■2006年4月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   花鳥風月 かちょうふうげつ  up 2006.4.30


自然の美しい風物のこと。また、美しい自然を鑑賞する風雅な心のこと。

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
(詩篇34:8) 


 

 

 最近、味わうということがなかなかできない人々が多くなってきています。自分の人生や、目に見えないものを味わっていくことが薄れてきています。その中で、「主のすばらしさを味わい、見つめる」ということを、この一週間の中で実践していきたいと思います。
 先週は「利害得失」というテーマで、害が益となり、損失が得となるために、良いイメージを描くことにチャレンジしましょうと話しました。信仰を働かせるとは、現実は反対の状況であるけど、良い方向に変わるようにと描くことです。しかし否定的な状況の中で、良いイメージは描きにくいものです。それはカインの心に支配されて、心が伴っていかないからです。その弱った状態から、良いイメージを描けるようにするにはどうしたらいいか。これを解決するためには「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」というのが、今回のポイントです。
  花鳥風月→すばらしい大自然の美しさを表現したもの。
  風雅ふうが→上品な。文芸の道。優美な心になること。
これは、大自然にふれたことによってもたらせる心境です。この「花鳥風月」が、信仰の目を癒す、すばらしいものなのです。すなわち、「主のすばらしさを味わい、見つめる」ということです。

1.創造物を見つめる(ローマ1:20)
 これは神様に造られたものを見つめることです。パウロは神様の存在、ご性質は被造物によってはっきりと認められると言っています。 すなわち天地創造は神の作品であって、神のすばらしさがそこに表れているのです。芸術作品を見る時、その作者の才能とすばらしさを見ることができます。その人の心の内側から出てくる作品に対して、何らかの感動や感銘を受けます。同じように、無神論者や神を畏れない人々に対して、神がおられないという弁解の余地はありません。
 なぜなら、自然や被造物を見て味わえば、神がおられることを認めることができ、神の永遠の力と神性がそこに感じられるからです。私たちが神を畏れる正しい良心を回復するために必要なのは、神のすばらしさを味わうこと、その作品にふれることです。
 今年の目標の「正しい良心をもって平和をつくる」ということを対しても、うまくいかなければだんだんと疲れてきますね。失望している人もいるかもしれません。その否定的な思いを変えるには、主のすばらしさを味わうことです。良いものにふれてそれを味わうと、心が落ち着くものです。主のすばらしさを味わうということは、良いものにふれて、神を畏れるという正しい良心が回復され、癒しと力が与えられるのです。不敬虔な人でも、仕事に疲れて自然を散策すると癒されます。それは神の作品にふれるからです。
 神様のいのちあふれた作品にふれると、新鮮さがもたらされてきます。神様のいのちのすばらしさ、死んだものをよみがえらせるという神様のいのちにあふれた大自然に包まれると癒されます。
 疲れて帰ってきて花壇の花を見るとほっとします。同じ種類の花であってもどれ一つとして同じものはありません。一つ一つの花が違うので味わいがあるのです。鮮やかな色の鳥は何のために造られたのでしょう。それは私たちを楽しませるために神様が造られたのです。大自然は神様が私たちを楽しませるために造られたのです。
 神様の作品をじっと見つめ味わう時に、心がときほぐされて信仰の目を持つことができます。このような偉大なものをお造りになった神様に対する信頼を持ち、畏れる心が出てくると、正しい良心が回復し前向きな考え方へと回復されていくのです。これはクリスチャンだけでなく、全ての人々に与えられているものです。でもこれを生かし切っていないクリスチャンがいることは残念なことです。この世界は罪の世界ですが、大自然は神様がお造りになった最高の作品です。ぜひ主のすばらしさを味わいじっと見つめる時をもって下さい。

2.御子イエスを見つめる(ヘブル1:3)
 敬虔な心を持った人間社会は決して私たちの心に負担を与えませんが、神様の被造物の調和を乱してしまう不敬虔な人たちがいるので、私たちの社会生活はいろんな意味で問題があり、ストレスをためてしまうのです。私たちの心が汚されないようにしっかりと守っていくためには、イエス様の救いの聖めが必要なのです。
 ヘブル1:3には、御子イエスの血が私たちの良心を聖めると書いてあります。確かに大自然にふれて、精神的、肉体的に癒しや解放を受けますが、霊にまで届かないことがあります。私たちの霊、正しい良心を聖められるには、イエス様を見上げて、なぜその血潮を流されたのか、なぜ十字架にまでかかって苦しみを受ける人生を送られたのかと、いつも神様の恩恵に心をふれさせていくことが必要です。一日に一度は、罪赦されていることを感謝しましょう。神に見捨てられないということに対して自信を持ちましょう。神は良きお方です。そのしるしとして、イエス・キリストが歴史の中に現れたのです。あなたを大切にしているよ、というしるしです。あなたがわがままができるようにという意味でイエス様が遣わされたのではないのです。
 自分中心に生きることが幸せだと思っている人がたくさんいます。それは多くの不幸を生み出しているということに気が付かない不幸なのです。
 正しい良心の喜びは、自分の幸せではなく、人が幸せになって、自分が幸せを感じることです。この時一番大きな幸せを感じられるのです。更にあなたの存在が、ある人の幸せに関連しているのならばもっと喜びは大きいでしょう。あなたの労苦を通して人が幸せになっていくのを見るときに、生きがいと価値ある幸せを見ることができます。楽をするという幸せではなく、価値ある幸せです。
 心病んでいたり、重荷を持って疲れている人は確かに幸せをいただく必要があります。しかし霊的に健康な人は、与えることを通して幸せを感じるのです。
 与える幸せを手にするためには、イエス様によって正しい良心を聖められ、価値観が変えられることが必要です。私たちはこの世の中で多く生きてきたため、カインの心、肉の欲望を満たす人生が幸せだと勘違いしています。肉は死んでいくものです。しかし魂は永遠なものです。永遠というあなたの存在を、永遠の世界で価値あるものとしていくために、与える幸せというものをつかんでいくことが必要です。 夫婦や家庭、人間関係の中で「して欲しい、して欲しい」と思っていると、争いが起きたり、不平不満や批難したりしてしまいます。
 しかしイエス様によって癒されて、互いに与え合うことによって人は幸せを感じるものだという、人が造られたその目的に気づいた人、受けるより与えていこうと決心した人は、労苦は大きいけれど、それによって人が幸せになり立ち直ることを見て、自分の存在に対する生かされている喜びを感じることができるのです。
 しかし全ての労苦が実を結ぶとは限らないという辛さを通ります。イエス様の十字架もそうです。全ての人のために苦しみを受けられたのですが、全ての人が信じるわけではありません。しかし信じる人のために、十字架で全人類の罪を負って赦しを与えられたのです。無駄なことがあるからといって何もしなかったら、実を結ぶことまでも結ばなくなってしまいます。
 100匹の羊の中1匹が迷ったなら、99匹を残してでも1匹をさがしにいくとイエス様は言われました。自分を与えるという喜びと幸せは、体験した人にしかわかりません。平和は与えていかなければつくれません。犠牲を払わなければ平和はつくれないのです。なんと光栄な務めを私たちは与えられているのでしょうか。今できるかできないかではなく、それは神の子であるあなたの務めなのです。そのためには、イエス様をじっと見つめて、与え尽くされたイエス様のすばらしい生き方を、福音書を通してじっくりと味わっていくことが必要です。
新約聖書の味わい方  イエス様の生涯をあらわすには、世界中の書物をもっても収めきれないとヨハネは言っています。それを4つの福音書に凝縮しているのです。4人の弟子がイエス様の生涯をあらわしました。主のすばらしさを味わうにおいて、4人の人の味わい方がそこに書かれているのです。だからあなたなりのイエス様のすばらしさを味わうことができるのです。4つの福音書を通して、どんなイエス様のすばらしさを味わうことができるか、じっくりと読んでみて下さい。聖書はまるで俳句や短歌のようです。短く単純にあらわされた言葉の中に、イエス様の見つめるべき点があります。
 そのためには俳句のようにルールがあります。新約聖書を深く知るためには、旧約聖書の知識を知らないといけません。旧約聖書の知識があると、凝縮されたイエス様の言葉が意味深いものとなっていきます。
 私たちは、まず大自然にふれて、心が癒されることが必要です。そうすると、今までの否定的に固まった心がときほぐされて、信仰の目をもって、前向きなイメージを描いていくことができるようになるのです。そして、イエス様を見つめて、良心を聖めていただくことが必要です。そうしたら、楽にイメージを変えることができます。信仰を働かせることが出来るのです。
 それだけの時間を、皆さんが持つか持たないかです。あなたは幸せになりたいですか。勝利者になりたいですか。悩みから解放されたいですか。「花鳥風月」神様の作品に、そしてイエス様の救いにふれてください。

 

 

 

 

 

 
■2006年4月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   利害得失 りがいとくしつ  up 2006.4.23


得になるか損になるかということ。利益と損失。成功と失敗。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
(第2コリント4:16) 


 

 

一般的に、外なる人である肉体が衰えていくと、内なる人である魂、心までも衰えていくことが多いようです。私たちクリスチャンもそうなってしまうように思いがちですが、このみことばは、神が私たちの内側に働きかけて、日々内なる人を新しくしてくださると言っています。そこにしっかりと目を留めたクリスチャン生活について、四字熟語を通して今日は一緒に考えていきましょう。
「利害損失」…得になるか損になるかということ。
利害損失の考え方をしていくと争いになります。資本主義も民主主義も、この利害得失の考え方が土台なので、弱い人にとっては大変生活しにくいのです。そこで、そういう弱い立場の人々を助けるために福祉という制度ができたのですが、この福祉にも「損得」の考えを入れてしまうと、保障を受けている人をうらやんだり、逆に得になるならという考えで、本当に困った人でなくても受けようとしたりしてしまいます。本来なら良心的に利用を考えれば良いことですが、利害得失の考え方をしていると、良心的な考え方をせず、利益をもたらすものだけを選んでいくようになり、お互いの争いを引き起こしていきます。そして、利益か損か、勝つか負けるか、成功か失敗か、優れているか劣っているか、というところまで至るようになります。こういう考え方は幸せをもたらしません。利害得失の生き方ではなく、「内なる人は日々新たにされる」という生き方をするように、神はクリスチャンに願っておられます。
今回お話する「利害得失」は、クリスチャンは「害は自分に利益をもたらし、損失は得をもたらす」という意味での利害損失であって、そういう考え方が「日々新たにされる」という生き方になる、ということです。つまりクリスチャンにとってはすべてが得であり、プラスに変えられていくのです。

1.「日々新たにされる」(第2コリント人への手紙4:16)
成長とは、昨日と違う自分があるということで、日々新しくされているということです。みなさんはこのことばからどのような事を想像し、連想されるでしょうか。
・成長していく
・前向きな心にされていく
・きよめられていく
・いつも新鮮にされていく
etc
「日々新たにされる」という状況を、自分なりに考えてみましょう。考えることによって、神様の御心がより深く理解できるようになります。

2.今年の「新たにされる」方向(マタイの福音書5:9)
さらに具体的に考えるために、今年の目標から考えてみましょう。
今年のモットーは「正しい良心をもって平和をつくる」です。
私たちはイエス様を信じて神の子とされました。神の子は平和をつくる者です。私たちはこの目標をしっかりと見据えて日々歩むことが大切です。目標を見失うと的はずれの人生になってしまい、それは罪です(罪とはギリシャ語で「的外れ」という意味)。もし思い煩いの多い、迷いの多いクリスチャン生活を送っているなら、どこかで的が外れていないかを探ってみる必要があります。
平和をつくる者として日々新たにされるとはどういうことでしょうか。すべてのクリスチャンは新しい天と地を目指しています。平和をつくる者として選ばれた資格を与えてくださったのはイエス・キリストです。平和をつくる者と任命されても、すぐにすべてがうまくいくわけではありません。新入社員が失敗したり、うまくいかなくても、会社はすぐにクビにしたり、給与をストップすることはないのです。みなさんは天国会社に入社しました。そこの会社で給与ではなく、人格者として信頼を勝ち取るために働きます。みなさんは天国会社の一員であることの誇りをしっかり持って、平和をつくる働きに励んでください。それをしっかり自覚していないと、愚痴不平が出てきたり、損得勘定に流されてしまうことになります。
よく雑草のように強くなりたいという方がおられますが、時に踏まれて心がゆがんでしまい、強情になってしまっていることがあります。強情という強さと素直さとはどちらがいいでしょうか。素直さはとても大切です。幼子のように心の素直な者が天国に入ると聖書は言っていますが、強い者が入るとは言っていません。あまりに自分の考えがしっかりとしていて強い人は、みことば全般を素直に受け取ることが難しく、自分に合うみことばだけを受け入れるという偏った状態になりがちです。素直な人は信頼をもってみことばを受け入れます。素直な心を失うことなく、大切に持ち続けましょう。正しい良心は素直さがあります。平和をつくる者として素直さという良い香りを周りに香らせていきましょう。神はあなたを常に良い者として日々見てくださいます。あなたもそのように前向きに自分自身を捉えていきましょう。

3.今日のあなたへの適用(ヘブル人への手紙11:1)
(1)望んでいる事柄をイメージします。たとえば平和をつくり出す者として、自分がそこに行くだけでその場が平和になるという場面をイメージします。正しい良心による良いイメージをしっかり持ちましょう。イメージしないと信仰がわきません。
(2)自分の行動をイメージしましょう。たとえばいつも嫌みを言う上司に対して、どんな嫌みを言われても大丈夫なように、朝のデボーションでその上司に嫌みを言われた時の様子をシミュレーションしておきます。自薦に備えておくことで余裕が出てきます。もちろん、そのシミュレーションでは、平和をつくる者として応答している自分をイメージします。その段階で既に心に葛藤があるなら、祈ってその思いと戦いましょう。この戦いに勝利せずに、中途半端な状態で会社に行くとかえって大変なことになります。
(3)イメージしたように行動します。
(4)イメージしていなかった状況が出てきます。(読みが浅いとも言います。)イメージした以上の暴言(?)が上司から出てきてムッとしてしまったり、怒ってしまうということが現実には起きてしまいます。そういう状況が起きたら、また違うシミュレーションをしていきましょう。何回もいろいろな体験をして失敗していく時に、いろいろなシミュレーションができるようになります。将棋と同じです。多く失敗するからこそ大きな成功が生まれます。電球を発明したエジソンは、その前にたくさんの電球の試作品を作り、壊し続けました。
またあなたの失敗から受けた害から、逆に新しいクリスチャンの後輩たちに教えることもできます。痛みをたくさん受け、害を受けても、それにこだわらず、恨まず、すべて日々新たにされるというみことばを受け入れ、すべてが利益となると信じ、そのことから成長した自分自身をイメージしていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年4月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   韓信匍匐 かんしんほふく  up 2006.4.16


将来の大きな目的のために、一時の屈辱も恥も忍び、一時の労苦にも耐え忍ぶことのたとえ。

キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
(ピリピ3:21) 


 

 

イエス様は地上で歩まれた33年間の肉体とは全く質の違うからだでよみがえられました。
それは「栄光のからだ」と呼ばれていますが、コリント人への手紙には「御霊のからだ」とも表現されて降り、創造されたものの中では最高のからだです。
この「栄光のからだ」を私たちもいただくことができるという望みが確かなものである証拠として、まずイエス様が最初によみがえられました。
私たちは栄光のからだに変えられるということに、もっと関心を持つことが必要です。今日は、約束のみことばを中心にして4字熟語の意味を踏まえて、主の復活を考えていきたいと思います。
「韓信」=古代中国「漢」の高祖劉邦の臣下で名将として知られた人物
「匍匐」=腹這いになって進むさま
韓信がまだ若く、無名で貧しかったころ、彼は体格が良かったので、それに合わせて人よりも長い剣を持って、諸国を回っては武者修行をしていました。そんな時、韓信を馬鹿にする若者がいて、「おまえは立派な長剣を下げているが、できるものならその剣で俺を一突きにしてみろ。できないなら、俺の股の下をくぐれ」と挑発されました。
韓信は腹這いになって若者の股をくぐり、見かけ倒しの臆病者だと大勢の前で嘲笑されましたが、後には大人物になったという、中国の故事による熟語です。
韓信は将来の夢を実現するために今を自制し、無駄な争いを避けて、恥を忍んだということです。
私たちの人生にもさまざまな労苦があります。不完全な罪深いからだの中で魂が戦いをし、ある時はクリスチャンでありながら罪に負けてしまうという状況によって、人々から馬鹿にされるような経験もするでしょう。しかし私たちは、キリストと同じ「栄光のからだ」に変えられるという大きな目的を実現するために、志をしっかりと持って、今を歩んでいきたいと思います。

1.イエス・キリストの復活は何を意味する(使徒の働き26:23)
最近は死後の世界・永遠という見えない世界に対する関心が薄くなってきて、死んだら終わりという考え方が当然のようになりました。しかし、死んだら終わりという考え方は、全宇宙を造られた神の目的から外れていくものです。
復活は科学的、医学的な面から非常識というのは人間的な考えです。イエス・キリストは最初に復活され、多くの弟子たちに現れて、死んでも生きるのだということを証ししてくださいました。
復活はあり得ないという考え方は、今だけが人生であるから、今を楽しめばいいという狭い考えの生き方になります。永遠が本当にあるということを知れば、人生に対する考え方が変わると思います。永遠と今との関連や、今と永遠は何のためにあるのかという考えを持つことができます。
イエス様の教えからすれば、永遠とは神の御子イエス・キリストと同じ栄光のからだに変えられる世界である(ピリピ人への手紙3:21)ということです。
今の肉体では存在することのできない世界で、肉体ではなしえないことをするために、イエス・キリストと同じ栄光のからだを持って、永遠という神のご計画の中に参加していくんだということです。
では、この地上は何のために存在するのでしょう。「栄光のからだ」というすばらしいからだを100%使うことのできる技術を身に付けるためには、訓練が必要です。そのための訓練として今の肉体が与えられているということです。この肉のからだを自由にあやつり、生かすことができるなら、さらにすばらしい栄光のからだは、当然その能力を発揮することができる力を備えているということで、永遠の世界に入っていくことができます。神様の前によみがえりとは、栄光のもの、良きものに変えられる、進歩するという意味があります。よみがえりは、「韓信匍匐」という言葉にありますように、一時的な労苦を耐え忍んで本来の目的を達成する、という意味であることをしっかりとわきまえておくことが必要です。
今日のあなたの一日は、永遠という神のご計画のために備えられた一日です。今日忍耐することによって、キリストの栄光のからだにふさわしい者として練り清められていくのです。ヤコブの手紙には「忍耐を働かせることによって、完全な者になる」とありますが、完全な者にならなくては、キリストの栄光の姿に変えられることはできないのです。その完全とは、何かを完成させることではなくて、忍耐強く過ごすということです。神に喜ばれないことをするのではなく、神に喜ばれることを選んでいこうと、さまざまな欲望や罪の誘惑に立ち向かうという姿勢をもって、この人生を忍耐強く、目標に向かって歩んでいくこと。よみがえりのために忍耐するのだということを心に留めていただきたいと思います。

2.なぜ卑しいからだなのか?(第1コリント人への手紙15:42〜43)
朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの、そのような不十分で不完全なもので始められて、最後には完全な者に変えられる。神が考えられている復活とはそういう意味ですよ、ということですが、なぜそのような不完全な者でなければならないのかを考えてみましょう。
もともとイエス様と同じ栄光のからだの方が問題も少なくていいのではないかと思われるのに、アダムは塵という貧しい、卑しいもので造られました。しかし、天使は塵で造られてはいません。ルシファーは造られたものの中で最も美しく、神に一番近い完全さを持っていたのですが、堕落して卑しい者になってしまいました。完全な者にはよみがえりはなく、彼には復活はありません。
完全さというものには失敗が認められませんが、不完全なものには失敗が認められます。弱い肉体の人生だからこそ、私たちは罪を犯すことさえもありうるのです。肉体を持っている人間は卑しい者だから、誘惑がやってきたら、欲望に惹かれてガツガツしてしまう。肉のからだはそういう卑しいものです。
神様の復活は、卑しいものが栄光あるものによみがえるのであって、栄光あるものが栄光あるものによみがえることはありません。不完全だからこそ、よみがえりというチャンスが与えられるのです。だから、よみがえりとはチャンスが与えられていることで、これはすばらしいことです。
もう一つ、卑しいということはなりふり構わず何にでもチャレンジすることができます。
戦後、日本で初めて夢のマイカーとして造られた、富士重工のスバル360というテントウムシ型の車をご存知でしょうか。当時の車は全部輸入車でした。当時の価格では(開発後10年でも働き盛りの収入が1万5千円くらい)100万もするような高級なもので、社長など金持ちしか手にすることができませんでした。そんな中で、敗戦して失業中の富士重工の技術者たちは、アメリカ車のような大きな車ではなく、自分たちの家族が乗れる車を造ろうと計画したのです。車の軽量化、ゆったり乗れるスペースの確保、エンジンの強さなど、あらゆる面での技術開発が必要でした。
他の会社からはいろいろ言われ、馬鹿にされたり、何度やってもうまくいかずにあきらめようかと思うような状況の中でも、研究に研究を重ねて、労苦を耐え忍び、やっと360M4人乗りの夢のマイカーを実現させたのです。
これを機に日本でもマイカーが実現するようになり、他の業者もこれに続けということで開発が進められていったわけです。貧しさ、苦しさ、至らなさ、それはあらゆることにチャレンジすることのできる砕けた心を持ち、栄光ある者によみがえるための力を生み出します。
栄光のからだに変えられることは自動的なものではありません。あなたがそれを受けるにふさわしい内なるものを備えることが必要です。何ができるのかではなくて、耐えることが必要です。
罪の誘惑に対して、悪から来る侮辱に対して、耐えていくという強さが、あなたにキリストと同じ栄光のからだを与えられる条件です。イエス様の生涯もそうでした。耐えに耐えて耐え抜いて、十字架の死に至る間でも耐えて、神を畏れる生き方を曲げなかった、そしてよみがえりを受けたわけです。
私たちも同じです。善を行うことにおいて、耐えて耐えて死に至るまでも神を畏れる、そんな忠実な人生を歩み通すことによって、与えられる栄光のからだです。
栄光のからだを持って、どのような世界で過ごしていくのかを黙示録に書いてありますので、読んで、希望をもって今の一時期を「韓信匍匐」をもって歩んでいくことが必要ではないかと思います。
今苦しんでいる人、それは永遠という時間から考えたら一時的なことですよ。そして、自分はこの世の人々と比べて卑しく、能力がないと思っている人、それは感謝なことです。
変なプライドがあって傲慢になり罪を犯すよりは、卑しい者でへりくだっていてこそ、キリストの栄光のからだに変えられるにふさわしい者であると言えるのです。

 

 

 

 

 

 
■2006年4月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   捲土重来 けんどちょうらい  up 2006.4.9


敗者が再び勢力をもりかえして攻め寄ること。また、失敗した者が非常な勢いでやりなおすこと。

人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。らの国民によってイスラエルを試みるためである。」
(使徒11:18) 


 

 

使徒の働き10章で、ペテロは祈りの中で幻を見ます。
汚れた動物が大きなふろしきに包まれて目の前に降りてきました。神に「それを食べなさい。」と言われ、ペテロは「私は汚れた動物を食べたことがありません。」と拒みます。同じ問答を三回繰り返した後、コルネリオという異邦人の使いが来ました。御霊に促されたペテロがコルネリオの家に行き、その家族と関係者の集まりで説教した時、彼らが聖霊のバプテスマを受けた様子を見て、神様は異邦人にもイエス・キリストの救いをもたらされたのだと確信して、水のバプテスマを施しました。
しかし、エルサレムに帰って他の使徒たちにこのことを話すと、ペテロは非難を受けました。モーセの律法にある、汚れたものに触れてはならないという教えから、ユダヤ人たちは特に(汚れた存在である)異邦人との接触を嫌っていたからです。そこでペテロは、自分が見た幻を説明しました。
そして使徒の働き11:18の出来事があったわけです。
神様の祝福は、中心は罪の赦しであって、永遠の神の裁きから救われるというものです。しかしそれだけではなく、悔い改めるなら、日常の生活の罪をも赦されます。その裁きは全てイエス・キリストが身に受けてくださったからです。「悔い改め」という賜物を与えてくださったとも表現できます。
今週の中心は先週に少し続きます。試行錯誤の中で多くの失敗を繰り返す時「悔い改め」が非常に大きなポイントになります。目標に近づくことが難しくなるからです。「悔い改め」は、たとえ私たちが失敗者だとしても、再び成功者・勝利者へと立ち直る、その力を持っています。その3つのポイントを見ていきましょう。

●4/10(月)13(木)「あけぼののよう」(箴言4:18)
旧約聖書における義人は神様の律法を守り行う者、結果を出さなければ義人とはされませんでした。しかし新約聖書においての義人は、イエス・キリストの十字架の贖いが完成された時に、神を畏れキリストを信じるならば、行いの結果によらず神様は義人として見てくださる。これがイエス・キリストの罪の赦し、救いの意味でもあるわけです。
この世界では、結果を出さないと認めてもらえません。ですからそういう考え方、価値観が無意識の内に身に付いています。クリスチャン生活もつい自分自身を、また他の人をもそのように測ってしまうことがあります。しかし神様は、私たちが目標に到達するために何とかみことばを行うことができるように、試行錯誤し、悔い改め、方向転換するために、赦しというものを与えてくださっています。私たちがいくら失敗しても、そのすべての責任を負ってくださることを、イエス・キリストを通して証明してくださいました。
しかし、方向転換する時には大きな強い決断がいる時があります。自分にはできないと思いこんでいる場合にはなかなか悔い改めようとしない、方向を変えようとしない。これはできるかできないかの前に、まず決断することだと思います。車の運転でもそうです。初めての場所に地図を見て行く時、自分でも道を間違えたことに気づいて方向を変えようとした、とします。その瞬間に誰かに自分の間違いを指摘されると、なかなか素直に認めて方向転換することができない。人はへんな所に意地があって、方向を変えるには大変な勇気と決断とへりくだりがいります。間違いを認めることは、私たちにとって大変なことです。
神様は間違いを認めたからといって、この世の人のように馬鹿にしたり、怒ったり、責めて心を痛めつけたりはされません。神様は赦してくださるということに心を向けて早く方向転換する。そう決心した時に、心はあけぼののように立ち直ってきます。努力ではなく、その力は自然にあけぼののように湧いてくるものです。

●4/11(火)14(金)「また起き上がる」(箴言24:16)
正しい人とは義人のことです。正しい者は七度倒れてもどうして起き上がることができるのでしょうか。もし、信頼している人があなたの身近にいたら、あなたは起き上がることができると思います。特に神様に対しては、私たちは罪を犯して負債をもたらすという立場の者です。やればやるほど借金を増やしていく状態であっても、神様は「いいよ、もう一度やってみなさい。」と言ってくださっています。そこまで失敗の負債を負いながらも、それを帳消しにしてまで、チャレンジするように励ましてくださる、それは私たちが倒れたままでいてほしくないからです。立ち上がって目的地まで行ってほしいと思っておられるからです。
私たちはそのように犠牲を払ってまで赦し、悔い改めのチャンスを与えてくださる神様のために、自分の気持ち、力はどうであれ、「あなたのためにやってみましょう。」と言うことができると思います。クリスチャン生活の様々な壁や問題にぶつかった時、そこまで神様と問答、交わりをされたことがありますか。だいたい自分にできるわけがない、とそこで留まってしまって、神様の励ましの声を聞こうとしないあなたがいませんか。神様はそういう状況をも大きく包み込んで、カインの心からアベルの心へと変わることができるまで、太陽があけぼののように昇ってくるまで待ってくださっています。期待しながら悔い改めの賜物を与えてくださっています。必ず夜明けはやってきます。それを信じてチャレンジしましょう。

●4/12(水)15(土)「起きよ。光を放て。」(イザヤ書60:1)
私たちはどんなものに目が覆われて周りが見えなくなってしまっているか、ある時には客観的に見ることが必要です。一つのものがまるで闇のようにあなたの心を覆って、他のものを見させないようにしている、眠っている状態と同じようになっているのです。
神様は言われます。
「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」(イザヤ書60:1)
『あなたの光が来て』=あなたの、とは個人的なものということです。
これはもちろんイエス・キリストのいのち、イエス様ご自身、聖霊様のことです。それではあなたの個人的な光とはどのような光でしょう。
ヒントは『提灯ちょうちん』です。提灯の中にろうそくの灯が入れられると全体が輝きます。それによって、何に使う提灯か目的がわかります。そのようにイエス様は人を輝かすまことの光です。イエス様があなたの内に入り、輝いてくださると、あなた自身が見えてきます。神様があなたを造られた目的、あなたらしさが見えてくるわけです。
また『主の栄光があなたの上に輝いている』とはどういうことでしょう。出エジプト記に、荒野に導かれた300万人のイスラエルの民のことが書かれています。雲の柱、火の柱という神様の覆いによって、荒野の厳しい自然現象の中から守られました。それは神様の栄光の現れとして記されています。そしてこの雲の柱に民は導かれていきます。それは覆いとしての神の臨在、導き手としての神の臨在です。
人を輝かすまことの光が個人的にあなたのもとにやってきて、インマヌエルなる神があなたの内に宿られた。そして神の栄光があなたの上に輝いている。だから、起きて光を放ちなさい。もうカインとして歩む時ではない、アベルとして目覚めて前進する時。神があなたに与えているすばらしさを輝かせる時ですよ、とイザヤは私たちに預言を与えてくださっています。
しかし私たちはもっとすばらしい十字架後の時代に生きています。ですから、このイザヤ書のみことばは成就しています。起きるタイミングは、あなたの心の内にみことばの啓示がやってくる・メッセージによって気づかされる・出来事によって悔い改めに導かれる等、いろいろなチャンスがやってきます。
主がこられる日まで、日が昇り、また沈む。これは繰り返されます。私たちのクリスチャン生活の繰り返しも、目標に向かっていることを忘れず、チャレンジしていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年4月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   試行錯誤 しこうさくご  up 2006.4.2


いろいろと試みて、失敗を繰り返し、目標に近づくこと。試みることと、失敗することの繰り返しによって学習がなされること。

わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」
(士師記2:21〜22) 


 

 

私たちの心にカインの心がまだ存在しているがゆえに、悩み多きクリスチャン生活が続いているという現実を感じておられると思います。
神は何故カインの心を取り除かれなかったのでしょうか?
私たちの心はまだ未熟で不完全なので、神は私たちを試みるため、欲望によって動くカインの心を残されました。私たちが『試行錯誤』して多くの失敗を繰り返すことで、神が望んでおられる完全な強さ(=あらゆる外的に対し勝利すること)を身につけ、目標に近づくことを望んでおられるからです。
アダムが失敗してからの人生の歴史は、神に近づくための『試行錯誤』の時であるといえます。
今週は、カインの心が取り除かれないわけを悟り、『試行錯誤』して歩む人生の価値を6つのポイントで学んで行きたいと思います。

(1)心の中にあるものが露わにあらわれるため(申命記8:2)
神は時として私たちを苦しめ、試みられます。それは何のためでしょうか?それは心の中にあるものを明らかにするためです。
私たちは「神を愛している」と言いながら、カインの時のように、神が自分のささげ物を喜んでくださらない時(=自分の思い通りに神が動いてくださらない)怒りを露わにし、カインの心に意識が移るということがあります。
神を愛していると言うなら、神を私たちに従わせようとするのではなく、アベルのように私たちの心を神に合わせ、神が喜んでくださるささげ物をするべきです。

(2)幸せにするため(申命記8:16)
神はイスラエルの民を養うために、天からマナを降らせようとしておられたのに、民は先につぶやいてしまいました。しつけがきちんとなされていなかったからです。正しい礼儀作法を身に付けないで育った人は、人から尊ばれることもなく、嫌われ、恥をかくことになります。
それで神はマナを与えることで、細やかなルールを与え、神の国の礼儀作法を教えようとされたのです。
神は私たちを正しくしつけるために、みことばを持って試みられます。みことばを聞いても一回では身に付かない人もいるでしょうが、試行錯誤しながら何回でも挑戦していくのですから、到達するのが遅いからといってお互いに裁かないようにしましょう。

(3)主を愛するかどうかを知るため(申命記13:3)
目に見えない神を心を尽くし精神を尽くして愛していくことは困難なことです。イスラエルの民も、指導者がたてられている時は神のみ教えを守りましたが、指導者が死んでしまうとすぐ堕落した生活を繰り返してきました。
見えるものに左右されやすい私たちが見えない神様に従っていくために、試みがあります。夫婦の間でも、互いに愛し合っているかということを確かめるために試みることがあります。夫が、また妻がそのことを求めているなら、それに応えていくことこそ、愛していることを表すことになります。神様も、私たちが神以外のものに誘惑されやすい、弱い存在だということをよくご存じですから、確認のためのテストをして、気持ちが他の物に移っていないか確かめられます。神様は私たちを信じておられ、私たちが神を愛しているということも認めてくださっていますが、それを確認したいと思われるので、そのための試みがやってくるのです。

(4)練りきよめるため(イザヤ書48:10)
私たちは悩んで試行錯誤することによって、純金のように価値のあるものとなれます。いくら良いものを含んでいても、原石のままではそのすばらしい価値は見えにくいのです。
神が私たちのことを「高価で尊い」と言われるのは、もともと原石であった私たちが、悩んで、練られて、純金のように精錬されることを見込んでおられるからです。神に試みられることにより純金とされ、純粋なアベルの心をいつも保てるよう、きよめられていきましょう。

(5)気づきを与えるため(伝道者の書3:18)
伝道者の書を書いたソロモンは、最初は神を敬う敬虔な王でしたが、豊かな富と知恵が与えられることによって誘惑を受け、信仰が堕落し、世の楽しみを追い求める人になりました。しかし年老いて「人は色々な知恵や力があり世の中で楽しむことができるけれど、神を敬う心のない人は獣と一緒だ」と悟ったのです。
人にはなぜ知恵や能力が与えられているのでしょう?神を敬う敬虔な心を持つために与えられているもので、それに気づくために試みを受けるのです。不敬虔で矛盾の多い世の中を見ながらも、真剣に生きることを求め、試行錯誤していく人はまことに生ける神イエス・キリストに出会うのです。

(6)キリストの苦しみにあずかるため(第1ペテロの手紙4:12〜13)
成熟したクリスチャンの最終的な試みです。それは私たちの未熟さや至らなさからくる試みではなく、主と同じ苦しみを味わって喜べる者となるためです。ペテロはローマ帝国の迫害にあって処刑される時、自ら進んで逆さ十字架の刑を受けました。普通の十字架よりずっと苦しい逆さ十字架。ペテロはなぜこれを望んだのでしょう?尊敬する師であるキリストと同じではあまりにも畏れ多いと考えたからです。
しかし人々の妬みや嫉妬を受けて罪人の為に十字架で死んでくださったイエス様の苦しみにあすからせていただくことは、救い主と同じ立場に置かれることであり、尊敬するキリストの弟子であるペテロにとって、何にも代え難い光栄なことであったのです。そのように捉えることが、最後の仕上げとなる試みです。

 

 

 

 

 

 
■2006年3月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   乾坤一擲 けんこんいってき  up 2006.3.26


運命をかけるような大きなものごとをすること。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
(第1コリント6:19〜20) 


 

 

今週は神が私たちのために、どれほどの決意をもって、代価を支払ってくださったかをみていきます。この代価の表現として、人身売買のような表現が使われていますが、当時コリントという商業都市の人々に、最もわかりやすく説明するために、奴隷制度を例えとして用いたためです。
買うという行為は、所有権を持つということであり、その奴隷の人生、能力、力をすべて支配する権利を、代価を払って手にしたということを表します。
<乾坤一擲>
・乾…「天」を意味する
運を天に任せる
・坤…「地」を意味する
・一擲…投げ打つ、サイコロを投げる
自分の将来を大きく左右するような問題を起こすひとつの行為を意味します。
神にとって私たちを買い取るという十字架のみわざは、まさに乾坤一擲と言える大きな出来事でした。なぜそう言えるのかを、ポイントを追ってみていきましょう。

1.再建計画
神はアダムとエバが罪を犯す前にもう一度戻し、さらに一からやり直すというご計画を持っておられます。
エデンの園は神の御国の象徴です。それを治めるために、アダムとエバは置かれました。それを会社に例えてみます。
今騒がれているライブドアの問題から、みなさんも株について詳しくなられたと思います。株式会社とは、資金を集めてそれを基に運営し、利益を出していく組織です。個人での運営は無理なので、自分の会社をアピールし、資金を提供してくれたら利益を出しますということで、株券を出します。これが一枚1万円であったり10万円であったり、100万円であったりします。
そして全体の株の半分以上を持つ人が現れると、その会社の重要な決定権を持つことになります。それゆえライブドアが昨年日本放送の株を半分以上持つということになった時、日本テレビはあわてて株券をたくさん発行して、ライブドアの持つ株の比率を下げ、ライブドアの発言権を抑えました。
神は御国という会社を、私たちの存在のために作ってくださいました。その会社の役職、従業員として各々の役割を与えておられます。会社のために人間が造られたのではなく、人間のために会社(御国)が作られたのです。しかし、アダムとエバは誘惑が来た時、社長という立場でありながら、欲望の奴隷となってしまいました。経営の一番の責任者である社長が会社の利益のためではなく、むしろ会社の利益を損ない、自分の利益のためだけに会社を運営し始めたのですから、会社はだんだん経営状態が悪くなっていきます。
それは、サタンに権限がなくても、アダムには権限があるので、アダムを自由に動かすことによって、その権限を利用できるということです。そういう陰の支配者の奴隷となってしまった人類によって、御国(会社)はあるべき姿にならず、滅び(倒産)に向かって進んできました。
普通であれば、そういう人間をクビにすればすみますが、元々人間のために作った会社なので、アダムをクビにすることはできません。そこで投資した神は、裏で支配するサタンの影響力から完全に人間を切り離すために、サタンの言い値でその権限を買い取られました。何ら値段交渉をせず、文句のつけようがない値段で御国(会社)と共にその従業員すべてを買い取られたのです。もし少しでも文句のつけようがあったら、サタンはそこを突いて尚も私たちを支配することができますが、聖書ではサタンをまったく無能なものにしたとあります。代価を払って買い取られることにより、神は他のものの影響力を一切受けないで、自分のものとして所有することができる権威をもたれたのです。
もともとご自身が投資して作られた会社を、アダムの愚かさからサタンの好きなようにされたいたのに、神はもう一度代価を払って、完全に所有権をご自分のものとされました。これが十字架の贖いという意味です。「贖い」とは、もう一度買い取る(二重に買い取る)ことを表します。神はルールを守る方ですから、正当な方法をもって私たちをサタンの支配から買い取ってくださったのです。しかも買い取ってから再建のための運営資金も与えてくださっています。イエス様の十字架によって、クリスチャンになってから犯した罪もすでに贖われているのです。これほどの代価を払えるのは、ひとり子なる神の御子のいのちだけです。
ひとりの人間のいのちでは、とうてい払えないものなのです。この御子の尊いいのちを投資される神のお気持ちが、次のポイントです。

2.神様の乾坤一擲(ヨハネの福音書3:16)(ローマ人への手紙8:32)
投資家のプロである神は、100%の正確さをもって投資されます。その意気込みや思い入れはどんなものなのでしょうか。
この2つのみことばから考えてみましょう。「ひとり子」をお与えになったほどにとありますが、「ひとり子」とはどういう存在でしょうか。また「御子」ということばの意味は、全財産である、すべてであるという意味です。御子こそが最高の価値あるものなのに、その御子を与えられたのですから、それ以下の価値のものはどんなものも惜しむはずはなく、当然のように与えることができるということです。
神はご自身の持っておられる最高のものを与えられました。それは、すべてを与えられたことと同じ意味なのです。すべての財産をひとつのことに投資するような投資家は、世の中ではありえません。しかし神は私たちを買い取るために、御子という全財産を投げうってくださったのです。それは神の乾坤一擲の決断です。どれほどの深い決断があったかを知ってください。神はまさに投資家として、私たちと運命を共にするという大きな決断をされたのです。
その意気込みが「ひとりとして滅びることなく」というみことばに表されています。御国という会社に必要な人材を、神はアダムの子孫に見いだされたのです。この会社が100%完全に運営されるために、社員が一人も欠けてはならないという意味がここに含まれています。それはどんな人にもその人の価値があり、その人ならではの役割があるということです。誰もあなたの代用をすることはできません(天使でさえも)。ひとりひとりが大切な社員なのです。あなたには御国という会社で働くべき専門職があります。ひとりでも欠けたら、100%の力をこの会社は発揮できません。そこに御子を投資して、ひとりとして滅びないようにされた神の意気込みが込められています。神はあなたを、天地を創造される前からキリスト・イエスにあって選んでくださったのです。
神は御国を、教会を、あなたの人生を、このように再び建て直そうとしてくださっています。そこで選ばれた私たちに必要な3つのポイントを挙げます。

3.呼び集められた者に対して
御国はこの世には見えない会社です。その再建のためにこそ私たちの人生があります。
1)第1ペテロの手紙1:21=神への信仰と希望
選ばれた社員に必要なのは、筆頭株主なる神との正しい関係です。神の思いをよく理解して尊敬する信頼を持たないといけません。任された各々の役職、立場を私利私欲のために用いてはなりません。
日産自動車の経営を建て直すために、日本に招かれたフランス人の社長がおられましたが、彼は様々な悪口を言われながらも、株主たちの依頼(信頼)をしっかりと受け止め、再建のために力を尽くしました。
私たちも、神が選んでくださったという信頼をしっかりと受け止め、御国の会社のために尽力することが大切です。たとえ周りの世の中から酷評されても、そのことばに振り回されないために、投資家なる神の信頼に対して希望を持ちましょう。神への希望とは、信頼してくださっているという事実に対する望みのことです。
子供は親に褒められて、未来に望みを持って成長します。神は私たちがそのように成長することを願って、選んでくださっています。
2)第1ヨハネの手紙4:11=愛による一致
これほどまでにという乾坤一擲の神の愛を知る時に、私たちは同じ仲間として互いに受け入れあうことができます。同じ会社を支え、その発展のために選ばれた私たち全員が、お互いに足の引っ張り合いをしていては、何の得にもならず、むしろ神の御心を砕く行為になってしまいます。
私たちは他人を裁く前に、自分がどこに置かれ、何をすべきかを早く見いだして、その仕事に専心するべきです。会社の全体的管理は最後は筆頭株主なる神がしてくださいます。監視するのは株主であって社員ではありません。互いにいがみ合ったり、競争しあうことは自分にとっても大きな損失になります。
3)第1コリント人への手紙15:58=熱意をもって取り組む
熱意は、堅く立つ・動かされることなく・いつも励む、ということばに表されます。熱意は自分の野望からくるのではありません。投資家なる神から伝わってきます。神の熱意を察知し、ビジョンを同じくすることが、クリスチャン生活の力となります。イチロー選手が「こんなすばらしいチームはない!」とワールドカップで優勝した時言いましたが、イチロー選手は勝ちたいという熱意を、チームのひとりひとりのメンバーと個別に食事し、熱く語ることによって伝えました。熱意が伝えられていなかったら、今回のような優勝は手にできなかったでしょう。情熱のあるチームほど能力以上の成績を残せるというのは、高校野球の世界でもいえます。
私たちも投資家なる神の熱意をしっかりと受け止めましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年3月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   闊達自在 かったつじざい  up 2006.3.19


何にも捕われず、心が広くのびのびしていて、思いのままに行動する様子。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1) 


 

 

先週は、アベルとカインの心が私たちの内にあって、葛藤しているという話をしました。アベルの心はキリストと共によみがえらされたので、もう二度と死ぬことはありません。相撲で例えるなら、悪の横綱サタン(罪・欲望)と私たちが戦うわけですが、一度横綱に負けたからといって、それで相撲界をやめてしまっては、それ以上勝つチャンスはありません。何度負けても戦い続けることで、いつか横綱を倒すことができます。これが私たちのアベルです。あきらめずに戦い続けるなら、いつかキリストと同じ栄光の姿に変えられるのです。<ガラテヤ5:1>には「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました」とあります。何回もチャレンジできるという自由を、神はイエス・キリストを通して与えて下さいました。今までは一度負けたらそれでおしまい、カインがアベルを殺してしまったらそれでおしまいという状態でした。 魂は叫んでいるのですが、現実は闇の力と欲望に振り回される人生でした。しかし、キリストを通していのちの御霊の原理の中に入れられて、罪の原理から解放されました。もうカインはアベルを殺すことは出来ません。今度はアベルがカインを支配することが出来るのです。今私たちはいのちの御霊の原理に入れられて自由を与えられているのです。この自由こそ世の中の人々が求めているものです。自由は、幸福感と満足感をもたらします。
しかし、クリスチャンは自由になっているはずなのに、自由でないと感じてしまっている人が多くいます。世の中の人々は、クリスチャンになることは不自由になることだ、束縛され強制されることがたくさんあり、とてもついていけないと思うのです。魅力を感じないのは、自由でないと見えるからです。
私たちは自由というものを正確に理解し、それを楽しむことが必要です。クリスチャンを見て「闊達自在」な様子が見えたら、人々はあこがれると思います。そのようになかなか見てもらえないのは、クリスチャンが自由というものを悟っていないところに問題があります。まるでクリスチャンになったら、苦しくてしんどくて大変なんですよ、という表情や態度を表していたら、そのような様子を見て人々が教会に来たいと思うでしょうか。あなたは今礼拝に、自由人として来ていますか。それとも束縛されて、強制されて来ていますか。カインはアベルに「おまえは喜んで来ていないじゃないか」と責めてきます。自由という意味を悟っていなければ、カインの誘惑の言葉にアベルは引きずり込まれてしまいます。この私たちに与えられている自由を一緒に学んでいきましょう。

1.自由について
「心のままであること。自在。一般的には、責任を持って何かをすることに束縛や強制などの障害がないことを言う。→自発性・自己決定・自己責任
心の思いや意志に反して、強制されたり何かに縛られない様子」
 自由というのは、本来は「気まま」という簡単な意味でしたが、日本では明治時代になってから、東洋思想(聖書の思想・ギリシャ哲学)の「自由」という意味で使われるようになりました。基本的に自由というのは、「自発性・自己決定・自己責任」の三つが伴っているものであるという概念をしっかりと踏まえて下さい。

2.罪の奴隷(ヨハネ8:34・ローマ6:16、20) 
奴隷というのは、主人を持っているということです。奴隷には、法律に従わなければならないものと、主人に従わなければならないものとがありました。ローマ人としての自由は,ローマの法律に従うことでした。イエス様がそういう社会の中で「罪の奴隷です」と表現されたのはどういう意味でしょうか。自ら進んで奴隷となっているのか、強制されて奴隷になっているのか、二つが考えられます。<ローマ6:16>に、奴隷となる定義が書かれています。私たちは、罪という主人と、義という主人のどちらかに従うものであると言われています。身を捧げて服従する相手がいれば、奴隷になります。それは強制でも、自ら進んででも奴隷なのです。自由な主人と不自由な奴隷とがあります。いたくない主人のもとでいる奴隷は、束縛され強制された不自由な奴隷です。しかし、いたい主人のもとでいる奴隷は、自由な奴隷です。奴隷という言葉だけで束縛されていると考えてはいけません。自ら束縛されることを好む奴隷は、自由なのです。<ローマ6:20>では、自ら進んで罪の奴隷として束縛の中に入った人にとっては、義については強制されない、自由であるとあります。その逆も一緒です。義の奴隷は、罪の主人に束縛される理由がないので、罪に対しては自由なのです。何らかのものに服することによって、自分の行動が決定されます。
自由と不自由の見分け方は、「自発性・自己決定・自己責任」です。こういう姿勢を持って行動したものは、自由人です。しかし、これらのものを束縛され、強制的にあなたの考えや思いとは違うものへと従わされる時は、不自由、束縛となるのです。あなたはキリストによって、自由を得させるために解放されたのに、どうして自発性・自己決定・自己責任が束縛されているような行動をするのですか。黙想のポイントを見てみましょう。「カインの心がアダムの心を殺して、罪の奴隷となっていないだろうか。カインの心に服従してしまっていないだろうか。義に対して勝手気ままにふるまっていないだろうか。」カインの心によって自由を得たいのか、アベルの心によって自由を得たいのかによって、大きな違いが出てきます。

3.自由が与えられた者として
黙想のポイント「カインの心による自由を願っているのですか、それとも、アベルの心による自由を願っているのですか。神の奴隷となることを願っているのですか。罪の奴隷となることを願っているのですか。それとも、だれの奴隷にもなりたくないのですか?自由人と神の奴隷との関連について悟らせていただきましょう。」
奴隷というのは主人を持つということが強調された言葉です。人間は主人を持たなければ生きていけないように造られています。主人のいない人生というのは的外れです。だから、キリストの花嫁となることが、私たちの存在の目的です。これを理解しておかなければ自由を得ることはできません。カインの心で物事を見ていれば、クリスチャン生活は不自由です。あなたが強制されてクリスチャンになっているのであれば、それは不自由です。
あなたが自由人として、自発的に、自己決定をもって、行動に自己責任をもって、肉の欲望を満たすことを考えるか、それとも神が私たちに自由を与えてくださった目的である、互いに愛し合い、愛をもって仕えることを自分の喜びとして選んでいくか、どちらでしょうか。
カインの心だったらその自由を肉の働く機会とするでしょう。しかし、アベルの心なら、自分がよみがえらされた神の目的は、主が私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛するためだと、そちらを選ぶのです。それは、自発的に、自己決定をもって、自己責任を果たすということです。
この「責任」というと、「制裁が伴う」ということしか印象づけられていないのではないでしょうか。「責任」というのは、「任務を果たす」という意味があるのです。与えられたやるべきことを成し遂げることが、責任なのです。何のために自由が与えられたのか。それを果たすことが、自由人としての責任なのです。目的から外れた自由は、罪を犯すことになります。神があなたをよみがえらせた理由 
1)愛し合うためです。
2)自ら進んで汚れを選ぶのではなく、聖いものを選ぶためです。<第1テサロニケ4:7>
この救いを得るまでは、聖いものを選ぼうとしても、カインが邪魔をして、いつもアベルを抹殺して、実行することが出来ませんでした。だからキリストは、あなたのアベルの心をよみがえらせて、カインにうち負かされることがないようにされたのです。それは聖さを得るためです。
3)自由を神の奴隷として用いるためです。<第1ペテロ2:16>
すなわち、自発的に神の奴隷としてその人生をやり遂げること、神の奴隷となることを選びなさいということです。そのために神はあなたを肉の欲望の束縛から自由にしたのです。あなたの魂の本当の願い、神の形に似せて造られたあなたの本音の気持ちを全うすることが出来るために、あなたはキリストの命によってよみがえらされ、自由にされたのです。これを受け入れることが出来ない人は、クリスチャン生活を楽しく過ごすことができません。カインがアベルのような生活はできません。それはカインにとって苦痛です。あなたの意識、自覚が、アベルであるか、カインであるか、それによって何の自由人かが決まるのです。罪を主人とする自由人か、義を主人とする自由人か、全世界の人はもれなくこのどちらかを選ぶという自由が与えられているのです。強制力はありません。私たちの心に語りかけてくる闇の言葉、「私はおまえを縛っている」というそんな偽りの言葉にごまかされてはいけません。キリストは全世界の人々を自由にしました。だからあなたも選ぶことができます。神があなたをよみがえらせたのは、聖さを得させるためであり、互いに愛し合うため、神の奴隷となることを願って、自由を与えて下さったのです。全世界の人々は、神の目的に沿った自由を与えられて、それを全うすることができる全ての救いのみわざを完成させられています。でも、その自由が与えられた目的に反することをしてしまうと、的外れ、すなわち罪ができてしまうのです。この自由を得させるための目的から外れた罪は、贖われていません。自由を得させるための中で行われている罪を、キリストは贖って下さっています。神の奴隷となっているがゆえに、その奴隷が犯す全ての罪は、主人が責任を持ちます。でもその義の主人に従わない人は、自分の罪は贖われていません。その人の主人は罪です。その主人は神に罰せられます。あなたも一緒に罰せられてしまうのです。自由人と神の奴隷との関連について私たちはしっかりと悟っていないといけません。そうしないと、肉の思い、カインにと欺かれてしまいます。それは感覚的なもので誘惑し、訴えてくるので、つい信じやすいのです。聖霊様があなたのアベルの心と共に宿って下さり、感覚的にまでも、自由人としての喜びをもたらして下さるのです。この聖霊の満たしを通して、肉の欲望の感覚を殺してしまうことができるのです。聖霊によって肉のカインを殺すということができるというのです。その体験こそが、私たちの信仰の確信を更に大きくします。ただ概念的なものではなく、感覚的なものとしても聖霊の満たしは私たちに信仰の確信をもたらすのです。だから聖霊のバプテスマを受けた人は強い確信を持っているはずです。ごまかされてはいけません。真理の言葉は、あなたが悔い改めて、その名によってバプテスマを受けたならば賜物して聖霊のバプテスマが与えられるのです。
私たちは自由人としてどう振るまったらいいでしょうか。それは人の責任ではなく、あなた自身の決断、決定にかかってくるのです。だから決してカインの感覚に惑わされないようにしましょう。アベルの心はみことばによって証明されています。これがアベルの真実な姿だよ、これを意識しなさいと。だけど五感は肉体にあるので、カインの心の存在が大きく感じてしまいます。これが問題なのです。カインとして自由人ではなく、アベルとしての自由人として、心の底からの解放の自由の喜びをもってクリスチャン生活を歩んで行きましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年3月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   心機一転 しんきいってん  up 2006.3.12


あることをきっかけとして、気持ちがすっかり良い方向へ変わること。

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
(ヘブル11:4) 


 

 

(1)内なるカインとアベル(創世記4:3〜6)
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
心機一転を計るためには、まず私たちは自分の心の中の現状をよく知る必要があります。私たちの心の内には、カインの心とアベルの心のふたつが存在します。それはアダムとエバ以降、罪が人類に宿ったからです。アダムとエバが欲望に負けて罪に従ってしまってから、罪は私たちを欲望によって支配するようになりました。これが肉の思い、自己中心であってカインの心です。アベルの心とは、もともと神の形に似せて造られた私たちの魂のことで、本来の私たちの心は、このアベルのような、神を敬い、正しいこと、きよいことを求めたいという正しい良心によって成っていて、これが本音なのです。
このカインとアベルはいつも私たちの心の中で戦っています。私たちがクリスチャンになった時、このアベルの心はカインの心に対抗できるようになりました。
しかし、未信者であった時はカインの心がアベルの心を抑えていて、欲求のまま、感情のまま過ごすことが多かったのではないでしょうか。それはカインはアベルを殺した…と聖書にあるからです。未信者のときは、カインは常にアベルを殺すことが出来ました。カインの方が強かったのです。つまり、抵抗できないほど自己中心が強かったために、カインの心がまるで自分の心そのものだと思って生きていたのです。しかしクリスチャンはアベルの心がカインに抵抗します。負けることが時にあったとしても、抵抗することができるのです。
ただ負けてしまうことがあるのはどうしてでしょうか。それは、次にあげる信仰による心機一転にかかっています。

(2)信仰による心機一転(ローマ人への手紙8:2)
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
原理とは、定まったひとつのパターンがあるということです。そしてそこに縛られて、それに従わざるを得ない状態なのです。私たちが罪と死の原理の中にいる時は、アベルの心はカインの心に勝つことはできませんでした。なぜなら、それが罪と死の原理だったからです。カインとアベルの物語は「罪と死の原理」を現しています。どんなに努力して頑張って修行しても、絶対にこの原理を変えることはできません。ただ、環境を変えることによって、一時その原理から解放されたかのように感じることはあっても、それは一時期カインの心を静められただけに過ぎません。
修行僧とか、いろいろな修行者の人たちがいますが、彼らは世の中では生きていけません。山奥でないと修行できないのです。それはなお、罪と死の原理に縛られているため、世に戻るとまたこの原理が強く支配してくるからです。しかしクリスチャンたちはいのちと御霊の原理野中に生きているので、修行しなくても、世の中で生きていくことができます。いのちと御霊の原理の中にいるので、もはや罪と死の原理が働くことはありえません。この事に目覚め、気づくことが「心機一転」なのです。この事に気づくのが信仰です。しかし、偽られ、だまされていると、なおも罪と死の原理の中に生きているかのように錯覚して、そのような生き方をしてしまいます。クリスチャンはだまされてはいけません。心機一転とは、罪の偽りを見破る信仰の働きです。いつの間にか、自己中心や 欲望のままのカインの心で歩んでいたと気づくことです。
聖書を読んだり祈ったりしている時に、聖霊様があなたに気づかせてくださいます。それゆえ毎週一回の礼拝は、義務的に参加するのではなく、心機一転するためのきっかけとして参加しているのです。
一週間どっぷりと世の中の考え方や欲望の影響を受けるような生活をしてきても、この礼拝で語られるみことばや賛美の中で心がいやされ、平安に満たされ、聖霊様の働きによって、何かはっと気づかされるような心機一転のきっかけが与えられます。そして偽りに気づき、新たに歩み直すことができるようになります。
それでは、カインとアベルを見分けるために、その違いを見ていきましょう。
(1)のポイントに戻ってみてください。
ある時期…子供の時はカインもアベルも、父親を通して神との正しい関係を保っていました。しかし今度は自分自身が神との正しい関係を持つ時がきます。それは成人した時を示しています。
ささげ物…自分自身の心を見える形で表したもののことであり、そのささげ物を通して、自分の心が表現されます。神への思いがどういうささげ物をどのようにささげるかによって表されます。
二人のささげ方の違い…アベルは自分の持つ最良のもの、一番良い大切なものを選びました。しかしカインは選ぶことをせず、義務的にただささげればいいというささげ方をしました。しかもアベルは自分自身で持って来たとあるのに、カインはありません。カインは他の人に代わりにささげに行かせたのかもしれません。神への尊敬の心が欠けているのです。自ら持って行ってあいさつすることは、相手を大切に思い敬う気持ちがあるからです。カインにはその思いがありませんでした。
ここにカインとアベルの心の姿勢の違いがあります。ささげ物の種類ではなく、神がこだわられたのはささげ方であり、そこに表された神への心の姿勢です。肉の心を中心に物事を考えると、毎週の献金だからと何も考えずに、事務的に習慣的にささげます。しかし、感謝する出来事があるとその金額も変わるはずです。それは普通のことではないでしょうか。一般的にもいつもより感謝するようなことが起きたら、誰でも相手に対して、いつも以上に感謝をしたくなるようにです。ここが大切なポイントです。カインは父に教えられた通りにささげました。しかし、アベルは父に聞いた神様の気持ちを大切にしてささげたのです。
カインはこう考えたのではないでしょうか。どうせ神様は最もいい物をささげても食べられるわけではないし、まして火で焼くなんてもったいないではないかと。肉欲を中心に考えていると、ルールに従ってさえいればいいではないか、そこまできまじめにこだわらなくてもいいではないか、もったいないとなってくるのです。さらにもう一つ特徴があります。カインはひどく怒り、顔を伏せたとあります。わがままで、どうにもならない子供のように、思い通りにならなかった時、怒りを表すのです。フンと顔を背けるのは、ひどい怒りの表現です。物事が自分の思い通りに行かなかったら怒るというのが、肉的に歩んでいる人のもう一つの特徴です。怒りがおさめられないのです。
もしアベルに神がささげ物を受け入れてくださらないということが起きたとしたらどうでしょうか。アベルは正しい良心で悲しみ、反省します。怒りません。
怒りは支配欲の表れであり、周りを従わせようとします。もしカインが反省していたら、神はそれを受け入れられたはずです。大切なのは心遣いです。各々が力に応じて最高の物を捧げることが、神への敬虔さの表現です。金額が問題ではありません。しかし、正しい良心で、最良のものを決めているかどうかが大切です。ここでカインの心とアベルの心が戦います。クリスチャンはこの葛藤が大変です。カインに殺されたアベルがイエス様のあがないの救いによって生き返り、カインと戦うからです。クリスチャンの心の中に起きるこういった葛藤は、正常な状態です。この戦いの中で心機一転をしないと、カインの心に押し切られてしまいます。そこで、自分がいのちと御霊の原理の中にいると気づかなければなりません。
(使徒行伝2:38)は最初の体験であり、クリスチャンはみないのちと御霊の原理の中にいます。原理の中にいるとは、努力によらず、自然に行えるということです。ゆだねていたら、そのことが自然にできるようになるのです。
それならなぜカインの心がまだ残されているのでしょうか。それはカインの心がアベルを育てるからです。しかしからだが贖われ、キリストの再臨の時はこの罪とも完全に切り離されるのです。それまではカインの心との戦いによってますます磨きをかけられ、すぐれた神の子となっていきます。希望を持ちましょう。そして心機一転によって、意志的に信仰を働かせましょう。
そのようにして、いのちと御霊の原理の中にいる自分を自覚して人生を見ていくなら、どのように失敗が多くても、希望を持ってあきらめずに心機一転してやり直すことができます。ささげ物とは、あなたの人生を指します。今週もアベルの心をもって、神の前に出ていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年3月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   旗幟鮮明 きしせんめい  up 2006.3.5


旗じるしがあざやかではっきりしている。転じて、態度、主義、主張などがはっきりしていること。

約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
(ヘブル10:23) 


 

 

約束は私たちに希望をもたらします。約束してくださった方がどれだけ真実な方であるかによって、希望の度合いも違ってきます。神様がイエス様を通して与えてくださっている約束に対し、動揺しないで、幼子のように喜んで告白し、待ち望む者となりましょう。
「旗幟鮮明」とはりっぱな旗があざやかになびいている様子
私たちがいだいている希望の喜びは鮮やかな旗です。神の子としてクリスチャン生活の希望の旗じるしについて今週学んでいきましょう。

●3/06(月)09(木)「子にしていただく告白」(ローマ人への手紙8:23)
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの購われることを待ち望んでいます。
心の中でうめきながら待ち望んでいます、とはつらい表現ですが、待ち望んでいるとは希望があるということです。私たちの人生は、心の中でうめきながら何かを待ち望んでいる状態です。
イエス様を信じ洗礼を受けた時、たましいは新しく生まれ変わり、キリストと共によみがえります。しかしからだはまだ肉のからだであって、クリスチャン生活自体には心の中でうめくような戦いがあるのです。みことばを聞いてもなかなか実行できないで不信仰に陥ったりします。アダムとエバが罪を犯した時、人類に罪が入りました。パウロは、罪がこのからだに宿っていると語っています。肉体に宿っている罪がたましいに戦いを挑むのです。欲望という力をもって誘惑してきて、神の御心を行わせないように、貪欲の中に引き込むのだと。
心のうめき、葛藤の信仰生活が終わりなく続くとしたらどうでしょう。私たちクリスチャンは心にうめきがあるけれど、この戦いが終わる時がやってくるという希望があるので待ち望むことができます。この肉体の体が御霊の体に購われる(変えられる)時が約束されているのです。罪との戦いをやめることなく、希望をもって待ち望みましょう。
罪との戦いを続ける限り、敗北には至りません。からだの購われる時、信仰の戦いが終わる時(再臨の時)がやってくるという約束を待ち望み、クリスチャン生活を送りましょう。

●3/07(火)10(金)「キリストの再臨を告白」(テトスへの手紙2:13)
祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
パウロが生きていた時代もローマ帝国がクリスチャンたちを迫害していました。だから、決して楽な人生ではありませんでした。キリストの再臨を待ち望むようにと、パウロはテトスに教え諭しています。希望を告白するということをパウロは勧めているのです。諭すとは、心も気持ちも受け止めることです。
再臨は私たちの信仰生活が報われるという希望をもたらします。もしキリストの再臨に希望があれば、わざわいの人生であっても感謝して待ち望むことができるのです。一ヶ月働いて給料がいただけると信じているのは信用があるからできることです。そして再臨は労働の報われる時なのです。
再臨の時まで人生の重荷、労働をします。信仰を守り抜き、聖さを全うするという労働です。その働きに対して神はイエス・キリストの再臨の時、報いてくださるのです。あなたの人生の労働は神が与えられた者です。人と比べる必要はありません。それをどのように生きるかによって、神は報いてくださいます。この世で報われなかった人は神が報いてくださるのです。たましいの聖さと、神の御心の正義を行なうという仕事を貫くことによって生じる様々な労苦に神は報いてくださるのです。
今、私たちが再臨を待ち望むという気持ちは、イエス・キリストがお生まれになる前のイスラエルの人々の心境と同じです。ユダヤ人たちは、旧約聖書のモーセの教えから知った救い主の誕生を唯一の希望として待ち望んできたのです。そして確かに預言通り、キリストはベツレヘムに生まれました。キリストが預言通り地上にお生まれになったという歴史的事実があるならば、再臨も歴史的事実としてあり得ることなのです。キリストの十字架がなぜ歴史的な事実として刻まれたのか。それはこのことが全世界に広まり、時代の分かれ目(時間基準)のしるしとなるためです。そうなるように神が歴史を造られているのです。再臨が100%本物であると、全世界の人々が信じることができるようになるために、です。

●3/08(水)11(土)「新天地への希望の告白」(第2ペテロの手紙3:13)
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
待ち望むとは、遭難者が救援隊は必ず来ると信じて待ち望むようなものです。見つかるように目立つものを掲げます(旗じるしです)。
私たちは希望の告白という「旗幟鮮明」を現して待ち望むのです。(正義の住む新しい天と地をです)
新しい天と地に希望を持つ人は、今は不十分だけれど、新しい天と地に導き入れられ、そこを相続するという約束を持っています。新しい天と地、新しいからだが与えられる。今までの人生は報われる。イエス様を信じ続けて与えられる報いがある。価値ある人生となるのです。
人がもともと与えられている性格は、「心が清い者」なのです。神が私たちに願っておられることは、本来の神の性質である心の清さを全うする生き方です。ここに人のいのちの価値があるのだという生き方を、イエス・キリストの再臨を希望の告白として、「旗幟鮮明」のクリスチャン生活を目指していきましょう。