■2007年4月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
骨肉之親 こつにくのしん up 2007.4.29
親子、兄弟のような血縁の間柄。また、肉親間の情愛のこと。
兄弟愛をいつも持っていなさい。
(ヘブル13:1)
私たちが「○○兄弟、○○姉妹」と呼び合うのは、血のつながりのない者同士が、神の家族として血筋以上の強い絆で結ばれていることを忘れないためですね。あえて「○兄弟、○姉妹」と呼ばなくても、私たちは神の家族であることを忘れてはいけません。神様は「兄弟愛をいつも持っていなさい。」と聖書で語られました。兄弟愛を持ち続けることは大切なことであり、持ち続けないとそれは切れてしまいます。そうすると、夫婦、親子…といった人間関係は壊れていき、社会的問題も起こってきます。先週「勁草之節」ということで、信仰についてお話しました。「望んでいる事柄が必ず実現すると信じ続ける力」が信仰ですが、さらにその力が増し加わるためには、兄弟愛・家族愛が必要になってきます。私たちが願っていることを神様はかなえてくださいます。その神様とは、ご利益宗教ではなく「父なる神様」であり、親です。家族の絆で結ばれている方に、私たちは信仰を向けています。神の御心である、善・正義のために私たちが願うことは、不可能なことでも可能にしてくださるという信頼を「父なる神様」に抱いています。「造った方」「造られた者」という以上に、父と子・親子であるという関係は、私たちの内にさらに大きな期待をふくらませることができます。だから親に対する期待は信仰と言えます。
信仰を働かせることができる関係を神様との間にいただいていることを忘れないようにしましょう。神様はお父様だと意識していきましょう。信仰を働かせ、強める動機付けとなる、神様を父として私たちは互いに兄弟姉妹であり、家族であるという兄弟愛を意識することが今週の目的です。
「骨肉之親」という四字熟語はその意味を表しています。最近は社会的にも夫婦関係、親子関係が崩れた事件が多発しています。二、三十年前に比べ、今は親孝行の意味に家族の絆の価値を教えられず育ってきていることは怖いことです。家族関係を理解できなければ、神様との関係も理解できません。親は必要なものを与える存在としか見ていない子どもは、神様にも同じようにしか考えられず、愛を感じることはできません。「神を愛する」ことがわかりません。このような家族の絆を歪める情報をこの世のメディアは与えています。
この家族の絆を大事に守っていくことは御心であり、さらに兄弟愛をしっかりと持つために、神のみことばを通して意識していきましょう。
1.人は神のかたちに似せて造られた
(創世記1:26〜27)
<そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。>
肉体を持っておられない神様は、私たちを「創造」という形で生んでくださいました。神に似せて造られるというのは生むということであり、私たちが神の子であり神と深い関係があることを表しています。
皆さんは家族をどのように考えておられますか。最近は「各々の人生がある」という考え方をするようになりました。親によって、また家系によって子どもの人生が縛られることはないという考え方も一理あります。しかし、家族の絆を切ってしまうことが問題です。すべて自由というのは極端です。神が私たちをその家族の中に生み出されたということは、その家系に与えられた神の使命、目的があり、その家族の歴史を背負って生きることをお考えになったということです。
あえてそこに置かれたのは、神のご計画であり、どう生きるかを考えなければなりません。環境の良否ではありません。家族は切っても切れない絆で結ばれており、一つのからだのようです。神は家族単位でも計画を考えておられます。ご自分のかたちに似せて造られたことを正しく理解する必要があります。
さらにすべての人類も、神に似せて造られたのですから、どの国の人々も家族として気持を向けていくなら、殺し合うようなけんかはしないはずです。良い家族は赦し合います。子どもは親の所有物ではなく、愛の関係が成立すると、教えられなくても互いに親として子として対応していきます。しかし、どちらかが愛を無視するなら、平和を保てなくなります。互いが家族愛を意識する時に、家族の絆が結ばれていきます。
人類が増えるに従い、自分の家族だけを守ろうとするようになり、本来家族であるにもかかわらず、自分の領土だけを広げようと争い、戦争に発展していきました。家族とは、互いにないものを助け合い共存するものです。「兄弟愛をいつも持っておく」ことがすべての人に志として与えられるなら、戦争まではいかないでしょう。「神がご自分のかたちに似せて造られた」ことへ神の家族意識を持つ理由があり、平和も広がるはずです。アダムの子どものカインとアベルの兄弟げんかは、自己中心が起こした的外れの行動の結果、人類最初の殺人となってしまいました。この問題は、肉の命である血、自分の命を守るために相手を殺していく−自分から生まれ出た者は自分と同じ血を継いでいるので、この血を守るため他の者を倒していくという考え方が歴史の中に続いてきているわけです。肉の血筋による家族関係は罪によって砕かれてしまいました。カインは家族を考えず、自分だけを良いものに置きたかったのです。アダムが罪を犯して以来、私たちの中に罪の遺伝子が宿ってしまったわけです。(遺伝子に傷がついたということになるのでしょうね)
だから血筋による家族関係は限界があります。第二次大戦後独立国も増えました。独立は肉の血筋を守るということです。しかし、全人類を神の家族として一つにする方法を救い主イエス・キリストを通してもたらしてくださいました。
2.神によって生まれる
(ヨハネの福音書1:12〜13)
<しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。>
1の肉の血筋による家族は、神様の一方的な考えによってなされました。私たちの意志は与えられていません。しかし二番目の、神による霊的血筋はあなたの意志で選べる神の家族です。あなたが全人類一つの家族という本当の世界平和を願っているならば、神を父とした一つの家族に入るしかないことを悟るなら、自ら「私は救い主イエス・キリストを信じて、神の家族に生まれます。」と意思表示をして、神の家族になれます。これは壊れません。肉の血筋の家族も、神の家族の中の肉の親という大きな考え方を持って人を見るようになるのが神の家族です。家族という意識があれば、過去の問題を赦し合い、受け入れ合い、一つに戻れるようになります。ヘブル人への手紙13章1節は「兄弟愛をいつも持っているように、互いにイエス・キリストを信じて自ら神の家族に生まれ入ったことを忘れてはいけない」ということです。教会は血のつながりはなくとも、神の家族という意識を持って、もっとよい教会生活を互いに送れるということです。「兄弟」と呼びながら、他人行儀に人を見ていないでしょうか。一番助けになるのは家族です。家族という意味は、子どもがどんなにやんちゃで成績が悪くても、親子ということを意識するものです。
ある有名な画家が、年を取ると物がよく見えるようになり、「バラの花びらが、実はぶつぶつがある」と気づいたというのです。この方が「愛があるとすべてが美しく見える」と言いました。
「美しいから愛するの」ではなく、です。家族愛も、その意識があれば赦せるのです。その絆を断ちきらなければ、どんな問題が起こっても何とかしようとする愛が生まれるのです。その絆を持てるようにキリストは私たちを罪から切り離し、汚れをきよめるため十字架で身代わりに処罰され、神の家族として生まれ直せるように、聖霊様を私たちの内に住まわせ、神の子としての証印を与えてくださったのです。神の子としての歩みを進めている意識をいつも持っておくように語ってくださっています。
3.キリストを長子とする兄弟
(ローマ人への手紙8:29)
<なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。>
長子には、親に代わって家族を養う責任があり、その代わりに親の遺産を受け継ぐことができます。私たちには父なる神がおられ、長子であるキリストが最後まで面倒をみてくださるという、兄弟の絆があります。どんな問題でも家族は限りなく赦し、助けてくれます。見捨てません。神は家族だから、私たちを絶対見捨てません。どんな状態でも高価で尊いのです。
キリストを敬う私たちはその家族だから赦せるし、仲直りでき、家族愛をしっかりと持つことができます。この教会は神の家族の一つです。初代教会は持ち物を売って、分け与えたと言われています。他人ならできません。単なる慈善事業でもできません。家族という意識があったから助け合ったのです。私たちも自分の力に応じて家族として助け合っていきましょう。そのために兄弟愛をいつも持って、「骨肉之親」を意識していきましょう。
■2007年4月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
勁草之節 けいそうのせつ up 2007.4.22
吹き付ける強風の中でじっと耐える強い草のように、困難な状況にあって自分の節操や信念を堅持し続けること。
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
(第2コリント5:7)
目に見える現象にゆさぶられてしまうのでなく、見えないものを見て、信仰によって歩むのがクリスチャンです。今週は具体的にどのように歩むのが信仰の歩みであるのか、確認しましょう。
勁草…茎が丈夫な草
節…志、信念、信じるもの
最近の若い人は「感覚=自分」と思いこみ、感覚を抑えて何かをやり遂げたりすることは自分を偽っていると勘違いしていることが多いように思えます。内側に感じているものを、即本心と考えていないでしょうか。例えば「悔しい!」という感じが湧いてくると、即それを相手にぶつけてしまうとか。心に湧いてくるもの=本心だとしたら、「殺したい」と思えば殺すことが本音で生きることでしょうか。心に湧いてくる思いが何もかも本心で、それに従うとしたら、周りはとんでもないことになります。
前向きな、感謝、喜び等でしたら、周りもハッピーになりますが、他人を害する思いが湧いたとしたら、どうなるのでしょう。
欲求のままに生きる、欲望こそ本心だと言っている哲学者もいます。しかし、こういった風潮の中で、自分の節操や信念を堅持し、正しいものを崩さないために湧いてくる様々な欲望、貪欲を抑えてじっと耐えることは本心でない行動でしょうか?
確かに何ら信念のない人は、感覚のままに生きることが本心と言えるでしょうが、それは本能のままに何の考えもなく生きることに過ぎません。人格者としての歩みではないでしょう。
信仰をもって歩むとは、クリスチャンだけではありません。
すべての人は「信仰」によって歩んでいます。
例えば、戦後日本の経済を世界有数にまで引き上げたのは「信仰による歩み」です。アメリカに負けない商品を出し、日本再建を目指して多くの人々が力を尽くして頑張ってきました。彼らは「そのようになる!できる!」と信じ続けたのです。他の国でも歴史を変えるような大きな出来事の背後には「そのようになる!」と信じる信仰の力が働いています。
携帯電話は、あったら便利だけどできないだろうと思われていたものです。しかしこれにチャレンジし続けた人々によって製品化され、今のように活用されてきています。デジタルカメラも、カシオの人々がクビをかけて開発したものです。「撮った写真がすぐ見られたら便利だなあ」という考えが願いとなり、それを実現するために人々が研究し、手に入れたのです。これも信仰の歩みです。彼らは多くの上司に反対されつつ、隠れて研究し、やり遂げました。
最近のいいニュースの中に、日本からイラクに派遣された自衛隊の話があります。多国籍軍の中で、一人も死者を出さないで現地で頑張って奉仕してきました。
今、現地に行った人の手記が出版され、その実態が明らかにされて、感銘を与えました。
彼らには「一人も死者を出してはならない」という政治的な大きなプレッシャーがかけられました。そして、これが信念となり信仰となり、そのための様々な策と方法が考え出されたのです。彼らは支援活動であるということを念頭に置いて、あらゆることをイラクの人の目線に立って考え行動し、大切なのはイラク人を愛することであるということを信条としました。
そしてその結果、イラクの人々の信頼を勝ち取り、様々なゲリラの事前情報まで寄せられて、隊員たちの命が守られることになったのです。
彼らの活動は積極的に市民生活の中に入り込むことでした。当然、危険性も増しますが、そのためにunderstand=理解する=の本来の意味である、低い立場に自分を置くことに徹したのです。「人を自分より優れた者と見る」という聖書のことば通りです。
彼らは自分たちの優しさ、日本の文化の持つ繊細さを駆使して、これに励みました。地元の子どもたちとサッカーの試合をしたのも、他の軍隊から見たら危険きわまりないものでしたが、何より現地の人々との信頼関係を大切にした気持の現れでした。こうして日本の自衛隊はどこでも歓迎され、人々の信頼を勝ち取ることができたのです。
こういった日本のやり方が多国籍軍の注目を集め、イタリアの少将が表敬訪問に来るほどになりました。
信仰の歩みは、私たち神に似せて創られた人間のすばらしい能力です。
今、クリスチャンである私たちは、周りに溢れている快楽や欲望に振り回されてしまわないで、もっと信仰の歩みができるよう、自分の生き方をチェックしてみる必要があります。
人の最も大切な部分である良心を養い育て、霊的支援を必要とし、心疲れている人々に救援の手を差し伸べていくキリストの使者として、信仰の歩みをもっと確かなものにしていきましょう。
見えないものを造り出していく信仰の歩みは、クリスチャンも世の中の人も同じです。しかし「何を創り出していくか」が違うのです。
どのようなないものを創り出していくのか、イエス様の模範的歩みに目を留めてみましょう。
1.信仰とは何でしょう。
(ヘブル人への手紙11:1)
<信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。>
信仰とは、望んでいる事柄に対して、勁草之節を持つことです。それゆえ望みを持たないと歩めません。その望みはまだ見ていない事へのビジョンです。あなたはイエス様のために何を望んでいるでしょうか。
2.模範とする信仰の歩み
(ヘブル人への手紙12:2)
<信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。>
イエス様は、ご自分の前に置かれた喜び、希望のゆえに十字架を忍ばれました。人が苦しみに耐えられるのは希望があるからです。
A)イエス様が持たれていた望み(喜び)
1)(ヨハネの福音書4:34)→『食物』=『喜び』=みこころを行い、成し遂げる。
<イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。>
このみことばは、サマリヤの町の井戸のそばで、一人の女性に福音を伝えられた後、弟子たちに語られたものです。食物は喜びであり、希望です。弟子たちがイエス様と共に食事をすることを楽しみに帰ってきた機会を捕らえ、イエス様はここで、クリスチャンの喜びについて教えられました。クリスチャンにとって魂が神に立ち返り、救われるのを見ること以上の喜びはありません。罪の世の中で生きることで、正しい良心が傷つけられ、苦しんでいる人々のために、イエス様の十字架の救いがあります。このような人々の魂が回復され、神と共に生きていく姿を見ることはどんなに大きな喜びでしょう。
2)父なる神のみこころ
(ガラテヤ人への手紙1:4)→悪の世界からの救い
<キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。>
(エペソ人への手紙1:5)→神の子を求める
<神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。>
人々が悪の世界から救われるだけでなく、神の子として変えられていくことこそ、すばらしいことです。正しい良心の歩みをする人々が増えていくなら、世の中は変わってきます。決して不可能ではありません。自衛隊の人も、一人も死なずに帰るという、不可能に思えることを信じ、やり遂げています。私たちは尚更、もっと不可能と思えることにチャレンジしていけるはずです。
B)模範となる節操
1)善を行い通す(第1ペテロの手紙2:20〜21)
<罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。>
イエス様が私たちに模範を示されたのは、私たちにもできると信じてくださったからです。私たちが善を行い続ける事によって、周りの人々はあなたの信じているキリストは信じられる…と変えられてきます。善を行い続けることに疲れ切ってしまってはいけません。
石井筆子さんも多くの人々の反対に遭いながら尚もやり続けて、障害のある子どもたちのための施設を完成させました。形ができあがるまでは、多くの人々は反対してきます。できあがったら、いかにも参加していたかのように賛成するのです。
しかし、反対から賛成に人々が変わる、それを見ることが希望です。今までキリストの悪口を言っていた人が、あなたが善を行って苦しみを受けても善をやり通す姿を見ることによって変えられていく、それを見るのが私たちの希望です。
2)互いに仕え合う(ヨハネの福音書13:14〜15)
<それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。>
師弟関係で、師であるという権威ゆえに権威を振りかざされ、技術を学ぶためにはひたすら我慢していくという状況では、気持が歪んできます。師が弟子の足を洗うという、そこまで目線を低くし、弟子の心を理解してくださる、これ以上のすばらしい師弟関係はありません。
互いに仕え合うとは、互いに補い合うことです。そのように親切の限りを尽くし、赦し合うという師背を貫かれたのがイエス様です。
それはunderstand、低く立つことです。
どれだけ私たちは互いに仕え合い、相手の目線に自分を置けるでしょうか。どれだけ私たちは互いに仕え合い、相手の目線に自分を置けるでしょうか。わかっていないというのは、相手の目線に自分を置いていないからです。わかってもらうためには、まず自分を低くすることです。イエス様も神としての高い立場でなく、私たちのために人となり、低くなって地上に来てくださいました。それゆえ私たちの苦しみを理解して、私たちを救ってくださることができるのです。私たちもこのような愛の精神をもって、互いに仕え合うことが大切です。そういう人々が広島に増えていけば、自然に平和の町が生み出されてきます。その先駆けとして、神はあなたを広島にお遣わしになりました。
広島がエルサレムのように愛される都市となるために、私たちは信仰を働かせて、しっかりとビジョンをもち、望みを持って歩み続けましょう。
3.信仰を働かせる具体的望みは何ですか?
(ピリピ人への手紙2:13)
<神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。>
■2007年4月15日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 横路 満弘師)
銘肌鏤骨 めいきるこつ up 2007.4.15
心に深く刻み込んで、決して忘れないこと。
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
(ルカ6:36)
肌に銘(めい)じ、骨に鏤(きざ)むと読み下し、意味は「心に深くきざみ込んで、決して忘れないこと。」です。たくさん忘れてはならないことはあると思いますが、次の聖句「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカの福音書6:36)も、決して忘れてはならないみことばです。私たちはただ神様のあわれみ、イエス様の尊い十字架の血潮により罪を赦された者であり、このことは決して忘れることはできません。
(ヨハネの福音書8:1〜11)の姦淫の女の記事から学びましょう。
●4/16(月)・19(木)「捕えられた姦淫の女」
(ヨハネの福音書8:3〜5)
<すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」>
「石打ち」とは、死刑の一つの方法であり、犯罪者を崖の下に突き落とし、その上に石を投げつけて殺す残酷なものでした。偶像礼拝者に対してこの「石打ち」の刑が執行され、同様に姦淫の罪を犯した人にもこの刑が適用される律法が定められていたのです。
唯一の神を裏切り、他の神々を礼拝する偶像礼拝と、唯一の配偶者を裏切り他の異性と関係を持つ姦淫とは共通性があります。
この大きな恥辱と死の恐怖にさらされた哀れな女性は、生まれながらのイスラエル人だったと思われますから、姦淫の罪が死刑にあたる重罪であることは知っていたことでしょう。
罪と知っていながらも犯してしまう弱さが私たちにもあります。止めたいと思っていても止められない悪習慣や、心の中の悪い思いもあるかもしれません。イエス様は<「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイの福音書5:28)>と言われました。
また(エペソ人への手紙5:5)には<あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者−これが偶像礼拝者です。−こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。>とあります。心の中で犯す罪まで聖められる必要があると知ると、私たちはこの女性を決して他人事と思えない、いやこの女性は私たちの姿を表していると思います。
そして(ローマ人への手紙6:23)には<罪から来る報酬は死です。…>とあり、罪の軽重にかかわらず罪人は聖い神の前に立てないばかりか、永遠の滅びに至るのです。
●4/17(火)・20(金)「最初に石を投げる者」
(ヨハネの福音書8:7)
<けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」>
この時イエス様は即答を避け、地面に指で何かを書いておられました。その間律法学者たちは早く答えるよう問い続けましたが、おそらくイエス様は彼らと女性の両方が悔い改めるのを待たれたのでしょう。そして言われたその答えに、責め立てていた律法学者たちは自らの罪を示され、年長者から始めてひとりふたりとその場を去って行ったのです。
この律法学者たちと同じように、自分の罪を棚に上げて自分を義人とし、他の人をさばき責める心が私たちの中にもあるのではないでしょうか。
私たちはここでもこの律法学者たちは実は自分の姿であると気づかされるのです。
<「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイの福音書7:1)>
<ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。(ローマ人への手紙2:1)>
●4/18(水)・19(土)「主のあわれみと戒め」
(ヨハネの福音書8:10〜11)
<イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」>
捕らえられ連行されたものの、自分を訴える人々が心を刺され、誰一人いなくなった時点で、この女性は 逃げ出すことも可能でしたが、その場に恐れながらひれ伏しているばかりでした。その女性の悔い改めの心を見られたイエス様は、あわれみをもって赦されました。
神の栄光を表すために造られた人が罪の中で滅びてしまうことを主は喜ばれません。神の子として輝いて生きる本来の姿に戻ってほしいと期待されて、私たちを赦されるのです。
<神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネの福音書3:17)>
この劇的な朝、あわれみによって赦された女性は、このことの後、戒めを守って決して罪を犯すことがなかったと思います。これは義務でも強制でもなく、赦された喜びと感動のゆえに戒めを守ったのだと思います。
私たちも罪赦された者として、主から「今からは決して罪を犯してはなりません」という戒めを受けていますから、あわれみによって赦された感動をもって喜んで従いたいものです。
私たちの内にはキリストに習う者(キリストのような者)としてあわれみをすでにいただいています。
神は愛であり、愛はあわれみです。私たちも神の愛とあわれみを表し流し出す存在なのです。
広島エルサレムプランが私たちの教会に与えられていますが、この理念・土台は「神の前における正しい良心を備えたあわれみ豊かな教会」です。
私たち一人ひとりが互いに赦し合い受け入れ合い愛し合う、あわれみに満ちた者となるなら、この土台が完成し、プランが展開していくのです。
そのために私たちを選んでくださって、私たちをこの教会に連なる者とされたのです。
互いに愛し合い、あわれみに満ちたお一人ひとりとして歩むよう、主は私たちに期待しておられます。
<「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカの福音書6:36)>を「銘肌鏤骨」心に深くきざみ込んで、決して忘れないで今週も歩んでまいりましょう。
■2007年4月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
信賞必罰 しんしょうひつばつ up 2007.4.8
功績のあった者にはそれ相応の賞を与え、罪を犯した者にはそれ相応に罰すること。賞罰を厳正にすること。
みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。
(箴言13:13)
箴言13:13のみことばが言わんとしている意味、それがこの「信賞必罰」です。「賞罰を厳正にすること」、これは私たちが最も望むことであり、社会生活のルールを守る上でも大切なポイントです。もし賞罰を厳正にしなければ、社会秩序は乱れていきます。実際に飲酒運転や脱税がなくならないのも、正しく物事が報われない、処罰されないということを通して、世の中の秩序が乱れていっていることの現れです。
これらはすべて「神を畏れる」という道徳心が欠けていることから出てくる問題です。神を畏れない人が増えています。だからこそ、秩序も家庭も考え方も乱れてくるのです。私たちは、創造主なる神がおられること、そして、そのみことばをさげすむ者には滅びという神の裁きが下り、その命令を敬う者には正しく報いてくださる、厳正な賞罰をしてくださる正しい神であられることを知っています。
主イエス・キリストの復活を記念する今日、私たちはこのことをしっかり心に留め、“まことに神はおられる”という生き方をし、人生を大切に歩んで行きましょう。
「神を畏れる」ということについて、(ルカの福音書16:19〜31)の「ラザロと金持ち」の話から、死後の世界を通して学んでみましょう。この話については、イエス様は「たとえ話」とは言われませんでした。つまり、死後の世界=霊の世界で実際にあったことを、私たちに告げておられるのです。
もし死後の世界がなければ、この地上で好き勝手に生きることが一番充実した人生でしょう。しかし、死後の世界について明確になればなるほど、死後の世界のことを考えてこの地上の生活を判断し、行動していきます。
「ラザロと金持ち」にあらわされている死後の世界が実在し、確かなものであるという証拠は、イエス・キリストがその何百年も前から預言されていた救い主として実際に歴史の中に現れたということ、そして救い主を送られた神がおられるというしるしにあります。これを信じるかどうかは、個人に任されていますが、信じることができる人は、イエス様が話された死後の世界のことも信じます。この話を通して「信賞必罰」ということを特にしっかりと心に留めるように、と神様は願っておられます。
1.先祖を大切にする真意
(ルカの福音書16:22〜23)
“さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。”
A)父アブラハムについて
(ローマ人への手紙4:11〜12)
“彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼の時に持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。”
割礼とは、神様を畏れる人々、神様との正しい関係を結んだ人々としてのしるしです。これはユダヤ人のことを指しています。しかし、アブラハムは単にイスラエルの先祖というだけでなく、神を畏れ敬う人々の父として、ここで語られています。
アブラハムは、すべての人の中から、敬虔な者として神から選ばれ、祝福の契約を与えられました。この神様との契約を受け継ぐ子孫、敬虔な人々を、神様は全世界に求められました。つまり、割礼という身体のしるしの有無ではなく、神を敬う敬虔な心を持つ、すべての人々の霊的代表者がアブラハムなのです。
「アブラハムのふところ」とは、敬虔な人々がその神を敬う心のゆえに、神の一方的な恵みによって、ハデスの苦しみから逃れる場所なのです。
B)死後、二人の行き先を分けたポイントは?
(使徒の働き10:35)
“どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。”
「どの国の人であっても」神を敬う心を持つ人は「アブラハムのふところ」に入れられます。このラザロと金持ちの行き先を分けたポイントは、神を敬う敬虔な心です。ラザロは何ももっていませんでしたが、神様を畏れる心を持っていました。しかし、金持ちは多くのものをもっていましたが、神を畏れる敬虔な心を失い、ごう慢になってしまっていたのです。
2.この世での不公平を取り戻す
(ルカの福音書16:25)
“アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。』”
ラザロも金持ちも同じユダヤ人で、同じユダヤ教を信じていました。同じ神様を信じていても、この地上で生まれた環境、能力等によって、この二人のように不公平な状況が現実に起こります。しかし、地上の人生において悪い物を受けた人は死後慰められ、良い物を受けても神を畏れない用い方をした人は苦しみもだえる、ということから、私たちは毎日をどう生きるかを考え直さなければなりません。この地上で悪人が栄えていても、不平や愚痴を言う必要はありません。私たちの人生はこの地上だけではなく死後にもあり、そこで報われるのです。悪人が悪事によって得をしていても、そのまま任せておき、自分も同じようにならないよう気をつければ良いのです。
神様は地上だけではなく、永遠を考えて「信賞必罰」をされるお方です。神を敬って善を行う者には相当の報いを与えられます。しかし、神を畏れず、欲望のままに罪を犯し続ける者には相応に裁きを下されます。これは誰もが納得できる裁きです。
この世は神を敬わない不敬虔な世界であるため、本当の公平さが失われてしまっています。だから神様はこの地上で報われなかったすべての不公平を、死後において取り戻してくださり、不公平を公平に戻してくださるのです。正しく裁いてくださる神様がおられるからこそ、私たちは安心して裁きの時を待ち望むことができます。イエス・キリストの再臨はその時なのです。これが私たちクリスチャンの大きな望みであり、イエス・キリストの復活は神の厳正な裁きの証しなのです。
3.最後の審判のための復活
(ヨハネの黙示録20:12〜15)
“また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”
ルカの福音書16章では、ラザロと金持ちは死んでハデスに下ったと記されていますが、ここでは、「死もハデスも、その中にいる死者を出した」とあります。これは黙示録の火の池に投げ込まれるかどうかという裁きと、金持ちがハデスで苦しんだ裁きと、二回の裁きがある、ということです。
ハデスでの裁きは、地上での不公平が取り戻されるというものですが、火の池での裁きは、最後の審判の時、羊と山羊に分けられ、山羊は永遠の火の池に、羊は神の御国に入っていくという、永遠の世界への分かれ道への裁きです。単にハデスで苦しみを負うかどうかというだけでは済まないのです。
神様はすべての罪を処罰するために火の池を造られました。これは本来ルシファーが裁かれるために造られたものですが、ルシファーと同様に、神を敬わない不敬虔な人々もそこに入れられます。この永遠への分かれ道は、ハデスにおいてラザロと金持ちが「アブラハムのふところ」とそれとは別の苦しみの場所に分けられたのと同じ分け方です。すなわち、いのちの書に名が記されているかどうか、ということです。それはどこで決まるのか。これは氓フポイントにあるように、神を畏れ敬う敬虔な心にあるのです。
永遠の世界は神様が造られ、神様が御思いのままに事を進められるのですが、神様に反する人々がその中にいたのでは妨げになってしまいます。ですから妨げにならないように、そういう人々は火の池に置かれるのです。これは「愛もない、あわれみもない」ということではありません。
火の池という最終的な裁きが下されるまでに、神様はどれだけこの地上で悔い改めの機会を与えられたことでしょうか。それでも神を敬わないからこそ、最後には火の池に置くしかない、という決断をされるということなのです。
永遠の世界を思う時、私たちは神を畏れ敬う敬虔な心を決して忘れないようにしなければなりません。
これらのことが、死後本当に行われるかどうか、しっかりと皆さん自身で吟味しましょう。そして“これはキリストの出現によって100%間違いのないものである”と信じることができたなら、あなたの人生は変わります。
人にはそれぞれ自由意志があり、自分の未来を選び取って行きます。助言のあわれみと手助け、愛は注ぐけれども決断は本人のものであるという神様と同じ心を持って、私たちは自制しなければなりません。人の心をコントロールすることは、神様でさえなさいません。しかし悪に気づくように助言と忠告を愛をもってすることは必要です。私たちの敬虔な生き方が、不敬虔な人々の心を悔い改めに導くヒントになると思います。死後の世界、神は信賞必罰、すなわち厳正な賞罰を行われる方であると信じている生き方を通して、人々は気づいていくのではないでしょうか。神はまことに生きておられ、信賞必罰をされるお方であるということを証しするために私たちはこの地上にいるということも、忘れないようにしましょう。
■2007年4月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
贖罪受難 しょくざいじゅなん up 2007.4.1
キリストは私たちの罪を購うために苦しみを受けられた。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
(第1ペテロ2:24)
今週は受難週ということで、今日は特にイエス様の受難についてみことばを見ていき、特にイエス様の苦しみが私たちにどのようなものをもたらしてくださっているかをみていきましょう。
<第1ペテロの手紙2:24>
本来、私たちが犯した不敬虔の罪によって、神様から受けなければならない永遠の滅びに至る裁きを、イエス様が身代わりに受けてくださって、私たちの罪は裁かれたという意味です。また、人生をやり直すためには、それまでの罪を処分して一から始めなければなりません。私たちは罪人として裁かれる日が定められていましたが、神はそれを願われず、私たちを解放して一から義のために生きるために、キリストを遣わされました。
「罪から離れたい」と思っている人は、敬虔な心が内にあり、良心が息づいています。そういう間に罪を悔い改めて、神のもとに立ち返ることは大切なことです。
しかし多くの人は違反していても裁かれないのは得だと考え「罪から離れる」ことは損だというような感覚があります。まじめに働いて給料を得るより怠けて給料を得する方が得と考えるのが罪であり、良心が鈍っています。
「そんな生き方はしたくない。」と義に生きることを求める人は幸いです。そういう人を神は祝福してくださいます。そして、そういう人のためにキリストは十字架にかかって贖ってくださったのです。
「キリストの打ち傷」
= |
苦しみを受け打ちたたかれた後傷が残り、裁きを受けたことが確認できます。キリストの打ち傷は私たちの罪のために身代わりに死んでくださった跡であり、私たちの罪は裁かれたという過去形のものです。 |
「いやされた」
= |
罪を犯している私たちは不健全な状態ですが、罪が取り除かれたら健全に戻ります。 |
・打ち傷のゆえに
どのようないやしを受けたのでしょうか。
●4/02(月)05(木)「義と認められる」
(ローマ人への手紙3:24)
<ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。>
この「贖い」ということばが「キリストの打ち傷」と同じ意味になります。私たちは罪人としてではなく、義人として造られた者だから、義人に立ち返ることがいやしです。
仏教文化では、タダでもらうのはためにならないので、修行を積む等何かをして得られるという感覚が残っており、良い行いを積み重ねて罪人の罪が消えるという考え方をするようになりました。しかし、一つでも犯した罪は罰せられなければなくなりません。これは秩序です。犯した交通違反はあといくら模範運転を続けても、罰金がなくなるわけではありません。罪の裁きを受けることと、良いことへの報いを受けることは別問題です。罪は裁かれなければ消えず、罪の赦しは完全な他力本願です。
イエス・キリストは私たちの罪を赦すために何を求められたのでしょうか。それは「ただ信じなさい」であり、何かを行うことではありませんでした。「あなたの罪の身代わりに、わたしが十字架で裁きを受けたのを信じなさい」「そうしたら赦されます」なぜならイエス・キリストは十字架でその苦しみを負われ、傷を残しておられ、「もう終わったんだよ。信じますか。」と言われているのです。
「信じます」と言った人は赦された領域に入っていき、信じない人はその罪をもったままだと信じているので罪の領域にとどまっています。「義とされる」とは神に愛され、受け入れられていることです。だから、「愛されよう、受け入れられよう」と努力する必要はありません。信じるだけでいいのです。
イエス様は別の新しいからだでよみがえられたと聖書に記されています。しかし両手両足脇腹の傷跡は残っています。それは十字架にかかり苦しんだ、贖いのみわざの永遠のしるしです。キリストの打ち傷のゆえにあなたがたは回復し、元に戻ったと神様は言われるのです。だから安心してください。神様は決して見捨てられず、神に喜ばれないことをしてしまっても愛し続けてくださっています。
神ご自身があえて栄光のからだをもったキリストに傷跡を永遠に残された、とは、私たちを永遠に義と認めてくださるということです。どれほどの思いで神は私たちを救ってくださることでしょうか。自分で自分の罪を贖うというような傲慢なことを言わないでください。神が悲しまれます。
人は絶対に自分の努力で自分の罪を取り除くことはできないのですから。
●4/03(火)06(金)「のろいから救い出される」
(ガラテヤ人への手紙3:13)
<キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。>
イエス様は律法ののろいから私たちを救い出すためにも十字架にかかってくださいました。すなわち、律法を破った者は呪われます。そのしるしの一つが病気です。クリスチャンは魂は救われていても、肉体に罪を宿していますから、肉体が病気にかかるのはやむを得ません。罪を持っている肉体はいずれ死にます。肉体のいやしは求めてもいいのです。神の救い、おことばが間違いのないことを証しするために神はいやしてくださいます。また肉の欲望に私たちの心(知・情・意)が囚われるとバランスが崩れて、精神的な問題を起こします。
しかし、イエス様の打ち傷によって正しい良心は義と認められ、あるべき姿に回復しました。神を畏れる正しい良心が私たち自身だと目覚める人は、心を良心の方に傾けることによって、精神的苦痛がいやされていきます。それを乱そうとする肉の欲求が常に働きかけていることも確かなのです。だからいつも神を畏れる正しい良心をもってイエス・キリストを敬うことを自覚すれば、心は安定します。呪いから救われるには「打ち傷によっていやされた」ということばを信じることが大切です。あなたはいやされて、正しい良心は回復し、魂はあるべき姿に戻っています。元の姿に戻った正しい知情意に心を向けるならば、バランスよく知情意が働くでしょう。
この地上は不敬虔な世界ですから、律法の呪いを受けています。様々な災いやアクシデントが起こります。私たちは呪いを受けたこの地上に生きていますが、この呪いから救い出されており、呪いと思える状況が起こってもいやされており、その呪いは祝福に変わるのです。
呪われた状態で留まる必要はありません。すでに回復されたと宣言されています。あきらめないでください。神は変えることのできるお方です。神への信仰をもって問題に立ち向かってください。キリストの打ち傷のゆえに呪いから祝福に動き出す信仰生活を求めていきましょう。神は祝福の領域を用意してくださっています。私たちは肉体だけでなく、生活全般の呪いを受ける必要がなくなりました。
●4/04(水)07(土)「神の子の身分」
(ガラテヤ人への手紙4:5)
<これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。>
神の子として造られた私たちがそうでない状態にあるのは不健全な病気の状態です。ですからキリストの打ち傷を通して、神の子となる身分さえも回復してくださいました。先週お話したように、父のもとに帰る姿勢は自分自身で持たなければならない「自立更生」です。
つまり、神への信仰はその人自身の内なる決意であり、その人が持てる自由をいただいています。神様も悪魔もあなたの自由意志を支配することはできません。水族館で芸をするイルカは、餌がないと芸をしないそうです。欲求を満たすために言うことを聞くのは、支配されているようで、実は欲求を満たすため自ら従っているのです。
私たちの自由意志は誰も支配することができません。これは全宇宙のルールです。欲望か神かどちらに従うか、自分で選ぶ自由を持っています。私たちは欲望の奴隷として造られたのではなく、神の子として存在しているのです。神は最初から私たちをご自分のかたちに似せてご自分の子として創造されました。これが私たちのあるべき姿です。しかし欲にかられて理性を失い健全な生活を送ることができなくなることが問題です。ギャンブルetc…は欲がはらんで罪を生み出させてしまうことが問題です。
神の子として造られた、自分を見失わせるような欲求にかられる道は、道を外れる罪ということです。神の子の身分を汚すことのない志を持って歩んでいただきたいと思います。神が神の子であるということを回復してくださった健康を汚さないようにしましょう。神の子という身分が与えられたことは誇りに思うべきです。せっかく与えられた尊い恵みを無駄にしないように歩んでいきたいものです。
■2007年3月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
自力更生 じりきこうせい up 2007.3.25
犯した誤りを改め、自分の力で正しく立ち直ること。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
(ルカ15:16〜20)
この例え話には、神の多くの真理が含まれています。神の御教えが凝縮されているため、この話が単なる例え話とならず、読む度に神の命の水の流れが私たちの心にふくらみ、いろいろな神の真理を学ぶことができます。
今日はこの話から、「自力更正」について学びます。私たちは立ち直る時、人の助けにすがりがちです。環境や状況によっては、それもある程度必要ですが、心の部分、内面的なものまで人の助けにすがっていると、「依存症」になってしまいます。外面的な助け(経済的etc)は、必要ではありますが、その助けを生かせるのは、その人自身の内面的な更生力、立ち直る力によります。つまり、立ち直る気力のない人は、どんなに助けてもどうしようもないのです。
罪の赦しと救いは、私たちには決してできない完全な他力本願です。これは100%神に頼らなければ得られないものです。しかし、それを受け入れ、手に入れることを決意するのは自分自身です。キリスト教はそういう意味で、他力本願と自力本願のふたつが必要と言えます。すべてを他力本願で考えてしまうと、何も自力でしようとしなくなり、何もかも神様に要求して、完全に甘えて成長しなくなってしまいます。
「自力更正」とは悔い改めのことであり、悔い改めは自分でしなければなりません。「神の慈愛は悔い改めに導く」とありますが、それは導いてくださるのであって、従う決心は自分にかかっています。
放蕩息子は、豚の餌をも食べたいと思うほどのひどい状況に陥った時、「我に返った」とあります。それは自分を見失っていたけれども、本心に立ち返ったことを意味しています。自分を見失うということは、的外れな行動をしていくようになるということです。自覚していないと、人は容易に罪の中に陥ってしまいます。
1.自分を見失わせるもの
見失うとは、自分を欺くことです。本当の自分を持ちながら、違う自分をそこにつくり出すことです。
A)<ガラテヤ人への手紙6:3>
(だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。)
立派とは人よりも優れているということであり、優越性でえす。自分の存在価値を、人よりも優れているということに見い出そうとする人、人と比べて自分がいくらかでも優れていないと気が済まない人は、自分を欺く状況に陥ってしまいます。そういう人は弟息子のように窮地にまで追い込まれ、プライドも何も捨てざるを得ないような惨めなところまで行ってしまいます。そうならない内に我に返ることが必要です。
B)<ヤコブの手紙1:22>
(また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。)
ただ聞くだけ、聞いてお終いにしている人は、自分を欺いています。日曜ごとにメッセージを聞きながら、ただ聞くだけで終わっているなら、その人は自分を欺いていることになります。そういう人は人を欺く前に自分を欺いているのです。あるいはメッセージを聞いて、その通りに自分はやっていると思いこんでいるかもしれません。
C)<第1ヨハネの手紙1:8>
(もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。)
神の前では罪を認めることができても、人の前では認められないということはないでしょうか。人の前に自分は正しいと義を通そうとすることは、自分には罪はないと言っていることと同じです。確かにあなたは正しいかもしれません。しかし現実には罪を持っている罪人なのです。それゆえへりくだらないといけません。どんなに正しいと思えることを言っていても、自分に罪はないと言い張ることは決してできません。もし言い張り続けるなら、それは罪人である自分を見失うことになります。
D)<箴言14:8>
(利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。)
自分の愚かさとは「わがまま」ということで、自分の欲望を満たすため場当たり的にに考え、場当たり的に行動するのです。つまり、あまり考えの深くない、幼い単純な考え方です。自分の欲望を満たすために、すぐわかるような嘘を言ったりします。欲望に囚われ自分自身を見失って、欲望自体を自分自身のように勘違いしているからです。そういう人は、欲求を制限されると、自分が縛られたかのように感じます。しかし欲求は肉から出ているのであって、肉はあなた自身ではなく、あなたが宿っている幕屋だということを知りましょう。人は、肉体が死んでも霊は永遠に生き続けるのであり、肉体だけが自分そのものと思ってはいけません。
E)<オバデヤ書1:3>
(あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「誰が私を地に引きずり降ろせようか。」と心のうちに言っている。)
心の高慢は塵にしかすぎないじぶんというものを見えなくしてしまいます。ルシファーもそうです。ルシファーは高慢になった時に、自分は神に造られた被造物に過ぎないということを見ようとせず、自分こそ創造主のようになろうとしました。しかし造られたものが造った者になれるわけはありません。高慢さによって自分を見失わないようにしましょう。
F)<ハバクク書2:5>
(実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める。)
ぶどう酒とは、いろいろな中毒症状を引き起こすものを指しています。(麻薬やアルコールやタバコ、その他諸々)こういうものを使って心を楽にしようとすることは、自分を欺くことになります。
それではこういう6つの状況のどれかに陥ってしまった時、私たちはどのように立ち直ることができるでしょうか。それには「我に返る」ことが必要です。我に返ることなく人に助け出されても、自覚がないのですから、またそこに陥ってしまいます。
2.本来の自分<使徒の働き26:20>
「本来の自分はどんなものであるのか」と言わずに、「どこにあるのか」と訊いたのには理由があります。それは、どんなものであるのかということで自分を言い表すと、色々な細かい条件が出てきて大変になるからです。それゆえ、わかりやすくするために、あなたはどこにあるのが最もふさわしいと思うか、という質問にしました。
どこに帰ったら本当の自分が表れてくるのでしょう。それは神のもとです。放蕩息子がもし、自分は何と愚かな事をしてしまったんだろうと嘆いても、そのままそこに居座ってしまっていたら、それは悔い改めにはなりません。それだけでは、動機の点では後悔したと言えても、「自立更生」の面ではまだ実を結べていません。父のもとにたどり着いて、やっと彼は「息子」として本来の自分に立ち返れたのです。そこで本来の彼自身が回復されました。「我に返る」とはどこで間違ってその間違いがどれほど大きいかに気づくことです。しかし、自立更生はそれからです。「もう息子と呼ばれる資格がない」と気づくことが、自立更生の始まりです。自分は働きもせず、父親が苦労して貯めた財産をあっという間に湯水のように使い果たしてしまったことを、彼は激しく後悔しました。そして彼はお父さんのもとに、自分の心だけでなく、自身も持っていきました。これが大切です。
それによって彼は息子としての資格を回復し、歓待を受けられたのです。父なる神様のもとに、本来の自分があります。神があなたを造られたありのままの姿に戻ることができます。悔い改めとは、父なる神様のもとに自分の身も心も持っていくことです。私たちは父なる神から離れるという的外れな人生を送っていましたが、イエス・キリストによって気づかされ、父なる神のもとに帰るという悔い改めを通して、御国の相続人になるという約束を受けたのです。それゆえ、本来の姿は父のもとにあります。それに気づくなら、悔い改めはどうしたらいいのか、自ずからわかってきます。
私たちは自分がどうであったかを後悔するのでなく、父なる神様に対して、いかに罪を犯してしまったかに気づくべきです。これが正しい良心から出る悔い改めです。自分が、自分にとって恥を受けるようなことをしてしまった、恥ずかしいと嘆き続けるのは肉の思いであり、あくまで自己中心なものに過ぎません。正しい良心は神を中心に考えます。周りからどれだけ多くの恩恵を受けているかに気づいて、初めて悔い改めができます。
自立更生に最も大切なことは、放蕩息子が父親のもとに帰ったように、心も身も父なる神のもとに帰ることです。それはあなた自身が決断する以外にありません。
■2007年3月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
智勇兼備 ちゆうけんび up 2007.3.18
知恵と勇気を兼ね備えていること。
また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。知恵と勇気を兼ね備えていること。
(第1テモテ6:19)
「まことのいのちを得るために」、とパウロは言っています。では、私たちはまだまことのいのちを得ていないのでしょうか?そうではありません。得ているのですが、全部完全には得ていない、という意味です。つまり、まことのいのちが約束され、確実に得ることができるのですが、それを現実的に手にするということにおいて現在進行中であるということなのです。ですから、まことのいのちを完全に得ることができるように、「未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げ」ましょう、とパウロは勧めているわけです。
では、この「未来」とは一体どういう意味なのでしょう?聖書の中には「遠い未来」と「近くの未来」が記されています。「遠い未来」とは、この罪の世界が裁かれ、新しい天と地(=神の国)が神によって備えられる、その時期を指します。そして「近くの未来」とは、私たちが今生きているこの世代・時代における未来を言います。一番近い未来は、明日です。その意味で、「未来」というのは今があって存在するものであり、今日、明日と、その一日一日が未来のための基礎となるのだということがここに示されていると思います。その基礎づくりを毎日しっかりしましょう。今日一日のすべての出来事が明日のための基礎となるように、今日の生き方をしっかりと考えていくことが大切なのです。私たちの人生すべては、未来のための基礎づくりの人生なのだということを自覚して、特に今週は歩んでいただきたいと思います。
では、良い基礎とは何なのか、明日また永遠の未来のために今日どんな基礎を築き上げることが必要なのか。今週の主題「智勇兼備」にそのポイントを示しました。私たちにとって良い基礎とは、お金や財産といった物質的・環境的なものではなく、人格的なもの、私たちの魂・いのちに関わるものであるということは、聖書のみことばから明らかです。どんなに物質的に豊かな人でも、心の豊かさと比例するわけではありません。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16:26)とイエス様が言われました。このまことのいのちのための良い基礎を、知恵と勇気によって築くことができる。このことに焦点をおいて、箴言の3つのみことばから良い基礎である知恵と勇気をどのように築いていくか、ご一緒に学んでいきたいと思います。今日どんなことがあっても、それを知恵として受けとめていくことができるように、勇気を沸き立たせることができるように、ぜひ励ましを受けていただきたいと思います。
●3/19(月)・22(木)「他者を見て」(箴言6:6)
何かをじっと見つめてそこから知恵をいただく、洞察力を通して知恵を持つ、というポイントです。蟻を通して考えてみましょう。蟻から皆さんはどんな知恵を得ることができるでしょう。例えば、それぞれに役割を持ち、自分の分をしっかりとわきまえて、全体で一致し、協力している。人間社会では、自分の分をわきまえながら全体のために働くというのはなかなかむずかしいものです。一人でも身勝手なことをすれば全体に影響してしまいますが、蟻の中にはあまりそのような行動は見られません。また、冬に備えて夏にしっかりと働く。未来に備える、という姿勢を、神様が蟻に備えられた習性を通して、教えておられるのではないでしょうか。私たちは未来のためにどんな備えをしているでしょう。老後の備え、事故などに備えての保険など、近い未来への準備はされているかもしれません。しかし、永遠の未来に対してはどうでしょうか。神の国はお金では入れません。永遠のまことのいのちはお金で買えるものではありません。私たちは、救い主イエス・キリストを通して、永遠の人生への備えが必要であるということを、蟻から教えられます。また、ちょっといたずらして巣の穴をつぶしてみたら、どうでしょう?蟻は必ずもとに戻します。何度つぶしても、元に戻します。最後にはこちらが根負けしてしまいます。雨が降り、水がたまっても、巣を守りもとに戻す。私たちは、あきらめないで続けることの大切さをこの蟻の姿から教えられます。神様に祈り求めるときも、決してあきらめないで求め続ける、また主の再臨のときまで、主が再び来られるという約束を信じて、善と公義を求め続け、正義と公正を守り通していくという姿勢を学ぶことができます。蟻という漢字は「義なる虫」と書きます。列を乱さず、分をわきまえて協力し合い、未来に備える働きをこつこつとしていく。蟻だけを見ても、多くの知恵を神様は私たちに教えようとしておられます。
また蟻だけではなく、世の中の様々な事件や物事の様子を観察することを通して知恵を得ていくことができます。しかし、悲惨な事故や世界中で起こっている戦争など、心に知恵があるか・そうでないかによって、全く見方が違ってきます。自己中心の人は、「神は災いを止めることができなかったのか」「神はいない」等、自分本位の考えで判断し不平不満をもらす不敬虔な人です。しかし、敬虔な人は、それらのことを通して、私たちは自分の欲のために、他の人を犠牲にしてしまう愚かな者なのだとわきまえ、神を畏れる気持ちを持つのです。酒気帯び運転がなくならないのはなぜでしょうか?神様は「それは罪だよ」と人々の良心に語りかけておられます。しかし、神に聞こうとしない、かえって心を閉ざしてしまう不遜な人々が多くこの世におり、そのような不遜な人々のために、多くの人が犠牲になってしまっています。つまり、すべては私たち人間の側の問題であり、神を敬わないためにこのようなことが起こっているのです。このような考えこそが知恵です。この知恵をすべての人が持つなら、事故も戦争もなくなります。しかし、自分の欲望、自分だけの幸せ、自分の国・種族の幸せのために、他者をしいたげていく不遜な人々の考えが、富める者と貧しい者をつくっていきます。私たちの豊かさも、多くの貧しい国の人々の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけません。そのことを思うなら、食事のとき、たとえ短い祈りでも心から神様に感謝してからいただく、これが知恵ではないでしょうか。私たちは周りを見て知恵を得ていくことが必要です。
●3/20(火)・23(金)「自分を低くする」(箴言11:2)
得るのではなく、へりくだったとき、そこに知恵がともに存在する。知恵を得るための2つ目のポイントは、へりくだることです。聖書の中にヤコブという人が出てきます。ヤコブは兄エサウとの間の問題によりエサウに命を狙われ、伯父ラバンのところに逃げていきました。そこで20年間働きましたが、ラバンは非常に欲深く、彼をただ働きさせるような人でした。自分の財産を持って故郷に帰りたいとヤコブが言ったとき、ラバンは、神が彼を祝福して自分の財産も増えていることがわかっていたため、ヤコブを行かせないように策略を練り始めました。それを知っていたヤコブは、正当に交渉して財産の分け前をもらうこともできたのですが、ラバンと争うことを避け、さらにへりくだり、ラバンによい羊ややぎを譲り、自分は商品価値の低い羊ややぎをとるという提案をしました。ラバンにしてみれば願ってもないことです。ヤコブは「へりくだる」という心のかしこさを持つことができたとき、ずるがしこいラバンへの対応についてよい考えが与えられました。人は、争ったり、怒ったりすると冷静さを失い、よい考えが出てこなくなります。よい考えは冷静さの中に出てきます。知恵というのは、よい考えという意味もありますが、最も大切なのは心をコントロールするということなのです。特に感情をうまく制御することのできる心のかしこさ、この知恵が必要なのです。ヤコブは、これまでラバンにだまされてきたことなどに心を腹立たせることをせず、冷静に心を整えへりくだり、そのような提案をしました。そして、羊ややぎが繁殖する時期になると、自分の分け前になる種類のものが生まれるように、うまく策を練りました。また、当時は現代とは違って自然にまかせた繁殖ですから、そこには神への信仰も必要でした。その結果、ヤコブの群れはラバンの群れよりも大きな群れとなり、これとともに故郷に帰ることができました。私たちも同様に、へりくだる心の知恵を持つことによって、あらゆる場面や状況に、かしこい考え方で対応できるようになります。あなたの周りに上司など腹立たしく感じる人がいるかもしれません。そのときこそ、心をコントロールする知恵を神様が与えてくださっていることを信じて、冷静さを取り戻し、祈りの中でよい考えを与えていただくことにチャレンジしてみましょう。きっとよい考えがでてきます。
また、イスラエルの民を指導する立場にあったモーセとアロンにも、この知恵を見ることができます。彼らの親戚にあたるコラの人々が、あなたがたはいつ私たちの支配者となったのか、と彼らを非難したとき、モーセとアロンは言い返すことをしませんでした。モーセは、自ら進んで民の指導者となったのでもなければ、いつまでも神に反抗的な民を前に、もうやめたいとすら思っていたのでした。そんなことも知らず二人に反抗したコラの人々に対し、彼らはどんな態度をとったのでしょう。モーセとアロンは、コラの人々の前にひれ伏し、へりくだりました。ここに知恵があります。コラの人々の反逆に対し、彼らは、神が立てられたのだ、と正当に主張することもできました。しかし、それをすると感情がこじれてしまい、冷静な話し合いができないということが目に見えていたのです。私たちも、つい相手の感情によって自分も感情的になってしまい、お互いに受け入れられず物別れに終わってしまうことが多いのではないでしょうか。たとえ相手が一方的にまちがっていたとしても、最初にこちらが相手を敬う気持ちを持つなら、相手に聞く耳を持たせることができます。へりくだることの大切さは、相手にこちらの言い分を聞いてもらう、その落ち着きを持ってもらうことにあります。このように、自分の心を制御する力、考えが知恵です。それはどうして持つことができるのでしょうか。「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)とあります。モーセとアロンは、まちがった考えの人々の前にひれ伏したのではなく、神を畏れてひれ伏したのです。自分たちにそのようなごう慢があったかもしれない、と神の前にへりくだったのです。私たちは絶対に自分は正しいとは言えない者です。一寸の間違いでもあることを認めてへりくだり謙虚になる、神を畏れる心こそが知恵なのです。そこからよい考えが出て、よい対応ができるようになります。神を畏れる心を失わず、自分の感情をコントロールできるようになれば、そこに知恵が働いてよい考えが浮かぶようになるのです。へりくだることが大切です。勝ち負けではなく、これはかしこさなのです。
●3/21(水)・24(土)「受け入れる」(箴言19:20)
「あとで知恵を得よう」これがポイントです。忠告や訓戒を受けたとき、その場ではなかなか知恵を得ることはできない、あとになってから得ることがある、ということです。イエス様が十字架にかかられる前、ペテロに「あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と言われました。その前にイエス様は、あなたがたの中でわたしを裏切る者がいる、とも言われ、弟子たちが口々に一体誰だ、と言っているとき、ペテロは、たとえ死んでもあなたとともについて行きます、と言いました。そのとき、イエス様が「あなたは三度、わたしを知らないと言います」と彼に言われたのです。これはペテロにとって、プライドが大きく傷つくことばです。さらにイエス様は、「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とまで言われていたのです。ペテロにしてみれば、そんなこと自分にはあり得ない!と言いたいところでしたが、これらすべてはイエス様の忠告と訓戒でした。彼は、“意地でもイエス様とともに行く”という強い決心と決意を示しました。しかし、これをイエス様は砕かれました。人には絶対ということはあり得ない。弱さがあるのです。イエス様は神であられたのですが、人となられて肉体を持った人間の弱さを十分に味わって下さったお方です。完全なお方だからこそ、人の弱さを理解できたのです。イエス様がペテロに言われたのは、人はどんなに決心したと言っていても、いざという時には自分の身を守ることを優先する弱さがあるということです。しかし、ペテロは“いや、そんなことはない!”と感情的にも言い張ったのです。自分の決心・決意を否定されると、人は傷つくものです。イエス様を神の子として尊敬していたペテロですが、こればかりは、とばかりに反抗、初めて自分の我を通したのです。それぐらいに私たちは自分を知らない、知恵のない者、そして忠告と訓戒は、これを気づかせるものです。漁師は恐怖心を持ってしまうと漁に出ることができません。自分の弱さを認めることのできない漁師としてのプライド、頑なさをペテロの中に見て、イエス様は指摘し、忠告し、訓戒されたのです。言われたときにはわからなかったペテロも、その通りになってしまう自分を見たとき、「激しく泣いた」とあります。自分の弱さを体験したとき、そのプライドを初めて砕かれたのでした。そしてその時、彼に知恵が与えられたのです。忠告に対して、自分の主張を言い張ることは無意味であること、素直に受け取ることが一番であると。彼はペテロの手紙第一3章8節でこう言っています。「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」このことばの中に、ペテロの得た知恵、悟りがあります。同情とは、人の弱さに共感し、思いみる心です。若い頃のペテロは人の弱さを理解することができず、漁師としての強さをいつも出していました。しかし、自分の弱さを体験したとき、それまでの頑なな心が溶かされたのです。彼の二つの書簡には、漁師としての彼の性格をまったく見ることはできません。ほんとうに愛とあわれみといつくしみに満ちた手紙です。なぜ、このような手紙を書くことができるようになったのでしょう。それは、イエス様を否んだことに対するペテロの体験が、彼に人生最大の知恵を与えたからなのです。
このように3つのポイントを通して、知恵を得、心に豊かに持って人生の良い基礎を築いていって下さい。
しかし、そこに勇気がなければ、この知恵は生かされません。どんな勇気でしょう。勇気とは、物事を恐れずに前につき進んで行く、前進していくことです。知恵を得るのに勇気が必要です。知恵を行なうにも勇気が必要です。この勇気は、正しい神が私たちとともにおられるから持てるのです。神様はヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」(ヨシュア1:9)と言われました。なぜでしょう。それは「あなたの神、主が、…あなたとともにあるからである。」、わたしがあなたとともにいる、とおっしゃったことにあります。知恵を得るために自分を砕く勇気、自分の罪を認める勇気、そして自分が得た知恵をかしこく人々に現わしていく勇気、実行する勇気。これらはすべて、正義の神、公平と公義の神が私とともにおられるという、心の励ましと支えのゆえに行動に移すことのできる力そのものなのです。
知恵を得ても行動に移すことができなければ、その知恵は空しいものになってしまいます。私たちは知恵とともに、神がともにおられ、その神を敬うという知恵を通して、かしこい人生を選びとっていくことができるのです。これが、未来に備えて良い基礎づくりをするということにつながるのです。この一週間、特に自分の心をいかに制御することができるかということ、また神を畏れる敬虔な心が、自分の心をコントロールする知恵の初めであるということを悟りましょう。箴言の中にはさまざまな知恵についてのことばがあります。これらを聖書研究したり、また何かのでき事を通してぜひひとつでも知恵を身につけて行きましょう。
■2007年3月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
三枝之礼 さんしのれい up 2007.3.11
子鳩は木の枝にとまるのに、親鳩より三本下の枝にとまって、親に対する礼儀を守ることから、親への礼儀を尽くし、孝行心の厚いことのたとえをいう。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
(ヨハネ4:23)
最近、世の中の秩序が乱れてきていることを感じます。尊ぶべきものを尊ばず、好き勝手に事を行うということが社会一般的に広がり、教会の中にも真の自由ではなく、自由という言葉に隠された放縦が入り込んできているのではないでしょうか。
自分中心に物事を考え生きていくという風潮が教会の中に入り込んでいるがゆえに、神様を尊び敬い礼拝するということが汚されてしまっている状況にあるのではないかと感じます。秩序を守るということは不自由であると勘違いしている人もいます。
世界の一人一人が自分中心に生きたら、どこかにしわ寄せがあり、それは弱い者にいくのです。だから神様は貧しい人を助けられます。みなしごとやもめの神だとあります。助け手のない人を助けられるお方です。それは人間が守るべき秩序を破いてしまっているからです。その影響が礼拝という大切にしなければならない神様との関係においても乱れてきているように感じます。今週は礼拝することについて学んでいきたいと思います。
私たちは礼拝する者であり、神様は礼拝されるお方です。真の礼拝者は霊とまことによって礼拝するものとあります。「霊」→私たちの最も深い部分、存在そのものを意味するもの、「まこと」→偽りのない真実、義と聖さに満ちた誠実な姿勢です。
礼拝とは形からつくっていくのではなく、内側から形作られていかなくてはなりません。何事も動機が大切です。
霊とまことは、主を敬い畏れることです。これが礼拝の基本、土台です。主を畏れる心がなければ礼拝は意味がありません。ご利益的な礼拝は、礼拝ではありません。神様を尊ぶ気持ちは「神を敬え」と言われてできるものではありません。愛と同じで、「愛しなさい」と言われても、人を愛する心が湧き上がってこなければ愛せません。だからまず神に愛されるという経験を通して愛するということがわかるのです。同じように、尊ぶことも、命令だからといって心から敬えるものではなく、敬うべき方であるということを感じなければ、尊い気持ちで礼拝することはできません。礼拝の基本的なこととして主を敬うことを学んでいきましょう。
敬うとはどういうことでしょうか。
「三枝之礼」は、「鳩に三枝之礼あり、烏に反哺の孝あり」ということわざからとられています。鳩には親に対する礼儀があり、烏には孝行心があるという習性から来ています。烏は親鳥が年老いていき、自分で餌がとれなくなった時、その子は餌を取ってきて親に口移しで餌をあげるということです。あなたは鳩より烏よりかしこい者です。今は親を敬うという礼儀を欠く中で、社会も礼儀を欠き秩序が乱れている状況が起こっているのではないでしょうか。親子の関係がどうして乱れてしまったのでしょうか。それは、神を敬うということが欠けてきているからです。
昔の日本人は信心深かったのですが、今は形だけとなり、心が伴っていないものになっています。私たちもひょっとすると礼拝するということに対して同じようになっていないでしょうか。以前、安息日を聖く保てというメッセージをしました。義理や義務でお父さんとの関係を果たす親子関係は冷たいものです。お父さんを敬い愛する心があってこそ、実が結ばれます。礼拝も同じです。神を敬うための3つのポイントを見ていきましょう。
●3/12(月)15(木)『天の父への敬い』<エペソ人への手紙1:3〜6>
<私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。>
このみことばを何度も読んで、敬う心を持つことができるようにじっくり味わってください。
黙想のポイント
「霊的祝福」とは、キリスト・イエスによって、神の子とされることです。このことが、父への尊敬の心を沸き立たせることとと捉えるなら、神を敬う礼拝をささげることができるのです。一番考えていただきたいことは、「愛をもってあらかじめ定めておられた」ということです。世界の基の置かれる前に、神の子として私たちを造られたのです。何が何でも私たちをご自分の子にしたいと決意してお造りになったのです。神に似せて造られたので、自由意志があります。神を敬わない方も選ぶことができます。神様は私たちが罪を犯すことを知っておられ、造られた時から救い主のご計画もされていたのです。罪を犯したから捨てて造り直されても良いのですが、それをされずに救い主を遣わされました。それは私たちを子とすることを決めておられたからです。これは神の真実です。真実とは、決めたことを守り行い通すことです。神は世界の基を置かれる前に決めたこと守り通され、キリストの十字架のみわざをご計画されました。どうしてもあなたを神の子としたかったのです。この父なる神の真実は尊ぶべきものです。どのように自分に関わってくださっているかに気づいたら、自然に敬う心が湧いてきます。
●3/13(火)16(金)『救い主への敬い』<イザヤ書43:1〜4>
<だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。
わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。…」>
黙想のポイント
神様は、代価を払って贖いたいと思うほどに、私たちを愛してくださっています。それでもなお神から離れていく者たちを買い取るために、エジプトを、クシュとセバを代わりとする、とあります。エジプトとクシュとセバとは、世の冨を表しています。世界の冨全部を身代金としても、私たちを買い取りたい、それは私たちを高価で尊いと見てくださっているからです。あなたのために代価を払って救って下さる方を救い主といいます。エジプトやクシュとセバは異邦人です。不敬虔な者たちも、神様が造られた同じ命です。神は不敬虔な者も敬虔な者も、どちらも救いたいと思っておられます。神を敬うか否かの違いだけで、同じ罪人です。ただ義と認めてくださっているというだけで、やっていることは世の中の人と同じなのです。あなたに神を敬う心があると神が認めてくださるということは恵みです。その心を信じて、救い主として代価を支払われたのです。信じてくださる方を敬うのは当然ではないでしょうか。自分でも自分の心を信じられないのに、神はあなたを信じてくださっています。そのようなお方の心を傷つけたくありませんね。神が私を信じてくださったということが、一番の恵みです。
●3/14(水)17(土)『創造主への敬い』<詩篇19:1〜6>
<天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。>
黙想のポイント
「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。」とは、肉の自然の世界では聞こえないけれど、見えない霊の世界では、その呼び声は全地に響き渡り、地の果てまで届くのです。それは神の偉大さを語っているのです。この作者は、自然の営みの中で感じたのです。それは被造物から伝わってくる創造者への賛美の響きです。霊的なことばです。自然を見ていると、偉大な存在を感じてきます。ぜひ、自然の中で、被造物が語っている創造主の偉大さを感じてください。これを感じることができる人は、御霊の声を感じることができるようになります。それは霊的なものだからです。どうぞ、霊の耳を養うために、大自然の中で神の偉大さを感じ取ってください。創造主の作品に触れたら、創造主への尊敬が自然に湧いてきます。
■2007年3月4日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 小栗 恵子師)
志操堅固 しそうけんご up 2007.3.4
志がしっかりしていて容易に破れたり崩されたりしない様。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
(ピリピ1:21)
これは、神への信頼を表す言葉です。
<ピリピ人への手紙1:21>のみことばは、彼(キリスト)の霊的復活のいのちが私の内にあり、地上の人生を終えることは、永遠の栄光の獲得であるとパウロは語りました。
パウロは、キリスト者を捕らえて投獄していた人でしたが、ダマスコに行く途中でイエス・キリストに出会い、人生が180度変えられました。その後のパウロは、彼の遭った難を見ればその凄まじさが分かりますが、危険を冒しても命がけでキリストを宣べ伝える人となりました。私たちの内にはよみがえられたキリストのいのちがあり、そのいのちによって志操堅固の生き方をしましょうというのが今週のテーマです。
今年のテーマは「正しい良心をもって主を知る」ですが、「主を知る」ためには一人一人が主に触れ体験することが大切です。主は「愛、力、あわれみ…」と様々なご性質をお持ちですが、今日はその中から「全能の主〜不可能のない主」について取り上げてみたいと思います。不可能と思うのは人間の側であり、主の目には全て可能です。また「この世界は神のことばで造られたことを悟り…」とのみことばがあるように、主はまずことばをもって私たちを導いておられます。主が語られたことばは正しく、必ず実現すると志操堅固の姿勢をもってついていくというのが今週のテーマです。聖書の人物は主のことばにどのように応答したかを考えてみましょう。
1.マリヤの場合〜主が語られたことばを受け入れた(ルカの福音書1:38)
マリヤは未婚でありながら、神の子イエス・キリストが自分の胎に宿ることを告げられました。それは当時まわりからの厳しい目に晒され、またマリヤ自身窮地に追い込まれることは必至でした。しかも男女の関係なくして胎の実が宿るなど、全く論外なことでした。
しかしマリヤは「主のはしため(女中の意)です」と、自分は何と思われようと自分に臨んでくださった御声を大切にしますと、主のことばを受け入れたのでした。この姿勢が志操堅固です。マリヤは追い込まれかねない自分の思いではなく主への深い信頼を持って、不可能を可能にされる神の全能を手にしました。主への犠牲、献身、謙遜さ、忠実さを持ったマリヤは神の子を胎に預かる女性として選ばれていたのは言うまでもありません。
2.アブラハムの場合〜主のことばに、一時、人間的対応をした(創世記17章)
15章で「あなた自身が生まれ出てくる子が世継ぎになる」と主から語られ、子どものいなかったアブラムは16章で女奴隷ハガルによって、イシュマエルという男の子をもうけました。
アブラムは不可能を可能にする神の計画を、人間的方法(人のわざ)で答えようとしたのです。これは結果的に神のことばをおろそかにするアブラムの肉の働きでした。肉の働きは神のことばの実現を妨げます。
17章で99才のアブラムに「国々の父=アブラハム」となると神のことばが語られても、当のアブラハムは自分も妻のサラ(神によってサライもサラと改名された)も主のことばが成就する可能性がないことを認め、イシュマエルを約束の子どもと考えました。
しかし18章で神はもう一度「自分は全能である」と宣言され、サラとの間に約束の子どもが誕生することを告げられたのです。
創造のみわざは何もなかったところに「光よ。あれ。」と神のことばが発せられて始まっていきました。
<ローマ人への手紙4:18>にアブラハムは「望みえないとき→肉において見えるところで期待できない時」に、「望みを抱いて信じました→信仰を持って主に期待し続け、待った」のでした。つまり、見えるところでは期待できなくても、主のことばがあれば、主はなされるということです。
私たちの内にはキリストのいのちがあることに信頼し、望んでいる状況になっていないその時こそ、志操堅固の姿勢を持ってほしいと神は願っておられるのではないでしょうか。
「神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。」
アブラハムは最後に志操堅固の姿勢が貫かれていきました。
後にアブラハムは、約束の子どもイサクを捧げるまでに主に信頼する人となりました。
3.エリヤの場合〜状況を恐れた(第1列王記19:3、4)
エリヤは神の御心を告げる預言者でした。当時の北イスラエル王国のアハブ王はバアルの神(豊作をもたらし、天候を支配すると言われる偶像)を信奉していました。しかしエリヤは主自身のことばをアハブの前に毅然と持って出ました。そしてバアルの450人の預言者を敵に回し、たった一人で主の栄光を示し彼らをうち負かしたエリヤでしたが…。その後アハブ王の妃イゼベルに自分の命が狙われていることを聞き、恐れおののいたのがこの19章の箇所です。別人と疑うほど意気消沈し死を願うエリヤには、バアルの預言者を向こうにして勇敢に戦った姿は見られません。ここではエリヤは神のことばを聞いていません。私たちの肉は状況に反応し、御霊は神のことばをつかみます。
エリヤの心に何があったのでしょうか。まだ起こってもいないイゼベルの言葉におののいたのです。恐れとは、全能の神に心を向けさせず、肉の方に思いを向かわせます。バアルの預言者と対決していた時に、エリヤが自分の命を心配していたとは思えません。
主に満たされている時にはキリストのいのちで満たされていますので、私たちの思いは肉を退け、キリストの強さで満たされています。しかし恐れを持つなら、神のことばを退け、状況を見て死を願うエリヤのような様子となるでしょう。
「全き愛は恐れを締め出します<第1ヨハネの手紙4:18>」という聖書のことばの「愛」は十分に成長した愛であり、主の全き信頼とも置き換えられ、恐れを全く追放しますが、逆に恐れを持つと、エリヤのように気力を失い立てなくされてしまいます。「恐れとは、本能的に危険を感じて自分を守ろうとする反応であり、全能の神の力を信じさせない力」とも言えます。(信仰の世界は見えないものを信じて歩む世界です。ヨシュアも約束の地カナンを目前にし、ヨルダン川を渡る前「今まで通ったことのない」未知の道への歩み出しであると民に語りました。信仰の世界は一人一人が神の前に未知数であっても、見えないけれど全能の神と神のことばに寄りすがって歩みをなしていく世界です。ヨルダン川は「自我の死」を表します。肉で信仰を全うしようとすれば自分の考え、経験が邪魔し、結局のところ肉で留まってしまいます。神は確かな恵みに導き入れる主イエス・キリストを信じ、十字架に心を向け、ついていく歩みを備えてくださっています。
キリストのいのちをいただいた私たちは、内に不可能のない方がおられ、この方に頼る生き方ー新しき人によって生きる生き方に変えられています。もはや古い人がキャッチする経験や世の習慣によって生きていません。
もし今恐れが生まれる習慣を感じておられるなら、それは神からのものではありません。「キリストにあって新しく生まれた者だ。恐れと私は関係がない。」と宣言しましょう。なぜならキリストがその恐れを十字架につけて処分してくださっているからです。ですから、過去のデータで測る必要はありません。私たちは見えるところではなく、信仰によって歩んでいるからです。
この恐れを自分の力で打ち破ることは難しいでしょう。だからこそ、私たちにみわざを現したいと思っておられる全能の主に信頼しましょう。解放を与えてくださる主が「できない」と思っているその時に一緒に立ち上がらせてくださいます。恐れを見て立ちすくむのではなく、不可能のない主に思いを向け、キリストは癒し主と信じて歩み出しましょう(キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。<第1ペテロの手紙2:24>)
<ヤコブ5:17,18>に、エリヤは私たちと同じように弱さを備えた人間性をもっていましたが、祈りがきかれたと書かれているのは心強いことです。
<ヘブル10:39>私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
さらに自分自身が変わることが不可能と思っている人がおられるかもしれません。神は不可能のない、間違いを犯すこともない方で、私たちの存在を喜んで地上に置かれました。
あるキリスト教の雑誌に、プロゴルファーの中島常幸氏がショットの80%はミスショットだが致命的なのは失敗によって立ち上がる勇気をなくすことと語っていました。神は私たちの失敗に対して、キリストの血潮を備え、完全な罪の赦しを用意し、完成されていけるよう導いてくださいます。
複雑な家庭環境で親に暴力を受けて育ち、「この親への仕返し」が自分の人生だと考えていた人が、学生時代キリストの福音に触れ、神の計画は「自分の失敗や、他人から負わされたどのようなものにもつぶされない」と知りました。時間はかかっても、その親を赦せるようになったばかりか、その親にキリストの福音を伝え、洗礼に導かれ、何とその親に洗礼を授けたのが他でもない伝道者となった自分だったという手記がありました。不可能のない神は、変わることが不可能と思っている私たちを導き続けて下さっていることを感謝します。
エリヤは恐れおののいたその後、休息を得て新しい任務へつきました。主は恐れを持つような不完全な私たちに聖霊を注ぎ、歩みが完全なるように導き続けてくださっています。マリヤ、アブラハム、あるいは、エリヤのどの応答をするかはその人にかかっています。キリストのいのちを内にいただいた者として、主にますます近付き、志操堅固の姿勢をもって、不可能のない主に従ってまいりましょう。
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