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 更新情報:2009.5.19 ヘンデル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


デーン リ−パー 

 1920年11月12日、アメリカのイリノイ州で生まれます。
 1937年9月、デーンはイリノイ大学に入学します。幼い頃、純粋に培われた神さまへの信仰は、イリノイ大学の学生YMCAとの出会いにより、彼の生涯の方向付けを決めていきます。
 学生時代にデーンの心を動かした、ミリアン・ニクリナーの詩です。

 わたしの心が、友の胸の痛みに共振できるように、
 わたしの足が、こわさを乗りこえて
   前へ前へとずんずん進めるように、
 わたしの手が、助けを求める友の手を
   しっかり握りしめられるように、
 神さま、きよい、理解ある心を
   わたしにお与えください
 傷ついても、なお戦う勇気を、
   知恵に溢れ、光に満ち、わたしにできる仕事を
   ただひたすら励めるように、
   神さま、気づかせてください

 この詩は、デーンの愛唱詞ともなりました。
 1941年、太平洋戦争が始まり、デーンも徴兵されますが、海軍の日本語教育機関に志願し、許可され、日本語を学び、日本を学ぶ機会となり、日本に対して特別な思いを抱くようになります。
 終戦後、進駐する占領軍将校の一人としての日本行きをデーンは辞退しました。彼は、戦勝国の軍人として日本人に望むことを願わず、平和を真剣に考え、祈ってきた者として、一介の市民として、友として、日本人と同じ立場で日本に行くことを望んでいたのです。
 1948年12月、日本YMCA同盟学生部の名誉主事としてデーンは学生指導のために日本に招かれ、家族で来日します。彼は日本人の友として多くの働きをしました。とびきり明るく、楽しく気さくなデーンは日本で多くの友人をつくりました。その誰もが、デーンが、私のために、こんな骨の折れることをさりげなくしてくれたとか、兄弟のようにわけ隔てなく、温泉に一緒につかるような付き合いだったとか、学生や若い人の仲間だったといいます。
 
 「方向感なしでは、人生は進めません。人生に意味がないのです。人生は、ある主義か、理想か、あるいは、人間の人生よりもっと高く偉大な力を持って導かれてこそ、初めて意味があります。私たちは自分の人生をきめるのに、何を目じるしにしてみていったら良いでしょう。いったい何が、あなたの人生に真実の意味を与えると思いますか。
 わたしたちは、信仰を持つことを、です。…この世界を創造され、支配される神は、抽象の神ではないのです。わたしたちが生きる上での具体的な神です。
 神の愛が、どういうことなのか、国や民族をこえて、すべての人に、はっきりしめす方を遣わして下さった神です。
 ですから、イエス・キリストについて読み、キリストへの信仰を学び、イエス・キリストの心を理解すると、神への真実の信仰がなんなのかが、分かりはじめます。
 信仰さえあれば、あなたがたが、この日本で、一生懸命勝利をもって生きていく力を持つことができるでしょう」

 
デーンはとてもはっきりと、イエス・キリストに従う道を、いつも説いていました。
 デーンは精力的に働きました。1949年夏、第1回国際学生ワークキャンプが日本3ケ所で3週間にわたって開かれましたが、アメリカの青年たち、日本人学生、中国、韓国、インドネシアの学生たちのリーダーたち約40名が、働きながら地域に仕え、学びを受けるキャンプでした。函館のグループのリーダーであったデーンは、幼児のための保育所を建築する仕事、子どもたちへのプログラムと指導者養成をしました。一日7時間近く若者たちは働き、道路をつくったり、並木を植えたり、シーソー、ブランコ、砂場、バレーコートをつくりながら地域に奉仕し、子供会を40回あまり、成人礼拝3回、伝道集会1回、各教会への奉仕などをしました。YMCA誌にデーンの書いた文章があります。
 
「わたしたちに与えられた、一番大切な責任のひとつは、この信仰と喜びとを、他の人々のこころの中にも、感じられるように、みんなを助けることです。
 わたしたちYMCAでは、伝道のために二つの方法をしています。
 第一は、いうまでもなく、ひとりひとりとの出会いです。
 自分にとってキリストがどういう方であるのかを、若い一人の友に語ることは、その人が完全なクリスチャンでなくても、彼の一生を、すっかり変えることができるのです。
 第2に方法は、ワークキャンプのように、社会的組織活動を通して、実際に働くこと。みんなでいっしょに何かをしていくことを通してです。
 …イエス・キリストは頭の中で教えるだけの福音をくださったのではありません。イエスは人々に仕えることによって、わたしたちのすむ社会に、意味と目的とをくださり、正義によって悪を追いやってしまうことができる実際的で活動的な信仰も、わたしたちに与えてくださるのです。」
 
「どんな時にも、クリスチャンの人生に、絶望はありません。」
 

 約5年間の日本滞在中に、子どもが二人あたえられます。その後、彼は帰米し、エール大学で神学士の称号を受け、按手礼をうけ牧師となり、1954年9月、家族5人で再び日本に着任します。デーンは33才でした。
 
 1954年9月26日、再び函館に向かうために、デーンは青函連絡船、洞爺丸に乗船します。この時、戦争前から来て、生涯の大部分を日本にささげてきた先輩のアルフレッド・ストーン宣教師に初めて会います。彼はオース宣教師とともに洞爺丸に乗っていました。
 この日、台風がすぎたと判断して、出航したのですが、実は台風の目にいたのでした。しばらくすると、激しい風雨に船は襲われ、船長は船首を港内に戻そうと必死に方向転換にトライしていましたが、逆立つ波にまともに当たり、貨車をつなぎ止めていた鉄の鎖が切れ、貨車が倒れ、船体が傾きはじめてしまいました。必死の作業で9個のいかりが全部荒海に投じられましたが、もはや役に立たず、救命具が配られはじめました。それを見ると乗客は我先につかみ取りながら、不安と恐怖に渡された救命具の操作も頭にはいらず、騒ぎは大きくなり、パニック状態に陥りました。
 デーンは比較的静かだった船室から、狂乱のサロンに出ていって、叫び、取り乱して、付け方さえ分からない人たちに救命具を着せてあげ、励まし、慰め、一生懸命世話をし始めました。ある母親に彼は自分が着ようとしていた救命具を外して、着せてあげました。ストーン宣教師もサロンの入口で、かたわらの子に、自分のもっていた救命具を着せているところでした。
「座礁らしい。」
 だれかが叫びました。オースは、その時、船室の方向からデーンを見ました。デーンは、日本人のまん中に交じり混んでいて、OKと言わんばかりに、澄んだ目をパッと輝かせて、にっこりほほえみ返してよこしました。日本人たちもデーンを見つめていました。なぜか、阿鼻叫喚の船中に、まるでそこだけは光を放つように、豊かなあの笑顔が健在で、不思議と人々の不安を消してくれるようでした。
 9月26日11時30分。乗船者、1337名のうち、1164名がいのちを奪われました。海難史上、タイタニック号につぐ惨事となりました。
 
 その日も、いつもの日と同じように、デーンは日本人のさなかに会って、自分を忘れて、隣人のために、できる限り尽くしながら、そのまま、気さくな笑顔を残して、奇しくも、同じ道を歩んだストーン宣教師とともに主のみもとに召されたのでした。

 一夜あけて、嵐のあとで、報道に混乱する新聞社へ、二人の別々の母親たちが、それぞれに米人宣教師に、救命具をもらって、わたしたちは助かったと言うことを申し出ました。
 新聞に、「北海に散った神の使徒」と、報道されました。
 奇跡的に、気づいた時に浜に打ち上げれて助かったオース宣教師は、信仰によって、最後まで日本の人々を愛し通した二人の尊い先輩の姿の証人となりました。

以下は、デーンの残していった言葉です。
「なぜわたしたち(デーン家族)が日本にいったかというと、もし、10人の人のうち9人が棒の一方の端をもっており、一人がもう一方の端をもっているのを見て、あなたが、本当に手助けしたいと思ったら、あなたは、ためらわずにひとりの方へゆくでしょう。それと同じなのです。」

「日本のクリスチャンは、少数だからといって、この世から身を引こうとするような誘惑には、抵抗しなければ。数も、経済力も、社会的にも低いので、うっかりすると『被保護者的少数』になってしまいそうですが、『創造的少数』になるべきです。
 少数者なのだという気分に引きずられてしまわないで、創造的なのだというほうの気持ちに、導かれていくことです。
 クリスチャンには、それが、できるはずです。
なぜなら、クリスチャンは、どんな少人数でも自分の力を頼まず、全宇宙の創造主であり、維持者である神の力を信じる者だからです。」

「キリスト教は、信じて、生きて、行動する信仰で、ただ、知識の思想のみではありません。ですから、クリスチャンは、目的と力を受けた後には、人生と社会の大洋に押し出ていくことが必要です。わたしたちが真剣に信仰の指示に従うなら、神はわたしたちにひたすらに前進する力を与えてくださるでしょう。」


 

 

 

 

ゲオルク ヘンデル up 2009.5.19
 

 
その時、ヘンデルのこころに喜びが湧いた。それは深く静かな喜びであった。天から下ったようにヘンデルのこころにひらめいたものがあった。一瞬にして、彼は今までどうしても分からなかったことの解決が与えられたのであった。
 今までの自分の音楽家としての使命は、神をたたえること、そして1人でも多くの人にその喜びを分かつことだと考えていた。だが、もう一つの使命が開かれた。それは、音楽を聞く人が、互いに兄弟の愛を持って結ばれるようになるということなのだ。
 この和解の使命を成し遂げるものこそ、音楽なのだ。
 ヘンデルは、涙とともに、その句に音楽をつけていった。

 その句とは、イザヤ書53章だった。
 「しかし、彼はわわれのとがのために 傷つけられ
  われわれの不義のためにくだかれたのだ
  彼はみずから懲らしめをうけて
  われわれに平安をあたえ
  その打たれた傷によって
  われわれはいやされたのだ
  
  彼はしいたげられ くるしめられたけれども
  口を開かなかった
  ほふり場にひかれていく 小羊のように
  また毛を切るものの前にだまっている羊のように
  口を開かなかった」

 1741年、ヘンデルが56才の時であった。これが、後に名曲とされた「メサイア」の23歌から26歌であった。
 彼は、不自由な足を引きずりながら、おどりつつ駆けた。彼は、今ならありったけの意地の悪い仕打ちをしたボノンチーニがゆるせると思った。自分を裏切り、自分のもとを去った人々、そして嘲笑を浴びせかけた貴族や、落ちぶれた自分をはやしたてたロンドンの人々もゆるせるような気がした。
 
 この世界は争いや分裂のくりかえしである。しかし、われわれの罪を負って十字架についてくださったイエス・キリストのもとにもう一度集まろうではないか。そして、音楽をもってキリストの愛をたたえ、もう一度和解のために手をさしのべあおうではないか。
 
 「メサイア」の作曲は、驚くほどの早さで進められた。1741年8月22日からはじまり、わずか7日間で第一部を終え、あとの9日間で第二部をしあげ、第三部を6日間のうちに完成した。オーケストラをつけるのに、2日必要とし、あわせて24日間。この曲が完成したのは9月14日のことであった。
 
 この和解の使命をもったオラトリオ「メサイヤ」を、ヘンデルはすぐには発表しなかった。この特別な使命をもった曲を、最もそれにふさわしい場において公開する機会をじっと待っていたのである。
  
 1742年3月27日、アイルランド。慈善演奏会「いくつかの監獄における囚人の救済と、ステファン街のマーサー病院およびインズ・クイ慈善病院における病める人々を援助するための演奏会」ヘンデルは新しいオラトリオ「メサイア」をこの時に初公開した。
 「メサイア」公演は最初の日から熱狂的な感動を呼び起こした。とちゅうで、多くの聴衆がなきはじめた。演奏会の収益は400ポンドにもなり、予定通り刑務所と病院にささげられた。
 
 このうわさによって、ヘンデルを捨てたロンドンが、再び彼に公演を依頼した。オラトリオ「メサイア」のロンドン公演はコベント・ガーデン劇場で、捨子養育院を助けるために行なわれることになった。初演の日はジョージ2世の臨席のもとに、各界の有名人が招かれ、ぎっしりと席を埋め尽くした。
 
 聴衆の多くはヘンデルに反感をもち、落ちぶれた時に罵倒し、あざ笑った貴族やその夫人たちであった。彼らは、偉大な音楽に包まれてキリストにあるゆるしと愛を感じ、それが押し殺したようなすすり泣きとなった。静かで、きよらかな感動がながれていった。
 いよいよ、第2部の最後、有名な合唱のところにさしかかった時のことである。歴史上まさに記念すべきことが起こった。

 「ハレルヤ! 全能の主はおさめられる
  世の人々 われらの主に たちかえる
  主は 永遠に おさめられる
  王の王 主の主 ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!」
 
 この有名な「ハレルヤ・コーラス」がはじまった時に、感極まった国王のジョージ2世はいきなり座席から立ち上がり、深く頭をたれたのである。すると人々も国王にならい、一斉に立ち上がって、頭をたれた。
 英国の王が、1人の作曲家の作品を通して全能の主なるイエス・キリスト、王の王であるキリストの前にひれ伏したのである。
 
 このときから、この「ハレルヤ・コーラス」がはじまると、聴衆は全員起立することが全世界で習慣となった。
 
 「音楽というものは、神さまを賛美し、たたえるためにあるのだ」
幼いヘンデルは教会でオルガンと一つとなって、希望にあふれ、神をたたえていたものだった。

 ヘンデルの音楽を愛するこころと信仰は一つとなっていった。多くの苦難の人生の中で、ヘンデルは、音楽を通して和解の使命を果たしたまことの礼拝者でもあった。