■2006年8月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   有終之美 ゆうしゅうのび  up 2006.8.27


ものごとを最後までりっぱにやりとげて、成果をあげること。

信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
(第1テモテ6:12) 


 

 

八月は肉に挑戦してくる戦いを避けることをずっとメッセージしてきましたが、今日は戦いを勧めるメッセージをします。それは「信仰の戦い」です。「信仰の戦い」という言葉は、聖書ではこの一箇所しか出てきません。ほとんどの戦いは避けるべきものですが、戦いがどうしても必要なこともあります。それが「信仰の闘い」です。これは血肉に対する戦いではありません。クリスチャンとして初めてした信仰告白を、人生で全うするため必要な戦いです。途中で止めず、最後までやり通すことが、この「信仰の戦い」の目的です。
私たちの人生の最後を「有終之美」で飾るよう、パウロのテモテへの手紙を通して、神は私たちに励ましを与えてくださっています。
〜「信仰の戦い」に含まれる3つのメッセージ〜

1.あきらめず、立ち向かう(ヤコブの手紙4:7)
「悪魔に立ち向かいなさい」とありますが、立ち向かうとは戦うことで、逃げてはいけないということです。妥協も和解もありません。もし逃げ腰になったら、戦う前に負けてしまいます。戦うためには、決意、決断が必要です。この戦う覚悟がなければ、最後までクリスチャン人生を貫き、有終之美を飾ることは難しいのです。
戦いで気を弱らせたり、おびえたり、疑問を持ってしまうと戦うことができなくなります。悪魔という敵に立ち向かう強い意志決定をしっかりとしましょう。クリスチャン生活は戦いであり、楽なものではありませんん。辛さと苦しさがあります。

2.辛さと苦しみがある(ヨハネの手紙16:33)
イエス様ご自身が、私たちがこの世にいる間は患難があると言っておられます。患難を表すギリシャ語には、苦難、辛さ、苦しみが含まれています。クリスチャンであり続けるとは、イエス様を信じ続けることであり、それはイエス様のみことばを守り続けることです。そしてそれは神の御教えに生きることであり、神の価値判断に私たちは合わせていくということです。イエス様を信じますという告白には、以上のことがすべて含まれています。信仰告白は単にイエス様の存在を認めているというだけでなく、イエス様のみことばを心から受け入れ、神と共に生きる生活を送る決心をすることです。
そういう生き方には患難が伴います。誰でも苦労よりは楽をする方が良いと思いがちですが、楽をすることイコール幸せであると言えるかどうか、じっくりと考えてみてください。
もしかしたら、皆さんの幸福感は、この世の不敬虔な価値判断に影響されているかもしれません。それは楽することが幸せであるという捉え方です。そういう一面も確かにありますが、苦労の中、苦難の中に見つけられる幸せがあります。
また、たとえ同じような環境、状況であっても、その人の心の姿勢によって、幸福感は全く違ってきます。それは個々の心の物差しがあり、判断基準が違うからです。クリスチャンが、楽をすること、思い通りに行くことこそが幸せであるという考え方をしていたら、クリスチャン生活の苦しさや思い通りに行かない出来事に出会った時に、「自分は不幸だ」と嘆くことになります。
しかしパウロがテモテに言っているように、クリスチャン生活は戦いなのですから、決して楽ではありません。しかし楽でなくても、また問題が起きても、クリスチャン生活は幸いと言えます。楽をすることで怠慢、わがまま、高慢さという、神に喜ばれない状況が自分の中に出来てきます。しかし苦しみによって、人は神のかたちが自らの中に引き出され、問題を通して磨かれ、練られ、成長し、強くされていきます。楽をすることは成長を妨げます。健康な人は、鍛えるという苦しみを通してますます丈夫になり、たくましくなっていきます。
戦争では、戦わなかったら相手に負かされ、いろんなものを奪われていきます。奪われないためには、戦いを止めるわけにはいきません。

3.奪われないため(ヨハネの黙示録3:11)
信仰の戦いは奪われないための戦いです。それは、奪いに来る者があるからです。しかし奪われるものが何であるかに気づいていなかったら、戦うという気力も起きません。命をかけても奪われたくないものがあるから人は戦います。悪魔はクリスチャンの何を奪いに来るのでしょうか。それは「永遠のいのち」です。永遠のいのちとは何でしょうか。ある人はイエス・キリストへの信仰であり、聖さであり、敬虔さであったりします。永遠のいのちを具体的に表すと、そういう様々なものが挙げられます。あなたは、最も大切なものとして何を守りたいでしょうか。もし奪われるものが何であるかがわからなかったら、たとえそれが奪われてもあなたは気づくこともありません。それは大変なことです。神の前に立った時に、永遠のいのちという大切なものを奪われたという不敬虔さの故に、あなたは裁かれてしまいます。永遠のいのちにつながる奪われたくないものをまず見つけてください。イエス様への信仰とは、生きる姿勢であり、理念です。あなたの永遠のいのちを奪われないように、しっかりと悪魔に立ち向かって行きましょう。そしてみんなが永遠のいのちを獲得するために、互いに愛し合い、有終之美を飾るために、共に信仰の戦いを戦っていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年8月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   私利私欲 しりしよく  up 2006.8.20


自分だけの利益だけを考えて行動しようとする欲望のこと。 

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
(ヤコブ4:1〜6) 


 

 

争い、戦いというテーマで今月は話をしています。その戦いの原因としてこの四字熟語から見ていきたいと思います。争い、問題を引き起こす全ての原因はこの“私利私欲”、自分のことだけを考えて行動する自己中心です。イスラエルにこんなたとえ話があります。
ある老人が庭園で苗を植えていました。そこを通りかかった旅人が近寄って見て言いました。「一体あなたは、その木から実を収穫できるのはいつ頃だと思っているのですか?」「そうだねえ。70年もしたら成るだろう。」「あなたはそんなに長生きするのですか?」「いやあ、違いますよ。私が生まれた時、この果樹園ではたくさんの実が成っていました。それは自分が生まれる前に、私の父が私のためにと苗を植えてくれたからです。」
このたとえからもわかるように、私利私欲の考え方をすれば、この旅人のような考え方になります。しかし自分のためではなく、まわりの人のために今を生きる人生には争いが少ないですね。もし日本や世界に経済恐慌に陥る時が来て、お金に値打ちがなくなったら、どんな問題が社会に起きるか、歴史を振り返ればわかります。そういう問題を引き起こす原因は、自分だけが助かろうとする私利私欲です。

1.戦いや争いの原因(ヤコブの手紙4:1)
欲望が内側で争いや戦いをしている。「欲しい!」という欲求の強さが、私たちの心を乱しているのです。この欲求が争いの原因です。ヤコブはこの言葉を未信者ではなく教会員に向けて書いています。教会の中でも争いがあったのです。欲望が私たちの内で戦っているというのはどうでしょうか。欲求が出てくると感情的に怒りやいらいらが出てきます。おなかが空くといらいらするというのが良い例です。欲求が満たせないとなると、心の内に争いが起こるのです。

2.からだの中での戦いの原因(ヤコブの手紙4:2)
人殺しや争いの行動に出るのは、自分のものにならない、手に入れられないという状況が起こった時です。欲望が満たせないということが明らかになればなるほど、争いや戦いを起こしてしまいます。ではどうして手に入らないのでしょうか。神様に願わないからです。相手にも願わないからです。神様にも人にもそれを具体的に表明することが必要です。一回断られたからといって、もう手に入らないと思いこむと、怒りが湧いてきます。聖書では求め続けなさいとあります。一回でもう手に入らないと腹を立ててしまう人は、それ以上願わないので争いが起こるのだということです。

3.根本原因(ヤコブの手紙4:3〜4)
受けることができない原因は、自分の快楽のために使おうとするからです。それは悪い動機であると表現しています。そのような人たちを聖書では「貞操のない人たち」と呼んでいます。それはクリスチャンにとっては侮辱です。その人は誰を友とし、誰を敵としているのでしょうか。世を友とし、神を敵としているのです。貞操のない人たちは、神様が味方だと思っていても、実は世を友とし、神を敵としているのですよ、と言っています。自分の快楽を求めるのは私利私欲の世界です。これを用いて資本主義社会は活性化されているのです。欲求を満たす新しいものがなくなったらどうなるのか、それは歴史の中の大帝国を見てわかります。これ以上新しいものがなくなると、不道徳なことが起こり、争いが起こり、戦争、革命が起こって滅ぼされてしまうという歴史の繰り返しがあるのです。
クリスチャンにとって、敵に負かされ、信仰が堕落し、精神的、霊的にいらいらして落ち着きがないという全ての原因は、この世を友とし、神を敵としているあなたの動機の部分が根本的な原因です。快楽を満たそうとする時の意識は肉に移っています。悪い動機は肉の思いです。正しい良心から、五感の欲求に意識が移っていて、霊的欲求を満たすことをせず、肉的欲求を満たす方に意識が移っているのです。それをいくら見据えて探っても、いいものは出てきません。すぐに意識を正しい良心に置き換えて、新しく生まれ変わった意識に置き換えてください。これを悔い改めと言います。「世の友」とはあなたの心を支配し、思い通りにしようとする悪友のことです。この友とはあなたが言いなりにならなければ欲求不満を起こして傷つけるような悪い友です。言うことをきかせようとして、あなたの肉の心がマイナス的、否定的悲観的な状況に追いつめていくのは世の中です。勝利者か敗者か、強い者か弱い者か、そういう考え方をするのは肉の心です。世という友はあなたを支配したいのです。あなたが言うことをきかなければ、この世という友はあなたから去ります。それをさみしいと思う人は、言いなりになっていくのです。この世の欲望の虜になり、身を滅ぼし永遠のいのちを失ってしまうのです。では「良き友」とはどのような友でしょうか。良き友に対するあなたの考え方が、イエス様とあなたの関係を表すことになります。あなたにとっての「良き友」とはどんなイメージですか。良き友とはヨハネの福音書15:13にあるように、あなたのために自分のいのちをさえ捨てることができる友です。この世という友は、あなたにいのちを捨てさせます。しかし良き友なるイエス様は、あなたのためにいのちを捨てられた方です。あなたが永遠のいのちを得るためなら、どんな犠牲も払ってくださいます。良い友であれば、信じようと努力しなくても信じることができるはずです。イエス様は、私がちょっと悪いことをしたらすぐに機嫌を悪くして背を向けてしまわれると思っていませんか。それは良き友でしょうか。良き友は、たとえあなたが悪を行い失敗したとしても、その優しさや励ましは変わりません。あなたが永遠のいのちを得るためなら、自分を犠牲にしても助け、支え、後押ししてくださる方です。それがわかってくると、自然に心を開いてイエス様に対する信頼は強くなるのです。信仰は努力ではありません。信じる相手をどのように見ているかによって、信頼度が決まってきます。私たちは、祈りにすぐに応えてもらえないからといって、信頼を閉じてしまうことがあります。しかし良い友とは、あなたに応えてあげたいけれど、悪い動機で自分の快楽のために願っているのだから、それに応えることができないのです。どうしてイエス様に対してそのように理解しようとしないのでしょうか。歪んだ心でイエス様を見ていないでしょうか。それは肉に意識を置いています。その時、これはおかしい、イエス様はそのような方ではないはずだと正しい良心に目を向けて、良い友だからこそ今すぐにかなえられないのだと気づくことが必要です。何でも応えてくれる意志のない神様ではなく、立派な人格である神様を、私たちは信じているのです。

4.原因を取り除く(ヤコブの手紙4:5〜6)
「神は私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」とはどのような意味があるのでしょうか。4;5の別訳を見ると「神が私たちのうちに住まわせた御霊は、ねたむほどに(私たちを)慕い求めておられる」とあります。ここまでの節を読んでみると、あなたがたは世の友となり、神の敵となる態度を取っているけれど、神様はどのように思っておられるかわかっているのですか、という意味だと気づきます。これは私たちに向けて語っておられることばです。私たちの内におられる御霊をねたむほどに慕っておられるというのは、「御霊はいいなあ。あなただけが、あの人の内に住むことができて」と父なる神様が、ご自身も私たちと一緒にいたいと切に願っておられるという意味なのです。今は御霊だけが私たちと一緒にいることができますが、最後の審判が終わると、父なる神様も一緒に住むことができます。それほどに神様が私たちと一緒にいたいと思っておられるということばを無意味だと思いますか?と語っているのです。
私たちを熱愛される神様は、更に豊かな恵みを与えてくださいます。そして、それを受けることができるのは、へりくだる者です。神様が私たちを愛されていることを知ることが大切です。神様は私たちを恵んでくださいます。恵むとは、すぐに役立つものを与えてくださるという意味です。すぐには役立たないものなら、恵みにはならないのです。今あなたに一番必要なものを、私たちがそれに気づいていなくても与えてくださるのです。神の恵みはいつも注がれています。それに気づくにはへりくだった心が必要です。愛されていること、恵んでくださること、へりくだることの3つがポイントです。アンドリュー・カーネギーというすばらしいアメリカの大富豪がいました。この人は社会福祉事業に大きな貢献をしました。彼は神様を敬って、その富を蓄えるだけでなく、いかに役立てることができるかを真剣に考えた人です。自分の退職金を全部、世の人のため、社会の人のために捧げました。ある時、自分の鉄鋼事業の中で、炭鉱事故があり、数人が生き埋めになりました。その現場監督は彼らを助けようとして、二次災害で亡くなりました。カーネギーはそれを聞くと、遺族を助けたいと思い自ら申し出て、残された家族に年金を送り続けたそうです。当時労働災害保険というものはありませんでしたが、これを通して、自分の工場のすべての人のために労災保険を作りました。そのように従業員を大切にし、そのためにならいくらでも費やすという姿勢でした。お金の奴隷になるのではなく、お金を使う主人にならなくてはいけないということを常に心がけて、神のために捧げた人です。その成果は彼の事業に表れ、争いは少なく、とても繁栄しました。私たちはつい私利私欲に心が奪われてしまい、争いや戦いが起こっていないでしょうか。自分が正しいという考え方も私利私欲です。そうではなく、周りの人のために、敵にさえも益になることをしてあげることができたら最高ですね。

 

 

 

 

 

 
■2006年8月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   油断大敵 ゆだんたいてき  up 2006.8.13


たいしたこはないと油断していると思わぬ失敗をすることから、油断は大きな敵であること。 

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
(エペソ6:12) 


 

 

今月は、争いや戦いということをテーマに話しをしていきたいと思います。私たちの戦いとは、どういう敵との戦いであるのかを理解しておかなければ、つい人との争いの中に巻き込まれてしまいます。私たちにとって何が一番敵となるのかを学んでいきましょう。どんな戦いにおいても、一番の大きな敗北の原因はこの「油断」です。皆さんは悪魔が恐ろしいと思っているかもしれません。しかしそれよりももっと恐ろしいのは「油断」です。恐ろしいと知っているならそれに対して準備します。しかしそれに気付かないことが,敵にすきを与え,敗北につながる原因となります。クリスチャンは真理からいうと、キリストと共によみがえって勝利を与えられているとあります。しかし、勝利が与えられているにも関わらず、勝利の生活を味わうことが出来ていないのはなぜでしょうか。
私たちの生活は平和で戦争から遠い意識を持っています。しかし日常の中で私たちは人との争いをしています。私たちは、戦うべき相手は目の前にいる人間であると思い、見えるものに敵意を持ってしまいます。しかし聖書は言っています。私たちの戦いは血肉に対するものではないと。これを意識していないと、私たちは血肉の争いに巻き込まれてしまいます。同士討ちさせ、お互いに滅ぼし合うのを一番喜んでいるのは誰であるのかということに気付いていないのです。そういうことのないために、油断大敵がいかに大切であるかを見ていきましょう。

1.戦うべき敵(第1ペテロ5:8)
人間の間に争いを起こす問題を作るのは一体誰でしょう。エペソ6:12にある「主権・力」とは「支配・権威」です。それは本来神によってイエス・キリストにあってつくられたものです。しかし自己中心の支配欲と権威欲というものは、神に反抗するものであって、これを心の中に持つ人は,敵対心を心に持っているのです。悪魔が私たちの心に働きかけて、この支配と権威に対する欲望をもたらせることによって、人々との間に争いを作っていくのです。悪魔があなたと誰かとの間に、獲物になるようなものを見つけ出して、ぽっと争わせて餌食にしていく様子を思い浮かべて下さい。誰かとの間に争いが起こった時に、その争いを投げかけたのは、支配欲、権威欲を心の内に持たせてお互いに戦わせ、同士討ちさせて滅びに引き込んでいくサタンの攻撃の仕方に、気付かなければいけません。見える敵でなく、見えない敵に対して私たちはいつも意識しておかなければなりません。
サタンは、クリスチャンを世の中に対して悪者のように見せてきます。神を畏れ信仰を持つということに対して悪いイメージを人々に与えていっています。ころはまさにゲリラ戦です。あなたの周りに、ゲリラ的な働きをする悪霊の働きがあることを忘れてはいけません。なぜかというと、イエス・キリストは十字架ですでに勝利をしたのです。敗北したサタンは国としては消滅したのですが、悪霊達はゲリラとして私たちを混乱させているということに気付かなければなりません。あなたの心に争いを起こさせようとする働きを悪魔はしているのです。正しい主権者に対して、真理に対して反抗させる感情を引き起こさせる、そういう誘惑や考えを、肉を通して働きかけ、世の中の考えや多数決の決定によって、真理に立ち向かうような考えをもたらせ、神に反抗させようというゲリラ戦を、悪魔はしてきているのだということに気付かないといけません。私たちは狙われているのです。すきがあればやられるということがありえるのです。国と国との戦争には、国際ルールというものがあります。一般市民の私服を着た人は戦闘員ではないので攻撃してはいけないのです。ゲリラは軍服を着ないで一般市民になりすまして戦いを仕掛けてくるのです。悪魔もゲリラ戦でひきょうな手で私たちを陥れようとするのです。あなたの周りにそういう見えない敵がいることを意識しなければ、見えるものばかりに頼ってしまうと血肉の戦いをしてしまい、人間同士の同士討ちを通して悪魔の餌食になって、永遠の滅びへと引き込まれてしまうのです。敵がいるということを意識しないことは油断することです。
灯火(ともしび)とは、灯火皿に油を一杯入れておいて、火をつけると、灯火はずっとともっています。油が少なくなるにつれて灯火の火は徐々に小さくなるのではなく、油が空になって初めて火が小さくなっていくのです。それは、灯火がずっと続いているから大丈夫だという気持ちが油断ということです。油がなくなっているということに気が付かず、火がついているから大丈夫だと思っていることが問題なのです。今、安全だと思っているから安全かというと違います。ほえたける獅子のように悪魔は私たちの間に争いを引き起こそうと働きかけていて、今あなたに何の問題もないからサタンは攻撃してきていないと思い込んではいけません。それが油断です。人と人との争いはぽっと起こるのです。でも起こるまでにあなたの心の状態が変化しているのです。私はメッセンジャーなので自分の語ったことを何とか守ろうという意識を持っています。それでもそれを意識しなくなって自覚が遠のくとすきができ、肉に意識がいきます。問題が何も起こらないと、今自分がしっかり守ってやっているという思い込みが起きてきます。しかしすでに肉的な、自己中心的な思いに意識が移り変わっている時に、ちょっとした不機嫌なことが起きると怒りがおこり、愛のない言葉をかけてしまったりするのです。私たちは五感に意識が行きがちなので、霊的なものに意識をおかなくなったら自動的に肉に意識が行っているのです。そんな時にちょっとしたことを通して肉の思いに引き出されて、争いを引き起こしてしまうのです。そういう種を蒔く、ゲリラ戦をもたらす悪魔の働きがあるということです。私たちは戦うべき敵が今周りに潜んでいるのだということを忘れてはいけません。[チェックポイント⇒敵の存在を意識しているか]

2.敵の策略を知る(第2コリント2:11)
悪魔はどのように私たちを油断させてくるのか、一つの日本の昔話から見ていきましょう。
 昔あるところに、ちょっと利口な男がいたそうです。ある年の夏、仕事で別の町に出かけました。途中どうしても一泊しなければなりません。宿屋が一軒ありました。「こんばんは。今晩泊めてもらうよ。」すると一人のおばあさんが出てきて、部屋に連れて行ってもらうと、なんとその部屋はものすごく汚い。「おばあさん、こんな部屋に泊めるんかね」「私一人でやっているもんだから、なかなか掃除ができなくてね」男はこの近辺にはここにしか宿屋がないので仕方がなく泊まることにしました。そして夜布団に入って寝ようとすると、あちこちがかゆくなってきました。ろうそくをつけて布団をめくると、ぴょんぴょんと飛んでいる虫がいます。「これはノミではないか」彼は一生懸命それをつぶして一晩中眠れませんでした。朝になって、彼は帰りにもまたこの宿屋に泊まらなければいけないと考えるとぞっとしました。そして何かいい案はないかと考えて、朝宿屋を出るときにこう言ったそうです。
「この部屋にはずいぶんとノミがいるけど、このままにしておくのには実にもったいないねぇ」「どうしてもったいないんじゃ?」「いや、わしの村ではノミが薬になるというので、薬屋がわざわざ買いに来るのだよ」「えぇ、そりゃ本当か?」「本当だよ。ノミをとって薬屋に渡せば、いくらでも高く買ってくれるんだよ」「ノミをとると売ってくれるんかね」「いいとも。私が持っていってい薬屋に売ってやろう。あと3日したらもう一度ここに戻ってくるから、それまでにうんとノミをとっておくのだよ」と言って出掛けました。そして仕事を終えて帰りにもう一度そこに泊まると、なんと布団の中には一匹もノミはいなかったそうです。しめしめと彼は思いました。明くる朝何食わぬ顔をして帰ろうとすると、おばあさんが「ちょっとお客さん」と紙袋を持ってきました。その中を見ると、まあよくもとったとった、何百ものノミがぴょんぴょん跳ねています。そこで彼はどうしようかと考えて、困った顔をしておばあさんに言いました。「おばあさんや。すまんなぁ、大事なことを言い忘れとった。このノミを20匹ずつ串に刺しておかないと、薬屋は持っていかないんだよ」「どうしてじゃ」「何しろノミは小さいのでな、とても一匹ずつ勘定していては間に合わんだろ。それで串に刺して勘定するというわけでな」「なるほど」とおばあさんは納得して、男は「ではまた近いうちに来るから、のもを串に刺しといてくれ」と言って帰っていったそうです。
あなたはこのおばあさん、悪魔はこのちょっと賢い男です。男の策略は、ちょっとした欲望を利用する、そして人を欺くということです。
私たちの内にある欲を引き出して、その欲に捕らえられているということを見たら、ますますその欲を駆り立てるというふうに悪魔は私たちを誘惑して、常識や道徳性を失わせて欲望を満たすことに心を集中させるほどに私たちの心に働きかけ、誘惑してきます。これが悪魔の策略です。いろんな形で欲求という入口から引き出されて、悪魔の餌食になっていくというわけです。欲には気をつけなくてはいけません。行き過ぎてしまうからです。だからある程度欲求を満たしている中で、どこかでいったん冷静になって、行き過ぎていないかと、正しい良心をもって測ることが大切です。
[チェックポイント⇒敵の策略に乗ってしまっていないか]

3.敵との和睦(ヤコブ4:4)
「戦いが辛いからといって戦いをやめるために、この世と友好関係をもつことをしてはなりません。敵との和睦はどのようなことを意味するかをわきまえておきましょう。」
疲れてくると、辛いから心の葛藤を避けたいという気持ちになります。戦いをやめるためには、勝利をするか、和睦するかだと思ってしまいますが、和睦は五分五分にはならないということを知らなければなりません。なぜなら敵の性格を知っていたなら、和睦すれば敗北であるということです。敵の罠、欺きを知っておかなければなりません。
悪魔がゲリラ戦で私たちと和睦をもたらすことによって、私たちの内側に入ってきて内側から蝕んでいくという作戦を持っているのです。和睦は絶対に敗北につながります。和睦は悪いものを受け入れることです。それは和平ではなくすきを与えてしまい、好きなことをさせてしまうチャンスをもたらすのです。善と悪とは決して和睦することはありません。私たちの戦いは,和睦してはならない、絶対に勝利しなければならない戦いなのです。だからこの戦いは人との戦いではなく、見えない世界、悪の力との戦いのなのです。この戦いを絶対にやめてはいけません。それは妥協という形になってしまいます。悪との平和をつくってはなりません。人間同士の戦いはどんな戦いもよくありません。しかし道徳的立場からの悪に対する戦いは正しい戦いです。悪に対する善の戦いです。私たちは善を持って悪を滅ぼすものです。この戦いは勝利するまでやめることの出来ないものです。そうでないと滅びてしまうからです。悪魔に対して自分のうちにそれをもたらすような悪との和睦は絶対にしないようにしなければなりません。もし和睦すれば、後にどういう状況をおこすかをよく考えなければいけません。一つの妥協が二つ三つと、人は肉の欲や安易な方に流れやすい弱さを持っています。それを誘惑してくるものを内側に認めてしまうということは、当然雪だるまのように転がって大きく欲望はふくらんでいくのは間違いないことです。だから悪いものは種であっても受け入れないという、はっきりとした姿勢を持って、悪との戦いを続けていきましょう。[チェックポイント⇒敵と和睦していないか]
「油断大敵」悪魔よりも恐いもの、それは油断です。

 

 

 

 

 

 
■2006年8月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   世道人心 せどうじんしん  up 2006.8.6


人として守るべき道徳と、それを守る人の心のこと。 

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
(第1コリント3:3) 


 

 

原爆記念日の今日、戦争を踏まえて「争い」を中心に話していきます。
なぜ争いは絶えないのでしょう。多くの戦争、殺人が報道される毎日です。「世道人心」が低下すると争いが起こります。道徳が軽んじられ、他のものが重要とされてきています。このような状態を聖書は「肉に属する」と言います。道徳性(モラル)が低くなるとは、心の品性をみがくことがなおざりにされ、感覚的、物質的価値観の方が重視されていくようになることです。モラルの低下の現れの一つが、夏の帰省ラッシュの時、自分の家のゴミを高速に放棄してくる人々が増えたことです。「家庭のゴミを放棄しないでください」という札が目に付くようになりました。
また、平和公園にあった大きなゴミ箱もなくなりました。その理由は、家庭ゴミをその中に入れる人が増えたためです。
呉では、給食費未払いの家が増えており、その理由は他の高価な物を買ったからというもので、貧しくて払えないわけではないのです。このような自己中心が増えると、争いも増えてきます。戦争も同じです。各々の国が自分の国益を主張し合って戦い、力で相手を押さえ込むのです。争えば必ず失うものが出てきます。勝った方も負けた方もです。争いは日常生活の中でも常にあります。人として守るべき道徳、クリスチャンで言うなら、神のみことばを守らないという姿勢が争いを引き起こし、その争いが悲惨な結果を生みだしています。この争いを避け、平和をもたらす神の子としての歩みをしていくために、今週は学んで行きます。

1.ただの人のように歩んでいる
ただの人のように、とは、神を畏れない一般の人のようにという意味です。どうして一般の普通の人のようであってはいけないのでしょう。私たちが神を信じ、敬虔な生活をすることを選んだのなら、ただの人のように歩むことは、私たちがした決心からそれてしまうことになります。ただの人のように歩むということがどんなに問題となるかを、聖書で言う「肉」から学びます。
「肉」の思いと自分の思いは別のものであるということにまず気づいてください。
(1)(ローマ人への手紙7:18)この世の人々は神を畏れるより「肉」の感覚を重視して歩んでいます。しかし肉のうちには「善」が住んでいないので、肉に従うことは悪に従うということになります。それゆえ争いが起こるのは当然で、平和をつくり出すのは不可能です。
国益を考えるという自分の国中心の利益のことしか考えないので、戦争になります。そして国益を守るということは権利であるとして、国際法で認められています。しかしクリスチャンは、肉には善がないということを知っているので、肉に従うのではなく、正しい良心に従うことを選び取っていきます。
(2)(ローマ人への手紙8:6〜8)肉の思いは死であり、その人の人格を生かすことができません。そして、神に対して反抗します。神の義、神の聖さ、最も崇高な道徳である神のみことばに対して反抗するのです。思春期の反抗期があります。それは肉の発達が精神に強く影響を及ぼし、肉の感覚が強くなるために、反抗心が増大するのです。そして正しいことに対し「服従したくない」という思いが強くなります。クリスチャンはこの肉の思いの性質を知っているのですから、反抗心が出てきた時、客観的にその思いを見て、肉の思いと自分の思いをしっかり切り離していくことが大切です。
(3)(ガラテヤ人への手紙5:17)神を愛し、イエス・キリストを受け入れた者に、神はご自身の御霊をその人の内に住まわせられます。それによって神の子であるという証明がなされます。その御霊が、私たちの内に住まわれることによって、私たちはその御霊に教えられ、悟らされ、神の子として成長していきます。しかしその中で、肉の感覚がまだあるので、御霊の教えに対し逆らう思いが出てきます。その時御霊は、それは違うと肉の思いに逆らいます。そのため私たちの内には肉の思いと御霊の思いがシーソーのように逆らい合って、クリスチャンになる前以上に悩みが出てきます。それは肉と御霊の思いが一致しないからです。そこで私たちはどちらの側に立って生きるのかをしっかりと決心する必要があります。その決心のために意志が与えられています。心の葛藤の辛さが来る時、肉の立場で聖書を読み、みことばを学ぶと辛いという感覚が出てきます。しかしこれが自分の決めた生き方であると、御霊に従う生き方こそ自分の立場であると再認識しましょう。そうでないと肉の辛さにひっばられ、いつの間にか肉の立場で判断するようになってしまいます。それではクリスチャン生活がストレスになり、そのストレスが爆発して同じ罪を犯すという繰り返しになっていきます。肉に属する立場から考えることをやめましょう。世の中の動きに引きずられてはいけません。
(4)(ガラテヤ人への手紙6:8)肉のために蒔くとは、肉のための収穫をすることで、肉を喜ばせることです。肉を喜ばせ、楽しませることをし続けていくなら、肉から滅びを刈り取ることになります。それは、肉には善がないので、悪を行っていくことになるからです。御霊を喜ばせることをしていく方が私たちの永遠のいのちにとって益となります。
今自分がしている仕事が自分の肉を喜ばせる自己中心のものなのか、それとも平和を造る神の子としての信念を持ったものなのか、心構えの持ち方によって、肉に蒔くものになるか、御霊に蒔くものになるのかが変わって来ます。礼拝出席にしても、神に従う一週間の糧としたいという願いから、喜んで出席しているなら、その人は御霊に蒔いています。しかし、義務感や、ただ地獄に行きたくないからしょうがないという人は、心の動機が自己中心から来ているので、(肉の欲求を抑えつつ、行いでは神に従っているように装っている)肉に蒔いているということになります。
同じことをしていても、心の姿勢次第でこれほど違ってきます。 
(5)(第1ペテロの手紙2:11)肉は魂に戦いを挑みます。人は霊・魂・体から成ります。戦いを挑むのは自分の思い通りにしたいからであり、力で従わせようとします。もし私たちが力で人を動かそうとするなら、それは肉に属する考え方になっています。愛によって人を動かすことが正しい良心的やり方です。争いがなくても、あなたの力が強いので相手が従っているなら、それは肉に属する考え方になっています。会社でも、お金の力で社員を動かすのと、社長の人格で動かすのとでは、職場の雰囲気が全く違います。お金の力、つまり結果を出した者がいいという考え方で社員を競争させて成功しても、肉に属する方法での成功であり、「世道人心」からみると価値のない成功です。しかし、社長が品格・道徳を重んじ、社員を大切にし、競争でなく助け合うことで成功していくなら、それは価値ある成功です。自分の人生をどちらの成功でおさめるのか、その価値観をしっかりと持ち見失わないようにしましょう。

2.「争い」を起こさないように
(1)(ガラテヤ人への手紙5:16)「御霊によって歩みなさい」とは、正しい良心から聞こえてくる神のことばや諭しに耳を傾けることです。肉の欲望を満足させてしまうことは神に喜ばれる方向に行くことです。肉には善が住んでいないのですから。肉の欲求は消えることはありません。続いていきます。しかし肉の欲求以上に、御霊によって歩みたいという欲求が強ければ御霊によって歩めます。自制するほど欲望は強く起こってきます。それゆえ肉の欲求を満たすまいと頑張るのではなく、正しい良心の欲求を満たしたいということをひたすら考えましょう。
(2)(第1テモテの手紙4:8)私たちが肉の欲求を満たすか、御霊の欲求を満たすかの葛藤する辛さは、敬虔さのための鍛錬です。鍛えられなければ強くなりません。そして、鍛えられるということは苦しむ事です。苦しみを通して正しい良心が鍛えられ、敬虔さが強くされます。
(3)(ヘブル人への手紙12:14)すべての人との平和を追い求めることを大切にしましょう。敵に対しても平和を求めていくのです。戦いを避け、すべての人との平和を求めていくことも、ひとつの鍛錬です。これが平和都市広島の願いです。

 

 

 

 

 

 
■2006年7月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   吉人天相 きつじんてんしょう  up 2006.7.30


善い人は天の助けを受けるということ。 

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
(第1コリント15:10) 


 

 

パウロはクリスチャンを迫害し、牢獄に入れたり、死刑にしたりという悪い働きをしていたにもかかわらず、どうして神様に用いられる器になったのでしょう。
「善い人は天の助けを受ける」彼は熱心なユダヤ教徒でした。天地を造られた真の神様にできる限り忠実に歩みたいという気持ち。その神様がモーセを通して与えられた律法に対して、厳格なほどに妥協せず彼は熱心であり、優秀なパリサイ人でした。彼の神に対する心がけは、誰にも負けないほどすばらしいものでした。すなわち神を尊び畏れかしこむ点においては、善い人であったわけです。
ただやっていたことはあまりにも伝統的なユダヤ教の教えを重視していたために、モーセが語っていた真理に対して無知でした。その結果クリスチャンを迫害してしまっていたのです。
神はパウロを、その本音の部分では神を畏れる人であるということをしっかりと見ておられて、時が来て、天の助けであるイエス・キリストの啓示を、ダマスコへ行く途上で現されたわけです。
そして、全世界に福音が宣べ伝えられるため、異邦人に伝える働きをした最初の伝道者になりました。このパウロのような働きをするすばらしい神様の器は、この歴史上二人といないほどでした。この手紙を書いた時点での彼のクリスチャン生活を振り返った時に、パウロは「神の恵みによって、私は今の私になりました」と謙虚な心で神様の恵みがいかに自分にとって大切なものであり、大きなものであるかということを表しています。
7月はずっと『神の恵み』を語っていますが、先週は神の恵みをむだにしないようにということを話しました。今日は神の恵みとは神の助けという観点から見ていこうと思います。

●7/31(月)8/3(木)「出会い」(使徒の働き9:26〜28)
ぜひ考えていただきたいのは、もし今日あなたがイエス様を信じない生活をしていたら、どういう状況になっていたかということです。私が何よりも一番感謝しているのは、純真な素直な本当の自分である心を、イエス様を信じることを通して保ち続けることができたことです。これは私が信仰を持った一番大きな収穫です。
またどんなに悪い人と出会ったとしても、イエス様に出会ったことを通してそれら全てが益に変えられていくということを、自信を持って言うことができます。
パウロはそれを実感したわけです。神様の恵みを大きく捉えて、それを無駄にしないようにと、十二使徒よりも多くの働きをしました。そして何倍もの災い、苦しみの中を通り抜けてきました。しかしそれは愚痴になるのではなく、感謝できるものとして捉えることができました。そのような心に変えられたことが恵みだと言っているわけです。
しかし恵みとは思えない人、自分の願いが思い通りにならなかったり、神の助けがあると感じられない人。いったいその人は何が間違っているのでしょうか。私たちは神様の前にあって、いったい何者であるのかを忘れてしまっているのです。すなわち恵み慣れになっている、そこに問題があると思います。たとえ願いが一つも叶わなくても、イエス・キリストを信じることのゆえに永遠のいのちを得られているのなら、それで十分ではないでしょうか。
イエス様の人生を考えてみてください。何一つご自分を喜ばせることをされなかったと聖書に書いてあります。でもイエス様は、しるしや奇蹟をされたじゃないですかと言われるかもしれません。しかし、そのおかげで、国の指導者である祭司、祭司長、レビ人、そしてパリサイ人や律法学者という権威ある人々からは妬まれ、迫害され、陥れられることが何度もありました。そして最後には、ご自身が選ばれた弟子の一人の裏切りによって、罪人として処刑されることになったのです。
そのときに、イエス様の多くの奇蹟を体験した人々が、バラバかイエス様のどちらを釈放するかというピラトの裁判で、「イエス様だ!」と叫ぶどころか「十字架につけろ!」と怒鳴り続けました。
今まで民に施してきたイエス様の親切は何だったのでしょう。最後の最後に裏切られ、弟子たちは逃げ、そして十字架の上で、孤独の中でイエス様は死なれました。こんな不幸な方はいません。神様のためにやればやるほど、不幸や災いがふりかかってくるイエス様の人生。私たち罪人が救われるために、忍耐をし続けられ、十字架に至るまで徹底的に罪のいけにえとなって、聖い完全なささげ物となられました。そして最後に十字架の上で「彼らは何をしているのかわからないでいるのです。」とまで祈られ、その魂を父なる神にお委ねになったイエス様の生涯。私たちはこの人生の中で、イエス様のような、命を失うほどの裏切りにあうことはまずないでしょう。数少ない事だと思います。神様は私たちが正しい良心を持って生きる姿勢を大事に思ってくださっています。行いはまだまだ不完全であり、心の思いはまだ醜い所があっても、イエス・キリストを信じることができた私たちを善い人だと見てくださって、助けを与えてくださっているのです。
そしてその助けのゆえに、今日あるを得ていると思います。

●8/1(火)8/4(金)「試練」(第1コリント人への手紙10:13)
試練→試み、練り聖められる
テストは、合格して前進するためのものであるはずなのに、この世の試み『試練』は、失格者を生み出していくためのものであるように捉えられています。
本来、テストというものは良いものであり、試練を受けるということは良いことです。それは私たちが成長するための機会が与えられるということです。実力が試されて、さらに秘められた力が引き出されるチャンスです。神様が与えてくださった賜物が引き出される、これは神の恵みです。神はそのために私たちに試練を与えられます。絶対に倒れて失格者となることのないために、脱出の道をも備えてくださっています。
最近、北朝鮮の女子サッカーの選手が審判に暴力をふるって出場停止になったニュースがありました。たとえどんなにすばらしい選手であったとしても、出場権を取り消されてしまったら、何をしても役に立ちません。許されない限りは出場権は回復されません。
私たちも同じように努力ではもう絶対に回復されることはないという状況の中にありました。神様は恵みによって回復してくださったのです。永遠の御国への出場権を新しく与えてくださるために、代価を支払ってくださいました。私たちにできることは、その永遠の御国へのレースを走り抜くことです。苦しい時には脱出の道が与えられています。私たちに失格になって欲しくない、そこで留まって欲しくない、最後までその人生を走り抜いて欲しいという、神様のあなたへの期待と愛が、試練という形で現わされています。ですから『試練が与えられた時に、弱り果ててはならない』とヘブル書に書いてあります。

●8/2(水)8/5(土)「災難」(詩篇41:1)
これは先週お話ししました。神の恵みを無駄に受けないということで、一万タラントの負債のあった人が王様に赦されたというお話を通して、みなさんに関連してくることです。『幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(詩篇41:1)』
もし(色々な聖書の見解があるので)神の裁きがやってきて災いが下される、その前に神の御許に引き上げられるという携挙という聖書の真理のできごとがあるとするならば、そういう災いの前に天に引き上げられる人々はどういう人でしょうか。弱っている者に心を配る、あわれみを施す、それらは人を赦すということです。あなたが人を赦すならば、神もあなたを赦されます。だから災いの日、神の裁きの時に助け出される、すなわち携挙にあうことができるということです。
イエス様が言われた『互いに愛し合いなさい』というおことばの一番は、やはり赦し合うということが中心です。赦し合いなくして、本当に愛し合うことはできません。赦すということは、負債を負うということです。負いきれない負債を身に負うということです。自分の身に関係ないことはいくらでも赦すことができます。何も損をしないのですから。どうしてあなたは人を赦せないのでしょう。それは精神的にも物理的にも何らかの損害を受けるということに対して、負いきれないからです。神が「赦す」というそのおことばには「私があなたの罪のための負債を負います」という、代価を支払われることを覚悟したお心がこもっています。それがどんなに苦しいことかは神が一番ご存じです。ですからあなたが誰かの罪を赦すということがどんなにすばらしいことかを知っておられるゆえに、神はあなたが人の罪を赦すなら、私もあなたを赦しましょうと言ってくださるのです。
多く赦されたからこそ、多く赦そう。それが神が一番願っておられる『互いに愛し合いなさい』という意味だと思います。みなさんは神の目には高価で尊い。神はそういう人のために『吉人天相』善い人のために助けを与えてくださるかたです。

 

 

 

 

 

 
■2006年7月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   家鶏野鶩 かけいやぼく  up 2006.7.23


家に飼っている鶏を嫌って、野生のあひるを好むことから、古いものを嫌い遠ざけて、珍しく新しいものを好むたとえ。また、身近なものや良いものを嫌い、遠くにあるものや悪いものを好むたとえ。 

私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
(第2コリント6:1) 


 

 

このみことばは、パウロがコリントに書いた手紙ですが、神様は人々の永遠のいのちのために働いておられ、多くの恵みを注がれています。そのお手伝いをしているパウロが、なぜこのような言葉を語ったのでしょうか。恵みというのは、強制するものや、恩着せがましくするものではありません。
恵みを注ぐ方は何も言われませんが、そのお手伝いをしているパウロから見ると、神様がこんなにも恵みを注いでくださっているのに、それを無駄にしている人々がなんと多いのだろうと見えるのです。恵みの意味もよく知っているパウロだから、神様のお気持ちを汲んで「懇願します」と語っているのです。
「こんなすばらしいものに気づかないで無駄なことをしないでください」と。それは責めではなく、懇願しているのです。今日はこのみことばから、神の恵みを無駄にするとはどんなことかを考えていきましょう。「家鶏野鶩」家で飼っている鶏からは、毎日栄養源となる卵を食べることができます。しかし毎日見ている鶏よりも、外に出た時にいるアヒルを好んで、鶏を軽んじるという意味です。
神の恵みを無駄に受けるとはこのようです。私たちは毎日神様の恵みに浸っています。神様のご好意によってこの世界があり、今の自分があるのです。神様は良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を与えてくださるお方です。昔の人は、今より貧しい状況でしたが、全てのことに感謝する良い姿勢がありました。今の豊かな時代の人々の方が、不平不満が多いようです。
その原因は、今自分が味わっていることが当たり前、当然のように思っているからです。そして他のものに目を向けて、あれが欲しい、これが欲しいとないものねだりをしています。私たちは神の恵みの重要性をないがしろにして、神を畏れない人々の生活に目を向け、「ああいう生き方はいいな、どうしてクリスチャンはそんなことをしてはいけないんだろう」と家鶏野鶩のように生きる人を、神の恵みを無駄に受けていると言います。
ノーベル賞を受けた女性パール・バックの有名な「大地」という小説があります。彼女は中国で長く生活し、中国の人々の生活を小説にしたものです。主人公の男性は農民に生まれ、自立し家庭を持つほどによく働きました。奥さんと二人で、大きな農園を持って財産を得ようと一生懸命働きました。彼も働き者でしたが、奥さんは彼以上に働き者でした。二人で懸命に働き、大地主になったのですが、主人は街に出て、妾を連れてきました。しかし奥さんは相変わらずせっせと働き続けていきます。奥さんは畑仕事をしていますから、決して街の女性のような美しさはありませんでしたが、ご主人は奥さんの良さをないがしろにして、他の女性に惹かれてしまいます。その人生を三代にわたって描いた小説ですが、まさに「家鶏野鶩」の状態です。
この奥さんを神の恵みと捉え、ご主人の姿勢を神に対する私たちの愚かさと考えてみたらいかがでしょうか。
私たちはわがままで罪を犯し続ける者ですが、神様は変わらず恵みを注ぎ続けてくださいます。そんな神様に不平を言ったり、不信仰になったり、感謝しなくなるような私たちです。神様の恵みに気がつかないで、無駄に受けているのではないでしょうか。神の恵みを無駄に受けるとは、神の恵みのすばらしさに慣れ親しんでしまって、それに気付かなくなってしまうことです。
あなたが気に入るか入らないかに関わらず、神は私たちの永遠のいのちのために必要なものを日に与えてくださっています。苦しみも楽しみも、辛さも喜びも、全部「神の子として永遠のいのちを受け継ぐために与えてくださっている恵みなのです。しかしその恵みを大切にせず、あれがないこれがない、ああしてこうしてと神様にわがままを言い過ぎているのではないでしょうか。そうではなく、試練も辛さも貧しさも幸せも全て神が私たちを御国の相続者として整えてくださるためのお取り扱いであり恵みであると考えたら、今日一日に起こってくる様々な出来事を感謝できるのではないでしょうか。
私たちは恵みの中にいて味わっているにも関わらず、他のもの、余計なものを得ようとして優先順位を間違っている考え方に気づくというのが今週のテーマです。
これは感情や知性や意志によって気づくことはできません。神の恵みは良心によって感じ取れるものです。良心を働かせなければ恵みは見えてきません。恵みとは、神様と私たちの関係における、道徳的な神聖なものです。あなたの信仰生活は、良心を眠らせて、神の恵みをむだに受けていないでしょうか。

1.借金を免除されたしもべ(マタイによる福音書18:24〜34)
一万タラント=もとに戻すことのできないもの。
全部売って返済するように命じた=律法の厳しさ。行いによる義。
ご猶予ください=行いによる義をまっとうしようとしている態度。
主人はかわいそうに思って=恵みを施す動機。あわれみの心。
彼を赦し=行いによる義の責めをしない。
借金の免除=自分でもとに戻さなくてよい。主人が負債を負う。
しもべ仲間に借金返済を迫った=行いによる義をもって責めること。
承知せず=行いによる義をもって責め続けること。あわれみがない。
彼を獄吏に引き渡した=赦されたこと、恵みが無駄になってしまった。
これは赦しというテーマでイエス様が教えられた例です。
私たちは一万タラントという、返済することのできない負債を負っています。それは神様の純粋なお心に傷を与えてしまったということです。
この王様はしもべに、自分も妻子も持ち物も全部売って返済するように命じました。それは当然の規則、法律による正当な請求であります。それに対してこのしもべは、「お願いですから時間を延ばしてください」とあわれみを求めたのです。そこで王様はどんなに延ばしても返せない借金だと知っていましたから、「そこまで言うのなら赦しましょう。もう返さなくてもいいよ。」とあわれみを注いだのです。これは恵みです。「思いもよらない答えが返ってきた。これは儲けものだ、助かった。」これは行いによる義を考えている人の考え方です。こういう考え方の人が、自分がお金を貸している同僚に出会うと、あわれみを求めてきても「そんな余裕はない。すぐ返せ。」と言ってしまいます。それ自体は別に間違っていない、正当な要求ですが、行いによる律法的な価値観を持った人は、赦してもらったものと赦すものとの問題は別々で、何ら関連がないと考えるのです。Aという事件とBという事件は別問題で、別々に裁きます。それが律法です。この一万タラント赦してもらったしもべは、自分が貸していた人に返せというのは、律法的には正当で何ら問題ありません。
しかし神を畏れるとは良心を働かせることです。律法的な行いによる義ではなく、道徳面からの義を考える人は、あわれみを受けて赦されたのなら、人をあわれむことは当然であると考えるのです。
私たちは神様のお心に、二度と戻すことのできない傷をつけたのです。永遠の滅びに至る罪を侵しました。それを神様は「赦す」と言ってくださったのです。そこで律法的な人は、「赦してくださったのだから、もう地獄に行かなくていい」と思います。そして他の人が自分に迷惑をかけると、許せない心になります。私たちはクリスチャン同士で「あの人はああだ、こうだ」と裁く立場にあるのでしょうか。あなたも至らないところがたくさんあるにも関わらず神様から赦されているのに、兄弟姉妹の至らないところをなぜ裁くのですか。良心を働かせることができる人はこれを理解できます。全世界の人々の生活は神の恵みの中に成り立っています。恵みとは「赦されている」ということです。完全ではないし、失敗もするけれど、それでもいいからそこにいていいよという意味です。罪を赦すとは、罪を犯したあなたの存在を認めることです。神様は、今あなたがその状態なら、今はそれでいいよと言われます。ただ、赦しは何のために与えられているかというと、赦されたことを通して自ら気づいて、このままではいけないと悔い改めて、一歩前進するためです。将来に希望を持って赦してくださったのです。それは律法的ではなく期待であって、命令ではないのです。
行いによる義を獲得しようと考える人にとっては、赦されたことは「しなければならない」という辛いものに捉えてしまいますが、正しい良心で考える人は、赦してくださったという感謝から、私は赦してくださった方のために、このままではいたくないと自ら進んで自分を直そうとします。これが恵みに対する正しい良心の応答なのです。
「キリストが愛してくださったように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というみことばは、「主が私を愛してくださった、すごいことだ」と感激して、感謝の心から「だから私も人を愛していこう」という心が湧き上がってくることを意味しているのであって、律法的に「愛されたんだから愛しなさい」と命令しているのではないのです。だから、恵みに気づかなければ、湧き上がる悔い改めはやってこないのです。この一万タラント赦されたしもべは、恵みに気づかなかったのです。あわれみを求めたにも関わらず、彼は正しい良心を働かせた生き方をしなかったのです。
聖書において、哀れみという言葉は、恵みという言葉と同意語として使われています。あわれみは受け取る人にとっては恵みなのです。もし律法的価値観、比較社会の善悪の価値観でクリスチャン生活を送るなら、この礼拝に来ること自体が苦痛になります。正しい良心を働かせて考えたら、無条件で全てを赦してくださっているということに対して感謝を捧げ、至らぬ所を教えていただくためにみことばを聞きたいと、自ら進んでやってくるのが礼拝です。あなたの礼拝出席は正しい良心的な判断からのものでしょうか。そうでなければ、赦されていることが無駄になります。この赦されたしもべは、あわれみを受けたのに考え方を変えませんでした。
もし良心を働かせて、赦された生活を歩んでいこうとしたら、その相手を見た時、自分も赦されたことを思い出して赦してあげるべきです。恵みによってあなたは罪を赦されています。それは恵みを受けたということです。このしもべは、赦されたのに人を赦さなかったので、いったん与えられた赦しを取り上げられて、元の律法による裁きがもたらされました。ここが無駄になったということです。私たちも、いったん与えられたのにそれを取り上げられてしまうような結果をもたらすような、人を赦していない姿勢が続いていないかを考えないといけません。あなたが赦してもらった分赦さなければ、赦しの恵みは無駄になるということもこの例えで悟らなければいけません。
恵みを無駄に受ける人の考え方は「神は赦してくれるんだから、そんなに気をつけなくてもいいや」と簡単に罪を犯し、悔い改めたら赦してもらえるという、安易な考え方です。このたとえ話を語られる前に、弟子たちの「一日に何度まで人を赦せばいいですか」という質問に「7の70倍」とイエス様は答えられました。それは無限に赦しなさいという意味です。神はあなたが一日に何回も罪を犯しても赦してくださいます。だからあなたも人にそのようにしなさいと言われています。あなたが赦さないでいるなら、あなたも赦されないとみことばに書いてあります。神の恵みを無駄にしないとは、私たちには赦ししか道がないということを意味しています。行いは神様のように100%全うできませんが、それにも関わらず「父が完全なようにあなたがたも完全でありなさい」と言われています。
天の父の完全さとは赦し続ける愛の完全さです。私たちが唯一できるのは赦ししかないのです。神はあなたが100点を取れなくても赦してくださいます。あなたも周りの人が100点を取れなくても赦してあげることが必要です。早く平和を創り上げる方法は唯一、赦し合うことです。神の恵みとは赦しです。赦さないと恵みは無駄になります。そのためには「家鶏野鶩」、恵みのありがたさを絶対に忘れないことです。

 

 

 

 

 

 
■2006年7月16日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 小栗 恵子師)

   運否天賦 うんぷてんぷ  up 2006.7.16


運を全く天に任せること。「天賦」は天が分かち与えるという意味。

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
(コロサイ1:6) 


 

 

運否とは生まれつきのものという意味もあり、天賦は、天から与えられたものという意味です。私たちにとって天とは「父なる神様」であって、父なる神様がすべてを与えてくださっています。この神からの恵みを私たちがいかに悟っていくかによって、私たち自身の生き方が変わってきます。
以前「全世界を手に入れてもまことのいのちを失ったら何になるでしょう」というメッセージがありましたが、私たちが今生きている現状だけを見て生きるなら、本当に寂しい、ある人にとっては大変つらい人生になります。しかし神は、私たちに永遠の望みを見るように語ってくださいました。
永遠の望みとは、罪の刑罰から赦され、永遠に神と共に生きるようになるという望みです。イエス・キリストがご自身十字架にかかられ、私たちの身代わりに刑罰を負ってくださったゆえに、私たちはこの望みを持つことができるのです。
単に、そういうことがあったと話には聞いています、というだけではなく、本当にイエス・キリストは私の罪のために十字架にかかってくださったのだと心から悟る時に初めて、福音はその人の中で実を結ぶものとなります。私たちは今日、この福音を本当に悟る者でありたいと願います。
世の中の人々は、まだ罪に対して目が開かれていません。しかし神の福音によって目が開かれた私たちは、自分の罪に日々直面します。それはまるで現行犯として神の前に出ているようなものです。神の御心を損なうことばかりしている自分…。けれども神の恵みは、むしろ資格のない者たちに与えられます。神は私たちのために永遠の望みを恵みとして、私たちの前に開いてくださったのです。永遠を神と共に生きる。そこにはヨハネの黙示録21:4にあるように、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。私たちの人生のあらゆるつらさ、苦しさは、そのままで終わることはありません。神が私たちをその中から引き上げてくださり、永遠の喜びの内に入れてくださるのです。そしてこれは私たちの側の行いや努力、修行にはよりません。私たちは罪人に過ぎないのです。ただ、神の恵みです。この神の恵みを本当に悟るなら、どんな出来事が起きても、それは問題ではなくなります。恵みの中に生きるなら、運不運はなくなります。神はその領域にまで私たちを引き上げたいと願ってくださっています。その領域に入っていきましょう。

1.罪を赦し見捨てることをされない恵みの神(ネヘミヤ記9:17)
最も大きな恵みは、神は決して私たちを見捨てられないということです。明日からは決して同じ罪は犯すまいと決意しても、また繰り返してしまう私たち。どうしようもない自分に涙を流す時も、神はいつも赦してくださり、恵みの中で生かしてくださっています。私たちを神様はご自身の名をもって呼んでくださいます。放蕩息子を待ち続け、許して受け入れた父親のように、神は私たちが罪を悔い改め、方向転換するのをいつも待ち続けてくださいます。
(ネヘミヤ記9:17)では、エジプトでの奴隷の身分から解放され、様々な奇蹟のみわざが現されたにもかかわらず、イスラエルの民が高慢になり、神に不従順になっていたのに、なおもその民を見捨てない神の赦しとあわれみが示されています。私たちも神の恵みを受け、霊的祝福の中にありながら、ふと、以前の自分の方が良かったと世の中的な不敬虔な生き方に心が向いてしまう時があります。
しかし神は、そういう背信の中にいる時でも、決して私たちを見捨てず、むしろご自身の所に戻ってくるように待ってくださる方です。
上原令子さんがコンサートの時に「女の子とお人形」の話をされました。ある人が訪ねて行った家に、たくさんお人形を持っている女の子がいました。女の子はその人に、可愛らしい、素敵なドレスを着た、様々な高価な人形を見せてくれます。それでその人は女の子に「どのお人形が一番大切なの?」と訊きました。女の子は「本当に知りたいの?」といぶかしげに尋ねます。「ぜひ教えて。」と言うと、女の子は部屋の奥からひとつのお人形を抱いてやってきました。その人形はなんともみすぼらしい、汚いお人形です。「なぜそのお人形が好きなの?」思わずその人が訊くと、女の子はにっこりほほえんで「だってね、このお人形は私が愛してあげないと誰も愛してくれないお人形だからなの。私が好きにならなかったら誰も好いてくれないでしょう?」と言いました。
神様の前に、私たちもそのような者ではないでしょうか。決して神にふさわしいと言える者ではありません。しかし、そのふさわしくない私たちを、イエス・キリストの十字架によって贖い、その御名を信じる時に、神の子としてくださいました。私たちは自分の罪に落ち込んだり、人の罪を責めたりする前に、この神の恵みの大きさを思い起こす必要があります。

2.恵みをもって契りを結ばれる誠実な神(ホセア書2:19)
ホセアは預言者ですが、姦淫の罪の中にある女性をめとるように神に言われ、めとりました。ホセアは、罪の中にいる女性と結婚という契約を結んだのです。イスラエルは神の不貞の妻として表されています。神は私たちと契約を結んでくださっています。それは永遠の契約です。しかし私たちは、神を求めるように振るまいつつ、実は心に別のものを求めていたり、神から遠く離れていたりします。神はイエス・キリストというかけがえのないひとり子を、契約のしるしとして差し出されました。神はそれを嫌々ではなく、進んでしてくださったのです。その契約をいただきながら、なおも不平不満を持ち続けたり、悪癖をやめなかったりして、罪の中を歩むことができるのでしょうか。キリストの犠牲の上にある契約をもって、神は私たちに真実な愛を示しておられます。この契約は、私たちがキリストを拒まない限り、永遠に有効な契約です。この契約にある神の恵みをしっかりと受け止めて、歩んでいきましょう。

3.恵みによって互いに仕えあう(第1ペテロの手紙4:10)
私たちは賜物を神からいただいています。(得意分野であったり、したいことであったり、詳訳聖書では『多種多様な、値なしに与えられる愛顧』とあります)
それゆえ、例え自分の得意分野であろうと、才能であろうと、神から来たものです。その賜物は神から預かったものですから、自分を喜ばせるために用いるのではなく、互いのために用いるように求められています。1タラントを隠した僕のように、せっかくのタラントを使わないままでいるのではなく、神は互いのために使うことを願っておられます。
「シャロンのバラ」という本があります。ある所に一輪の美しいバラの花が咲いていました。神様はそのバラのそばを通られる時、その美しさをほめておられました。しかし、ある嵐の後、バラは自分の根元に、どこから落ちたのか、今にも孵りそうな卵を見つけました。寒い日です。親鳥たちの探す声がしますが、卵はバラにしかわからないような場所にあるのです。このままでは、寒さで卵の中の雛が死んでしまう。そこでバラは、神様からほめられたきれいな花びらを一枚一枚卵の上に落としていきました。この花びらは毛布のように卵を包み、次の日、雛は卵から孵って、無事親鳥の元に帰れたのです。
しかしバラは今や茎だけになってしまいました。神様が自分を見られたらどう思われるかと心配です。ある日神様はバラのそばを通られ、そこでバラに声をかけられました。「あなたがしたことは、わたしのひとり子であるイエス・キリストがした事と同じです。あなたは最も大切な花びらを、雛の命を守るために与えました。わたしも、大切な御子を、罪人の命を救うために与えたのです。」
「恵みによって互いに仕えあう」一番のモデルはイエス・キリストです。私たちは自分が傷つくことを恐れて、なかなか人に差し出すことができません。しかし、イエス・キリストを見る時、私たちも神がくださった賜物を周りの人たちのために用いたいと願うようになります。
神の恵みとは、私たちと周りの方々を生かすために注がれたものです。本来無価値なものであった私たちに注がれたキリストのいのちこそ、神の大きな恵みです。キリストのいのち、神の恵みが注がれているのですから、私たちはどのように一日一日を生きていたら良いのでしょうか。恵みは全てを覆います。私たちは神のこの恵みをしっかりと受け止めて、一日一日を生きていきましょう。周りの見えることに心をかき乱されないように、恵みの中に生かされているということをしっかりと悟りましょう。
イエス・キリストを信じる限り、私たちは永遠の契約の中に生かされています。一見恵みとは思えないような出来事の中にも、私たちは神の恵みを見つけることができます。毎日一つは神の恵みを見つけだし、感謝を捧げる一週間としましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年7月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   自画自賛 じがじさん  up 2006.7.9


自分が書いた絵に他の人が、その絵に関した詩文を書き付けることが礼儀であるにもかかわらず、自分で絵を褒める言葉を書くことから、自分で自分のことを褒めることを言う。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
(第2コリント12:9) 


 

 

世の中では弱さを誇るなどということはあり得ないことであり、強さを誇るのが普通です。なぜ弱さを誇れないのでしょうか。弱さというのはマイナス面、ダメな部分であって、認めてもらえないもの、良い結果をもたらさないもの、価値のないものとして無視されるものだからです。弱い者は無視され、強い者が生き残る社会です。このような社会なので、弱さを誇るということを理解するのは難しいかもしれません。パウロという伝道者はすばらしい能力を持ち、地位も身分もある人でした。超一流の律法学者であり、血筋もすばらしく、誇るべき事はいくらでもあった彼ですが、一つ、どうしても克服できない問題がありました。それについて神様に祈ったのですが、その祈りは聞き届けてもらえませんでした。なぜでしょうか。その答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。」というものでした。
「問題を取り除いてください。あなたに喜ばれないものがあります。」と祈ったのに、神様は「それでいい。そのままにしておきなさい。」と言われたのです。
「そのままにしておいた方が、わたしの恵みはあなたに十分に現れるのだよ。」と。
私たちには、完璧になろうという気持ちがあります。特に完全主義者や努力家、能力のある人は、努力によって成し遂げられないことは何一つないと考えます。
しかし、神様がパウロに言われたこのおことばを通して、神様は一体何を語っておられるのでしょうか。それは「弱さは、誇れるほどの宝である」ということです。その弱さは、神の恵みが十分に注がれるために与えられているのです。
神の恵みとは、全てのことはゆるされている、何をしてもいい、という本当の自由を与えられている状態のことです。しかし、全てが益となるわけではありません。神様の自由に、神様の愛に感動して、神様のために何かしたいという自発の思いが与えられ、善を行うことを自ら選んでいくために与えられているのです。
その真の自由を知るために必要なのは、この『弱さ』であるということを神様は教えておられます。今弱さを感じている人、自分はクリスチャンとして最低だと思っている人がいたら、その人は幸いな人です。今がチャンスです。神の力は弱いところに完全に現されるからです。それでも自分の努力でそれを穴埋めしようとする人がいます。確かにあなたの限界までの努力は必要です。しかし限界を超えて結果を出すということには奇蹟が必要です。その奇蹟の結果を出すために、神はあなたに恵みを与えてくださっています。限界を知るということは、弱さを知ることです。しかし、そこで留まるのではなく、限界を乗り越えていくために弱さを知って、神の力がもたらされる限界以上の部分にチャレンジしなさいというのが、パウロに語られた真のおことばです。弱さを誇るとは、限界へのチャレンジ、不可能へのチャレンジです。限界を引き伸ばしたいなら、自分の弱さを認め、誇ることが必要です。「神様、私の限界は今ここまでです。今こそあなたの知恵と力によって、この限界を打ち破ってください。」というのが、弱さから出てくる神への信仰です。これを神様は願っておられるのです。
もしあなたが弱さを認めず、弱さを知らなかったら、神様も知ることはできないでしょう。神様の力は弱いところに現されるからです。強いところには現されません。あなたの能力でできるところに神様の力が働いていると思ってはいけません。それはあなたの能力、力です。しかし、これは私の限界だと悟った人は、神は全能の神であるということを知るチャンスです。だから弱さを誇りなさいと言われているのです。
「自画自賛」とは、誰もほめる人がいなければ、自分で自分の絵をほめるという意味です。
その絵を一番わかるのは作者です。あなたがあなた自身のことを一番よく知っているなら、あなたが一番自分をほめることができるはずです。自分をほめることができない人は、他人をほめることができません。自分をほめることができないのに人をほめるのは、うらやんでいる時です。自分をほめて、さらに他の人をほめるなら、それは心からできるのです。その中でも、自分の弱さ、ほめることのできないところをほめることができたら、もっと人をほめることができます。
自分の弱さを誇るとは、自分の弱さを自画自賛することです。ほとんどのクリスチャンは、自分の至らなさや失敗、欠点、問題に打ちひしがれて、弱い自分の時にイエス様を見いだしているのではないでしょうか。だから証をする時に、自分の弱さを人々の前に現して、すばらしいイエス様の救いと愛の中に今の私があるのです、と証しするのです。なぜですか。その弱さがあったからこそ、永遠のいのちに至ったからです。障害を持った方で、いろんな有名な詩人がおられますが、その詩は自分が障害を持っているということの幸いを証しているものが多いですね。健康な人には見えないものが見えてくる、それは弱さがあるからです。その見えてくるものは神様のすばらしさです。だから弱さは宝なのです。弱さを自画自賛しなさいということです。しかしその弱さは、神様のこのようなすばらしさを知るためであったというところまで行かなければ、その弱さの自慢はむなしいもので終わってしまいます。この弱さを認めることができるのはただ一つ、神の恵みの中に留まっている時だけです。

1.神の恵みが施されたメフィボシェテ(第2サムエル記9章)
イスラエルは預言者を通して神が治められていたのですが、民が他の国と同じように王様を求めたので、サウルがイスラエルの第一代目の王位に着きました。
このサウルは気の小さい人間でした。自分の弱さを知っていました。その弱さのゆえにへりくだっているサウルを見て、神は王として選ばれたのです。しかし王様になり、権威が与えられると、彼は自分の弱さを忘れてしまい、自分の力でないのに自分の力のように思ってしまって、神様のことばよりも自分の考えを優先してしまい、不従順という罪を犯してしまいました。弱さを忘れてしまったサウル王は、神のおことばに忠実に従わなかったために、王位を取り除かれたのです。しかしそのサウル王の息子ヨナタンは、自分の弱さを知っていたすばらしい人でした。自分は王位にふさわしくない者だと思い、ダビデこそ次の王になる人だと思えるほどに、自分の弱さを認めた人でした。
サウル王とヨナタンは戦死してしまい、ダビデが次の王としてイスラエルを治めるようになります。ダビデは、自分は本来羊飼いで、王になるような者ではないのに、神は王位を与えてくださった。ならば、罪を犯して滅びてしまったサウル家も、神の恵みによって復興することは神が喜ばれることだと神のお気持ちの大きさを理解して、その子孫を捜したのです。そしてヨナタンの息子で、両足の萎えたメフィボシェテを見つけました。メフィボシェテが敬虔な人か不敬虔な人かはわかりませんが、ダビデの好意を受け止めたということは、ヨナタンと同じ敬虔な心があったようです。不敬虔ならば歪んで受け止めたことでしょう。彼は王宮に住むことを許されました。そこで、王宮で生活したメフィボシェテを想像してみてください。敬虔な心で生活した場合と、不敬虔な心で生活した場合とでは、だいぶ違いが出てくるでしょう。王宮だからといって、病気にならないとか、問題が起こらないわけではありません。そのような時に彼はどのような心の動きをしたでしょうか。王宮の中でどんなことが起こったとしても、敬虔な心で前向きに捉えることができたはずです。本来は滅びてしまうはずの者が、ダビデ王のあわれみを受けて、神の恵みを受けられる者に変えられました。普通の人であれば少しでもダビデ王のお役に立てるのですが、両足の萎えた彼は、王の役に立つことができない厄介者でした。その自分にしもべを遣わしてくださり、多くの助けを与えてくださる王様の配慮の中で、王の愛とあわれみのゆえにこの王宮に生かされているというだけで、自分の弱い立場を理解していれば、何が起こっても感謝だなと受け止めるのではないでしょうか。これをあなたのクリスチャン生活に生かすことが必要なのです。

2.メフィボシェテと私たち(第1ヨハネの手紙3:1)
メフィボシェテは、ダビデ王の息子たちと同じ立場を与えられ、食事を共にすることができました。私たちも、イエス様の十字架を通して、神の子どもと呼ばれる者となり、神の食卓に着くことができる者とされたのです。神の恵みという王宮の中に入ることができたのです。その中で幸せを感じる人と、不満を感じる人がいます。それは敬虔か不敬虔かの違いです。王宮の中にいたら、たとえ病気になっても怪我をしてもすぐに対処してもらえます。王宮、神の恵みの中にいるということがどんなにすばらしいことかを理解するには、自分の弱さを知っていることが必要です。クリスチャン生活はおもしろくない、窮屈だと感じている人がいるかもしれません。でも、王宮の中がどんなにすばらしいかがわかる人は、自分が足萎えであると気づいている人です。この当時、足萎えであるということは、自立できない、世の中に出られない、厄介者でした。その自分が王宮で生かしてもらっているのです。どんなに窮屈なルールがあったとしても、それは平安のため、健康のため、幸せのためであると受け止めることができるのです。でも窮屈だと感じる人は、自分が足萎えであることを忘れてしまっているのです。恵みを当たり前のように考えているのです。仕事をし、給料が入り、健康であり、家族が支えられていることを当たり前のように考えてしまっていませんか。それは神の恵みの中に生かされているから与えられているのです。神の恵みに留まるためには、自分の弱さを知らなければいけません。あなたはメフィボシェテのように足の萎えた者です。アダムはこの地を治めると言われた第一の王(サウル)です。そして敬虔な子孫たち(ヨナタン)がいました。しかし現代の私たちは、敬虔な生活をしたくても罪と欲望の誘惑があり、正しいことを知っていても罪と妥協しなければならない社会に生きている、自分の足では敬虔な歩みができない、霊的な障害者の状態(メフィボシェテ)です。
だから王宮(神の恵み)の中に迎え入れられる必要があるのです。ダビデ王に象徴されているイエス様が必要なのです。何のために弱さを誇るのでしょう。神の恵みの王宮に留まるためです。神の恵みに留まる生活をしていくならば、どんな災いや問題が起こっても、必ず助けが与えられ、最小限で問題が解決され、いやされ、解放されていきます。
だから何が起こっても神の恵みなのです。全てが感謝なのです。あなたは神の恵みの中にいるのです。それにも関わらず弱さを認めないような、見せかけのクリスチャン生活はやめましょう。弱いなら弱いでいいのです。どれだけ弱いかということではなく、弱さを認めることが大切なのです。そこに神の助けを受けるチャンスがあり、神の力が現れるのです。弱さがあることを感謝する姿勢をもって、神の恵みの中を歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年7月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   自由闊達 じゆうかったつ  up 2006.7.2


心が広くて小さな物事にこだわらず、のびのびしているさま。度量が大きく、頼りがいのあるさま。

私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
(第2コリント1:12) 


 

 

パウロは、自分の行動が人間的なこの世の常識的な知恵によるものではなく、神の恵みによるということを悟って語っています。そしてそれは、私たちの良心の証しするところである、と。良心は神を畏れる心です。それは自分の能力や才能ではなく、喜んで神に従う気持ちです。それがパウロの誇りとするところなのです。この誇りは高慢ではなく、確信がある、間違いがないというものです。
「自由闊達」
パウロは初めはたいへん几帳面な性格であったので、完全主義者に近い考え方があったようです。しかし、神の恵みの中を歩んでいる内に、神様のおおらかな大きな愛、恵み、御手の中で自由にのびのびと歩むことのすばらしさを身をもって体験したのです。そして私たちに勧めていると思います。
みなさん、今週は神様からどれほど大きな愛、また赦しを得ているかをみる時に、この世での様々な心痛むようなことを、もっとおおらかに前向きに捉えることができると思います。チャレンジしていきましょう。

1.与えられている神の恵みとは?(第2コリント人への手紙8:1〜4)
『さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。』
マケドニヤの人々は、極度の貧しさと激しい試練の中にあっても、その喜びは満ちあふれていた。そしてそれはあふれ出て施す富となった。何もささげる物がない状態の中でも、ささげたいという気持ちがわき上がってそれを実行したわけです。
神の恵みは私たちに自発性を生み出す力があります。神様は私たちを愛してくださって、その行為として無条件に恵みを与えてくださいます。それをどう受け止めるかです。
必要を感じない人は、マケドニヤの人々のような行動はとらないでしょう。
しかし良心的に「ああ、こんなにもしてくださるのか」と受け取る人は恩を感じ、感謝を感じます。何かをお返ししたいという健全な心の動きが生まれてきます。
マケドニヤの人々は、神様がイエス・キリストを通して与えてくださった罪の赦し、永遠の滅びからの救いを身にしみて感じたのです。それが、お金には換えられないほどの大きさだと感じた時、何もなくても助けを必要としている人がいるならば、何かささげて神への恩返しをしたいという、自発的な思いが湧いてきたわけです。そして彼らは力以上にささげました。それは限度を超えるということです。制限されないということです。
私たちは自分の考えや生活、この世の常識で自分の行動範囲に制限を持ってしまいます。神の恵みは自発が尊重され、行動が制限されない気持ちをもたらします。それがあがないの御業に裏打ちされた神のあわれみです。創造主なるお方が、神に逆らった罪深い人類をなおも自由に生かし続けてくださっている。そのお気持ちは私たちに対するあわれみなのです。そして罪人を赦すための十字架の御業が表されました。神の恵みの中では、本当に自由にのびのびとやろうと、思うことをやっていけます。神の恵みは無限に注がれているからです。
ただ、危険があります。それが二つ目のポイントです。

2.放縦の危険性(ユダの手紙1:4)
『というのは、ある人々がひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もって記されている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。』
放縦→ギリシャ語では「好色」罪、咎、汚れに属する言葉
自由が放縦に変わる境目は、自由を与えられた者が、不敬虔な心の状態になった時です。ですから必然的に、敬虔な人の自由は故意に悪を選ぶことはありません。善に親しむことを選びたいという正しい良心の気持ちがあります。ただ、それが実現できないという現実にぶつかって悩んでいる人がいます。そういう人も神の恵みを自由として受け取っています。しかし、失敗して罪を犯して、「ダメなクリスチャン」というレッテルを貼られてしまうのが怖いと言う人は自由がありません。
神の恵みは失敗を恐れずに、もっとのびのびと心の思うことをやってみなさい、というものです。例えば「百貨店でキャッシュカードを自由に使いなさい」と言われたとします。いくら自由にと言われても、一日に10万円も買い物はできないと自分で制限する人と、「自由に使いなさい」という言葉を丸ごと信じて、思うままに買い物する人もいるでしょう。どちらも正しいのです。自由だからです。
悪を選ぶ自由も与えられています。ただ、それは放縦に向かう自由です。しかしあなたに神を敬う心があるなら、聖書の言う自由の中にあるのです。もしあなたが神を敬いながら、心に願った思いを実行してみて、良い結果が生まれなかったならば、神は赦してくださいます。
キーポイントは敬虔か不敬虔か、良心を働かせるか働かせないかです。良心とは私たち自身です。
みなさんはこれほど大きな自由が与えられている神の恵みを放縦に変えるか、自由に変えるか、それはあなたの自由意志によってどちらにもなるのです。

3.壮美な神の恵み(ヘブル人への手紙2:9)
『ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人々のために味わわれたものです。』
イエス・キリストの十字架さえ、神の恵みによって実現されたものです。イエス・キリストは神であられるわけですから、汚されること、罪を負うということはあり得ないことです。神が神でなくなるわけですから。律法によれば、絶対にあり得ないという制限がありました。しかしキリストはそのご自分の限界をうち破って、私たちの罪を背負う決心をされたのです。それは自発的にそれをしたいと願われたのです。父なる神の立場からすれば、「それはダメだ」と言われたかもしれません。それでもイエス様は「彼らの創造が無駄にならないために、私は神の姿を捨ててでも、彼らの救いのために自分をささげたい」とこのような、私たちに対する自発の愛とあわれみを御父に表されたのです。
それは恵みという考え方しか方法がありませんでした。律法によれば、絶対に神が汚れてはならないからです。神の恵み、それはすなわち「もう限界がないから赦そう。いいよ」と語られたということです。これは大変なことです。ですから永遠にただ一度しかない出来事として、聖書で言われています。
これは私たちの救いのために、恵みによって実現されたもの。律法の枠を打ち壊して、十字架にかかられたイエス・キリスト。このことをあなたの良心でしっかり受け止めて、よく黙想して感じてみてください。マケドニヤの人々がどうして、何もない貧しい中でもささげたいと思ったかが、少し見えてきます。それほど、私たちを内側から変えてしまうほどの大きな力が神の恵みの中にあるのです。
神様の壮大な美しさが、キリストの十字架に現されているのです。全納の神が、ご自分の聖さを維持するというプライド・誇りを捨てて、ただ一度汚れを私たちのために受けてくださって、救いを成就してくださいました。
あなたが神の恵みの中で、神を畏れて心の中に浮かんだ願いを神の御心だと信じて行動するなら、たとえそれが失敗に終わったとしても、神は赦してくださいます。その神の恵みが少しずつわかってくると、自分も神様に無言のまま赦されていると思う時に、多くの愛する兄弟姉妹に対しても寛容さが生まれてくると思います。神様が怖いから自制するのではなく、自分自身が放縦になりたくないという、本音の気持ちから自制していく健全な自制へと変わっていけばいいと思います。のびのびとした、神の恵みの中における信仰生活を歩んでいきたいものですね。