■2007年2月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
自明之理 じめいのり up 2007.2.25
証明や説明をするまでもなく、おのずとはっきりしていること。明らかな道理。
ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
(ヨハネ18:38)
「真理とは何ですか?」これはピラトがイエス様に対してした質問です。真理とは、「物事の真の筋道」…つまり、目的にそって物事が用いられてゆくことであり、神学的には神から出たことばです。
ピラトはイエス・キリストの真の姿を見ることができませんでした。
私たちは真理を知っているでしょうか。今日は、真理とは、決して哲学や思想ではなく、見ればわかるものであることをお伝えしたいと思います。
例えば「ピアノ」を知らない人にわかってもらおうとする時、言葉で説明してもなかなか理解できませんが、実物を見て、さわりさえすれば、すぐに理解できます。私たちの生活の中で真理は常に存在し、働いています。それゆえ真理に触れさえすれば説明はいりません。
それで今日は真理に触れるためのヒントをいくつか挙げていきたいと思います。
●2/26(月)3/1(木)「存在の真理」(第1コリント人への手紙8:6)
<私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。>
「創造主なる神がおられて自分もいる」という視点で未来を見ているでしょうか。唯一の神からすべてのものが出ています。ゆえに自然に触れる時、人は間接的に神に触れることができます。
神がおられ、真理の中に自分は生きているのに、どうして自分の生活の中に真理が表れてこないのかと感じておられる人はいないでしょうか。みことばを聞いているのに、どうしてそのみことばの実が自分の生活に結ばれてこないのかと悩んでおられないでしょうか。
ひとつの例をあげて考えてみましょう。例えば制服を着た警官を見たら、皆さんはどう感じられますか?私は車を運転していたら、思わずスピードをゆるめてしまいます。違反が見つかったらいけない…という意識が働いて、自分の行動を変えるからです。日本中にたくさん警官がいても普段は全く意識していませんが、目の前に現れると、思わず意識して違反をしないように気をつけるものです。同様のことが神様についても言えます。
神の存在は信じていても、目の当たりに見ていないことによって、自分を変えることができないという現象が起きてくるのです。しかし真理を目の当たりに見ることができたら、私たちは変わってきます。ただ、「神はおられる」という一般的な認識の程度であったら、何の変化も起きないでしょう。「神はおられる」と知識で知っていても、目の当たりに神を見ていないなら、私たちは自分を変えていくことはできません。例えばある会社で働いているAさんが成績が良く、会社に利益を与えていたとします。しかし彼は会社の経営者を嫌い、その方針に反対しており、ひそかに他の社員も巻き込んで、社長より自分に従わせようとしていたらどうなるでしょうか。
いくら成績が良くても、会社の方針に逆らうそのような人は、会社にとって益とはならず、むしろ分裂を引き起こしかねません。そういった社員を、社長が会社から遠ざけるのは当たり前でしょう。この世界も同じです。神が真理という理念を立ててくださっているのに、その真理に従おうとせず、神が造ってくださったあらゆるものを、まるで自分のもののように使いながら、神に逆らい、自己主張ばかりしていくなら、それは本当に愚かなことです。私たちは神の存在を認めるだけでなく、造り主なる神の権威権限、その存在の大きさを認めることが必要です。神の権威を認め、恐れ敬う心を持つことが大切なのです。神を信じていると言いながら自分の生活が全く変わらないという方は、どのような信じ方をしているのか、もう一度しっかりと自分を吟味する必要があります。
●2/27(火)3/2(金)「真理はイエスの中に」(エペソ人への手紙4:21)
<ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。>
「真理はイエスにあるのです。」が、クリスチャンがクリスチャンとして生きるための秘訣です。イエスの生涯を通して私たちはその生き方を学ぶことができます。福音書は四つあります。なぜ四つもあるのでしょう。同じ出来事でも、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各々の見方によって少しずつ特徴が変わっています。この四つの福音書を何度も読むことによって、真理がイエスの中にあるということを発見していきます。聖書で最も大切な教えは、神を愛し隣り人を愛することです。パリサイ人たちはイエス様のこの教えに対し「私の隣り人とは誰のことですか。」と訊いています。そこでイエスは強盗に襲われて瀕死の状態の人の話をされ、その人の隣り人となったのは誰ですかと彼らに問われました。その答えは、差別され嫌われていたサマリヤ人でした。パリサイ人たちは、自分たちにとっての隣り人とは誰ですか?と訊きたかったのですが、イエス様の答えは微妙にずれたものだったのです。
「律法は守らなければならないもの、さもなければ罰せられる」というのが彼らの考え方であり、その背景には、見つからなかったら罰せられないという思いが潜んでいます。「守らなければならない」…とは、自分のしたくないこともしなければならないということであり、それはストレスとなり、自己中心な心につながります(本当はしたくないという思いが潜んでいます。)
それゆえイエス様は視点を変えて、その人にとっての隣り人とは誰なのかを考えさせられました。問題があり、助けが必要な環境の中にある人々の隣り人に、あなたの方からなるようにと、イエス様は語られました。それはあなたの方から関わりを持つようになりなさいという意味です。
「〜しなければならない」という考え方なら、声をかければいいという程度の関わりしかしないでしょう。なぜなら、本心は関わりを持ちたくないからです。しかし、そのような関わり方でいくら接しても、神はそれを律法を守った行為とみなされることはありません。
そこで私たちが考えなければならないことは、サマリヤ人が最初傷ついたこの旅人を見た時、普段自分たちを迫害している人々のひとりだったので、正直嫌だと思ったかもしれないということです。しかし内面の葛藤の中で、その自己中心的な考え以上に、この人の命の方が大切だ、その命を助けてあげないとという、相手のためになることを優先させ、自ら進んで彼に関わってあげる方を選んだ時、これが本当の隣り人を愛するという行為になったのです。「関わりたくない」という気持ちを「かわいそうだ」という愛とあわれみによって打ち消し、「関わっていく」方を選んでいく、これが隣り人を愛するということです。愛がないのにいくら関わっても、それは隣り人を愛したことにはなりません。例えば妻の場合の「したくない」という心を夫のために「してあげたい」という心に変えていくことが大切です。それは肉の思いを打ち消して、正しい良心の思いに切り替えていくことです。
その時に、相手に対する純粋な愛を、神の前に誓った結婚の誓いを思い出し、愛せないという古い自己中心の思いを十字架につけて殺し、夫を愛するという正しい良心からの思いに入れ替えていくことが大切なのです。この過程が大切であり、この処理をしていないと、罪の性質に振り回されることになります。
自分の中にある「いやだなあ」という思いを犠牲にして、振り切って、もっと大切な愛に気づき、心にそのあわれみを生み出していく、この入替が大切です。自分の好きな人を愛したからといって何らほめられることはありません。むしろ、愛せない人を愛するところに、神から誉れが来るのです。愛せない人をどう愛せるようにするか、それは「すべてのものは神から出ている」という根本の真理に関わってきます。逃げずに真剣に取り組んでいく時、聖霊様があなたの打ちに神の愛と赦しを啓示してくださり、本当に喜んで愛し、関わっていくことができるようになります。このような真理がイエス様の生涯にたくさん隠されています。これらの真理を是非イエス様のおことば、生涯から見い出していってください。
●2/28(水)3/3(土)「真理の柱、土台」(第1テモテへの手紙3:15)
教会とは、肩書きだけのクリスチャンではなく、心から神を愛し大切に思う人々の集まりです。神を大切に思う人々は、神から声をかけられたらすぐに集まります。しかし他の事が重要だと思っている人は、神に声をかけられてもためらい、自分の都合を優先して断ります。
神を愛し何よりも優先して神の下に集まる集団を教会と呼びます。(声をかけられたなら、仕事も何もかも放り出して神の下に集まれるかどうかは、その人と神との関係の深さによります。)
また、こういう教会は真理の柱また土台であるとあります。真理とは見える世界を支えている、見えない世界の道理であり原則です。全宇宙は様々な真理、原則で支えられています。すべての存在の真理を神は持っておられますが、その真理の中の真理、柱であり土台であるのが教会なのです。真理を支える教会があり、その上に宇宙を支える真理があって、宇宙全部が存在しているということを想像してみてください。つまり、善意宇宙を支えているのは、神を敬う教会だということになります。すべての存在は教会のためにあるとも言えます。教会とはキリスト教という宗教やクリスチャンという肩書きではありません。
どんなことがあっても神のことばを最優先するほどに神を大切に思っている人々の集まりが教会と呼ばれているのです。この敬虔な人々のために宇宙は存在しているのです。それゆえ神はどうしても永遠の滅びから人類を救いたいと切望されています。あなたはそのように神に愛され大切に思われています。この真理を見たら、どんな疑いもすぐに消えてしまいます。真理から目をそらさないようにし、真理に触れたクリスチャン生活をしっかりと送っていきましょう。
■2007年2月18日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 横路 満弘師)
召選確立 しょうせんかくりつ up 2007.2.18
召しと選びを確かなものとすること。
ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
(第2ペテロ1:10)
私たちは、神様から選びと召しを受けた者です。神様が私たちに目を留めてくださり、召し、選んでくださったことは、驚くべきことです。
●2/19(月)22(火)「召しと選び」
ペテロ、主に召し出される(マルコの福音書1:17〜18)
<イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。>
ペテロは一晩中漁をしても魚が捕れなかったのですが、その朝イエス様から声をかけられ、言われた通り網をおろすと、大漁の奇蹟を見たのでした。
驚いたペテロはイエス様が神の子であると直感し、ひれ伏し「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。(ルカの福音書5:8)」と言ったほどでした。
その時ペテロに言われたことばが、「わたしについて来なさい。」→「選び」、「人間をとる漁師にしてあげよう。」→「召し」だったのです。(ルカの福音書5章を参照してください。)
「選び」について言えば、私たちも今朝この礼拝の場所に来ていますが、私たちも神様から選ばれた者ということができます。
なぜなら、日本のクリスチャン人口は0.5%、200人に1人しかなく、教会の礼拝に出席される方は更に少ないことから、本当に選ばれた方々が今朝ここに出席されているのだと思います。
「召し」についてイエス様が「人間をとる漁師」と言われた「とる」ということばは少々乱暴な表現ですが
・元々神のものであった人間をとって罪と苦しみの深みに沈めたのはサタンですから、その人たちを神の福音によって「取り返す」仕事が、人間をとる漁師の働きなのです。
・お金や名誉、地位やその他のものを求める網を捨て、神と人とを愛する福音を伝える仕事です。ペテロはそうするよう召されたのです。
・この「召し」を「使命」とも言うことができますが、人によってそれは様々な違いがあります。
・大きなトロール船や巻き網漁船で一度に大漁の魚を捕るベニーヒン先生のような働きもあるでしょう。一本釣りや小さい手網ですくい取る漁もあることでしょう。それは比べるものではなく、神様がそれぞれに違う使命を与えられたのです。
・タラントのたとえにあるように、それぞれが全力を尽くす時に、それぞれ評価され、同じように「よくやった。良い忠実なしもべだ。(マタイの福音書25;21,23)」とほめてくださるのです。それぞれが尊い主の働き・召しなのですから。
この教会には「広島エルサレムプラン」が与えられています。広島に真の平和をもたらすために、「神の前における正しい良心を備えたあわれみ豊かな教会」を建て上げることを目指していますが、皆さんはそのために選ばれ、何かの使命を与えられていると信じます。たとえば祈りの門、和解と赦しの門、家族愛の門などがあります。
一人一人が誰かのために祈りをもって支える、赦せない人を赦し、和解していく、家族を真に愛する者となるなどの役割、使命があるのです。これらを一人一人が召しとして取り組んでいき、実を実らせていくなら、人々がそのすばらしさを見て、教会に来てみたいと思ってやってこられるのです。そしてイエス様にお出会いされ、救われていくのです。広島中にその愛と平和が広がっていくことを目指しているのです。
・また網を捨て置いて従ったペテロたちの決断は見事なものでした。ペテロはその後、聖霊を受けてめざましい働きをし、初代教会の柱となりました。そのペテロの歩みと言葉は、2000年を経た今も、聖書を通して私たちの信仰の励ましとなっています。私たちもまたこの世の網を置いて、主に従う決断をした者ですね(アーメン)。
●2/20(火)23(金)「状況と出来事の嵐」
ペテロ、3度主を知らないと言う(ルカの福音書22:61〜62)
<主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。>
ペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカの福音書22:33)」と言い切りましたが、イエス様は「鶏が鳴く前に、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と予告されました。
そして、そのとおりになってしまったのです。ペテロは、自分が尊敬し、従ってきたイエス様が捕らえられた時、「私もイエス様の弟子です。」と告白して、イエス様と共に捕らえられることが恐ろしかったのです。そして三度もイエス様を知らないと言ってしまいました。
その時鶏が鳴いたので、主のおことばを思い出し、自分の弱さからくる失敗を思い知ったのです。
しかし振り向かれたイエス様の眼差しは優しく赦しに満ちたものでした。そして、ペテロは外に出て、男泣きに泣いたのでした。
このような出来事、状況の嵐は私たちの人生にも起こります。私たちも何度も主の前に決心したり、人の前で広言した後見事に失敗し、自分の弱さ、愚かさ、罪深さを思い知らされ、そのたびに主の前に何度悔い改めの涙を流したことでしょう。
しかしイエス様は愛と忍耐のお方です。決して私たちを怒って責められるお方ではありません。ペテロに向けられた同じ赦しの眼差しで見つめられ、「わかっていますよ。あなたを赦します。」と何度も何度も赦してくださいました。このような主の愛を心から感謝します。
●2/21(水)24(土)「愛の関係の確立」
ペテロに3度召しの確認をされる(ヨハネの福音書21:17)
<…イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。…>
イエス様が十字架にかかられて後、ペテロは他の弟子たちと共に、失意の中で漁に出てみたようです。主を裏切った情けない自分はもう弟子と呼ばれる資格もない、選びも召しも失われたように思っていたかもしれません。しかしイエス様はペテロを選び、召し出したことを決してお忘れになってはいませんでした。
ペテロが3度「主を知らない」と言ったことをうち消すかのように、ペテロに3度「あなたはわたしを愛しますか。」と尋ねられたのです。3度イエス様は愛をしっかり確認され、3度ペテロに「わたしの羊を飼いなさい。」と新しい召しを与えられました。
イエス様はペテロとの愛の関係を回復され、選びも召しも失われていないことを愛の関係の上に明確にされました。これらペテロの人生から私たちが学ぶことは何でしょうか。
1.ペテロは選ばれ、召しを受けて後ずっとイエス様と共に歩み、そのすべての出来事、数々の奇蹟さえも目の当たりにしてきました。
2.しかし、思いがけない悪い状況と出来事に出会った時、恐れからすっかり動揺してしまいました。そして主を知らないと裏切ってしまったのです。
3.ペテロは状況、出来事に支えられていたので、主イエス様との愛の関係が不足していたので、関係を自ら断ってしまったのです。
4.ペテロはつまずいた後、よみがえられたイエス様からもう一度愛の確認をしていただき、選びと召しを確かなものとされました。そして聖霊のバプテスマを受けて更に力強い働きをしました。
・先般のリバイバル集会に来られた説教者が語られたメッセージを覚えておられるでしょうか。それは「ダニエルがライオンの牙から守られたのは、ダニエルがどんな祈りをしたからでしょうか。」というものでした。
・旧約聖書のダニエル書の中を読んでいきますと、ダニエルは、『バビロンの王以外の何かを礼拝する者はライオンの穴に投げ込まれる』という法令が定められた後も、変わらず日に3度神様に祈りを捧げていました。
・その祈りの内容は「法令が変えられるように」とか、「穴に投げ込まれないように」とか、「ライオンのお腹を満腹にしておいて」とかいう、「状況」を変える願いをしたわけではなかったのです。
ただ「神様、今日もあなたが私と共におられますように」と祈ったというのです。ダニエルが穴に投げ込まれた時、神様は祈りに答えてダニエルと共におられました。人々はダニエルと共に全能の神を穴に入れたのです。ですから、ライオンはダニエルに危害を加えることなどできませんでした。
ダニエルは1日に3度祈りましたが、その祈りは神様との愛の関係をしっかりと確認する祈りでした。
「神様、あなたが今日も私と共におられますように。神様、あなたを愛します。あなたが私を愛してくださっているから、私と共にいてくださるのですね。」「そうだよ。あなたを愛しているから、わたしはあなたと共にいるのだよ。」ダニエルは毎日3度、神様とこのような交わりの祈りをしていたのではないでしょうか。
私たちも出来事や状況に左右されて神様を見失うのではなく、神様が共におられるその存在と関係を毎日確認することをしたいものです。
教会の礼拝の中で賛美し、祈り、みことばを聞き、聖餐式にあずかることは、神様の臨在を求め、共におられる神様を確認し、愛の関係をしっかりと結ぶために大切です。また教会に来た時だけでなく、いつでもどこにいても神様が私たちと共におられることを求め、愛の関係の確認をしつつ歩みたいものです。
私たちが召しと選びを確かなものとするために熱心に求めるものは主ご自身であり、大切にすることは主との愛の関係ですから。
■2007年2月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
千里同風 せんりどうふう up 2007.2.11
千里の遠くまで同じ風が吹くの意から、遠くまで同じ風俗がいき渡ること。また、世の中が平和であること。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
(ローマ5:10〜11)
今週は、神との和解をテーマにみことばを学んでいきましょう。罪が赦されるとは、神様との和解を持っているということなのです。信仰を持つとは、神様との和解を受け入れるということです。この神様との和解が、私たちの人生に大きな変化をもたらします。「千里同風」風というのは、習慣や習わし、教え、風俗という意味で使われます。これが一つの地域だけでなく千里まで及ぶ、隅々まで行き渡るということです。隅々まで平和で治められているという意味でも用いられます。神様の和解のことばが遠くまで及ぶように、世界に平和がもたらされるように、この和解の神様を知ることが必要です。
今あなたの心は平安でしょうか。それは単に問題がないというのではなく、神様との和解によってもたらされている平安でしょうか。
あなたの心の隅々までこの福音が行き届いているだろうかと考えながら、神様との和解について学んでいきましょう。
<この世が罪の世界となり、多くの不幸をもたらす原因は、私たちが神と敵対関係にあると言うことです。神との和解なくして、真の平和はもたらされないことを考えてみましょう。>
世界中で多くの民族紛争があり、たくさんの人々が亡くなったり、傷ついたりしています。許し合えない、和解を持てない、それは敵対関係にあり、敵をつくるというのは、そこに問題を持っているということです。それは私たちの身に傷を与え、命を奪われる危険性があるということです。
ましてや神様を敵にするとは、誰もクリスチャンは考えないと思いますが、あなたの内に何らかの問題や葛藤があったり、信仰生活に波があるということがあれば、神様との間に何か敵対関係がないか吟味してみる必要があります。今回は未信者というよりクリスチャンが、気づかない内に神様との敵対関係を持ってしまっているというところを吟味したいと思います。
1.神に敵対する者
A)<ヤコブの手紙4:4>
ヤコブはクリスチャンたちに「貞操のない人たち」と言っています。「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。」これは忠告です。気づいてない者に語られている言葉です。クリスチャンは気づかないでいつの間にか神に敵する者になってしまっていることがある、ということです。
敵対関係とは、うまく関係を保つことができないわけです。だから問題が起こるのです。しかし、それを神様のせいにしていないでしょうか。
神様は私たちを愛し、ご自分の子として見てくださっているのに、私たちの方が神を敵とする態度や行動を取っている、ということに気づかないでいるのです。これがクリスチャン生活の問題や不幸の原因ですよ、と注意しています。「世を愛する」ことや「世の友となりたい」という誘惑はいつもやってきます。「世を愛する」とは、何かにとらわれ、心がいつもそれに向いているという状態です。しかしクリスチャンは世を愛してはいけないと書いてあります。クリスチャンが愛する方は神様です。神を愛することによって、人を愛することができるのです。「世を友とする」とはどういう意味でしょうか。友とは、親しい者、信頼する者、心を開く相手という意味です。この世に対して信頼したり、心を開くということは、神を敵としてしまう姿勢ですよという意味です。
なぜこの世を愛したり、友とすることがいけないのでしょうか。私たちは世の中に生きているのですから、世の中から出て行けと言われているのではありません。どうして世を愛することが神を敵としてしまうのでしょうか。
神の敵とは不敬虔、神を認めないということです。敵とは存在を認めたくない相手です。この世の中は神を認めません。神様がどんなに心を開いて親切に対応しようとされても、神を認めたくないという人々がこの世界を支配しているのです。
神に対する不敬虔な世の中を愛し、そういう人々を友とすることは、神様にとって心痛いことではないでしょうか。神様はこの世を敵としたくないのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。<ヨハネの福音書3:16>」とあります。それは罪から、滅びから救われてほしいと願っておられるということです。神様は決してこの世を敵と見てはおられないのですが、この世が神を敵と見ているのです。
神を敵だと考えている人々を友として信頼し心を開くならば、神を敵としていることと同じなのですよとヤコブは注意しているのです。
そんな意識はまったくなくても、誘惑に負けて友として心を開いていると、神への純真な心が汚されてしまい、不健全な、中途半端なクリスチャン生活になってしまいます。神様と良い関係を保つ以上に、この世の不敬虔な人々と良い関係を持ちたいという思いがあるなら、みことばを聞いても集会に行っても開放感がなく、逆に疲れてしまいます。あなた自身がどこかに神様との関係において問題を持っているなら、この世の友となり愛する状況が起こっていないか吟味する必要があります。それは肉に惹かれるということです。
B)<ローマ人への手紙8:7>
<正しい良心と肉の思いとを見分ける基準が、このみことばによって分かりますね。肉の思いに心を合わせることがどういうことかをしっかりわきまえておきましょう。>
神を敬う正しい良心と肉の思いとの違いは、「肉の思いは神に反抗する」というところでわかります。世を愛したいという下心が、罪の感情や知性に対して働きかけて反抗するのです。
同意できない考えや心は、あなたではなく肉の思いなのです。「なんて私は醜いんだろう」と考えるのではなく、「これは私の本当の思いではない」と思うことが大切です。イエス・キリストを信じた人は、洗礼を通して正しい良心を肉の思いを切り離しているのです。
肉体を持っている以上は、肉の思いはやって来ます。しかし分離しているのだということに気づかないと、肉の思いと一つになってしまうと神に敵対する者となってしまいます。感情を切り離すために、御霊によって祈り、賛美して、正しい良心に意識を置くように習慣づけていきましょう。
2.神との和解
A)<エペソ人への手紙2:5>
<私たちから和解を申し入れることができるような立場でないことに気が付いているでしょうか。そうでなければ和解が恵みによってもたらされたことを軽視してしまうことでしょう。>
社会的には「人権」という同じ土俵で和解するのですが、神様に対して私たちは罪を犯した者であって、同じ土俵ではありません。明らかに罪を犯し、罪人として決定づけられた私たちは、神様に対して和解を要求できるような者ではありません。それは恵みを施されるのを待つしかないのです。神様との和解は、私たちが要請して与えられるものではなく、恵みなのです。これを理解していないと、罪赦され、和解してくださったことに感謝ができません。当たり前だと思ってしまいます。今私たちがあるのは、神様が和解の心をもって、キリストによる救いを与えてくださったからだということを忘れてはいけません。
B)<第2コリント人への手紙5:19〜20>
<神は私たちに『降伏』ではなく『和解』をもたらしてくださったことをよく考えてみましょう。そして、この和解の良き知らせを多くの人に伝えましょう。>
日本は戦争に負けた時に無条件降伏をしました。和解ではありません。「降伏」とは完全に従わせられるという意味です。全ての権利を放棄して服従するという意味です。しかし「和解」とは元あった良い関係に戻すということです。神様は私たちに降伏を求められず、和解をしてくださったのです。それは服従させるために私たちを造られたのではないからです。罪を犯す前のアダムと神様との「良い健全な関係」に戻すために、和解を成立させてくださいました。権利をすべて剥奪されてもいいのに、逆に、以前持っていた権利をすべて戻しますよ、という和解を成立させて下さったのです。和解の賠償金をイエス・キリストの十字架で全部神様が支払ってくださいました。この和解を受け入れるだけでいいのです。
私たちはこのような神様からの和解の救いがもたらされているのだということをよく理解して、「千里同風」のように、全世界に福音が広げられるように、和解に感謝して日々を過ごしていきましょう。
■2007年2月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
熟読玩味 じゅくどくがんみ up 2007.2.4
食べ物の味を十分味わうように、文章をよく読み、じっくりと考えて味わうこと。
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。
(エレミヤ15:16)
「あなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。」みことばを食べるという表現で、神様は何を言おうとしておられるのでしょうか。それは「熟読玩味」をしたという意味です。みことばを味わうとは、それを書かれた方を知るということになります。ですから、みことばを味わうことを通してもっと主を知っていきましょう。
1.食事をする楽しみと喜びのように(マタイの福音書4:4)
<イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」>
A)『パン』→食事=生きていることの楽しみと喜びの原点。
人は食物のために多くの時間を費やす。→生きていくための原点。
豊かな文明の中では食事が唯一の楽しみとは言えませんが、元々文明の進んでいない時は、食事のためにほとんどの時間を費やしていました。また、年をとって味覚がなくなることほどさみしいことはないそうです。人間の一番の楽しみは味わうことだそうです。
みことばを味わうことは、私たち霊的人間にとって一番の楽しみ喜びなのです。
もし、食するということよりも別のことを楽しみ喜びとするなら、どんな問題が起きるでしょうか。
B)『食する』→満足感、安心感、幸福感、回復がもたらされる。
不健全な食生活がもたらすもの→不健康
食生活をおろそかにしてしまうと、不健康になってしまいます。クリスチャンもみことばを食することをおろそかにすると、不健康な状況が起こってきます。すなわち正しい良心が弱り、肉の心が強くなり、クリスチャンになる前の状態、それ以上に悪くなることもあります。もしあなたが安心感をなくしたり、問題から回復するのが遅かったりするなら、まずみことばを食するのに不健全な食し方をしていないかを考えてみないといけません。「私はきちんとみことばを食しているだろうか。」読んでいるだろうかというのとは違います。みことばを読むのではなく、食べるのです。
健全なみことばの食生活のために、健全な食生活を参考にされたらいいと思います。神様は自然的なことを通して霊的なことを教えておられます。食事は定期的に摂るのが体にいいと言われますね。みことばも定期的に読む時間を取っておられるでしょうか。お腹が空いた時に食べる、食べたい時に食べる、ということを続けていたら、体のリズムが崩れます。夜寝る前に食べると、若い時はいいですが、年をとっていくと問題が起こってきます。このように健全な食生活を参考に、みことばの生活を見直してみたらいいですね。そのように食べる楽しみを持つということと、自制心を働かせた食べ方をすることが必要です。偏食をしないというのもそうです。好みのみことばばかりを選んでいくと、信仰が偏ってきます。好みのメッセージは聞くけど、苦手なメッセージは聞きたくない、と選り好みをしていくと、偏ってしまいます。
C)味わう楽しみと喜び→新しい発見、極みに近づく
苦手な食べ物でも、その味わいがわかれば食べられるようになります。苦手なみことばもそうです。私はみことばを味わうということを知って、食生活を味わうということに気がつき始めました。たとえ苦手な食べ物でも、他の同じような栄養の食べ物で補うこともできます。みことばも、受け入れにくいものがあっても、他の同じような意味でみことばがわかれば、更に新しい発見をしていくことができるようになります。
2.エゼキエル書20:20を食する楽しみと喜び
<…また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。』と。>
安息日とは、神が七日目に休まれたので、すべての仕事をやめて休む日です。「きよく保て」とは特別なものとして聖別して保てということです。これを神様と私たちとの関係のしるしとしなさい、そのことによって主がどういう方かわかりますよと言われています。このみことばを読んでどのような思いが出てくるでしょうか。
休みを父なる神様に合わせる、とはどういうことでしょうか。「父なる神様に休みを合わせる子どもたち」を、このような話で考えてみましょう。
雪国の地方では、冬は農業ができないので出稼ぎに行きます。出稼ぎに行ったお父さんは普通何ヶ月も帰れないのですが、一日だけ休みが取れたので帰ってくるという連絡がお母さんに入り、お母さんは息子や娘に「お父さんがあさって一日だけ帰ってくるから時間を取ってね」と言います。そこで子どもたちがお父さんの休みに合わせるか合わせないかは、お父さんと自分との関係の大切さを見いだしているか否かにかかってきます。お父さんと時間を過ごすことを大切に思わない子どもは、「その日は友達と約束してるから」「今試験の真っ最中なのに」という反応をしてしまいます。お父さんと過ごす時間の価値を理解していないからです。しかしその価値を心でわかっている子どもは、約束を変えてでも何とかお父さんの休みに合わせようとするはずです。お父さんと共に過ごすということを楽しみ喜びとしている人は、何を差し置いてもお父さんの休みに合わせようとするのです。
このように考えてみると、このエゼキエル20:20の意味がわかってくるのではないでしょうか。神様が休みなので、みんなも休んでほしいと言われるのです。それはなぜかというと、私たちをご自分の子として愛しておられるから、ご自分の休みの時に、仕事のことは全部置いておいて家族だけでゆっくりしたい、交わりたいと思っておられるのです。だからこれをきよく保てと言われるのです。しるしとは、これが親子の繋がりのしるしということです。交わりが少ないと、お父さんを知ることができません。神様の休みに合わせて交わることが、主を知ることです。
このように、みことばが何を言っているのか当てはめることができる事柄を探していくことで、みことばを味わうことができます。
神様は七日目の安息日に休まれます。だから私たちも休みを合わせるのです。神様は60数億の人々の面倒をみておられるですから、忙しい方です。その方がわざわざ、私たちのために休みを取ってくださるのです。仕事をしているお父さんではなく、休みの日にありのままのお父さんを知ることができます。あなたと神様の関係が強ければ強いほど、父なる神様の休みの日に休みを合わせるようになります。日曜だけの交わりで無限の神様を知ることはできない、毎日でも神様を知りたいという人は、献身していきます。
このようにみことばをじっくり味わい、熟読玩味していくなら、あなたの信仰も価値観も変わってきます。うわべだけでみことばを捉えたら、厳しく感じてしまいますが、じっくりと味わっていくなら、父なる神様が何を言われているのかがわかってきます。
みことばを読むのではなく、食べることをぜひ心がけていきましょう。
■2007年1月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
感慨無量 かんがいむりょう up 2007.1.28
計り知れないほど心に感じて、胸がつまること。
私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。
(詩篇13:5〜6)
ダビデは王であり、勇士であり、詩人でもありました。彼はまた負けを知らない戦士でもありましたが、これら数々の業績は、彼一人でなしえたのではなく、常に神が共におられ、神に油注がれたゆえにできたものです。戦いの中で、神の守りなくしてはどうにもならないというたくさんの体験を、ダビデはしました。
さらには王であるサウルの妬みによって、将軍の地位から逃亡生活へと転落させられ、大きな逆境の中で書かれたこの詩篇は、神と自分との関係を表しています。
ここで彼は「私の心はあなたの救いを喜びます。」と歌っています。彼はこの逆境の中で、神の救いの喜びを今まで以上に味わいました。感情は神が与えられた大切な心の働きです。ダビデは救いの喜びのゆえに、逃亡生活の中でも喜ぶことができました。
ダビデはこの救いを「神が私を豊かにあしらわれたゆえ…」と言っています。皆さんは救いの喜びをどのように感じておられるでしょうか。彼は転々と住む所をかえねばならない厳しい逃亡生活の中で、日々救いを体験していました。その救いの喜びが、どんな環境にも問題にも立ち向かえる力となったのです。
私たちは与えられたこの救いをしっかりと味わうことが大切です。私たちにはどんな種類の救いが与えられているのでしょうか。救いとは、その場所、その関係から切り離されることを表しています。つまり救われるとは、置かれていた環境から別の所に取り出されることですから、そこでつながりは切れるということです。
●01/29(月)曲がった時代からの救い(使徒の働き2:40)
「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。』と言って彼らに勧めた。」
ますますよこしまで邪悪な流れに、この時代は進んできています。文明が発展し、豊かになっている飽和状態の中で、「良いものを悪とし、悪いものを良いとする」風潮が出てきています。
現代音楽やアートなども、何を表しているのか、私たち素人から見たら混乱としか言えないようなものが流行っています。刺激や変化を追求するあまり、ほとんどの人には理解できないものがアートと呼ばれ、むしろ「わからない」と言われることが芸術家の真髄とまで言われているようです。
「これがわかる人はすごい人だ」と、まるで裸の王様のような状況です。あなたもそのような考え方に影響されないよう、この曲がった時代から救われているのです。自分を見失わないで、生きてゆけることに感謝しましょう。「ありきたりはおもしろくない」「正しいことをするのは良くない」という逆発想の考え方を好む人々と調子を合わせていくと、自分を見失ってしまいます。私たちはこの時代から救われています。
●01/30(火)神の怒りからの救い(ローマ人への手紙5:9)
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
神の怒りは悪い罪に対して向けられるもので、失敗や愚かさに向けられるのではありません。人間の怒りは自分の思い通りにならなかったものに対して向けられますが、神は悪や罪を処分するという意味で怒りを向けられます。
私たちは不敬虔さのゆえに神の裁きに遭うような者でしたが、イエス・キリストを信じ、その不敬虔が赦されて、裁きから救われています。私たちの将来には望みがあります。死刑を待っている死刑囚は、いつかその処刑の日がやってくるということがわかっているので、不安や恐れ、いらだちの中で生活しています。しかも毎日毎日その裁きの日が近づいているのですから、希望のない日々です。しかし、その死刑囚が恩恵によって赦され、解放されるという知らせを受け取ったら、それからの毎日はどんな気持ちに変わるでしょうか。いつここから出られるんだろうかという、180°違う気持ちになるはずです。
多くの人々は死刑囚のように、死後いったい何があるのか、どうなるのかまったくわからない状況の中で、考えるのをやめ、神を認めず、なるようになると思いこもうとしています。しかしどのように考えたところで、その日はやってきます。天地が存在している以上、いくら神がいないと否定しても、神はおられるのであって、最後の審判の日、神の怒りの日はやってきます。私たちはその裁きから救われています。
ただ最後の審判までは待つことが必要です。そしてその日は神を信じる私たちにとって、解放と喜びの日になるのです。それゆえ、イエス・キリストが来られる日を、日々喜びをもって待ち望みましょう。
●01/31(水)死のからだからの救い(ローマ人への手紙7:24)
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
パウロはここに、自分の心の葛藤を表現しています。イエス・キリストを信じることによって、神を畏れる心に対する、死に支配された肉体からの様々な妨害から、神は私たちを守ってくださいます。私たちの心の葛藤は複雑で、いろいろな心理学や哲学などで悪と善の戦い等として表されていますが、どんな方法を見つけても、実際にそこから解放された人はいません。心の葛藤を持たず、良心を働かせることをやめ、思いのまま、感じるまま自分の人生を自己中心に生きている人は、確かに悩まないでしょう。
人の悩みの根本は「善か悪か」というところです。クリスチャンの悩みはそこにあります。そして死のからだからの救いは、毎日神を体験するすばらしい救いです。悩みがあるからこそ、この死の力から解放されるために、いかにキリストの力が必要かわかります。死に勝利された方は、3日の後に復活されたイエス・キリスト以外におられません。キリストの復活のゆえに、私たちは死の力から救われます。救いとは努力ではありません。それは恵みであり、拠り頼むこと、信頼することです。それは先週学んだ「天佑神助」であって、神の恵みあわれみに拠り頼み、すがることです。パウロは心の葛藤の中で、毎日イエス・キリストの救いを体験し続けました。私たちは日々、心にこの救いの喜びがあるかどうかを顧みる必要があります。目先の問題や出来事に囚われ、喜びを失ってしまわないようにしましょう。
●02/01(木)今の悪の世界からの救い(ガラテヤ人への手紙1:4)
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」
世界を社会構造と捉えてみると、日本の社会構造は民主主義です。この民主主義の自由は今や放縦の自由であり、平等は赤ちゃんからお年寄りまでみんなが競技に参加できると謳われていても、何のハンデもつけずに参加したら、果たして本当の平等でしょうか。ヘビー級のボクサーがライト級のボクサーと試合をするようなものです。スポーツなら気づいても、民主主義の裏にあるこういった盲点には気づく人があまりいません。
私たちは無差別にいろいろな考え方を受け入れていくのではなく、何が正しいのか、良心をもって見直すことが必要です。私たちの心の目をしっかりと開いて、この世の悪と調子を合わせないようにしましょう。
見せかけや言葉の巧みさで惹きつけられ、だまされないよう気をつけなければいけません。私たちはこういった悪の世界から影響を受けない神の国に入れられているという救いの喜びをしっかり味わいましょう。
●02/02(金)暗闇の圧政からの救い(コロサイ人への手紙1:13)
「神は、私たちを暗闇の圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」
裏の世界の出来事は、悪霊の力を受けた人々の働きです。悪魔礼拝をしているグループが世界中にあります。彼らは神の民を呪い、教会の牧師が堕落するように、時間を決めて祈っているということです。こういう闇の世界の働きがクリスチャンに圧迫をもたらすことがあります。しかし私たちは、愛する神の救いの中に入れられているということをしっかりと確信する必要があります。
私たちは油断してはなりません。いつの間にか、自分で神の支配の内から一歩踏み出してしまってはいないか、いつも祈りの中で、自分がイエス・キリストの内に留まっていることを確認し、告白することが大切です。また、自分の罪が示されたら悔い改めて、呪いを受けることがないよう主の内に留まり続ける祈りをしていきましょう。
●02/03(土)誘惑からの救い(第2ペテロの手紙2:9)
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
神を畏れる人々は敬虔な人々です。しかしこういった敬虔な人を誘惑する者がいるのです。繁栄・安逸・快楽・多数決・不信仰などです。神の祝福は繁栄ですが、そればかりを求め、繁栄していないクリスチャンを問題視するような極端な教えは、神の正しい救いの喜びから人々の目を逸らさせていきます。物質的・環境的繁栄は肉を喜ばせるものですから、それを余りに強く求めると、救いの喜びが消えてしまいます。繁栄=救いではありません。ヨブの試練がそれを表しています。また、安逸も強調しすぎてはなりません。そこに留まり続けると神への信仰が弱ってしまいます。安心と平安にどっぷり浸かってしまうと、霊的歩みが弱くなってしまいます。
私たちはしっかりと目を覚まし、何が正しいことであるか見極め、神の救いの喜びにしっかりと心を留めていきましょう。毎日私たちは救われています。あらゆる環境、苦しみの中でも、私たちは救いの喜びを受けています。この救いの喜びのゆえに、すべてを感謝し、イエス・キリストこそ何ものにも代えられない方として、心から信頼していきましょう。
■2007年1月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
天佑神助 てんゆうしんじょ up 2007.1.21
天や神の助け。ご加護。また、偶然に恵まれて助かること。
主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」
(詩篇12:5)
悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くことの多い世の中になってきています。特に正しい人はこの世界の中で悩みが多いのではないでしょうか。正しいことが踏みにじられる世界だからです。そういう人々に神様が「わたしは立ち上がる」と言われます。
どんなに努力してもその状況から救い出されることがむずかしいという時、偶然に助けがもたらされるということが、この「天佑神助」です。神などいないと思っている苦しみや辛さの中で、ぽっと心が安らぐような助けが与えられること。それは偶然ではなく、神がその人の叫びと嘆きを聞かれて、あらゆる人に助けやご加護を与えてくださっているのです。クリスチャンだけに与えられるのではなく、悩む人が踏みにじられている時、貧しい人が嘆いている時、主は立ち上がられるのです。神を敬う私たちは、神が貧しい人々に興味を持っておられるという時、私たちも同じように貧しい人々に関心を持つということを学んでいきたいと思います。
1.貧しい人に関心を持つ理由(箴言16:19)
「へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる。」
私たちは貧しい人に優越感を持って何かするということがありますが、へりくだって貧しい人と共にいるとはどういうことでしょうか。
A)「貧しい人」が意味していることを考えてみましょう。
貧しい人とは、力がない人、人々に歓迎されない人、助けが必要な人etc。
この聖書の時代における貧しい人を考えると、人として生きていくために必要なものを持っていない、手に入れることのできない人々でした。いつも何か与えられているのではなく、本当にどうにもならない状況の時にぽっと助けが与えられる、そういう状況の中で命をつないでいくような、安定していない人がこの聖書の時代の貧しい人です。
B)へりくだって貧しい人とともにいることは、何がもたらされるのでしょう。
あなたが一緒にいたくないと思う貧しい人と一緒にいようとすると、どういう思いや考えや心の変化がもたらされるでしょうか。最近は海外ボランティアに、中・高・大学生が東南アジアの貧しい国々に行くことが多くなってきているそうです。この豊かな国で生きる目標がわからないと悩み、精神的病いになっていく彼らを、まだ症状の軽いうちに貧しい国々へ連れて行き、ボランティア活動をすると、我を取り戻す人が多いそうです。なぜでしょう。貧しい人々と共にいることは何をもたらすのでしょう。以前ボルネオ島の山奥に行きましたが、それは貧しい所でした。道なき道を歩いていくと、90%がクリスチャンの集落がありました。本当に貧しい中でしたが、いろんな自然からの知恵をいただいて、心の中は本当に豊かな生活をしていました。そういう人と一緒にいると、人間は何者か、人生とは何かを、頭でなく魂、心で感じてくるものがあるのです。日本の文明社会から非文明的な自然の中に生きている人々の中に行くと、自分の愚かさ、傲慢さが見えてきます。お金がたくさんあっても、パソコンを持っていても、全然役に立ちません。電灯がついたり消えたりするような電力しかありません。最初は確かに不便さや苦痛を感じましたが、2、3日過ごしていくと、何と清潔な生活だろうと思いました。すなわち心が低くされるのです。私たちはこの文明の力で傲慢になっています。あれがないと生きていけない、これがないと楽しみがないというのは傲慢なのです。貧しい国ではそんなものは1つもありません。ある人が冷蔵庫を持っていましたが、単なる物入れになっていました。
貧しいと利己的な自分に気づかされます。貧しい人々は、とても協力的で、ないものの中から与え合い、助け合う人間関係が自然に生まれてきます。豊かな世界にいると、貧しくなったらもっと利己的になるのかと思いますが、人間の本質は神に似せて造られているので、大自然の中にいると、助け合うという心が生まれるのです。正しい良心が働いてくるのです。豊かな文明社会は競争社会です。自分が勝利し成功するためには、という考え方が利己主義に走らせてしまうのです。しかしその貧しい村では、誰が優れているか、一番金持ちかは全然関係なくお互いに助け合っていて、これが本当の人間の姿だと思いました。豊かさは心を曇らせます。これは歴史が証明しています。
C)あわれみ深い神様の関心ごとは?
このような貧しいへりくだった、純真な心を持った人々は、貧しさのゆえに心が曇っていない人々です。冨の中で生活していると、欲望が正しい良心を覆ってしまい、この素直さ、優しさ、人を思いやる愛を出させなくしてしまいます。
あわれみ深い神様は、どうして貧しい人たちのために立ち上がられるのでしょうか。貧しい人たちは、素直な、神を敬う敬虔な心を持つことができるのです。この資本主義社会の貧しい人々とは違います。豊かな国の貧しい人々は、歪んでしまっている人が多いですが、大自然の中にいる貧しい人々は、貧しいと感じていないのです。真に清らかな貧しい人々は、神に助けられます。天佑神助という驚くべき偶然の助けを与えられる神に感謝していくのです。私たちも豊かな国に住んでいて、あれが欲しいこれが欲しいと考え始めると、あなたの神に対する純真さが曇っていくということに気づいていますか。素直な心が素直でなくなり、歪められていきます。神様は貧しさによってもたらされる心のきよらかさに関心があられるのだということに気づいてください。「高ぶる者」とは私たち文明社会の人々です。元を正していけば、豊かな国は貧しい国から分捕っているようなものです。へりくだって貧しい者とともにいる方がまさっているとは、すなわち人として健全である、いのちを生かしているという意味です。富んだ社会の中で、心歪んだ貧しい者にならないようにしましょう。心のきよらかさを守る貧しさが、神様の関心ごとです。
2.貧しい人への神の働きかけ(詩篇25:9)
「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」
A)なぜ、高慢な者を公義に導かず、ご自身の道を教えられないのか。
高慢な者こそ、公義に導くことが必要ではないかと思いますが、傲慢な人というのは自分が正しいという考え方が強く、自分の利益になるものは受け入れるがそうでないものは見向きもしません。聞く姿勢のない者に、公義に導き教えることはされないということです。
貧しい者は物を受け取るだけでなく、教えも受け入れる純真な心を持っているのです。吸収し、与えられるものは何でも受け入れ感謝していく、これが窮地に陥っている貧しさです。
あのアフリカで石を食べるような子どもたちは、日本では捨てるようなものでも、食べられる物なら何でも食べます。貧しい者には受け入れる姿勢があります。私たちはあまりにも物質的に豊かになり過ぎて、選り好みをしているのではないでしょうか。聖書のおことばも選り好みするような贅沢になっているのではないでしょうか。選り好みするだけの豊かさが心にあるのです。貧しい人は、与えてくださるものは感謝して受け入れていきます。これが傲慢な者を導かず教えられない理由です。私たちは贅沢になって、神様の恵みをおろそかにしていないでしょうか。
B)神が貧しい人のために立ち上がられる理由は何でしょう。
貧しい中で、心が純真な、神のかたちに似せて造られた心を持っている者がしいたげられているのを見過ごせない。これが神様が立ち上がられる理由です。同じ貧しくても傲慢な貧しい人々には立ち上がられません。単に生活環境的に貧しいという意味ではないのです。
C)貧しい人を通して教えられたこと、主がどのような方か気づいたことは?
これはそれぞれご自身で、毎日のデボーションの中で教えられ、気づいたことを記してください。貧しさの大切さを思ってほしいと思います。貧しい生活で過ごしたため、傷ついた人がおられるでしょう。それは日本の豊かさが生み出した、心を歪めてしまう貧しさです。そういう意味の貧しさではないと理解して、貧しいというある程度の環境を通すことが、どれだけ私たちの心を守るかというヒントを与えられたらいいと思います。与えるということを通して、あなたが貧しくなればいいですね。それは貧しくなりがいがあります。与えられた人は感謝して、神様に祈るでしょう。そうしたら神様があなたの貧しい状況に働かれ、聖霊によって霊的祝福をもって、肉の欲望から解放し、正しい良心を健全に保つことができる秘訣を見いだすことができます。貧しすぎて歪まないように、また豊かすぎて見えなくならないように気をつけたいですね。貧しいということを通して何を気づかされるか、この一週間、主の前に祈り求めてまいりましょう。
■2007年1月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
肝胆相照 かんたんそうしょう up 2007.1.14
お互いに心の底までわかりあって、心から親しくつき合うこと。心の底まで打ち明け、深く理解し合っていること。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4:6〜7)
不安定な時代、「明日はどうなるのか」という未来の不安に思い煩っている人々がたくさんいます。ある程度のことは予想でき、明日に備えて今日用意ができるでしょうが、私たちの力ではどうしようもないこともあります。そういう内容の思い煩い(家庭の事とか、病気の事とか)を何とか取り去り、一時的に逃れるために、世の中の人々は神以外のもの、物質とか様々な快楽等に頼ってしまいます。
しかし私たちは、私たちの造り主なる神を知っているので、この方に祈るならば、思い煩いから解放され、平安を得ることができます。
思い煩いを取り除ける力ある方に相談すると、私たちの思い煩いは減っていきます。神は全知全能なる方で、すべての事を知っておられるのに、なぜパウロは「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と言っているのでしょう。今日は今年のテーマである「正しい良心で主を知っていく」から、「祈りをもって主を知っていく」ことを学び、ぜひ実行していただきたいと思います。
神がすでにご存じのことを尚も私たちから聞きたいと願っておられるのは、「肝胆相照」のつき合いを私たちとしたいと願っておられるからです。しかし私たちの方が神に心を閉ざして、自分自身を神の前にありのままに出していかなかったら、神との親しい関係を持つことはできません。そして私たちの神を知っていく唯一の方法が祈りです。祈りには3つの段階があり、この段階を通して神をより深く知っていくことができます。今週はこの3つの祈りの段階を学んでいきましょう。
●01/15(月)18(木)「ありのままの祈り」(詩篇5:1〜2)
「私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」
何も問題がない時は、居住まいを正し、順番に祈っていくことができるでしょう。(「主の祈り」のように。)こういう時は、自分の心の底について深く探ることもなく、そのままあっさりと祈り終えてしまいます。しかし、自分が行き詰まった時や思い煩っている時は、その辛さがうめきや叫びの祈りとなってきます。そしてそういう時こそ、心の最も深い所が開かれやすい時なのです。
この詩篇の記者は、神の前に心の苦しみをありのまま表現しています。もし今皆さんが、誰からの助けも求められない、誰にも相談できない、人の力ではどうすることもできない問題を持っておられるなら、神の前に、心を開いてありのまま神に祈ることのできる時です。
そのありのままの自分の気持ち(自分の性格の欠点や嫌なこともすべて)を正直に神の前に表してください。それは恥ずかしい内容だったり、醜い自分だったりします。人には決して出せない部分であっても、私たちのためにひとり子なるイエス・キリストを遣わしてくださった愛なる神は、私たちのどんなにひどい罪深い姿も受け入れてくださいます。隠す必要はありません。神の前に自分のありのまますべてを告白する祈りを続けていく時、変化が出てきます。
●01/16(火)19(金)「正しい良心の祈り」(詩篇141:1〜5)
「主よ。私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもとともに、悪い行ないに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。」
思い煩いや苦しみの時は、「知・情・意」が乱れ、特に感情が乱れてしまい、正しい良心が埋もれてしまっています。しかしありのままに祈り続けていくうちに、だんだん感情が静まってきて、ついには正しい良心が顔を出してきます。私たちは心の中にいろいろなストレスや感情の乱れを持ちながら、神の前に正しい良心をもって祈るというのは大変難しいことです。罪の力や心の傷が大きすぎて、正しい良心の力強い祈りをすることはできません。それゆえ先に、その悪いものを全部神に発散させていくなら(神は黙って聞いてくださっています)、次第に冷静さを取り戻し、良心が表れてきて、神の前に良き者としての祈りをしたいという願いが起こされてきます。
この正しい良心が表れてくるまで祈り続けることが大切ですが、多くの場合、愚痴不平で終わってしまっていないでしょうか。祈り続け、肉が疲れてくると、神を畏れる心、正しい良心が起きてきます。この期間は神は答えず、沈黙されているので、心が騒ぐ時ですね。そのうちに、「肉の思い」と「正しい良心の思い」の二つに自分の心がはっきりと分かれていくことを体験し始めます。非常に複雑な葛藤の中で、本当の自分の心がどれであるかがわかってきます。
心を開いて正しい良心が出てきた時、聖霊様が正しい良心に力を与え、励ましてくださいます。そしてこの祈りが、神の御心をなだめるささげ物としての香となるのです。それは正しい良心からの祈りだからです。それは神を畏れる心で遭って、神が喜んでくださる心です。そして、いろいろな罪や悪から離れられるよう、世の中の人と妥協し、貪欲に至らないよう、守りを祈り始めます。しかしここで終わってはなりません。さらに次の段階にいくことが必要です。
●01/17(水)20(土)「主を知る祈り」(詩篇66:16〜20)
「さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」
2番目の正しい良心の祈りに至ってくると、少し平安が心にやってきます。しかし、そこで祈りを終えてはなりません。主を体験するところまで祈りました。詩篇の作者は「神が私のたましいになさったことを語ろう。」と言っています。これが祈りにおける神との出会いです。神に出会って初めて心が変わるすばらしい体験をし、神をあがめ始めます。神ご自身のご人格に触れるという体験が、愚痴不平という、神に決して聞き入れていただけないような祈りから、聞き入れていただける祈りに変えられるという変化をもたらします。あなたが罪を犯しているかどうかが重要なのではなく、主を畏れる心を持ち、神への信頼をしっかりと持っているかどうかが本当は大切です。「義人は信仰によって生きる」からです。信仰による義をしっかりと神に向けているでしょうか。
心を神に向け、ありのままの自分を神に表すのは、信仰の表れです。心の底から分かち合える神との関係があってこそ、自分の恥ずかしい面も嫌な面も、神の前に出せるのです。
心を開いて、心の秘密を打ち明ける、神に心を全く開いた、神を全き友とした状態を、「信仰による義」と呼びます。この信仰による義が、神に受け止められる祈りです。最初の醜い祈りがなぜ義と認められるのでしょうか。それはその内容ではなく、神の前にすべてを明らかにした心の姿勢が義と認められるのです。
心の底を打ち明けて、嫌われてしまうのは人間の友です。神はどのような心の底を打ち明けられても決して退けず、むしろ喜んで聞き入れ、恵みを与えてくださいます。
祈っても空しいと感じる人は、まだこの段階に至るまで祈っていないからです。さらに問題にぶつかって潰されそうだと思ったら、そこでへりくだってください。思い患いや問題はへりくだるためにあります。そして、へりくだり、神に触れていただくために、あらゆる思い煩いや問題が必要であったと気づくなら、私たちはさらに早く、主を知る祈りに至ることができるようになります。
■2007年1月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
閉主道開 へいしゅどうかい up 2007.1.7
主はどうして道を閉ざされるのか。それは、道を開くためである。
わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。
(イザヤ22:22)
今年のモットーは「正しい良心をもって主を知る」です。どのような神様であるのかをもっと知る必要です。このみことばから、主を更に知っていきましょう。
「閉主道開」この四字熟語は私がつくった造語です。私たちの主は道を閉ざし、主は道を開く方であるということです。私たちの人生を、閉ざされるような境遇に置かれることもあれば、開くこともできるお方だということを知っていただきたいと思います。
これを第1サムエル記1章に出てくるハンナを通して見てみたいと思います。エルカナという人は二人の妻を持っていました。聖書は一夫一婦制で、複数の妻を持つことを神は決してお許しになっておられません。聖書で複数の妻を持っている人が出てきますが、それは決して正しいことではなく、罪の状態でした。このエルカナも罪の状態の夫婦関係で、正しい人ではありませんでした。これを前提に考えてください。自分の財産を受け継がせるために、子どもができなかったら別の奥さんをもって子どもをもうけるという一般的な習わしを、エルカナは受け入れてしまったのです。エルカナはある程度の財産を持っていたのでしょう。彼はモーセの律法にないことをしてしまいました。
愛するハンナが不妊であったので、もう一人の奥さんであるペニンナをめとったことによって、問題が起こってきました。ハンナはペニンナによって苦しめられました。この不妊という状態は彼女のせいではなく、主が閉ざされたとあります。このことによって、エルカナは試され、人間的な考えで道を進むことによって多くの問題を抱えてしまいました。一番愛すべきハンナを一番苦しめることになったのです。
そこでですが、なぜ神様はこのようにハンナの胎を閉ざされるようなことをされたのでしょうか。主が閉ざされたものは誰も開くことができません。あなたの人生で道が閉ざされるような状況に陥っている人は、「私は罪を犯したのだろうか、何か問題があったのだろうか」と悩み苦しみ吟味すると思います。確かに罪から来ることもありますが、このエルカナはユダヤ教徒としては真面目に儀式を守っていました。そんな彼に、不妊の妻が与えられました。一体これはどういうことなのでしょう。それを考えていきたいと思います。「主はどうして道を閉ざされるのか。それは道を開くためである。」このような方が私たちの主であるということに気づき、悟っていただきたいと思います。
1.主が閉ざされることによって。
A)ハンナにとって不妊は、妻としての道が閉ざされたことになる。
ユダヤ社会においては、子を産めない妻は妻としての役割が果たせていないとみなされ、夫に仕えることができても、神の祝福である胎の実が結ばれなければ、そこには神の祝福がないとみなされてしまいました。子孫を残すということが妻の重要な存在の意味だったので、子どもができないというのは、妻としての立場がないということです。存在の意味がなくなるわけです。どんなに夫に愛されても、妻としての役割は空しいものだという悲しみを、ハンナは味わうことになりました。でもそれは自分で閉ざしたものではなく、神が閉ざされたのです。私たちの人生においても、人の努力ではどうすることもできない境遇に置かれることがあります。たとえば、育った環境は自分では選ぶことができません。災難に遭ったり、道が閉ざされた状況に追い込まれてしまうこともあります。
B)ペニンナからの差別といじめを受ける。
本来は、自分が妻としてエルカナの全ての愛と信頼を受け、子どもを産んで妻としての生活を味わうはずだったのに、主が胎を閉ざされたので、別の女性が愛する夫の子を産むという羽目になってしまいました。自分の立場が揺さぶられ、子どものできたペニンナから見下されるという苦しみを負わなければなりませんでした。私たちの人生においても、自分ではどうすることもできない状況に追い込まれて、それでもイエス様を信じているという信仰告白が仇になって、未信者から「あなたはキリストを信じているのに、なぜ道が閉ざされるようになったのですか。信じていなくても一緒ではありませんか。」と言われることもあり得ます。クリスチャンになったから災いに遭わないで順調にいくのではありません。閉ざされる時もやってくるということを知らなければなりません。
C)祭司エリから、よこしまな女のように見られる。
不妊は罪の結果と見なされ、周りから誤解される状況にハンナは置かれていました。祭司エリは、悩み苦しみ祈っているハンナを見て、酒に酔っていると誤解しました。主によって道が閉ざされている状態は、罪のゆえであると決めつけられ、不信仰な者と見られてしまいます。クリスチャンは罪から解放されているはずなのに、災いに遭うことがあります。何か隠された罪があるのではないかと誤解を受ける状況で、 ハンナは苦しみを受けました。
これらは全部、主が胎を閉ざしたというところから起こってきた苦しみです。その苦しみはどんなものだったでしょう。
2.ハンナの心境
A)心が傷んでいた。
B)主の前に激しく泣いた。
C)誓願を立てるほどに追い込まれていた。
心が傷むとは、衣類や食物が傷むという状況から想像してください。使い物にならない不健全な状態です。その傷みは主の前に激しく泣くほどでした。それは声にならないほどに激しい傷みだったのです。それは誓願を立てるほどの傷みでした。人が神に誓いを立てて願い事をするとは、命を懸けるということです。そこまで追い込まれていたのです。誰が自らこのような状況になろうとするでしょうか。
ハンナはなぜ主が胎を閉ざされたのかわかりませんでした。だから誓願を立てたのです。最初に産まれる子どもはあなたのものとして捧げますと。それはナジル人として聖別された人生を送るというものです。二人目が生まれるかわからないのに、一人目をささげたのです。それはハンナの、神に対する敬虔な姿勢、神に希望を持った姿勢です。神の前にへりくだれない人は、神に希望を持つことはできません。だから別の方法で自分で成し遂げてしまいます。エルカナは自分の方法で子孫をもうけてしまったので、ハンナを苦しめてしまったのです。そんな中でも、神様はハンナを苦しめられました。本当は慰められるべきなのに、余計苦しめられました。しかしそれはハンナが主を知るというすばらしい体験をするためでした。そのためには選ぶことができる三つの決断があります。
3.ハンナが選ぶことのできた三つの決断
A)道が閉ざされていることをうらみ、不信仰になり、不敬虔な道を選ぶ。
B)閉ざされていることで希望を失い、他のものでまぎらわせてしまう。
C)開くことのできる方は主なる神だけだと信頼して、願い求める。
ハンナはC)を選びました。彼女は心砕いて、愚痴不平ではなく、神が閉ざされたなら、神しか開くことができないと考えたのです。これが健全な神への信頼姿勢です。神が閉ざしたらもうあきらめましょう、ではないのです。本当に神を尊んでへりくだっているなら、閉ざされた理由はわからなくても、開く方は主しかないと考えるのです。私たちは正しく神様を理解することが大切です。神様が閉ざしたものは開けてもらえないよ、という否定的、悲観的な神への信仰を持っている人は、閉ざされた状態で過ごし、欲求不満で誘惑に弱くなり、別のものでそれを満たそうとするのです。私の神の前における運命はもうこれなんだ、という考え方をもつのは、長くクリスチャン生活を送っている人に多いB)の決断の人です。A)は心底神様を敬うことができていない高慢な、見せかけのへりくだった人で、神が閉ざされたということに不平を言うのです。神の前にへりくだった姿勢の呟きではなく、不信仰な恨み言を言ってしまうのは、本当の意味で敬虔な神への信仰を持っていなかったということです。
主が閉ざされたのならば、理由がわかろうとわかるまいと、それを受け入れなければなりません。傲慢な人は恨み言、愚痴不平を言って、神に従おうとしません。不敬虔になり、神に喜ばれないものを選んでいきます。この世のものでそれを満たすという、一番悪い決断です。ハンナはA、Bも選ぶことができたはずですが、C)の本当の敬虔さを身に付けて、神の前に祈りました。なぜそこまでできたのでしょう。この心の傷みによって誓願を立てるほど追い込まれていたからこそ、彼女の傲慢さ、見えなかった不敬虔が砕かれて、悩み苦しみの果てに「主が閉ざされたのなら、主しか開けることはできない」と悟ったのです。「天地を造られた神が閉めたものを、他の神がどうして開くことができようか」これは悩み苦しみ嘆いた結論として、彼女が出した答えです。理由がわからなくても、閉ざしたものを開けることができる鍵を持ち、権威を持っておられるお方は主しかいないのです。だから主に誓願を立ててまで誓いました。どんな結果が与えられたでしょう。
4.主を畏れることを選んだ結果(詩篇25:12)
「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」
私たちは苦しみや問題を通らなかったなら、自分の考えや欲望を満たす道を選んでしまいやすい、まだまだ不敬虔で自己中心な者であることを忘れていませんか。楽をすると怠けてしまう愚かさがあり、苦しむことは損であると勘違いしているクリスチャンが多いのではないでしょうか。この経済資本主義社会は、豊かさと楽をすることが祝福されていることであると洗脳しています。しかし真理は違います。罪人である私たちが物質的に恵まれ、楽をすると、絶対まともな道には行かないことを神はご存じです。本当に主を知るということが、どれほど大切であるかを気づくように、神はあなたの道をハンナのように、あなたが理解しようと理解すまいと閉ざされることがあります。どんなに努力しても開かれないことがあります。なぜでしょう。
神様の願いは、胎の実を結ぶということによってハンナが「神の名」を知ることであったのです。すなわち主を知ることです。そこに神様の目的があります。なぜハンナは「サムエル」と名付けたのでしょう。サムエル=「神の名」名前とはその人がどういう人かを表現するものです。ハンナは、自分の信じている神は閉ざされる神でもあるが、開かれる神であるということを悟ったので、神の名は偉大であるという意味で、サムエルと名付けたのだと思います。その証として第1サムエル記2章には「主のように聖なる方はありません。…(2節)」と祈っています。単に不妊が癒されただけでなく、主はなんと偉大な方かを直接的、人格的に触れることができたのです。ハンナは主を知ったのです。
私たちも問題が解決された、癒された、と結果ばかり見て、それをしてくださった神様はどんな方かを知らなければ、神への感謝がだんだん薄れていきます。しかし主を知るならば、いつまでも感謝は薄れません。あなたは受けた永遠の命の恵みをどのような形で感謝しているでしょうか。恩返しのつもりで主を畏れて悪から離れるべきではないでしょうか。ハンナは本当にへりくだっていました。へりくだるほど悩んだのでしょう。そして主は、ハンナをエルカナの妻としてあるべき姿に回復してくださいました。エルカナはハンナの子どもを跡取りにしたと思います。この後のことは書いてありませんが、エルカナの罪のためにペニンナは不幸な目に遭ったことでしょう。私たちも赦されていると思っていろんなことに手を出してしまうような愚かさがありますが、「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません(第1コリント人への手紙6:12)」とパウロは注意しています。あなたが本当に主を知っているなら、愚かなことはしないと思います。知らないから愚かなことをするのです。知らなければ、主はご自身を示そうとあなたの道を閉ざし、行くべき道を開かれます。「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」とあります。私たちの神は閉ざす神でもあり、開かれる神でもあられます。主の前に敬虔な心をもって自分の人生をしっかりと歩んでまいりましょう。
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