■2006年10月29日 日曜礼拝メッセージより(沖縄より 田中 菊太郎 師)

   選び出された神の兵士  up 2006.10.29


あなたもギデオンの300人のひとり


(士師記6章〜7章) 


 

 

 ある人が教会の前を通りがかった時、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。(マタイの福音書11:28)」ということばに惹かれ、初めて礼拝に参加しました。トラクトを何枚かもらって家に帰りましたが、読む気もせず家に放置していたところ、素行がとても悪かった息子さんがそれを読み教会に行くようになりました。そのことに感動し、その人も奥様も教会に行き始め、救われました。結局彼はみことばの約束どおり、一番悩んでいた息子さんが良いように変えられ、重荷を下ろすことができました。そして心の休息ができたのです。
 人間が本当に疲れるのは、働き過ぎではなく、報われないという空しさを感じる時です。日本では余りに多くの人々が疲れを感じています。国の栄枯盛衰は、国民の精神状態を見ればいいと言われていますが、日本人はどうでしょうか。毎日のニュースを見ていてもわかるように、殺人事件はもはや珍しくなくなってきました。私は全国の刑務所を回って慰問していますが、今や満杯を通り越し、どこも130%の囚人が収容されています。私たちはこのような時代に生きるクリスチャンとして、どのように生きればいいのでしょうか。神のことばである聖書から、私たちは何をすべきかを示される必要があります。

1.『クリスチャンの使命』(第1ペテロの手紙2:9)
 クリスチャンはこの世を治めるべき王であり、祭司であると言っています。祭司は民の思いを神に伝え、神の御旨を民に語り、正しく導くという務めがあります。
 私は岡山の美作土井で、七人の殉教者の話を聞いてきました。新しく赴任してきた殿様の意向で、田を測り直すことになりました。しかし、役人が使う測り竿が故意に20%短くされており、そのままでは今までの田がより大きな田ということになり、それに見合った年貢として20%増しの米が請求されることになります。それではとても生きていけません。このような不正を許してはいけないと、熱心なクリスチャンの農民が直訴しましたが、役人はこの七人を、キリシタンだということで、首を切って殺してしまいました。彼らは世の不正を、命をかけて正そうとしました。クリスチャンは命をかけて、世の腐敗を正すようにと神から祭司の役を任命されています。このことを忘れないようにしましょう。

2.『神が用いたい人を選ぶ条件』(士師記7:5〜6)
 (士師記6:1〜6)で、イスラエルの民は、いくら農作物を育てても収穫をすべてミデヤン人に持って行かれるという苦しみの中にいました。正に骨折り損で、疲れ果ててしまう状態です。
 イスラエル人がこのようなひどい状況に陥った理由は、彼らが主の御前に悪を行ったからとあります。神はこらしめて学ばせるために、ミデヤン人を道具として用いられました。高慢な心を打ち砕き、敬虔な心と正しい信仰を学ばせようとされたのです。
 日本人は猛烈に働いて経済大国になり、今のような富を手に入れました。しかし大切なものを見失っています。そして今、経済は下降しつつあります。それは、富み栄えながら、世界の貧しい飢えている人々に余り目を向けず、せっかくの富をその人たちのために用いなかったつけが回ってきているからです。
 神から多くの物が与えられている理由は、その富を用いて、弱い人貧しい人々を支え助けるためです。そのことを認識しないでいると、世界から憎まれるようになってしまいます。
 イスラエルの民が苦しみの中から神を呼び求め始めたので、神はひとりの人ギデオンを解放者としてイスラエルに遣わされました。
(士師記6:11〜14)で、その選びの様子が書いてありますが、ギデオンは臆病で、どうも選ばれるような器らしくありません。しかし主の使いはギデオンに対して「勇士よ。」と呼びかけています。
 勇士というのは生まれつき強い人のことではありません。主が共におられる人のことです。主が共におられるなら、どんなに弱々しく見える人であっても勇士であり、偉大な事を為し遂げることができるようになります。神が共にいて、用いてくださるからです。
 なぜ神が共におられたのでしょう。それはギデオンが聖書を信じ、主を求め、主を恐れかしこんで、みことばを実践する人物であったからです。こういう人物こそ、神の選びの器なのです。彼は決して大胆な強い信仰の人ではありません。しかし、たとえ弱い信仰であっても主を信じて一歩を踏み出す時に主は共にいてくださるのです。ギデオンは気の小さい人でしたが、神のことばに従って一歩踏み出した時、父親のヨアシュがまず彼を助け、とうとう三万二千人のイスラエル人が集まってきました。(士師記7:1〜8)しかしここで、主は兵の数が多すぎると言われ、ついには300人だけを選び残されました。敵は13万5千人もの大軍なのにです。この300人は、油断せず、敵に備えて片手だけで水をすくって飲んだ人々です。
 教会では神の愛、恵みが多く語られます。それも大切な使命ですが実は「戦う」ということが大きな使命なのです。
 油断せず、いつも使命感を忘れないクリスチャンを、神は求めておられます。主は兵士たちの心から、自分の力や才能により頼む思いを徹底的に砕いて、主にのみすがる姿勢をここで整えられました。それは自分を誇らず、神の栄光が自分の人生を通して表れるようにという心をいつも持っているということです。
 神は三万人の兵を300人にして、イスラエルを救うと言われました。私たちは、自分の財産や才能を100分の1にされても大丈夫と言えるでしょうか。無理ですと言うでしょう。主は私たちに主が共にいてくださらなければ何も出来ないことを悟って欲しいと願っておられます。主の前に自分は全く無力であると認めてへりくだることが大切です。(士師記7:2)に私たちは誇りやすい者だからと書いてあります。自分の無力さを徹底的に悟った人こそ神は用いることができるのです。自分の才能を誇る人は、成功したら自分を誇り、神に栄光を帰さず、最後には高慢になって、悪魔に滅ぼされてしまいます。私たちは自分の持っているものすべてが、実は神の恵みによるものであるということを、もう一度改めて考えてみるべきです。そして神に心から感謝して仕えましょう。神が私たちから何かを取り上げられるのは、もっと良いものとして返してくださるためです。ヨブ記にはその真理が表されています。

3.『土の器が砕かれてこそ、中の宝が輝く』(第2コリント4:1〜7)
 ギデオンは13万5千人の敵に対し、300人だけで立ち向かうよう語られました。彼の内に恐れがきましたが、敵がギデオンの勝利を夢に見たという話を聞き、奮い立ちます。そして一度に300の角笛を吹き、つぼを打ち壊し、敵を驚かせます。(第2コリント人への手紙4:6〜7)クリスチャンこそが、ギデオンのように活躍し、戦うことができるのです。皆さんもこの教会で、ギデオンの300人の一人となって戦いに参加してください。自分は弱いから何もできないと言ってはなりません。ギデオンも弱かったのです。もしあなたが一歩、神のみことばに従い始めるなら、必要な力は聖霊が与えてくださいます。

4.『使命を果たすためには苦しみがある』(ピリピ1:29)
 津和野では、36人の殉教者が出ました。153名の信仰の篤いクリスチャンが連行され、ひどい拷問に遭いました。その時まだ五歳のもりちゃんという女の子を役人の一人が哀れに思い、部屋に連れてきて、もしキリストを嫌いだと言えば、お菓子も食べさせ、自分の養子にしようと説得しました。しかしこの五歳のもりちゃんはきっぱりと拒否し「パライソにはもっとおいしいお菓子あると!(天国にはもっとおいしいお菓子があるということよ!)」と言いました。
 私たちは今殉教するという状況ではありません。しかし、もし命をかけてイエス様を証ししたいと願い、時間やお金、労力を今より少しでも神に捧げたいと願うなら、どれほど多くの人がさらに救われてくることでしょう。

5.『クリスチャンの最大の希望は復活と天国』
(参考:第1コリント15章、第2コリント5章、6章)
 広島にも殉教の地があり、己斐で22名の人が殉教しました。彼らは踏み絵をして生きるより、死ぬ道を選びました。クリスチャンの最高の希望は天国にあります。死んで終わりではなく、天国に行けるのです。さらに、復活してこの地を神と共に支配する、千年王国に入ることができるという望みがあります。その希望のゆえに彼らは死をも厭いませんでした。
 今日、もしあなたが今までよりさらにもう一歩進んで、何かを犠牲にして神のために働かれるなら、ギデオンの選ばれた300人の精兵になることができるのです。

 

 

 

 

 

 

 
■2006年10月22日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 小栗 恵子師)

   用意周到 よういしゅうとう  up 2006.10.22


準備やしたくが十分に行き届いていて、抜けたところがないこと。

それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。
(アモス4:12) 


 

 

用意は目的があり、持ち物を準備したり、技術的なものを体得していったり、行く場所に対しては、経験者に情報を得て用意をしたりします。
さて、私たちクリスチャンは天の御国に入るために地上で用意をします。(お金を貯めたり、善行を重ねたりして入れる所ではありません)私たちは天の御国を知っておられるキリストと聖霊の導きによって用意します。
主題のみことば「アモス書4:12」のアモスは預言者の一人です。神様はいつの時代も預言者を遣わして、神の御心を伝えました。預言者のことばは国の命運を握っていましたが、聞き従うこともないがしろにして無視することもできました。
この箇所は神に立ち返ろうとしない、分裂後の北王国イスラエルに対して神の厳しいことばが宣告されています。「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」といろいろな手を尽くして民を立ち返らせようとした神の嘆きのことばに続き、「イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」と万軍の主、すべての創造主が言われたのです。言うまでもなく、霊的イスラエルである私たちも、このことばをしっかり受け止めたいと思います。
神は私たちと共にいることを喜ばれ、望んでおられます。アダム以来、罪を犯し続けてきた私たちを、それでもご自分に引き寄せるため、私たちの身代わりに尊いひとり子イエス・キリストを十字架につけられました。キリストは死んで葬られましたが、正しい方が死につながれていることなどあり得ず、死の力を滅ぼして、よみがえられ、そして天に上られました。
悪がはびこった今の時代、戦争、ききん、地震、いじめ…神様が憂える状況が取り囲んでいる中で、<第1テサロニケ人への手紙5:9>神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
世界の基の置かれる前から、キリストのうちに選ばれていた私たちを、神は今この邪悪な時代に置き、聖霊様を一人一人に送り、最高の愛を示された神の愛への応答をこの地上で表すようにされました。肉を持ち、罪の誘惑を受けながら、神のあわれみに必死に応えていく生き方は報いがあります。この報いがキリストが二度目に来られる再臨です。私たちは再臨のために用意するのです。
しかし、あえて「備えをせよ」とあるのは、私たちの神への純真な心を奪おうとするものがあり、備えをさせなくするからです。
(1)悪魔の存在…神への愛を貫かせまいとし、思いを汚してくる。エバへの欺きの言葉かけを受け入れたため、その後の人類の背信につながった。
(2)私たちの内に潜む弱さ…油断、霊的眠り、生ぬるさ。同じことを聞いても、悪いしもべは事態をわきまえず、油断し、主人のことばを侮った。日常的なことで心が奪われ、備えどころでなくなる。
神と共に生きる存在である私たちが永遠に神から引き離されることは、神の一番の嘆きです。
<そのために私たちは何を備えるのか>
◎主と心を合わせる…心を見られる主(第2歴代誌16:9)「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。…」主に合わせようとするへりくだりが必要。主の願いが自分の願い。肉中心(自己中心)でなく、御霊中心。悪いしもべは主の心を知っていたが、自己中心を選んだ。肉中心に時間を費やすと、主がいつ来られるかわからず、準備ができていない。
結局、準備はその人が心にどのくらい大切と思って受け止めるかによって違ってきます。私たちは今の時を知って、備えたいですね。

1.主に立ち返る(哀歌3:40〜41)
自分の神を忘れていないか、道がそれていないか、調べる時間が必要です。自分の考え方、言葉、振る舞い…を主の前に立ち止まって聞く時(←デボーション)を持ちましょう。
放蕩息子は父親の愛から全く離れ、自分中心に生きることを決めました。しかし、飢え死にしそうになり、父親の下に「雇い人にしてもらおう」と立ち上がり、帰りました。父親は帰ってきた弟息子を自分から迎え、抱きかかえて一番良い着物を着せ、祝宴を開きました。私たちもこの世では寄留者であり、旅人です。この世の価値観では落ち着けず、霊は死んでしまいます。自分の歩みを調べて父なる神のもとに帰る必要があります。罪を犯した時、キリストが身代わりに十字架にかかってくださったことを信じるなら、赦されます。このことを信じて、着せてもらった義の衣を着続けていれば、父なる神に会えます。キリストを忘れたり、世の価値観に戻ったり、自己中心になったりして、この衣を脱ぎ捨ててはいないでしょうか。主に立ち返るために十字架のもとにひざまずきましょう。道がそれていることに気づいたら、悔い改めて神の方へ戻りましょう。「今は恵みのとき、救いの日」です。主は喜んで迎えてくださいます。

2.主により頼む(第2歴代誌14:11)
ユダ王国のアサ王は、主が良いと見られること、御目にかなうことを行い、その時地も平安を保ち、主の安息が与えられていました。「主に心が合わされている」と「平安がある」ともいえます。
時が経って、大軍勢を率いて突入してきたクシュ人ゼラフの前に数字的には全く不利に見える状況で、アサ王は状況に失望することなく、主にただより頼み、叫びました。敵は主によって守られている領地(信頼、希望)を奪い取ろうと踏み込み、主とのよい関係を崩そうとしてきます。しかしこの苦境を主がご存じないはずはなく、主により頼むために苦境を許されたともいえます。(主により頼んだなら勝利されるからです)また、苦境に陥って初めて何により頼んでいるか明らかになり、主により頼まないのは、主には力がないと言っているのと同じです。主はアサ王の叫びに応えられ、主が敵を打ち破られました。
また(第2歴代誌32章)に出てくる、ユダ王国のヒゼキヤ王も主の目の前に良いこと、正しいこと、誠実なことを行う中で、敵国アッシリヤが攻め込んできました。しかもアッシリヤの使者は民が信頼する神への信頼を崩そうと、大声で神をののしってきました。しかし民は一言も答えませんでした。私たちも主への信頼を失わせようと悪魔の声、肉の声が働きかけてきても、反応する必要はありません。正しい良心の思いを消し去る肉の声でなく、キリストの声にのみ聞き従う新しい自分を自覚しましょう。主のことばを忠実に聞く者に主の報いがあります。
またより頼むためには、アサ王、ヒゼキヤ王のように自分の無力さを認め、へりくだって主にお任せすることが大切です。心を開いた分、主が働かれることができます。苦境は主との信頼を深めるものなのです。先ほどのアサ王は、次にイスラエルに攻め込まれた時には、主により頼まず、アラムの王(人間的力)に解決を求めました。その結果、主の平安が崩れて行きました。(パウロはそれまで自分に益と思っていた、以前の人間的価値をすべて損だと思えるほど、キリストを知る価値には変えられないと言っています。)主により頼む心は主と心が合わせられています。何により頼んでいるか吟味したいですね。

3.互いに励まし合う…集まりの大切さ(私たちの交わりとは御父および御子イエス・キリストとの交わり)(ヘブル人への手紙10:25)
集まる時、キリストの愛を全うするチャンスです。地上でしかできません。不完全な者同士がいかに互いに受け入れ合い、励まし合うことができるかです。(例:大洪水の中で、バスの屋根の上に、励まし合って寒さをしのぎ、全員帰還した出来事。互いに補い合って完成する組体操のピラミッド。)
神は私たちをキリストの血潮で覆われた聖く傷のないものとなった栄光の教会として、集合体として見られます。それは愛の結びの帯で結び合わされます。互いの間に愛があることを、神は喜ばれます。もちろんそれぞれ違うところから集められた私たちが組み合わされる時、受け入れるための痛みも伴うでしょう。その時、私たち罪人のために屈辱を受けられたキリストの十字架の姿を思い起こしてください。人を赦して心が痛む時、キリストの救いにあずかっているのですから。
一人一人が互いの重荷を負い合うところに、キリストの姿が重なります。キリストへの信仰を持って互いを見ましょう。支え合う中にキリストの愛が表され、ますます堅固な結びつきとなります。このようにして、主に再び会う日を共に待ち望んでいきましょう。そして主と心を合わせながら、軌道修正しながら、共に神に会う日まで備えて参りましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年10月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   如是我聞 にょぜがもん  up 2006.10.15


『私はこのように聞いています』という意味。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。
(ヤコブ3:18) 


 

 

今週はこのみことばから、『義の実を結ばせる』とはどういうことか、その種とは何か。平和をつくる人とは誰のことか、平和のうちに蒔かれるとはどのような蒔き方なのかを学び、今年のテーマである「平和をつくる者」ということを考えていきましょう。
「如是我聞」
かくのごとくわれきけり「私はこのように聞いています」
この四字熟語は釈迦が自分の教えを弟子のアナンにまとめさせる時、冒頭に必ずこの言葉を書きなさいと言った、その言葉です。それは弟子たちが自分の教えのように語らないように、釈迦から聞いた教えだということをはっきりさせるために、命じたといわれている言葉です。私たちも、どのように聞いてきたのかが、平和をつくっていくために大切な要素だということに気づいていただきたいと思います。
「人々に『救い』は必要です。それは創造主であられる父なる神様の思いです。なぜなら、『救い』とは元のあるべき状態(創造の目的)に戻されることだからです。私たちは神と共に存在する者として命が与えられているのです。」
救いとは、根本的には、元の状態に戻るということです。元の状態とは、創造の目的を意味します。何のために人は生まれ、いのちが与えられているのか、何のためにこの世界があるのか、その中に何で私たちは置かれているのでしょうか。
元の状態に戻されるとはどういうことでしょうか。人は神と共に存在する者としていのちが与えられているのです。これが創造の目的です。私たちだけが神の創られた世界で生きるのが目的ではなく、神と共に生きるということが目的なのです。神は私たちと一緒に過ごしたいと、ご自身のかたちに似せて私たちをお造りになりました。そこに立ち返ることが「救い」ということです。この救いと義とはどう関係するでしょう。
《義とは何でしょう?》神の正しさ。人にとっての『義』とは『救い』のことです。
義とは神の正しさです。支配者が義の基準になります。その国の帝王が、その国の義の基準となり、家庭では夫の価値観がその家庭の義となります。治める者が治める範囲の義となります。それぞれの国の義があり、その義同士がぶつかり合って戦争となっているのです。しかし、創造主の義こそが、全ての人が受け入れるべき共通の義であるべきです。神の正しさには、私たちを造られた目的も含まれています。すなわち、神と共に存在するために私たちが造られた。これが神の正しさから考える人間にとっての義です。だから私たちは、神と共に歩んでいなかったならば、救われる必要があるのです。
救いの必要を感じないという人は、自分を基準にして判断するので、救われる必要はない、人生は自分で切り開いていくものだと自己中心に考えていき、元のあるべき姿がわからないのです。ただ自己達成のために生きるのが幸せだと考えているので、救いが必要であると思わないのです。
救いとは、存在目的に戻るということです。ですから、人間にとっての義は『救い』ということになります。私たちが義とされるとは、元の創造された状態に戻ること、すなわち「神と共に生きる」というのが『義』です。目的の状態に戻れば、おのずと罪を犯さなくなっていきます。しかし目的から外れていくと、いくらクリスチャンでも罪から離れることができなくなります。あなたの正しさは自分の義ではなく、支配者の義として受け入れなければいけません。すなわち、「私は神と共に生きるためにここに存在している者である」という真実を受け入れることです。みなさん、救いが必要であるということを正しく受け止めてください。
私はまだ罪を犯し続けているから救われていないのではないかと迷うクリスチャンがいます。神と共に生きるということをあなたが受け入れているなら、あなたは救われています。
《義の実とは何でしょう?》人々が救われること。救われた魂のこと。創造の目的に戻った人。
義は「救い」です。そして義の実とは私たち自身、「救われた魂」すなわち創造の目的に戻った人、神と共に歩むことを決心した人のことです。イエス様を信じる時に、信仰の告白として大切なのは「私はイエス・キリストを私の神として生涯従っていくことを決心します」です。この従っていくというのは、一緒に歩むということです。その時に義の実が結ばれるのです。皆さんは義の実です。
では義の実を《結ばせる種とは何でしょう?》福音。福音の言葉。イエス・キリストについて。神のご計画。
私たちが救われるために、神様はすばらしいみわざを行ってくださいました。それを「福音」と言います。元の状態に戻ることができるための良い知らせ、救い主イエス・キリストについての言葉であり、それは神のご計画なのです。義の実を結ばせる種とは、救いに至ることばです。子どもが迷子になった時に、家に戻るということは救いです。子どもは両親の元にいるべき者です。私たちも神と共に生きるべき者として生まれてきたのです。そのことを実現させるための言葉が、義の実を結ばせる種です。罪という神との間の大きな溝を、イエス・キリストの身代わりの十字架によって血を流し、赦してくださいました。赦しがあるから元に戻ることができるのです。
《「平和をつくる人」とは?》神の子と呼ばれる人々。救われて福音を伝える人生を歩んでいる人。
平和をつくり出す人とは神の子と呼ばれる人々です。神の子どもたちは、この地上において、救われて福音を伝えて歩むという目的を与えられています。天国では平和をつくる必要はありません。平和でないところに平和をつくる必要があるのです。この地上で歩んでいるのは、平和を広めていくためです。その平和を通して平和の中に入った人々が、この地上が神によって裁かれる時に一緒に裁かれないためです。この平和を維持する人は、この地上で神の国を形成します。その神の国は、この地上が裁かれる前に神の国に引き上げられるのです。だから、この平和の中にできるだけ多くの人々を導き入れるために、私たちはこの地上にいるのです。これがこの地上にいる目的です。どんな仕事や環境の中においても、あなたを通して救われるべき人が元に戻るための道しるべとして、この地上に残されているのです。これ以外の目的を持ってしまうと、私たちは的外れの存在になってしまいます。的外れとは罪を犯すということです。何よりも一番神様が悲しまれるのは、目的にそれた歩みをすることです。人々が神と共に歩むことができるようになるための証し人として生きていくことを、あなたが忘れてしまうことを、神は悲しまれるのです。
あなたが、神はいないというイメージを持たせてしまうような生き方をしてしまうことを、神は悲しまれるのです。「それなら罪を犯せないではないですか。」と思いがちですが、そうではありません。。罪を犯さない人間は、この地上で証しにはならないのです。なぜなら、この世には罪を犯す人ばかりなのですから、罪を犯している人が救われるということがなければ、罪を犯している人々は望みを持てないのです。100点ばかりとって、一度も0点をとったことのない人は、0点ばかりをとっている人のお手本にはなれませんが、0点ばかりとっていた人が100点をとれたら、お手本になれます。私たちがまだ罪を犯しているけれども、救われているというところに、罪を犯し続けるこの世の人々が救われる望みを持てるのです。私たちは罪を罰せられるために造られたのではありません。神と共に存在するため、神の子として生きるために造られたのです。ご自分に似せて造られた私たちを、罪を犯したからといって、そう簡単に裁かれる神様ではありません。私たちが気づかなければいけない罪は、違反することではなくて、神様のお造りになったご計画から外れてしまっているということです。神と共に歩むために造られたのに、自分の欲望のために自分勝手に生きていることを悔い改め、イエス・キリストの救いによって元の状態に戻って欲しいと願っておられる神様にお委ねしましょう。
《「平和のうちに蒔かれる」とは?》争いを避け、平和のために、あらゆる犠牲をもって福音を語り続けること。平和のうちにというのは、力づくで無理矢理従わせられて平和をつくるのではないということです。真の平和は、お互いに認め合い、受け入れ合い、赦し合うという関係で造られるものです。力づくで従わせる平和は必ず反発を招きます。夫婦や親子関係でも、互いに赦し合い認め合うことがなければ、平和はあり得ません。私たちは争わないという姿勢で福音のことばを語り続けることが必要です。もし失敗しても、その後に神を敬う者としてどういう姿勢をとるかが大切です。
たとえあなたが失敗しても、キリストの福音がまちがっているのではありません。だから、自分の間違いを素直に認めて、相手に謝ることができるのです。

1.平和のための種蒔き(ヨハネの福音書7:18)(ヨハネの福音書16:13)
平和をつくる者として義の実を結ばせる種を、平和のうちに蒔くとは、どういうことかを思いめぐらし、実行してみましょう。ヒントは『如是我聞』です。
平和のための種蒔きに必要なのは、「私はこのように聞いています」ということです。種を蒔く時、自分勝手なやり方ですると、良い実ができませんが、お百姓さんに聞いてその通りにやると、良い実ができるのです。私たちが福音を語る時、自己流ではなく、「私はこのように聞きましたよ」という通りに語れば、義の実がなるのです。『こんな私ですが、福音によれば、「無きに等しい者を選ばれた」とあります。だからこんな私も造りかえられるのです。』と。病気の中にある人には、『福音によれば、「イエス様は十字架であなたの病を負ってくださった」とあります。だからあなたの病気もいやされると、私は聞いています。』と聞いたことを話すのです。聖霊様でさえも、「御霊は自分から語るのではなく聞くままを話し…」とあります。この聞くというのは、受け売りではなく、聞いた人もしっかりと理解し、悟って語るということです。聞いたことを正しく理解しなければ、正しく伝えることができません。みことばの種は生きています。私たちは今日まで神のみことばをどのように聞いてきたのか自問自答しながら、キリストの福音を語り、平和のうちに義の実を結ばせる種を蒔くことにチャレンジしていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年10月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   率先垂範 そっせんすいはん  up 2006.10.8


人の先頭に立って物事を行ない、模範を示すこと。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
(マタイ3:8) 


 

 

イエス様が公生涯に入られるまでにバプテスマのヨハネがヨルダン川で水の洗礼を施していました。その当時のユダヤ教は神の前に実のない型だけを重んじる信仰になっていました。神はバプテスマを通して悔い改めを語られたのがこの一節です。
原爆を投下された都市として、世界で一番平和を願っているこの街に私たちを置いてくださっているご計画は、神を畏れる心を持って世界に平和を発信していく街になるようにと、私たちの教会に「広島エルサレムプラン」というビジョンを与えてくださり、今それに向かって前進しているところです。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子と呼ばれるからです。」(マタイの福音書5:9)と聖書は語っています。私たちはキリストの枝として(平和をつくり出す者として)人々が救われ、神の子と呼ばれる人々を生み出していくのです。
実を結ぶためにもう一つ大切なことは、悔い改めです。霊的DNAという言葉がクリスチャンの間で語られることがあります。私たちを通して救われてくる人々にも霊的DNAが伝承されていくということです。イエス様のDNAを結ぶ本来のクリスチャンは、悔い改めにふさわしい実を結ぶ人々です。ルカの福音書18:9〜14のイエス様のたとえ話から考えてみましょう。
自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書18:9〜14)
実とは行動(結果)を現しています。実際の行動を見てその人の価値判断をすることがあります。パリサイ人は聖書をよく研究し、民の模範的なリーダーでいる信仰者です。しかし、神の前に義と認められたのは、実際には悪いことをやっている取税人でした。この取税人は余分に税金を取ったり、貧しい人々からも税金を取っていました。何をどう悔い改めることが神に喜ばれる悔い改めにふさわしい実なのでしょう。『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる』というみことばの中に意味が含まれています。
神は何を見ておられるのでしょうか。

1.へりくだった心から実がなる(詩篇51:17)
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
パリサイ人は、自分はゆする者、不正な者、姦淫する者ではないと言っています。直接的にはゆすっていません、直接的には不正はしていません、直接的には姦淫はしていません。しかし律法を通して神のことばを道具とし、脅迫的に民をゆするのです。
取税人は直接的にゆすっています。直接的に不正をしています。直接的には姦淫をしています。どちらも罪人で、神の前に完全に義を全うすることはできない者なのです。
そこで神は悔い改めにふさわしい実を要求されるとは、どういう意味のことなのでしょう。取税人は自分が罪の生活から抜け出ることのできない罪人だと、神の前に正直に認めて「私は本当に神様の前に出てこられないような者ですが、どうかあわれんでください。このような生活を続けるしかない私なのです。」と、自分の悩み、苦しみを祈ったのです。
パリサイ人は堂々と、神の前に「私はこの取税人のようでないことを感謝します。」と言っています。このパリサイ人は私たちクリスチャンの代表と考えてもいいでしょう。取税人はこの世の、まだイエス様を信じていない人々であるかもしれません。私たちはパリサイ人のような表面的な信仰者であってはならないのです。忘れてはいけないことは、罪人であるというへりくだった心です。神の前に、そして人々に対しへりくだった姿勢こそが、良いDNAを持った実を実らせることができるのです。

2.価値観に現れる実(第2歴代誌12:6)
すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「主は正しい。」と言った。
ユダの王レハブアムは、最初神に従って平和でした。しかし軍備を備え、力が付いてくると、神に頼ることをしなくなり、自分の力や能力や兵士に頼り、傲慢になって主に対して不信の罪を犯しました。傲慢になって神の守りを忘れてしまうと、問題が起きてくるものです。エジプトの王がエルサレムに攻め上ってきたのです。その時預言者がレハブアムとイスラエルのつかさたちに、主を捨て去ったことを指摘しました。するとイスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「主は正しい。」と言ったのです。へりくだりとは、主は正しいと告白することです。それは価値観が変わることです。主が語られることはすべて正しいという価値観こそが、悔い改めにふさわしい実として生まれてくるのです。

3.行動に現れる実(ミカ書6:8)
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。
私たちは救い主イエス・キリスト様を通して罪を贖われ、神と共に歩むことができるようになりました。私たちはイエス様についていくのです。神が今この時代に、何をすることを願っておられるのでしょうか。“あなたの敵を愛し(なさい)”(マタイの福音書5:44)とあるように、敵であっても、苦しみ、悲しみ、弱っている人をあわれみ、施しなさいと言っておられます。また“天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる”(マタイの福音書5:45)とは、神はあわれみ深い方ということを語っておられるのです。イエス様を通して、今は恵みの時、救いの日です。最後の審判が来る日までは、罪人が悔い改めて救われるチャンスの時です。あなたも神からあわれまれたように、隣人をあわれみなさいということなのです。これこそが「神と共に歩むこと」です。悔い改めにふさわしい実とは、「あわれみ深い」ということです。神の前における私たちの教会のDNAは、正しい良心を備えたあわれみ豊かな教会です。(信仰姿勢、理念です)
悔い改めにふさわしい実を結ぶ「率先垂範」の日々を、私たちはこれから目指していきましょう。
救われる人々のために。

 

 

 

 

 

 
■2006年10月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   跳梁跋扈 ちょうりょうばっこ  up 2006.10.1


好ましくないものが、思うままにのさばり、はびこるようす。

愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」
(ユダ1:17〜18) 


 

 

このことばは、神が使徒を通して私たちに語られたものです。この手紙が書かれてから既に1900年以上経ち、今は正に終わりの時です。人類の歴史はますます悪くなってきています。
こういった状況を表したのが、この四文字熟語です。
跳梁…飛びはね、走り回る。思うがままに振る舞う。
跋扈…悪い者たち。あざける者たち。
世の中では一見正しそうに聞こえても、実際は神を敬わない、不敬虔な者の言葉がメインに報道されています。道徳的判断では間違っているとわかりきっていても、それが正しく行われないのです。
例えば、先日報道されましたが、人殺しをして自分の家の下に埋め、都市計画で立ち退かなければならなくなった犯人が、既に時効の25年を過ぎてしまったことを承知で自首しました。法律上、彼を裁くことはできません。遺族は民事訴訟を起こし、ただ「死体遺棄」という罪状のみの330万円の賠償金判決を得ました。しかし「殺人」としては裁かれませんでした。遺族の悔しさ、嘆きはいかほどでしょうか25年間隠し通せば人を殺しても裁かれないということです。こういった事を道徳的に受け入れられるでしょうか。
しかもこの犯人は悔恨の情もなく、25年過ぎたのだから遺族に謝罪する必要もないと思っているのです。良心のない不敬虔な態度です。不敬虔な人は、法律も自分の都合のいいように利用しさえします。今は敬虔な者、正しい者をあざけるような時代です。裁判で無罪となれば、どんな間違ったことをしていても平気という、そのような心を、クリスチャンは持ってはなりません。
このような悪い時代になぜクリスチャンが生かされているのかを考え、悪いものに多数決で影響されたりしないクリスチャン生活を送るために、今週は学んでいきます。

1.多くの実を結ぶための刈り取り(ヨハネの福音書15:2)
ぶどうの実は「魂の救い」と「御霊の実、内なる品性」の二つが例えられます。今回は「魂の救い」に就いて考えます。大きな粒とぎっしり詰まった美しいぶどう房はどのようにして作られるのでしょう。これほどの房を作るためには、人の手が加えられる必要があります。大きなきれいな実をたくさんつけるために、枝であるあなた自身が刈り込み、つまり「きよめられる」必要があるのです。生活しにくい大変な環境の中で、忍耐を働かせ、練られます。忍耐はその人を完全にできると聖書にあります。悪い時代だからこそ、練られ、きよめられ、クリスチャンが良い実を結ぶようになります。神は目的をもってあなたを練られています。美しいぶどうの房のように、あなたは整えられ、成長させられます。その神の目的がわかってくると愚痴不平はなくなり、感謝の心が湧いてきます。
また、きよめは自分のためである以上に、人々のためになります。人は自分の存在を喜ばせる以上に、周りの人々にその影響を与え、役立っていると知る時、何よりも喜びが湧いてくるものです。個人で優勝するより、チームで優勝する方が楽しいように。良い枝からは良い実がなります。あなたという枝を通して、人々という実が実っていくのです。お酒やタバコ等、私たちの教会ではきよめのための教えが多くされていますが、それは脅しや窮屈なものではありません。ただ良い実を結ぶため、良い枝となるためのきよめです。神は良くないものをあなたの中から切り取り、刈り込まれていきます。世の中との妥協は、この刈り込みを拒絶することになります。

2.出かけて行って実を残す(ヨハネの福音書15:16)
罪を犯さない人生とは、法律的な意味ではなく、目的に沿った人生であることを意味します。その目的の二つ目は「実を結ぶこと」です。この困難な時代に、神はあえてあなたを選んで生み出されました。それは最高の実を結ぶための環境を与えられていたからです。そして敬虔な神を畏れる人生をあなたが送っていくことで、この世に失望して誠実な正しい良心をもって生きたいと渇いている人々の励ましとなります。
人々はクリスチャンの生き方を通して、神の目的と計画を知り、人生の意味を教えられるのです。この世界は良くはなりません。神はこの世界をいずれは裁くと言っておられます。罪は裁かれる必要があるからです。神は全ての悪に報いを与えられます。しかし裁きを免れるべき人々、真理を求め、苦しんでいる人々がいます。このような人々にとってあなたは光となり、希望を与えることができます。救われてくる神の小羊たちのために、あなたはこの地上で生きているのです。自分のため、自己達成のためではなく、救われてくる人々のためにあなたの人生はあります。永遠に残るのは、あなたを通して救いに至った人々の魂です。あなたの存在の影響力は、地位や名誉、才能、能力からくるのではなく、真心からくる人々への敬虔な愛の行為にあります。それが人々を勇気づけ、励まし、永遠に至る道を人々に紹介することになるのです。
イエス様を信じている私たちも、世の中の人々と変わらない罪人であり、誘惑にも弱い者です。しかし自分を見失わず、神の子としてそれにふさわしい生き方をしたいという、大きな葛藤と心の疼きを内に持ちつつも、神がおられる故にやり直せるという信仰をしっかりと持ち、悔い改め、また立ち直っていけるのです。
しかし世の中の人々は神を知りません。彼らにとって悔い改めは空しいものです。神は人々が不敬虔か敬虔かを見分けるために、「救い主イエス・キリスト」を与えられました。イエス・キリストは人々の罪を贖うための人生を忠実に歩まれました。そして十字架で現実に血を流し、救い主としてふさわしい道を完成されたのです。この道こそ真理であるという証をするために、私たちは選ばれています。たとえ罪を犯すことがあっても、悔い改め、敬虔に、神が与えてくださった目的に沿った道を歩んでいるなら、そこに人々は神が生きて働いておられる希望を見いだします。私たちは単に宗教をやっているのではありません。神を礼拝し、祈る時に、確実にきよめられ、変えられていくのです。その姿を人々にはっきりと証ししていきましょう。
私たちは苦しみもがきながらも神を求め、神への信仰の故に忠実に生きたいと心から願っています。私たちの人生は自分のためではなく、救われてくる人々のための人生です。魂が救われるという実が結ばれるための祈りなら、神は何でも聞いてくださいます。心の底から神に渇き、正直に生きたいと願っている人々が、あなたを通して救われてきます。周りが暗いほど、あなたの光はたとえ小さくてもはっきりと輝き現れてきます。今与えられた環境の中で、しっかりとクリスチャンとしての光を表していきましょう。

3.私たちが「一つ」となる(ヨハネの福音書17:21)
逆境であり、反対者が多いほど、敬虔な人々は一つにまとまる力が強くなります。世の中が不敬虔になればなるほど、クリスチャンは団結していきます。互いに批判し合ったり、世の中の人にクリスチャン同士での批判を話していたのでは、誰も教会に来たいと思わなくなります。(未信者の家族にも)色々な個性の人々が、色々な欠点を持ちながらも兄弟姉妹として赦し合い、受け入れ合っている様子を見て、世の中の人々は神の愛を知ることができます。お互いが悔い改めて新しい人生を歩んでいます。自分中心を捨ててお互いを認め、必要としていきましょう。
すべての人生の辛さ苦しさは、今日のあなたのために必要だったのです。この地上の人々に神を証しするために歩んできた人生です。神のご計画と目的を今日学びました。しっかりと自分の人生を選び取っていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年9月24日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 横路 満弘師)

   二者択一 にしゃたくいつ  up 2006.9.24


二つのもののうち、どちらか一つを選ぶこと。

「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
(黙示録3:15) 


 

 

私たちは朝起きて夜寝るまで「二者択一」の生活をしています。感謝と祈りをもって一日を始めるか、辛い眠いという思いだけで始めるか、洗面・食事をいつするか、すべての日常生活は「二者択一」の連続です。
さて、ラオデキヤの教会は豊かな教会でしたが、これで良いのだと満足していて、生ぬるく、もっと愛を求め聖さを求め、主を求めたいという姿勢がなかったようです。
熱いお茶が好きな人は、生ぬるいお茶は欲しくないようです。神様は、求める者には更に与えてくださり、冷えた者にはそれなりの導きと励ましをもって取り扱ってくださるお方ですが、はっきりしない生ぬるい者は扱いにくいので吐き出してしまう、とおっしゃっています。
私たちの信仰生活は中途半端で生ぬるいものとなっていないでしょうか。天国へ行く道を歩んでいるのか、そうでないのか、神を愛する生き方をしているのか、世を愛する生き方をしているのか、神を見上げているのか、問題だけを見ているのか、私たちはどちらを選んで歩んでいるのでしょうか。
「冷たいか熱いか」と、ラオデキヤの教会に語られたメッセージから、今日私たちにも神様が語っておられる三つの点について「二者択一」の視点から考えてみましょう。

1.主に近づいているか、離れているか(ヤコブの手紙4:8)
(ヤコブの手紙4:8)には、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」とあります。親しい間柄においては、いつも語り合える至近距離の交わりがあります。神様と自分の間にはどのくらいの距離があるのか、考えてみましょう。さらに近づくことをしたいものです。私たちが神様に対して距離を感じていて近づけない場合は、「罪があるか」「二心があるか」と指摘されています。私たちの内に悔い改めていない罪が残っていたり、神を愛していると言いながら、世の楽しみを捨てかねている心の両方を持っているとすれば、神様は、悔い改めてそれを捨て、主に近づくことを選びなさい、と勧めておられます。
(ルカによる福音書19:1〜10)には、イエス様に近づくことを選んで人生が変えられた人「ザアカイ」について書かれています。ザアカイはイエス様を見たいと願って、どんどん近づいていくことを選びました。(1)外に飛び出し(2)前方に走り出て(3)いちじく桑の木に登り(4)急いで木から降り(5)自分の家に喜んでイエス様を迎えました。(1)〜(5)の行動をとることを彼は選んだのです。それぞれの逆を選んで、イエス様と関係を持たないで離れる選択もあったのです。
また、イエス様と至近距離で食事を共にして交わるうちに、彼はイエス様の心にも近づき、(6)財産の半分を施し(7)だまし取ったものは4倍にして返すという、大きな決断、選択をしました。
私たちも毎日、主に近づくか近づかないでいるかの「二者択一」を迫られています。
今日、皆さんは礼拝に来られ、主に近づく良い選択をされました。また今週、家で毎日デボーションノートを開いてみことばを思い巡らし、良いものを選び取っていく一週間を過ごされることと思います。
私たちの主は二千年前に私たちのところに来てくださいました。すごく近づいてくださったことを感謝します。また私たちは主に近づき、聖霊様に触れられて、イエス様を信じて救われました。今は聖霊様に近づくなら、聖霊様と親しい交わりができます。

2.燃えているか、冷めているか(ローマ人への手紙12:11)
(ローマ人への手紙12:11)には「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。神様は燃える熱い心で私たちを愛してくださいました。今日、自分の内に愛が熱く燃えているでしょうか。冷めているところがあるとすれば、その原因は何でしょう。
(使徒の働き9章)を見ると、パウロはダマスコに行く途上、イエス様に出会って、迫害する者から180°反対側の伝道する者への道を選びました。神様は、熱い、燃えるような愛をもって私たちを愛し、御子イエス様のいのちを私たちにくださる選択をされました。私たちがこのすばらしい愛を受け取るなら、心の奥底から主に対する熱い愛が燃えてきて、主に仕えたくなるよう導かれます。
もし、私たちの心の愛が冷え始めているなら、もう一度イエス様の十字架の救いを思い出し、初めの愛から離れていないか自分自身を吟味してみましょう。私たちは罪によって滅ぼされても仕方のない者でしたが、父なる神様の燃える愛によって遣わされた御子イエス様の十字架の血潮の恵みによって救われたのです。私たちは神の前にふさわしくない者であったのに、驚くべき恵み、一方的なあわれみによって罪赦され、神の子とされたのです!!
もう一つの愛が冷える原因は、聖霊様と自分の関係にあるように思います。
私たちは聖霊様に触れられて、主イエス様を主として信じた者です。(第1コリント人への手紙12:3)しかし一度触れられただけでは、生き生きとしたクリスチャン生活をすることは難しいのです。イエス様は復活された後弟子たちに現れ、息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。(ヨハネによる福音書20:22)
聖霊様に触れ、聖霊様に満たされるなら、私たちの内に主の愛が燃えるのです。日々聖霊様を求めて満たされることを選び取り、愛に燃えた、生き生きとした主の証人になりたいものです。

3.主と共に歩んでいるか、自分だけで歩んでいるか(第1テサロニケ人への手紙5:10)
(第1テサロニケ人への手紙5:10)には、「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」とあります。私たちは内なる聖霊様を無視して、自分勝手な歩みをしていないでしょうか。「主とともに生きる」とはどういうことでしょう。ここでノアの選択について考えてみましょう。(創世記6:9)には「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。ノアは世の中の常識よりも、人々の迫害や困難の中にあっても、めげずに神の語られたみことばを選び取った人でした。100年もかかって巨大な箱船を建造することは並大抵のことではなかったと思います。厳しい労働と人々の嘲笑の中で、毎日毎日「今日は止めようか」という心と戦って、「いや、やはり神様のみ声に従おう」と選び取りながら成し遂げたのだと思います。
私たちも毎日、主のみことばに従って歩むか、自分の考え・世の中の常識に合わせて生きるかの「二者択一」を迫られています。
また、「主とともに歩む」とはどうすることでしょうか。「主のみことばを生きること」であり、「聖霊様の導きの中を歩むことを選ぶこと」だと思います。「みことばどおり、神と隣人を愛することを目標にし、自分の思い通りにしたいため聖霊様の導きを無視するような歩みを選んだりはしない」のです。もっと具体的に言えば、「日々内なる聖霊様と語り合い、良きものを選び取って歩むこと」です。
(ヨハネの黙示録3:20)には、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。これはラオデキヤの教会に語られたみことばですが、今、私たちにも同じように語っておられます。聖霊様は私たちの内に入られて、交わりをしたいと願われますが、私たちの方から心の扉を開くことを待っておられます。
有名なホルマン・ハントの「ドアをノックするイエス様」の絵があります。この絵に描かれているドアには、イエス様がノックしておられる側にはドアノブ(取手)がありません。主はむりやり入っては来られません。私たちの方から心を開いて、主をお迎えするのを待っていらっしゃるのです。心の中に、この部屋だけは入ってもらっては困る、という部屋を残さないで、全てを明け渡して主に清めていただきましょう。
私たちの願いは、24時間「目ざめていても、眠っていても、主と共に生きる」そのような生き方をするため、聖霊様にすえてを明け渡すことを選んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年9月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   楽観楽易 らっかんらくい  up 2006.9.17


将来の成り行きに明るい希望的な見通しをつけ、心やすらかに楽しむこと。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
(第1テサロニケ5:16〜18) 


 

 

いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できる人とは、楽観的考え方を持っている人です。「楽観的」という言葉は、一般的には、無責任で自分に好都合な考え方をしていくという否定的な意味で使われていますが、本来はもっと前向きなイメージで使うことが必要です。
特に日本文化は心配事の多い文化ですから、「もし悪いことがあったら」と将来に対していろいろと予想して対処してしまうことが多いのですが、行き過ぎると未来に対して明るい考え方が持てなくなってしまいます。将来に対してもっと希望的な良い考え方を持つことが必要です。
そこで楽観的な捉え方ができるために聖書から学んでいきましょう。
「楽観楽易」この四字熟語は辞書には載っていません。このメッセージのために「楽観」と「楽易」という語を合わせたものです。
私たちはあまりにも将来のことを心配しすぎて心を暗くし、せっかく与えられている神様の恵みを無駄にして、楽しむことをしないでいることが多いのではないでしょうか。
神様は私たちのために将来に良いものを用意してくださっていると、もっと前向きな明るい考え方をすることが大切ではないでしょうか。心安らかに人生を楽しむ生き方をしましょう。このみことばは、神様が私たちにキリスト・イエスにあって願っておられること、求めておられることです。「神様はこう言われるけど、現実はこうなんだ」とあまりにも現実に目を向けすぎて、将来神様がどんなにすばらしいものを用意しておられるかということを見ることができずに、人生を楽しむことができていないのではないでしょうか。
神様の私たちへの気持ちを受け止め、神様を信頼した楽観的生き方をしていきましょう。

『いつも喜んでいなさい』とはどういう意味?
【すべて神の恵みによって与えられているのだから、どんなときでも楽しみながら過ごしましょう。】
せっかく神様が与えてくださった恵みですから、苦しみ悩んで受け止める必要はありません。まず、命が与えられているということも神の恵みですね。私たちが願ったから与えられたのではありません。太陽も空気もこの大自然も、すべて神様の恵みによって私たちに与えられたものです。それを楽しんで生きていきましょう。『喜び』と捉えていくのです。神様が与えたものだという信頼を心に持ちながら楽しんでいきましょう。

楽観的考えの根拠<1>(ローマ人への手紙8:32)
このみことばが根拠となります。恵んでくださるとは、神様の方から気遣って、私たちに必要なものをただで与えてくださるということです。私たちが言わなくても神様の方からくださるのが恵みです。私たちはあり余る恵みをいただいているにも関わらず、あれがないこれがないと言っているのではないでしょうか。神の恵みによってすばらしいものが与えられていると気づくことが必要です。私たちが人生を楽しむために必要なものを、神様は恵んでくださいます。その証拠に、歴史の中に刻まれたイエス・キリストの十字架は、私たちが永遠のいのちを得るために罪の贖いのいけにえとして与えられたものです。
そこまでして私たちのことを考えておられるお方が、どうして私たちが人生を楽しんで生きるための必要を満たしてくださらないことがあろうか、と語られているのです。
私たちは、神様が与えておられる恵みを横において、別に自分の欲望を満たそうと考えているので、「神は恵んでくださらない」と間違った思いこみをしているのではないでしょうか。神様は私たちに本当に必要なものを与えておられるのに、私たちは周りの不敬虔な人々がやっていることをうらやんで、あれが欲しいと言って、目の前にある神様の恵みを無駄にしていることがあるのではないでしょうか。今与えられているものは、神の恵みなんだと、自分の分としてそれをまず楽しんでいくということが大切ですね。人と比べるのではなく、神様が私に必要なものを与えてくださっている、それを楽しんでいこうという気持ちで、いつも楽しむことができるのではないでしょうか。

『絶えず祈りなさい』とはどういう意味?
【心配事、気がかりなこと、辛いことや心苦しいことなどを神様に申し上げて、自分の気持ちを知ってもらいましょう。】
祈りとは神様との会話、神様に申し上げる時です。人には言えない内面的な思い、心配事をすべてあからさまに話せる友達、相談相手、神様はそんな真実な友として、あなたの相談事や悩み事を受け止めてくださるお方です。あなたの感情や思いを祈りによってぶつけても、受け止めてくださいます。そういう意味で、絶えず祈りなさいと教えておられるのです。

これは【楽観的考えの根拠<2>(第1ヨハネの手紙4:10〜11)】から考えることができます。「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」とあります。そこまでして私たちのことを心配してくださっているお方が、私たちが申し立てる心の痛みや苦しみを叱られることがあるでしょうか。そんなことはありません。私たちは罪人で、御心に沿うようなことが何一つできない者であるのに、イエス・キリストを代わりに罰して、私たちの罪を処分してくださいました。神様は私たちが言う自己中心の苦情や愚痴不平を丸々受け止めてくださり、その愛に触れると、愚痴不平が少なくなっていくということをご存じなのです。人は、自分が大切にされているとわかってくると、心が満たされてくるのです。自分が大事にされているとわかると、忍耐できるのです。
神様はひとり子イエスを遣わされたほどに、私たちを愛してくださいました。だから、人に愚痴不平を言うのではなく、神様に自分の心を全部打ち明けて、心をすっきりさせましょうというのが、絶えず祈りなさいというみことばに含まれている意味です。自分でも気が付かない心の奥底の悩みまでご存じである神様は、私たちの嘆き、悲しみ、苦しみ、心の痛み、心配事に対して心を開き、受け止めてくださるお方です。

『すべてのことについて感謝しなさい』とはどういう意味?
【良き神様におまかせすれば大丈夫だから、すべてのことを神様に感謝しましょう。】
すべてのことに感謝できるのは、『良き神様』という、神様に対する私たちの信頼の姿勢、イメージが大切です。あなたは神様をどう捉えているでしょうか。
単に願い事を叶えてくださるお方というふうにしか捉えていなければ、人格のない神様を描くことになります。私たちの思い通りになってくれる神様は人格がありません。私たちが願っても、それはあなたには今必要ないよ、と判断することのできる神様こそ、人格のある神様と言えます。
皆さんは、イエス・キリストが良き神様であると信じていますか。その『良き神様』というイメージは、「私の思い通りになってくれる神様」というイメージが含まれていませんか。
良き神様はあなたの思い通りにはなりません。子どもをわがままに育てる親は良い親だろうか、というのと同じです。子どもの言いなりに、欲しがるものをどんどん与えていく親が良い親でしょうか。違います。では私たち罪人の未熟な考え方を全部聞き入れてくれる神様は、本当に神様でしょうか。私たちのために、良いか悪いかを判断できる神様こそ、良き神様です。
だから良き神様にお任せすれば大丈夫だという神様への信頼から、すべてのことを感謝しましょうというのが、このみことばに含まれている意味です。

楽観的考えの根拠<3>(第2コリント人への手紙9:8)
「今は与えられていないけれど、神様は私のために良きことをお考えになっているんだ。すべての良きわざにあふれる者とするために、考えておられるのだ。まだ祈りに答えられないということは、何か神様のお考えがあって、私のために考えてしてくださっているんだ。今は祈りが実現していなくても、良き神様がしておられることだから大丈夫、感謝します。」と考えることができますね。

楽観的考えの根拠<4>(ヘブル人への手紙11:11)
もう一つの根拠は、神は真実な方であるということです。真実な方であるということを信じていく姿勢を、「感謝します」という言葉で表すことができます。
今は実現していなくても、神は真実な方ですから、一番良い時に私の願いに答えてくださると。「今の状況は私の思い通りではないし、苦しい状態が続いているけれど、あなたは良い神様ですから、必ずこの現実を変えてくださり、問題を乗り越えさせてくださるから感謝します。」と、未来を見て感謝をささげることができるのです。アブラハムの妻サラも、90歳になってもう子どもが産めない体であったのに、子どもが与えられると約束されました。ずっと祈ってきたのに、答えられたのは90歳になってからです。しかしサラは神様が真実な方だと信じたのです。今の時代、何でも早く自分の願いがかなえられないと我慢できないという社会風潮の中に生きているので、クリスチャンも、今日祈ったら明日答えられなければ神様を信じられないというような、神様に対する不敬虔な、傲慢な心を持っていないでしょうか。神様は私たちのためを思って、真実をもって祈りに答えてくださるお方です。だから大丈夫です。今は悪い状態に見えても、神様は良きお方、真実な方だと信じ続けていれば、必ずあなたの未来は良いものへと変わっていきます。良き神様にお任せしていれば大丈夫なので、すべてについて感謝しなさいというみことばがあるのです。このみことばはいい意味での楽観的人生の送り方です。すばらしい、愛なる真実な神様を信じているなら、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさいと神様は楽観楽易の生き方を願っておられるのですから、未来は必ず良くなっていると信じ、期待しましょう。歴史の中に御子イエス様をお遣わしになった神様がおられるのですから、この事実をもって神様の愛、真実、誠意、確かさをしっかりと信じて歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年9月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   訥言敏行 とつげんびんこう  up 2006.9.10


徳のある人は、口数が少なく、行動に敏速であるものだと言うこと。

さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
(ヤコブ2:18) 


 

 

今はいろんな論議をなされる時代ですが、行いが伴っていないように思えます。まず、自分自身で行動するということが大切です。
「私の信仰を見せてあげます」と、世の人々に自信を持って語れるでしょうか。論議するより、信仰を見せてあげることが必要です。そんな確信ある信仰生活を歩みたいものです。「訥言敏行」とは、敬虔な人は論議するのではなく、すぐに行動に移していくものだということです。
世の人々は、クリスチャンは神を畏れる敬虔な、徳の高い人々だと見ています。その期待を裏切らないような生活を、神と人の前にすることは大切です。しかし人の求めるレベルに合わせる必要はありません。自分に与えられる信仰に生きるべきです。一般的に宗教をしている人は徳の高い生活をしているとみなされますが、それを崩されるような多くの出来事が起こっています。彼らの期待を裏切らないような生き方を、強いられてではなく自ら喜んで、神様への愛の応答として選び取っていく生き方をすることが、私たちの使命です。
広島エルサレムプランは、まさにそのことの実現のためのプランです。この街には神を畏れ、一生懸命生きているクリスチャンたちがいるんだなと、未信者の人たちが誇りに思ってくれるようなクリスチャンでありたいと思いますね。
もし私たちがその生き方によって人々に非難されるなら、それはイエス様が非難されることになります。それは悔しいことです。「私の信仰を見せてあげます」と言える部分を一つでも持ちましょう。99ダメでも、1個証になるようなものを持ち、それを一つ一つ増やして行きましょう。

1.人々が認める行動とは(ヨハネによる福音書13:35)
未信者との間ではなく、クリスチャンたちの間に愛が見られたら、人々は神を畏れる人々の集まり、交わりだと認め、尊敬します。キリスト教国の歴史は、個人的にはすばらしい信仰者がいましたが、全体としてつまずきを与えてしまうような歴史を作ってきてしまいました。もしあなたのクリスチャン生活が人々のつまずきとなっているなら、もっとへりくだって、クリスチャンとして至らない、言われる通りの者ですと受け止めることが必要です。しかし、できているのにできていないと言われたらどう答えますか。「私の信仰を見せてあげます」と言えたらいいですね。それは仕事が成功することや、社会的地位に就くことではありません。才能や能力、学力ではなく、大切なのは私たちの間に愛が存在しているかどうかです。それが目に見える形で現れていなければ意味がないのです。
今の時代は、キリストの教えが本物であるのか、単なる哲学なのか、それとも実現する真理なのか、そのしるしを求めています。私たち互いの間に愛があるでしょうか。

2.クリスチャン一人一人の内に愛があるのでしょうか(ルカによる福音書11:9)
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)」
その愛はまず私たちの内になければ見せられませんね。私たちは聖霊のバプテスマに対する信仰を具体的に持つペンテコステ教会です。神を信じ、聖霊に触れられ、聖霊体験をしている人は、神の愛がその心に注がれています。
「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。(第2テモテへの手紙1:7)」
私たちに与えてくださったものとは、聖霊様です。それは力と愛と慎みの霊です。愛は聖霊様によって与えられているのです。
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、−事実、いま私たちは神の子どもです。−御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(第1ヨハネの手紙3:1)」
この世の人々が私たちを理解できないのは、御父を理解できないからです。知ろうとしないからです。私たちの信仰を見ても心を開かない人は、敬虔な心を持ちたいと思わない人です。何かに服することを嫌い、自分が王でありたいという人です。しかし私たちの信仰を表明しておくことは必要です。それを信じる人々が中にはいるからです。
神は全ての人のために御子を遣わされました。それは神の愛です。その愛のすばらしさに気づいているでしょうか。愛はイエス様によってすでに神様からいただいています。神様の愛が私の内にあるという前提を元に、正しい良心をもって心を整理しましょう。不信を取り除きましょう。愛のない行動が出たからといって、愛が注がれていないのではありません。注がれているのだから、できるかできないかはともかく、チャレンジしてみましょう。

3.具体的な愛の行動について考えてみましょう。(ルカによる福音書11:9)
A)家庭において(クリスチャンホーム)
これは未信者との間ではなく、神を敬っている者同士の間に愛があるなら、人々はその人たちをキリストの弟子と認めるのです。
クリスチャンホームで、どんな具体的な愛の行動が考えられるでしょうか。イメージすることが大切です。口だけではなく、愛の行動がなされているのを見てくださいと言えるようなクリスチャンホームをイメージしましょう。
B)教会プログラムにおいて
集会に来た時や奉仕の中で、神の愛が目に見える形で現れているでしょうか。それは掃除から始まり、日曜の昼食の準備や片付け、etc・・・。それは気づいた人が自発的にやるのでなければ、愛から出た行動ではありません。愛の行動をする人は祝福されます。自分はこれだけやってきたのに、まだ気づかない人がいるのかとぼやくなら、それまでの奉仕は水の泡になってしまいます。ジーザスフェローシップという名前を付けた理由は、強いられてするのではなく、喜んで互いの交わりをしてほしいからです。自発性を尊重し、できるだけルールを作らないで、愛の行動を中心に奉仕を互いにして、補い合っていくということです。
他にも、車椅子の方や年輩の方のお世話など、たくさんあります。係が決まっているから、誰かがしているから、自分がやる必要はないという風にしか見えない人は、愛による行いができていないということです。自分は今日時間が空いているから、どうぞさせてくださいと言うこともできるのです。教会のプログラムというのは、組織的行動ではなく家族としてのものです。家族としての人間関係がこの中になければ、それは単なるサークル活動になってしまいます。
私たちの間に愛があるでしょうか。それを通して、世の人々がキリストの弟子であると認めるかどうかが決まるのです。互いに配慮しあい、思いやりを持つことです。それが御霊に導かれてできれば最高です。御霊の導きは完璧です。すばらしいタイミングで交代してくれる人が現れたりします。神は、志があれば、その人が愛の配慮をできるように導かれ、動かされます。「ジーザスフェローシップ」とはそういう意味なのです。
この教会で愛のある交わりをすれば、聖霊様がお互いにどのような配慮をすればいいか気づかせてくださって、自分だけがしているという気持ちにはならず、させていただいている、感謝だという気持ちになります。
愛というのは全てのことがうまくいくように自己犠牲していくことです。神様はそういう人を喜ばれますね。教会の中で愛を表すことができなければ、どうして世の人々に示すことができるでしょうか。
C)社会
社会という広い範囲でのクリスチャン同士の生活においてはどうでしょうか。
失業中、母子家庭、問題の中にあるクリスチャンの人々に対して、どういう愛の行動が必要でしょうか。助けがあれば、よりスムーズに次の段階に進むことができるための『手助け』です。単なる「面倒を見る」という意味ではなく、自立するための助け合いです。社会に出て、自分一人でクリスチャン生活を全うするのは大変なことです。社会におけるクリスチャン同士の助け合いが必要なのです。
あなたの周りに、家庭、教会、社会という環境があります。その中で、クリスチャンとして互いにどんな具体的な愛の行動があるのかを考えて、一つでも「私の信仰を見せてあげます」と言えるような愛の行動にチャレンジしてみましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年9月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   実践躬行 じっせんきゅうこう  up 2006.9.3


自分自身で実際に行うこと。口だけでなく、実際に踏み行う大切さを言う語。

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
(ヨハネ1:38〜39) 


 

 

バプテスマのヨハネが荒野から悔い改め、神の国のことを語り、そして預言にあるメシアがもうすぐ来られて、罪を裁き、救いを成就するというメッセージをヨルダン川で語っていました。多くの人々がそこにやって来て、神の国を迎えるという出来事が起きていました。まもなくイエス様も公生涯に入られて、バプテスマのヨハネのもとで洗礼を受けられました。その時に聖霊が鳩のようにイエス様の上にお下りになったその様子を見て、バプテスマのヨハネは『この方こそ神から啓示されていたメシアである』ことに気づいたのです。
そしてその翌日、バプテスマのヨハネは二人の弟子といましたが、イエス様が歩いて行かれるのを見て「見よ、神の小羊」と言ったので、二人の弟子はイエス様について行きました。そしてイエス様が振り向いて言われたのがこの箇所です。
なにげない普通の会話に聞こえますが、とても大切なことが語られています。この中に私たちが忘れてはいけない、心がけていくべき3つのポイントがあります。そしてそれを結論づけているのが「実践躬行」です。それを見ていきましょう。

1.『何を求めているのですか』(ルカによる福音書11:9)
この世の生活に於いての様々な問題、困難に対して、救い、助け、いやしを求めて、イエス様のもとに多くの人々がこの後やって来ます。みなさんは最初、イエス様のもとに何を求めてやって来られたのでしょうか。何らかの応答があったから、今ここに来てイエス様を信じる証としてのバプテスマを受け、信仰生活を始められたわけですね。求めていたものが満たされました。では「今日あなたは何を求めているのですか?」とイエス様が質問されたとします。あなたはすぐに答えることができるでしょうか。
イエス様は「求めなさい。探しなさい。叩きなさい。」と言われます。常に自分は何に向かい、何を得たいのか、はっきりと自分の心を理解しておく必要があります。でなければ人は死んでしまいます。生きていながら死んだも同然な状態。ただ肉体を養う生活を安定させる、それだけで終わってしまいます。
コップの中にノミを4、5匹入れてガラスのふたをして、数時間入れておきます。初めはピョンピョン跳ねて出ようとSますが、跳べば跳ぶほどガラスに当たって落ちてしまいます。いくらノミでも何時間も繰り返せばあきらめて跳ぶのを止めてしまいます。そしてふたを取っても、それさえわからずじっとして死んでいくそうです。
『求め続ける、探し続ける、叩き続ける』これは私たちが成長していく上で大切な3つのことです。
この二人の弟子はイエス様に質問された時、初めはびっくりしたと思います。バプテスマのヨハネのもとでメッセージを聞いて何かを求めていた。そしてそれがまだはっきりしない中で、しかしバプテスマのヨハネは神から遣わされた預言者だということは感じていたわけですが、そのヨハネが「見よ、神の小羊」と言ったので、このお方はどんなお方だろうとついて行ったのです。確かに彼らは求めていました。そして具体的に心の中に描くものを気づかされるように「何を求めているのですか」とイエス様は質問されたのです。常日頃、私たちの魂が無意識の内に何を求めているのかという、心の原点に質問されたと言えるわけです。

2.『今どこにお泊まりですか』(マタイによる福音書11:6)
なぜこの二人はイエス様に「どこにお泊まりですか」という言葉をかけることができたのでしょうか。とてもプライベートな質問です。初めて会う人に対する質問だとしたら、無礼なものであるわけです。何の関係づくりもない中できかれたとしたら、グッと心を閉ざしてしまうと思います。
彼らはイエス様の「何を求めているのですか」という質問によって心が変化していたということです。「どこにお泊まりですか」というのは、イエス様とつながりを持ちたいという気持ちの表れでした。『できるなら、イエス様のもとに行って、ゆっくりと話をさせていただきたい。あなたが言われた「何を求めているのですか」というおことばについて、とても一言で済むような話ではありません。』そんな心の深みの複雑な思いを持っていたので、その場の立ち話で終わらせたくなかったわけです。みなさんも今日、同じ気持ちを表すことが大切です。

3.『来なさい。そうすればわかります』(ヤコブの手紙1:22)
イエス様の返事は「来なさい。そうすればわかります。」でした。このことばに含まれている意味を考えてみると、「来なさい〜」行かなければわからない所。言葉では表現しきれない所、説明しても理解してもらえない所、体験してこそ初めてわかる所。それは一体どこでしょうか。イエス様とじっくり交わることができる場所、そしてイエス様がこの地上にいる時にお泊まりになっていた場所。確かにカペナウムという所で、ペテロの家を拠点として色々な所に伝道に行かれたということもあります。しかしイエス様がここで言われている所は、父なる神のおられる所です。神の国、神の臨在されている所です。イエス様は「キツネには穴があり〜」と動物たちには巣があり、安心する場所があるが、人の子には枕する所がない。すなわち、地上ではゆっくり休める家がないと言われました。
朝早く祈りに行かれたり、ある時には夜通し祈られました。イエス様が休むことができるのは、父なる神がおられる所です。それは言葉では表現できません。
イエス様のおことばに対して私たちは、「なぜですか、どうしてですか」と問いかけるのは「どこにお泊まりですか」と同じ問いです。そんな時イエス様は「来なさい。そうすればわかります」と答えられます。これは行動をとる。ことばなるイエス様について行くことです。今私たちには見えるイエス様はおられませんが、ことばなるイエス様は聖霊様によって啓示されています。
人が最終的に何を求めているのでしょうか。それは神です。人は無意識のうちに、偉大な存在者に心を向けています。目先の色々な足らないものを求めているように感じていますが、それらを全部取り除いて満たされていくと、最後に人は神を求めていることに気が付きます。これが神に似せて造られた証しでもあると思います。私たちはメシアを求めるべきです。
みことばを実行してみてください。感謝できなくても感謝してみましょう。みことばはイエス様ご自身です。その時に理屈ではなくわかってきます。主を体験する、みことばを体験する、「実践躬行」実際に行ってみることです。
私たちはイエス様を、主を信頼したならば、天地宇宙万物の王の王、主の主であられる畏れ多いお方の前に出て、その僕であるならば「主よ、あなたのおことばですからやってみましょう。」と言えると思います。
信仰に理屈は要りません。ただ、おっしゃった方の人格を信頼するだけです。私たちはどれだけ主を知るか、これは最高にすばらしい人生の、求めるべき、探すべき、開かれるべきものです。人間が知る知識の中で、神を知ることほど大きなものはありません。