有馬 四郎助 ありま しろうすけ
 1864(文久4)年2月2日、鹿児島で生まれます。
 明治19年(1886)北海道集治看守として、就任した四郎助は、キリスト教誨師、留岡幸助(1864〜1934)と出会います。留岡は、同志社で、新島の教えを受けて「多く言わないで、多く行なう」ことを目標とし、監獄の改善をするために生涯をささげた人です。
 明治24年、四郎助は、網走で分監長として働く中、北海道開発のかげに囚人のどれほど大きな犠牲があるかを目の当たりにしました。
 「氏族の魂も、町人の魂も、すなおになって神様の前に出る時は、同じ値打ちのものである…そんな話を留岡君から聞きましたが、今では、氏族、町人、囚人の魂も神様の前には平等でなくてはならないことに気づかされました。」
 
留岡と四郎助は、監獄修繕のための使命をともにし、生涯の友となります。
 大正12年9月関東大震災があったとき、四郎助は関東の小菅刑務所の所長でした。そのとき彼は、今まで、ここで学び、身につけた自分を失うことないように、自分の安全に注意すること、この事態で自分がどうあるべきかをうながし、受刑者の一時解放はしませんでした。囚人は四郎助の指示に従い、誰一人脱走することなく、住民に迷惑をかけることがないようにと、お互いに励ましあってがんばった姿がありました。
 この出来事は広く海外にまで知られるようになっていますが、昭和2年ウィスコンシン大学社会学教授ギリシ博士が来日して、四郎助にその秘訣を質問したことに対して、
「あなたは多分、私がクリスチャンであることをご存知でしょう。私は各人の善に対する可能性を信じ、彼らを囚人としてでなく、人間として処遇します。彼らが不平をもてばよく聞きただしてやります。できれば彼を直してやります。私は彼らと友人になろうと努力します。彼らが生活方法で気のつかない過誤があれば、教えてやることにします。私は彼らを釈放するに際し、正直な生活につくように助力します。私はキリスト強について説教はいたしません。ただその教えが生きるように試みました。」
 と答えています。
 「有馬の有名な話」として、刑務所で新しい受刑者を迎える時、「私は君だけが罪人とは思っていない。私自身が罪人の頭だ。」と言っていたことや、受刑者が逃走して、捕まって帰ってきた時は「よく帰ってきてくれた」と涙を流して喜んだという話や、受刑者を呼ぶ時に「だれだれさん」という呼び名で呼んだなどが、今でも語りつがれています。
 また、四郎助と留岡は非行少年少女のためにも働きました。
 当時の日本は、日露戦争を前後して、産業経済は資本家が地位をしめ、その反面貧しい人々はますます貧しくなり、不良少年少女が急増していました。当時は少年少女も大人と同じ監獄に入れられていたのです。
 非行少年少女への感化は、『石田を耕す』思いだったそうです。留岡、有馬、内村鑑三ほか4名で話し合われて、一人の教師と一人の少年で「家庭学校」(少年感化教育)を創立しました。それから、横浜家庭学園ほか、少年少女の感化院を落成に協力しました。
 有馬四郎助は70才の誕生日の2日後にその生涯はとじられ、翌日留岡も永遠の眠りにつきました。

 

 

 
 


ジョンズ・ホプキンス
 
ジョンズ・ホプキンスは彼自身が「神から与えられたビジョン」と言っていた、大きな目的のために生きた人です。
 ビジョンとは、アメリカに最高の学府をもうけ、幾千の青年に知識を与え、今までになかったような完全な病院を設け、幾万の患者を救いたいというものでした。
 彼はこの二大目的を達成するために、結婚もしないで資金をためました。5セントの電車にも乗りませんでした。
 ある時、一人の友人が彼に向かって言ったそうです。
「ジョンズ、もう年をとって大変なのだから、馬車に乗らなくても、せめて電車にはお乗りになったらどうですか?」
「ありがとう。でも、私には、まだ大事業があるのです。まだ大事業があるのです。」
と二回言ったといいます。
 彼は大学には600万ドル、病院には1000万ドルを投資しました。
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876年に世界初の研究大学院大学としてジョンズ・ホプキンス大学を設立しました。それまでのアメリカの大学教育は教養中心の学部教育でしたが、新たに研究を中心とした専門教育を行うことを目的とし、大学院教育のシステムを確立した画期的なものでした。
 また、ジョンズ・ホプキンス病院も設立しました。
 現在なおアメリカで知名度の高い大学、病院として社会に影響を与えています。
 

 

 
 
 

 

 

新渡戸 稲造 にとべ いなぞう
 
明治4年、幼くして父を亡くした稲造9才は、母のもとを離れて上京し、洋服屋を開いていた叔父、太田時敏のもとにあずけられました。
 東京での生活で、築地の外人がたくさんいるキリスト教会に足を運び、英語を学びます。14才に東京外語学校に入学し、将来何になるかを、維新の動揺がやまない時代に考えます。日本が科学方面で遅れている現実を知り、いま必要なのは天下国家を論ずるより、遅れた科学を取り返すことだとの講演に心動かされ、また、北海道開拓事業への魅力を語られ、感動して札幌農学校二期生として入学を決めました(15才)。
 クラーク博士から学んだ一期生の学生全員は神の前に罪を悔い改め、キリストの十字架を信じて、新しい人生を踏み出しており、第一期生の熱心な導きで、稲造もキリストを信じ、救われました。二期生は21名のうち15名が2、3ヶ月のうちに神を信じました。眼病により、神経衰弱と戦いながら、農学校を20才で卒業し、東京大学に入学しますが、日本の欧米諸国との学問の遅れの現実を知り、アメリカ留学を決めます。
 ジョンズ・ホプキンス大学に入学し、3年間経済学、史学、文学を修行しました。在米中にドイツ留学が決まり(25才)、イギリス、オランダなどを旅行します。アメリカに戻ると、メリー・エルキントン嬢と結婚をし、帰国します。
 明治31年、稲造(36才)は、神経衰弱のため休養中、「武士道 ブシドウ」を記し、日本の思想慣習について世界に紹介し、欧米の読書界に大いに影響を与えました。
 明治36年京都帝国大学の教授となり、第一高等学校(東京大学教養学部)の校長となりました。教育者として、稲造は、彼は日露戦争の勝利で日本こそ優れた民族だとの社会風潮の中で、本当の偉大な民族とは、世界の平和に向かって努力する民族だと、愛と自由の精神を吹き込んでいきました。
 明治44年、アメリカから、日米交換教授の件が提案され、第1回の教授として渡米します。アメリカの反日問題が深刻になってきている中で、彼の使命であり、夢であった「大平洋の橋とならん」とする絶好の機会でした。
 また、大正7年、東京女子大学の創立に際し、学長に推薦され、就任しました。稲造は、生徒に正面からキリスト教を説いたり、声高く祈るようなことはありませんでしたが、彼の存在そのものが宗教教育であり、「一日に一度は、一人になって瞑想し、内省すること、祈ること」を折りに触れて語っていました。彼の理想とする、「おのずから身についた信仰がその人格ににじみ出て、その人格が人を感化することを理想の宗教教育としたい」ということが、浸透していくことになりました。
 大正8年、国際連盟事務次長に7年間就任します。
 昭和8年、国際連合を脱退した日本に対して、世界の目は穏やかでなくなってきた中で、大平洋問題調査会団長としてカナダに出かけ、「神を待ち望むものは、新たなる力を得ん〜イザヤ40:31〜」に励ましを受け、大変な会議でしたが、激しい腹痛を覚えながらも、寸暇も惜しんで出席し、演説しました。そして、カナダの地で生涯を終えます。

 ある人が稲造に尋ねたそうです。
「日本を愛するということとクリスチャンであるということを両立させることは難しいですね。」
 彼は、何の迷いもなく、
「両立できる」
 と答えたそうです。

 また、ある新聞はこう書いたそうです。
「日本の自由思想家として、徳望学識一世に優れた新渡戸稲造博士は、永遠にこの世を去った。青年時代の夢であった、大平洋の橋となった。」



 


 

 

 

 

蒋 介石 しょう かいせき
 
第二次世界大戦を終えた頃の中華人民共和国の総督。第二次世界大戦で、最も日本から被害を受けたのは、中国です。日本への賠償請求に一番の発言権を持つのは、中華民国の蒋介石総督でした。蒋介石は、フィリピンの大統領から賠償請求金額の打診があったとき、「日本に対して賠償請求は一切しません。」と答え、フィリピンをはじめ東南アジアの国々から請求されるはずだった金額を大幅に引き下げるという影響をおよぼしました。
 日本が分割されずにすみ、中国に残された兵士が短期間に帰国できたのもすべて蒋介石のおかげです。蒋介石が1945年8月15日に全世界に向けて放送した終戦メッセージを紹介します。
「己に対するごとく人にもせよ」「汝の敵を愛せよ」と命じられたキリストの教訓を思い出し、まことに感無量である。わが中国の同胞よ、「既往(過去のこと)をとがめず、徳をもって怨みに報いる。」ことこそ、中国文化の最も貴重な伝統精神であると、肝に命じて欲しい。われわれは終始一貫、ただ侵略をこととする日本軍閥のみを敵とし、日本人民は敵としない旨を声明してきた。今日、敵軍は既に連合軍に打倒されたので、一切の降伏条項を忠実にするよう、もちろん厳重に監督すべきである。しかし、決して報復したり、さらに敵国の罪のない人民に対して、侮辱を加えてはならない。
 一国家の総督がみことばを行うことは難しいことです。しかし、蒋介石は、全世界に向かって、みことばを述べ、みことばを実行しました。神につき従う姿勢そのものです。私たちはこのような大きなゆるしを受けて、今があるのです。
 

 

 

 

 


長野 政雄 ながの まさお
 明治42年の北海道の札幌や旭川で、多くの方がクリスチャンになるという出来事が起こりました。そのきっかけとなったのが三浦綾子さんの「塩狩峠」で知られる、鉄道員・長野政雄さんの殉職です。
 時は、日露戦争の勝利に沸き立ち、植民地計画を押し進めようと日本が勢い付いてた時代でした。時代の大きなうねりのなかで彼は自分の存在や生き方について考えていました。そんな時、聖書に出会い、内村鑑三などの影響も受け、クリスチャンとして人生を歩む決心をし、鉄道員としての仕事を全うしていきます。
 北海道の鉄道関係者のなかでも、そのまじめで誠実な仕事振りは有名で、信頼の厚かった彼は、常に遺書を持ち歩いていました。それは、愛のためなら、いつでも死ねるという覚悟の現れでした。彼の給料の大半は、教会の子供達のために寄付され、慎ましやかに生活した人で、あなたの隣人を愛せというキリストのことばを実行していました。それができていたのは、キリストを人生の方向として、しっかり定めていたからでしょう。
 そんな彼の乗った汽車に突然の事故が襲います。旭川から札幌に向かった客車の連結が、塩狩峠で外れ、脱線しかけるという事態でした。離れた客車には手動のブレーキが付いていましたが、加速した客車を止めることはできません。そこで長野氏は、自分の身を客車の前に投げ出して、脱線寸前の客車を止めたのです。(詳しくは小説「塩狩峠」参照) 明治42年2月28日のできごとでした。
 列車の中で、パニックを起こす客を落ち着かせ、飛び下りる時には乗客にうなづいたという彼の落ち着いた姿に、多くの方が感銘を受けた結果、何十人という人々が洗礼を受け、愛に生きる生き方を手にしました。
 

 

 

 


      


齊藤 宗次郎 さいとう そうじろう
 宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」という詩の最後に「そういう者に私はなりたい」と書かれています。賢治の目指した人の姿が、この詩にあり、花巻市に、この詩のモデルとなった人物がいました。
 花巻の禅寺の三男として生まれた齊藤宗次郎がその人です。彼は内村鑑三の本に出会い1900年12月12日午前6時、雪の積もった花巻の豊沢川で洗礼を受けました。早朝にもかかわらず、見物人で周囲はいっぱいだったと伝えられています。ヤソ教の信者だと村中から迫害を受け、教職を追われ、迫害の手は家族にも及び、9才だった長女も天皇を崇めないからという理由で級友から腹を蹴られ、死にました。クリスチャンになっただけで、彼に何ら非はありませんでしたが、このような迫害を受けたのです。
 齊藤宗次郎は生活のため、早朝3時から夜9時までの間、新聞配達から始まって、村中を奔走して働きました。新聞配達が一段落すると学校までの通学路の雪かきをし、病人を見舞い、手伝い、倒れそうな人のために身を粉にして働き、夜9時以降は自分と神との時間を確保するという毎日です。それでも迫害はなくなりません。1926年東京へ家族と共に引っ越すことになり、旅立ちの汽車を見送ろうと花巻の駅は齊藤宗次郎に助けられた人々であふれかえったそうです。そこに宮沢賢治の姿もありました。
 齊藤宗次郎と賢治は一緒にクラシック音楽を聞くような間柄だったようです。齊藤が上京した5年後、賢治は「雨ニモ負ケズ」を発表しました。それは齊藤宗次郎の姿を彷彿とさせます。
 そして齊藤宗次郎の目指した人としての姿はイエス・キリストでした。賢治は法華教信者ですが、そんな彼から見ても齊藤の姿は、あまりにも美しく、素晴らしく、自分もあの様になりたいと思わせるような姿だったのです。

 

 

 

 


マルチン・ルーサン・キング
(キング牧師)
 
黒人指導者として有名なキング牧師(マルチン・ルーサン・キング) は、まさに一粒の麦として生きた人でした。彼の信仰理念は『汝の敵を愛せよ』で、非暴力をもって社会的抗議し、黒人の公民権を回復していきました。彼は望んで指導者になったのではなく、牧師として当たり前のことをしただけだったのです。
 きっかけとなったのは1955年アラバマ州のモントゴメリーという町で起こった事件でした。一人の黒人女性がバスの座席に座っていました。次の停留所で白人が乗ってきましたが席がありません。そこでバスの運転手が座っていた黒人女性に向かって席を譲るよう言いました。ところがこの黒人女性は席を譲らず無視し、とうとう警察に逮捕されてしまったのです。この州には、黒人は白人に席を譲らなければならないという条例がありました。そこで黒人差別に対する抗議からバスボイコット運動が始まりました。
 この時、キング牧師は、いきり立つ黒人たちに「
汝の敵を愛しなさい。呪うものを祝福しなさい。暴力で答えるのではありません。差別があるバスならば乗らなければいいのではないでしょうか。」と、おだやかに民衆に語りかけました。
 バスの利用者は大半が黒人であったために、この運動によってバス会社はたちまち経営困難に陥ります。キング牧師はこの差別問題を最高裁まで上告し、一年の審議が行われたすえバスの座席に対する条例は廃止になりました。
 キング牧師は抗議の方法を教えた指導者ではありません。黒人の間に『汝の敵を愛せよ』というキリストの教えを伝え、実行した指導者です。このようにして次々と黒人の権利を回復していく指導者として立てられ、最後は凶弾に倒れましたが、その生き方は一粒の麦として捧げられたものっだったと言えます。キング牧師は日々、危険にさらされていました。自宅に爆弾を仕掛けられたりもしたのです。それでも黒人教会で『汝の敵を愛せよ』とメッセージをし、身をもってそれを実行していきました。そして残された民衆も神に喜ばれる方法での権利回復に務めていくことができるようになったのです。

 

        
マザー・テレサ
 
 マザーテレサは38才のとき、修道院という守られた、社会と隔離された場所で祈っていました。そして貧しい人々に仕えることこそキリストに仕えることだというビジョンを持ち、修道院を出て、実行に移しました。
 それは困難と苦難を伴う決断でした。修道院内からの批判もありました。 けれどもその働きに人々は心打たれ、援助の手が世界中から差し延べられ、テレサ1人で始めた働きは全世界に及びました。
 
マザーテレサは、現代の病んでいる社会を見て「愛されていることを感じることのできない恐ろしい病気にかかっている」という言葉を残しています。それは、どういうことかというと、みんな愛されているにも関わらず、愛されたい愛されたいと求めて、愛されているという事の喜びと平安に到達していないということです。
 彼女の施設の中にある日、ぐてんぐてんに酔って路上に倒れていた人が運ばれて来ました。シスター達は、愛情を込めて、親切の限りを尽くして介抱しました。2週間口をきかなかった彼が突然シスター達に語りかけました。「シスター、私はあなた方の親切を通して、神が私を愛しているということに初めて気付いた。私は家に帰ろうと思います。」と。お酒に頼り、希望のなかった彼が、シスター達の自分を大切にしてくれる愛に触れて、神の愛に目覚め、愛されている事に気付かない病気から癒されたのです。
 このような体験を通して、マザーテレサは、奉仕をする親切な手(直接その人に手の届くようなちょっとした親切)と、まごごろから惜しみなく与える心、この2つがあれば、この愛を感じない病気にかかっている人々が癒されるということを、神から教えられたのです。
 神様はこのことを、今も、イエス・キリストを通して、罪人である全人類の私達にお示し下さっています。
 

 

   

 
 
ウイリアム・ケアリー
 インドの宣教師第一号といわれるウイリアム・ケアリは靴の修理職人でした。彼は100以上の学校をインドにつくり、大きな大学を3つも建てました。彼はインドに伝道をするビジョンを持ち、当時5〜6ケ国語をマスターしなければ合格できない牧師の資格を独学でとり、わずかな資金を手にインドに渡りました。宣教活動をしてる間、次男は死に、それが原因で奥さんは心を病み亡くなりました。個人的に多くの戦いがあり、神にこの道で良かったのかと尋ねながら進む毎日でした。
 母国イギリスは協力してくれませんでしたが、デンマークが彼の援助を申し出ました。伝道しても聖書を読むことができないインドの人々を目の前にした彼は、新たに学校をつくるビジョンを持ち、聖書をインドの言葉に翻訳し、印刷し、配布しました。
 当時インドでは夫が死ぬと妻もともに火葬される因習があったので、彼はそれを止めさせる運動をし、ヒンズー教の支援もとりつけ、その因習を止めさせました。神のビジョンを掲げて行動するとき、これほどの大きな働きが成されます。
 







 

 

 

 

 
 
ジョン・ニュートン
 
「おどろくばかりの恵み」という聖歌は、世界中で歌われています。英語の"Amazing Grace"というのは「びっくりするような恵み」ということで、作詞したジョン・ニュートンの神の恵みに接した時の驚きの心境をそのままあらわしています。
 ジョン・ニュートンの母は心から神を信じている敬虔な婦人でしたが、彼が7歳になる前に亡くなりました。ジョンは寂しさのあまり学校に行く頃になってから悪友たちと遊び回り、学校も中退して憧れだった船乗りになりました。何度も船を乗り換えているうちに悪の道にはまり、黒人を売り買いする奴隷商人になり、奴隷を運ぶ船長となりました。ジョンは奴隷には冷酷でいつも皮の鞭を持って奴隷たちを血まみれになるほどうちました。ですから、誰もがジョンをおそれていました。
 今から約240年程前、彼の船がアフリカからイギリスに向かっていた時です。船は大嵐になりました。もう助かるまいと観念する程の命の危険にさらされた時、ジョンは初めて「神様助けてください。」と叫んだのです。この嵐もおさまった時、なぜかジョンは母が残してくれた形見の聖書を取り出して読んでいました。自分でも考えられないことでした。その時神は今まで思いもしなかった恐ろしい罪にまみれているジョンの姿をはっきりと示されました。「神様、こんな私でも救われますか。」と思わずひざまずいていました。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのです。」イエス様の罪のゆるしのことばです。ジョンは何のためらいもなくイエス・キリストを自分の救い主と信じたのです。
 ジョン・ニュートンはキリストのびっくり仰天するほどの恵みによってまったく新しい人にかえられました。
 彼が82歳で死を直前にしていった言葉です。
「私の人生で2つの事がはっきりしています。一つは、私は以前には途方もなく大きな罪人だったということ、もう一つは、その私に対してキリストは、途方もなく大きな救い主であったということです。」
 聖書はいっています。『あなたがたが救われたのはただ恵みによるのです。』
  

 
 
  
フローレンス・ナイチンゲール
 1820年、イギリスに生まれます。裕福な家庭で何不自由なく育つフローレンスは、16歳の時、「わたしに仕えなさい」という神様の声を聞きます。やがて貧しい病人を助ける看護婦になり、クリミア戦争で傷ついた兵士たちの看護をしました。そして、看護婦の学校をつくり、看護の仕事の大切さを自ら教えました。当時は病院の設備も整わず、看護婦は卑しい職業だと考えられていました。フローレンスの働きは、近代的な看護法の確立に大きな影響を与えました。
 












 

  

 

 

 

 
 

アルベルト・シュバイツァー
 1875年、フランスの牧師家庭に生まれます。豊かな才能に恵まれ、若い時は好きな音楽と勉強に熱中しました。素晴らしいオルガニストでした。
 彼は「神様から与えられているものを、人々のために使おう」と決心し、医学を学び、医者のいないアフリカに渡り、熱帯病に苦しむ多くのアフリカの人々を助けました。



 

 

 

 

 

 

 










  

    
 
アブラハム・リンカーン
 1809年、アメリカに生まれます。「奴隷解放の父」と呼ばれるアメリカの第16代大統領。幼い頃から聖書のことばに従って、神様の導きを求めながら働きました。黒人を奴隷としていた制度に反対し、「すべての人は神様の前に平等である」という信念をもって、「奴隷解放宣言」を発表しました。






  
 

 

 

 

 








     

 
 

ヘレン・ケラー
 1880年、アメリカに生まれます。1歳の時、病気のために、目が見えず、耳が聞こえず、話すこともできない体になってしまいました。しかし、アニー・サリバン先生に支えられて、指で手のひらに文字を書くことを覚えました。聖書の神様を知り、たましいの救いを信じ、自分と同じように体の不自由な人々のために多くの素晴らしい働きをしました。
 障害のある人々の福祉向上のために、世界中をまわり、日本にも3回訪問されています。
 

 

 

 

 

 



  







     

 
 

ハンス・クリスチャン・アンデルセン
 1805年、デンマークで生まれます。貧しいが、神様を信じる家庭で、イエス様の事や天国の話を聞いて育ちます。『みにくいアヒルの子』『マッチ売りの少女』などの童話作家となりました。神様の愛があらわされているアンデルセンの童話は、子どもたちだけではなく、大人にも愛され、今もなお支持されています。











  
  

 

 

     





 
 

ヨハンナ・スピーリ
 1827年、スイスに生まれます。『アルプスの少女ハイジ』の作者です。物語の中でハイジが、周りの人のためにお祈りしたり、聖書を読んであげたりするように、ヨハンナも、弱い人や困っている人を思いやる人でした。復活したイエス様を礼拝する日曜日が大好きで、74歳の日曜日に天国に召されました。















 

 

 

 

 
  

 
 

田中 正造 たなか しょうぞう
 1841年、栃木県に生まれます。足尾銅山から流れる毒の被害を受けた人々のために戦い続けた政治家です。60才をすぎた時、役人を侮辱した罪で牢に入れられましたが、彼はその時、差し入れられた聖書を初めて読みました。釈放されてからすぐに聖書を買い、死ぬまで離さず、イエス様の生き方をならい続けました。
 











 

 

 

 

 


 

  
 

杉原 千畝 すぎはら ちうね
 1900年、岐阜県に生まれます。第2次世界大戦の頃、リトアニアで外交官を勤めました。その当時ドイツのナチスに迫害されていたユダヤ人が、「外国に逃げるために、日本を通る許可証を出してほしい」とたのんできました。日本政府からは拒否命令が出ています。彼は神様に祈り、日本政府の命令に逆らって許可証の発行を決心しました。許可証は1枚1枚すべて手書き、しかもビザの用紙も限りがあり、用紙の型から手書きでしなければならない作業を、彼は日本領事館が閉鎖されるまでの1ヶ月の間に6000枚近くの許可証を発行しました。その結果、6000人近くのユダヤ人の命が救われたといわれています。








 

 

 

 

 





  

 
 
 
森永 太一郎 もりなが たいちろう
 1865年、佐賀県で生まれます。「キャラメル王」エンゼルマークでお馴染みの森永製菓の創始者。21才でアメリカに渡り、キリスト教会でイエス様のことを知った。「私のために死んでくださったイエス様のために生きる」という人生の目的を見つけて、日本に帰り、アメリカで覚えたお菓子づくりを仕事にしました。

 

  



   

 
 

五十嵐 健治 いがらし けんじ
 1877年、新潟県に生まれます。独自のドライ・クリーニングを開発し、白洋舎という会社を創設。彼は19才の時にイエス様を信じて、罪で汚れた心をきれいにしてくださるイエス様のように、人の服をきれいにする仕事を選びました。社長を辞任した後は、日本全国をまわってイエス様のことを伝えました。