■2006年6月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   知者不惑 ちしゃふわく  up 2006.6.25


知者は物事の本質を知り、道理をわきまえているので、事に当たって迷うことがない。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。「「主の御告げ。「「
(エレミヤ9:24) 


 

 

聖書には、いくつか誇るべきことについて書かれていますが、これらはすべて、究極的には「神を知っていること」を誇りなさい、と言っています。
一般的に誇るというと、自慢するとか強情だとかいうような、悪い意味のプライドを持つことだと思われがちですが、ここで言う誇りとは良い意味のプライドです。健全なプライドを持つことは、私たちの人格を高め、人々からも尊敬を得ることにつながります。
先日のチャンドラー先生の集会において、神様の戒めの中で聖書に最も多く出てくるのは何でしょう?という質問がありました。答えは「恐れるな」でした。なぜなら私たちはよく恐れる弱い者だからです。
私たちが恐れてしまう原因は、平安がなく不安定なことです。ですから、恐れないためには安定が必要です。
誇り高き人は確信があるので恐れません。神は私たちに恐れおののいた状態に陥らないために、神を誇りなさいと言われているのです。
また知恵者は、物の本質を知っているので不安にならず、恐れません。聖書で知恵ある者とは「神を畏れる者」です。天地を造られた神を知っている者は「知者不惑」であるということです。今日もこの四字熟語を用いて、私たちの誇るべきものは何かを3つの点からお話ししたいと思います。

1.私たちの行動に対する誇り(第2コリント人への手紙1:12)
パウロがコリントの人々に言う、自分の良心の証しするところとは、自分の行動は神の前に良心的に判断して、神に受け入れ、喜ばれることだという確信を持っているという意味です。彼の行動の源は神の恵みであり、それは神から来る聖さと誠実さです。
神の聖さと誠実さを知っているがゆえにパウロは、偽り・おごり・高慢・欺きなどの様々な罪から極力離れました。
この世の人々は神を知らないから悪を行うのです。
私たちはどうして悪から遠ざかり、罪を犯したら悔い改めやり直そうとするのですか?主を知っているからです。そのお方は善には報い、悪には裁きをもたらす方だと知っているから。悔い改める者は赦し、不敬虔な者には裁きをもたらす方だと知っているからです。ですから、私たちの行動に対してもっと誇りを持って、世の中の人々に堂々と表していただきたいと思います。
パウロはイエス様に次ぐようなすばらしい信仰生活を送り、晩年は、迫害の中殉教するまで多くの人々に福音を伝えたと言われます。このパウロの行動は主を知っていることによる確信から出たものです。
私たちも主を知っている者としての行動を証しする生活を送りたいものですが、それは完全な行動を要求しているのではありません。
たとえ誘惑に負けて罪を犯したとしても、その失敗を隠すのではなく、罪を認め、人々の前で堂々と悔い改めることによって、神を畏れる者としての証をすることができます。悔い改めることは良いことです。それは主を知っているからこそできる行動ですから、自分の悔い改めに対して誇りを持つべきだと思います。

2.自分の弱さに対する誇り(第2コリント人への手紙12:9)
聖書でいう弱さとは、自分の力の限界を知っているということです。世の中は比較社会、競争社会ですから、勉強ができないとか、運動能力が低いなど、人よりも劣っている者、つまり弱さを持っている者を敗北者と見なします。そのような価値観を持っていると、ダメな自分、弱い自分を認めることができません。(例えば100点を取った自分は愛せるが、30点を取った自分は愛せない、というように)そして自分の汚点となるものを見せてしまうと人に受け入れてもらえないという恐れから、それらを隠してしまいます。
以前私は、ある教会の学生キャンプで自分の証をしました。証を聞いたその教会の牧師先生は、非常に驚かれました。なぜなら、私のクリスチャンになるまでの証は、失敗の連続で、世の中で言う負け犬のような内容であったからです。
その牧師先生は、弱い自分を出すことは、牧師として、親として尊敬されなくなるのではないかという恐れを持っておられたそうです。しかし、私が堂々とそのような証をしたことで、子どもたちは安心し、さらにイエス様に対する気持ちを高めていったという状況を見たその牧師先生は、自分の考えはなんと愚かだったのだろうと話してくださいました。
弱さを見せることは、世の中では受け入れられず、特に勝ち抜いて来た人々からは、バカにされるでしょう。しかし、神様は強さよりも弱さを誇りなさいと言われるのはなぜですか?
それは神様の力は弱さのうちに完全に表されるからです。神の訪れ、神の栄光、主のすばらしさ、愛の深さ、広さ、高さ、それは弱さの中で体験することができる、だから主を知っていることを誇りなさいと言われます。
この世で勝利の味を知ったからといって、それが一体何の益になるでしょうか。造り主を知らずして社会で成功し、喜び、人々に尊敬されたとしても、神の前に立った時にそれが何の役に立つでしょうか。
私たちは主を知っているがゆえに、人々に尊敬されるかどうかではなく、主に喜ばれるために、主を知っていることに誇りを持つべきです。
私たちはそういう生き方を選んでいるのだということを忘れないでください。
私たちはまだ自分で何かしようとしているかもしれません。だから、神様がなさる場所がなくなるのです。行き詰まっている時こそ、主を知るチャンスです。主をもっと深く知るチャンスなのです。
祈り、ある時は断食して主を求め、神に近づくんですよね。もう人には頼れない、医学に頼れない、奇跡に頼るしかない。そういう状況の時に神の力は私たちの弱さのうちに完全に表される。だから私たちは自分の弱さを誇りましょう。

3.私たちの交わりに対する誇り(第2テサロニケ人への手紙1:4)
テサロニケの人々がローマの迫害と患難に耐えながら神のみことばに対する従順と、イエス様に対する信仰とをしっかり保って信仰の戦いを歩んでいる、という証を聞いたパウロはテサロニケの人々を同僚として誇りに思ったとはどういうことでしょう。
パウロは迫害を受け、牢屋の中で孤独に耐え、不安と不信仰が襲ってくる中で、テサロニケの人々の確固たる信仰の証を聞いて、今の自分の信仰姿勢に対する揺るぎない心を持つことができました。それを誇りというのです。
誇りは傲慢になるものではありません。誇りは不安と恐れから勝利するために必要なものです。迷わないために、惑わされないために誇りが必要なのです。
私たちは日本人以外の海外のクリスチャンの証を聞いても尊敬します。日本でみわざが現れていなくても、インドではベニー・ヒンが300万人も集めたとか、フィリピンでも200万人集めたとか、神の御業が渦のように高まり、イエス様の救いが証しされているのを聞くと、私たちも、自分の信じているイエス様に対する確信と、癒しと奇跡が行われることに対する確信を持つことができるのではないでしょうか。
このような証を聞いて、「ああ私たちはダメだ」「私の信仰はダメだ」と思ってしまうとしたら、比較社会の価値観によって、無意識のうちに自分と他のクリスチャンを比べているということです。
たとえあなたができなくても、同じイエス様を信じて歩んでいる同僚がいるということで励まされ、そのような方がお手本としておられるということは誇るべきであって、その誇りは自慢ではなくて、確信とすべき誇りです。
主を知っているがゆえに、どんな患難や迫害にも耐え抜いている、そういう兄弟姉妹に関して、私たちは誇るべきです。また、そのような兄弟姉妹と共に同じ教会で歩んでいるということは、もっと誇るべきです。
私たちの同僚の信仰の歩みによって「だいじょうぶだ、間違いない」という確信を持つことを通して、自分の信仰が揺るがされないものとなるために誇りなさいということです。
「知者不惑」すなわち自慢するための誇りではなく、惑わしや恐れに対して立ち向かい、惑わされないために誇りを持つということです。そしてその中心は「主を知っていることを誇りなさい」と、主は勧めておられます。

 

 

 

 

 

 
■2006年6月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   自業自得 じごうじとく  up 2006.6.18


自分のした善事悪事の報いを受けること。一般的には悪事の報いを受けること。

人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
(マルコ8:36) 


 

 

一般的には「自業自得」は否定的なイメージがありますが、本来は良いことにも使える言葉です。良い行いをすれば報われるというのが自業自得です。
(マルコによる福音書8:36)は、伝道の時によく用いられるみことばです。
今日は「いのちを損じたら何の得がありましょう」 の「いのち」について考えていこうと思います。
「自業自得」自分の業を通して得るものがあります。善を行った者に対する良い報いもあれば、悪を行った報いもあるということです。
全世界を儲けたとしても、その儲け方に対して報いがあるのです。いのちを得られる報いと、いのちが得られない報いがあります。私たちはいのちを得る生き方をしているでしょうか。
見える世界だけを求めた生き方をしていないでしょうか。不敬虔な人々の生き方、価値観に影響されていないでしょうか。いのちに心を向けることを考えていきましょう。
成功か失敗か、損か得か、これは道徳的価値観ではなく、資本経済主義、競争社会の価値観です。私たちは道徳的価値観から見て測っているでしょうか。教会を一歩出たら世の中の人と同じように競争社会、経済社会の価値観で物事を測っていないでしょうか。勝ち組か負け組か、金持ちか貧乏か、能力があるかないか、という比較社会の価値観で生きていくなら、一体どんな報いがやってくるでしょうか。
教会に来ていることが、自業自得として実を結ぶとは限らないのです。むしろ、私生活、社会生活の中での自業自得が実を結んでいくと言えます。教会でいくら道徳的になったとしても、あなたの生活の中で道徳的価値観から生きていかなければ、良い意味での自業自得は成り立たないのです。教会を出てすぐにクリスチャンの服を脱いで世の中の価値観を身に付けていては、日頃のクリスチャン生活で教会に行って聖書の話を聞いているのにどうして良い実がならないのか、と言ってもしょうがありません。
この自業自得という言葉を聖書で言い換えるなら、「御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取る(ガラテヤ人への手紙6:8)」「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります(ガラテヤ人への手紙6:7)」というみことばにあてはめることができます。全世界を得ようという世の中の考え方でいくならば、いのちを得ることは難しいでしょう。それぞれのクリスチャンがいのちに対する価値観を正しく持って生きているかどうかは、人生の終わりに自業自得の実がどのように報われるか、それによってはっきりとします。

1.善行の報い(ヨハネによる福音書5:29)
善を行って人生を終えた人はよみがえった後にいのちを受け、悪を行った人は、よみがえった後にさばきを受ける、ということです。
労働として、この人生を考えてみましょう。救いというのは働かなくてももらえるもの、会社に雇ってもらえるということです。しかし、雇ってもらっても働かなければ給料はもらえません。一ヶ月働いて給料がもらえるということを人生として考えましょう。人生も、死を迎えることを通して、給料としてもらえる報いがあるのです。まじめに働いたら給料はもらえます。このまじめとは善行のことです。善行を行う生き方とは、まじめに会社で働くということです。
まじめに働くのは損だと世の中の人は考えます。あなたもそのような考え方に影響されていると、善に対する良い報いは与えられません。神は、一人一人の善行を、生まれてから死ぬまで見ることのできるお方です。神様の前に立つ時、精算される時がやってくると、イエス様はたとえ話の中で教えておられます。人生は労働と一緒で、報われるものです。善を行う者はいのちを報われます。そのいのちは全世界の支配者になるより尊い価値あるものです。だから私たちはまじめな生き方をするのです。たとえこの世で馬鹿にされても、まじめに生きる方が価値があるのです。それは報われる生き方だからです。

2.敬虔な者に約束されているもの(第1テモテへの手紙4:8)
いのちが得られる約束は敬虔さによって確かにされます。敬虔さとは神を畏れる心です。未来のいのちだけでなく、今のいのちも保証されています。その日一日一日の給料は確実に報われています、と保証するのが敬虔さです。会社への忠実な姿勢、まじめな姿勢は給料を保証します。
ではクリスチャンにとっての敬虔さとは、「一つも罪を犯さないこと」でしょうか。世の中の人から見れば、クリスチャンの言うことはきれいごとです。しかし、敬虔さがいのちを得る保証となるのです。
不可能と思えるようなことをしなさい、と御国の社長である神は言われます。善行を行うことは不可能に思えますが、イエス様は人間として、ご自身の人生で善行を全うされました。だから私たちにもできるはずなのです。違いがあるとすれば、ただイエス様は御父に対する強い思いを持っておられたというところだけです。愛する、尊敬する存在のために、人はどんなことでもするものなのです。信頼する者のために自己犠牲を払うということが、愛の信頼関係です。御父と御子とはそのような関係なのです。神様は私たちを見込んで、できると信じて、あなたにキリストのいのちを投資し続けておられます。今もあなたがこの罪の世界で善行を行って生きるようにと、不可能と思える状況の中でも「いや、できるからやりなさい!」と励ましてくださっているのです。
私たちは空想の神様を信じているのではなく、歴史に現れたイエス様を、事実として記録された聖書を信じているのです。だからこそ、まじめに生きることを貫くのです。この生き方に自信を持ってください。

3.「いのち」の内を歩む(第1ヨハネの手紙3:14)
ここ数年、正しい良心を中心に話をしていますが、言うなれば、道徳的生き方をしなさいということです。神は私たちに、その生き方を願っておられます。どんな世の中でも、どんな状況にあっても、道徳的生き方を譲ってはいけません、というのが神様の教えです。それがいのちを得る生き方です。その一番具体的な生き方は兄弟を愛することです。
兄弟愛をもって人間関係を大切にしていくということが、いのちに移ったことの証しです。人を大切にするとは、思いやりを持つことです。相手の身になって物事を考えて、なぜそのことができないのか、ということに共感することです。なぜあの人は怒ってしまうのか、表面だけを見るのではなく、そうなってしまうその人の人生を考える時に、やむを得ないという思いやりとあわれみが出てくるのです。
私たちは、世の中の人が神様を信じることのできない気持ちを理解してあげないといけません。神様がおられると感じられない、いろんな社会があるからです。むしろ、そんな中で神様を信じることができたという方が奇跡なのです。
相手を自分に合わさせようとするのではなく、自分が相手に合わせていくという思いやりが兄弟愛です。
ただし、この兄弟愛には敬虔さがなければ、いのちは約束されていません。何でも愛する、何でもあわれむであってはいけないのです。悪事を行うこと、いのちに至らないことに協力するような愛し方は、本当の愛ではありません。ですから、敬虔さとはものすごく大切なものなのです。敬虔さと愛はいのちと深い関係があります。愛は人を生かすために自己犠牲をするものです。そして「人を生かす」とは、敬虔さを伴った、神を畏れる道徳性の高い基準から生み出されるものであるということを、よく覚えておいてください。
正しい行いをやめさせるようなことは、愛からきているのではありません。また、相手が変わったら愛するのではなく、まず相手がそのままでも愛せるような大きな心に私を変えてくださいと祈るのが、道徳的に高い愛です。そのような人に神様は報いてくださいます。良き神様に対するイメージと、私たちの良心的判断があって、いのちという報いが与えられていくのです。
兄弟を愛するということに対して最善を尽くしていきましょう。愛せないからといって愛がないのではありません。愛せないというのは病んでいる、弱っているということです。だからこそイエス様の元に行き、いやされることを願うのです。これが愛せない相手に対する思いやりです。
こんなすばらしい生き方ができるように、イエス様は救いを与えてくださいました。私たちはこの生き方を多くの人々に見習っていただけるように変えられたいですね。それこそ、生きておられる神様を証しする生き方、いのちの報いが与えられる生き方です。

 

 

 

 

 

 
■2006年6月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   悪木盗泉 あくぼくとうせん  up 2006.6.11


高潔な人は、決して悪事には手を染めないものだというたとえ。

あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。
(箴言4:26〜27) 


 

 

今、自分の人生の道筋に心を配る人は少なくなっています。「心を配る」とは注意深くよく吟味し、より良い判断ができるように気を使うことを意味します。あまりにも周りに心を惹かれることが多くて、目先のものに追われてしまい、今自分がしていることと自分の人生の関連性について考える時間さえも持つことができないでいませんか?
たとえば学生たちが、今している勉強と自分の人生との関連がわからないようにです。そしてむしろ先のことを考えるより、今受験勉強をしっかりするよう追い立てられます。親子で人生を考えるという人は一体どのくらいいるでしょうか。こういった中で、若者の多くが人生に迷っています。
また、自分の人生を何によって堅く定めたらいいのでしょうか。自分のしたいことをすればいいのでしょうか。聖書が言う「右にも左にもそれてはならない」を、堅苦しいと捉える人がいます。まっすぐに歩むことは自由がないという風に、世の中の考え方にマインドコントロールされていないでしょうか。ある心理学者は「世の中も私たちをマインドコントロールしている」と語っています。資本主義社会、経済社会の中で、人々はメディアを通して価値観をコントロールされています。資本主義社会の土台は利益を出すということであり、そこに価値が置かれます。
また、「自由」の捉え方も、聖書の言う自由とは異なり、まっすぐに歩むことは自由がない、堅苦しいことであると捉えます。しかし聖書では、まっすぐに歩むとは正義の道を歩み、公義を行う(道徳的生き方をする)ことであると言っています。
もし利益中心の生き方をしていれば、悪いことでも、見つかりさえしなければいいということになってしまいます。そして多少は悪いこともしないと社会生活は送れないというふうに教育したりします。
こういう考え方で教会に来ていると、教会では正義の道を歩むが、世の中に出ると世の中の流れに従って、多少の悪には流されるという二重の生き方をしていくようになります。
不敬虔な世界のマインドコントロールに洗脳されないように気をつけてください。人の命は持ち物や能力で測られるものではありません。しかし人殺しをした命と、善をした命の価値は違ってきます。世の中がお金の価値を中心に回り始めてから、こういった命の価値基準も変わってしまい、お金で命の価値が決まるかのように、マインドコントロールされてきました。
人生の成功と失敗をお金で判断してしまっていませんか?お金をたくさん得た人が人生の成功者でしょうか。お金がない=不幸な人でしょうか。
私たちは神を畏れています。正しいこと、きよいことに価値を置いています。もしそれが揺らいでいたら、クリスチャンとして神の前に不敬虔な考え方に惑わされないようしっかりと道を堅く定め、右にも左にもそれないよう、心を配る必要があります。
〜今日の四字熟語〜
「悪木」…曲がりくねった節々の多い木
・高潔な人はこういう悪木の陰で休むようなことはしません。そこまで心を配り、身も心も汚されないよう気をつけます。
「盗泉」…孔子が旅の途中水を飲みたくなり、泉の名を地元の人に問うたところ、「盗泉」という名だと聞いた。それで、喉は渇いていたが、そこの水を飲まずに、次の泉に向かったという話
・盗んだ泉と呼ばれるような所で水を飲みたくないというほどに、自分の身と心の清さを守ったということです。
神の似姿に造られた人類は、神のように自分自身の高潔さ、清さを汚さないように心を配る必要があります。
私たちは高価な器は大切に保管し、重要なお客様の時にしか使いません。そのように高価な品物をどのように扱うか、自分なりに定めているのなら、神の御子のいのちによって贖われ、神の子とされた自分自身を大切に、心を配って生きるのは当然のことではないでしょうか。自分のいのちの価値の尊さに気づいてください。
私たちのいのちのために、イエス・キリストの尊い血潮が流されたのですから、悪木盗泉の生き方をして、悪から遠ざかりましょう。それが自分を大切にすることです。
ではどういう悪に気をつけたらいいのか、3つのポイントを学びます。

1.幸せに対する価値判断(箴言17:1)
争いに満ちていても、ごちそうがあればいい。争いに勝てばいいのだから、と考える人もいます。多くの若い人々がそのように考えているようです。資本主義は豊かさを追求します。豊かさ=幸せ、と考えます。敗戦後の日本はこの資本主義の考え方でまっしぐらに来ました。しかし豊かさはこれでもう十分という安心は与えません。もっともっとと欲が出てくるように、欲を引き出す物をどんどん作っていくのが資本主義です。
大きな家に住む欧米の暮らしにあこがれて一生懸命働いても、日本ではとてもそんな大きな家に住むなどということはありません。サラリーマンが一生かかって稼ぐ金額は決まっています。そんなことはわかっているが…と、クリスチャンがこの世の考え方に汚され、貪欲に侵されてしまわないように、意識をしっかりと持つことが大切です。家があるかないか…、肉を食べるかどうか…、で幸せ感が変わってしまわないように気をつけましょう。幸せの土台はきよさです。汚れた幸せは価値がありません。

2.お金に対する価値判断(エペソ人への手紙4:28)
なぜねずみ小僧は「悪い」のでしょう。「盗む」という行為によって汚されているからです。もしこれを正しいとするなら、社会道徳は混乱します。あるひとつのことを助けるために、ひとつの悪を行うということは正しいと言えません。盗んだお金で家族を養っても、そこに価値はありません。正義か悪か、きよいかきよくないかですべての物事の価値が決まってきます。この考え方から右にも左にもそれてはなりません。

3.信頼に対する価値判断(箴言20:6)
多くの人は自分の親切を吹聴します。吹聴には偽り、偽造、欺きが含まれています。親切によって相手に自分をよく見せようとします。どんなに殺意を持っていても、親切によって相手をごまかすことができます。どんなに偽り者だという評判がたっていても、その人が親切にしてくれることによって、だまされてしまいます。親切はそういう意味で狼がかぶる羊の皮のようなものです。ただ「親切だから」という理由で人を信用してはなりません。人を信頼する基準は、その相手の「忠実さ」です。その忠実さは神に対するものであり、一般的に言えば、正義に対する忠実さです。正義に対し、口だけで、生活自体が正義を行っていなかったら、その人は信用できる人ではありません。
ただ忠実さはきよくあり続けるということだけでなく、間違ったらやり直す、すぐにもとに立ち返るということでもあります。これがクリスチャンの善に対する忠実さです。未熟なゆえに善から外れることがあっても、すぐに悔い改めて、神の前に本心に立ち返り、また歩むべき道に戻り、そこから出ないよう心を配りましょう。この忠実さの姿勢が世の中の人々とクリスチャンとの違いです。忠実さがあるかどうかは、その人の悔い改めを通してわかります。悔い改めを軽く考えているクリスチャンには、忠実さはありません。そういう人は憐れんでも、信頼はできません。
忠実な人はできる限り努力して善に対し忠実であろうとします。悪木盗泉の心をしっかりともって、クリスチャンとしてのきよさを失わないよう気をつけましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年6月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   堯風舜雨 ぎょうふうしゅんう  up 2006.6.4


中国古代の伝説上の聖天子、堯と舜の徳があまねく行き渡ったのを、風雨の恵みに例えていう。転じて、為政者の仁徳が国の隅々に風や雨のように行き届いて、良い政治が行なわれ、人々が平和な生活を楽しむ様のこと。

主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」
(イザヤ56:1) 


 

 

このみことばは、キリストが生まれる何百年も前に、イザヤが授かった言葉です。
救い主が来られるから、悔い改めて、公正と正義を行いなさいと勧めています。そして、イエス・キリストが来られ、すばらしい神様の働きをされ、全人類の罪を取り除くために、十字架で身代わりの裁きをお受けになりました。
そして三日目によみがえられ、神の右の座にあげられたのです。
よみがえりのイエス様を目の当たりに見た弟子たちは、イエス様を宣べ伝えて、今日日本にまでも伝わってきているのです。そして、イエス様はもう一度この地上に来られることを約束しておられます。キリストが見えなくなっても、クリスチャンたちは、ローマの迫害の中で、キリストを敬う敬虔な生活を続けていました。
迫害してもクリスチャンは増え続けたので、ついにローマ帝国は、彼らを取り込んだ方がいいと、国の宗教にしてしまいました。それから教会は権力と武力を手にし、神に頼ることをせず、公正と正義を行っていた教会が、武力と権力でキリストを宣べ伝えるようになってしまい、中世の大暗黒時代を迎えます。十字軍という、キリストに汚名を着せるような歴史を作ってしまいました。キリストの名の下に国土を広げるという歴史を繰り返しました。マホメットが600年代に現れ、堕落したキリスト教に対する反発によって、自分の故郷のアラーの神を、ユダヤ教の神と重ねて宗教を興し、「剣かコーランか」という教えを説き、神の名の下に領土を広めていきました。
宗教戦争というのは、本当は宗教同士の戦いではなく、領土争いにおいて、自分の戦いを正当化するために、宗教の名を用いたのです。
人の幸せとは、繁栄ではなく、正義と公正の中にあるということを、みんな良心的には理解しているはずです。貧しくても、正義が行われている世界は幸せなのです。なぜならそこでは、金持ちの人が貧しい人に施すという正義が行われるからです。しかし人類は、自分だけが富み栄えたいと、正義を求めるよりも私利私欲を求めることをしてしまったので、不幸な歴史を生み出してしまったのです。神はキリストが再び来られる前にも、同じことばを私たちに与えておられます。神の救いは近く、神の正義が行われる時は近づいている。だから、公正と正義を行いなさいと。
1回目にキリストが来られたのは、私たちの罪を処分するためでした。2回目に来られる時は、最後の裁きを行うために来られます。罪はいつまでも見逃すことはできず、必ず裁かれなければなりません。神の救いと義が
現れる前に、私たちは公正と正義を行うことが必要なのです。では神様は一体どのような方法で私たちの心を1つにし、治められるのでしょうか。「堯風舜雨」とは、堯と舜という伝説上の王様がいて、非常に仁徳が高く、武力や権力ではなく、仁徳によって国を治めました。そういう理想的な社会、良い政治の下で人々が平和な暮らしをすることをいいます。
このことを実現してくださるお方は、救い主イエス・キリストなのです。
イエス・キリストは、神の義をもたらすために来られました。しかし、私たちはイエス様の名によって自分の不満を満たそうとしていないでしょうか。神様の力によって、自分の幸せの領域を増やそうとすること、それは十字軍と同じです。まわりを自分の幸せに合わさせようとする、そういう考えになってはいませんか。それは争いを引き起こします。あなたの幸せのためにキリストは十字架にかかられたのではなく、正義のため、神の義がもたらされるために、十字架にかかられたのです。
あなたはクリスチャンだと言いながら、神が本当に願っておられることは何なのかを悟って、神を畏れる敬虔な生活をしているでしょうか。私利私欲のためにイエス様に祈っているに過ぎないようなクリスチャン生活になってはいませんか。

1.公正は退けられ、正義は遠く離れている(イザヤ書59:11〜15)
今の世の中は、いろんな矛盾が起きています。正義が行われない、通用しない世界になっています。どうしてでしょう。この「イザヤ書59:11〜15」にあるような状態になっているのは、正義や公正へのあなたの無関心が原因であることに気づいていますか。神のせいではありません。宗教や政治が悪いのでもありません。あなたが、自分の利得のために物事を考えた人生を送っているからです。もしあなたが、正義を優先して生きるなら、あなたのまわりに平和が生み出されてきます。でもその平和を壊そうとする闇の働きがあるのも確かです。この世の矛盾は、公正と正義が無視されているから起こるのです。自分の幸せを優先させるからです。自分の幸せは、正義と公正の上に建てられるということに人々は気づいていないのです。
神様の願いはあなた一人が幸せになるのではなく、全ての人が幸せになるために、神の義と公正が打ち立てられることです。
キリストはあなたに利益をもたらすご利益宗教の神ではありません。正義を打ち立てるお方です。あなたの罪のために身代わりに死なれたお方は、キリスト以外にはいないのです。
「熊のようにほえ、鳩のようにうめく」これは良心のうめきです。本当は正しいことを願っているけれど、それが通じない世の中です。世の中に変わってほしいと思うなら、まず私たちから始めましょう。正義は神が基準です。この神を否み、背き、従うことをやめている中で、どうして正義による平和が成しえるかということに気づいてください。正義が優先されていくなら、貧しいか富んでいるか、能力があるかないかが幸せを決めるのではないと悟れてきます。そこには何の差別もなく、仁徳があるだけです。「仁」とは「哀れみ、慈しみ、愛」を表す言葉です。「徳」とは「人々に良い影響を与える品性」です。あわれみと愛によって、人々に良い影響を与えるもの。それによって、人々の心が1つとなり、正義が守られていくのです。

2.神の義(仁徳)が現された(ローマ人への手紙3:25)
「神の義」とは、ルールを守るのが義であり、破る者は罪人であるというような単純な義のことではありません。それは、キリストの十字架の内に現されているのです。
キリストの十字架は、正義を軽んじる者たちが心を入れ替えて正義を求め、神を敬う敬虔な心に立ち返って平和を求める、悔い改めた人たちのために与えられたものです。これは神のあわれみです。悔い改めた者にもう一度チャンスを与えられる、これを現したのが十字架です。悔い改めた者を生かすあわれみ深いもの、これが神の義です。ルールを守って正しいことを行うということが義であれば、この地上の人は誰も救われないでしょう。神は本当に悔い改めて正義を行うことに心を向けていく者たちを生かしたいと願って、十字架でご自分の義を現されました。その義は、神様のご性質である愛・仁徳です。神はあわれみです。正義とは、このあわれみを行うことです。正義を愛し、神を愛し、神を畏れる者、赦す心を持ったあわれみ深い人が、正義を行っている人です。

3.世界の隅々に届けられている(使徒の働き11:18)
キリストの十字架は悔い改める者が救われるためのものです。これは唯一の条件です。悔い改めない人を救うことはできません。救いを否む人、拒絶する人を救うことはできません。神の国は、悔い改めて、神の正義を行う人々の人々の集まりです。しかし、赦してくれることを計算して、悔い改めの格好だけをする人がいます。神様は見抜けないと思いますか。あわれみを踏みにじるような行為に対しては、神の裁きがあることを畏れなければいけません。悔い改めの心こそ、正義を心に持つ私たちの正しい姿勢ではないでしょうか。大切なのは、神を畏れた正しい良心をもって、正直に歩むことです。
でもその正直は世の中には通用しません。なぜなら世の中は、正義から遠く離れ、神に背いているからです。しかしその中で、鳩のようにうめいている人々がいるのです。
そういう人々のためにあなたが神の義、キリストの証人となって、仁徳の高い神が愛をもって私たちを治めてくださるということを、身をもって証しするためにこの地上に置かれているということに目覚めることが必要です。
第一次世界大戦で、ドイツ人の俘虜を日本に連れてきました。鳴門にある板東収容所には、1000名のドイツ人が収容されましたが、その所長である松江大佐という人は非常に徳が高く、武士道を心得とした軍人で、職員全員に、ドイツ人の捕虜に対して、博愛の精神と武士の情けをもって接すること、と教えました。この板東収容所は、模範的収容所となり、よく組織され、生産能力・文化活動・社会的事業・地域との交流が許され、まるで捕虜ではないような状態でした。
そして日本で初めてベートーベンの第九がここで演奏されました。日本にもこのような良いところがあったのです。
正義は、あわれみをもって人を生かすということです。神の義・あわれみ、慈しみを大切にして、悔い改める心を失わず、悔い改める者を許していくという神の義の生き方を選んでいきましょう。イエス様は、人を赦すという、模範的な生き方をしてくださいました。正義を愛する心が価値あると思うなら、神の正義である、慈しみとあわれみの心を第一として歩んでいこうではありませんか。それがクリスチャンの歩みなのです。

 

 

 

 

 

 
■2006年5月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   確乎不抜 かっこふばつ  up 2006.5.28


信念がしっかりしていて、ゆるがない様子。

さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。
(ルカ9:51〜52) 


 

 

「エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた」このイエス様の不動の姿勢が、周りの人々にもはっきりわかる様子が53節に書かれてあります。「サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」ユダヤ人の中には、サマリヤ人に対して、一種の人種差別がありました。同じ神を信じているにもかかわらず、サマリヤ人は異邦人と混血であり、神様の前に血を汚してしまっているということで差別していました。モーセの教えの中で、血統を守るということが教えられていたからです。
しかし、イエス様は「良きサマリヤ人」の話を通して、彼らの信仰姿勢をほめました。宗教的信仰ではなく、本当に神様を愛する心がどのように実を結ぶかということ、隣人を愛するということを教えるにあたって、サマリヤ人を用いました。そしてユダヤ人は旅の途中避けていたにも関わらず、イエス様はサマリヤを通ってエルサレムに通っておられたので、サマリヤ人から歓迎されていました。
ところがこの時、イエス様が意識的にエルサレムの方へ常に顔を向けておられた姿勢が、「私たちはやっぱり差別されている」という気持ちにさせて、サマリヤ人は受け入れることができませんでした。それは、ユダヤ人はエルサレムに向かって礼拝し、サマリヤ人はザルジム山に向かって礼拝していたからです。
ルカによる福音書9:51「天に上げられる日が近づいて来たころ」とあります。これは全人類の神様に対する不敬虔の罪を贖うため、イエス様が十字架にかかられる日を意味しています。それはイエス様にとって、「できることならこの杯を去らせてください」と、ゲッセマネの園において父なる神に3度祈るほど、唯一ご自分の願いを祈られたほどの大きな問題でした。
罪を一つも犯したことのない聖いお方が、罪の塊として全人類の罪を身に受け、なすりつけられ、染められて、裁きを受けるという、神が人となられた方にとっては受け入れることのできないことでした。しかし、その思いを踏み越えてまでも、なぜ十字架にかかられたのでしょうか。だからこそ、エルサレムに御顔を向けて歩いていかれた意味があるのです。

1.使命を持っている(第1コリント人への手紙9:26)
イエス様は使命を持っておられました。それは罪人の中にも神を敬う人々がいる、主の羊たち。その人々が一人も滅びることなく救いを得るために、この地上に来られました。どんな罪人でも、心を入れ替えて神を敬う人生に入っていくなら、それまでのすべての罪は十字架で責任を負いましょう、と贖いの御業をなされたわけです。自ら進んで人のために犠牲となって罪の裁きをお受けになる、その日が間近に迫っていたわけです。イエス様は使命感に燃えておられた。このことを通して私たちが今生きている時代はどういう時代なのかということを考えることができます。
イエス様は贖いの御業をなされて、再び私たちを迎えに来ると言われました。再臨を約束されました。それは最後の裁きの時であることがはっきりしています。今、イエス様の十字架から2000年が過ぎようとしています。この2000年間は全世界に、ユダヤ人からすれば異邦人のための救いの期間として、聖書では隠された真理として語られています。今、ほとんどの人がイエス様の再臨を目の当たりに見ることのできる時代に生きています。
私たちが2000年過ぎてもまだ来ない、リバイバルがまだ来ないからと何もしないでいたら、再臨は来ないじゃないかということになります。私たちが何もしなかったら何も起こらない、起こるべき時が来ているのに何も起こらない、そして時が延ばされていく。すると不敬虔な人々は「聖書の預言はうそじゃないか」「神なんかいない」ということになってしまいます。誰の責任ですか。それを教えられ、聞いている私たちです。
イエス様は時が来たのでエルサレムに向かって歩いて行かれました。私たちも再臨の時が来ています。使命に向かって歩んでいくべきです。
私たちの使命とは何でしょう。神の和解を証しする、それは「神が赦してくださったように、あなたがたも互いに許し合いなさい。」という、真の平和を生み出す和解です。これを実践されたのがイエス様ご自身です。力ではなく愛をもって平和を造り出していく。イエス様は十字架で果たされました。私たちも同じ使命が与えられています。この使命に命をかけることが、クリスチャンがこの地上に残っている意味です。

2.決意・覚悟(第1コリント人への手紙9:24)
このみことばは、賞を受けられるように走るということであって、賞を受けられるのはただ一人だということを強調しているわけではありません。神様が賞を与えられる基準は賞を受けられるように走ることです。ですから、だれでも賞を受けられるということです。決意と覚悟というのは、賞が受けられるように取り組むという強いものです。
イエス様は使命を達成するために、まるで賞を得ようとする選手のように、あらゆるものを犠牲にし、自制して、集中して歩まれました。スポーツでいうなら、ラストスパートをかけられたということです。
みなさんも、時が近づいているのは確かです。ラストスパートをかける時です。赦せない問題に取りかかって、今こそ赦しを神の前にチャレンジしましょう。それが、イエス・キリストの十字架の赦しが本物であるということの証明である、と悟らされたならば、チャレンジすることができるでしょう。「汝の敵を愛せよ」といいうところまでチャレンジできるほどにラストスパートがかけられる時があなたの人生にやがてやって来ると思います。賞を受けられるように、その気持ちを高めておいてほしいと思います。

3.創造的信仰(ヘブル人への手紙12:2)
(ヘブル人への手紙11:1)望んでいる事柄を保証し、まだ見ていない事実を確信するという信仰の定義を先週話しました。望んでいる事柄、賞を得られるという望みを心の中に確信するほどに心が高まる。これを創造的信仰と言います。確信が与えられれば、能力の限界を超えた結果を出していくことができます。神がご自分に似せて造られた人間に、神の性質、能力として与えておられるものです。そしてそれは、真の平和を実現するために、不可能にチャレンジするためのものです。
歴史的に大きな傷を持ち、世界中に名が広められるような歴史を持っているこの広島。皆さん、あなたは今そこにいるわけです。そして広島は世界で一番平和に対して敏感な都市です。本当に平和を望んでいる人々が多くいます。
戦争という不幸を体験した人々は世界中にたくさんいます。しかしまだ生まれていない将来の子孫にまで、その一つの武器のために影響が及ぼされてしまう、そのような体験をしたのは、広島と長崎だけです。
その中でどのように私たちは真の平和を実現していくのか、力ではないということはよく知っています。愛をもって赦す形でしか真の平和は生み出せないことを、広島の人々は知っています。
この世界はもう真の平和を造り出すことのできない世界です。だから、神はこの世を裁かれる。しかし滅んでしまう人が一人でも少なく、全ての人が救われてほしいという願いを持って、イエス・キリストはこの地に証しされ、私たちを残されました。イエス様は不可能と思われることを実現してくださったのです。神が人となられ、人々の罪をその身に受けられたということです。絶対に不可能なことでした。なぜなら、神が罪に染まると言う意味だからです。
いくら愛があっても、神は罪を全く犯されてない、汚れなきお方です。その絶対的なご自分の立場は譲ることのできないものでした。それは神でなくなってしまうことだからです。しかし私たちのために、できないことをチャレンジしてくださった。創造的信仰を持たれました。
神は力ではなく愛で私たちを救われました。唯一、この言葉通りに使命を持って生きるのは誰でしょう?
それが本当のクリスチャンです。

 

 

 

 

 

 
■2006年5月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   安分守己 あんぶんしゅき  up 2006.5.21


自分の分際に満足して、本分を守ること。

だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
(第2ヨハネ1:9) 


 

 

毎回話す皆さんへの勧めは、今年の目標である「平和をつくる者」を目指しての勧めであり、神の子と呼ばれる私たちが、「平和をつくる」ことに心を留め、務めとしてこの1年を過ごすための出発のメッセージです。
そのためにまず「信仰の目を養う」必要があります。「信仰の目」とは、望んでいる事柄を保証し、まだ見ていないことを確信する(ヘブル人への手紙11:1)で、否定的、マイナス的なものを心に描くことではなく、信じていること、望んでいること、良い方向に進んでほしいという願いが、イエス・キリストによって実現すると確信することです。
また、良いイメージを心に描くためには、心に力がなければなりません。そのためには、良いもの=「主のすばらしさを見つめて味わう」ことが必要です。主との交わりを持つことにより心が元気になり、前向きに変わっていくのです。そして前向きに変わった状態で平和を願うのなら、家庭、会社、社会においてどのような平和を描くのか。
そのための行動、言葉をデボーションを通してイメージし、備えることが大切であり、平和をつくりだす種として「親切を施す」ことによって、先週の「善因善果」である善なる実を結んでいくことにつながるのです。
このように、主に触れられ心が前向きになった私たちに必要な次なる課題とは・・・?(・ω・)?
それは「行き過ぎ」を知ることです。何についての行き過ぎでしょうか?
それは今週のみことば第2ヨハネの手紙9節からわかりますが、“行き過ぎをしてキリストの教えのうちから出てしまわない”ということです。良いイメージを描いてやっていこうとする時に、自分のペースで良い状況を描き、人の気持ち、思い、分際を無視してしまうことがあります。
分を超えた親切、行動、発言は、かえってその愛の行動を逆効果にさせてしまうことがあるのです。
そうならないよう、みことばから自分の分をわきまえ、毎日の生活がキリストの教えの中に留まった歩みであるかどうか、3つの「行き過ぎ」のポイントから確認してみましょう。

1.務めにおいて(第2テモテへの手紙4:5)
パウロは若いテモテに、伝道者としての働きに対し、自分の分をわきまえて出過ぎないように、だからといって務めに関しては遠慮しすぎたり慎み過ぎないよう諭しました。大切なのは私たちが神様からの務めを十分に果たすことで、そこにしっかり焦点を置き、自分の分を果たせば、行き過ぎ&やらな過ぎは起きないということです。(社会、家庭、教会におけるあなたの務めを十分に果たしていきましょう!(^o^)!)
たとえば、自分が一生懸命働いているのに、うまい具合に適当な仕事をしている同僚に対しての批判や裁き。妻が夫を注意する時の行き過ぎた言葉。教会の奉仕がうまくできない人を見て、ついつい自分が代わりにしてしまう傲慢さ。
これら全ては、人の責任を負おうとする分を超えた行動です。相手が悪い時に助言や励ましをすることは、自分の務め内での責任や親切になりますが、注意→警告→支配になると、相手の務めに対して分を超えてしまうのです。分を超えない態度の取り方は、熟練した成熟した人格に必要なことで、成人者の態度です。

2.思いにおいて(ローマ人への手紙12:3)
ここで大切なのは、神が各々に分け与えてくださった「信仰の量り」に応じて、慎み深い考え方をすることです。いやしに関して自分の思いが達していないのに、聖書のみことばに対してチャレンジすることは、思いの分を超えてしまうことです。また、信仰によっていやしを体験した人が、いやしに対して消極的な人に「どうして信じないの!」と言うことも同じです。自分や相手の信仰の量りに応じた慎み深い考え方をしていくように心がけていきましょう。

3.世の富において(第1コリント人への手紙7:31)
神様はこの世の富を用いてはいけないと言っておられるのではなく、用い過ぎないようにと私たちに教えていらっしゃるのです。
「用い過ぎること」とは、依存してしまう・頼りすぎる・支えになっているが故に、振り回されてしまうことです。
教会で、ある人を用いすぎることによって、その人に何か問題があった時、頼り過ぎていた分、支えを失う結果となることもあります。お金に関しても同じで、お金に頼りすぎていると、不景気の時にお金の価値に振り回され、左右されてしまうのです。お金を使うことは悪いことではありません。しかし用い過ぎることのないように、お金に依存することのないように気をつけていくことが大切です!(>_<)!
ある人の親切によって千円or一万円をもらった時にはその人の親切に感謝しますが、一気に一億円をもらった時には・・・
「ありがとう、一億円様!」と、親切ではなくて金額に感謝してしまうのが人の心・・・(l▲l)
あなたは今豊かだから神様に感謝しているのですか?あなたの信仰・道徳がお金に支えられているようなことにならず、大切なものを失うことのないようにしましょうο(^∀^)ο
忘れてはいけないことは、お金がなくても信仰があれば生きていける!ということです。なぜならば、信仰は無から有を呼び出す力があるからです。今ある豊かさに甘んじず、質素過ぎたり、贅沢過ぎないバランスの中で、主の恵みを感謝して歩んでいきましょう\(^o^)/
「.本分を守ること(伝道者の書12:13)
私たちの本分は神を恐れ、その命令を守ることです。『安分守己』この「行き過ぎ」の多い資本主義の日本の中で、私たちは自分の分際(今のありのままの自分)に満足して、自分のするべき範囲をわきまえながら本分を守って生きていくことができるでしょうか?
この1週間、私たちの信仰が問われます!!

 

 

 

 

 

 
■2006年5月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   善因善果 ぜんいんぜんか  up 2006.5.14


良い行いは良い結果が伴うということ。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
(エペソ4:32) 


 

 

あなたの本音は平和を望んでいますか?それとも争いを望んでいますか?
もし平和を望んでいるのであれば、その平和をしっかりと思い描いていますか?夫婦間、家族間、会社等において、その人間関係の中で平和を願っていても、求める平和のイメージが漠然としているのならば、平和を求めているという行動には至りません。
平和のイメージが漠然としているのであれば、それは周りが自分にあわせてくれていたら自分は平和だという自分中心的な感覚にたよってしまっているかもしれません。すべての人が平和を感じ、平和に過ごすというイメージを描かなければ、他の人の平和を踏みにじってしまいます。私も隣人も本当に平和を求めているならば、何が必要なのでしょうか? 新約聖書のエペソ4章32節にまとめられています。
「互いに親切にし、心の優しい人となり、互いに赦しあいなさい。」
これこそ、あなた中心の平和ではなく、すべての人が平和であれる条件です。
あなたは平和をつくり出す人生を願いますか?それとも、平和の中にいる人生を願いますか?
多くの人は苦労したくないと考えるので、平和の中にいる人生を願いますが、どこにも平和がなく、誰か私を平和にしてと叫んでいる人がいるかもしれません。
平和はお互いにつくり出す努力をしなければ、維持できません。平和をつくり出すことをやめて、平和の中にいようとすると、平和は崩れていきます。あなたの人生がどんな状況であろうとも、平和のための人生であると生き方を変えるのであれば、その労苦を喜びとして受けとめていくことができます。人は物をつくり出すということにおいて喜びを感じるものです。それもよいものをつくり出すということは、一番願っていることであり、幸せを感じるものです。
あなたが、今のあなたの立場で、「平和」というよいものをつくり出す人生を心がけていこうと考えることは価値ある生き方です。幸せを相手に求めるのではなく、幸せをつくっていく人生となるならば、あなたがどこへいってもピースメーカーですから、平和のないところにおかれても、必ずそこは平和になっていくのです。
私たちが、「平和が欲しい」「価値ある人生が欲しい」と結果を願っているにも関わらず、その原因となるものをつくっていなければ、実はなりません。「善因善果」。善い行いには善い結果が伴います。善い実を実らせていくために、善い原因をつくっていきましょう。善い原因となる行いが「親切をする」ことなのです。
利害関係を考えた親切は真の親切ではありません。善を行なうことこそが親切です。
親切はあなたの人生に多くのよい実を結ばせる種まきのようなものです。
それでは、どのようにして善い原因である「親切」をしていけばよいのでしょうか?聖書のおことばから3つのヒントをみていきましょう。(マタイ10章41〜42節)

1.預言者だというので受け入れる
預言者とは神の務めをもった人のことです。「預言者だというので」というのは、「務めのゆえに」ということです。その人がもっている務めのゆえに受け入れるなら報いを受けます。
務めと、務めをもっている人の性格とは別問題です。性格が悪いので、その人の務めまでも拒絶してしまうと、あなたはよい結果を得ることができません。
親は神から与えられた子どもを育てる務めをもった人です。たとえ親が自己中心な人格者であったとしても、親という務めを子どもは軽んじてはいけません。夫、妻も務めです。性格が悪くて正しく務めをしていないからといって、夫、妻という務めを見下げてはいけません。務めのゆえに尊敬することが大切です。
夫という聖なる務めに対して、妻ではなく、神が裁きます。夫が「夫に従えと聖書に書いてある」と妻に無謀なことを言った時、妻が「夫の務めをしていないあなたのいうことは聞き従えません。」と、夫の務めに対して上から言ってしまうことは間違いです。務めを軽んじる態度になってしまいます。務めを重んじているのならば、妻は主人という務めを尊敬しつつ、夫の間違いを指摘していくことができます。又、そのような態度と行ないが妻の務めです。妻が自分の義を盾に夫という務めを見下すようなことをしたら、祝福はなくなります。正しくわきまえる心を聖書から学ぶことが大切です。善という正しい種をまく賢い妻に対して、一時的に感情的に腹を立てたとしても、夫としての賢さを、夫も妻に現すことができます。妻の適切な助言を受け入れることが夫としてのよい姿勢です。夫のプライドは神が砕かれます。妻は夫を務めのゆえに敬うことです。それが、夫に善をすることです。務めには権威と力があるので、夫は私利私欲のまま封建的に家族を支配することもできますが、家族の長として家族を守り、愛し、支える善の行いもすることができます。
務めのゆえに相手を受け入れること、また務めを与えられた者として善を行なうことが親切の善い種まきをすることになります。

2.義人だというので受け入れる
義人とは神に義と認められた人のことです。義人だというので受け入れるとは、義と認めた方のゆえに、その人を受け入れることです。
神様は信仰の目をもって私たちの将来を見て、まず受け入れて、力不足で未熟な私たちが成長することを期待して、いたらなさを認めて育ててくださっているのです。修行して一人前になったら救ってあげようといってはおられません。
私たちは、自分の子どもや部下にどのように接していますか?「ここまでやったら認めてあげよう」でしょうか?神様は、何もできないところから私たちを認めて育てて導いてくださる方です。だから安心して、心を開いてついていけるのです。未熟な状態の互いを認めて信仰の目をもって受け入れることは、相手に善を行ない、親切の種をまくことです。

3.キリストの弟子だということで受け入れる。
弟子とは修行中の未熟なもので、キリストの弟子とはキリストのようになろうと日々学び続けている者です。私たちがキリストから学んでいる者のゆえに受け入れることは、修行を支え、応援し、励まし、それが身につくようにと親切を施すことと同じことになります。私たちは神の子として一人前になる修行中の者です。学びつづけている姿勢があるかどうかが大切です。誰でも失敗を繰り返して、赦されて、成長していきます。赦しなくして、人は成長できません。できているかどうかの結果で人を受け入れることをするのではなく、学ぼうとする姿勢を見て、相手を受け入れることが大切です。
赦され受け入れられる人は、赦されることに甘えて、学び続ける努力を忘れてはいけません。人は同じ失敗を繰り返し、悔い改めることを何度も何度も繰り返していくことで、自分に絶望し、心が砕かれる状況がおこります。肉の努力では、罪から離れることができないことを知り、神様の恵みに心をゆだねるという心境、すなわち、へりくだり、心打ち砕かれた状況におかれます。そうすると、罪から離れることができるようになります。努力ではなく、悟りがやってくるのです。このように、きよめられる苦しみを乗り越えなければ人は成長しません。決して楽なことはありません。しかし、苦しみは多くの悟りをもたらします。
労苦には必ずよい実が結ばれます。これは神の摂理です。善因善果。人を務めのゆえに受け入れ、神がその人を愛しておられるということで受け入れ、そして、その人が修行中の失敗の多い者であるということを受け入れて親切を施す時に、善い実を結ぶための善い原因づくりをすることになります。これをどのように生かすか、チャレンジしてみてください。

 

 

 

 

 

 
■2006年5月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   泰然自若 たいぜんじじゃく  up 2006.5.7


どのような事態に直面しても、落ち着いていて少しも動じないさま。

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
(コロサイ4:6) 


 

 

いつも親切で、塩味のきいた言葉が出せる安定した心の状態、これは私たちが目指すべきものです。大きな広い心を持っていなければ、このような言葉は出せません。そのためには心にゆとりが必要です。相手のどんな態度や言葉にも動揺せず、それを受け止めながら親切な言葉を出すには、大人の心がないとできません。この「泰然自若」のような姿勢から、親切な塩味のきいた言葉が出てくるのではないでしょうか。
毎日忙しく仕事に追われている人は、困っている人がいても、さっと親切な行動や言葉を出すゆとりがなかなかありませんね。このゆとりある大きな心は、先週のメッセージの「主のすばらしさを味わい見つめる」ことから生まれてくるのではないでしょうか。
先々週のメッセージの「前向きなイメージを描いていく」ためには、先週の「主のすばらしさを味わう」ことによって心がいやされ、ゆとりが与えられていきます。
そうすると、自然に「泰然自若」の姿勢から親切な塩味のきいた言葉を語れるような状態になるわけです。今週の土台は、先週の「主のすばらしさを味わい知る」ことによって、自然に表れてくるものです。
努力して親切なことばを語ろうとしても、なかなかできません。理屈はわかっているのに、むしろ冷たい言葉をかけてしまうようなこともあります。そこにゆとりがないからです。
私たちは主のすばらしさを味わうことを通して正しい良心が回復し、良いイメージが描けるようになり、その実として語る言葉に変化が表れてくるのです。穏やかな言葉が出てきます。
前向きな心があふれてくると、落ち着いた、安定した言葉が出てきます。心がいやされ、平安であるという証です。しかし私たちは普段使っている言葉に慣れ親しんでいるので、気持ちは大きな心なのに言葉がいつもと同じであるならば、相手には変わっていないと受け止められてしまいます。まず最初の実として、どういう言葉を語るべきかをよく考えておくことが大切です。心にゆとりがなければ、意識して改善することはできません。疲れている時には、相手のことを考えて親切なことばをかけようという気にはなかなかなれませんね。神様に変えられた証として、親切な言葉は出てくるのです。

1.親切な言葉(箴言16:24)
言葉の誤解で、私たちは自分の気持ちを理解してもらえなかったり、相手の気持ちを理解できなかったりすることがあります。それは言葉に対して鈍感であったり、準備不足であったり、大切に思っていないというところから出てくるものです。気持ちを伝えようとすればするほど力が入り、語っている側はしっかり語っているように思うのですが、聞く方にしてみれば、力のこもった言葉はある人にとってはしかられていると感じたり、強要されていると感じることがあります。それは親切な言葉というのを考えず、自分の側からの気持ちで表現するからです。相手を見て、相手に合わせて助けていくという姿勢が親切なのですから、自分のペース、感覚、考え、価値観で相手に押しつけたのではなかなか理解してもらえません。親切な言葉というのは前もって準備しておくことが大切です。親切な言葉は魂にとって蜂蜜のように甘い言葉だとあります。魂にとって甘いというのは、何を表現しているのでしょうか。甘さは嬉しさや幸せ、喜び、優しさ、癒し、力をもたらす、回復を与えるものといえます。人々の心に幸せをもたらし、喜びをもたらし、元気をもたらす、そんな言葉が親切な言葉だといえます。「骨を健やかにする」骨が丈夫というのは昔からの健康の象徴です。骨を健やかにするほどに親切な言葉というのは私たちの魂には良いものなのです。
もし、今日どんな人と会って話すのか、相手の情報がある程度わかっているなら、その人に会った時に、相手の魂に甘い言葉を2、3用意しておくと全然違います。ただ「おはよう」というだけでなく、もしあなたならどのような言葉をかけられたらうれしくなるだろうかと考えてみてください。ほめられるというのは自分の存在に対して良い評価をもらっている、良いものとして受け入れられている、ということです。
良いものとして受け入れられると人は癒され、元気が回復され、喜びと幸せを感じることができます。魂に甘い親切な言葉とは、その人の存在があなたにとっていかに価値あるものであるかということによって、相手が感じるものです。自分では良くないと思っていることに対して受け入れられると、前向きになれるものです。今その人が現実にそのような状態が十分に出ていないとしても、可能性があるという目で前向きな良い評価をもって、親切な言葉をかけると、聞いた人は元気になるものです。何事も元気にやらなくては行動に移すことはできないものです。それを甘やかすこと、わがままにさせることだと言う人もいますが、蜂蜜は疲れ切った時に大きな効果をもたらすものです。元気な人に親切な言葉をかけてもあまり効果が現せませんが、疲れて弱っている人に、その表面ではなく内側を見て、親切な言葉をかけていくことで相手を幸せにしていく、気分を変えて回復を与えていく、これが親切な言葉です。外国の方がよく「あなたに会えて本当にうれしいです。」と挨拶されます。会えたことが非常に価値あるものだと評価されるというのは、とてもうれしいものです。そのような言葉を互いにかけていくと、前向きな言葉にはいのちがあるので、聞く方も語る方も元気になります。この一言を加えるだけで一日が必ず違ってきます。愛され受け入れられているという確信が得られると、人は喜び、幸せを感じ、回復します。親切な言葉というのはどのように受け入れられているかを伝えることによって、相手に感じさせることのできるものなのです。

2.塩味のきいた言葉(ヨブ記6:6)
ある方と会話していると非常に楽しくなるという人がいますが、楽しいという味をもたらせるような言葉だからです。他にも、言葉にはいろんな味があります。
塩で味をつけるとは、食べやすくするという工夫です。味をつけるとおいしく食べやすくなります。塩味とは受け入れやすくする、という意味を持っています。
あなたの言葉がどうして相手に伝わらないのか、理解してもらえないのか、それは味のない言葉だということです。相手の人がおいしく味わうことのできる言葉を考えていかないといけません。あなたはどんな言葉を聞いて育ったでしょうか。私たちはその聞いた言葉しか語ることができないのです。何も意識せずに親切な言葉を語ろうとしても、なかなか浮かんできません。あなたの気持ちを表現する言葉として、味付けされた言葉が必要なのです。日本語にはいろんなすばらしい言葉、味わいのある言葉があります。そういうものに触れて、いろんな言葉を身に付けていくことが必要です。自分はおいしいと思っても相手には伝わらないことが多いですね。それは自分なりの味付けの言葉があって、相手にもおいしいだろうと思って使っても、相手にとっては受け入れられないものもあるということです。塩味のきいた言葉とは相手に受け入れられやすい言葉です。相手を中心に考えて、その人に合わせて味付けをしていくことが大切です。自分の言葉が相手にどう受け止められるかを考えていく必要があります。その人が何を求め、願っているのか、それに応えることができるような言葉は相手に伝わりますね。このような、魂に甘い親切な言葉、味のある受け入れられる言葉は、心にゆとりがなければなかなか出てきません。だから主のすばらしさをしっかりと感じることが必要なのです。
良いものに触れると魂にゆとりが生まれ、心が大きくなるのです。そこから、相手にどのような言葉をかけようかと前もって準備しておけば、すんなりと言葉を発することができます。また、イエス様の十字架のみわざをしっかりと味わうことが必要ですね。私にとっていつも、魂に甘い蜂蜜のような言葉として心に回復を与える言葉があります。それはイエス様が十字架の上で語られた言葉です。十字架にかけられたイエス様をののしり、暴言を吐く人々に対して「彼らは何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書23:34)」と罪を赦し、とりなしの祈りをなされました。私にとってこの言葉は、救い主イエス様としての最高の言葉であって、疲れ切った心を回復させ、蜂蜜のように甘い、力をもたらす言葉なのです。
みなさんも、疲れている時に蜂蜜のような回復を与える言葉を聖書の中に見つけてください。魂に力が与えられると、疲れた体までも回復してきます。
神様から私たちへの個人的な親切な言葉としてそのすばらしさを味わう時に、あなたは回復して、その回復を通して人々にも語ることができるようになるのです。
親切な言葉、味のある言葉をまわりの人々に語っていきましょう。