■2006年12月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   管鮑之交 かんぽうのまじわり  up 2006.12.31


中国春秋時代、若い時から非常に仲が良く、終生変わることなく親交を続けた管仲[かんちゅう]と鮑叔[ほうしゅく]の関係から、互いに相手を理解しあったかたい交際のことを言う。


また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。
(エゼキエル20:20) 


 

 

 来年は「正しい良心をもって主を知る」がモットーです。またモットーのみことばがエゼキエル書20:20です。
 「人を知る」と言う時、知っている程度によって関わり方が違ってきます。主に対しても、主を知り、理解した程度に応じて、関係が生まれてきます。主と深い交わりをすれば、良い実が結ばれてくるのは当然です。
 「わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。」と言われている限り、求める者は主を知ることができる状態にあるということです。しかし、知るためのものは用意されていても、受け取ろうとも理解しようともしていない私たちの信仰生活の状況があったかもしれません。毎年毎年主を知っていくべきなのに、留まっていないでしょうか。イエス様の似姿に変えられる結果が見えてこない、肉との戦いにこれ以上勝利できない等々、これらの限界の理由は、罪だけでなく、罪を打ち破る力がない、すなわち主を知り、主との絆を強める程度が留まっているためです。そして信仰の成長も留まってしまっており、同じことの繰り返しをしているのではないでしょうか。明日からの一年、今まで以上に気づかなかった主を知っていこうと受け止めていただきたいと思います。私たちの信仰の理念は「神の前に正しい良心を備えた信仰」であり、「正しい良心」を失うと、神への信仰は聖さが失われ、疑われるようなものになります。この一年、様々なできごとを通して、主がどのような方かを知っていきましょう。
「管鮑之交」
 中国の故事からとられた言葉で、当時中国の戦国時代と言われ、管仲という人は斉という国の大政治家でした。彼はとても貧しい家に生まれ育ち、幼友達の「鮑叔」は彼をよく知っていました。管仲がまわりよりも多く利益率を取り、儲けに囚われ周りから非難された時、彼の生い立ちを知る鮑叔は一言も非難しませんでした。また戦場から一番先に逃げ帰る管仲が批判を浴びても、年老いた母親のためだと鮑叔は知っていました。生涯鮑叔は管仲をよく理解し、最後には出世した鮑叔が皇帝に良い人材として管仲を紹介したという物語です。
 私たちはまず神様との間に「管鮑之交」という関係を築いているでしょうか。「祈りに応えてくれないと全然信じない」というような交わりでしょうか。これは神様とだけでなく、兄姉とも同じです。キリストを信じる、神を畏れる者同士にあるにも関わらず、互いに疑いを持ち、非難し合ったり、嫉妬・妬みをもって悪い態度を取ったりする状況があるなら、神はそれを願っておられません。イエス・キリストの血潮によって生まれた神の家族が、互いの間に溝を作っているのか…。「互いに愛し合いなさい」の意味は「管鮑之交」にあります。相手を理解してあげなければ、人を赦せません。それも深い洞察力が要ります。神は深い洞察力をもって私たちを深く理解してくださったから、私たちを赦してくださったのです。
 罪人は罪を犯さずにいられない、罪の虜だとご存じなのです。罪に対して抵抗できない弱い者であったのに、救い主イエス・キリストを受け入れた者はキリストがよみがえられたように、その罪と戦って勝利することができる救いを得ました。この肉体を持っている限りは罪との戦いは続きます。しかし罪に対して負け続けることはクリスチャンにはあり得ません。私たちの内によみがえられた主のいのちがあるからです。このいのちは罪によって滅ぼされてしまうようなものではありません。
 しかし私たちはこれを理解していないので、勝利できるいのちがありながら敗北してしまっているのです。
 私たちはどれだけ主を理解しているでしょうか。理解が深まるほど信頼も深まります(人間関係も同じです)。様々な人間関係の中で、互いの立場をしっかりと深く理解しあうことによって、私たちは慰め、励まし、時には注意さえできるのです。神様は私たちをお造りになった方ですから、私たちを完全に理解しておられます。しかし私たちは造り主への理解が不十分です。その差があり過ぎて、神様に対して不信仰に投げやり、あきらめることがあるのです。主を知ったなら「主なる神はすばらしい方だ」と人生が変わっていきます。「管鮑之交」が主との間に、また私たち互いの間に確立するよう、主を理解することと一緒に求めていきましょう。

●1/1(月)4(木)「聖書の証言」
『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』(ヨハネの福音書5:39)
 見えない神を理解する手がかりとして、見えない神が人となられたイエス・キリストを理解していくことが必要です。そのイエス・キリストは、聖書を通して証言されています。聖書をたくさん読んだら理解できるという量的な問題ではなく、しっかり読んでどのようにイエス様を理解したかが大切です。「しっかり読む」とは神はご自身をその箇所で私たちがどう理解するように願っておられるかを読んでいくことです。聖書はキリストを理解するための書物ですから、その目的に沿った読み方なら、例え少量でも信仰生活の大きな支えとなっていきます。
(例)創世記6〜9章には神とノアの出来事が書かれています。ノアは私たちの立場であり、じっくり読むと神様はどんなお方かが心に啓示されてきます。「水で滅ぼさない」約束のしるしに、虹という人々が印象的な忘れにくいものを用いられました。神様とノアの関係をゆっくり味わって読むことにより、神様がどんな方かをぜひ探し当ててください。

●1/2(火)5(金)「被造物をとおして」
『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(ローマ人への手紙1:20)
 神がどのような方かを知るためには、造られたすべてのものをじっくり見ることです。その中にはっきりと認められるほど現されているというのです。本物と変わらないような造花もありますが、しかし生花には生きた色があります。通り過ごしそうな草花に少し目を留めてみると、言葉に言い表せない美しさがあります。芸術家も言いますが、美の極みは神様です。芸術家は最後は神に至り、最も美しいものは神に最も近いものと考えます。音楽家も神からの啓示の音作りを最終的に求めています。
 神がお造りになったものをじっと見つめる中で、私たち自身をもじっくり見つめるとそこに神のすばらしさを理解することができます。それは肉体の機能ではなく内面のすばらしさです。複雑な心の動きは神に似せて造られており、人格も神に似せて造られました。ただ一つ違うのは罪を宿していることで、この罪が神に似せて造られた心の動きを狂わせているのです。だから正しい良心をしっかり意識しないと罪の方の思いを感じてしまい、正しく反応できなくなってしまいます。「正しい良心で物事を考える」とは神を畏れる心であり、神に似せて造られた私たちの機能を正常に働かせることができます。しかし欲望によって物事を考えると、その機能は狂ってしまいます。皆さんもしっかり見つけ出してください。

●1/3(水)6(土)「御霊によって」
『わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。』(ヨハネの福音書16:26)
 これは体験的なことなので、理論的に説明するのは難しいです。体験は一人一人に違いがあります。ただ言えることは「求めることを通して真理の御霊なる聖霊様を内に迎えることができる」ということです。クリスチャン生活の様々な迷い、不安定さ、古き人との関係等、いろいろな問題があっても、安定した神の子としての信仰生活は、聖霊に満たされて初めて確立します。
 聖霊に満たされると様々な問題解決を教えられます。聖霊のバプテスマを受けて御霊が内に住んでくださることは最大の解決方法です。メッセージのポイントが伝わったら、聖霊様はそのポイントを通してみことばを深く悟らせてくださいます。
 この御霊によって神を理解することが最優先して求めていくべき主を知る近道だと思います。御霊に満たされて聖書を読み、被造物を見ていくなら、もっと早く神様を理解できるでしょう。そうすると、どのように神様に接していけば良いか、自然にわかってきます。
 本当に御霊によって主を知っているならば、すばらしい人間関係が生まれます。愚痴、不平を人に言う必要もありません。人に言わないとすっきりしないというのは、父なる神を知っていないからです。人は自分の痛みを他のものにぶつけて和らげることができます。あなたの代わりに鞭打たれたキリストは、すでにあなたの暴言や感情を二千年前に受けておられます。人でなく、イエス様に言うのです。イエス様があなたの鞭を受けてくださり、イエス様の痛み苦しみを通してあなたは癒されるのです。癒されないのは、あなたが鞭打つイエス様がどういう方かを知らないからです。イエス様がどういう方かを知ると、本人に復讐するよりイエス様を鞭打つ方が早く癒されることを体験するようになります。イエス様は鞭打つあなたに罪を犯させないように、復讐する相手も傷を受けないように、どちらも愛してご自分がその損失を受けられました。身代わりの誠実さ、愛が分かれば分かるほど早く元気になります。聖霊様の臨在の中で、どうすることもできない心の思いを御霊によって祈っていくと「癒されていく」実感がやってきます。来年こそは「御霊に満たされる」すばらしさを味わってほしいと思います。
 この一年は、自分も含めて、人に頼らない、御霊に頼った信仰生活だったでしょうか。これは頭で理解するようなものではありません。御霊に満たされることはあなた自身が主に求めていくことです。たとえば、水差しの水のおいしさは、どんなに説明してもあなたのその舌で味わわなければ理解はできないで章。経験していないことは、いくら話をしても理解してもらえません。「正しい良心をもって主を知る」ために皆さんに一番していただきたいことは、「いかに御霊に満たされるか」これが結論です。
 相手を理解すれば赦すこともできるようになります。鮑叔は管仲をよく理解していたので、人が腹を立てる状況でも管仲を受け止め、赦し、寛容を示しました。自分のことしか考えず、神様を理解していないと、すぐ不信仰になります。
 どうぞ新しい年の始まりとして主と私たちとの関係、そして主を信じる私たち互いの関係が「管鮑之交」ダビデとヨナタンのような固い友情、友のために命を捨てられるような兄姉の強い絆の交わりとなるためにまず主を知りましょう。まず主を理解しましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年12月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   鶏群一鶴 けいぐんのいっかく  up 2006.12.24


多くの鶏の中に交じっている一羽の鶴の意から、多くの凡人の中に、一人のすぐれた人物が交じっていることのたとえ


イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
(マタイ1:18〜20) 


 

 

 この四字熟語は、大勢のごく普通の人の中に、一人の優れた人物がいるという意味で使われますが、今日はこの凡人と言われる「鶏群」という言葉を、「不敬虔な人々」と捉えていきたいと思います。鶏はあまり賢くない動物とされています。人間の賢さとは、能力ではありません。心の賢さです。しかしこの経済社会では、心の賢さよりも能力の賢さが重んじられるようになってしまいました。能力があれば、儲けるという欲を満たせるからです。しかし、心の賢い人は、欲に囚われない人です。賢い人は、欲に対して自制心を働かせることができる人です。鶴は鳥の中でも賢い鳥です。鶴は一夫一婦制で、一度つがいになると、どちらかの命が尽きるまでは、生涯決して他の鳥とはつがいになりません。愚かな鶏と賢い鶴から、不敬虔な人と敬虔な人と捉えて、マタイ1章のイエス様のご降誕のみことばから見ていきましょう。
 ユダヤ人たちは規則を守るということに対して、非常に厳しい道徳心を持っていました。そんな社会の中で、処女マリヤが妊娠したのです。それも婚約者のいる乙女が、(一般的には)相手のわからぬ子をみごもったのです。これは最悪の状況でした。ユダヤの社会では、ヨセフはマリヤを訴えることもできました。モーセの律法によると、石打ちの刑(死刑)に値するものです。しかしヨセフは正しい人でした。マリヤは神を畏れる正しい女性であると知って結婚を決意したはずです。その彼女が妊娠してしまったのは何かわけがあるに違いないと、あわれみの心によってモーセの律法の死刑から救いたいと思ったのです。これが正しい人です。すると夢の中でヨセフは、この出来事は人によってではなく、神様の預言の成就であって、救い主がお生まれになるしるしなんだということを、天使から啓示されます。そしてこれは神の御心だと確信してマリヤを娶りました。ではなぜヨセフが選ばれたのでしょうか。
 『多くの不敬虔な人々に交じって、ひとりの敬虔な人がいるという日本の道徳環境ではないでしょうか。敬虔な人々の救いのためにイエス・キリストがお生まれになったのです。』
 その不敬虔な人々によって、どれほどキリスト教の歴史が歪められ、キリストの神聖な愛を汚してきたでしょう。クリスチャンがいつも正しいとは限らないのです。クリスチャンと呼ばれるか否かに関わらず、大切なことは何でしょうか。それは敬虔さであることを、このヨセフという人を通して知っていただきたいと思います。

1.ダビデの子ヨセフ(第1列王記2:4)
 「そうすれば、主は私について語られた約束を果たしてくださろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実をもってわたしの前を歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が絶たれない。』」
<ヨセフが選ばれた理由は、ダビデの子孫であったことです。多くの子孫の中からヨセフが選ばれたのは、自分の道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実をもって神の前に歩んだ、本当の意味でのダビデの子孫だったからです。>
 ヨセフからダビデまでは27代も前です。しかしダビデの子と呼ばれた理由は何でしょうか。(第1列王記2:4)このみことばはダビデが老人になって、遺言として次の王となる息子ソロモンに残した言葉です。
 『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実を持ってわたしの前を歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が絶たれない。』と約束してくださっています。
 ダビデの子と言われる理由は、ダビデのように歩んだ人ということであって、ダビデの血筋だというだけではないのです。子どもとは、血を受け継ぐ者ですが、聖書では血はいのちであるとあります。いのちとは、その人の生き方、人格をも含んでいます。単なる肉体的いのちではありません。
 この全ての人間のいのちは、同じ重さ、価値があります。この尊いいのちをどのように生きるかが大切です。汚されたり、尊く用いられたりします。ダビデは、このいのちを生かした人生を歩んだ人です。だからダビデのように歩む子孫は、ダビデの王座を受け継ぐと約束されたのです。これは敬虔な人生を歩むということです。「彼らの道を守り」とは、自分の分をわきまえるという意味です。自分の与えられている分を守り、人のことをとやかく言い過ぎないようにしましょう。相手の心の領土に入り込むことのないようにしましょう。それができるのは神様だけです。もう一つの大切なポイントは、「心を尽くし、精神を尽くして、神の前を歩む」ということです。これは敬虔な心をもって人生を送るということです。敬虔さとはどういう心でしょうか。それは神を尊ぶ心です。尊敬が心に生まれなければ、心を尽くして仕えることはできません。女性の本当の美しさは、外面的なものではなく、心の美しさ、聖さを求める心です。男性の本当の強さは、人格的強さです。それは罪を認め、悔い改める勇気を持った人で尊敬されるべき男性です。悪い所を露わにするということが本当の強さです。
 ダビデは神の前に敬虔な心をもって、王としての務めを果たしました。ヨセフは王様ではありませんでしたが、自分の分をわきまえておりました。ダビデ王の血統なんだぞと自慢するのではなく、大工として働いていました。神が与えてくださった自分の人生を感謝して受け止め、自分の道を守り行っていた、正しい人でした。だから神はヨセフを「ダビデの子」と言っても決してダビデを汚すことがない子孫であるとお認めになって、イエス様が生まれるための夫婦に選ばれました。ダビデの子孫は何千何万といました。その中から一人選ばれたのです。「鶏群一鶴」です。その一鶴としてなぜヨセフが選ばれたのでしょう。ダビデのように敬虔だったからです。あなたもダビデの子と呼ばれることができる、ダビデの心を受け継いだ、ダビデの子孫となることができるのです。そのような人は、ヨセフのように神様の預言を成就していく器としての人生を歩むことができるのです。

2.人の本分は敬虔さ(伝道者の書3:14)
 「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」
 この伝道者の書はダビデの後継ぎソロモン王が書いたと言われています。神様はダビデのゆえに、ソロモンをも祝福されました。ソロモンはダビデのように戦士ではありませんでしたが、神様の祝福によって、回りの国々はイスラエルを恐れて戦争を仕掛けず、むしろ尊敬して貢ぎ物を持って来ました。そしてこのソロモンは神様からのすごい知恵をいただいて、世界中からいろいろな知恵ある人々がソロモンの知恵を聞きにきたほどでした。知恵があり、権威があり、お金もあって、ソロモンは人生とはいかなるものかということを、持っている地位とお金と立場全部を生かし、追求して最後に悟ったのがこれです。「神のなさることはみな永遠に変わらない」神様がなさること、決められたことは人には変えることができない。自分は力の小さい者なのだということを悟ったのです。
 そこで彼の出した結論は「人は神を恐れなければならない」ということです。これは、敬い尊ぶという恐れです。敬虔な心です。「人は神を畏れ、敬うように定められた。」と訳すこともできることばです。人は神を敬うことが本分、すなわち、人間らしさなのです。あなたがあなたらしく生きるとは、神を敬う心があってこそ初めて、あなたらしく生きることができるのです。あなたの本当の美しさ、麗しさが出てくるのです。不敬虔な人は、警察に見つからなければ大丈夫だと思います。しかし敬虔な人は、警察に見つかろうが見つかるまいが、ルールはルールとして神を畏れてルールに従っていくのです。そこに初めてその人の良さが出てくるのです。敬虔な心が土台となって、私たちは自分らしさを表すことができるのだということを、この伝道者は悟ったのです。ダビデはすでにそれを理解して神の前に歩んでいました。だから「ダビデの子○○」というふうな呼び方をするようになったのです。血のつながりがなくても、尊敬している人の子と呼ばれることは、非常にうれしいことです。ましてや私たちは、神の子と呼んでくださるようになったのです。なぜそのように呼ばれるようになったのでしょう。

A)イエス・キリストの存在によって敬虔さに目覚める(ヘブル人への手紙9:14)
 「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
 傷のないご自身とは、罪も汚れもない人生を歩まれたということです。神に似せて造られた私たちを神は惜しんでくださり、罪の裁きで滅ぼすのではなく何とか救いたい、罪を赦して生かしたいと、十字架による罪の贖いをお考えになりました。惜しまれるとは、愛している、大切なもの、捨てたくないという意味です。
 神様の目からご覧になると、こんなに未熟でわがままで不敬虔な私たちだけれど、一つだけ捨てたくないというものがあったのです。それは他の動物には持てない心、神を敬う心です。それは人格のある者しか持てない心です。敬虔な心を持てるのは人間だけなのです。いろんな罪を犯し、わがままで自己中心だけれど、その敬虔な心を目覚めさせるならば、その神に似せて造られた人間は生かされる、もったいないと思われ、だから早く目覚めてほしいと、創造主がおられるということのしるしとして、聖書に書いてある預言通りに、歴史の中でイエス・キリストをこの地上にお遣わしになりました。それは単にこうういう人物が生まれるという預言ではなく、救い主のこの地上における役割と行動とするべき内容が事細かに預言され、絶対にこの方しか神が遣わした救い主はいないという証しをして、キリストが生まれる前に預言として記されているのです。これはすごいことです。そのことの故に、私たちは神を畏れることに目覚めなければなりません。それは裁かれないためではなく、尊敬するという目覚めが必要です。愛する者のために神が人となってこの地上に来られ、人々の罪のために身代わりに自分が裁きをお受けになった神様は、この神様しかいないというのが聖書の神様です。人間となって私たちと同じように生まれ出て来られ、父母に仕えることも、社会のルールを守ることも全部体験され、いじめられ、非難され、私たちと同じ人生の様々な経験をされ、そこまでして私たちを知りたい、苦しみを分かち合いたいと思われたお方。そして最後は私たちの尻ぬぐいをしてくださった方。こんな親がいたら、子どもが親を尊敬しないわけがありません。日曜に私たちが教会に行くのは、こんなすばらしい、私たちを愛してくださるお方の所に来て休みたいと思うからです。みことばを聞いて心洗われ、安心して自分を出すことができ、自分を取り戻せる場所です。キリストがご自分を私たちのためにお捧げになったいのちは、私たちの良心をきよめてくださるのです。
 あるぐうたらな息子が、万引きや暴力事件で警察に捕まりました。そのお父さんは意地っ張りな、ワンマンなお父さんでした。息子はそれに反抗し、歪んでしまって警察に捕まってしまい、お父さんが呼び出されました。彼は、父親は暴君で、自分のことなど何にも心配していないだろうと思って見ていました。するとお父さんは、警官の前で土下座をし、「この息子の悪はわたしの責任です。」と平謝りしたそうです。それを見た息子は唖然とし、ここまで自分のことを思ってくれていたのかと、その時初めてわかったそうです。彼の歪みかけていた心、死んでいた良心は、自分のプライドや恥を捨ててそこまで謝ってくれ、愛してくれた親を見て目覚めたのです。本当はこんなに自分のことを心配してくれていたんだ、と思った彼は、それからまともな生活に変わり、お父さんを尊敬するようになったそうです。人はどれだけ自分を大切にしてくれているのかがわかると、良心が目覚めてくるものなのです。神様はそれを自らお手本として十字架でその愛を表してくださいました。この十字架をもう一度、深く考えてみてはいかがでしょうか。

B)敬虔に歩み続ける(ヘブル人への手紙5:7)
 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔さのゆえに聞き入れられました。」
 敬虔さに目覚めただけでなく、歩み続けることが大切です。イエス様は人間の弱さを身をもって体験してくださいました。神様は強い方なのに弱さを感じられたのです。そこまでして私たちを助けに来る神様がおられるのです。そのような神様が他におられるでしょうか。敬虔に歩み続けるということがいかに大切なことかおわかりでしょうか。それはあなたを美しくし、多くの人々から尊ばれる者になり、お金にかえがたい栄誉と祝福を受けることができるのです。全ての人に関係のあるイエス・キリストの御降誕が実現しました。あなたが人として敬虔な心に目覚めるために、神の愛が示された出来事が、イエス・キリストの御降誕と十字架に至る彼の生涯です。どうぞ、敬虔な心に対して、この世が思っているような価値のないもののように捉えないでください。鶏群の一鶴として、あなたらしく歩んでください。「みにくいアヒルの子」の物語を思い出してください。白鳥はアヒルのように生き続けることはできません。しかし自分に気づくまではアヒルだと思いこんでいました。不敬虔な世の中で生きていると、これが当たり前だと思いこんで生きてしまいます。しかしそれは的外れの人生です。
 あなたは神に似せて造られた神の子です。鶏群の一鶴です。そのことを示してくださったのがイエス様の生涯であると思います。

 

 

 

 

 

 
■2006年12月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   誠心誠意 せいしんせいい  up 2006.12.17


まごころをもって、ものごとをするようす。


さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
(ルカ2:8〜10) 


 

 

「誠心誠意」とは、自己犠牲をもってまごころを尽くす、という意味です。クリスチャンは神の子としての新しい人を「誠心誠意」歩んでいただきたいと思い、この四字熟語を挙げました。
12月に入り、イエス様の御降誕に関係する人物を通して、「敬虔さ」についてお話ししています。
今日は、救い主がお生まれになったという良き知らせを、神ご自身が一番に知らされたのは荒野にいた羊飼いたちにであった、ということから、(羊飼いに知らされたわけ)についてお話しさせていただきたいと思います。

●12/18(月)21(木)「羊飼いに知らされたわけ」(1)
『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(詩篇23:1〜2)』
なぜ神は夜番をしていた羊飼いたちに、このすばらしいできごとを一番最初に教えられたのでしょう。
それは、主ご自身が羊飼いであられるので、同僚である羊飼いたちに伝えられたということです。この当時はローマ帝国の時代で、工業や経済が発展し、羊飼いは身分が低く、卑しい職業となっていました。しかし、イスラエルの人々はアブラハムの時から羊を飼う遊牧民であり、家族が支えられるには羊飼いという職は制止に関わるものでした。
そのような羊飼いという職の尊さを神様はご存じであったわけです。
そこで皆さんに黙想していただきたいのは、主はどのようなお気持ちで羊飼いたちにこの良き知らせを告げられたのかということです。
同僚ということから想像していただいたら良いと思います。主は羊飼いだから、羊飼いの仕事の難しさをご存じです。羊飼いたちは草を求めて、羊の群を導いて行かなければなりません。寒く、不安な夜に、野宿をして夜番をするということは、精神的にも肉体的にも大変な労苦です。
wたしたちはうれしいできごと、喜ばしいできごとを誰に最初に知らせたいでしょうか。同じ釜の飯を食べるという言葉がありますが、私たちは同じ苦労を経験した者同士で、うれしいできごとを喜び合うということは、苦労の報いとなり、励ましになると思います。そういう意味で神様は同じ労苦を共にする羊飼いに、喜びの知らせを一番最初に告げられたのです。
もう一つは、羊飼いはいつも羊に目を向けています。いつも目を向けていないと、どこで迷子になるかわかりません。特に生まれたての羊は小さいので、すぐに見失ってしまうかもしれません。それと同じように、私たちの羊飼いであられる神様も、私たちにいつも目を注いでくださっています。
神様は羊飼いにいつも目を向けて守っていることの証しとして、彼らに一番最初に良き知らせを告げられたのです。それくらい、羊飼いに対して、主は心を向けておられるということです。関心を持っておられるのです。羊飼いとしての主を私たちはしっかりと理解しておくことが必要です。皆さんの中にも羊飼いという立場にある方がおられるのではないでしょうか。部下や子どもを持たれている方は特に、人を養い育てるという大切な立場にあります。
主の羊飼いとしてのお気持ちを理解することができるのではないでしょうか。そうしたら、私たちはどのように主に対しての態度を取るべきであるかも自然にわかってきますね。神様は私たちに目を向けて、この良き知らせを日本においても悟らせてくださり、すばらしい緑の牧場においてくださっています。そのことに感謝をすることのできるクリスチャンであって欲しいと思います。

●12/19(火)22(金)「羊飼いに知らされたわけ」(2)
『わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。(ヨハネの福音書10:11〜13)』
羊飼いは羊の命を大切にします。だから神も羊飼いを大切にされて、喜ばしい知らせを一番先に彼らにお知らせに鳴りました。羊飼いは羊のために一生懸命です。良い羊飼いは羊のために命を捨てるほどに、羊に対する思いがあるということです。
そのような心を持った羊飼いたちに、神はこの良き知らせを告げられたのです。神も良い羊飼いとして、私たち羊のためにいのちを捨てるという覚悟を持っておられたので、羊飼いたちにこのことを知らせられたのです。羊飼いたちはそのことに気がついていないかもしれないけれど、知らせた神様の気持ちはそうなのです。
羊飼いとして「誠心誠意」羊たちに接して、自分の命と同じように羊の命を大切にする、彼らの心に、神は心を動かされていたはずです。羊飼いはあちこちに大勢いたはずです。しかし、知らされた羊飼いは一部でした。その選ばれた羊飼いたちは、羊のために命を捨てることのできる羊飼いたちだったと思います。このような羊飼いの羊への思いを考えてみましょう。
まず、羊との一体感がなければ、羊のために命を捨てることはできませんね。自分の命と同じように羊の命を大切なものとする価値観が、羊と羊飼いの一体感であり、羊のために命を捨てるという現れとなります。
ということは、神は私たちをどれほど愛してくださっているかということを、ここで考えることが必要です。どうして神が人となってこの地上に来られ、私たちの罪のために十字架にかかり、いのちをお捨てになることができたのか?
イエス様はご自分で「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10:11)」と言われました。「捨てるかもしれない」ではなくて、捨てることを決めておられたのです。そのような私たちに対する気持ちは、どんなお気持ちなのでしょうか。そのイエス様のお気持ちを、あなたはこのクリスマスを通してどこまで心の内に再現することができるでしょう。
良い羊飼いは羊のために命を捨てるということが理解できなくては、クリスマスを祝うことなどできませんね。私のためにいのちを捨てることのおできになった神は、どのような気持ちを私たちに持っておられるのでしょうか。
『一体』なのです。ご自分と同じと見ておられるということです。
だから感謝なのです。だからクリスマスをお祭りとしてお祝いすることができるのです。私たちは単にキリスト教がしているからではなく、本当に自分たちがキリストの誕生を喜んでいるという、心の表現として、クリスマスの催しをするのです。
さらに、命を捨てることができるとは、相手がなくてはならない存在ということです。自分だけ生きていてもダメだというわけです。羊は羊飼いがいなくては生きていけない存在ですが、羊飼いにとっても、羊がいなくては意味のない存在となります。だから、羊飼いは羊の存在を自分と同じように感じています。
イエス様が私たちのためにいのちを捨ててくださったということは、神様おひとりでこの宇宙にいても何の意味もないということです。神様は私たちがいるから、神様であられるのです。神様は私たちの存在をそのように見てくださっているということを忘れてはなりません。だから私たちは自分の価値を自分でああだこうだと評価してはいけません。なぜならあなたが自分の存在を軽く見るということは、あなたのためにいのちをお捨てになったイエス・キリスト、神ご自身のいのちを軽く見ることになるからです。それは大変なことです。神がいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださっているのに、どうして自分をダメだと言えるでしょう。
そんなことのために神はいのちを捨ててくださったのではありません。こんな私のために神は十字架にかかり、いのちを捨ててくださったという事実をしっかりと受け止めて、信頼して、感謝して参りましょう。

●12/20(水)23(土)「羊飼いに知らされたわけ」(3)
『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ人への手紙2:6〜7)』
イエス様は十字架の上で砕かれたと、多くのメッセージで語られます。
確かにその通りです。鞭打たれ、十字架に釘付けにされ、ののしられ、つばきをかけられ、精神的にも肉体的にも、本当に砕かれました。
でももっと砕かれたのは、イエス様はしもべの姿、人間の姿、卑しい肉体を持ってこの地上に来られたという、このことです。
羊飼いは羊の目線に自分を置きます。羊の目は近眼なので、目先のことしか見えません。そのような羊の目線にいつも心を置いて、自分を低くして、羊がどういう反応をするかを常に考えながら導くのが羊飼いです。羊飼いという上からの立場やプライドを持っていては、羊を育てることはできないし、緑の牧場に導き、憩わせることはできません。神様は天の御座から私たちを救われたのではなく、私たちの世界に降りてこられました。なぜそんなに苦しむのか、なぜそんなに罪に対して弱いのかを、全部肉体という姿を通してご自分で体験され、そしてその罪から解放され、勝利することができるように、救いを準備してくださったわけであります。
自ら砕いて私たちを養い育ててくださる私たちの羊飼いであられるイエス様、この方がお生まれになった証しとして、クリスマスは全世界で祝われています。私たちは普通の日でもイエス様がこの地上に来てくださったおかげで、今の自分があるのだという感謝を忘れてはならないのですが、特にこの時期、私たちが日頃思っている神様への感謝と、救い主が現れてくださった喜びを社会に対して発信するのが、世界中のクリスマスの催しであるわけです。
皆さんはどのようにクリスマスを捉えていらっしゃるでしょうか?
羊飼いの敬虔さ、それは愛する者のために自分を砕くという敬虔さです。羊飼いたちに知らされたわけはそこにあると思います。私たちも愛する神様のために自分を自ら砕いてまいりましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年12月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   温良恭倹 おんりょうきょうけん  up 2006.12.10


性質が温和で素直であり、相手を敬い、おごらずつつましくするようす。


ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。
(ルカ1:5〜6) 


 

 

 今、イエス様のご降誕の出来事を通してシリーズで学んでいます。先週はシメオンでしたが、今週は祭司ザカリヤとエリザベツから学びます。この夫婦のことを「温良恭倹」ということばで表してみました。この敬虔なふたりは、メシヤの到来のしるしとして現れる預言者ヨハネの親として選ばれることになります。
神の預言を成就していく器として選ばれる人々に共通のものは「敬虔さ」です。こういう敬虔な人が地上に多くいればいるほど、もっと早く神のご計画は進んでいくはずです。
 私たちの人生は、神のご計画を行うためにあります。しかし、創造主である神のみことばに敬虔に従おうとしない人々が多いために、なかなか神のご計画が実現されてこないのではないでしょうか。
 もし私たちがザカリヤとエリザベツのように、真に敬虔であるならば、私たちを通して多くの神のみわざが日本に起こされてくるはずです。
 イエス様のご降誕は永遠の中でただ一度の出来事で、そういうすばらしい出来事に関われた人々のことが聖書に出てきますが、私たちはイエス様のご再臨に関わることのできる者として、今ここに生かされています。
 この敬虔さを持ち続けるために、彼らは何をしていたのでしょうか。
 それは、神から与えられた祭司の務めを落ち度なく踏み行ったということばに表されています。
 二人は子どもが授からず、妻エリザベツは不妊と言われていました。祭司であるのに、ふたりに子どもがいないというのは、祝福ではない何か問題があると捉えられてしまいます。
 しかし、聖書では、多くの不妊の人々が神に用いられています。アブラハムの妻サラ、イサクの妻リベカ、ヤコブの愛妻ラケル、はすべて初めて不妊でした。イスラエルの三代祖である三人がそうだったのは、不妊が罪の結果というのではなく、むしろそこに神が働かれて、かえって祝福を与えられる要素があると見てとれます。さて、二人の落ち度なく踏み行うという意味は(出エジプト記19:22)に表されているように、「きよさ」に表れていきます。
 神の臨在の前に最も大切なことは「きよさ」です。もしきよくなければ、いくら規定通りのことを行っても意味がありません。神が彼らを喜ばれたのは、そのきよさです。
 祭司は水でその身を洗うということで、きよいとされます。新約では、これは水のバプテスマを表します。そしてこの水の洗いのきよめは「悔い改め」を表しています。水をみことばと解釈するなら、私たちはみことばによって洗われ、罪を悔い改めることによって神の前にきよいとされます。もし神にきよいと認められてなかったら、祭司は何一つ神の前にすることはできません。
 このきよさとは「悔い改め」です。なぜなら私たちは罪人であり、汚れた者であるからです。祭司は毎日、水で身をきよめました。悔い改めも何度でも必要なのです。真の敬虔さは、神の前に罪を認める心です。そして罪を認めるとは、いつも悔い改める心を持つということです。
 指摘されたら、いつも悔い改める準備ができているということです。ザカリヤとエリザベツは子どもがいないために、他の祭司よりも冷遇されました。祭司たちの交わりの中でいつも一歩退いて、決して先走らず、目立たないようにふるまっていたに違いありません。つまり、子どもが生まれないという負い目が、神の前にも人の前にもへりくだるという心の姿勢となって表れたのです。これは心の砕かれるような辛さです。また、問題や悩みを持つ意味は、人と比べて自分を卑下するためではなく、神と人の前にへりくだるためです。
 悩み苦しみの中で、アブラハムもイサクもヤコブも神に叫び求めました。しかし、苦しみを人や自分に向けていたら、人と自分を比べて生きることで絶望してしまいます。神に求めましょう。神の前に砕かれてへりくだるなら、神はあなたをご計画のために用いられます。神は創造主であり、私たちは被造物に過ぎないのです。本当に心から神を敬っているのなら、どのような状況においても、神の正しさを認め、自分の主張や考えではなく、神の前にへりくだるはずです。
 罪人の敬虔さは悔い改めに表されます。
 神の絶対的主権を認めないとなりません。私たちはすべての預言の成就を、イエス・キリストの誕生を通して知ることできるからです。
 悔い改めの証しとして、私たちは何をするように聖書は言っているのでしょうか。それは悔い改めて、バプテスマを受けることです。これをペテロは、正しい良心の神への誓いと表現しています。悔い改めるよう指摘されたら、いつでも悔い改められる。そのような心構えがあることを表明したのがバプテスマであり、祭司の「きよさ」です。つまり罪人の神の前における敬虔な態度とは、いつでも悔い改め、罪から離れる姿勢を持つことです。
 敬虔さの本来の意味は、こうした悔い改められるへりくだった心から出てくる慎み深さであり、寛容さ、柔和さです。
 この一週間、祭司のきよめについて、聖霊様に教えられ、導かれて学んでいきましょう。ひとつの結論は、祭司として落ち度なく踏み行うためには、「悔い改め」しかないということです。このことをしっかり黙想し、聖霊様に教えられるなら、あなた自身の悟りとなり、実を結ぶようになります。悔い改められるやわらかい、素直な心を神の前に持ち続けましょう。これがすべての秘訣です。

 

 

 

 

 

 
■2006年12月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   金声玉振 きんせいぎょくしん  up 2006.12.3


才知や人徳が調和して、よく備わっていること。


そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
(ルカ2:25〜26) 


 

 

 イエス・キリストが誕生後、生後八日目に割礼を受けるため、ヨセフとマリヤに連れられ、エルサレムの神殿にやってきた時のことです。この時神殿にいたのが年老いたシメオンです。彼は肩書きのない、人目につかない、ごく普通のイスラエル人でした。
 ルカの福音書の著者ルカは、シメオンに一度も会っていないのにもかかわらず、御霊の啓示によって、シメオンを「正しい、敬虔な人」と記しました。それは神がシメオンのことをご存じで、そのように評価されたからです。聖書という大切な書物に名前が記されるのは本当に光栄なことです。また凡人が載せられるはずもありません。何の功績も残していないシメオンがなぜ聖書に名前を残されたのでしょうか。神の目に映ったシメオンは、今週の四字熟語で「金声玉振」という最大限にほめる言葉が当てはまります。中国の古代音楽は鐘を鳴らすことから始まり、終わりにへの字に曲がった石の板を叩きます。「金声玉振」はよく整った音楽を表し、初めから終わりまでバランスが取れた見事なものという意味があります。孟子が孔子に当てはめて使った時から、人をほめる時に用いられるようになったそうです。才能も備わり、性格もよい、バランスの取れた人のことを「金声玉振」と言うのだそうです。
シメオンはどんな社会的地位のある人よりも、神の前に一番「金声玉振」であるといっても過言でない人だったからこそ、聖書に記されました。
 しかも「主のキリストを見るまで死なない」と神様から直接ことばをかけられていました。敬虔な人は、神と正しい関係が結ばれています。特に歴史的なできごとを個人的に語られるとは、よほど良い関係にあったわけです。永遠という時間の中で、ただ一度何百年も前から預言されていた救い主の出現に出くわすことを告げられたとはすごいことです。神の目に「正しく敬虔な人」は、神の方から計画を告げられるのです。
 「敬虔」とは神を畏れる心を持った人のことです。神の前に「正しく敬虔な人」は、努力せずとも以下の3つのポイントが自然に表れてきます。
世の終わりにあって神の御心が聞けるような敬虔な人に成長していけるように、神の前に「金声玉振」とみられる人としての3つのポイントを紹介しましょう。

●12/4(月)7(木)「聖書にしるされたシメオン」
人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。(箴言18:12)
☆神からの栄誉として聖書にしるされたシメオン。どのように高慢をさけることができるでしょう。
 シメオンは謙遜でした。謙遜な人は後で誉れを受けます。神は全く無名だった彼を、律法学者やパリサイ人たちより謙遜と認め、「聖書に名前を記す」ことで誉れを与えました。誰からも認められなかったシメオンを神は見ておられました。キリストが神殿に連れてこられた時の出会いが記されているのです。
 イエス様は人々に目立つように祈ったり断食したりしている律法学者やパリサイ人に注意されました。多くの人は人目を気にして謙遜な生き方をしており、それは神を畏れる心から出ていません。
 シメオンは人の目よりも神の目の前に「生きている」ことをいつも思いながら、謙遜にあり続けたので、聖書に記されたと感じます。高慢を避けるためには神の主権を認める心構えが必要です。
 天地創造の神、造り主がおられ、バランスの取れた自然界のあらゆるものと法則を見ると、偶然が重なってできたとは言い難い、すばらしい創造のみわざです。それがすべて偶然だとは、死人のよみがえりよりも信じられないことです。奇蹟よりも突然変異という言葉の方が信じやすいそうですが、結果的に同じ事で、突然変異は奇蹟です。しかし科学者は神の存在を否定し、人々を不敬虔な考え方に引きずり込んでしまいます。
 進化論は元の物質がなにかを説明できません。何か存在したから起こってきたわけですが、神の造られた世界を進化してきたと置き換える考え方が不敬虔な考え方の土台となり、正義、道徳性をおろそかにし始めました。
 科学、進化論の広がりにより、道徳性が低下していったのは、神を畏れない動機が原因です。結果を出せば文句を言わない、納得する考え方が世の中にありますが、神を畏れる人は結果だけでなく行程をも大切にする考え方をします。
 なぜこのような世界になってしまったのか、それは神のせいではありません。神の造ったものを乱す、不敬虔な者たちの考え方が矛盾した社会生活の問題を引き起こしているのです。シメオンは人の目でなく神の前に、神を認めた謙遜さを持った人でした。これが神に喜ばれる「金声玉振」の1つめのポイントです。

●12/5(火)8(金)「正しい人シメオン」
また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。(第1テサロニケ人への手紙2:10)
☆シメオンの正しさは、彼の考え方や理論ではありませんでした。神があかししてくださる正しさを、シメオンをとおして考えてみましょう。
 これはパウロがテサロニケの教会に送った手紙ですが、パウロは伝道者という肩書きではなく、彼のふるまいによってテサロニケの人々が救われていったのです。それは町の人も神も証しするふるまいでした。「神も証しされる」とは、人の目に映っていないところでもパウロは責められるところなくふるまったのです。彼のふるまいが正しいことが伝わったので、人々が救われたのです。シメオンの敬虔さの2つめの大切なポイントは、「ふるまいによる正しさ」です。
 シメオンは論議を目的とせず、神がこの国をあわれんでくださるようにへりくだり、祈り、みことばを読み、人々と接していました。理論で正しさを推し進めると、大きな争いを起こします。争いなくしてあいてを納得させる方々の1つがふるまいです。口で言うより行いで示すのです。シメオンの敬虔さはふるまいとなり、まわりにわかるほどのものでした。注目を浴びるような祈り方ではないけれど、信仰深さが一目でわかるようなものを、彼の祈りの姿や言葉に感じられたのです。
 私たちは自分の信じているものを正当化しようとして論じてしまうことがありますが、その議論に巻き込まれないようにしなければなりません。私たちのふるまいが正しくなければ、言い負かしても空しく、人も認めません。神が証ししてくださる正しさとは「慰められることを待ち望んでいた」ということばに表されています。彼は自分のことだけでなく、国全体のこと、同国民の救いのために神の慰めを待ち望んでいました。慰めというのは、相手からの自発の慰めが効果が大きいです。慰めてくださる方を待ち望むとは、とてもへりくだっています。神の前に不信仰で背いてきた罪深いイスラエル民族の歴史を見たシメオンは、「ただ神のお心が変わって、この民に目を注いでもらい、痛み苦しみを慰めてもらうしかない」と、心砕かれて待ち望んだのです。見捨てられても仕方ない者だとへりくだっていたシメオンはどんなふるまいをしていたでしょうか。
 私たちは罪人として「正しいふるまい」をする必要があります。それは罪を正直に認め、言い訳しないことです。神からの罪の裁きを受け入れることです。「あの人よりましだ」というのは正しい態度ではありません。そうでなく、「裁かれても当然です。」というのが正しい態度です。そうすると神はキリストを信じるなら悔い改めてやり直すことができると、裁きの代わりに悔い改めを勧めてくださったのです。
 今、神は全世界の人々が悔い改めて生きることを願っておられます。私たちは現実は罪人ですが、キリストを信じているがゆえに「罪赦された者」として神に受け入れられています。赦された者の敬虔で正しい神の前のふるまいとはいかなるものか、よくわきまえておくことが必要ではないでしょうか。神に赦されたのなら、人を赦すことができるはずです。それを行動に表した敬虔な人がシメオンでした。これこそ神の目に「金声玉振」の人です。たとえ罪を犯しても、罪人としての正しい行動をしていけば、「金声玉振」のバランスのとれた人として、神は愛し受け入れてくださいます。何が正しいかを正しい良心をもって判断してください。感情的になって被害者意識を持つのではなく、人の前でなく神の前に生きる人生を大切にしてください。どんな人でもイエス・キリストを信頼する者は悔い改める心があるとみなしてくださいます。もちろん罪を犯さないことも大切ですが、罪を犯した後はもっと大切です。シメオンは自分も含めイスラエル全体も罪深い者だという罪の自覚のもとに、神の前にへりくだった敬虔なふるまいができた人です。

●12/6(水)9(土)「民のために待ち望んでいたシメオン」
正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。(箴言12:10)
☆敬虔で正しい人は、自分のことよりも全体のことに気を配るようです。シメオンのように、自国民のために、神の恩寵を待ち望みましょう。
 悪者は自分に良いものが返ってくることを計算してあわれみますが、利益をもたらさなければ憎しみに変わります。「あわれみ」とは、その人が良い方向に行くよう援助することです。たとえ変わらなくても、心を痛め悲しみ、さらに良い方法を考えていくのが正しいあわれみです。自己満足のあわれみは悪人のあわれみです。正しい人が「自分の家畜のいのちに気を配る」とはk、自分の身を粉にして周りのものに気を配るということです。自分を後回しにして周りを優先させるのです。シメオンは、自分の人生の成功に集中して生きたのではなく、自分を犠牲にしてまでもイスラエルが神の慰めを受けるように、自国民のために気を配り、宮に言って祈り続けたのです。
皆さんは日本の多くが不敬虔な生活を送っていることにどのくらい心を痛めておられるでしょうか。いかに不敬虔か…。赦してくださいという範囲を超えています。
 今の経済社会は弱肉強食で、弱いものがえさにされていますが、聖書は強いものは弱いものを担うためにあると書かれています。後進国の人々の努力で、私たちの経済社会は支えられています。貧しい人を虐げてこの豊かな生活があることを忘れてはいけません。お金を欲しい人の気持ちを利用して、私たちの豊かさが支えられているのです。これは悪です。
 敬虔なシメオンならば、無駄のないように心を配り、低賃金で働いている人のことを思いみて、自制するのではないでしょうか。
ポール・ブローマン氏は23歳で来日。数年間のテント生活をされ、日本人を奥さんに迎え、10人の実子と12人の養子を育てられました。日本に帰化し、自分で会社を興し、自分の資産で北海道から兵庫県西部まで一見ももらさずトラクト配布をされてきました。
 会社経営は祝福され、社長・会長となってからも六畳一間の質素な生活を続けられ、給料のほとんどは伝道のために費やされました。東南アジア・中国・インドに送り出した300名余の宣教師の生活もその会社が支えています。
彼の思いは最初、敗戦国日本にキリストの光を伝えることでしたが、さらに神は東南アジア、中国、インドにも思いを導かれ、子どもさんたちを遣わしています。インドに行った方の中には、伝道活動の許可を得るために日本国籍を捨ててインド国籍を取っている人もいます。ブローマン氏のふるまい、謙遜、人々を思う気持ちは、その質素な生活に表されています。
 自分を大事にし、余りで周りを大事にするのが主流ですが、家畜に気を配るとは、自分を差し置いてもまわりに気を配る姿勢のことであり、それはキリストの姿勢であり、父なる神の愛の姿勢です。
 シメオンは聖書に示された普通の人なのですが、神の目に金声玉振と見られるすばらしい敬虔名人です。人に認められたいと思い、かえって弱者を踏みつけていってないでしょうか。むしろ神の目に敬虔な者としてシメオンのように謙遜とふるまいによる正しさと、自分よりまわりに気を配るへりくだりを身に付けていきたいですね。

 

 

 

 

 

 
■2006年11月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一知半解 いっちはんかい  up 2006.11.26


少し知っているだけで、十分理解していない様子。なまわかり。


そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
(ヨハネ9:39〜41) 


 

 

 悟りが中途半端であれば、何もそれを生かすことができません。もう知っている、わかっているという態度だと、クリスチャン生活の成長がそこで止まってしまいます。私たちは一知半解のようなクリスチャン生活に陥ってはいないかを反省しながら、悟りを深めていくことを求めていきましょう。
 パリサイ人は、専門家として知識的にみことばを深く知っていますが、彼らは「自分は目が見える」という心を持っていました。しかし、そこにあなたがたの罪は残ると言われました。罪が見えなければ、悔い改めることができません。すべてが見えていると思いこんでいるところに、罪が残ってしまいます。悟りが浅いゆえに十分な罪からの解放を得ることができない、クリスチャン生活ってこんなものだと悟りを中途半端に持ってしまうことによって、どれだけ多くの人が間違ったクリスチャン生活を送ってしまっているでしょうか。
 まず、自分が見えていない、ということが救いに導かれる最初であるこのみことばからわかります。私たちは見えていなかったのですが、イエス様のもとに来て見えるようになりました。あなたはクリスチャンになってどんなことが見えてきたでしょう。自分という者を深く理解すればするほど、神様を理解することができます。なぜなら人は神に似せて造られたからです。今日は6つのポイントからどんなことが見えるようになったのかを見ていきましょう。

●11/27(月)「私は神によって造られた者」
『しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。』(ローマ人への手紙9:20)

 「なぜ、私をこのようにしたのですか」と不満をもって言うことは、間違った態度だとパウロは言っています。自分で造ったものを何のために使おうと考えるかは、造った人の自由です。神様は私たちをお造りになりました。私たちは被造物です。そのことを悟るようにと願っておられます。「私はこのように造られた者」と、それを受け止めることのできる心とは、造り主の権威を認め、尊敬しているということのしるしです。それは造り主に対して謙虚であり、へりくだっている姿勢です。それに対して言い返すということは、自分の立場を忘れて、造り主に対する尊敬を持たず、対等な立場でものを言う、自分をわかっていないこととなります。あなたが神様に苦情を申し立てる時は、被造物として申し立ててください。
 あなたは被造物として正しい良心を持った、自分に対する理解を神の前にしておられるでしょうか。「私はあなたに造られた者です。すべては感謝です。」これが土台となる考え方です。

●11/28(火)「私は神に似せて造られた」
『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』(創世記1:27)

 私たちが自分の形にものを造る時、どのような思いをもって造るでしょうか。それは自分の何かを表現したいのです。ということは、神様はご自分の無限のご性質や才能や力を一人一人によって表現しておられるということです。あなたが神に似せて造られたということは、神様はあなたを通してご自分の何かを表現したかったのです。神様はすべてが良いものです。全世界の人々を通して、ご自分の何かを表現しておられるのです。単に造られたのではありません。神様は私を通して神様の何を表現しておられるだろうと見つけていくことは楽しみになります。いろんな苦しみ、困難を通して、あなたの内に作品として埋め込まれた神様のすばらしさが引き出されてきます。

●11/29(水)「私は神に対し罪を犯した」
『神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみなそむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。』(詩篇53:2〜3)

 あなたは神の前に罪を犯したという意味をどのように捉えているでしょうか。それは、「神の前に私は腐った存在である」という罪深さです。「腐る」というのは、そばに置いておけないもの、利用価値のないものです。神の前にそむきの罪を犯すということは、腐った人間、神様に嫌われるべきものなのです。自分の罪深さがわかればわかるほど、そこから思い出されるものがあります。腐ったものであるにも関わらず、どうして救い主キリストをお遣わしになったのでしょうか。腐り果てた自分ということを理解することは、神の愛と恵みを悟るために必要なことなのです。どうして腐り果てた罪人の私に対して手を差し伸べられるのか。それは理由なしに私たちを愛しておられるからとしか言いようがありません。あなたが元の腐っていない状態に立ち返るようにと、救いを与えてくださいました。自分の罪深さを悟ることによって、神の愛と恵みを悟ることができます。

●11/30(木)「私のうちに罪が住んでいる」
『もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。』(ローマ人への手紙7:20)

 この腐った自分というのがわかってくると、それを止めようとすればするほどますます腐っていく自分を感じてきます。イエス様を信じてみことばを聞いていくと、自分の罪深さがわかってきます。みことばによって自制心を働かせることを教えられると、よけいに欲望が出てきて、クリスチャン生活がしんどくなってきます。これは誰もが、パウロさえ感じたことです。それは腐らせる存在である罪が私の内に宿っているからです。これがいるために、どんなに努力しても腐るのを止めることができないのです。本当はみことば通りにしたいのに、逆のことをしてしまう。そんな惨めな自分を見い出すと、救いに対する飢え渇きが出てきます。
《罪が住み着き、罪に動かされる惨めさを感じているでしょうか。それは飢え渇きのもととなるものです。》
 惨めさを隠してしまうと、救いに関して関心がなくなります。惨めさを十分味わった人ほど、自分ではどうにもならないので助けてくださいと言えるのです。惨めさを認めたくないのでそれを隠そうとしたり、人に罪をなすりつけたり、人の悪い所を攻撃したりすることは愚かなことです。惨めさを持つことは、あなたが神の前にへりくだって現実の自分をしっかりと理解するためには必要なものです。「どうぞ私をあわれんでください。」と真心から神に救いを求める心が生み出されます。惨めさは、今よりももっと救いの完成へと導く大きな原動力となります。どうぞこの惨めさを無視しないでください。

●12/1(金)「私に救いが与えられている」
『神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、…私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。』(第2テモテへの手紙1:9、11)

 この救いを求める心から、今度は私に救いが与えられているのだということに目覚めてきます。
《『罪深い私に与えられた救い』と目が開かれるなら、なぜ、今の世になおも生きているのかが見えてくることでしょう。》
 私たちが今この世に生きているのはどんな目的でしょう。パウロは「この福音のために…任命された」とあります。福音を伝えるのは永遠のいのちに至るためです。伝える者がいなければ知ることはできません。私のような者が救われたのだったら、私と同じような人も救いに至ることができるということです。「私はこのようなすばらしい救いを受けました。」というものがあるなら、悩んでいる人に一度行って見ませんかと紹介して、もしその人が何も受けなかったとしても、それはその人と神様の問題です。私たちは何のために救われて今ここにいるのでしょう。それは紹介するためです。知らない人がたくさんいるのです。信じるか信じないかはその人と神様の個人的なことです。あなたは自分に救いが与えられたということを、確信をもって表していきましょう。キリストを紹介する者としての人生が私たちの目的です。救いがわかればわかるほどそのことが見えてきて、人を納得させて信じさせようとする肉の努力をしなくなります。ただあなたの分を行えば良いのです。

●12/2(土)「私は永遠を決定する証人」
『私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。』(第2コリント人への手紙2:15〜16)

 私たちは何らかの香りを放っています。それをかいで「いい香りだ」という人もいれば、「何これ、鼻につくな」と嫌う人もいます。それは香りをかいだ人の判断です。私たちはキリストの香りを放つ者です。それに対して毛嫌いする人もいます。あなたの持っているキリストの香りは変える必要がありません。その香りを受け入れ、価値がわかる人は、永遠のいのちに至ります。その香りを毛嫌いし、価値のないものだと判断する人は、永遠の滅びへと自分の道を決断していきます。あなたの存在はそういうものです。あなたを見た人が永遠のいのちに心を向けるか、神はいないと思わせるようなあなたの生き方を見て、永遠の滅びを決断するか、そこまであなたの存在は影響力があると考えてみたことがありますか。
 あなたがクリスチャンだと言うなら、あなたの信じている神様はどんなお方か、あなたから見えてくるのです。それだけ自分の行動に対して責任を持つことが大切です。しかしクリスチャンだと言っても言わなくても、あなたの行動を見て不敬虔な心を持つか敬虔な心を持つかが決まっていくのです。むしろ言った方が、私を見て永遠のいのちに至るために、自分の生活を制限していこうという気持ちが湧いてきます。自分のためにではなくあなたを見て決断をする人のために、どう生きるかを考えるべきです。
 自分は永遠を決定させる存在なんだと気づいていけば、どう生きるべきかを見つけ出すことができるのではないでしょうか。あなたの存在がどんなに大きな影響力を持っているか、ぜひ悟ってください。「一知半解」のようなクリスチャン生活は多くの人々を滅びに向かわせています。中途半端なクリスチャン生活にならないようにしましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年11月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   克己復礼 こっきふくれい  up 2006.11.19


欲望を抑えて、礼儀にかなったことをするようになること。
『己に克ちて礼にかえる』


こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」
(ヨブ記28:28) 


 

 

 聖なる方がどのような方かわかれば、当然悪から離れています。聖なる方を知ることは、悪から離れることであり、悟りであるとつなげられます。
 「克己復礼」という四字熟語は、「悪から離れる」ことを表しています。「克己」の「己に克つ」も一つの悟りです。芸術やスポーツをしている人は、究極のところ、「自分に勝つ」という悟りが開かれているのではないでしょうか。クリスチャンは人の問題によって、自分にある問題が引き出されますが、自分に問題がなければ影響を受けません。ですから、自分が聖められることを祈る方が解決が早いのではないでしょうか。
 「礼」(礼儀)は互いを大切にする人間関係を表しています。「克己復礼」は一般的には心の弱さや葛藤に打ち勝って、将来の希望を叶えていくという意味に捉えますが、私たちは罪の力(肉の欲・古き人)に打ち勝ち、自己中心愛から隣人愛に変わる生き方として意味を捉えます。
自己中心は最たる悪です。隣人を大切にすることが自分を大切にすることです。例えば、自分のことよりもまわりの困っている人々を助け施して、その人たちが苦しみから喜び、平安、幸せに変わっていく時、与えたあなたがたとえ貧しくても、幸せな人々に囲まれていることに気づくでしょう。しかし、まわりが不幸であろうと自分の幸せを最優先する時、まわりの幸せだった人が不幸になってしまいます。
国際飢餓対策機構の方が、私たちの豊かさは多くの貧しい不幸な人々の犠牲の上に成り立っている、と話されました。自分の幸せだけを考えると、人の幸せを踏みにじり、幸せにしていないことも多いかもしれません。
「悪から離れる悟りのある生活」を考えてみましょう。

1.悪から離れるに至る悟りとは?
 
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。
(伝道者の書12:13〜14)
 悪から離れる悟りを持っていなければ、悪から離れることはできません。知っていても悟っていなければ、やめられません。悟っていないので、良心的には悪だと気づいても、離れられないのは性格や習慣のせいだと正当化する愚かな考えが出てきます。悪から離れる悟りを持っていないと、聖めや成長はストップし、罪に勝利できません。
 伝道者の書は悟りの書です。伝道者は昔から伝えられている神の御教えがすべてだろうかと追求しました。彼は、私たちにはない財力、権力、知恵を駆使し、人生を追求した結果、「神を敬うことが人間にとってすべてだ」と悟ったというのです。私たちは体験していなくても、私たちより優れた方の言葉を信じることが必要ではないでしょうか。伝道者は神を無視した生き方を追求しましたが、神を知っても知らなくても「死んでしまえばみな同じ」と見極め、「造り主の主権を無視して生きることは空しく存在の意味がないことであり、神を認めるしかない、神は価値観の中心である。」と到達し、神を畏れる心に立ち返ったのです。そして悪から離れる結果に至ったのです。あなたはどんな悟りを持って、悪から離れますか。神のみこころから外させるような誘惑の多い社会の中で、悟りを持たねば不敬虔な人の言葉をはねつけられません。
 罪とわかってもやめられないのは、愚かな心があり、悟りがないからです。私(辻師)は悪から離れる悟りとして、「悪を行うと人が人としての尊厳を失い、自分が自分でなくなることに至る」ことを得ました。今、悪と妥協した大人の世界で汚されたくないと、キリストを信じる前から持っていた純真さは、信仰を持った今も失われておらず、「私は私である」と心が変わっていないことをうれしく思います。神を見いだし悟ったことで、悪を遠ざけ、神に守られ、今の自分があると感謝しています。

2.罪から離れ続けるために
 直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する。
(箴言16:17)
 いったん悪から離れても、誘惑はいつでもあり、離れ続けることが必要です。そのために自分で自分の道を監視するのです。神の目は私たちがどこに隠れても向けられており、私たちの心・魂を見続けておられます。「神が監視しているので、悪から離れなければならない」という人は、神とのつながりに問題があります。神が見ていると罪から離れ、見ていないとごまかしますか?
 神は、今は恵みの時、救いの時として、あなたを裁く目ではなく、慈しみの目で見ておられます。神は何を願っておられるのでしょうか。甘えて「赦されるから少々いい」と思う人は、神と心がつながっていません。罪を犯しやすい私たちを見る神の目は、箸をうまく使えない子どもの上達(成長)を見守る親のようです。神は私たちが罪を犯さなくなっていくよう願われ、慈しみを持って指導されます。自分で自分を戒めるとは、神の慈しみへの恩義に応答する姿勢であり、愛され見守られていることを悟り、自ら教えられたことを守るようチャレンジします。成長していくに従い、理解していきます。みことばをもって諭された時、怒りをもって愚かな行動が出たなら惨めさを悟り、同じ失敗をしないよう、自分を監視するでしょう。(失敗によって多くのことを悟りましょう。)キリストによっていただいた聖いいのちを欲望で汚すことは愚かなことと知ると、このいのちをくださった方のために、自分で自分の心を監視するようになります。どんなにすばらしいものをいただいたかを知ると、くださった方の気持ちを大切にし、それを守ろうとします。
 あなたの命は、自分勝手に使う権利はありません。罪で真っ黒な命をイエス様の血潮できよめられたのに、それをまた欲望で汚しますか。神はあなたに贖いのいのちを預けたのです。「これを生かしてください。」と。どんな願いをもって神は救い主キリストを通してあなたを聖めてくださったのでしょうか。
放縦で無秩序な愚かな自己中心の肉欲的考えに影響されているクリスチャンは、教会に来るのが苦しくて祈れず、聖書も読めないでしょう。伝道者の書の「神がおられることと、神の命令を守ることがすべて」だと悟らなければなりません。「地獄から救われた」という悟りでは罪から離れられません。単に「永遠の滅びに行きたくないのでキリストを信じた」で留まっていたら、クリスチャン生活は続けにくいです。もっと悟るべきことは「聖なる方はあなたを愛しておられる」ということです。

3.何を監視するのでしょう
 望みがかなえられるのはここちよい。愚かな者は悪から離れることを忌みきらう。
(箴言13:19)
 私たちの心には愚かな心があります。そして愚か者の心は、望みと欲望を勘違いしています。本来、望みとは、将来に明るく、今より良いものに到達するもので、単なる自己満足の心地よさではありません。自分の欲望を満たすのと、望みを満たすのは天地ほどの差があります。望みをかなえる人は、将来の望みを壊すような借金はしませんが、愚かな人は先を考えず、サラリーローンを借りて、その場限りの欲求を満たし、後でその大変さに気づきます。
 ではどのように監視するのでしょうか。正しい良心が欲望の限度を教える働きかけが必要です。全く欲望を止めるとストレスが溜まります。しかし欲望の満たしすぎは不健全で迷惑がかかります。ダムの監視人が、水の溜まり具合で水量を調整するように心を正しい良心が監視するのです。
愚かな心は、心地よさが妨げられると欲求不満となり、怒り心頭わがまま粗暴となり、制御しにくいです。ですから心の中で、愚かな心を諭すことが大切です。それには悟りが必要です。罪から離れる悟りがないと、正しい良心は愚かな心を諭せません。
 私(辻師)は感情が湧き上がってきた時「自分が自分でなくなるよ。」という悟りをもって諭していきます。この悟りを捨てると自制心が弱められ、欲望に流れ、「切れた」状態になり、クリスチャンの本来の自分を守り続けることは空しい価値のないものだと決断することになります。
 世の人の「自分らしく生きる」のは、欲求を抑えず、思いのまま生きることです。(たとえば、怒りが出れば、怒りに満たされた行動をとるように。)しかし、人としての尊厳は、欲望を制御することにあります。正しい良心の働きを殺してはいけません。それを価値のないもののように扱ったら、あなたがあなたでなくなります。人の尊厳は神を畏れる正しい良心にあるのです。

 

 

 

 

 

 
■2006年11月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   転迷開悟 てんめいかいご  up 2006.11.12


煩悩の迷いから目覚めて、悟りの境地に達すること。


主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
(箴言9:10) 


 

 

 悟りの境地に達するとは、ひとつのことが悟りとして与えられるということではなく、物事を悟っていく、という心の状態のことです。
クリスチャン生活も単に神に従っていくというよりも、しっかりと悟って従っていくことが必要です。なぜなら神様はワンマンな方ではなくて、良い神様だからです。
「転迷開悟」の信仰生活を持つならば、少しのことで不平や不満を持って心を乱したり、一日を怒りで終えるということはなくなるでしょう。悟りがあると、失敗の中からでも何かを教えられ、学び取っていくので、すべてのことが益となり、すべてのことを感謝して受け止めることができます。
 イエス様の十字架を通して、まことに天地を造られた神がおられることを信じているならば、「聖なる方を知る」という悟りを得ていただきたいと思います。聖なる方はどのような方であるかを、3つのポイントから学んでいきましょう。

●11/13(月)11/16(木)「聖なる方を知る」
 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(出エジプト記34:6〜7)
ここに聖なる方のご性質、お考え、価値観が順に並べられています。最初に来ることばが、神様の最も重要なご性質と考えられるわけですが、今日は順番に3つを見ていきましょう。

1.聖なる方は「主」であられる
 主人ということは、あなたの上におられる方ということです。ここで主人という言葉に対してどのようなイメージを持っているかを考えてみましょう。私たちにとって主人とは、父親・夫・学校の先生・会社の上司などですが、各人の年代や育った環境によってイメージは様々だと思います。しかしクリスチャンにとっての神であられる「主」はどういう「主人」であるかを正しく受け止めていなければなりません。
 イエス・キリストを救い主として送ってくださった神に対して、あなたはどのようなイメージを持っておられるでしょうか。そのヒントとしてマルコによる福音書1:5があります。
イエス様がメシアとして公生涯に入られる以前に、バプテスマのヨハネという人が、悔い改めのメッセージを人々に語り、洗礼を授けていました。エルサレムの人々はなぜ、祭司や律法学者でなくバプテスマのヨハネに罪を告白して洗礼を受けたのでしょう。当時の祭司や律法学者たちは、捧げ物や断食や祈りはしていたけれども、神への誠実さを欠いていました。そのことをバプテスマのヨハネは、神の前に汚れたものであると指摘しました。エルサレムの民は、バプテスマのヨハネこそ自分達の主人である神が遣わされた預言者だと認めたので、彼の前に罪を告白し、洗礼を受けました。バプテスマのヨハネの前に罪を告白することは、神の前に罪を告白することと同じであると考えたのです。
 このことを通して、私たちが気づかなければならないことは、あなたがまことに神を主と悟っているならば、民がバプテスマのヨハネの前に来て罪を告白したように、神である主人の前に罪を認めることです。
 あなたが主人の前に罪を隠し、認めようとしないということは、本当に主人として尊敬し、信頼していないということになります。罪を告白したら罰せられる、懲らしめられるので怖いというような、間違った主人概念を持っているということです。
 あなたの信じているイエス・キリストに正直に罪を告白したら、どういう対応をされるでしょうか。それを悟っておられるでしょうか。私は子育ての中で、子どもが正直に全部話してくれたらものすごく褒めました。だから、何でも言ってくれるようになりました。少し隠すことがあっても、信じ切ってくれている親に悪いと良心が責められるので、後からでも言いに来てくれました。そんな時でも「言えなかった事もあるんだね」と受け止める姿勢をとっていくと、心を全部開いて、良いことだけではなく悪いことであっても、告白してくれるようになりました。
 お父さんに知ってもらって、悪いことを二度としないように見張ってもらえるという関係が生まれてくるのです。あなたは主イエス様に対して、罪をすべて告白し、罪を認めてへりくだることのできる主人として信頼しておられるでしょうか?
これがまず一番目に聖なる方を知る上で大切な部分だと思います。

●11/14(火)11/17(金)2.「あわれみ深く恵み深い方」
私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。
(イザヤ書63:7)

 新改訳聖書では「情け深い神」とありますが、口語訳と新共同訳では「恵み深く」とあります。どちらかというと「恵み」の方がより神のご性質を表していると思うので「あわれみ深く恵み深い方」としました。あわれみがあっても恵みを施せなかったら、そのあわれみは意味のないものになってしまうので、あわれみと恵みは一つにして考えてみました。神様のあわれみ深さ恵み深さを悟ると、どのような行動が実となって表れるでしょう。まさにその実がイザヤ書63:7に表されています。すなわち「私は主の恵みと主の奇しいみわざをほめ歌おう」と。なぜほめ歌うという気持ちが湧いてきたのでしょうか。それは「あわれみと豊かな恵みによって報いてくださったからだ」とあります。あわれみと恵みを施してくださった相手を誉める時、その人の能力や才能ではなくて、人格を誉めることになります。
 皆さんが賛美をされる時に、主はあわれみ深く恵み深い方だと悟った賛美であるならば、しなければならないとか、する気になれないという気持ちを全部打ち壊します。溢れる感謝と喜びを誉め言葉として神にささげることができるはずですね。賛美する気になれないというのは何が問題なのでしょうか。イスラエルの民の歴史を旧約聖書から見た時に、彼らは神に対して従順な時よりも不従順な時の方が長いですね。神に対して良い国民である回数より、神に背いた回数の方が多く書かれています。そのようなイスラエルの民の歴史を振り返った時にイザヤは、神は多くの悪いことよりも、少しの良いことに目を留めてくださり、あわれみと豊かな恵みによって報いてくださったのだと思い、ここに、神を賛美せずにはおれないという湧き上がる感謝の心を洗わしているわけです。イスラエルの民が良い民でなかったからこそ、神のあわれみと恵みの深さを知ることができたのです。
 あなたは自分の人生を振り返ってみた時、神の前に喜ばれることが多かったか、喜ばれないことの方が多かったでしょうか?いずれにしても、神はあなたに対していつも真実を持って導いておられたことでしょう。しばらく道を外れていても、すぐに怒りを表されたり、裁きをくだされないのは、神のあわれみと恵みの豊かさが表されていたからです。イエス様の十字架は、神のあわれみと恵みの表れです。あわれみがあるから恵みが注がれ、今があるのだということに気づいていくならば、神に対して良い賛美をささげることができるようになります。

●11/15(水)11/18(土)3.「怒るのに遅い方」
あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。ー神である主の御告げ。ーだから、悔い改めて、生きよ。(エゼキエル書18:31〜32)

 あわれみと恵み豊かな神は私たちに何を願っておられるのでしょう。誰が死ぬのも(ここでいう死とは永遠の滅びという魂の死のこと)わたしは喜ばない、だから悔い改めて生きよ、と語られています。
すなわち、神の怒り、裁きがくだる前に悔い改めて生きて欲しいから、あわれみと恵みを持って、裁きを下すのを遅らせておられるということです。怒りを遅らせるということは、人間関係においても良い効果をもたらします。相手に良くなってほしいと願うならば、怒って注意するのは逆効果です。なぜならその怒りが正しさを主張したものであっても、怒りで心が傷つき痛みますので、怒りをすぐに表す人とは距離を取ろうとしてしまうからです。あなたが絶対に怒りを表すような人ではないということがわかってくると、人は心を開いてくれて、信頼関係ができます。どんなに言葉でゆるすと言っても、感情が怒っていたらそれは裁きを表します。裁いていないというならば、怒りを静めて、相手が良い方向に行くのを指示してあげることが大切ではないでしょうか。本当にその人のことを思って注意するならば、怒りを抑えて「何が悪かったのか気づいて改めようね」と教え諭すほうが賢いのではないでしょうか。
 神様はそのような方です。皆さんを愚かな者とは見ておられず、気づける賢い者と見てくださっています。だからすぐに罰することはされないのですから、改めるべきものは懲らしめを受ける前に気づいて改めましょう。神様が懲らしめられるまでは、罪を容認してくださるので、罪を止めなくても良いなどという考え方をするクリスチャンがいます。それは神様のあわれみの心を傷つけて無にしてしまうような不敬虔な悟りです。神様がなぜ裁きを遅らせておられるのかを深く理解することが悟りです。それなら一日も早く悔い改めにふさわしい実を結ぼうと、神を畏れた敬虔な生活への努力を始めるのではないでしょうか?これが悟った者の行動ですよね。
 イエス・キリストの十字架を完成してくださった聖なるお方をどのように知っているのか、これからさらに目が開かれていくべきではないでしょうか。「転迷開悟」悟りの境地をもって、悟りある神の子として成長していきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年11月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   大悟徹底 たいごてってい  up 2006.11.5


深く悟りを開き、少しの疑いもないこと。欲望や迷いなどを去って、真理を会得すること。


わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。
(箴言2:1〜5) 


 

 

悟りというのはとても大切です。ただ言われることをするだけではなく、悟りのある神の子になってほしいと主は願っておられます。「悟り」とは一般的に物事の意味を深く理解し、知らなかったことに気づくことを言います。私たちはクリスチャンとして、どのような悟りを持っているでしょう。宗教的な悟りとは、迷いを払い去り、永遠の真理を得ることであるとあります。真理とは、この全宇宙に存在しているもの全てに当てはめることのできる共通の法則です。私たちはイエス・キリストを信じて何を悟り得たのか、神様が願っておられるものと別の悟りを持ってしまわないよう、ご一緒に考えていきましょう。

●11/6(月)11/9(木)「不敬虔な者の誇り、敬虔な者の誇り」
彼は心の中で言う。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」(詩篇10:4)
この悪者の基準は「不敬虔な者」で、単に違反をすることではありません。この悪者は高慢であるということです。自分の存在価値を高く評価している人で、「神なんて必要ない」という傲慢さがある人のことです。どんなに善行をする人でも、「神はいない」という人は、高慢さが顔に表れるのです。「宗教なんて、神様なんて必要ない。(いてもいなくても善を行うべきである)」という悟りを持ちます。それは良いように見えますが、不敬虔な者の悟りです。みなさんは神を信じる敬虔な方たちです。その悟りとは「自分は神によって造られた。善を行うも悪を行うも、神の御手の中で私は存在している。」という悟りから、「神は罪を裁かれるお方だ」という悟りが出てくるのです。罪に対する軽い考え方が、不敬虔な人たちの考え方です。罪は裁かれなければならないのです。
敬虔な人は、神が罪を裁かれることを知っています。だから罪に対して非常に敏感です。感謝なことに私たちが悔い改めてやり直しができるのは、過去の罪をイエス・キリストが十字架で負って処分してくださったから、悔い改めて良い実を結んだ時に、過去の罪で裁かれることはない、ということなのです。キリストの十字架がなければ、人はどんなに悔い改めて良い実を結んだとしても、過去の罪が処分されていないので、その罪のゆえに裁かれてしまうのです。罪が残ったままでは先に進めません。イエス様の十字架は将来に希望を持つためのものです。悔い改めができるということは、すばらしい特権です。だから私たちは罪を赦されている恵みに感謝して、神を畏れて少しでも罪を犯さないようにと心がけて進んでいくことができるのです。
この世の人々は、神はいないという前提を持って、人生を悟っています。だから法にひっかからなければ、もしくは見つからなければ、または法によって弁護すれば大丈夫と思っているのです。私たちは神という裁き主がおられるということをわきまえて、世の中の人の「神はいない」という悟りに影響されないように気をつけなければなりません。

●11/7(火)11/10(金)「肉の欲による悟りと正しい良心による悟り」
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
(エペソ人への手紙2:3)
肉の欲による悟りとは「欲を満たすことが人生の最大の幸せである」というものです。それは自己中心の肉の欲望です。この欲を満たすことを正当化する悟りを持つのです。「みんなやっているじゃない」とか「したいことをさせないのはよくない」とか。「食べなきゃ損」等という考え方が社会一般的にあり、それを止めることを悪としてしまう考え方を社会全体が持ってしまっています。
私たちは限度をわきまえます。限度とは、正しい良心によって測られていくものです。肉の欲によって得た悟りというものは、いろんな問題が出てきます。私たちは正しい良心をもってここに来ています。肉の欲を満たすためにキリストを信じている人は、ご利益宗教です。満たされなかったら他の宗教に行くというのと一緒です。肉の欲を満たすだけが生き甲斐という悟りを持った人々に影響されてはいけません。あなたは正しい良心を持った悟りによって、貪欲に陥らないように健全な生き方をしていくことが大切です。

●11/8(水)11/11(土)「古き人による悟りと新しい人による悟り」
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙6:6)
罪の奴隷の中で悟りを持つというのが古き人の誇りです。罪の奴隷という束縛の中から出ることができない状態です。1つはしょうがないとあきらめている考え方です。「私はこれ以上変わらない」「新しく生まれ変わったと言ってもこの程度のものなんだ」という悟りは、新しき人の人生を、古き人の悟りをもって考えたものです。あなたの悪い性格は、古き人の性格です。その性格に今なお縛られていると、神のことばを信じないで感覚を信じてクリスチャン生活を送っていると、そういう悟りがやってくるのです。聖書には「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント人への手紙5:17)とあります。古き人は古き人で、もはや変わることがありません。それを見て新しくなっていないと錯覚してしまいますが、古いものとは別に、新しいものが存在するのです。古い感覚もあり、新しい感覚もあります。古い人が良くなっていくのではなく、新しい人が成長するのです。今、「私はだめだ」と思っている人は、古き人の悟りだと思えばよいのです。新しき人は無限にキリストの似姿に変えられていきます。貧しくても悟りは持てます。若者は若者なりに悟りを持てます。大切なことは無限の神様にいかに近づくことができるか、神の子にふさわしい者に帰られていくか、悟りを得ることです。私たちがどんな悟りを持っているのか、それによってどう生きているのかを、しっかりと世の人々に表していきましょう。それこそ、真理を求めている人々の励ましとなり、イエス・キリストを信じる希望を与えるのではないでしょうか。自分がどのような悟りを持っているのかを見極めてください。正しい悟りを持つためには、箴言にあるように、神のことばを心に蓄えて求めることが必要です。そうすると、肉の人、古き人は騒ぎます。そこで私たちは自分が今どちらに生きているのか、どちらが良いものであるかを、失敗を通して悟っていくのです。赦しというのは、私たちが悟るために神様が私たちに与えてくださったものです。悟ろうとしない者を赦したら、周りに大きな損害を与えてしまいます。あなたの悔い改めは悟りを得るためでしょうか。悟りを得た悔い改めは、同じ罪は繰り返しません。悟りを持ったクリスチャンになりましょう。自分の信仰の程度に応じた悟りを持ってください。決して人と比べてはいけません。悟りはあなた自身が見いだしていくものです。求めれば求めるほど、多く悟りを得ることができます。