37)
 ここは「求めているなら」ではなく、「渇いているなら」と書かれています。水に渇いているような思いを聖霊様に持つことが大切です。本当に渇いていると水を選ぶことをせず、飛びついて飲むそうです。渇きは条件を選びません、「満たされない」「欲しい」という強い願いさえあれば、聖霊充満が実現します。しかし関心がないとプレゼントも役にたちません。「渇き」には関心が必要です。
 聖霊充満は水が溢れ続けるほどに注がれ続けることが必要であり、満たされ続けるには受け続けることが大切になってきます。今も神は御霊を注ぎ続けてくださっています。私たちからあふれ出るものが、人々に証となってキリストを知らせていくのです。あふれるものを抑えることなく素直に出せるように、聖霊充満を持って、いつも神と共に歩む人生を選び取ってください。

 

 

 

 

 

 
■2007年5月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   相即不離 そうそくふり  up 2007.5.20


二つのものが密接に関係しあって、切り離せないこと。


あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。
(申命記10:17〜18) 


 

 

 このみことばから、神のさばきとあわれみについて、考えてみましょう。17節に「神の神、主の主」とあるように、私たちの神は唯一の創造主なる神です。「恐ろしい神」というのは、暴力的、威圧的とか、ガンコ親父のようなイメージではなく、威厳のあるお方、罪に対して厳しい正義なる神であるということを強調しています。「かたよって愛することなく」とあるように、すべての人に平等に愛を注がれます。神様が私たちに与えておられる能力・力・環境・財産は、それぞれ違います。私たちはしばしば、これらのものが多いとか少ないとかいうことで神様の愛を量ってしまうことがあります。しかし、これらのものは愛のゆえに与えられたものではなく、私たち一人一人にふさわしいものとして預けられたものです。より多く愛しているから多い、あまり愛していないから少ないというものではありません。能力や力、財産はプレゼントではなく、神様の、私たちに合わせた子育ての仕方なのです。ですからもし「なんで私はこんな家庭に置かれているのか」と思うことがあるなら、それはそのような環境の中でもたくましく生きていけるものを持っているからだ、ということなのです。
 すべては神の深い知恵をもって造られ、備えられています。悪いものは一つもないのです。「楽することが幸せ」というのが世の中の価値観ですが、むしろ苦しみの中に、私たちの内から良いもの、すばらしい能力や性格、才能を引き出すための神様からのチャレンジがあるのです。神様は一人一人に合わせて良いものを備えておられます。神の愛は、持ち物や環境によって量られるものではないのです。
 また、「わいろを取らず」とあります。寄付金の額によって神の働きが違う、お守りの金額でご利益が違うといった偽りの神々は、わいろを取る神です。しかし、私たちの神様は天地を造られた神、そのようなお金を必要とはされません。
 18節には、神様の愛とあわれみが表されています。みなしごややもめ、当時ユダヤ社会では差別的な待遇を受けていた在留異国人に代表される弱い立場の人々に対して、神様は助けを与えられます。
 17節では、神様は厳しいお方、さばきをされるお方、一方18節ではあわれみ深いお方、弱い者の味方をされるお方と表されています。神様は裁き主であられると同時に、愛なる神であられるように、さばきと愛、あわれみは、非常に密接な関係にあります。全く相反するもののように思いますが、実はとても深いつながりがあるのです。

1.神のさばき(マタイの福音書7:1〜2)
“さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。”
 神様はどのようにさばかれるか、イエス様が語られたみことばです。私たちが人をさばくとき、そのさばいた私たちの価値観・基準で、神様は私たちをさばかれます。これが神様のさばき方です。
 私たちが人を量る時も同じです。私たちが量る基準で私たちも量られます。非常に公平な方法です。しかし、これはとても恐ろしいことです。「礼儀ができていない」と人を厳しく見てさばくなら、神様も私たちを、神様に対して「礼儀ができていない」と厳しくさばかれるのです。社会一般の礼儀ができていても、神様に対する礼儀ができていない人はたくさんいます。そう考えたら、私たちは安易に人をさばいたり、量ったりすることはできなくなります。
 このマタイの福音書7章1〜2節は、私にとって、謙遜・柔和・寛容を示すための礎となっているみことばです。人をさばいたり、量ったり、中傷したりしたら、その基準で自分も神様からさばかれる。そのことをこのみことばから心に深く刻んだのです。人は自分中心に物事を考えます。ですから、神様は自分中心に考える人に対して、その人中心にその人自身をさばかれるのです。私たちが人に対して謙遜・柔和・寛容に限界をつくるなら、限界のない神様も私たちに対して同じ限界をつくられます。これが正しいさばきです。私たちは正しい良心を働かせていくことが大切です。
神がさばきを行われる理由は何でしょう。申命記10章18節からみてみましょう。神は悪人をさばかれます。ではどんな人が悪人と言われるのでしょうか。ルールを破る人、確かにそれも言えますが、むしろルールを破るという行動に至った動機が問題です。
 動機が正しくても、つい感情的に悪を行ってしまうことがあります。例えば、子どもを愛しているのに、自分の短気さのために子どもをことばで傷つけてしまうこともあります。行動は悪ですが、子どもを愛しているという動機は良いため、この人はまだ悪人にはなっていません。悪人とは、行動に至る根本の心、動機が悪い人を言います。神様はやもめやみなしごのためにさばきを行われます。つまり、弱い立場の人を守るため、彼らを虐げている悪人をさばかれるのです。ルールや法を犯したからではありません。それは二次的なものです。
 「力のある者は、力のない人の弱さをになうべきです。(ローマ人への手紙15:1)」とあるように、力ある者たちは、弱い人々のために、与えられている能力・力・才能を用いていくことが必要なのです。日本の繁栄が貧しい国を作り出すのではなく、むしろそのような国の人々を支えるためにある、という考えに立つべきです。神様が富む者、力ある者に願っておられるお考えです。あなたにはどのような力が与えられているでしょう。その力で人を助け、施し、親切をしていくことができます。無いものについて不平を言うのではなく、与えられているもので人々を助けることができるのではないか、と考えるのが、神のあわれみとさばきを正しく理解した神を畏れる人の考え方です。
 神様のさばきは、神のあわれみがその前提にあります。これを正しく理解するとき、私たちはどのようなことに気をつけるべきでしょうか。みことばを黙想し、自分を変えていくことにチャレンジしましょう。

2.神の愛とあわれみ(ローマ人への手紙2:4、第2ペテロの手紙3:9)
“それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。(ローマ人への手紙2:4)”
“主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第2ペテロの手紙3:9)”
 神の愛とあわれみは、弱い立場の人と、助けが必要な人々に向けられます。では、力ある者に対してはどうでしょうか。神様は力のある人々にもあわれみを注いでおられます。ここでさばきとあわれみの密接な関係を悟ることができます。
 助けが必要な人へのあわれみは、その人を生かすためのものです。助けがなければ生かされない、社会復帰できない状況にあるということです。一方、力ある者への神の愛とあわれみは、さばきを通して与えられます。もし、力ある者が弱い者に対して助けの手を差し伸べなかったら、それは罪としてさばかれます。これは行いによるさばきであり、富む者、力ある者として生かされる道を選ばなかったということです。
 力あるものは、弱い者を助ける義務があります。義務という以上、相手との人間関係の有無にかかわらず、助けなければならないということです。
 力ある者、富む者は、弱い者、貧しい者を征服するためではなく、助けるために存在するのです。その力や冨は、弱い者を助けることによって生かされるのですが、そうでない状況を正すために、さばきが行われるのです。そのことを通して、力ある者たちが間違いに気づき、悔い改めるためです。そして力ある者たちも生かされるのです。
 行いの悪さをさばくだけでは、あわれみのない裁きです。あわれみは人を生かすために注がれます。そして人を生かすためにさばきが用いられるのです。この世の裁きは人を滅ぼし、廃絶し、壊していきます。しかし、神のさばきは人を生かすためのものです。
 あわれみは、やり直しのチャンスを与えるものです。立ち上がるため、健全な状態に戻るため、みなしごややもめが社会復帰できるために、神はあわれみを注いで助けを与えられました。罪人には、心の動機が正しければ、悔い改めのチャンスを与えられ、つい罪を犯してしまう状況から勝利できるように、赦しのチャンスを与えられました。しかし、あわれみは無期限ではありません。さばきが決まっているからこそ、チャンスというものが生まれるのです。私たち人類は、不敬虔という神様の前に絶対に赦されない罪を犯してしまいました。すべての人は罪の種を持ち、罪の奴隷となってしまいましたが、その中でも善意のある人々を救うために、神は主イエス・キリストを地上に遣わされました。それは、さばきが下るまでに与えられたチャンスです。最後のさばきのときまでに、救い主イエス・キリストを通して、動機から悔い改めて神を敬うならば、無罪の判決を言い渡す、というものです。2000年前にキリストが私たちの罪のためにすべてのさばきを受けてくださっているので、私たちはただ心を入れ替えるだけでよいのです。さばきのときがくるまでに、早くキリストを信じなさい、というチャンスを与えてくださったのです。これは神のあわれみです。しかし、このさばきのときがなかったなら、人間は罪の性質によって安易な考えに流されてしまいます。さばきがあってこそ、あわれみのチャンスが生かされるのです。あわれみだけならば、永遠に罪はなくなりません。さばきのときがあるからこそ、人はあわれみを受け、チャンスが与えられて悔い改めの実を結ぶことができるのです。

 さばきとあわれみの密接な関係を正しく理解していくほど、私たちの生活は変わります。神の前における正しい良心をそなえたあわれみ豊かな教会・クリスチャンへと変わっていきます。私たちはこれをめざして行きましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年5月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一暴十寒 いちぼうじっかん  up 2007.5.13


一日陽に当てて暖めても、十日冷やせば何にもならないの意から、少しの時間努力しても長時間なまければ、成功しないというたとえ。


なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。
(箴言20:4) 


 

 

 あたり前のことは、意外にやっていなかったりします。「刈り入れたいなら耕さなければならない」ということも、当たり前のことです。物事は順を追ってしていかないと、ゴールに達することができません。
 「なまけ者」の特徴は、せっかく努力してもそれを生かすことができない、というところにあります。この状態を繰り返してしまうと「なまけ者」になってしまいます。せっかく努力しても、3つのポイントのどれかを怠るために目的のものを手に入れることができなくなるのは、本当に残念なことです。

●5/14(月)・17(木)「時期」(第1ペテロの手紙2:2)
“生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。”
 すべての事には「時」があります。例えば勉強に興味を持てるかどうかは、ある意味教師にかかっています。私は小学校に入学した時に受けた教師の一言「あなたはできない」ということばで、勉強に対する意欲を失ってしまいました。まだ何もわからない純粋な子どもの心に、「できない」ということばが、考えることや努力する気持も失わせてしまったのです。
 こうして学ぶべき時に学ばなかったために、今大変苦労しています。努力するべき時に努力しないと、せっかく得られるものも100%を受けることができなくなります。
 祈りたい時に祈り、聖書を読みたい時に読む、学びたい時に学ぶ。「〜したい」という時に、それに取り組むことが一番効率良く吸収できる秘訣です。この時期をずらしてしまうと、やる気が失せてしまっているので、かなりの努力とエネルギーが必要となってしまいます。「〜したい」という時にたっぷり時間をとって取り組むことが、それを習得する近道になります。
 それは農作業でも言えます。例えば苗を植える時期が遅くなってしまうと、収穫の時期も遅れてしまい、秋に収穫すべきなのが冬にずれ込み、そのためにせっかくの収穫も量が減ってしまうのです。
 これではせっかくの努力も無駄になってしまいます。あなたは今、何を学び吸収する時期でしょうか。まずは自分の内にある「願い・ビジョン」を、正しい良心によって探ってみましょう。願いがないと何も吸収できません。その願いが起きてきた時が、努力する時期なのです。

●5/15(火)・18(金)「継続」(第1コリント人への手紙9:24)
“競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けられるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。”
 これはクリスチャン生活と重ね合わせて考えることができます。「賞を受けられるような走り方」も途中でやめてしまったら無駄になります。走り続けるという継続が必要なのです。継続できる「走り方」を、あなたはしているでしょうか。
 例えば100m走であれば、ランナーは全速力で一気に走り抜けます。しかし、もしそれが40Hぐらいの長距離であったらどうでしょう。100m走と同じ走り方をしていたら、とうてい最後まで走り抜くことはできないはずです。
 あなたがイエス様の再臨の時まで準備を続けていても、もう一日というところでもし、その準備を放棄してしまったら、それまでの努力も水の泡になってしまいます。今、継続していけるクリスチャン生活を、あなたはどのように積み上げているでしょうか。一日に6時間祈る、それはすばらしいですが、毎日継続できるでしょうか。あなたが毎日続けられる祈りの時間を考えて、祈りの努力を積み上げていく(継続する)ことが大切です。
 もしあなたが日曜日に教会に来て賛美をし、祈り、メッセージを聞いて敬虔な気持になっても、あとの月曜から土曜まで全く何もせず、不敬虔な生活にどっぶり漬かってしまうなら、せっかくの日曜日の祝福も無駄になってしまいます。
 毎日できることを続けてゆきましょう。例えば一日に聖書を一章でも読み続けるならそれはすばらしいことです。あなたなりの、これなら毎日できるという範囲でやり続けてください。量が問題ではなく、続けることが大切です。

●5/16(水)・19(土)「体得」(ピリピ人への手紙2:14〜16)
“すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。”
 続けていても身に付かなかったら無駄になります。パウロはピリピの教会を大変な労苦の末に建てました。このピリピの教会がしっかりと立ち、無駄な労力で終わらないよう、彼はピリピの人々にしっかりとした信仰生活を築く秘訣を教えています。
 それはすべてのことをつぶやかず、疑わないで行うことでした。つぶやきながら疑いながら仕事をしても、その労苦は身につきません。つぶやきや疑いは心を閉ざし、受け付けないことなので、いくら学ぶ時間をとっても身に付くことはありません。神のみことばが自然に行なえるよう身につけるためには、自分の中からつぶやきと疑いを取り去ることです。
 みことばが身につくようになるために、神は私たちの回りにいろいろな問題を置かれます。試されることによって身につくのです。
 謙遜が身につくために、あなたの回りにイライラさせるような高慢な人がおかれます。また柔和を身につけるために、感情の起伏が激しい人がおかれるでしょう。寛容を身に付けるためには、口で何回も詫びても、すぐに同じ過ちを犯すような人がおかれるかもしれません。こういう試されることがあって初めて、私たちは少しずつ謙遜や柔和、寛容が身に付いていきます。
 難しい人が現れるほど、私たちはキリストのような品性が必要であると痛感し、忍耐し、努力し続けていくのではないでしょうか。
 私たちのクリスチャン生活の目標は「神の子どもとしての性質を身に付ける」ことです。この目標を受け入れなかったら、つぶやきと疑いのクリスチャン生活になってしまいます。神は良いお方です。意味のない試みはありません。すべての事に神のご計画があります。
 神を信頼して時期をわきまえ、継続し、身に付くまで忍耐し続けるなら、何一つ無駄にはなりません。あなたの人生におけるビジョン、神のご計画を理解しましょう。私たちの教会に与えられたビジョンはヨハネの手紙第一1章3節の、神の家族としての交わりを土台として、それをさらに広島中に広げてゆくことです。そしてこの広島に真の平和都市、エルサレムにふさわしく、正しい良心、憐れみ深い人々がどんどん増えていくことです。
 私たちが今この広島にいるということは神の選びであって、その御心を成就するためであるということを知りましょう。世界中の人々は、広島を、平和を主張する都市として注目しているのです。このことをしっかりと受け止める必要があります。
 ただ、平和とはみんなが同じことをしているから平和というわけではありません。むしろ違っていても、各々の違いを認め、尊重しあうことが平和なのです。
 私たちが福音を語る時、それはキリストの真実を人々に証しするためであって、力づくで無理矢理人々をキリスト教に回心させるためではありません。むしろ、私たちがいくら福音を人々に語っていても、自分の生活の中にキリストの愛が実を結んでいなかったら、人々はキリストを信じる気持ちにならないでしょう。
 ですからまず、私たちがキリストの愛を受け取り、自分の回りの人々を愛し受け入れ、認めていくことから始めないといけません。そこに平和の実を結んでいくのです。
 マタイの福音書28章19節に「弟子としなさい」とありますが、弟子をつくるとは、あなた自身が人々に弟子になりたいと思わせるほどの、尊敬される人になりなさいということです。あなた自身がまず、キリストの弟子として人々に証しする必要があります。問われるのはあなた自身です。誰も無理矢理人々を弟子にすることはできません。
 神のみことばを正しい良心で受け入れ、この広島に神に選ばれて置かれている者として、神のご計画を受け入れ、実践していくためにその正しい時期を悟り、継続しつづけ、身につけるクリスチャン生活の歩みをしていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2007年5月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一蓮托生 いちれんたくしょう  up 2007.5.6


善くも悪くも行動や運命を共にすること。同一の蓮華に生をまかせる。


謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
(エペソ4:2〜3) 


 

 

 今週の主題は、私たちの教会の理念「神の前における正しい良心を備えたあわれみ豊かな教会」という同じ志のもとに、同じ神様を愛する者として、ともに神様のご計画に携わっていこうという気持ちを表わしたものです。
 これは本来仏教用語ですが、同じ蓮の花に自分を委ねている者同士、同じ運命・行動をとっていくという結びつきを表わしています。蓮は、泥沼の中から水面に純白の美しい花を咲かせるという、まさに人生を表わすような花です。蓮の花は、主イエス・キリストを表わします。この罪の泥沼の中にあってただお一人、イエス様は一度も罪を犯さない生涯を送られた純白の蓮の花、救い主です。私たちは、イエス様の罪なき人生に支えられて、神様のあわれみによって救いを与えられた者、キリストにともに人生を託し、神様のご計画に自分を委ねた者同士なのです。
 エペソ人への手紙4章2〜3節は、先に挙げた私たちの教会の理念を具体的に表しています。この中で今週はあわれみについて学びたいと思います。単にあわれみを示すというだけではなく、神様が願われる豊かなあわれみとはどういうことなのか、2節にある「謙遜・柔和・寛容」という3つのことばから学んでいきましょう。

●5/7(月)・10(木)「謙 遜」ピリピ人への手紙2:3
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。”
 謙遜とはへりくだること、つまり相手を自分よりも優れた者として見ていく、この姿勢が自分を低くすることであるとこのみことばは示しています。この世の中は「劣っている者は価値がない」という競争社会です。そのため多くの人々は、劣る・負けるということを受け入れるのがなかなか難しいのです。神様はなぜ強い者と弱い者というように、力や能力の差を与えられたのでしょうか。このことに不公平さを感じる人もいます。しかしそれは自分中心の考え方によるものです。正しい良心から考えるとどうでしょうか。たとえば、金持ちと貧しい人を例にとるならば、その違いは「お金や財産があるかどうか」という一部分に過ぎません。貧しい人が金持ちを自分よりも優れていると思うのはたやすいことです。しかし金持ちが貧しい人を自分よりも勝っていると思うのはかなり力がいることです。正しい良心で金持ちが考えるならば、「お金は私の方が多く持っているが、この人にはそれ以外に何か良いものがあるのではないか」と探すのではないでしょうか。謙遜=へりくだるとは、自分の持っているものを比べ合うのではなく、自分の持っていないものを相手が持っていることに関して尊敬を持つ、ということです。ですから、謙遜な人は自分の持っていないものを相手に見出そうとします。相手に自分よりも優れたものを見つけていく、これが謙遜の重要なポイントです。この姿勢があれば、相手の優れたところに気づいたら、自ずと私たちはへりくだることができるのです。
 この一番のお手本がイエス様です。イエス様は、私たちを天から救い上げたのではありません。神様の目からは罪深い私たちには何一つよいものはありません。では何を見出して下さったのでしょうか。それはただ「神のかたちに似せてつくられた神の子である」ということだけです。このゆえに、イエス様は神の栄光を捨て、人と同じ姿をもって処女マリアからお生まれになり、私たちの罪を取り除くために身代わりに十字架で裁きをお受けになり、私たちに神の子として歩みを回復し、やり直すことのできる救いを与えて下さったのです。私たちのうちに唯一「神の子である」というよいところを見つけて下さり、この地上まで降りてきて下さった。私たち罪人を何とか救いたいというあわれみの動機が、謙遜というかたちで表わされたのです。

●5/8(火)・11(金)「柔 和」テモテへの手紙第2 2:24-25
“主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。”
 あわれみを注ぐ目的は何でしょう。それは「回復を願う」ということです。あわれみは、悪い状況にある人々に対して注がれる愛の行ないです。それは悪い状態から健全な状態になってほしいという気持ちからのものです。あわれみを何かみじめなものとしてとらえるのではなく、その本当の意味を正しく理解しましょう。
 神様は私たちが的外れの存在になってしまっている状態から回復して欲しいとあわれみを注がれ、御子キリストを地上にお遣わしになり、謙遜を表わし、柔和を示して下さいました。この柔和は、「相手がどのように態度を変えようと、自分は変えることなく、やさしく相手を受け入れる心を示し続けること」です。聖書に出てくるザアカイという人は、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人から嫌われていました。取税人としてローマ帝国に変わって同国人であるユダヤ人から不正な方法で税を取り立てていたのです。そんなザアカイに、イエス様は神の愛の柔和を示されました。そのとき、ザアカイはこれまでの悪事を悔い改めたのでした。
 ここで注意しなければならないのは、「柔和」と「寛容」の違いです。ここでイエス様が示されたのは「柔和」であって、「寛容」ではありません。「柔和」は、相手に良くなってほしいという目的のために態度を変えず受け入れる心を示して悔い改めるチャンスを与えるものです。十字架のイエス様に屈辱的なことばをあびせかけた人々に対して「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と言われたこの祈りは、イエス様が表してくださった最大の柔和です。正しい良心を持つ人なら、このイエス様の祈りに心打たれ、自分の罪深さに気づかずにはいられないのです。柔和さは、人を悔い改めに導くきっかけを作っていくのです。
 柔和は、よくなってほしいというあわれみが動機となって示されるものです。あわれみがなければ柔和さは示せません。もっと立派なクリスチャン、神の子になってほしいという相手の将来に希望を持つことによって柔和さが働きます。単に罪を指摘するのでは争いに巻き込まれるだけです。どんなに相手に争いの姿勢が表れても、柔和な心で教え、忍び、罪を心やさしく指摘していくことによって、人は悔い改める気持ちが生まれてきます。わが身のように愛をもって接していくことが必要です。一蓮托生という、キリストにある神の家族というつながりを忘れず、ひとり一人もっと良い神の子に成長して欲しいという気持ちから、私たちは互いに柔和さを示すことが求められています。私たちはイエス様から柔和の限りを示していただいています。今の私たちの達し得たところで柔和の限りを示して行きましょう。

●5/9(水)・12(土)「寛 容」コリント人への手紙第2 2:7-8
“あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。”
 パウロがコリントの町に立てた教会は成長していたのですが、その中に罪深い生活をあまり罪の意識がなく続けていた人がいました。そのことをパウロが指摘し、その人を罪から離れさせ悔い改めさせるように、と教会をきよめることを指導したのです。そして、パウロがここで「その人を赦し、慰めてあげなさい。」と言っているのは、その罪を犯していた人が悔い改めて、その罪から離れたという姿があったからこそです。悔い改めのないままに寛容を示し、罪を赦してしまったら、罪をそのまま続けていいということになってしまいます。寛容とは、罪を悔い改めた後、その罪を過去のものとして十字架で処分されたものとして赦す、ということです。悔い改めに導くまでの間は、寛容ではなく柔和が必要なのです。先ほどのポイントとも併せて「寛容」と「柔和」の違いをはっきり区別しましょう。
 また「悔い改め」とは、悪い方向から良い方向へと180°方向転換することとだけ、私たちは考えがちです。しかし、悔い改めは十字架の死と葬りと復活に重ねなければなりません。犯してしまった罪は、私たちでは処分できません。イエス様が十字架で処分して下さったのです。ですから、悔い改めるとき十字架をきちんと理解していなければならないのです。「私はこれまで犯してきたこの罪を今ここでやめます。この罪の裁きをイエス様が十字架で私の身代わりにお受け下さって、その罪を葬って下さったから、もうそれは過去の罪として処分します。新しい出発をするために、今まで犯してきた罪を過去のものとしてもう清算しました。」これがクリスチャンの悔い改めです。私たちの身代わりに裁きを受けてくださった、イエス様の十字架があるからこそ、これができるのです。しかし、キリストの十字架を信じない人たちにとっては、罪は処分されていないので、過去のものとはなりません。主イエス・キリストの十字架は歴史上の事実ですが、十字架の罪の赦しを信じない人は、たとえ十字架が実現していても、その罪を十字架に預けないために処分されずそのまま残ってしまい、過去のものとはなっていないのです。
 「今自分はこの罪を十字架につけて処分していただきました。この瞬間から、自分は罪なき者として神の前にもう一度人生をやり直します。主イエス様が十字架の死からよみがえられたように、私も新しくキリストとともによみがえった者として、新しく未来に向かって歩んで行きます。」これがキリストの死と葬りと復活を踏まえた悔い改めです。そのように罪の処分を十字架に委ねて悔い改めた人に対しては、誰もその罪を二度と責めてはいけません。ですから、悔い改めてもなお、同じ罪の失敗をしたからといって、「あのときの悔い改めが不十分だったからだ」などと言うのは不信仰であり、間違いです。その人が真理に基づいて十字架で罪を処分したなら、その悔い改めは正しかったのです。それでも同じ罪を犯してしまうこともあるのです。「悔い改めが不十分だったからでは」ということを言ってしまうと、その人の信仰を疑わせることになってしまいます。そして、迷い、悔い改めが何かわからなくなってしまうのです。
 神様は疑われません。悔い改めたら信じて下さいます。それでも未熟な私たちは罪を犯すのです。悔い改め方が悪かったからではなく、肉に宿る罪の働きかけで新たな罪を犯すのであって、罪の続きをしているのではないのです。このことに気づいた人は、もっと早く罪から離れることができます。十字架では常に一つ一つ、一回ごとに罪が処分されて行きます。そして私たちは新たに罪を犯していくのです。愚かな者です。だからこそ、イエス様は「七の七十倍するほどに」赦しなさい、とおっしゃったのです。罪はひとつずつ処分して下さり、過去と切り離してくださる救いだからこそ、490回も赦す必要があるのです。
 悔い改めて新しい歩みを始めても、正しい良心と肉の欲望との戦いは続きます。正しい良心を強くするためには、戦い続けるしかありません。戦い続ける中で強くされ、肉に宿っている罪の力に打ち勝つ魂となるのです。そのことを神様は願っておられます。だからこそ、神様は罪の赦しを与える救いを与え、その罪をもう思い出さないと言って下さっているのです。
 また、寛容とは罪を赦すことです。赦すことは、罪による損失の償いを求めないということです。神様は私たちに寛容なお方です。罪を赦すお方です。神様が無限に罪を赦して下さるのは、私たちの回復を願っておられるからです。良くなってほしいという相手に対する愛があるからこそ、あわれみ=謙遜・柔和・寛容を示すことができるのです。しかし、その愛が切れてしまうと、もうあわれみを示すことはできなくなります。愛が切れないことが義人のしるしです。切れてしまう私たちは同じ罪人です。もしも忍耐、愛、謙遜・柔和・寛容を示すことを途中でやめてしまったなら、これは的外れです。神様はまったく罪のない、的を外すことのないお方だからこそ、正義の神として寛容を示し続けて下さるのです。
 しかし一方で、罪はそのまま放置することはできないという、もう一つの正義があります。罪をやめようとしない人には、悔い改める心がないために寛容を示すことはできません。そのような人々のために神様は、裁きのとき(最後の審判)を定めておられます。神様はご自身の義を立てるために、「赦し続ける」ということと「罪は必ず裁く」ということを両立しておられます。
 イエス様はよみがえられた後、イエス様を3度否んだペテロをひと言も責められることはありませんでした。何事もなかったように、悔い改めたペテロを受け入れ、愛し、十二使徒のリーダーとして用いられました。ここにもイエス様のあわれみ、寛容さを見ることができます。

 私たちの信仰姿勢としての「神の前に正しい良心を備えたあわれみ豊かな教会」。それがどういう意味かお分かりでしょうか。これが私たちの身に備わったら、そしてそのような人々がこの町に増えていったら、どんなにすばらしいでしょう。この広島は天の御国のような町になるでしょう。神様はそれを願っておられるのです。